The Four Masters
歴史の長い屋敷の舞台の中心に大きく飾られる美しい生け花。それを見るたくさんの肥えた眼は、その作品に素晴らしいと感嘆の息を吐いた。十分に批評はあるが、新しい流派を開き、自分の道を進み始めたばかりの若者にしては高すぎるほどの評価だ。
今回彼が作り上げたのは伝統的な型とは少し一線を画した作品で、可愛らしく、それを見た若い女の子は目を輝かせた。それでもなお上品さを失っていないのは背景のように設えられた緑と白がバランスを見事に保っているからだった。その作品を作った張本人は、現在インタビューを受けている。
ーー今回の作品はいつものお作品よりピンクや黄色などの可愛らしい色が多く取り入れられていましたが、なにかねらいがあるのですか?
「ねらい……というか、自分の思い出が大分影響していますね」
ーー思い出、ですか。
「はい。……ここの会場は、昔からよく華道を含める色々な伝統を披露してきた伝統的な場所ですよね。小学生の時ぐらいかな、そうだ、九歳のときです。弟たちの六歳の誕生日の前の発表だったからよく覚えてて……それが、ここの会場で開かれたのでよく思い出して、影響されたのかもしれません」
ーーあの四色の花は、もしかして……
「はい。うちの兄と弟の色ってことになってるんです。子供の時から……」
屋敷より一回り小さい離れの縁側に座り、そこから見える庭園を臨む。あの頃と同じく手入れが松の緑の一本一本まで行き届いている。
「貴久」
聞きなれた声に顔を向ければ、片手に花を持った兄がひょこりと顔を出している。
「やっぱりここにいた」
その手にあるのは、向日葵だ。母は俺たちが小さい頃は家に帰ってくる度に部屋の前に備え付けられた一輪挿しに花を生けていて、その色味は誰に向けてのものかによって大体決まっていた。
慶にいは紫。
藤とかすみれとか、誕生日の時期には菖蒲が贈られて、夏休みの時には朝顔が綺麗に壁沿いを流れるように垂れていたのが簡単に思い出される。
「ここは俺の定位置だからね」
「昔っからそうだね。この御屋敷の時は……あ」
石を踏む高い音。大雑把に砂利を踏み抜く音。後者はおそらくバランスを崩して飛び石を踏み外しただけだろう。
「あ!やっぱりここにいた」
きらりと目を輝かす双子の末っ子の色は桃色。
春に桜の枝生けてあるのは定番だった。あとは薔薇だった時もあるし……結構可愛らしいというか女の子っぽい花が多かったけれど、彼はそれらをとても喜んだ。花が取り替えられるところに出くわせばわざわざ貰ってメイドさんにピンで頭に飾ってもらっていたりしていた。それをポーズを決めながら見せてきて、『俺、かわいーの似合うから』とドヤ顔で言っていたのが頭に浮かぶ。
「慶にいまで……探してたよ。他の人」
そう言う黒髪正統派の片割れは緑。
緑花はそうないのではないか、あったとしても葉っぱっぽい花だけのではないかと思われやすいがそうでも無い。品種改良で色幅が増えた功績もあるし、案外少なくないのだ。トルコキキョウ、薔薇、ガーベラ、クリスマスローズ、スイートピーにチューリップ……小ぶりなものだとスノーボールも可愛らしい。でも後から聞くと小さい頃の彼は複雑だったらしい。影が薄い花、のように感じていたから。それが理由なのか、五月の初めに慶にいの部屋前に菖蒲が飾られるとそれをねだって貰っていた気がする。だから二人はその時期だけ、部屋の前の花を交換していた。菖蒲を手にしたシゲアキはとっても嬉しそうだったし、その一千倍兄貴は嬉しそーに笑っていた。
「貴にこれを渡しに来てたの」
そう言った兄に渡されたのは小ぶりの向日葵。俺の色ということになっている黄色だ。マリーゴールド、カランコエ、鮮やかなカザニア、秋には銀杏の時もあったっけ。
「兄さんこれ好きだよね」
「この花が好きって言うよりも……タカがこの花見て笑ってるのが好きなんだよ」
そう言って変わらない笑みを俺に向けた。
この花を見て思い出すのは、小さい頃お世話になったメイドさんのこと。
夏の休暇の前で、自分の誕生日の少し後。両親は急な用事で数週間家を空けることになってしまって、華道の催しの前に師匠が家を空けるということになってしまった日のこと。
「ふえ、うぅ、」
確か小学校に入った年だったから、七歳か。必死に涙を堪えながら泣き顔を見られないような静かな場所を探していた。手には一輪の小ぶりな向日葵。
『貴久様は奥様に似てらして、本当に花の扱いが上手いですねぇ。今度の催しもいい結果になることを応援しておりますよ』
そう言ってくれたメイドさんがこの日の二日前に亡くなったのだ。もちろん、使用人は彼女だけなはずもなく、タマ子さんや他にも何人もいるけれど、彼女は特別だった。心の中では本当のおばあちゃんみたいな、そういう位置にいたのだろう。僕はその応援の言葉に報いたくて、彼女への感謝をこの発表で作る作品に込めようと思っていた、のだが。
置いてある花の中に黄色い花、その人がよくくれた花を見つけた瞬間、心のところのじくじく痛むところがぐにゃりと強い力で捻られるように痛んだんだ。
それから上手く集中出来なくて、花を持つ手が震えたりもした。いつもあるはずの、目の前の切って置かれた草花を持った瞬間にそれらが自分の一部になったように精気を取り戻していくような、研ぎ澄まされた感覚がなくなっていた。心ここに在らずな状態で、頭に浮かぶままをがむしゃらに詰め込んで出来た作品は当然順位も良くなくて、たまらず講評が終わる前に会場を抜け出した。
それが間違い。
そこには警備員に扮した誘拐犯が居たらしく、警備の厚い会場からほいほい抜け出してきた子鼠がターゲットにされたのだ。そうして追いかけっこが始まり、物陰にかくれながら声を押し殺して泣くこの状況に至っている。
「お母様、お父様……お兄ちゃん」
手首で塩っけのある涙を拭うとかすり傷からじんじん痛む。仕立てのいいシャツも綺麗なネクタイも靴下もほつれが目立ってくる。ソックスガーターも片方どこかに落としてしまった。このネクタイの色は気に入っていたのに泥だらけ。近くに男の怒声が聞こえて体が強ばり、恐る恐る俯いていた顔を上げると、自分の身を隠していた長い草を男の手が退けようとするところだった。
まずい、どうしよう、逃げなきゃ、……どこに?
背後の開けたどこにも隠れようもないスペースに逃げる気力が失せそうになった時、その男が痛みを叫んで後方にすっ転んだ。
「タカ、こっち!」
「え、ゆ、祐也!?」
自分より一回り小さな体が草陰から突然現れ、僕の手を引き反対方向に駆け出す。後ろで倒れ込んだ男の脛にはくっきりと形のいい祐也の歯型の跡が残っていた。
祐也を追っていた男も加わり、追っ手は二人だ。子供の足では簡単に追いつかれる。祐也に手を引かれるままに離れの軒下に転がり込んだ。
「ぜったいに、もうすぐ慶にい達が助けに来てくれるよ」
そう言って、小さくても暖かい身体が俺をぎゅっと包み込んでくれた。よく見れば彼も傷だらけだ。血の滲む腕や膝に気を取られていると、草をかきわける足音に気付いた。
「来た……しーっ」
口元に人差し指を持っていきつつ弟の方を見れば、外を強く睨みつける薄い色の瞳。弟はまだ小学校にも上がっていないし誕生日も来ていないからまだ五歳なのに、泣く素振りなんて一切見せない。僕も負けちゃいけない。一個しか変わらないけどお兄ちゃんなんだ。小さな頭を引き寄せて優しく撫でると、ジャケットの裾を掴む手が強まった。片手に小石をいくつも握り込み構える。しばらく待つと、男はゆっくりと離れていった。
ふう、と息をつこうとしたが、外から聞こえてくる会話に身を固めた。控えめに僕のジャケットを握っていただけの祐也はビクリと身体を震わせてぎゅうっと抱きつく。背に手を回せば酷く震えていた。
(大丈夫、大丈夫……祐也に手は出させない)
後ろの髪の毛を手櫛でといて、おでこのところに自分の頬をくっつける。お母様と慶にいのよくする双子がぐずった時の対処法を真似ただけだったが、効果はあったようで結構落ち着いてくれた。
このまま待っていればこの二人の男も去るだろうと音を立てずにいて数十秒。諦めたようにこの場を去ろうとしているのに気付いて期待の念が一気に上がる。その時、何かが地面に落ちたような音がした。祐也の背後から。
「……あ、みーっけ」
「ッ……!!」
落ちたものは男の持っていたライターだった。偶然落としたせいで、軒下まで転がってきたそれがここに男を案内してしまったのだ。
「タカぁッ」
祐也のサスペンダーが掴まれ、体が離れそうになる。小さな体を抱きしめながらベルトに繋がったクリップを外し、距離をとって逃げようと向こう側に這いつくばって進む。
「祐也、平気?」
「うん!」
大丈夫、ここには大人は入りにくい。そう思っていたが、もう一人の男がその先にいた。いくら狭い軒下とはいえ、いずれ捕まってしまう……どうしよう。祐也を背に庇うわけにもいかず、抱きしめて男達を睨みつけた。
そのとき。
「祐也ーー!タカーー!いる!?」
「……慶にい?」
胸に顔を埋めていた祐也が光の射す外を見つめる。
「いた!いました……ありがとうございます。二人とももう大丈夫だから、出てきていいよ」
祐也が名前を呟いた通り、その声はお兄ちゃんのものだった。元気な弟は状況が呑み込めていない僕の手をぐいぐい引っ張って陽の当たる外に出た。そこには僕に付いてきていた使用人達と、警備員。そして二人の男が連行される後ろ姿。
あ、助かったんだ。
ようやく自体が呑み込めた。祐也は真っ先に僕達を待ってくれていたお兄ちゃんの腕に飛び込んで頭を撫でてもらっている。そして、出てこないのを不審に思ったのか二人とも僕の方を心配そうに振り返った。
「慶にいちゃん、タカが……」
「うん」
祐也は慶にいの隣に引っ付いているシゲアキのところに移っていって、逆に祐をシゲアキと使用人達に渡した彼は僕に手を伸ばして暗がりから引きずり出し、両頬を包んで僕の目を覗き込んだ。
「怪我いっぱいしてる……痛かったでしょ?」
「そんなことないっ」
「すぐに手当てしなきゃね。あのね、このソックスガーターが落ちてて、これが貴久への道しるべになってくれたんだよ。本当に見つけられてよかったよ」
ぺたんと行儀悪く床に座ったままの自分の顔を確かめるようにさすっていく暖かい手。
「せっかくさらさらな髪なのに色々くっついちゃったね。早く流さないと」
髪にまとわりついた落ち葉や乾いた土をパラパラと払われる。綺麗好きなのにそんなことしていいのかな。
「貴久」
「……」
「貴久」
「……」
「たーか」
「…っ…」
「皆で帰ろっか」
「…う、うぅ」
「もう怖い人いないよ。だから、おいで?」
ぎゅっ……
「ひう、う、…お兄ちゃ、おにぃッ…うぇ、ふええぇぇえ……」
よしよしって頭を撫でられて、胸のところに顔を擦り付けてしゃくりあげながら泣いた。確かその時お兄ちゃんはお気に入りの紫色のネクタイをつけていたはずなのに、僕がどれだけ濡らしても全く怒らなかった。むしろほらほらと促すように背を撫でてきた。
なんでこんなに暖かいんだろ。二歳しか違わないし、色々女子っぽいとこあるし、なよなよしてんのに。気付くと、いつの間にか双子までくっついている。祐也は僕の背中に引っ付いて、シゲは多分お兄ちゃんのサスペンダーかなんかを掴んでる。鳴き声は聞こえないから、多分ここで泣けなかった分を夜に持ち越してニシキアナゴぬいぐるみを抱えてこの長男の部屋に突撃するんだろうな。シゲは祐みたいに真っ向から甘えれないから。
でも、今は僕の番だもん。二人が弟になってから、たまに帰ってくるお父様もお母様も、そしてお兄ちゃんもあんまり構ってくれないからちょっと嫉妬してたけど……今は僕の、僕のお兄ちゃんだもん。こうやって泣くのだって久しぶりだし。昔は一階のお兄ちゃんの部屋に行く度に階段転げ落ちそうになって、落ちた日には大泣きしてたからよくこうしてもらってたけど今じゃ全然だし。
「ん……眠い?」
「お兄ちゃ……やぁ、まだぎゅーしてて」
「うん」
わがまま言った割に結局そこで寝落ちて、おぶわれて車まで連れていってもらって。その次の日は目が真っ赤に腫れて、帰ってきた両親に驚かれた。
でも、その大泣きした日の夜は四人で寝れた。いつもは双子が真ん中だけど、その日は逆転して寝れたんだ。お兄ちゃんと隣で。久しぶりで、すっごく嬉しかったんだ……
「結局貴にい、審査員特別賞みたいなの取ってたじゃん」
「そりゃあだって、貴久だもん。賞レースど真ん中は狙っていかないけど独特でかっこいい構成がいいっていう話だったのに一気に作風が変わってて。みんなびっくりしてたもんね」
「きっと妙子さんも喜んでたよ。お空で」
シゲアキ、兄貴、祐也は思い思いに昔のことを振り返る。
「あの時の貴久、今思い出したらめっちゃ可愛いよ〜!あんま甘えてくんないから、貴久が来るとめちゃ嬉しいんだよなあ」
細い目をさらに細くしてそんなことを言う兄になんとも言えない感情を抱きつつも幸せそうなので放っておく。というか一番食いついたのは弟達だ。
「えーー!慶にい俺が甘えてきても嬉しくないの」
「いやいやそんなはずないじゃん嬉しいよ!!シゲも、ね!」
「……ん」
「ちょっとそんなにあからさまにテンション下げないで怖いよ」
弟にはたじたじの兄貴だけど、なんだかそこですっごくバランスが取れているこの兄弟。会話を聞いているだけでなんだか笑ってしまう。それを見られて祐也にいじられる。
幸せだね、楽しいね。
そう思ってふくふくと笑っていたらシゲアキには真顔で見つめられ祐也には唖然とした顔をされた。対して兄貴はにこにこしている。そうしたまま、俺が「帰ろっか」と言うまでそんな不思議な時間が縁側に流れていた。
帰りのリムジンの中。回想しすぎたせいで兄貴を「お兄ちゃん」と呼んでしまい、祐也にからかわれたりしたりしなかったり……
┈┈┈┈┈┈┈ ❁ ❁ ❁ ┈┈┈┈┈┈┈┈
貴久くんは慶にいのことを兄貴と呼ぶ前にお兄ちゃんって呼んでたはずよね……!?
となって書いたものでございます
今回彼が作り上げたのは伝統的な型とは少し一線を画した作品で、可愛らしく、それを見た若い女の子は目を輝かせた。それでもなお上品さを失っていないのは背景のように設えられた緑と白がバランスを見事に保っているからだった。その作品を作った張本人は、現在インタビューを受けている。
ーー今回の作品はいつものお作品よりピンクや黄色などの可愛らしい色が多く取り入れられていましたが、なにかねらいがあるのですか?
「ねらい……というか、自分の思い出が大分影響していますね」
ーー思い出、ですか。
「はい。……ここの会場は、昔からよく華道を含める色々な伝統を披露してきた伝統的な場所ですよね。小学生の時ぐらいかな、そうだ、九歳のときです。弟たちの六歳の誕生日の前の発表だったからよく覚えてて……それが、ここの会場で開かれたのでよく思い出して、影響されたのかもしれません」
ーーあの四色の花は、もしかして……
「はい。うちの兄と弟の色ってことになってるんです。子供の時から……」
屋敷より一回り小さい離れの縁側に座り、そこから見える庭園を臨む。あの頃と同じく手入れが松の緑の一本一本まで行き届いている。
「貴久」
聞きなれた声に顔を向ければ、片手に花を持った兄がひょこりと顔を出している。
「やっぱりここにいた」
その手にあるのは、向日葵だ。母は俺たちが小さい頃は家に帰ってくる度に部屋の前に備え付けられた一輪挿しに花を生けていて、その色味は誰に向けてのものかによって大体決まっていた。
慶にいは紫。
藤とかすみれとか、誕生日の時期には菖蒲が贈られて、夏休みの時には朝顔が綺麗に壁沿いを流れるように垂れていたのが簡単に思い出される。
「ここは俺の定位置だからね」
「昔っからそうだね。この御屋敷の時は……あ」
石を踏む高い音。大雑把に砂利を踏み抜く音。後者はおそらくバランスを崩して飛び石を踏み外しただけだろう。
「あ!やっぱりここにいた」
きらりと目を輝かす双子の末っ子の色は桃色。
春に桜の枝生けてあるのは定番だった。あとは薔薇だった時もあるし……結構可愛らしいというか女の子っぽい花が多かったけれど、彼はそれらをとても喜んだ。花が取り替えられるところに出くわせばわざわざ貰ってメイドさんにピンで頭に飾ってもらっていたりしていた。それをポーズを決めながら見せてきて、『俺、かわいーの似合うから』とドヤ顔で言っていたのが頭に浮かぶ。
「慶にいまで……探してたよ。他の人」
そう言う黒髪正統派の片割れは緑。
緑花はそうないのではないか、あったとしても葉っぱっぽい花だけのではないかと思われやすいがそうでも無い。品種改良で色幅が増えた功績もあるし、案外少なくないのだ。トルコキキョウ、薔薇、ガーベラ、クリスマスローズ、スイートピーにチューリップ……小ぶりなものだとスノーボールも可愛らしい。でも後から聞くと小さい頃の彼は複雑だったらしい。影が薄い花、のように感じていたから。それが理由なのか、五月の初めに慶にいの部屋前に菖蒲が飾られるとそれをねだって貰っていた気がする。だから二人はその時期だけ、部屋の前の花を交換していた。菖蒲を手にしたシゲアキはとっても嬉しそうだったし、その一千倍兄貴は嬉しそーに笑っていた。
「貴にこれを渡しに来てたの」
そう言った兄に渡されたのは小ぶりの向日葵。俺の色ということになっている黄色だ。マリーゴールド、カランコエ、鮮やかなカザニア、秋には銀杏の時もあったっけ。
「兄さんこれ好きだよね」
「この花が好きって言うよりも……タカがこの花見て笑ってるのが好きなんだよ」
そう言って変わらない笑みを俺に向けた。
この花を見て思い出すのは、小さい頃お世話になったメイドさんのこと。
夏の休暇の前で、自分の誕生日の少し後。両親は急な用事で数週間家を空けることになってしまって、華道の催しの前に師匠が家を空けるということになってしまった日のこと。
「ふえ、うぅ、」
確か小学校に入った年だったから、七歳か。必死に涙を堪えながら泣き顔を見られないような静かな場所を探していた。手には一輪の小ぶりな向日葵。
『貴久様は奥様に似てらして、本当に花の扱いが上手いですねぇ。今度の催しもいい結果になることを応援しておりますよ』
そう言ってくれたメイドさんがこの日の二日前に亡くなったのだ。もちろん、使用人は彼女だけなはずもなく、タマ子さんや他にも何人もいるけれど、彼女は特別だった。心の中では本当のおばあちゃんみたいな、そういう位置にいたのだろう。僕はその応援の言葉に報いたくて、彼女への感謝をこの発表で作る作品に込めようと思っていた、のだが。
置いてある花の中に黄色い花、その人がよくくれた花を見つけた瞬間、心のところのじくじく痛むところがぐにゃりと強い力で捻られるように痛んだんだ。
それから上手く集中出来なくて、花を持つ手が震えたりもした。いつもあるはずの、目の前の切って置かれた草花を持った瞬間にそれらが自分の一部になったように精気を取り戻していくような、研ぎ澄まされた感覚がなくなっていた。心ここに在らずな状態で、頭に浮かぶままをがむしゃらに詰め込んで出来た作品は当然順位も良くなくて、たまらず講評が終わる前に会場を抜け出した。
それが間違い。
そこには警備員に扮した誘拐犯が居たらしく、警備の厚い会場からほいほい抜け出してきた子鼠がターゲットにされたのだ。そうして追いかけっこが始まり、物陰にかくれながら声を押し殺して泣くこの状況に至っている。
「お母様、お父様……お兄ちゃん」
手首で塩っけのある涙を拭うとかすり傷からじんじん痛む。仕立てのいいシャツも綺麗なネクタイも靴下もほつれが目立ってくる。ソックスガーターも片方どこかに落としてしまった。このネクタイの色は気に入っていたのに泥だらけ。近くに男の怒声が聞こえて体が強ばり、恐る恐る俯いていた顔を上げると、自分の身を隠していた長い草を男の手が退けようとするところだった。
まずい、どうしよう、逃げなきゃ、……どこに?
背後の開けたどこにも隠れようもないスペースに逃げる気力が失せそうになった時、その男が痛みを叫んで後方にすっ転んだ。
「タカ、こっち!」
「え、ゆ、祐也!?」
自分より一回り小さな体が草陰から突然現れ、僕の手を引き反対方向に駆け出す。後ろで倒れ込んだ男の脛にはくっきりと形のいい祐也の歯型の跡が残っていた。
祐也を追っていた男も加わり、追っ手は二人だ。子供の足では簡単に追いつかれる。祐也に手を引かれるままに離れの軒下に転がり込んだ。
「ぜったいに、もうすぐ慶にい達が助けに来てくれるよ」
そう言って、小さくても暖かい身体が俺をぎゅっと包み込んでくれた。よく見れば彼も傷だらけだ。血の滲む腕や膝に気を取られていると、草をかきわける足音に気付いた。
「来た……しーっ」
口元に人差し指を持っていきつつ弟の方を見れば、外を強く睨みつける薄い色の瞳。弟はまだ小学校にも上がっていないし誕生日も来ていないからまだ五歳なのに、泣く素振りなんて一切見せない。僕も負けちゃいけない。一個しか変わらないけどお兄ちゃんなんだ。小さな頭を引き寄せて優しく撫でると、ジャケットの裾を掴む手が強まった。片手に小石をいくつも握り込み構える。しばらく待つと、男はゆっくりと離れていった。
ふう、と息をつこうとしたが、外から聞こえてくる会話に身を固めた。控えめに僕のジャケットを握っていただけの祐也はビクリと身体を震わせてぎゅうっと抱きつく。背に手を回せば酷く震えていた。
(大丈夫、大丈夫……祐也に手は出させない)
後ろの髪の毛を手櫛でといて、おでこのところに自分の頬をくっつける。お母様と慶にいのよくする双子がぐずった時の対処法を真似ただけだったが、効果はあったようで結構落ち着いてくれた。
このまま待っていればこの二人の男も去るだろうと音を立てずにいて数十秒。諦めたようにこの場を去ろうとしているのに気付いて期待の念が一気に上がる。その時、何かが地面に落ちたような音がした。祐也の背後から。
「……あ、みーっけ」
「ッ……!!」
落ちたものは男の持っていたライターだった。偶然落としたせいで、軒下まで転がってきたそれがここに男を案内してしまったのだ。
「タカぁッ」
祐也のサスペンダーが掴まれ、体が離れそうになる。小さな体を抱きしめながらベルトに繋がったクリップを外し、距離をとって逃げようと向こう側に這いつくばって進む。
「祐也、平気?」
「うん!」
大丈夫、ここには大人は入りにくい。そう思っていたが、もう一人の男がその先にいた。いくら狭い軒下とはいえ、いずれ捕まってしまう……どうしよう。祐也を背に庇うわけにもいかず、抱きしめて男達を睨みつけた。
そのとき。
「祐也ーー!タカーー!いる!?」
「……慶にい?」
胸に顔を埋めていた祐也が光の射す外を見つめる。
「いた!いました……ありがとうございます。二人とももう大丈夫だから、出てきていいよ」
祐也が名前を呟いた通り、その声はお兄ちゃんのものだった。元気な弟は状況が呑み込めていない僕の手をぐいぐい引っ張って陽の当たる外に出た。そこには僕に付いてきていた使用人達と、警備員。そして二人の男が連行される後ろ姿。
あ、助かったんだ。
ようやく自体が呑み込めた。祐也は真っ先に僕達を待ってくれていたお兄ちゃんの腕に飛び込んで頭を撫でてもらっている。そして、出てこないのを不審に思ったのか二人とも僕の方を心配そうに振り返った。
「慶にいちゃん、タカが……」
「うん」
祐也は慶にいの隣に引っ付いているシゲアキのところに移っていって、逆に祐をシゲアキと使用人達に渡した彼は僕に手を伸ばして暗がりから引きずり出し、両頬を包んで僕の目を覗き込んだ。
「怪我いっぱいしてる……痛かったでしょ?」
「そんなことないっ」
「すぐに手当てしなきゃね。あのね、このソックスガーターが落ちてて、これが貴久への道しるべになってくれたんだよ。本当に見つけられてよかったよ」
ぺたんと行儀悪く床に座ったままの自分の顔を確かめるようにさすっていく暖かい手。
「せっかくさらさらな髪なのに色々くっついちゃったね。早く流さないと」
髪にまとわりついた落ち葉や乾いた土をパラパラと払われる。綺麗好きなのにそんなことしていいのかな。
「貴久」
「……」
「貴久」
「……」
「たーか」
「…っ…」
「皆で帰ろっか」
「…う、うぅ」
「もう怖い人いないよ。だから、おいで?」
ぎゅっ……
「ひう、う、…お兄ちゃ、おにぃッ…うぇ、ふええぇぇえ……」
よしよしって頭を撫でられて、胸のところに顔を擦り付けてしゃくりあげながら泣いた。確かその時お兄ちゃんはお気に入りの紫色のネクタイをつけていたはずなのに、僕がどれだけ濡らしても全く怒らなかった。むしろほらほらと促すように背を撫でてきた。
なんでこんなに暖かいんだろ。二歳しか違わないし、色々女子っぽいとこあるし、なよなよしてんのに。気付くと、いつの間にか双子までくっついている。祐也は僕の背中に引っ付いて、シゲは多分お兄ちゃんのサスペンダーかなんかを掴んでる。鳴き声は聞こえないから、多分ここで泣けなかった分を夜に持ち越してニシキアナゴぬいぐるみを抱えてこの長男の部屋に突撃するんだろうな。シゲは祐みたいに真っ向から甘えれないから。
でも、今は僕の番だもん。二人が弟になってから、たまに帰ってくるお父様もお母様も、そしてお兄ちゃんもあんまり構ってくれないからちょっと嫉妬してたけど……今は僕の、僕のお兄ちゃんだもん。こうやって泣くのだって久しぶりだし。昔は一階のお兄ちゃんの部屋に行く度に階段転げ落ちそうになって、落ちた日には大泣きしてたからよくこうしてもらってたけど今じゃ全然だし。
「ん……眠い?」
「お兄ちゃ……やぁ、まだぎゅーしてて」
「うん」
わがまま言った割に結局そこで寝落ちて、おぶわれて車まで連れていってもらって。その次の日は目が真っ赤に腫れて、帰ってきた両親に驚かれた。
でも、その大泣きした日の夜は四人で寝れた。いつもは双子が真ん中だけど、その日は逆転して寝れたんだ。お兄ちゃんと隣で。久しぶりで、すっごく嬉しかったんだ……
「結局貴にい、審査員特別賞みたいなの取ってたじゃん」
「そりゃあだって、貴久だもん。賞レースど真ん中は狙っていかないけど独特でかっこいい構成がいいっていう話だったのに一気に作風が変わってて。みんなびっくりしてたもんね」
「きっと妙子さんも喜んでたよ。お空で」
シゲアキ、兄貴、祐也は思い思いに昔のことを振り返る。
「あの時の貴久、今思い出したらめっちゃ可愛いよ〜!あんま甘えてくんないから、貴久が来るとめちゃ嬉しいんだよなあ」
細い目をさらに細くしてそんなことを言う兄になんとも言えない感情を抱きつつも幸せそうなので放っておく。というか一番食いついたのは弟達だ。
「えーー!慶にい俺が甘えてきても嬉しくないの」
「いやいやそんなはずないじゃん嬉しいよ!!シゲも、ね!」
「……ん」
「ちょっとそんなにあからさまにテンション下げないで怖いよ」
弟にはたじたじの兄貴だけど、なんだかそこですっごくバランスが取れているこの兄弟。会話を聞いているだけでなんだか笑ってしまう。それを見られて祐也にいじられる。
幸せだね、楽しいね。
そう思ってふくふくと笑っていたらシゲアキには真顔で見つめられ祐也には唖然とした顔をされた。対して兄貴はにこにこしている。そうしたまま、俺が「帰ろっか」と言うまでそんな不思議な時間が縁側に流れていた。
帰りのリムジンの中。回想しすぎたせいで兄貴を「お兄ちゃん」と呼んでしまい、祐也にからかわれたりしたりしなかったり……
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貴久くんは慶にいのことを兄貴と呼ぶ前にお兄ちゃんって呼んでたはずよね……!?
となって書いたものでございます
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