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短い話

なにひとつ持たずに家を飛び出しても生活さえ安定してしまえば、あとは仕事以外にすることなどない。その仕事というのもその時々に依頼を受けてこなすだけのものであるので、禪院甚爾は平日や休日を問わずそれなりに暇をもて余していた。やることがない。
そんな折りにたまたま仕事で関わった身寄りのない子どもをどうしてなのか知らぬ間に引き取ることとなったのは、ただ日頃めったに忙しくなるようなことなどなくてやはり暇だったからだ。たったそれだけだ。齢七つにも満たないような女の子が周りの大人におびえて肩を震わせていたのがかわいそうだと思ったわけでも、同情したからでもない。まして寄り添うような心など。
心の中で丁寧に言い訳を列挙していくが挙げれば挙げるだけ見つかるような始末である。お高い料亭の机に並んだ料理のように丁寧に並べられた言い訳たちはいったい誰に向けてのものなのか、彼自身もわかってなどいなかった。わかりたくもなかった。そして当の甚爾の右手には頼りないほど幼い手が握られているのだから彼の内心はとてもではないが落ち着けるようなものでもなかった。自らの体温とは違う種類の温かさと小枝にも似た指先のせいでいまだに力加減がわからないままなのである。
そうして人混みで離れないよう、気づけば緩みすぎてしまう繋いだ手を何度目かに握りなおしたと同時。彼のずっと下にある小さな頭をちらりと見下ろした。少女を呼ぼうとして、おいガキと言いかけた口はそっと閉ざされた。甚爾は唐突にひとつのことに気づいてしまったのだった。まったく気にもとめていなかったが、実はまだこの幼い女の子の本名すら知らなかったのである。彼にとってはどんな未成年も等しく子どもは子どもでガキはガキだが、これから共同生活をおくろうというのにガキと呼び続けるのはいつか支障が出てくるだろう。まずは少女の名前くらいは把握しておかなければならない。
「おいお前、名前は」
「……」
「おいって。だんまりじゃわかんねえだろ」
「……」
少女はなにも言わなかった。これから保護者になる大人の問いかけはまるごと無視を決めこみ、ただ雑踏の向こう側を眺めているだけだった。いちべつも向けられないまま甚爾の言葉は雑踏の喧騒にまぎれて消えてしまったので、彼の諦めの良さと相まってやり取り未満の何かはすっかり無かったことになったのであった。
ただ、少女に言葉を向けた瞬間に少しだけ当の少女から握り返された体温には不思議と不快感も戸惑いも感じることはなく気分がよかったから、そのせいもあったのかもしれない。

名前も知らないのなら好きな食べ物も嫌いな食べ物も当然知っているはずがなかった。甚爾はこの幼い女の子の昼食をどうするかなどすっかり忘れていたのである。どうしたものか。数分は道端に立ち尽くしていたが、彼のとびきりよい視力がファミレスをとらえたことで悩みはたちまち煙のように宙に消えた。
昼はファミレスでいいのかと返事が無い覚悟で問えば見下ろされた彼女は甚爾に引き取られてからはじめて、うなずくというかたちでまともな反応と言えるものを返した。返事は無いものとしていた彼はそれはそれは驚いた顔をしていたものの、すぐに「そんじゃ今日の昼はファミレスな。適当に頼めよ」と言いながら連れまわされるままの少女の手を引いてファミレスへと足を向けた。
彼は知らなかったことだが、厳格が行きすぎる家庭で育った少女には自分自身の意思でなにかを決定をするということにそもそもあまり馴染みが無かった。加えて、はいかいいえで答えられるようなことは肯定のみで返事をするよう言いつけられているので少女は「いいのか」と聞かれて「いいです」と答えただけなのである。残念ながらそこに彼女自身の意思など無い。自我の強い禪院甚爾という人間には、そんなことはすぐに理解出来るようなことではなかった。
常から言いなりだった幼い少女には食べたいものをメニュー表から選ぶことすら映画の中の生死を分かつ場面のように困難を極めることであった。子供用のランチプレートのページを開いたまま黙ってそれを眺めている。食べられるものなら何でも食べる甚爾はといえば、最初に開いたページのとりあえず目についたものを頼むことに早々に決めてしまったのでただただ暇をもて余すだけの時間を過ごしていた。暇をつぶすために引き取った少女のために暇になる矛盾を感じたものの、それはそっと心の端に追いやることにする。追いやることにしたが、それはそれ、これはこれであるのでいつまで経っても注文の入らないテーブルを睨む店員の目線はそろそろ耐えがたいものと化していた。甚爾は下を向いたままの少女の顔をのぞきこんで、出来うる限りの優しい声を出すように努めた。
「決まったかよ、お嬢さん」
「……」
「おい。まただんまりか」
「……」
「…ああ。そうか、わかった。お前、肯定否定以外の言葉かいるような質問には返事が出来ねえってことか」
禪院甚爾は勘がいいほうの部類の人間である。少女の態度によってある程度、この言葉や反応の少ない子どもの育ってきた環境と親を察することは時間をかければそれなりに出来る。甚爾も甚爾で問題がある家庭という意味では少女と似通ったような育ちかたをしたのであるが、しかし禪院甚爾という人は自我が強い。彼は彼の意思によってのみ生きてきた。彼女とは人格があまりにも違った。上手な生き方ができる甚爾には今の彼女に対症療法くらいしかしてあげられることなどない。
ということを踏まえて、甚爾は少女のもとにあるメニュー表を奪い取り、これも最初に目についたAセットプレートに指を向ける。間違っても苛立って乱暴な言葉を向けるようなことはしてはいけないことを甚爾はよく当たる勘でもって理解している。そうして「じゃあこれ頼むぞ、いいか」と声をかければ甚爾の想像通り、少女はそっとうなずいた。
今はきっとこれでいい。まだ甚爾が幼い少女にしてやれることなど少ない。それでも他人の笑った顔が見たいなどと思ったのははじめてだったから、これから先いくら時間をかけても彼女を意思のある人間にしてやりたいなどと甘いことを甚爾は考えるのだった。
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