ブラックバカラは黒いばら
タカは最後まで黙って話を聞いていた。たまに頷いたりするぐらいで、静かな瞳は変わらないまま。
「さっきはごめん。本当に。ひどい当たり方した」
「ううん、怒らせた理由も分かってるし。っていうか俺が悪い。……それに」
1度言葉を止めると顔を覗き込まれる。
あのね、タカから電話が来た時、今まで何があったか言おうって思って、そう決めてたんだよ。でもさっきあなたが来て、俺に怒った時、なんか嬉しいって思った自分がいた。俺を想って、怒ってくれた。まだ知られていない、嫌われてない……そう思ったら隠していたらいいじゃないかとおもって、1回否定したら意地張って何もないって嘘ついて。ごめんなさい。ごめんなさい……
ぐるりぐるりと言葉が頭を回る度に打ち消した。何かを言おうと口を開けてまた噤んだ時、甲高い鳴き声が部屋に響いた。自分のベッドから飛んできたエマが俺たちの前を横切り玄関先まで突っ走る。すると間もなく甲高い金属音が響いた。チェーンロックがガチャガチャと擦れる音がしている。
「エマッ」
玄関に走っていったエマはドアに向かって吠えていた。正確には、チェーンロックを壊し侵入しようと試みている男に。
俺が玄関までの廊下の途中で襲われたことがフラッシュバックし突然足が止まり、足の力が抜けるのを見た増田さんは男に近づきすぎたエマを抱き上げ、崩れ落ちた俺に彼女を抱かせた。そして背に庇いドアの向こうの男を見ると驚いたようだった。
「待ってて」と言って、彼はゆっくりとそこににじり寄り、何が起こったのか分からないけれど男が持っていた工具を手放したことが分かった。直後、ドアの外から慌ただしい音が聞こえると増田さんがチェーンロックを外してドアを開けた。警備員がいるようだった。
「……祐奈さんが悲しむと、思わなかったのか」
「祐奈さん?」
「彼のフィアンセ」
え、と取り押さえられた男を見るとまだ若く見える。口を開こうとした俺にタカは首を振って、「てごしはもう寝てな」と言いそのまま自分を抱き上げベッドまで連れていった。その拳は固く握られ、力を込め過ぎて震えている。
「待ってよ!なんで俺を遠ざけるんだよ。当事者は俺だし……」
「無意識に手を震わせてるお前を彼奴の前に連れていきたくないし、何より危ないよ。頼むからここにいて。……ね?」
「……タカも、なんかあったらすぐに来てよ」
「分かってる」
ぎゅっと抱きしめられると、扉を閉じて本当に行ってしまった。何があったのか俺だって知りたいのに…ねぇ?エマは不思議そうに俺を見つめ返す。
ストーキング犯であると思われる男は、話に拠れば婚約者がいるというのになんで俺をあんなにしつこく追いかけ回したりしたのだろうか。婚約期間、式を準備したり細々とした手続きで忙しい時期だが、幸せでたまらないような毎日な筈。俺だったら、結婚式での自分の衣装はもちろん相手の衣装にも口出ししたりするのを想像して、何それ、絶対楽しい時期ではないだろうかと羨ましさすら感じてしまうというのに。こんな三十路に両足突っ込んだ男に何を求めたんだか。動く度に軋む身体への苦い思いを誤魔化すようにエマを引き寄せてベッドに寝転んだ。
電気を消して無理矢理にも寝ようと目を閉じた時、外が騒がしいことに気づいて身を起こすと、「祐也!」とタカの声が聞こえた。暗がりでよく見えない中立ち上がろうとするとドアが開き、その光に目が眩んだ。
刹那、何者かに押し倒され誰かの手が両頬を覆った。右頬に当たる冷たい感触は恋人のものと少し似ていた気がしたが、大きさや肌のかさつきですぐに違うと分かる。
「離せ!!」
「…うな、ゆうな……」
「……誰と間違えてんの」
光に目が慣れて逆光になっている男の顔が見えるようになった。恐怖心がせり上がって突き飛ばそうとして手を突っぱるが、自分では無い誰かを呼ぶ弱い声は酷く苦しそうで抵抗を弱めてしまう。間もなく彼は到着した警官により引き離されたが、あの時の凶暴さは微塵も感じられなかった。ゆうな、という人の名をただただ呼び続けている。その瞳の焦点は部屋の空間を見つめるばかりで、正気には見えなかった。
「何が……」
「祐也、近付くな」
「でも!どうしたんだよあの人」
タカは俺を抱き寄せてその人から距離を取らせる。
「気を病んで薬を始めたって、彼の兄さんから聞いてる」
包帯の巻かれた俺の手首をそっとさすられる。でもその時キラリと光るものが目に映った。指輪、銀のアクセサリー。ふと目の前の男性に目を向ければ彼の左手にはエンゲージリングが嵌っていた。俺を襲った男は、そんなものはつけていないはずだった。
「この人は俺を襲った人じゃない」
その場にいたほぼ全員の視線が俺に向いた。
「指輪なんかつけていなかったし、薬やなんやらをやってるような雰囲気でもなかった……っう、」
「祐也!?」
耳の奥で耳障りな音が響いて、平衡感覚が失われていく。その代わりに薬で靄がかかった記憶が少し蘇る。暖かい腕に受け止められたのは分かり、意識を引き戻そうとしてその背に縋り付いて目を開けば、揺れる視界に写るタカの背後に近寄る見覚えのある影にドクリと心臓が鳴った。
「伏せてッ!」
背に回した腕に力を入れて彼を思い切り引き寄せる。「何してる」と怒鳴る警官の声が聞こえ、足元にサバイバルナイフが滑ってきた。切りつけられた腕に痛みが走る。警官により取り押さえられた警備員の呪詛の籠った鋭利な視線はタカを睨みつけている。
「お前か」と叫んだのは婚約者を喪った男性だった。警官を押し退け男に跨り、その拳を振り上げた。他の警官に羽交い締めにされたが、「ゆうなを返せ、返せ」と悲痛な声で叫び続けた。
「お前のせいで、お前のせいで……!彼女はお前に穢されたせいで命を絶ったんだ」
その言葉を聞いた時、何故か涙が溢れ出た。悲しいのではなくて、『彼女』に自分が重なり、気付いたら口が動いていた。
「あんたは言ったの?その彼女に」
「え?」
敵視するように睨まれる。
「自分の怒りで手一杯になって、本当にフィアンセに寄り添えてなかったんじゃ?」
「そんなこと……!俺は彼女を本当に愛して……お前を穢した奴を絶対捕まえて……」
「なんで、その『彼女』が穢されたなんて言ったんだよ」
「……、え」
「言ってあげた?一言でも……『穢れてなんかいないよ』、って」
男は目を見開き、床にへたりこんだと思うとその後、静かに涙を流した。
「好きな人にそう思われるのがさ、一番恐いんだ…ッ」
「祐也……!」
恋人に今日1番の力で抱き竦められ、胸元に顔を埋めるとタカの匂いしかしなくなる。すると耳にイヤホンがつけられた。タカがよく聞いている洋楽が流れて周りの音が聞こえなくなり、3曲目が終わりそうな時にようやく外されると周りにはもう誰もいなくなっていた。
「他の人達は?」
「もう帰ったよ」
立てる?と伸ばされた手を掴むがよろけてしまって上手く立ち上がれない。彼は両脇に手を通してひょいと俺を持ち上げるとベッドに座らせ、床に膝立ちになった状態で俺を見上げるようにして両頬を包み口付けてくれた。
「本当に、ごめん。手越のこと、少しも守ってあげられなくて……気付いてもいなかった」
「謝らないでって。バレないようにしたのは俺だし……信用されてないって思わせるのが1番嫌だったんだから」
「そう思わせてるのも、ごめん」
「だから、あなたは何も悪くないから……」
「強がった態度とらせてたし」
俺が自分と自分の行動を否定すると彼は逐一それは違うと真っ向から否定した。いつもの十倍は頭が働いているように思えたほどに。
だが、拗らせた心はそれすら受け付けなくて。
「なんでそんなに優しいんだよ」
彼の動きがピタリと止まった。でも自分は、ここが安全だと認識するほどに押し込めてきた感情がどろどろと溢れていくのを止められない。
「俺に不信感持ったりしないの?何も言えずに、結局こんなに迷惑かけて」
本当にダメだ。今日はこの人の前では泣いてばかりになってしまっているというのが情けないのに。
「それでもまだ好きでいてくれてんならさぁ、抱けよ。ねえ、一応病院で診察して洗浄してくれてるから汚くはないはずだよ?
だから、お願い、なにも考えられないくらい滅茶苦茶に……」
「祐也」
少し鋭い視線に怯む。そして後悔した。割と最低なことを言っていたことは自覚していたけれど、少しの間でも忘れたかったんだ。
すいと鎖骨にそわせられる指は優しい。見上げた瞳も柔らかかった。
「聞いて、祐也」
いくつかのクッションの立てかけられたところに背を預けるように誘導されて、何をされるかと思えばただ静かに手を取られ、甲にキスされる。ポカンとしている俺を他所に彼は甲から手首、腕、布越しの上腕から首筋と、辿っていくようにキスをして、最後に唇に口付けた。
「俺がどれだけお前が好きか、ちゃんと分かってよ」
おもむろに右足首に手をやって足の甲に口を近付けるから、驚いて彼の口に手を当て後ろに遠ざけようとするけれど、
「だーめ」
そう言って手を絡められ、次は本当に足の甲に口付けると手を握り直した。
「好きなんだって。てごし自身も、つま先から旋毛まで……ここも、ここもね」
足を伝って内腿、上がって脇腹、胸、鎖骨、首筋……仕上げに顔中にキスが降らされる。太腿に数回に分けて口付けられた時は恥ずかしくて仕方がなかった。「ここ、柔らかくて気持ちいい」だなんて沸いたことを言ってくれるのは、彼からの変わらない愛情が伝ってきて嬉しい。とっても。
この温かさに今すぐ縋り付いてしまいたい。でも、今まで言い出せずに散々自分を追い込んでトラウマまでこさえた己が情けなくて悔しくて。
勝手に涙が出てきそうになるのを必死に堪える。泣くのも恥ずかしく感じた。自分の不注意で他の野郎に触られた身体を触って貰うのも申し訳なくなって、その胸に手を当てて自分から遠ざけてしまった。
「ごめん……ちょっと、時間空けさせて?」
彼の顔を見る勇気はなかった。数秒の間を置いて、静かに頷く気配がする。
「分かった。いつだって呼んでいいから」
足音から、部屋を出るまで3度程振り返って俺の姿を見てから部屋を出たようだった。扉の閉まる音がした。
毛布に顔を埋めて考え込む。俺は、愛されている。彼は本当に俺を愛してくれている。付き合いが古いからお互いに扱いが雑になったりもしがちだけれど、彼は歳を重ねるほどに自分を深く染み込み根付くような愛で包んでくれていた。そういう意味でも俺は自分が好きだった。彼から愛されている自分が、この身体も含めて好きだった、のに。
気付けば涙が堰を切ったように溢れだしている。酷い顔をしてる。多分。
こんな顔を彼に見られたくなくて、こんな弱った自分も見られたくない。もうバレてるのかもしれないけれど、この身体で彼に縋ってしまいそうなのが怖かった。
「たか……たか、」
「なあに?」
包み込むようなまぁるい声が聞こえて涙が止まるほど驚き勢いよく顔を上げると、すぐそばに彼がいて思わず後方に飛び退いた。
「なんで……」
「手越が気付かなかっただけで、俺は部屋出てないから。なんて言われても今のお前はほっとけないよ」
頬に手を当てられ包まれる。かと思うと、ぐいっと強めの力で摘まれた。痛え痛えと騒いでるうちについまた涙が滲んで、何故かそのまま止まらなくなってしまう。
「待って、最悪…止まんない」
「俺に意地なんて張らなくていいから」
彼はベッドに座ると俺の肩を引き寄せ鼻の頭に口付けて、肌蹴たバスローブを元に戻す。
「何をすればよかったとか、考えが浅かったとかそんなことはどうでもいいの。……怖かっただろ、絶対」
そ言われても意地を捨て切れぬ自分に、半ば懇願するような眼差しでタカは言った。
「……祐也」
「…ッ……」
「ゆうや」
「た、……た、か…!!」
胸に額をくっつけるように誘導されるがまま胸元に縋り付いた。
「ふ、ぅッ…ぅえ、…たか、たか!」
「うん」
「怖い、怖く…て、何度もタカに……」
「本当は言いたかった?」
「…うん、……ヒグッ、うぅ」
しゃくりあげて嗚咽すると背を手で撫でられる。そして強く抱きすくめられた。
「言いたいって思われただけでも嬉しい。頼りないって思われてたら流石に傷付くし」
「んなわけない……!」
ぴったりくっついた胸越しの、彼の深い呼吸を感じる。
「……そうか、よかった」
それからタカは俺が泣き止むまでずっと抱き締めてくれていた。何度か、いや何度も俺は「ごめん、ごめんなさい」と謝った。貴方に大事にされていた自分の体を碌でもない奴に触らせて、ひび割れて……もうすぐパリンといってしまいそうなところで、あなたにキスされ、体温を分け与えられてやっと割れ目がくっつきそうになっているけれど、ひび割れた箇所はまだ変わらない。押し付けられた右肩には痣があるし、乱暴された箇所もいつ治るか分からない。初めてこの人とシたときでさえ切れなかったのに。どれだけ大切にされていたかが身に染みてわかった。
「その事はもういい。良くないけど、ここに手越がいるんならいい」
真っ赤になっているであろう目を擦る俺の手を止め、痣の色濃い肩に口付けるとカッターの歯で切り傷のついた太腿を労わるように撫でてくれた。彼の右手は温かくて体温が上がるような気さえする。
「手越、」
少し畏まったような彼の声を聞き、はたと顔を上げる。声の通り真剣味を帯びた表情に自然と背筋が伸びた。
「提案なんだけどさ……一緒に、住まない?」
「……、へ?」
これは現実かと、開閉を繰り返した目から溜まったままになった涙が次へ次へと流れ出す。途中から新たに生成されたものも混じってきたせいでまた泣きべそをかく羽目になった。
「なんで、あなたそういうの嫌いじゃん。俺なんかが入っていいのかよ。あなたの中に」
「入っていいから言ってんの。こんなことがあったら心配で夜も眠れねーし、1人にしておけない。言うことがあるとすれば、衣装部屋にはエマ用の通せんぼ的なのを入口に付けてくれれば100点満点だな」
そんなことを恋人は、マシュマロみたいな笑顔と柔らかい声色、あと無骨な手を頭に添え撫でながら言った。
そんなの、泣かしに来ている以外の何物でもないだろう。意味を理解したらまた涙ぐみだした俺をそっと暖かい胸の中に包んで、しかと抱きしめると2人でベッドに寝転び口元まで布団をかけられる。
「さっきのって、本気?」
「じゃなきゃあんなこと言わない」
嬉しさで、酷い記憶が薄らいでいく。やはり彼の腕の中では自分は安心できるようだ。この匂いのせいか、この柔らかさのせいか……。
例のごとく俺は簡単に眠りに落ちてしまった。
「お〜エマ、ただいま〜」
「おかえり、てごし」
「ただいま!」
「今日は山崎さんとのリハだったよね。ちゃんと車で送って貰った?」
「……言い方がなんか…。送ってもらったは貰ったけどマネージャーにね」
「ふふ、ごめんって。で、調子はどうだった?」
「いい感じよ。でもやっぱスタイルいいよね〜育三郎さん。白のタキシードがまあほんとに似合う」
「てごしが一番似合うのは俺がデザインした衣装だもんね」
「そりゃそうよ。でもさ、向こうは普通のタキシードなのに何故か俺のシャツだけフリル付いてたんだけど!スタッフさん考えてるよね〜」
「……ふうん、白のタキシードねぇ……結婚式かよ」
俺が少し拗ねているらしいのが逆に嬉しいのか、手を洗うとエマを抱き上げて俺の隣にぴったりと座った。
「もう俺は一緒に住んでる時点でほぼ結婚してるつもりだったんだけど、あなたは違うの?」
「違わない」
「じゃあキスしてよ」
むっと突き出された口に仕方ないなとキスをすると彼は嬉しそうに笑った。
引っ越してから二週間はストーカー被害の記憶が薄れず、家に帰っても落ち着かなかったりしていた彼は最近になってようやくいつもの調子を取り戻したらしい。ちょっとした物音に肩を震わせることも、あるはずも無い視線に身を強ばらせることも無くなった。それに加えて、乱暴を強いられた身体に残った傷……床に押し付けられた肩から鎖骨までの痣や太腿の切り傷、そして警備員に扮した本当のストーカー犯に切り付けられた腕も、薄く赤い痕が残るだけでこのままいったら綺麗に治りそうだ。
「ねえ、タカ」
少し顔色に真剣味を帯びさせて彼は言う。
「もうそろそろ……だめ?」
「えっ」
ボトムスを軽く掴み上目遣いに俺を見てそう問いかけ、手を取ってそっと握る。
「もう大丈夫。下も……治ったし。一応出来るだけ広げておいたから支障はないよ」
「てご……でも、」
────まだ怖いでしょ?
そう言いかけ口を噤む。彼の大きな瞳に水の膜が張っていたから。手を薄い肩に置いて前傾気味になった体を元に戻せば、拒絶されたと思ったのかまた傷ついたような表情をした。
違うよ、そういうんじゃない。
おでこと瞼にキスをして、白くなっている唇に指を滑らす。
「俺は心配なだけ」
「心配なんて……!」
「するよ、するに決まってる。恋人でしょ?不可抗力だ」
肩に置いていた手を伸ばし愛しい体を包み込む。すればすぐに自分のそれらより細くて、少し短い両腕できつく抱き着いてきた。鼻をスンと啜る音まで聞こえてきて、ああ彼は本当に俺を好きでいてくれているんだと再確認する。
だったら尚更優しくしてあげないとね。
「もし、怖いって思ったらいつでも言って。落ち着くまで待つから。あと、して欲しいことがあったらなんでも言って。いつもより多く叶えてあげる」
「……手、俺の左手、ずっと握ってて」
「うん」
「なまえ、呼んで。何回も」
「うん」
「電気は消さないで」
「おー、恥ずいな。でもいいよ。あとは?」
「えっと…後ろからは……しないで欲しい。多分、まだ、怖い」
「しないよ」
「あとは……いい。あなたがいてくれるんなら、それでいい」
「そっか」
おでこをくっつけ合ってにこりと微笑めば、彼も綺麗に笑って俺の笑窪を軽くつついた。そして横から膝に飛び乗ったエマにぺろりと涙を舐め取られる。
「もう、塩分摂りすぎになっちゃったらどうすんの」
エマは明るく鳴いて、手越が笑ったのを見ると満足そうにケージに入り寝る体勢になった。本当に、物分りのいい子で助かる。
「行こうか」と手を引いてベッドに優しく横たえ、自分の左手と彼の右手を絡めて握り、キスをする。シーツの上に横たわる彼を見るのは久しぶりで、その視覚情報だけで重くなる腰に呆れた。優しくするって決めただろ、俺。
頬に口付け、確かめるように言う。
「愛してるよ、祐也」
「……うん」
半月ぶりに触る肌は少しひやりとしていて、かつ滑らか。今まで半月以上できなかった時もあったけれど今回は勝手が違う。今まで以上にゆっくり、ゆっくりとことを進めた。度々彼の息が浅くなるのを見て止まったりキスしたりして気を紛らわすと、薄い色の瞳をさらに潤ませて笑ってくれた。いつも前戯はそんなに長い方だとは思っていないが、今回はいつもの倍近く時間をかけて痩せた体を愛撫して蕾を緩めた。
「いい……ッ、もう、やぁ…ッ!」
すすり泣くように喘ぎ始めてから少しして、やっと俺は彼の中に入っていった。挿れる時はだいぶキツそうに顔を歪めていた彼だが、完全に入り切ると俺の両頬を包み込み涙を流しながら柔く微笑む。ふわりと音がするような、全てを俺に任せるような笑顔だった。
「……か、たか……!」
「ッ祐也、いいよ。イッて」
「ふ…ぅッ…あああッ!!」
できるだけ優しくしようと思っていたのだが、彼は意外にも強く求め俺を煽った。それに応えれば嬉しそうにして感じるものだから、予定よりも長い時間抱き合った。いつもよりもゆっくり、いつもよりもキスは多めで。
そしてなんだかんだ3回戦までキメたあと、2人してベッドに脱力した。
「……ッは、はぁ、う…」
「はーーー……」
「たか、重……」
「ん」
上から退いて横に転がり、汗ばんだ腰に腕を回して引き寄せ抱きしめる。
「痩せたね」
「そう?」
「うん。腰周りめっちゃ細い」
「でも最近顔周り丸っこいし……」
「かわいいよ」
また少し笑った顔が可愛くて、頬に唇を押し付ける。「眠い?」と聞いたら頷いたので、そのまま背をとんとんと叩いていればストンと眠りに落ちた。後処理をして、隣に潜り込んでから朝を迎えるまで、彼が身を震わせて飛び起きることは無かった。エマと俺たち2人だけ。たかだかマンションの一室だけれど、この平和な箱庭のような空間で暮らせているのが幸せだ。彼に湯たんぽと形容される体温の高い身体を押し付けるようにして抱きしめて、彼に続き眠りに落ちていった。
ーーーーーーーーー
本日のグループ撮影にて、楽屋の一室。
携帯を弄るまっすーの肩にこてんと寄り掛かるピンクヘアーは、珍しく仕事後にすぐ帰らずすよすよと安心しきった表情で眠っている。この前の事件は本当に心配だったけど、何とか解決したようで本当にホッとした。ちょっと前までは歩きながらでも視線を感じるのか辺りをよく見回していたけれどそれも無くなった。PCとにらめっこしていたシゲもこの2人の様子を見て何気に頬を緩ませている。
まー、増田さんも優しそうな顔しちゃって。こんなマシュマロみたいな子があんな怖い顔できるなんて思いもしなかったよ。
怖い顔……っていうのは、増田さんが事情の説明のために署に行った時にマネージャーと俺が付き添うことになって。自分が行ったのは、実は俺のとこにも件のカッターメールが送られてきてたからなんだけどね。あの時手越がサッと血の気を引かせたから俺は言ってなかったんだけど。一緒に飲みに行ったとこを見られたのか、とにかくストーカー犯は手越に近いっぽい人をとにかく攻撃したかったらしいから。
そこの帰り、ちょっとありえないことが起きちゃって。その犯人と鉢合わせたんだ。もちろん拘束されて警察官の人3人に固められてたんだけど、自分の動ける範囲で増田さんに攻撃を仕掛けようとして前傾気味で噛み付こうとするみたいに詰め寄ってきたんだよ。ほんと、びっくりした。咄嗟に増田さんを背に庇ってその男から引き離したんだけど、その一瞬の間に背中にいるまっすーがね、小さな声で言ったのよ。警察官の人達には聞こえないくらいの小さな、でも相手には聞こえる絶妙なボリュームで。
────彼奴は俺のだから。お前がどんなことをしようともね、残念 。
案の定怒り狂った男は尚更噛み付こうとしてきた。まるで獣だったよ。俺は増田さんに腕を引かれて、男は警察官に取り押さえられて事態は収束したんだけどね。守ろうとしたくせああいう怒鳴り声をあげる人が苦手だからビビっちゃった俺にまっすーは『こやま大丈夫?ありがたかったけど、危ないよ』なんていつもの優しーい丸っこい声で言ってて。さっきの嘲りと怒りを短い文に詰め込んだような声は一体全体どこから出したのか。
ま、全ては愛から、なんだろうけどさ。自分の友達の弟君を利用されたのもあるとは思うけど。
今度はさっきまでスマホを見ていたまっすーまで眠って、お互いの肩と頭を枕にし合っている可愛いカップルに毛布をかけてやりながら平和極まりない光景を観察する。事件の解決に伴ってちゃっかり同棲まで解禁しちゃった2人の安らかで子供みたいな寝顔を見たら、こっちまで気持ちが暖かくなってきて眠たくなってくる。
ふあ、とあくびが漏れる。暇を持て余しているのなら、絶賛執筆中のシゲちゃんとおねむなテゴマスのためにコーヒーでも買ってこようか。可愛い寝顔を見たら冬の寒さなんてどこかに飛んで行ってしまう。
……まあ、あの時横目でちらりと見えた増田さんの冷ややかな瞳を思い出せば今でも背筋がヒヤリと凍るけど。
「さっきはごめん。本当に。ひどい当たり方した」
「ううん、怒らせた理由も分かってるし。っていうか俺が悪い。……それに」
1度言葉を止めると顔を覗き込まれる。
あのね、タカから電話が来た時、今まで何があったか言おうって思って、そう決めてたんだよ。でもさっきあなたが来て、俺に怒った時、なんか嬉しいって思った自分がいた。俺を想って、怒ってくれた。まだ知られていない、嫌われてない……そう思ったら隠していたらいいじゃないかとおもって、1回否定したら意地張って何もないって嘘ついて。ごめんなさい。ごめんなさい……
ぐるりぐるりと言葉が頭を回る度に打ち消した。何かを言おうと口を開けてまた噤んだ時、甲高い鳴き声が部屋に響いた。自分のベッドから飛んできたエマが俺たちの前を横切り玄関先まで突っ走る。すると間もなく甲高い金属音が響いた。チェーンロックがガチャガチャと擦れる音がしている。
「エマッ」
玄関に走っていったエマはドアに向かって吠えていた。正確には、チェーンロックを壊し侵入しようと試みている男に。
俺が玄関までの廊下の途中で襲われたことがフラッシュバックし突然足が止まり、足の力が抜けるのを見た増田さんは男に近づきすぎたエマを抱き上げ、崩れ落ちた俺に彼女を抱かせた。そして背に庇いドアの向こうの男を見ると驚いたようだった。
「待ってて」と言って、彼はゆっくりとそこににじり寄り、何が起こったのか分からないけれど男が持っていた工具を手放したことが分かった。直後、ドアの外から慌ただしい音が聞こえると増田さんがチェーンロックを外してドアを開けた。警備員がいるようだった。
「……祐奈さんが悲しむと、思わなかったのか」
「祐奈さん?」
「彼のフィアンセ」
え、と取り押さえられた男を見るとまだ若く見える。口を開こうとした俺にタカは首を振って、「てごしはもう寝てな」と言いそのまま自分を抱き上げベッドまで連れていった。その拳は固く握られ、力を込め過ぎて震えている。
「待ってよ!なんで俺を遠ざけるんだよ。当事者は俺だし……」
「無意識に手を震わせてるお前を彼奴の前に連れていきたくないし、何より危ないよ。頼むからここにいて。……ね?」
「……タカも、なんかあったらすぐに来てよ」
「分かってる」
ぎゅっと抱きしめられると、扉を閉じて本当に行ってしまった。何があったのか俺だって知りたいのに…ねぇ?エマは不思議そうに俺を見つめ返す。
ストーキング犯であると思われる男は、話に拠れば婚約者がいるというのになんで俺をあんなにしつこく追いかけ回したりしたのだろうか。婚約期間、式を準備したり細々とした手続きで忙しい時期だが、幸せでたまらないような毎日な筈。俺だったら、結婚式での自分の衣装はもちろん相手の衣装にも口出ししたりするのを想像して、何それ、絶対楽しい時期ではないだろうかと羨ましさすら感じてしまうというのに。こんな三十路に両足突っ込んだ男に何を求めたんだか。動く度に軋む身体への苦い思いを誤魔化すようにエマを引き寄せてベッドに寝転んだ。
電気を消して無理矢理にも寝ようと目を閉じた時、外が騒がしいことに気づいて身を起こすと、「祐也!」とタカの声が聞こえた。暗がりでよく見えない中立ち上がろうとするとドアが開き、その光に目が眩んだ。
刹那、何者かに押し倒され誰かの手が両頬を覆った。右頬に当たる冷たい感触は恋人のものと少し似ていた気がしたが、大きさや肌のかさつきですぐに違うと分かる。
「離せ!!」
「…うな、ゆうな……」
「……誰と間違えてんの」
光に目が慣れて逆光になっている男の顔が見えるようになった。恐怖心がせり上がって突き飛ばそうとして手を突っぱるが、自分では無い誰かを呼ぶ弱い声は酷く苦しそうで抵抗を弱めてしまう。間もなく彼は到着した警官により引き離されたが、あの時の凶暴さは微塵も感じられなかった。ゆうな、という人の名をただただ呼び続けている。その瞳の焦点は部屋の空間を見つめるばかりで、正気には見えなかった。
「何が……」
「祐也、近付くな」
「でも!どうしたんだよあの人」
タカは俺を抱き寄せてその人から距離を取らせる。
「気を病んで薬を始めたって、彼の兄さんから聞いてる」
包帯の巻かれた俺の手首をそっとさすられる。でもその時キラリと光るものが目に映った。指輪、銀のアクセサリー。ふと目の前の男性に目を向ければ彼の左手にはエンゲージリングが嵌っていた。俺を襲った男は、そんなものはつけていないはずだった。
「この人は俺を襲った人じゃない」
その場にいたほぼ全員の視線が俺に向いた。
「指輪なんかつけていなかったし、薬やなんやらをやってるような雰囲気でもなかった……っう、」
「祐也!?」
耳の奥で耳障りな音が響いて、平衡感覚が失われていく。その代わりに薬で靄がかかった記憶が少し蘇る。暖かい腕に受け止められたのは分かり、意識を引き戻そうとしてその背に縋り付いて目を開けば、揺れる視界に写るタカの背後に近寄る見覚えのある影にドクリと心臓が鳴った。
「伏せてッ!」
背に回した腕に力を入れて彼を思い切り引き寄せる。「何してる」と怒鳴る警官の声が聞こえ、足元にサバイバルナイフが滑ってきた。切りつけられた腕に痛みが走る。警官により取り押さえられた警備員の呪詛の籠った鋭利な視線はタカを睨みつけている。
「お前か」と叫んだのは婚約者を喪った男性だった。警官を押し退け男に跨り、その拳を振り上げた。他の警官に羽交い締めにされたが、「ゆうなを返せ、返せ」と悲痛な声で叫び続けた。
「お前のせいで、お前のせいで……!彼女はお前に穢されたせいで命を絶ったんだ」
その言葉を聞いた時、何故か涙が溢れ出た。悲しいのではなくて、『彼女』に自分が重なり、気付いたら口が動いていた。
「あんたは言ったの?その彼女に」
「え?」
敵視するように睨まれる。
「自分の怒りで手一杯になって、本当にフィアンセに寄り添えてなかったんじゃ?」
「そんなこと……!俺は彼女を本当に愛して……お前を穢した奴を絶対捕まえて……」
「なんで、その『彼女』が穢されたなんて言ったんだよ」
「……、え」
「言ってあげた?一言でも……『穢れてなんかいないよ』、って」
男は目を見開き、床にへたりこんだと思うとその後、静かに涙を流した。
「好きな人にそう思われるのがさ、一番恐いんだ…ッ」
「祐也……!」
恋人に今日1番の力で抱き竦められ、胸元に顔を埋めるとタカの匂いしかしなくなる。すると耳にイヤホンがつけられた。タカがよく聞いている洋楽が流れて周りの音が聞こえなくなり、3曲目が終わりそうな時にようやく外されると周りにはもう誰もいなくなっていた。
「他の人達は?」
「もう帰ったよ」
立てる?と伸ばされた手を掴むがよろけてしまって上手く立ち上がれない。彼は両脇に手を通してひょいと俺を持ち上げるとベッドに座らせ、床に膝立ちになった状態で俺を見上げるようにして両頬を包み口付けてくれた。
「本当に、ごめん。手越のこと、少しも守ってあげられなくて……気付いてもいなかった」
「謝らないでって。バレないようにしたのは俺だし……信用されてないって思わせるのが1番嫌だったんだから」
「そう思わせてるのも、ごめん」
「だから、あなたは何も悪くないから……」
「強がった態度とらせてたし」
俺が自分と自分の行動を否定すると彼は逐一それは違うと真っ向から否定した。いつもの十倍は頭が働いているように思えたほどに。
だが、拗らせた心はそれすら受け付けなくて。
「なんでそんなに優しいんだよ」
彼の動きがピタリと止まった。でも自分は、ここが安全だと認識するほどに押し込めてきた感情がどろどろと溢れていくのを止められない。
「俺に不信感持ったりしないの?何も言えずに、結局こんなに迷惑かけて」
本当にダメだ。今日はこの人の前では泣いてばかりになってしまっているというのが情けないのに。
「それでもまだ好きでいてくれてんならさぁ、抱けよ。ねえ、一応病院で診察して洗浄してくれてるから汚くはないはずだよ?
だから、お願い、なにも考えられないくらい滅茶苦茶に……」
「祐也」
少し鋭い視線に怯む。そして後悔した。割と最低なことを言っていたことは自覚していたけれど、少しの間でも忘れたかったんだ。
すいと鎖骨にそわせられる指は優しい。見上げた瞳も柔らかかった。
「聞いて、祐也」
いくつかのクッションの立てかけられたところに背を預けるように誘導されて、何をされるかと思えばただ静かに手を取られ、甲にキスされる。ポカンとしている俺を他所に彼は甲から手首、腕、布越しの上腕から首筋と、辿っていくようにキスをして、最後に唇に口付けた。
「俺がどれだけお前が好きか、ちゃんと分かってよ」
おもむろに右足首に手をやって足の甲に口を近付けるから、驚いて彼の口に手を当て後ろに遠ざけようとするけれど、
「だーめ」
そう言って手を絡められ、次は本当に足の甲に口付けると手を握り直した。
「好きなんだって。てごし自身も、つま先から旋毛まで……ここも、ここもね」
足を伝って内腿、上がって脇腹、胸、鎖骨、首筋……仕上げに顔中にキスが降らされる。太腿に数回に分けて口付けられた時は恥ずかしくて仕方がなかった。「ここ、柔らかくて気持ちいい」だなんて沸いたことを言ってくれるのは、彼からの変わらない愛情が伝ってきて嬉しい。とっても。
この温かさに今すぐ縋り付いてしまいたい。でも、今まで言い出せずに散々自分を追い込んでトラウマまでこさえた己が情けなくて悔しくて。
勝手に涙が出てきそうになるのを必死に堪える。泣くのも恥ずかしく感じた。自分の不注意で他の野郎に触られた身体を触って貰うのも申し訳なくなって、その胸に手を当てて自分から遠ざけてしまった。
「ごめん……ちょっと、時間空けさせて?」
彼の顔を見る勇気はなかった。数秒の間を置いて、静かに頷く気配がする。
「分かった。いつだって呼んでいいから」
足音から、部屋を出るまで3度程振り返って俺の姿を見てから部屋を出たようだった。扉の閉まる音がした。
毛布に顔を埋めて考え込む。俺は、愛されている。彼は本当に俺を愛してくれている。付き合いが古いからお互いに扱いが雑になったりもしがちだけれど、彼は歳を重ねるほどに自分を深く染み込み根付くような愛で包んでくれていた。そういう意味でも俺は自分が好きだった。彼から愛されている自分が、この身体も含めて好きだった、のに。
気付けば涙が堰を切ったように溢れだしている。酷い顔をしてる。多分。
こんな顔を彼に見られたくなくて、こんな弱った自分も見られたくない。もうバレてるのかもしれないけれど、この身体で彼に縋ってしまいそうなのが怖かった。
「たか……たか、」
「なあに?」
包み込むようなまぁるい声が聞こえて涙が止まるほど驚き勢いよく顔を上げると、すぐそばに彼がいて思わず後方に飛び退いた。
「なんで……」
「手越が気付かなかっただけで、俺は部屋出てないから。なんて言われても今のお前はほっとけないよ」
頬に手を当てられ包まれる。かと思うと、ぐいっと強めの力で摘まれた。痛え痛えと騒いでるうちについまた涙が滲んで、何故かそのまま止まらなくなってしまう。
「待って、最悪…止まんない」
「俺に意地なんて張らなくていいから」
彼はベッドに座ると俺の肩を引き寄せ鼻の頭に口付けて、肌蹴たバスローブを元に戻す。
「何をすればよかったとか、考えが浅かったとかそんなことはどうでもいいの。……怖かっただろ、絶対」
そ言われても意地を捨て切れぬ自分に、半ば懇願するような眼差しでタカは言った。
「……祐也」
「…ッ……」
「ゆうや」
「た、……た、か…!!」
胸に額をくっつけるように誘導されるがまま胸元に縋り付いた。
「ふ、ぅッ…ぅえ、…たか、たか!」
「うん」
「怖い、怖く…て、何度もタカに……」
「本当は言いたかった?」
「…うん、……ヒグッ、うぅ」
しゃくりあげて嗚咽すると背を手で撫でられる。そして強く抱きすくめられた。
「言いたいって思われただけでも嬉しい。頼りないって思われてたら流石に傷付くし」
「んなわけない……!」
ぴったりくっついた胸越しの、彼の深い呼吸を感じる。
「……そうか、よかった」
それからタカは俺が泣き止むまでずっと抱き締めてくれていた。何度か、いや何度も俺は「ごめん、ごめんなさい」と謝った。貴方に大事にされていた自分の体を碌でもない奴に触らせて、ひび割れて……もうすぐパリンといってしまいそうなところで、あなたにキスされ、体温を分け与えられてやっと割れ目がくっつきそうになっているけれど、ひび割れた箇所はまだ変わらない。押し付けられた右肩には痣があるし、乱暴された箇所もいつ治るか分からない。初めてこの人とシたときでさえ切れなかったのに。どれだけ大切にされていたかが身に染みてわかった。
「その事はもういい。良くないけど、ここに手越がいるんならいい」
真っ赤になっているであろう目を擦る俺の手を止め、痣の色濃い肩に口付けるとカッターの歯で切り傷のついた太腿を労わるように撫でてくれた。彼の右手は温かくて体温が上がるような気さえする。
「手越、」
少し畏まったような彼の声を聞き、はたと顔を上げる。声の通り真剣味を帯びた表情に自然と背筋が伸びた。
「提案なんだけどさ……一緒に、住まない?」
「……、へ?」
これは現実かと、開閉を繰り返した目から溜まったままになった涙が次へ次へと流れ出す。途中から新たに生成されたものも混じってきたせいでまた泣きべそをかく羽目になった。
「なんで、あなたそういうの嫌いじゃん。俺なんかが入っていいのかよ。あなたの中に」
「入っていいから言ってんの。こんなことがあったら心配で夜も眠れねーし、1人にしておけない。言うことがあるとすれば、衣装部屋にはエマ用の通せんぼ的なのを入口に付けてくれれば100点満点だな」
そんなことを恋人は、マシュマロみたいな笑顔と柔らかい声色、あと無骨な手を頭に添え撫でながら言った。
そんなの、泣かしに来ている以外の何物でもないだろう。意味を理解したらまた涙ぐみだした俺をそっと暖かい胸の中に包んで、しかと抱きしめると2人でベッドに寝転び口元まで布団をかけられる。
「さっきのって、本気?」
「じゃなきゃあんなこと言わない」
嬉しさで、酷い記憶が薄らいでいく。やはり彼の腕の中では自分は安心できるようだ。この匂いのせいか、この柔らかさのせいか……。
例のごとく俺は簡単に眠りに落ちてしまった。
「お〜エマ、ただいま〜」
「おかえり、てごし」
「ただいま!」
「今日は山崎さんとのリハだったよね。ちゃんと車で送って貰った?」
「……言い方がなんか…。送ってもらったは貰ったけどマネージャーにね」
「ふふ、ごめんって。で、調子はどうだった?」
「いい感じよ。でもやっぱスタイルいいよね〜育三郎さん。白のタキシードがまあほんとに似合う」
「てごしが一番似合うのは俺がデザインした衣装だもんね」
「そりゃそうよ。でもさ、向こうは普通のタキシードなのに何故か俺のシャツだけフリル付いてたんだけど!スタッフさん考えてるよね〜」
「……ふうん、白のタキシードねぇ……結婚式かよ」
俺が少し拗ねているらしいのが逆に嬉しいのか、手を洗うとエマを抱き上げて俺の隣にぴったりと座った。
「もう俺は一緒に住んでる時点でほぼ結婚してるつもりだったんだけど、あなたは違うの?」
「違わない」
「じゃあキスしてよ」
むっと突き出された口に仕方ないなとキスをすると彼は嬉しそうに笑った。
引っ越してから二週間はストーカー被害の記憶が薄れず、家に帰っても落ち着かなかったりしていた彼は最近になってようやくいつもの調子を取り戻したらしい。ちょっとした物音に肩を震わせることも、あるはずも無い視線に身を強ばらせることも無くなった。それに加えて、乱暴を強いられた身体に残った傷……床に押し付けられた肩から鎖骨までの痣や太腿の切り傷、そして警備員に扮した本当のストーカー犯に切り付けられた腕も、薄く赤い痕が残るだけでこのままいったら綺麗に治りそうだ。
「ねえ、タカ」
少し顔色に真剣味を帯びさせて彼は言う。
「もうそろそろ……だめ?」
「えっ」
ボトムスを軽く掴み上目遣いに俺を見てそう問いかけ、手を取ってそっと握る。
「もう大丈夫。下も……治ったし。一応出来るだけ広げておいたから支障はないよ」
「てご……でも、」
────まだ怖いでしょ?
そう言いかけ口を噤む。彼の大きな瞳に水の膜が張っていたから。手を薄い肩に置いて前傾気味になった体を元に戻せば、拒絶されたと思ったのかまた傷ついたような表情をした。
違うよ、そういうんじゃない。
おでこと瞼にキスをして、白くなっている唇に指を滑らす。
「俺は心配なだけ」
「心配なんて……!」
「するよ、するに決まってる。恋人でしょ?不可抗力だ」
肩に置いていた手を伸ばし愛しい体を包み込む。すればすぐに自分のそれらより細くて、少し短い両腕できつく抱き着いてきた。鼻をスンと啜る音まで聞こえてきて、ああ彼は本当に俺を好きでいてくれているんだと再確認する。
だったら尚更優しくしてあげないとね。
「もし、怖いって思ったらいつでも言って。落ち着くまで待つから。あと、して欲しいことがあったらなんでも言って。いつもより多く叶えてあげる」
「……手、俺の左手、ずっと握ってて」
「うん」
「なまえ、呼んで。何回も」
「うん」
「電気は消さないで」
「おー、恥ずいな。でもいいよ。あとは?」
「えっと…後ろからは……しないで欲しい。多分、まだ、怖い」
「しないよ」
「あとは……いい。あなたがいてくれるんなら、それでいい」
「そっか」
おでこをくっつけ合ってにこりと微笑めば、彼も綺麗に笑って俺の笑窪を軽くつついた。そして横から膝に飛び乗ったエマにぺろりと涙を舐め取られる。
「もう、塩分摂りすぎになっちゃったらどうすんの」
エマは明るく鳴いて、手越が笑ったのを見ると満足そうにケージに入り寝る体勢になった。本当に、物分りのいい子で助かる。
「行こうか」と手を引いてベッドに優しく横たえ、自分の左手と彼の右手を絡めて握り、キスをする。シーツの上に横たわる彼を見るのは久しぶりで、その視覚情報だけで重くなる腰に呆れた。優しくするって決めただろ、俺。
頬に口付け、確かめるように言う。
「愛してるよ、祐也」
「……うん」
半月ぶりに触る肌は少しひやりとしていて、かつ滑らか。今まで半月以上できなかった時もあったけれど今回は勝手が違う。今まで以上にゆっくり、ゆっくりとことを進めた。度々彼の息が浅くなるのを見て止まったりキスしたりして気を紛らわすと、薄い色の瞳をさらに潤ませて笑ってくれた。いつも前戯はそんなに長い方だとは思っていないが、今回はいつもの倍近く時間をかけて痩せた体を愛撫して蕾を緩めた。
「いい……ッ、もう、やぁ…ッ!」
すすり泣くように喘ぎ始めてから少しして、やっと俺は彼の中に入っていった。挿れる時はだいぶキツそうに顔を歪めていた彼だが、完全に入り切ると俺の両頬を包み込み涙を流しながら柔く微笑む。ふわりと音がするような、全てを俺に任せるような笑顔だった。
「……か、たか……!」
「ッ祐也、いいよ。イッて」
「ふ…ぅッ…あああッ!!」
できるだけ優しくしようと思っていたのだが、彼は意外にも強く求め俺を煽った。それに応えれば嬉しそうにして感じるものだから、予定よりも長い時間抱き合った。いつもよりもゆっくり、いつもよりもキスは多めで。
そしてなんだかんだ3回戦までキメたあと、2人してベッドに脱力した。
「……ッは、はぁ、う…」
「はーーー……」
「たか、重……」
「ん」
上から退いて横に転がり、汗ばんだ腰に腕を回して引き寄せ抱きしめる。
「痩せたね」
「そう?」
「うん。腰周りめっちゃ細い」
「でも最近顔周り丸っこいし……」
「かわいいよ」
また少し笑った顔が可愛くて、頬に唇を押し付ける。「眠い?」と聞いたら頷いたので、そのまま背をとんとんと叩いていればストンと眠りに落ちた。後処理をして、隣に潜り込んでから朝を迎えるまで、彼が身を震わせて飛び起きることは無かった。エマと俺たち2人だけ。たかだかマンションの一室だけれど、この平和な箱庭のような空間で暮らせているのが幸せだ。彼に湯たんぽと形容される体温の高い身体を押し付けるようにして抱きしめて、彼に続き眠りに落ちていった。
ーーーーーーーーー
本日のグループ撮影にて、楽屋の一室。
携帯を弄るまっすーの肩にこてんと寄り掛かるピンクヘアーは、珍しく仕事後にすぐ帰らずすよすよと安心しきった表情で眠っている。この前の事件は本当に心配だったけど、何とか解決したようで本当にホッとした。ちょっと前までは歩きながらでも視線を感じるのか辺りをよく見回していたけれどそれも無くなった。PCとにらめっこしていたシゲもこの2人の様子を見て何気に頬を緩ませている。
まー、増田さんも優しそうな顔しちゃって。こんなマシュマロみたいな子があんな怖い顔できるなんて思いもしなかったよ。
怖い顔……っていうのは、増田さんが事情の説明のために署に行った時にマネージャーと俺が付き添うことになって。自分が行ったのは、実は俺のとこにも件のカッターメールが送られてきてたからなんだけどね。あの時手越がサッと血の気を引かせたから俺は言ってなかったんだけど。一緒に飲みに行ったとこを見られたのか、とにかくストーカー犯は手越に近いっぽい人をとにかく攻撃したかったらしいから。
そこの帰り、ちょっとありえないことが起きちゃって。その犯人と鉢合わせたんだ。もちろん拘束されて警察官の人3人に固められてたんだけど、自分の動ける範囲で増田さんに攻撃を仕掛けようとして前傾気味で噛み付こうとするみたいに詰め寄ってきたんだよ。ほんと、びっくりした。咄嗟に増田さんを背に庇ってその男から引き離したんだけど、その一瞬の間に背中にいるまっすーがね、小さな声で言ったのよ。警察官の人達には聞こえないくらいの小さな、でも相手には聞こえる絶妙なボリュームで。
────彼奴は俺のだから。お前がどんなことをしようともね、
案の定怒り狂った男は尚更噛み付こうとしてきた。まるで獣だったよ。俺は増田さんに腕を引かれて、男は警察官に取り押さえられて事態は収束したんだけどね。守ろうとしたくせああいう怒鳴り声をあげる人が苦手だからビビっちゃった俺にまっすーは『こやま大丈夫?ありがたかったけど、危ないよ』なんていつもの優しーい丸っこい声で言ってて。さっきの嘲りと怒りを短い文に詰め込んだような声は一体全体どこから出したのか。
ま、全ては愛から、なんだろうけどさ。自分の友達の弟君を利用されたのもあるとは思うけど。
今度はさっきまでスマホを見ていたまっすーまで眠って、お互いの肩と頭を枕にし合っている可愛いカップルに毛布をかけてやりながら平和極まりない光景を観察する。事件の解決に伴ってちゃっかり同棲まで解禁しちゃった2人の安らかで子供みたいな寝顔を見たら、こっちまで気持ちが暖かくなってきて眠たくなってくる。
ふあ、とあくびが漏れる。暇を持て余しているのなら、絶賛執筆中のシゲちゃんとおねむなテゴマスのためにコーヒーでも買ってこようか。可愛い寝顔を見たら冬の寒さなんてどこかに飛んで行ってしまう。
……まあ、あの時横目でちらりと見えた増田さんの冷ややかな瞳を思い出せば今でも背筋がヒヤリと凍るけど。
3/3ページ