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20XX

胸の辺りが重い気がする。気圧のせいだろうか。空気が少し湿っている。朝の爽やかさはあまり感じられず、太陽の光もそう強くないのが重い瞼越しからも分かる。
────にしてもなんだか重い。そう言えば夢の中で海中にずぶずぶと沈んでいた様な気がする。ゆっくりと目を開けると濡れた2つの黒真珠と目が合った。

「……エマ」

きゅう、と鳴いた彼女の背をわしゃわしゃと撫でると姿勢を変え、俺の胸の上で伏せて目を細めた。ああ、先程の夢はエマの仕業か。ご主人様の彼が起床して彼女をベッドに置いていくと失われた腕枕を探して毎度毎度俺の体に乗っかってくるのだ。かつての自分なら眠りから覚めてすぐに犬と目が合ったら飛び起きていただろう。このエマのように小型犬であっても。俺も慣れたものだ。
胸に伝うエマの体温にまたもや寝落ちかけ、慌てて身体を起こしてぬいぐるみのような彼女を小脇に抱えてリビングに向かう。そのダイニングテーブルには今温めたばかりらしい朝食が並んでいた。

「おはよー」

可愛らしい色のトレイに小粒の餌が入れられたそれを手にぺたぺたと軽い足跡が背後から聞こえてきたと思ったら、朝っぱらだと言うのによく響く声量が反響した。ビビったわ、と言うもいたずらっ子のように微笑むだけだ。その笑い顔が可愛くて、つい頬が緩んだ。

「早いね。今日あなたオフでしょ?」
「エマに起こされた」
「あらら」

目を細めて笑いながらテーブルに向かい、軽い朝食を済ませると、自分のご飯が終わったらしいエマが俺の膝をよじ登るようにカリカリと引っ掻く。今日のお散歩のご指名が入ったようだ。
遠目から俺たちの姿を確認していたらしい手越からお世話グッツの入ったポーチとリードを受け取り、自分も軽い支度をして外に出た。



「いい天気……」
昼になったら汗をかきそうな気温に、散歩を早く切り上げようと結構早いエマの歩行速度に合わせて足を動かす。
見渡す限りの空には雲がほんの少しだけ浮かんでいて太陽はまだ優しい────────あの日の空に似ていた。数年前のあの時も、こんな色をしていたか。

───手越 、…………ゆう。

───うん。

弁護士同士で話し合う間、一切連絡を取ってはいけなかった期間もやっと終わって、ようやく4人で話し合えたあと。自分にプレッシャーを与えるために引っ越すからとあらかた荷物のなくなった部屋に2人、床に座り込んで肩を並べた。出会ったあの日より、4人でステージに立っていたあの日々よりもしっかりした体躯。美しく、可愛らしいその顔は何かが吹っ切れたように涼やかにも見えた。

───俺に出来ることってなかったのか。

───無かったよ。

───はっきり言うのな。

───だってそうだもん。無かったし、俺自身にも作れるほどの余裕なかったから。

独り言のように呟いた言葉を彼は拾い上げ、淡々と彼は答えた。車に乗り込み、運転しながら隣で凪いだ表情を晒す彼の整った顔を盗み見ながら引っ越したという家に送る。けれど、近場に車を停めてしばらくしても、彼は車を出ようとしなかった。俺はそれをいいことにロックを外していなかったが、彼はそれにさえ気がついていないようで。

……このまま、ここにいてくれたらいいのに。俺の手の届く中に閉じ込められてろよ。

そんなこと、この自由な鳥には無理なことを知っていた。この意思の強い目を見たら、どこかで理解してしまった。そもそも、ここしばらく悩んでいたとこにも気が付けなかった俺には、その羽を縛る縄も、溶かす炎も持っている訳がない。
でも、お願いだ。これだけは許してくれ。
肩を強引に引き寄せ、無理矢理口付けた。「たか」と呼ぶ優しい声はそれを咎めることはせずに受け入れ、宥めるように腕に手が置かれた。

───たか、俺は、しばらく離れてたい。

───……まあ、そうなるよな。

───でも一つだけ。いい?

───何。

───この指輪。あなたがくれたやつ……持ったままでいい?返したくない。でも、捨てらんない。宝物って、言ってもいい。

───……ゆうってさ、まだ俺のこと好きなの?

金に光るリングを愛おしそうに見つめながらそう言う手越にそう問えば、薄い唇がはくと戦慄くように震えたように見えた。ふるりと睫毛を揺らしながらこちらを見上げ、

───ッあ……、あ、たり前…じゃん……。

彼が弱く見えたのはその一瞬だけ。すぐに元に戻ったけれど、俺は声を震わせた手越を一度見たら堪らなくて、骨が軋むほど抱き締めた。少し逞しくなった腕、首……でもどうしたって手越は手越だった。髪のやわらかさも、匂いも、こうして急に抱き寄せた時なんかに動揺する仕草も、漏れる声だって、全部、全部。

抵抗されないのをいいことにそのままでいたら、段々と腕の中の体が震え始めた。ひく、と喉が鳴った気配がしたと思うとTシャツの肩が湿り始めて。凛として咲く花の如くという形容が完璧に合っていた数分前の彼はなりを潜めて、剥き出しの彼が残って、俺の恋人が、 ''一緒にいたいのに'' と泣いていた。
待ってる、ずっと待ってるから。ずっと好きだから。辛いのはお互い様だってのは知ってるから。移り気って言われる祐は一度惚れたら一途だって知ってるから、ね。
























脛に小さな痛みが走り我に返る。
くう、と鳴いたエマを認識して、いつもの散歩コースを一周半していたことにやっと気がついた。ごめんよ、と詫びるつもりで抱きあげようとしたが彼女はこの手をするりと躱して自ら自宅へのルートを歩き出した。

「……ゆうやには秘密ね、散歩中に注意散漫になってたこと」
「きゅうッ」




「おかえりー」
「ただいま」
「遅かったね」
「ちょっと寄り道してさ……ちょっと、エマ、何その目」
「え〜、まさか迷ったのかよ。うちのエマちゃんに何かあったらどうしてくれるんですか〜?」
「んなことねぇから」
駄弁っているうちにいつものルーティンを忘れていたことを思い出し、小さな顎を指で掴んで小さな唇に吸い付いた。「ん」と声の漏れるそれからは塩っぱい味はせず、数日前に二人のために買っていたメンソレータムのマウスウオッシュの涼しい風味がした。



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