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ここに宿りしは青き薔薇

おはよう、と声をかけて愛犬の眠るケージを開ける。既に起きていたらしい彼女はしっぽを振って俺の膝に飛び乗った。ほっぺをぺろりと舐められ、頬擦りすることでそれに応える。ここまではいつも通りだった。
彼女はそれからというもの、ずっと俺の後ろをくっついて回るようになった。今までもちょこちょこと可愛い足取りであとをついてきていたが、その日は輪をかけて俺の傍から離れようとしなかった。その日だけではなく、その次の日も、次の次もそう。
雑誌などの撮影でもそうだ。流石に楽屋で待機はしてくれるが、戻ってくれば文字通りべったりくっつくから滅茶苦茶嬉しいけれど……最近なんか特別なことでもあったっけな?と考えれば何も無い。

あるとすれば、体調を崩しがちになったことだ。全国ツアーに一区切りがついてほっとした反動だろうかと思っていたが、なんかくらくらするし馬鹿みたいに眠い。仕事中は切り替えるスイッチを無理やりに押して集中しているからギリギリでなんとか乗り切っているけれど、それが終わったら一瞬立ち上がれなかったりもする。今までこんなこと無かったのに、何でだ。
風邪でもなんでもないのに、こんなことってあるんだろうか。楽屋でぐったりしているとメンバーからも心配されるようになってしまったし、恋人の増田さんとせっかく二人っきりで家に居られても彼は俺の体調に遠慮してか触ろうとしなくなってしまった。ありがたいけれど、正直寂しいし、不安だ。この前は『寝てた方がいいよ』と言われ、何も言えないままシャワーを浴びに行く彼を寝室で見送った時は情けなくて、何故か泣けてきた。彼にバレなかったことが幸いだったけれど、そもそも自分ってこんなに情緒が安定していなかったか?なんだかおかしいんだろうか。
途端に襲って来る吐き気も増えた。「ゔっ」と呻いて洗面台に走り、何かを吐き出そうとするも何も出てこないのが一日に数回。これ、もしかしたらやばいんじゃねーかな。ようやくそう思った。
「……病院、行くかな」
「キャン!」
いつの間にかついてきていたエマが賛成!と言うように声を上げた。









「………は?」
病院に行ったはいいが、そこで診察をたらい回しにされるように色々な部門で検査を受けた後、看護師が表情を引きしめながら誘導した先には自分が一人で行くことなんてないと思っていた場所があった。
『産婦人科』
一応芸能人っていうのを考慮されてか最初の方から待合室ではなく小部屋に通される。医師はそこまで長く待たなくともこの診察室に来て、改めて俺のカルテやらなんやらを確認し、こちらに向き直る。そして信じられないことを言ったのだ。
「妊娠三ヶ月ですね。おめでとうございます」
「……え?」
斜め上すぎて見えてもいなかった回答に動転し、ちょっと、ふざけないでくださいって、などと言いながら掴みかかろうとまでしてしまったが、事実は事実と彼は断言した。
「最近体の変化はありませんでしたか?」
「ない……無いですよ!変な吐き気とかはありましたけど」
「それは多分悪阻です。あと診断書に立ちくらみや熱っぽさとありますが、これらは妊娠初期の症状ですね」
「いや、いやいやいや……」
知ってるよ、そうですね、俺だって学校の保健体育や周りの女の人の症状で知ってはいるが……いくらなんでも酷い冗談だ。だって俺は、
「男、に見えてますよね?僕のこと」
「はい、もちろん」
「だったら有り得な……」
「ここ二年ほどで、ある症例が世界各地で見られとるんです。まだ十にも満たないことですが、一応広くは公開されていませんからご存知ないのも当然なんです」
彼の言う話はこうだ。二年前にもある男性が突然身ごもり、医者共々驚きの嵐で本人も産めるのかどうか恐ろしく、悩みに悩んだが、最終的には覚悟を決め、腹を括ったパートナーの献身的な説得、支えによって無事出産したという。はあ?いやマジでどうしよう、全然信じらんねえよ。だって子供とができるにはまず雄しべと雌しべを……
「エコー、受けてみませんか?」
混乱するのを宥められながら半信半疑で腹に当てられた機械は、ドッキリかイリュージョンか、はたまた俺の幻覚か疑った。そこにはぼんやりと白い何かが映り込んでいた。ここにいますね、などとかけられる声を俺は遠くの方で聞いていた。

「どう……しよう」
家に持ち帰った母子手帳、”おかあさん”になるための冊子数冊。机に並べてみてもピンと来ない。だって俺は男で、辛かったけど結構前にあの人と子供のこともきちんと話し合っていたから、まさか、まさかそんなことって。でも手の中の白黒写真は事実としてそれを伝えてくる。

『性別のことに加えて、お仕事のことを考えると大変なのは分かっていますが、まずはパートナーの方としっかり話し合ってください。自分でお決めにならない方があとから楽ですよ。
……私達は前向きな決断を期待しています』

先生の声がずっと脳内で反芻している。
今までこんなことになった男性は八人。うち五人は出産、あとは中絶。……自分がどうしたいのか、聞かれたら本当は産みたいと言いたい。でも仕事はどうする?これから数ヶ月何とかなるものなのか?それにあの人はどんな顔すんのかな。産む産まない以前に男性妊娠なんて気味が悪いと思ったりしないか。いくら前例で生まれた子供達が父子ともに健康であるとは言えど。
ぐるぐると悩んでいればまた吐き気がして洗面台に走る。息を整えながらソファーに向かい、崩れるように座り込むと、エマは膝の上に飛び乗ってお腹に沿うように小さく温かい身体を横たえた。
「エマ、まさか気付いてたの?」
彼女は首を傾げるだけで答えない。
「……ありがとね」
頭を撫でつつそう言えば、きゅう、と小さく鳴いた。こんなに小さな体なのに、どこか頼もしかった。
前向きにならなきゃ、と気分転換にエマを連れて平和な川沿いの道を歩いてみる。ぼうっとしながらも腹に手を当てながらいろいろ考えを巡らせた。この平らな身体の中に命が宿っている。にわかには信じ難い。でもエコー写真からは赤ん坊の形になり途中の命らしき影がきちんと見えるのが不思議でならない。
「もし、もし産まれてきたら、絶対苦労させるよな……」
芸能人同士、同性同士、多忙、母親になった男性……いろんな修飾語がつきそうなパパとパパだ。寂しい思いだってさせてしまうし、偏見だって。俺達も大変だ。どうやって仕事と両立させるのか、まずできるのか。マイナスを考えたらキリがない。
ただ、そんなことよりも大きくて、ずっと強く思っているのは、自分の中で確かなことはーーーー俺はこの命を切り捨てることなんて、諦めるなんて出来ないこと。だって、何がどうだろうと今ここにいるのはあの人との子なんだ。『子供だけはごめん』と言ったら、『大丈夫、てごしがいるからね』って笑って、柔らかく抱き寄せて、あの温かくて大きな手で背を摩ってくれた何より大事で大好きなあの人との子なんだ。
前まで俺にはなんにも無かった。柔らかい身体も、鈴の音がなるような綺麗で可愛い声も、子を宿す魔法なんて当たり前だけど持っちゃあいなかった。硬い身体と、高めだけれど紛れもない男の声、あの人の精を受け止めることなんてできない空っぽの腹しかない自分が全てを捧げようとしたところで、女の子には敵うわけがない。そっちがいいと言われたら、泣くことも縋ることも惨めに思えてくるだろう。
でも、今は、この命は確かにここにいる。
「苦労、かけるよ。……でも、会いたいんだ。ごめんね」
大変かもしんないけど、俺は、この子に会いたい、この子を愛したい。ずっと夢見たあの人との……ああもう、簡単に泣けてくるじゃねーか。だけど、もし万が一あの人に拒まれたらどうすればいいだろう。この子か、あの人か選ぶことにだけはならないで欲しい。
こわい、という感情の収納場所を探しながら、そう夏はじめの空を見上げながら祈った。











それから一、二週間経った後に四人での雑誌撮影があり、グラビアを撮った後、コヤマス、テゴシゲで別れてインタビューを受けた。シゲと楽屋に戻ると、コヤマスの方が先に終わっていたらしく、マネージャーに預けていたエマは増田さんの膝の上に座っている。俺を認識するとすぐにそこから飛び降りこっちに駆け寄ってきて、歩く俺の足にピッタリと寄り添うように並行して歩いた。
「あははっ、エマちゃん本当に手越のこと好きだね〜」
「……そりゃ、当たり前でしょ!俺パパなんだから。ねーー!!」
彼女を抱き上げ頬ずりしていると、いつの間にか近くに来ていた増田さんに声をかけられる。「今日手越の家行っていい?」と問われたので素直に頷くとほっとした様子で荷物をまとめ始めた、その時。
「……ッ、ぅ」
また目眩。みんなにバレないうちにソファーに座り、眠いふりをして目を瞑ってやり過ごす。エマは当たり前のように俺の腹部を囲うようにして膝の上に寝転んだ。薄く目を開いたら天井がグルグルと回っていて慌てて目を閉じ、瞼越しに見える照明の光を遮るようにして腕で目を覆った。ヤバいかもと思っていたが、そのまま増田さんに声をかけられるまで休んでいたおかげで大分体が楽になっていて、このままやり過ごせるかも、と思っていたのだが。

てごし、と家に着いてすぐ声をかけられたかと思えば、服を部屋着に着替えるように命じられ、無理やり手を引かれて寝室に押し込まれた。きょとんとして彼を見上げると黒い前髪に隠れた眉間が寄せられているのに気が付く。「どうしたの」と問えば彼の繋いでいない方の手が頬に当てられた。
「本当に真っ青だよ、顔色。マジで何があったんだよ。飯も食えてないみたいだし」
「そんなことねーよ。いつも通りだって」
「誤魔化すな。ほんと、マジで心配してんの」
そう言われたって、まだ言える覚悟なんてないし、そうしたくたって無理だ。……と思っていたのに、彼の真剣で、真っ直ぐで、そして本気で俺の身体やらを不安に思ってくれている上でのちょっときつい眼差し。そして繋がれたままの手から伝わるぽかぽかした温度に緊張の糸が緩んだ。……緩みすぎて、たわんで、いつもはできる言い回しなどにおいての考慮が足りなくなっていたことは確か。
その時の俺はごくシンプルに、ただ本当のことをそっくりそのまま恋人に向かって、
「こどもが、できた」
「……誰に」
「俺」
……そう、伝えてしまった。
少しの間を置いたあと、なぜか繋がれていた手が離された。え、と思う間もなく彼が一歩程の距離を俺の寝そべるベッドから置いた。
「……はっ、なにそれ」
低い声、蔑むような色を含んでいるようでザラつき、彼らしくない。
「子供?……色々言いたいことあるけど、だったら、俺、お前のなんだったんだよ」
「え、」
「え?じゃねえよ。俺は、ゆう…手越はもうそういうのバッサリ止めてるって思って、分かりきってるつもりでいたけど、何?違った?……本気になってる俺見て、面白がってたのかよ」
「はあ!?ち、ちが……」
「その誰かさんと俺の事笑ってた?確かに、笑えるよな」
「ねえ、タ…」
「ちょっと、今は黙ってて」
軽い力だったけれど詰め寄った際に彼の手で胸を押し返された。耳に入ってきた声はひどく冷たかった。『黙ってて』なんて、うるさくしてたらたまに言われることはあるけれど、いつものそれより数度低くて突き放されるような言い方が、勘違いによるものだと分かってはいても、頭を鈍器でガンッと殴られたような心地がした。
「なあ待って、もっと話し……ッ!」
急激にせりあがってきた吐き気に言葉が詰まる。ただでさえ怒らせた彼の服に吐く訳にも行かず、だるい身体をベッドから引き剥がし立ち上がる支えを探すと、背を向けようとしたタカの肩を見つけてそこに思いっきり体重をかける。「うわ、」とバランスを崩したらしい声が聞こえたが構ってられない。洗面台は遠すぎるし、トイレも然り。そんな中前に目を向けて目に入ったのはリビングのゴミ箱だ。壁に凭れるとすぐにずるりと床に崩れ落ち、目の前の屑籠に向かって思い切り嘔吐いた。こんなに苦しいのにほとんど何も出てこないし、口から出るものよりも息苦しさと情けなさで溢れる涙の方がよっぽど量が多い気がする。
「…ふ、ぅ、ゔッげっほ、」
もう、さいあくだ。
ようやく吐き気が治まっても苦しくて、壁に体重を預けながら息を切らしながらボロボロと生理的に零れる涙を拭う。
すれば、背後から恐る恐る、といったふうな足音が聞こえ始めた。「ゆうや?」と呼ぶ声はさっきよりも丸みを持っているのに泣きそうになる。あと大分焦ってるなってことは分かった。
「まさか、……まさか妊娠したのって……」
ひぐ、と喉の奥が鳴って視界が滲む。ここに来てからローテーブルの上に置きっぱなしだったクラッチバッグをひっ掴みチャックを開け、自分がついこの前まで持っていなかったファンシーで女の子らしい色の冊子数冊を後方の床へと投げるようにして乱雑に滑らせる。そして、
「……俺の他に、いるわけねえだろーが!!!」
そう、涙声と鼻声のまま怒鳴ったものだから格好が悪いのは承知だ。暫く彼が紙をいじる音がこの部屋に響き、他は何も聞こえず、沈黙が痛い。胸の前でぎゅっと手と手を握り締めて、訳もなく爆発しそうな感情を押さえつけて冷静を保とうとしないと今にも泣きわめいてしまいそうだ。
ふと前を見る。すればいつの間にか彼が目の前に立っていて、そして静かにしゃがみこんだ。手には挟んでいたエコー写真がはみ出た手帳がある。
「ま、マジ……で」
「マジだよ」
「そっか。……そか、…そっか」
そうか、なんて言いつつも、顔的に多分分かっていない。多分、いや絶対理解しきれてない。だって俺だって100%わかってるかって聞かれたら首を振るくらいだから、いつもダウロードに時間がかかるこの人なら尚更だろうな、と冷え始めた頭で思う。
少しの迷う素振りの後、彼の手がゆっくり俺の腹に向かった時だ。初めてエマが彼に向かって吠えたてた。まるで俺の腹に触るのを拒むように、俺を守るように。
「え、エマ、俺は大丈……」
「エマ、ごめんね」
彼女を落ち着かせようとした俺とは裏腹に、彼は謝りながら茶色い毛並みをそっと撫でた。不思議にも、大きく澄んだ瞳でタカを見つめたあと、エマは静かに自分のベッドに戻っていく。二人だけで会話が成立していたようで、自分だけ置き去りになったみたいな感じがする。エマのあとを視線で追っていたら肩に何かが掛けられ、その上ひょいっと抱え上げられベットに優しく横たえられた。布団を持ってくると、ついでに毛布もかけられた。床に転がっていた俺用にどちらの家にも常備された抱き枕を持つと、それをいじりながら彼は部屋の中をうろうろと歩き回り、立ち止まると、俺のすぐ隣に腰を下ろした。そして、筋張った手がさっきたどり着けなかった腹に当てられた。彼がくれたパーカーと毛布越しにその手の感触が伝わってくる。
「まだ触ってもわかんないよ?俺もまだそんなに自覚ないもん」
「……でも、いる…んでしょ」
ここに、と同じところを摩るその手を上から握って、深刻そうな顔をする彼を見上げて笑顔を見せた。
「いる。それは本当。……だから色々話したいんだけど、ベッドって話しにくくない?」
「身体冷やしたらダメだろ」
「でも資料とかリビングだし」
「ここに持ってくるよ」
「……タカ、」
どうしても寝っ転がって話すのは嫌だと渋る彼を無理やり説得してソファーに移動したらしたらで、羽織っていただけのパーカーに腕を通せと言われ、その通りにすると毛布、湯たんぽを渡される。ついでに暖房の温度を上げて加湿器の設定を調節した。
「そこまでする?」
「当たり前でしょ」
ちょっと怒ったみたいな、だけど明らかに優しさの戻ってきた声に泣きそうになって、腕の中の熊のカバーがかけられた湯たんぽを抱き締めた。
彼の近付く気配に顔を上げると、前のテーブルにマグに入った優しい黄色っぽい飲み物が置かれる。「カフェインないホットのやつがこれしか無かったから」と言うと、ソファーに座る自分の隣に座り俺を思い切り抱きしめた。俺の首元で息を吸い、吐いた彼はそこに額をつけて言った。
「ごめん……、ごめんな」
「……俺も言い方悪かったからいいよ。別に、そこは」
「それはって、何?俺察し悪いから言ってくれなきゃ分かんないよ。聞きたいこと言いたい事は絶対あるでしょ」
唇を噛んで俯いた俺を彼は背を撫でてなだめようとしてくれる。顔を上げて彼を見れば、まだ困惑はあるもののどこか頼もしさを感じた。
俺は思わずその手を握った。
「……ねえ」
「なに?」
「俺がさ、産みたいって言ったら怒る?」
「……は、…え、何で?」
「だ、だって……だって分かるだろ!?これがどれだけ、」
「仕事とかのこと?」
「それもそうだし……」とゆっくり頷くと、彼は俺の頭を撫でて「大丈夫」と言い切った。
「なんとかなるよ。前撮りとかで、…二ヶ月くらいはさすがに無理だろうけど、みんなにも辛い時期になるけど、絶対に待ってくれる。……それより」
俺からも聞いていいかと聞いてくるので頷く。肩に軽く置かれた手に少し力が入っている。
「祐也は、大丈夫なの?体の負担は?」
「言ったじゃん。今までの人達も父子ともに健康だって!まあ東洋人は俺が初めてらしいけど……」
「それって……!」
「大丈夫だよ。海外で同じケースの妊夫を執刀した先生もついてくれるらしいし、結構手厚いバックアップがあるってさ」
そう言っても彼の表情は固くて、怒っていないと分かっていても少し怖く感じる。静かになる部屋の空気に耐えきれず湯たんぽを握る手に力が入り、何故か眼窩の奥が熱くなった。それを振り払うように少し口角に力を入れながら声を出した。責任の意識が強いこの人を悩ませたくなかった。
「ごめん、め、面倒かけて。せっかくあなたの仕事が一段落したとこなのに」
「……は?面倒?…てか俺の仕事は関係ないだろ」
トーンダウンした恋人の声に心臓が跳ねて喉の奥が狭まり、反射的に口に出た「ごめん」の声に自分で驚いた。そんな素直な台詞は俺らしくなさすぎるものだった。そしてそれに驚いたのはもちろん自分だけではなくて。
「ゆう、…こっちがごめん、ごめんな?言い方キツかったよな」
あからさまにこちらを気遣った声に自分が情けなく感じる。俺の頬を両手で包むようにして顔を上げさせた彼は、こちらの顔を見ると驚いたのか息を呑むような気配がした。そんな酷い顔してんのかな、と怖くなりまた俯こうとしたら突然引き寄せられ抱き締められた。その拍子に湯たんぽがころりと離れていき、そのまま自分の身体を完全に彼へ預ける体勢になって、結構強い手の力に驚く。
「……ゆうや」
「タカ?」
顔をそっちに向けようとしたが優しい力で首の裏を抑えられて動くに動けず、そのまましっかりとした首元に頬を寄せた。中途半端に行き場を失った両手は彼のTシャツの胸元を軽く握っている。
「今まで言ったことで察するとゆうやはさ、」
「……、何?」
背中を撫でている手が止まり、脇腹の辺りに熱を分けるようにして当てられて。
「この子を産みたいって、思ってるんだよね」
「……うん。そう」
「そうか……そっか、そっか」
何が『そっか』なんだよ、とは思ったけれどその声色は優しくていつものように温度がある。でもどういう意味?と聞くのは少し躊躇われて、目の前のリビングの景色を眺めている。
すれば、俺を抱きしめる腕にきゅっと力が加わった。首筋に寄せられた彼の柔らかい毛先が当たって擽ったいなと思った時、柔い声が耳に届いた。
「良かったよ。ーーお前が大事にしたいって思う子供の父親が俺で、母親役がお前になって」
「…………え」
「体の事考えると不安だし、手術なんて滅茶苦茶怖いけど、頑張ろっか。俺も出来ることならなんでもやるし」
「た、か…?」
「仕事も結構前倒しでやんなきゃだよな…大変な時期だとは思うけど忙しくなるかも。少しでも手伝えるようにできるだけ家来るから」
「……っ、」
「一人で抱え込ませてごめんね、ゆうや。早とちりで最低な言いがかりつけてごめん。体も辛いはずなのに追い討ちかけるようなこと言ったの、反省してる」
「ねえ、」
「んー?何?」
「……産んでも、いいの?」
「俺がいつダメって言ったよ」
「だ、だって……」
「っていうか、いくら妊娠しないって思ってたとはいえゴムつけずにやったのも……孕ませたのも俺だし。……だからそんな顔すんな」
そんな顔って、あなた俺を抱きしめてんだから顔なんて見えるはずないのになんでそんな事言うの。速まる鼓動が伝わったから?いつの間にか零れた涙が服を濡らしたから?ああ、Tシャツを縋るようにして握ってしまっていたからかな。
「ずっと一緒にいる」
ねえ、その言葉通りに受け取ってもいいよね。そんな優しい声で言われたらなんだって信じてしまう。こう見えて俺結構重いんだかんな怖いんだかんな……なんて思っていたら。
「ほんとうだから」
狙ったようなタイミングでそう言われた。ゆっくり身体が離し、涙に濡れた俺の顔を見た彼は、今日見た中で一番の柔らかい表情を浮かべている。大きな手で片頬を撫ぜながら目を細めて微笑む恋人に釘付けになる。
「ーー愛してるよ」
ゆうやもそうでしょ?だから、一緒に頑張ろうね。そう言って涙を拭った指をまた新しい雫が濡らしていく。差し出されたもう片方の手も同じく濡れていって、それに彼は眉尻を下げて困ったふうな顔をしながらも笑っている。ソファーの下にころがった湯たんぽを拾い上げてこちらに渡そうとするが、生憎俺の両手は目元を隠すだけで手一杯になっているのを見て彼が苦笑したのを感じた。その手を退けるようにして恋人の厚い唇が額に押し付けられるが、それがまた嬉しくて。
「ッふ、ぅう、うぇ」
「一人で悩ませてごめんな。これからは一人じゃないから、なんでも……こんなこと相談するレベルじゃないって思ってもすぐ来いよ。そういう時は頼むから意地張んないで」
こくこくと頷いて涙声のまま「分かった」と答えると、頭にぽんと手が置かれて髪を梳くように撫でられる。
「よく今まで頑張ったな。今日からは俺と一緒に、ね?」
そうだよ、おれがんばったよ。あなたから拒まれるのが怖くて悪い妄想ばかりして、そのせいで体調不良も悪阻もいっそう辛く感じて。下手な言い方をしてしまったらあなたがどっか行っちゃわないかってただただ恐ろしくて夜も上手く眠れなくて、前にも増した睡眠不足でもっと体調が悪くなってしまう悪循環を彼は簡単に切り離してくれた。
「こわ、かった」
「うん」
「勝手に産むことなんてできる訳ないのに、あなたに……ッ、否定されんのが怖くて言えなかった」
「そっか。不安にさせてごめんな」
「ぅ……たか、…た、か……」
「どうした?なんか欲しい?」
手探りで彼の服の裾を摘んで、くんと軽く引っ張る。目線なんて合わせらんない。
「ぎゅうって、して欲しい…あと、もっかい頭撫で……」
言い終わらないうちに息が止まりそうなほど強く強く抱き締められて名前を呼ばれる。頼んだ通り頭も撫でてくれて、彼とくっ付いた頬や胸、腹、腕に彼の体温がじわじわ伝わっていく。すれば、今まで溜め込んでいたものがとめどなく溢れ出して、さっき押さえ込んだ不安ごと一気に流れ出るようにして爆発した。厚い身体に縋り付いて子供みたいにわんわん泣いた。彼が少し驚いてしまうくらいだったけれど、止めることは出来なかった。
「……おやすみ、祐也」
泣く体力もなくなってしゃくり上げるだけになったとき、恋人はそう言って俺の額にキスをした。不思議と眠気がふわりと俺を包んでいって、彼のやわらかい子守唄に導かれて知らぬ間に眠りに落ちていった。







✼••┈┈┈┈••✼







……軽い。
体重が増えていい時期だと思うのに逆に軽くなったように感じる身体を抱え上げる。
あんな『うえーん』みたいな泣き方を彼が俺だけの前ですることは初めてで、正直驚いてただただ抱きしめてあげることしか出来なかった。もし小山だったらもっと気の利くことをしてあげられるのかなと思ったりしたせいで勝手に嫉妬したりしてしまったけれど、健気に俺の名前を呼び続ける彼が愛おしくてならなかった。彼が好きだというこの声で歌えば、過呼吸気味な泣き声がゆっくりと落ち着いていき、ついにはこてんと全てを預けて眠りに落ちた。散々泣いたせいで身体は少し熱くて瞼も真っ赤っかに腫れている。彼の方が赤ちゃんみたいに見えてしまうなと苦笑した。
少し増えたと思っていた筋肉が少々減っていたり顔色が悪くなっていたり、様々サインはあったにも関わらず俺は壮大な勘違いをして彼をひどく傷つけてしまった。向こうの言い分も確かに紛らわしくはあったが……いや、やっぱり後でもう一度謝ろう。

目の前の恋人はすやすやと真っ赤な顔をして眠っている。赤みの取れない目元に濡らしたタオルを当ててやると、よほど染みるのかイヤイヤと抵抗してきた。その仕草もどこか幼くて可愛らしくて胸が引き絞られるような心地がして、たまらず恋人を抱き込むようにベッドに入ると微かな笑い声が聞こえた。
「ふふ……たぁか」
俺の胸に額を擦りつけながらごにょごにょと呟く。あーあ、正直これからが心配だ。こんな可愛い奴を前にしてオアズケとは。瞼にそっと口付ければ擽ったそうに身をよじるのも可愛い。
ところで、と手を伸ばし、腕枕をしてやりながら向こうにある冊子を手に取った。母子手帳なんて触ったのはいつぶりだろう。まだあまり書き込まれていないそれに挟まる白黒の写真を手に取り、その白い影を見つめた。
「本当なんだなあ……」
彼が思い悩んだ末に作り出した幻想にしては物的証拠が多すぎるっていうことはもうわかっている。時々立ちくらみを起こしていたことも、先程蹲り屑籠に向かって嘔吐いていたこともそう。何より、ここには病院名や診断した医師の名前が書いてある書類、極めつけのエコー写真がある。もう俺まで目眩を起こしそうだ。
だが書類をよく見れば、病院に行った日付はとっくの昔だった。なんで言ってくれなかったのだろう。俺が忙しいのに気を遣って言えなかったからタイミングがなかったのか、それかもしかしたら、
「最初からもう、産みたかった、のか」
何があっても、俺に、仕事の関係者に反対されて諦めるように言われても。
今ではもうすっかり覚めてしまった柚子茶を作ろうとした時に開いた冷蔵庫にはビールの類が一切無かったし、謎に大量のグレープフルーツ味のゼリーパックが箱買いされていた。ーーー彼には諦める選択肢なんて無かったのかもしれない。
『だって、あなたの子だもんッ!』
『俺じゃ天地がひっくり返っても出来ねーようなことが、出来るんだよ』
腕の中の薄いが固い身体を抱きしめ直し、ふわふわの後頭部をそっと撫でる。泣きながら言った彼の言葉が脳内で反芻し、本当に泣きそうになった。









「タカ、たーか」
控えめな声に起こされる。唸りながら薄く目を開くと、腫れの引かない目を擦る彼が目に入ってきた。その手を止めさせて、俺は欠伸をしながら寝室を出て濡れタオルを作り戻る。きょとんとした彼の瞼にそれを押し付ければ「わあ!」と素直に驚かれた。
「まだ腫れてるよ」
「あ…うん。あ、あのさ、タカ」
「どした?」
すぐ隣に腰かける。すれば充血の治まった瞳がしかとこちらを見つめた。
「今日仕事ある?」
「無いよ。クランクアップ後、束の間の休暇中でーす」
「ふふ…よかった。じゃあ、もし良ければなんだけど、……病院行くの付き合ってくんない?」
「うん。一緒に行こう」
そんな当たり前のことを頼む時に少し不安げな色をした彼の瞳。その瞼にキスをする。
誰よりも守りたくて大切な存在。けれど彼はそんなのは嫌がるだろうから、守るとか、そういう女の子扱いに近いものはできるだけ避けてきた。でもここまでくれば許してくれるだろ?なんて。
「ねえ」
「何?」
向き合った彼の両手を握って、ゆっくりと息を吸った。

────雨の日も風の日も、君が悲しんでる夜も ぜったい 僕が包むから
お願い、ずっと家族でいてください……────

彼の作った歌のラスサビをゆっくりなテンポで、この声を使って捧げる。愚鈍な自分なりに誠意を込めた精一杯の誓いのつもりで贈るそれに、恋人は綺麗に微笑んだ。昨日みたいな心が痛くなるようなそれではなく、こっちの声が震えて涙が出そうになるくらい美しくて、儚くて、そんな今にも消えそうなほど綺麗で守らなきゃいけない彼の表情。その白い頬に一筋涙が零れた。それは小さな顎を伝うとはらりと零れ落ちて、小さめの手を包む自分の手に流れる。
「た、か……」
「なあに?」
「また、泣かすなよ。ヒリヒリしてきた」
「擦んなって」
タオルをそっと当てようとするとぼふっと胸に飛び込まれた。一瞬迷ったけれど、タオルを放ってその背に手を回す。布を隔てて伝う温度は俺のものだ。
「愛してる。出来る限り何でもやるから、なんだって言って欲しい。……俺はやっぱり鈍いから」
「充分嬉しい、よ……ッ、うん。俺もイライラして不安だったりで当たっちゃうかもだけど、それはごめん」
「ふふふ……へーき、全部可愛いって思うよ」
「ばかじゃねーの」
「はかで良ーいの」
抱きしめ合ったまま「えーん」してしまった彼を抱きしめ直す。そのリタッチが少々遅れた旋毛にキスを落として、ふわさらの髪に指を通した。

好き、大好き……いや、愛してる。
お前の全部、お前の周り全てを守りたいって思うよ。この戀が叶った時もそう思ったけど、今はそれよりももっと、もっともっと強くそう思ったんだ。
これ、祐也に受け止めきれるかな?
キャッチしてくれた分だけ俺の重い想いが俺自身と一緒に着いてくるよ。
こんなこと言ったら笑う?……だろうね。呆れたんじゃなくて、そんなこと言うこの俺が愛しいって。自惚れじゃないでしょ?

ね、ゆーや。
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