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短い話

カフェオレよりもココアが好きであること、枕は少し高めが好みで、犬よりも猫のほうに反応が良くて、抱えあげてやると眩しそうに遠くを眺めている。鉄壁の無表情を極めた少女の些細な表情の変化や振る舞いはよくよく観察すればするほど、わかりやすいものだった。あまりに大人しくて甚爾はすっかり忘れていたのだが、どうしてか引き取ることになってしまった少女はまだ齢七つ頃の歴とした子どもなのである。子どもは子どもらしくいればよいのだとか決めつけのようなことを好ましいと思うわけではないが、めったなことでは変化という変化も見当たらない少女の子どもらしい一面を保護者たる禪院甚爾はそれなりに好いている。らしくもなく、何度も見たいものだと認識している。心境の変化というものが時々、少しだけこわくなった。
変わっていくことをこわいと思うようになったのは少女を側に置くようになってからのことだ。
ほんのひとつきほど前のことであるが、甚爾が夜から明け方にかけて仕事で家を空けてしまった日があった。まだ夜明けの時間がそれなりに遅い頃で、外も家の廊下も刺さりそうなほど空気が冷たかった。引き取ってからそれなりの時間を共有して、当の少女はようやく甚爾の隣でならぐっすりと眠れるようになった。なんとなく幼い寝顔を眺めてから就寝するような日もちらほらあったように記憶している。少女を引き取るまでは寝るため暇を潰すための拠点のようだった家に帰ると、寝室のどこにも少女の姿は見当たらなかった。シーツのよれた布団は冷たく、ずっと前から誰もいなかったことが感じられて甚爾は目を丸くした。まさか家出でもしたのか? あのぼんやりとしてまさしくビスクドールかなにかのような少女が? ともかく何処にいるとしても探しに行かねばなるまいとリビングにもどったところで、しかし当の居なくなったと思われた少女はあっけなく見つかるのであった。甚爾が座って余りあるほどのソファの上に、仕事前に彼が着替えたまま放り出したシャツを抱えて静かに眠りこんでいた。部屋着だから構わないのだが小さな手でぎゅうと握られたシャツは深くしわが刻まれてとても手で伸ばせそうなものではなかった。それはいい。幼い子どもの寂しがるさまに可愛らしさを感じてなつかれることも悪くないものだと思った。だというのに、甚爾は目の前の光景を見ていられなくなってしまった。そっと目をそらした。小さな頭を撫でようとした手も引っ込めて、触れないようにとソファの上へと降ろした。
安堵して、触れようとして、ようやく胸を過るものがあった。今まではきっと、考えないようにしていたのかもしれない。少女が甚爾を求めて寂しがっていたことにほほえましさではない感情が、優越感やもっとほの暗い別のなにかが彼を気分良くさせているのだということに気がついてしまった。その時になってようやく。
その日、甚爾がソファの上でぐっすりと眠る少女を無理やり起こすことはなかった。そっと抱き抱えて寝室の布団にもぐりこむと、子どもらしい体温を手放さないように腕の中に閉じこめて眠った。目覚まし時計も携帯電話のアラームも、この安眠を邪魔しないように部屋のすみに追いやったままにしておいた。

甚爾さん。耳をすましても聞き逃してしまいそうなほど、小さな声だった。空耳かなにかなのだろうと思って、甚爾は膝の上で開いたままにしてあった視界の隅の雑誌へと視線を戻す。しかしページをめくろうとしたところで、シャツの裾を引っ張る小さな手にようやく気がついて甚爾はもう一度顔を上げた。思った通りつい半年ほど前から衣食住を共にする幼い少女の体温が甚爾の側に寄り添っていた。いったいどこを見ているのかわからない目であるが、甚爾の気を引こうと精一杯の力で裾を握りこんでいる。彼女が小さな手で握る裾は後でアイロンで伸ばすしかないようなしわが出来ていたものの、たかが部屋着ごときのためにこの幼い手を引き剥がす気には到底なるわけもなかった。
とはいえ、このままでいるのは少しだけ居心地が悪いような気がした。小さな彼女と視線を合わせるように座ったままの身体をかがめて、甚爾はそっと少女へと声をかける。
「何かあったか」
少女はゆっくり首を振った。細い髪が揺れる。
「体調悪いか」
再び、同じ調子で首が振られた。では何の用であろうか。甚爾はうつむいたままの少女を抱えあげようと雑誌を放って手を伸ばした、しかしその矢先。先程は空耳かと思ってたいして気にもしていなかった音が耳を擽っていった。「甚爾さん」と少女の小さな口が動いて、柔らかな音が転がり落ちた。
「甚爾、さん」
「……、」
甚爾さん。少女の声を聞いたのはこれがはじめてだった。年相応に幼い、高い声だ。綿菓子や金平糖など砂糖菓子の類いにも似た甘ったるくて耳に残る音。それは嫌いではない音だった。嫌いではないから、出来るならもう一度だけでもいいから名前を呼んでくれないかと甚爾は思った。思っただけだったが。
少女が彼の名前を呼んだのはそれきりだった。甚爾の名前を呼んだまま、ぼんやりと甚爾のことだけを見上げている。よくできた人形かなにかにも見えてこわいと思う気持ちもあるのに、感情の見えない表情と半開きの唇から視線をそらすことが出来ずにいた。ぬるま湯に浸かっているような気分だ。
「…喋れねえんだと思ってた」
混迷するよく回らない脳みそでようやく組み立てて、甚爾の口から出た言葉はそれだけだった。いまだぬるま湯に浸かっている心地が抜けないままにぼんやりとして息苦しかったからだ、何を言うのもたいしてかわりないだろう。
固く閉ざしていたはずの口を突然に開く気になった理由も体温が伝わるほど近くに寄ってくるほど心を許した理由も、彼の名前を呼んだ理由もわからない。甚爾には何も彼女の決意の理由がわからなかった。
なのに、こんなに晴れ晴れした気持ちになってしまった理由は己の心の機微を察知することが得意であるが故に理解できてしまった。
「……、」
「口がきけないってわけじゃねえんだな。まあ、この家の中だけにしろよ」
「…?」
「お前の声をこんなに近くで聞いていられるのは俺だけでいいだろ。家の中ならいくらでも、名前でも何でも呼べ」
それは優越感だった。独占欲でもあって鎖でもある。つい先日に彼女が甚爾のシャツを抱き抱えて眠っていた姿が思い出されて、その時感じた気持ちや目をそらした何かを、そうしてようやく認める気持ちになった。
禪院甚爾はその幼い少女のことをあまりにも愛しく思っているのだ。甚爾のシャツを握る手だけではなく、ずっと彼女のことがほしいと思っていた。名前をよばれてようやく自分のものになったような気がした。
そしてやはり、甚爾の言葉に少女は是とうなずくのだった。
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