あかねぞら
────パシャリ、パシャリ。
トテトテと歩く小動物に向かってレンズを向け、愛くるしい姿をファインダーに収めていく。その中から良いショットを選定したあとはちょっと構図を考えフィルターをかける。それらをチャットのアルバムに追加した数秒後、悶えている猫のスタンプが連送されるうるさい通知音が部屋に響く。
『かわいい!!!!』
『みるくちゃん天才!!!!』
子供みたいに燥ぐリプライにクスリと笑う。これでも中身は三十過ぎの男である。
────ピロン。
『ほんと写真上手いよね!シゲちゃんすごい!』
愛猫でもなく、撮って送った彼女のショットでもなく、俺自身に向けられた言葉にとくんとときめいてしまう。
『小山が下手なだけだよ』
可愛げのない返信は心を揺さぶられたことに対してのちょっとした抵抗。あいつは、小山は……慶ちゃんはずっと俺からの視線に気づいているはずなのに見て見ぬふりをしている。
小山と初めて会ったのは小学二年生の時に祐也が家庭教師として連れてきた時だった。昔から人見知りのはずだった俺だったが、彼にはすぐに懐いたそうで、そこからは塾に通い始めてからもよく遊んでもらっていた。その彼への想いが変化して言ったのは、中学生になってすぐだった。
小学生の時にも女の子を好きになったり告白されたりすることがあったことは確かだが、小山に対して抱くこれも恋情であることに気づくのにそうそう時間はかからなかったのだ。なにせ実の兄の背中を見つめてきたおかげで同性を好きになること自体に違和感を抱くことの方が俺にとっちゃ不自然で、自分の気持ちにとっても好きになった相手にも失礼だと思ってきたから。でも、すぐには言えそうになかった。彼は十中八九ストレートだし、整えられた衣服の表層に積もり、薄く香ってくる様々な香水の匂いから思いを寄せる女子は沢山いると思ったから、つい怖くなって。
そして無駄に勘のいい兄からは、「シゲさぁ、まだ告ってないの?誰か好きな人いるんだろ」とド直球に質問を受ける始末────
『……なんでそう思うわけ?』
『みてりゃわかるっしょ。案外分かりやすいよ〜シゲって』
『兄さんと違って、俺はちゃきちゃきっとして物事をスパッと決まられる人種じゃないんだよ。そこまで積極性もないしさぁ』
『そんなの関係ないでしょうよ』
祐也の両手が俺の頬を包み、やや強引に目線が合わせられる。中学二年になった当時、五センチ足らずまで縮まっていた身長差が埋められ、意思の強い瞳に射抜かれた。
『いい?シゲ。シゲは十四歳にして165センチ。俺の身長、ついでにタカの身長も抜くことは確定事項だし、俺に匹敵するレベルでイケメン!日本男児って感じの男前。加えて頭も良い。卑屈になって、ど、う、す、ん、の!』
────と、いうような激励を受けたが、そんな簡単に踏ん切りが着くはずもなく……好きを言葉で伝えられたのは三年ちょい経った高二の年明けの頃だった。
その時聞いた答えは、
『好きだよ、俺も。でも今はまだダメな気がするから……シゲが高校を卒業してもまだ俺のこと好きだったら、また聞かせて?』
という延長戦の予告だった。その時頬を慈しむように撫でた指先を今でもはっきりと覚えている。幼い頃兄によくされたものとは感情も、熱も、速度も感触も温度も違う記憶が未だに真皮に焼き付いている。
俺はその時振られる気満々。次いで想い合えていたら付き合えると思っていたから拍子抜けして、同時に向こうも同じく俺を好いてくれているということに震えた。時間を取らせられることには不満であったけれど、待つことなんて余裕だ。今まで俺は兄と彼の恋人が無意識下のイチャつきを繰り広げているのを尻目にしながら小山への想いを日々募らせていたのだから、忍耐力なら敵無しだったのだ。
そして、今俺は十九の大学一年生となり、小山が寄越した年齢制限は霧散した。
思ったよりも大学が忙しくバタバタしてしまったせいであっという間に夏期休暇に突入してしまい、今に至る。
彼は現在猫カフェを数店舗経営し、それと並行して捨て猫の保護活動をするなどしているのでいつも忙しそうにしており、そういう時はよく俺が彼の家に出向いてみるくの相手をしている。そして再挑戦の機会をさぐっていたところで、本日早く帰って来るというのに期待をしているところである。
不意にみるくが玄関に駆け出していく。ドアの前でピタリと足を止め、ちょこんと座り込んでドアノブを見上げた。
……あれ、今日はやけに早いな。
間も無く金属音が鳴り、がチャリと音を立てて開かれた隙間からひょろりとした体躯が滑り込んだ。みるくは長い足にしゅるりと擦り寄って、そのままUターンし、リビングに戻っていった。
「あ、おかえり」
「ただいま!みるくの相手ありがとうね」
「いいよ。俺も癒されるし、みるくはまだ子猫だから一人にするのはちょっと心配でしょ」
長い足でそそくさと部屋の奥まで行ってしまう彼。もしかして、勘づいていたりするのだろうか。
俺からなにか気迫を感じ取ったらしいみるくは早々にふかふかのクッションベッドに潜り込んでいる。
「小山」
''何気なく''を意識して名を呼んだところ、ピシッとその背中が固まった。これは十中八九気付いているな。最近、作り置きのおかずに手が込んでいることから?できるだけ部屋を散らかさぬように心がけていたことから?俺も今日に向けて気合が入っていたけれど、一体どの辺からその気配を察知したのだろうか。……もしかして、告白した数年前の日付を覚えていた?とうに過ぎていたことも気付いていたりするのだろうか。そうなら、正直嬉しい。
ゆっくりと彼が振り返る。緊張と、不安と、ほんの少しの期待が混ざったような瞳が向けられ、気付かれないよう静かに唾を飲み込んだ。
「俺、女の子とも付き合ってみたんだ。でもしっくりとなかった。かわいいとは思ったけど、違う。俺は小山がいい」
「……シゲちゃん」
「もう十九だよ、俺。さすがに自分の気持ちくらいは分かるようになった」
手首を掴み、引き寄せ、切れ長の双眸を射抜く。揺らいでいたそれらが俺だけに向けられると嬉しくて、薄く笑ってやった。
「……もう、男前になっちゃって」
大きな、でも綺麗な手が美容院で切ったばかりの髪を撫でる。あんたがいい黒髪だって言うから染めずにいる髪を優しく。
「ちっちゃい頃から面倒見てたのに。……いつからこんな下心が生まれちゃったかなぁ」
「……なんで泣きそうなんだよ」
「いや、少し。少し感慨深くて、ね」
あと、正直嬉しくて。
恐る恐るといったふうにすらりと長いかいなの中に閉じ込められる。もっと温度を感じたくて思い切り抱きつくと、「ぅわっ」と裏返った声が右耳を掠めた。視界に入る首筋は真っ赤だ。
「ねえ、ちょっと聞いて欲しいんだけど。おどろかないでほしいんだ……できるだけ。手越にもまっすーにも言ってないことだから」
そのままの体制で小山はゆっくりと口を開く。離れるのが嫌だったこっちにとっては好都合で、肩口に顔を埋めるようにして頷いた。
「あー、えっと……ずっと悟られないようにしてきたけど、俺は元々男しか無理なのね。女の子は友達としてしか付き合えなくて。大学の時は二人くらいと付き合って、やっぱり無理だ、悲しませるだけになっちゃうって思ってすっぱり辞めたの」
「……俺、小山は完全にストレートだと思ってた」
「マジかー。ワンチャンバレてるって思ってたけど」
「だってそれは……!まあ、噂では判断できないか。モテまくってたって聞いてたから、思い込んでた。あと、香水の匂いとか」
ふふ、と彼が可笑しそうに笑う。
「あいつとこの子、合いそうだなって思ったら仲介したりしてたから、そのせいかな……あ」
ふと体を離し、少々焦った表情で口元を片手で覆った。温もりが離れたことで不満げな視線に「タンマ」と謝りながら後ずさる小山。何を言い出すかと思えば、顔を蒼くしながら、
「手越とまっすーになんて言えばいいの……?」
「……ふはッ、今更だよ」
そう途方に暮れたような呟きに、俺は声を上げて笑った。
ほんと、今更だよ。そういう俺に、いやだって大事な弟を預けてた男がこんな、いや、まだ手も出してないし出そうともしてないけど……と言い募るのが年上なのに可愛くて。情けないとも取れるけど、そこも愛しくて。
「小山、」
「あ、待って」
人差し指で口を塞がれた。目の前の彼は二つ息を吐くと、静かにこちらを見据える。
「シゲ、大きくなったね」
「………うん」
「四年くらい前から言いたかったことがあるんだ。言ってもいい?」
「……ん、言って欲しい」
するりと頬に手が滑らされる。以前感じたものよりも熱があるように感じ、触れられた部分がジンと熱くなるような感覚がした。
「好きです。付き合って欲しいんだけど、どうかな?」
……待ってた。この瞬間を、ずーっと。
「今更NOなんて言うはずないだろ」
甘やかな雰囲気に便乗し、初キスを奪ってやろうと肩に手を置き少しばかり踵を浮かせて距離を詰めた……のだが、腕を取られ前に引かれたせいで体制を崩され、たたらを踏んで視界いっぱいに綺麗な首筋が。そして額を撫でる前髪の感触が消えたかと思った直後に柔らかい何かが押し付けられた。それは、俺が口付けようとした薄い唇で。
「まーだ、ダメ」
「……ッなんで」
「だって手越達に言えてないもん。大事な弟さんとお付き合いさせて頂きますって」
「へ……」
「ヘタレとは言わせないよ、紳士って言って」
先程口付けるために前髪をかきあげた手はいつの間にか毛流れに沿ってゆっくりと頭の上を行き来している。子供扱いすんなと言いたいけれど、この感触を嫌いになりきることは一生不可能だということを俺は自覚している。なのに「嫌だった?」なんて臆病に聞いてきて、その手を止めてしまう小山。
「嫌じゃないけど」
「けど?」
「子供扱いされすぎて不安だから聞くけど、小山さん俺に手を出す気ある?」
すればキツネっぽい両目を丸く見開いて、
「あるよ。下心ありまくりだから今まで手を出さなかったし、今も我慢してるんでしょ?」
そう言ってふわりと微笑んだその瞳に刹那、確かな劣情が浮かんで。その視線はざわつくような感覚を全身を駆け巡らせた末に彼の目に見える肌を羞恥に染めあげた。あっそ、なんていう素っ気ないセリフが少し震える。少しなよなよしていて一見頼りなさげに見える彼の余裕のある笑みから逃れるように思い切り抱き着けば、「かわいい〜」とからかい混じりに言われる。だから、子供扱いするなと何度言えば……
「………〜〜〜ッ」
「え、あっ、ごめっごめん!怒った?」
「……つに、」
「シゲちゃんごめん、聞こえな────」
パッと顔を上げ見えるのは、弄りすぎたかと慌てて眉尻を下げた顔。そのちょっと情けない顔を両手で包み一息に引き寄せた。
「薄く見えるけど、やっぱり柔らかいね。唇」
「……どこで覚えたの、そんなテク」
唖然としつつも頬を赤らめる彼はへなへなと床にしゃがみこんだ。そこにベッドから起き出したらしいみるくがやって来て、小さく鳴いた。シゲが知らないうちに大人になってるよぉ〜と愛猫に泣き付く恋人。
「けーちゃん」
「ん?」
「これからよろしく、今更だけど」
「……俺が言うつもりだったんだけどな」
「へへっ」
得意げに笑った俺の顔が子供っぽかったからだろうか、彼の目が優しく細められた。
キスしたことをLineで伝えた兄とその恋人が赤飯を夕飯に出しやがったのは、その二日後。
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