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あかねぞら

毎日騒がしい中高一貫の男子校の教室の昼休み。ダッシュで来たらしい生徒が騒がしい音を立ててうちの教室のドアを開けた。
「手越ー、クラ連の集まりいつだっけ?」
「明後日だよ」
「サンキュ!」
クラ連、もといクラブ連盟委員会委員長を務めているのは、自由を掲げるこの学校でも一人しかいない桜ピンクの髪をした男だ。この前の委員長選で三年生から委員長を引き継いだ。
「あ、まっすー」
彼とは同じクラスだが、委員会で顔を合わせる程度だ。あまり交流はない。
「まっすーって部長だよね。水泳部の会計の子に言っといてくんない?書類が提出されてなくて上田がキレてるって」
「マジ?ああ分かった。だから最近上田俺を睨んできてたのか」
「うちの学校事務を生徒にやらせる割に締切厳しいからな〜」
じゃあよろしく、と言い残して、彼はサッカー部の友人の元に戻った。
朋音学園中等部の元サッカー部主将、手越祐也。一年の時からレギュラーで大会でもずっとエースとして活躍してきたのは彼の容姿の良さと共に有名だ。高校でもサッカーで活躍するものと思っていたが、彼はマネージャー(ついでに副部長)としての役に徹し、フィールドに入るのを選ばず、しかもそのマネージャーさえも中学の部員の友人からの半ば強引な勧誘が無ければ入部すらしなかった……という噂は聞いている。噂に疎い俺でさえここまで知っているんだから、それだけ彼が人気があってムードメーカーであるのが分かるだろう。
対して俺はしがない水泳部の部員だ。一応部長なんだけど、事故にあって上手く泳げなくなってしまったから、もはや形だけだし。頼み込まれて部長なんてものをやらせて貰ってるってだけだ。
「さっき話してたの、手越?」
「ああ、うん。そう。ちょっとうちの会計がミスったらしくて……忘れないうちLINEしとこ」
「手越なぁ……あんなチャラけてんのにクラ連の委員長だし、頭いいし、よく分かんねー」
「それは同感」
「成績も十番以内は確実だろ?よくサッカー部の連中が彼奴に手をすり合わせて縋ってんの見るわ。『追試のための対策を助けてください』って」
「マジ?」
うんうん、と深く頷くのは元クラスメイトの中丸くん。学年が違うのに、わざわざ階段を上がって二年の教室にやってくる。”元”っていうのは、俺がその事故があって留年したから。だかた、成績が悪すぎてって訳じゃないよ。色々あったの。
「うちのクラスに手越の前任のクラ連委員長の奴がいんだけどさあ、なんか安心しきった顔してるし、頼りがいもあるんだと」
「満点じゃん。かわいー顔してるし」
「……増田、お前」
「誤解しないでよ。ま、あの髪色何とかすれば教員の株ももっと上がると思うんだけどな」
中丸くんは、考え込むような顔をしたと思うと俺のサイダーを勝手に一口のんだ。
「……なんかあるんじゃない?」
何か知っているような顔だったけれど、気づかなかったことにする。手を振り返して、対角線上に離れた位置に座る桜色の髪をちらりと見る。窓際の席に座って、冬の澄んだ陽射しを受ける彼が少し綺麗に見えた。まさか性格も合わなそうなこの男と近々距離が一気に縮まるとは思ってもみなかった。







寒空の下でもいつもの通りに服屋に行ったあと、他のお気に入りのショップをいくつか回った帰り。セールで安く買えた掘り出し物を抱えて時間つぶしにいつもは行かない商店街を通っていると、奥の店が騒がしいのに気づいた。すると突然、小さな子供が飛び出してきた。その子は泣きそうな顔をしていて、前を見ていなかったせいで俺に激突してしまう。
「あっ、ごッごめんなさい!」
衝撃で紙袋が手から離れて落ちたけれど、中身は出て来ていないので全然セーフだ。漆のような見事な黒髪の頭をよしよしと撫でると、繰り返し頭を下げる。ちっちゃい子だけどしっかり者だ。
「どうしたの?名前は?」
「シゲ……シゲアキ」
「シゲアキか。何があった?」
店からでてきた店員と彼を交互に見て、小さな手を繋いだ。
「ちょっとお話してこよっか」
「ありがとう……ございます」
ちゃんとお礼も言えるのか。いい子だいい子だ。なかなか見ないくらいの可愛い子だから自然に世話を焼いてしまうがシゲアキ君はびっくりするほどしっかりしていて、自分の補助なんていらなかったのではと思うほどの物言いができていて舌を巻く。
聞いてみれば店を飛び出した内容は大したことではなくてすぐに事は解決した。そして、その子をそこから十分ほどのアパートにある家に送った時に驚きの出会いが起こる。

「ここ?」
「うん!」
軽やかなチャイムが鳴るとすぐにドアの外からも聞こえるバタバタとした足音がして、中からは派手な色の髪をポンパドールのように纏めた同い歳ぐらいの若い男が飛び出してきた。
「シゲ!?もう、何があったの!?今探しに行こうと……って、どうしたのその怪我!」
「転んだだけ。ごめんなさい。本屋さんで喧嘩になっちゃって」
「け、喧嘩!?……なんか言われたの?」
そう問われると、シゲはぶんぶんと音がなるほど首を振って否定しようとする。さっき聞いた話では近所の小学校の子供に『お前の家親いないからお前いっつも立ち読みばっかしてんだろ』と論理の破綻しきった罵倒に言い返してしまったのが始まりらしいから、この兄の勘は当たっている。
「……言われたんだね。じゃあこの怪我は?」
「お店の中で転んで擦っちゃった。外でも転んだけど、お兄ちゃんが助けてくれた」
そこで彼はようやく俺の存在に気がついたらしい。勢いよく顔を上に上げ、抱っこをせがむシゲを抱き上げながら目線を合わせた。
「す、すみません!すっかり存在を……」
「いいんですいいんです!送ってあげただけなので。…あ、あとこれ、どうぞ」
「え……」
シゲがずっと気にしていた絵本を買ってみた。俺が子供のときなら絶対読まないような小難しい内容のものを、この子は大きな黒々とした瞳で熱心に見つめていたのだ。
「受け取れません!こんないい絵本」
「プレゼントみたいに思ってよ。お近づきの印にね、手越?」
シゲと少し似た大きな目が見開かれる。
「今気付いたんだ。家だとだいぶ印象変わるんだな」
動きやすいTシャツと細身のパンツ。動きやすいのと外に出ても恥ずかしくない程度のファッションだ。いつもは綺麗に流してセットされている前髪が括ってあるのも邪魔にならないためだろうか。
「……え、待って。ま…まっすー?」
「そうだよ。わかるでしょ」
「いやいやいや、その髪、何!?」
「……あー、あのね、こっちが地毛なの。いつもはカツラかスプレー」
「しかも軟骨ピアス開けてんの!?」
「これイヤーカフ。ピアスなんて無理。怖い」
彼が俺だと気付かなかったのも無理はない。何故ってサングラス外してもこの目立つ赤髪だから、学校の友人にさえこのルックスで気付かれたことは無いから。
しばらくこのギャップに唖然としていた彼だったが、
「……マジか。あ、まっすーってこれから暇?」
と、切り替えよい問いかけに反射的に頷く。
「うん」
「それなら、飯、食ってかない?」

シゲを助けたお礼にと、手越はオムライスを作ってくれた。料理が出来なさそうに見える彼だが、どうやら手馴れているらしい。
「料理好きなの?」
「好きっていうか、もう二人暮し長いから」
「二人暮しって……シゲと?」
「うん。最初は怪我しまくりで絆創膏何箱使ったかわかんないけど」
何かあったのかな。あったんだろうな。彼の表情を見れば一目瞭然だった。でもまだそんなに親しくなっていないし、突っ込んだ質問は避けた。
「すっご。十七歳にして自立してる」
「してねーよ!これくらい全然」
ふふっと笑うその表情が可愛くて少しドキッとする。意外と無邪気に笑うんだなって思って、こっちの顔までほころんだ。
それから外が暗くなっていくぐらいの時間まで手越んちに入り浸り、シゲと遊んでやって彼が溜まった家事を済ませていくのを横目で見守っていた。助かる〜と言われたが俺は読み聞かせをしているだけなのでそこまでの労働ではない。けれど、その間に彼は掃除やら食器洗いやら洗濯を光速で済ませていく。元々不器用らしい彼は洗濯物の畳み方だけは不得意らしかったので自分直伝の方法を教えると真正面から褒められた。そんなふうに午後を過して、この兄弟に興味が湧いた。
「なあ」
「何?」
「これからさ、たまに遊びに来ていーい?ほら、そうしたらシゲと遊べるし手越のこと手伝えるし」
突然の申し出にきょとんとした四つの大きな目。先に動いたのはシゲの方だった。
「来て来て!すごい嬉しい!ゆーやも嬉しいでしょ!……ほんとはね、ゆーやがご飯作ってる間にお願いしといた!ね、だめ?」
シゲに体を揺すられ、半ば放心した手越は何度か瞬きを繰り返して確かめるように言う。
「迷惑じゃない?」
「だったら提案なんてしてないよ」
「……そう?だったら嬉しい、けど」
しばらく考え込んでから、彼は控えめな笑みを浮かべた。
「委員会長引いた時とか、バイトが突然入っちゃったりした日に頼っちゃうかも。……いつも一人ぼっちにさせてたから」
「うん。大歓迎。俺は推薦を取る時期だけちょっと忙しくなるかもだけど、あとは全然だから。暗くなるまででも全然おっけー」
「……ありがとう。あ、それなら、」
LINE追加しなくちゃね。直後に鳴った携帯の通知にはにっこり笑った電気ネズミ。ちょっと手越に似てる気がした。



ある日。
いつもは朝から元気な手越がテンションが低いように見えて、どうしたのかと声をかけるが、大丈夫の一点張りだ。顔は青白い割に少し体が熱い。先週の後期期末試験の疲れがまだ取れていないのだろうかと思ったが、そう言えばこの土日に彼はバイトを入れていた気がする。そりゃあ疲れている訳だ。二時限目、三時限目と過ぎていき、数学の授業が始まろうとした時、手越はついに体を突っ伏した。対角線上に離れた俺から見ても、腕から覗く頬が赤く見える。なんだか心配になってきて、ロッカーに荷物を取りに行くと先生に手を挙げて立ち上がり、ロッカーから資料集を取りつつ薄い肩を叩いて声をかけた。
「大丈夫?」
「……やばい、かも」
「保健室行く?」
ゆっくり頷いたので、また先生に声をかけた。いつもは真面目に授業を受けることが多い手越の今の状態を見た彼女からはすぐに許可がおり、だるそうに体を起こそうとする手越の様子をヒヤヒヤしながら見守っていると、
「……ッう」
「おいおい……」
崩れ落ちてこちらにもたれ掛かる軽い体と熱い体温に驚いた。肩を貸して歩かせるのも酷なほどに平衡感覚もなくなっているようで、やむなく背負う。先生からも保健室に送り届けるように頼まれ、だらんと力ない腕に繋がる小さめの手が赤切れや洗剤荒れを負っているのを見つめながら、渡り廊下を下っていった。


━━━━約二時間半後、終礼の後
手越が目を覚ました。彼は開口一番、
「しっシゲの送り迎え……!!」
と言いながらベッドを出ようとしたが、襲った目眩が酷すぎて即座にシーツの上に逆戻り。「まっすぅ……」と瞳を潤ませる彼を宥めながら、既に送り迎えは終わったと伝えた。今日はシゲは泊まりがけの遠足で、いつもより早めの時間に迎えに行かなければ行けないことを聞いていたので既にシゲを迎えに行っていて、取り敢えず自分の家に入れていた。
「え、ごめん。そんな迷惑……」
「迷惑なんかじゃないって!むしろうちの母親も姉ちゃんも喜んで相手してるよ。それじゃあ一緒にうちの家来てもらっていい?迎えも来てるし」
「へ、迎え?」
「だから起き上がんな、……って……」
手越はまた起き上がろうとする。体が勝手に動いてその肩をベッドの上に押し付けるとなんだか襲ってるみたいで気まずくなった。無言になる二人に保健室の先生が軽く声をかけてくれたのは幸いだった。今すぐ帰りますと返して、手越には有無を言わさず俺の背中に背負われるように指示し彼も素直にそうしたが、祖父が運転する車の中でもしばらく沈黙が続いてしまった。
ベッドに腰掛けて至近距離で見た薄い色の眼や桜色の唇、そこから見える小さく生え揃った歯やきめ細かい肌。散らばった前髪の下から見えた形のいい額にまでドキドキしてしまう自分を押し殺すのに必死で、上手く言葉が出なかったのだ。
こんなふうになったら自分でも誤魔化しようがない。彼のことをよく考えるようになって、意識し始めて……いつの間にかこんなにも好きになって。あーあ、なんて言えばいいんだろう。好きだって言ったら距離を置かれるかもだけど我慢出来る気がしない。
意気地ないし、情けないな、なんて思っていると右肩に重みを感じた。……よっかかって寝ちゃってる。しんどそうだ。よく見ればクマは酷いし、いつも綺麗なはずの唇も若干荒れている気がする。ここ数日の間にどれだけ無理をしたんだか……とにかく今日は自分の家でゆっくりしてもらおう。
最終的に手越は二泊三日増田家で過ごした。看病は母と俺がかわりばんこで行い、シゲは手越のいる部屋に留まるかうちの祖父母に構ってもらっていた。『ご迷惑おかけしてすみません』というのが口癖になっていたけれど、手越がだんだんリラックスしていくのが嬉しかった。俺がなんとはなしにベッドの端に腰掛け黒髪のウィッグを外した時、「まっすー」と呼ばれて振り向くと、手越が穏やかに微笑んでいた。
「まっすーって、学校の友達と遊びに行く時も結構派手なの?赤髪で行く感じ?」
「……うーん、中丸くんとかならギリいいかもだけど、でも学校の知り合いの前ではあんまり。っていうかこの髪色知ってんの手越と中丸くんだけだから。これで一緒に出かけたことあるのは手越だけ」
「ふーん」
その表情が嬉しそうに見えて、ちょっとからかってみたくもなって。
「じゃあさ、てごしは学校の人にああいう……なんていうの?カジュアルな感じの格好に前髪ポンパ上げしてる……」
「あれは家だけ!学校ではキメたいけど家事やってる時にそんな余裕ないし…てか学校の奴にあんなとこ見られたら死ねる」
じゃあ、あの可愛いおでこを見られたり家の中を無駄なく動いて家事をこなす家庭的なこの男は自分以外誰も知らないわけだ。正直言って、それは大分気分が良い。
「お互い様か。それじゃ、これは秘密ってことで」
おどけて小指をまろい頬に突き立てるとふにゃりと笑う幼い顔。マジでドキッとして、顔が赤くなりそうになる。部屋を眠りやすいように暗くしていた自分に感謝している間に、罪深い笑顔の持ち主は静かに眠っていた。

これを機に俺たちはもっと仲良くなった。学校で仲良くなりそうな友達ではないけれど、好きな服も歌手だって方向性は全部違うのに何故だか一緒にいて。それが心地よくて。高二最後の冬休みに三人で買い物に行く約束も取り付けた。セールの時を見計らってできるだけ安く買えるツアーみたいなのしようよって言うと、彼は楽しみだしありがたいと喜んでくれた。シゲもそんな兄を見て嬉しそうだった。

その約束の数日前だ。
新年明け、親戚や家族のお墓があったりしてお世話になっているのと普通に仲のいいお寺さんに挨拶に行った帰りに、墓地の一角が騒がしかったのに気付き足を止めた。お坊さんは足を止め声がする方を見ると、気に障ったように長い眉毛に力が入る。怒るのではなく心配げに見えた。
「……たまに見るんだよ。お盆とかにもああしててね」
親戚の中で喧嘩ってやつか?こえーなーなんて他人事にそれを受止めて父の待つ車にそうそうに帰ろうとした丁度その時、聞き覚えのある高い声が耳に飛び込んできた。
「ゆーや!ゆーや!」
(……シゲ?)
よく見えなかったが、小さな男の子がおばさんに手を掴まれて、目の前の誰かのところに行くのを阻止するように背後の自分の体に押さえつけている。
「ゆーやがいなきゃやだ!ゆーやと一緒にいる!だから離して!」
滅多に泣きわめいたりしないシゲが、聞いたことないぐらいの音量で泣いてしまっているのに驚く。声をかけるかどうか迷っているうちに、若い男、手越が弟の手を掴む女に詰め寄り何かを強く主張したかと思うと、女の後ろにいた男が肩をいからせて怒り彼を突き飛ばした。その背後には、墓地であるここでは当たり前だが墓石が。段に足を取られ、手を突こうとしたようだが空を切り、静かな霊園に鈍い音が響いた。
「……ッ手越!!」
棒立ちの大人達を押し退け小さく呻く手越を抱き起こして赤の滴る額にハンカチを押し付け止血する。目に血液が入らぬようにゆっくりと瞳を開けた彼の様子は意外とまともでほっとする。多分これくらいなら大事はないと思うが……
「あ、あなた誰よ」
「……あんた、どういうつもりですか」
思った以上に低い声が出てしまう。いくらカッとなったってこの硬い凶器でしかない墓石だらけの墓地で突き飛ばすことないだろうに。無意識にハンカチを持つ手が力んだところに聞こえた掠れたうめき声で我に返る。
「ごめん、平気?」
「大丈夫!おでこって割れやすいんだよ。だからこれくらい慣れ……あ、」
「……慣れてんの?頭から血が吹き出すことに?」
「い、いやそういうんじゃなくて」
明らかにヤベッと顔に書いてあるのが見えるくらい焦ったらしい彼を見ても頭が酷く沸騰してきた。無意識に止めていた息を一息に吐き携帯を弄りながらこの大人達を一瞥すると、反省の色は見られないし焦りもしていない。何なんだ、と舌打ちをする。
「なんでこんなこと、」
「大したことじゃないだろ!そいつも言ってた通りそっからは血が出やすいんだ」
「こんな場所で人を突き飛ばすって、一歩間違えたら殺人だぞ!どんな神経してんだ!」
「なんだとこの……!」
「だめ!!」
キレやすい乱暴男に襟首を掴まれそうになったのを止めたのは手越に駆け寄ったシゲだ。しっかりしろと言われた気がした。
「ゆーや……」
「ごめんごめん、酷いの見せちゃったな」
顔に流れる痛々しい血を弟に見られないように顔を背ける手越。するとシゲは何かを伝えようとしているのか真っ直ぐに俺を見た。
━━━━とにかくここを出よう
手越を抱き上げ、周りの大人がやんや言うのを無視しシゲが俺のコートの裾を掴んだのを確認して駐車場で待つ父の車へと向かう。途中でお坊さんに会ったが、ここは任せてくれと言われたのでそのまま通過した。
『俺の家に行くから』と短く言って、そのまま後部座席に乗り込むと困惑した表情で俺を見上げた。
「うちの母親看護師なの。だからある程度の処置もしてくれるから安心して」

そう言った通り、そのまま母のいる病院で処置を済ませた後に行った三人だけの客間の寝室で、シゲの寝息がこの空気を穏やかな雰囲気へと和ませる。
その綺麗な黒髪を梳く彼に聞きたいことが沢山あるのだけれど上手く言葉が出てこないのは、無闇に聞いて彼に避けられたくないからだ。
「……手越」
「見られたくなかったな、あんなダサいとこ」
そう自嘲しながら俯いたせいで白い項が顕になった。
「その怪我、どうしたの?」
「これ?」
Tシャツでたまに見えるぐらいの位置に小さな火傷のあと。彼は短く「さっきのと同じ人達」と答えた。何でなのと聞きたいけれど上手く言い出せなくて、でもとにかく何かから怯えたような彼を気休めでもいいから安心させてあげたくて、不意に抱き締めた。ビクリと体を強ばらせたが、彼は俺の腕の中でゆっくりと力を抜いてくれた。
「……まっすー」
「何?」
「まっすーが進路を変えたきっかけって、事故?」
「……そうだけど、手越にそのこと言ったっけ」
「言ってないよ」
俺はスポーツ推薦で大学に行こうと高一の時はそう決めていた。けれど、自転車通学の道中に交通事故にあって水泳が出来なくなった。もちろん泳ぐことが出来るけれど、思い通りに足が動かなくなった。それをきっかけにデザインの道に進むことに決めて、今やっとビジョンが見えたところだった。
こんな話、手越にはしていなかったはずだけれど。
「言ってないけど知ってる。あの時まっすーを巻き込んだのって飲酒運転の車が一台の車に正面衝突して、そのまま勢いやまずに十字路の歩道に突っ込んできた車に当てられたんでしょ?」
「……なんでそこまで」
「その飲酒運転の車に正面衝突されて死んだの、うちの両親だったんだ」
「……え」
「他に怪我人が出たとか聞いてたんだけど、俺ショックでなかなか受け入れられなくて外出れなかったから会えてなかったけど、名前だけは知ってたの」
手越は既に理解が追いつかない俺を置いていったまま話を続けた。
「最初はそのまま親戚の家に引き取られるはずだったんだけど、結構辛くて。理由はどっかの昼ドラみたいな話なんだけど、俺の母さん、婚外子でね、そのお母さん……俺のおばあちゃんによく似てたんだ。俺もその母さんに似た。だから正妻だったおばさんは愛人の顔にそっくりな俺が大っ嫌いで、嫌がらせばっかで……中三の後半は家に帰りたくなさすぎて部活に入り浸ってた。
シゲは祖父の方に似たらしくて、むしろ可愛がられてたから大丈夫だろうって思ってたから任せてたんだけど、ある日突然俺だけ出ていけって言われたの。ボロボロの離れに一人で寝起きさせられてご飯の席も用意されてなかったのに、もう顔も見たくないって言われてさ。でもシゲが大丈夫ならって、そう思ってたんだけど。一人暮らしを高校に上がる前の三月くらいから始めて、一週間ぐらいたった頃にシゲが俺のところに来たの。わざわざ自分の足で荷物まで持ってだよ?そんで、『辛い、寂しい、怖い、置いてかないで』って」
「まさか、シゲもいじめられたの?」
「わからない。教えてくんないの。でも、この子がきてくれたのが本当に嬉しくて……でも向こうもこの子に執着してるから隙あらば取られそうになるんだ。昼の時みたいにさ。両親は突然居なくなっちゃったし、その前に父方の祖父母は亡くなっちゃったから頼る先なんてないし……今住んでるアパートは良心の砦のお兄さんが貸してくれてるとこなんだ。安くしてくれてるし、場所もほかの人には知られてない。……まだね」
不意に彼が俺の背に手を回して背中の布を掴む。首筋に雫が落ちたのを感じ、ぎょっとして顔を見ようとすればすぐに隠された。彼は腕で涙を荒っぽく拭うと、ふくふくと柔らかい弟の頬を撫でて目に入りそうになっている髪を払ってやる。
「この子を奪われたら、俺は一人になるのかなって。そう思い始めたら怖くなっちゃって……ははっ、考えすぎか」
彼の泣く姿を見ながら、事故に遭って水泳生命を絶たれたと分かった時のことを思い出していた。歩こうとしていた道が塞がれてもどこか現実味がなくて、でも軋む体にはこれが現実だとどんな言葉よりも明確に思い知らされた。リハビリで何とか治してやれば普通に泳ぐ分には不自由ないが、これまでのように選手としてはやっていけないだろうと言われてどれだけ悔しくてやりきれなくて、不安で……。
でも、同じ事故で亡くなった夫妻には二人の兄弟がいるとも聞いていた。ショックで家を出ることが出来ないという彼らの代わりに来た親戚の人は二人に同情しているような口ぶりだったけれど、悲しんでいる様子が薄っぺらくて不気味だった。思い出してみれば、その人はあの霊園で手越に食ってかかっていた女だった気がする。
過去の記憶を思い起こしていたら、手越の膝の上で眠るシゲがむずがって小さく声を漏らす。
「シゲのことを思えば、この子だけでも向こうに預けた方がいいって分かってんだけどさ……でも見てよ、こんなに可愛いんだよ?」
いつかはって分かってても手放したくなんて無くなっちゃうと、そう言ってふわりと微笑んだ。額のガーゼは痛々しいが、それすらもかき消すような輝きで。墓石に当たって痣の付いた腕が小さな体を抱き上げて胸に抱き、背をとんとんと叩いて柔らかく名を呼ぶとすぐに寝息が聞こえてきた。十七歳の彼は、疲れはあるがとても優しい表情をしている。ベッドの真ん中にシゲを寝かせて布団をかけて「おやすみ」と小さく囁きおでこを合わせる。
その光景に、なんだか見とれてしまった。無意識に手を伸ばして桜の髪を撫でると大きな目がぱっちりと開かれる。
「すごいよ、手越は。傍から見ててもよくやってるって思うよ」
手越たちがよく使う商店街で聞く兄弟の評判はすこぶるいい。訳あって二人で暮らしているのだろうけど良い子だししっかりしてるって何度も聞いた。倒れて俺の家に泊めた時なんかはいつも来店してくる時間に来ないお前がどうしてるのか何回も聞かれたんだよ。みんな頑張ってることは知ってるよ。
委員会の仕事に部活のマネージャーにシゲの送り迎えにバイトに高成績キープのための勉強……そりゃあ過労で倒れるわ。
「たまには俺の前で弱気になったらいいのに」
「かっこ悪くない?」
「その方が嬉しいから。夢の中で苦しまれても悲しいし」
お前たまに漏れてんだよ。サッカー中継見て寝落ちした時とかに『俺が、やらなくちゃ』って言ってるの、気付いてないだろうけど。なんで頼ろうとしないのかな。皆心配してるんだよ?サッカー部の奴らも手越と球蹴れないことに寂しがってるしね。
「てーごし」
「ん?……え、…ど、した?」
「頑張ってるご褒美的な?シゲもさっきぐずったけど抱っこしたら落ち着いたでしょ」
そう言いながら側頭を撫でると彼は首を縮めて俺の手から逃げた。手がずれて頬に触れるとそこは熱くて、彼が照れていることを知る。ベッドの端に並んで腰かけながら静かの距離を縮めて薄い肩に触れ引き寄せてみれば、彼は「え」と小さく声を出した。
「誰かを好きになったら、取り敢えず最初に自分が好きだってことを伝えるってこの前言ってたよな」
「……うん」
肩から腕を辿って細っこい手首を握る。
「それなら言っていい?」
「何を?」
「お前のこと、好きになったって」
ただでさえ大きな瞳が見開かれて、小さなシェードランプ、微かな月明かりさえ反射して光る。触れていた手首が外されて心臓が冷えた。やばダメかな、そう思った。
だけどすぐに握り直された。見れば唇を噛んで俯き、頬を赤くしているようにも見えた。
「俺、」
「うん」
「俺も、……」
「……マジで?」
頷かれたと思ったらその上体がおずおずと傾いて、繋がれていない方の手がこちらの太腿につかれる。その細い腰に俺からも腕を回し抱き締めれば、頬の熱さや火照った首を肩口で感じて胸がつまる。細く、かつしなやかで、甘い香りのする好きな子の香りが鼓動を速く速くと押し進めている。それがバレてもいいやと諦めて思い切りきつく抱きしめたら背中を覆う布にシワが寄るのを感じた。
「ん……だけど、俺、恋人らしいことなんてできないよ」
「なんで?」
「忙しいし……構ってあげらんないし」
「関係ないでしょ。家庭的な手越、結構好きだし」
それにキスをするのなんて一瞬でしょ?そう言って顔を近づけるとわなわなと震える唇。
「……いい?」
「う、ん……ンッ」
ぎゅっと引き結ばれた薄めのそれに何度か押し当て、後頭部に回した手で頭の角度を変え、耳の軟骨部を甘噛みすると可愛い吐息が漏れる。そこでまた見つめ合い、力の緩んだ唇を優しくむ。怖がっていないか気になり薄く目を開けると彼は眉をハの字にして弱りきった顔をしているのが見え、グッときてしまったのでその身体をそっと離した。
「ごめん、やりすぎた」
「い…いや、平気……」
「強がんなって。初めてだろ?お前の事チャラいと勘違いした女にからかわれたキスはあるのかもだけど……あとシゲのおやすみのキスとか」
あ、言いすぎたかな、と月明かりの照らすその耳を見ると真っ赤になっていた。
「からかってるつもりは無いからな、手越のこと」
「ッうん!わ、わかってる」
「手越が頑張ってるのは分かってるし、素直に尊敬してる。だから変な受け取り方はしないで欲しいんだけど……」
「もう、前置きそんな言わなくていいよ。何が言いたいの?口下手なまっすーがそんなに長ったらしく」
「……守らせて欲しい」
不器用に長く言葉を並べたことにクスリと笑った彼だったが、俺の真剣な声質と表情に驚いたようだった。笑みを引っ込めて深く俺の目を見つめ返す。
「今日の昼に見たあの親戚って呼べないような親戚に会って、またこんな何針も縫う怪我して欲しくないし……これがよくあるって言うならこれからもっと怖くて、酷いことだってされ……」
「まっすー」
遮った静かな声、不自然なほどに凪ぎ視線で俺を刺す瞳。知らず背筋が冷えるような心地がした。
「怖くて酷いことを一回されたら、これくらいのことどうってことないように感じるもんなんだよ」
「手越、……!」
ガシッと掴んだ肩はさっき繋いだ手より冷えている気がした。なにか言おうとしかけた唇が閉じ、そして顔も俯く。「誰にも言わない?」と小さく問われたのに深く頷くと、彼は弟の寝顔にしばらく目を向けてから手を引いて廊下に出た。誰もいないのを確認する彼の手をぎゅっと握ったら「……ありがとう」と言われるもなかなか会話は始まらなくて、俺から切り出した方がいいのかと思ったけれど、そう思ってすぐ彼が話し出した。「そんな大したことないんだけど」という言葉で始まった話は案の定戦慄モノだった。
親戚の家から抜け出す数週間前、家の男に襲われかけたが、その異変に気付いた又は目撃したはずの者達は誰も彼を助けようとはしなかった。むしろ被害者であるはずの手越の方に蔑むような眼差しを向けてきたらしい。急所を蹴りあげ逃げたが、次は何をされるか分からないと髪を染めて家の中で人を近づけないようにし、家を出ていこうと決めた。でもシゲまで巻き込みたくなかったし、何をされたか弟に知られたくもなかったから、ここで可愛がられている弟を残して出ていくことに決めたと言う。幸い協力してくれる優しい人も親戚の中にはいたらしく、一夜のうちに家を抜け出した。
「今手越が住んでる部屋があの人たちは知ってんの?」
「知ってたら家までシゲを連れ戻しに来るよ」
はぁ、とため息とともに吐き捨てるように言うが、その指先はやはり小刻みに震えていた。両手を握ってあげたら嬉しそうに微笑む。暗くなっていた顔が少し明るくなった。
体も冷えてしまうし、戻ろうか。そう声をかけて部屋に戻ると、ベッドの真ん中を陣取るシゲが「うーうー」と唸っているのを見て控えめに笑いながら手越がその小さな体を引き寄せて胸に抱いた。するとたちまちぐずりが止んで静かな寝息が聞こえるようになった。その可愛らしさに目を見合わせて二人揃って口元がにやける。
手越に肩まで布団をかけてやってから自分も布団に入る。手越と俺でシゲを挟むようにして寝ると子供体温が布越しに伝わって湯たんぽみたいに暖かい。
「うちの子あったかいだろ」
眠そうな顔で、かつ得意げに笑う彼は俺の方に弟ごとにじり寄る。
「ねえ、手越」
「ん?」
「しばらくここにいたら?うちの両親姉ちゃんが去年自立してからなんだか寂しがってんのよ」
「迷惑じゃないの?」
「全然大丈夫だから、取り敢えず冬休みはここにいなよ。うちの親手越の怪我見てめっちゃ心配してたから歓迎だと思うよ」

手越にそう言った通り、うちの両親は二人が頼む前に『ここで暫く暮らしていいから』と承諾し、ここなら安心だねと彼の肩の力も抜けたようでこちらも嬉しく思った……三日目の朝。
六時になったかならないかの早朝、既にベッドに自分とシゲしかいないことに気付いて、くうくう眠るシゲを起こさぬよう慎重に身体を起こし部屋を見渡すとドレッサーの前の椅子に座り込んで頭を抱えている彼の姿が見えた。
「どうした?」
「あ……まっすー」
朝の冷え込みのせいだけではない身体の冷たさに顔を顰めながら彼の持つ携帯に目を向けようとすると、その画面は静かに机に伏せられる。指先でそれを軽く叩いたら深い深い溜め息が部屋に響く。
「うちの親戚の強そうなオバサン、覚えてる?」
「逆に忘れられると思うか?」
「ふっ、そうだな。……で、その人が俺の家突き止めたらしい。関係者だって言い張ってマスターキーで中も見たらしいよ」
勝手に、確認もなく?と聞いたら頷いてまた溜息を吐いた彼の顔を伺うと、相手の行動に呆れきっていっそ消えてくれ、というような感じで。背筋に冷たいものが走って頬も表情筋がつりそうなほどに引き攣っている自分とはえらい違いだ。
「……手越冷静すぎない?」
「まあ、いつかこういう事してくることは分かってたし。まっすーのとこに留まってて正解だったよ。ありがとね、マジで。引き止めてくれて」
「それはいいけどさぁ……」
「どこにいんのかってレシートみたいな長さのLINE来てるわ。ウケる」
そう言って、軽く笑いとばす。怖がる様子もないし平気そうに見えるけれど、どこか壊れそうなふうに見えて━━あの日霊園で見た、祐也と引き離されたのとあまりに強く手首を掴まれたことで大泣きしていたシゲのために本気でキレていた彼の姿が頭をよぎった。
そんな冷めた顔なんて似合わない。なんの脈絡もなく突然に両手を伸ばして柔い頬っぺを思い切り抓った。
「いった!何!?」
「ほんとに呆れて笑ってんのか本当は辛いの隠してんのか分かんないけど、その軽い笑顔やめて」
「……平気だよ。怒んないでよ」
ぷいと顔を背けてしまう手越。
笑ってないとやってらんないし……ぼそりと呟かれたそのセリフが引っかかった。そう言えば冬季休暇も残りわずかだな、とカレンダーを見て思い出す。
それならば時間のあるうちにもっと手越の笑うところが見たい。
「ねえ手越、海とか見に行かない?」
「なんで突然……」
「デートしたいなって」
笑いかけながらそういった直後に、ベッドで寝ていたシゲの声が横から飛んできた。
「デートするの?」
「うん。だから一日だけ祐也のこと借りていい?」
「もちろん!!ゆーやいっつも僕のことばっかりだから楽しませたげてね」
よし、じゃあ決まりだ。手越に向き直ると何故か真っ赤になっている。そこで自分が初めて彼を下の名前で呼んだことを自覚した。


┄┄┄┄┈┈┈
海沿いを二人並んで歩く。ここに来るまで乗り継いだ電車やバスの中の会話で自分達は自然に下の名前で呼び合うようになった。
さり気なく手を握って自分のコートのポケットに入れ、冷えきった手に自分の熱がもっと伝わるように指も絡めてしっかり繋ぐ。昔姉ちゃんが読んでた少女漫画で見たシーンを思い出した。そんな乙女チックな、なんて思っていたのに自分からそんな甘ったるいことをする日が来るなんてなと軽く笑う。
「なんか面白いことあった?」
祐也は俺の顔を覗き込んで楽しそうに微笑んだ。綺麗な横顔が夕日に照らされている。
道中ではお互いあんまりおしゃべりな方ではない割によく話して、昼ご飯には夫婦で営まれる雰囲気のいいうどん屋さんで腹を満たした。ベタだけどあとは夕日を見ながら海沿いを散歩しよっかなんて思っていたが、冬の割になかなか陽は落ちなくて。でもその代わりに色んなところをぶらぶら回ることが出来たし楽しかった。観光地を誰かと並んで歩くなんて女の子ともしたことがなかったからかっこ悪いとこ見せたくないなと思っていたけれどそれは彼も同じだったようで、本当にただただ楽しくて。
海が一望できるカフェのカウンター席に並んで座って景色を眺める。照明が必要最小限に絞られた店内の光源は今にも落ちそうな太陽だけだ。そんな中で、夕陽に照らされ影が落ちた彼の表情に目を奪われた。ふわりと桃色の髪を揺らして「綺麗だね」と笑いかけられる。
「俺もそう思う。祐也のおかげだよ」
「え、夕陽が綺麗なことが?どうして?」
白い肌に反射する真っ赤な光は純粋に美しいと思えた。今までは視界に入らないようにするのに必死だったのに。
今までこの真っ赤な空を直視することが出来なかったのは事故のトラウマが原因だった。あの残像は大きな事故が映像や解説付きで報じられたものを見た日なんかに夢に出てくることが未だにある。
「車に跳ね飛ばされてから記憶飛んでんだけど、ちょっとだけ映像が残ってんの。でも赤ばっかりでよく分かんなくて」
「……赤」
「自分の血が目に入ったのか、夕陽が真っ赤なだけだったのかも分かんないけど……足と背中がめっちゃ痛くて。泳げなくなっちゃうのかなって思ったら怖くなった。ずっと考えてて、目が覚めたら手術も終わってたんだけどね。それからずっと夕焼けが苦手なんだよ。夜中の真っ暗さの方がまだマシなんだ」
手、震えてたりしてたかな、と不安になったがそれ以前に結構な力で手を握ってしまったいたのに気がついて「ごめん」と一声かけて力を緩める。でも手越は首を振って逆に強く手を握ってきた。
「今は怖くない?」
「手越がいるからね」
「さらっと恥ずかしいこと言うなって……ははっ」
薄い肩で小突き、軽やかな笑う手越の声につられて自然と口角が上がった。
握られてない方の手が俺の頬に当てられたと思うと彼が口を小さく動かす。
「……茜色」
「ん?」
「夕焼け色は、茜色だよってシゲが教えてくれた。血の色じゃないよ」
彼の言うことがよくわからず首をそちらに向けたら、いつからそうしていたのだろう、俺の顔をじっと見つめていた。
「ものは取り様だよ。頭に張り付いた残像が怖くなることも、それで少しは誤魔化せる。……俺は夜が怖いかな。真っ暗闇が苦手かも」
「何かあったの?」
「まっすーみたいに鮮烈なものじゃないけど、ほら、俺一人で離れで寝起きしてた時があるって言ったじゃん?そこも明るいところじゃなくって、まあそれはいいんだけど、夜になるとシゲの泣く声が聞こえてくんの。寝付きはいいはずなんだけど、余程向こうの人達が嫌だったみたいで。だからかたまに思い出すんだよね、弟を今すぐ抱きしめに行かなきゃーー!っていう気持ちになる」
「実は祐也も寂しかったんじゃない?」
「そ、それもあるかもだけど……要するに俺が言いたいのは、」
身体が近づいてきて、手が繋ぎ直されて、大きく澄んだ薄い色の瞳が今日一番の近さまで寄ってきて、
「できるだけ長く一緒にいたいなって、そうしたらお互い、夕陽だろうが夜だろうが怖くないだろって思って……っもう、笑うなって……」
湯気が出そうなほど真っ赤になっているのを自覚したのか乗り出してきていた体も手も全部引っ込めてしまう。
「かーわい」
「ばっか!ここ外だから!」
「そうだね」
「分かってんの?ふやけた顔しちゃって」
「わかってるよ」
━━外じゃなかったら、今すぐにでも抱き締めてるもん。
手の甲をつつくと力が緩み、覆うように握ったら少しの間を置いて握り返された。
「帰ろっか、一緒に」
「……うん」
「もう暗くなったけど怖くない?」
「大丈夫。まっすーがいるからね」
その日からは、いつ茜色の空を見ても純粋に綺麗だと思えるようになった。





┈┈┈┈┈┈┈ ❁ ❁ ❁ ┈┈┈┈┈┈┈┈




「……で、もう付き合って三年?」
「正確には初デート記念日ね」
「へーへーお幸せなこって」
「ふふふ……羨ましい?中丸くん」
俺のにやけきった表情に頬を引くつかせながら首を振って激しめの否定を寄越した。
「ま、色々あったけどうちの両親が要領よく纏めてくれたし、晴れてひとつ屋根の下で暮らせるようになったし」
「手ぇ出し放題だな」
「ちょっと、失礼なこと言わないでよ。そっちに踏み込んだのは向こうの十九歳の誕生日なんで」
「……我慢した方なのか?」
「そりゃそうでしょ。こっちはもうそろそろ我慢できなくなってきてたし」
「……あぁ、ソウデシタカ……」
「でも初めての後にシゲからなんとも言えない視線くらったんだよね……」
「気付いたとか?」
「まさかまさか……今小三だし、その時は八歳だったんだからそれはないと思うけど」
「だって賢い子じゃん」
「そら、俺よりもね。ってやめてよ、目合わせらんなくなる」
惚気に頷くだけの機械と化している中丸くんは乗れる話題が来るとすぐに乗ってきてくれるからありがたい。今は祐也の講義が伸びたとかで、近くのコーヒーショップで待ち合わせているところに偶然居合わせた中丸くんに暇を潰す手伝いをしてもらっているところだ。
彼は祐也の事情をひょんなことから知ってしまっていたらしく、影から気にかけてくれていたらしいことをあとから知った。やっぱりなんだかんだ愛されやすいやつなんだ。
「あ、来たっぽいよ」
中丸くんの目線の先には広い歩道を真っ直ぐ歩いてくる彼の姿。「じゃあ行くわ」と言って店を出る中丸くんに手を振り返し、その反対方向を向くと俺に気付いた祐也がニコッと笑みを浮かべて駆けてきた。
「遅くなった!ごめん」
「全然平気ー」
そう言って俺達は駅に向かう。行き先はもちろんあの海岸沿いの街だ。
「ご飯食べ終わったら丁度夕日も見られるよ」
「やった!じゃあご飯はどこ行く?」
「この前小山がおすすめしてたパンケーキ屋が近くにあるんだよ。人もそこまで多くないし、手越も食べれる甘い系じゃないメニューもあるらしいからそこでどう?」
「いいねぇ。慶ちゃんセレクトなら安心だ」
慶ちゃん、もとい小山とは手越が参加した他大学との交流イベントで繋がった縁だ。気さくな奴で、兄に似た人見知りのシゲでさえもすぐに懐き、いまでは家庭教師みたいなことも任せるようになってきている。今日も二人は一緒のはずだ。
この十数年後、シゲが小山に激しくアタックし、この二人が俺たちと同じような関係になることはまだ誰も知らない。
「なんか曇ってるね……夕陽見れるかな、タカ調べてよ」
「ちょっとくらい平気だよ。えっと……大丈夫、雨は降らないらしい。それに雲がかってるくらいだったらむしろ綺麗でしょ」
「そっか、そうだな」
ここではまだ手はつなげない。だから偶然を装って肩を触れ合わせることしか出来ない。
だから早く行きたい。あの海岸沿いの夕日のよく見える、人通りのそう多くないあののどかな町へ。そこだとなんのためらいもなく彼の若干小さな手を強く握ることが出来るから。



君と選んだ道なら いつまでも手を繋いで

海の先に映る未来 僕が守っていくから

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