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ブラックバカラは黒いばら

二ヶ月ぐらい前だったか、異変の始まりの始まりは真っ白な封筒だった。器用に手書きで描かれた赤い薔薇の絵が印象的な小洒落た封筒。差出人の名前は書かれていなかった。中には花びら、そして便箋が入っていて、そこには一見普通に見えるファンレター的な内容が連ねてあって。なぜ自分の住所を知っているのか不思議だった。その次の日は、花びらと便箋に描かれた薔薇が一つずつ増えただけ。そこで念の為事務所に電話をかけておいた。その次の手紙には『この手紙のことは私と貴方だけの秘密。他言無用』と。そうはいくはずもなく、事務所の人間に定期的に報告するようにしていた。そんなある時。
『警察などには言わないで。さもないとあなたの周りの人に累が及ぶ』
そのメッセージと花びらと一緒に入っていたのは俺の盗撮写真だった。しかも全てプライベートのもの。TV局を出たあたりから家の周辺まであり、その中のいくつかはこのマンションの地下駐車場で撮ったものだった。ゾッとして、警察ではないのなら良いだろうと事務所の方に電話をかけた。
その翌日、相変わらず数の増えた薔薇のイラストと花びら……それと一緒に入っていたのは切れ味の良いカッター片。座ってそれを読んでいた自分の太腿にそれらが降り掛かっていくつかの細い切り傷を残した。心配して来たエマを押しとどめようとした時にそのカッターの刃が内腿に数ミリ食い込んで痛みが走る。
「何だよ、これ……」
目先の手紙にはいつもと変わらぬ書体で文字が連ねられている。
『これからは、誰にも言わないように。言ったらどうなるかいずれ分かります』
何故、知っている?外で相談したでもなく警察に行ったことも無い、ただ、事務所に連絡を入れただけなのに。すると唐突に電話がなった。エマが怪我をしないように抱き抱えながら散らばった刃物を避けて電話を取る。
「もしもし?」
相手は一言も言わない。ただ足音が響くだけ。エマは心配そうに俺を見上げて真っ黒な瞳を潤ませている。大丈夫、と彼女の頬にキスすれどクゥン、と鼻にかかった鳴き声を漏らして俺を気遣っているようだったが、突然上を見あげて俺の腕のすり抜けると玄関の方まで走り出した。どうした?と思いつつ携帯を手に彼女の後を追いかける。
「どうしたのよ、エマ?」
ドアを前に小さな四本足で仁王立ちするエマを不思議に思ったが、犬は人より聴覚がいいと聞くからこの前に誰かいるのだろうか。玄関前のカメラを見ようとリビングのインターホンを見た時、そこには誰もいなかった。一体何なんだ。すれば、耳に当てていたスマホから物音が聞こえそちらに意識を向けた、時、
『……綺麗だ、ゆう』
反射的にスマホを放り投げてしまった。勝手に息が上がる。そんな呼ばれ方、恋人との情事の最中くらいでしか聞かないのに。知りもしないストーカー相手から呼ばれるとここまで気分の悪いものなのか。心配して俺の手を舐めてくれるエマを抱き抱える。
「大丈夫、大丈夫だ」
自分に言い聞かせるようにそう言った。気分が悪いが、でもその次の日は仕事があった。4人での仕事だ。
朝に家を出る時、足元に一輪のバラが置いてあった。なかなか見ない黒い薔薇。ドアを出たすぐそこの廊下に。花には悪いが昨日の出来事を忘れたくてすぐに捨ててしまった。メンバーに話そうかどうしようか、そう思いながら乗り込んだ車。でも楽屋の中で交わされた会話でその考えを打ち消した。
「なんかさ、ヤバイ手紙が来たんだけど」
「え、ヤバいってどんな?」
増田さんが携帯をいじりながら言うのに慶ちゃんがスマホのアニメをポーズして聞き返す。
「見てこれ」
「……う、わ。ちょっ、これ大丈夫なの!?言った?誰かに」
「言っといたけど……様子見ようって言われて」
「ヤバすぎない?」
「鳥肌立ってきたんだけど」
俺は言葉が無かった。心配して言葉をかける慶ちゃんとシゲ、自分は周りから見ればただドン引きしているように見えただろうが、ひたすらにあの手紙の文面を思い起こしていた。
『警察などには言わないで。さもないとあなたの周りの人に累が及ぶ』
『これからは、誰にも言わないように。言ったらどうなるかいずれ分かります』
増田さんにも送られた手紙。中には大量のカッターの刃。
───言っちゃいけないんだ。誰にも。
もっと上手いやり方はあったのかもしれないが、俺はそうと思ったら黙っておく方がいいと思いこみ口を一切つぐんでしまった。
「あ、手越」
身に降りかかった災難をほとんど気にしていないらしい彼が俺の隣に腰を下ろす。
「今日、手越んち行っていい?」
「ああ……」
いいよ、と言いそうになったのをすんでのところで押し込める。写真やカッターの刃、便箋を処理しきれていないのを思い出したのだ。
「今日はあなたのとこじゃダメ?」
きょとんとして俺の顔を見つめる。そういえば自分がこうして増田さんの家に行きたいとか、そういうことを言うのは初めてだった気がする。そう認識するとなんだか勝手に照れてきて頬が熱くなってきた。
「あ、でもエマが……」
「……ふふ、いいよ。シートとかはもう持ってきてるんでしょ?」
「そうだけど……」
すれば、するりと節立った手が首裏に回り肩口に引き寄せられると、綺麗な声で囁かれる。
「いいよ、ほんとに。手越から言ってくれて結構嬉しいし……それと、」
「何?」
「今日、シていい?」
その言葉に対し、軽いチークキスで返事をする。荷物を背負ってエマを抱っこして、彼の方を振り返る。
「時間に余裕のある方がいいっしょ」
「……そうだね」
まあるい頬が上がってふふ、と笑みを零す。それだけで自分を静かに支配しようと体の中を這い回っていた恐怖がどこかに霧散した。心から安心できる腕の中、久しぶりに抱き合って、綺麗な背中に腕を回して身体を撫でる感覚に身を委ねた。

「たか、」
「ん?」
事後にベッドの上でのんびりしている彼にひしっと抱きつく。大好きな手のひらが腰の当たりをそっと撫でてくれた。
「今日やたらと甘えるね」
「だめ?」
「ふふ…全然。なんか嬉しい」
温もりを感じながら眠りにつき、朝早くから仕事だという彼を見送ってから家路に着いた。
それは一ヶ月ほど続いて、自分でもどんどん精神が磨り減っているのは自覚していたが、職業柄常について回る人々の視線や週刊誌のあれこれ、そして自分の少々大らかな部分でもって乗り切っていた。だがある日家のポストを覗けばまたなにか入っている。相変わらず一輪ずつバラの増えた封筒、そして小さなギフトボックスだった。初めて見るそれにまた寒気を覚えたが、部屋で開けてみると小洒落たブレスレットだった。二色の紐が組み合わさって編まれたもので結構丈夫そうだ。中高生の子が仲良しな友達とシェアする民芸品みたいな、そういう感じ。そんなえげつない物が入っているのかとヒヤヒヤしながら開けた俺としては肩透かしを食らった気分になる。でもエマはそうではないようで、そのブレスレットに向かって尋常じゃなく吠えたて始めた。
「エマ、どうしたの……」
脇に避けても威嚇をやめないので取り敢えず高めの棚に置くと、手をぺろぺろと舐めてくるので重ねてどうしたのよーと宥めても可愛い顔を険しく歪めて唸っている。こんなブレスレットのどこが気に食わないのかね、ともう一度そのブレスレットを手に取ろうとするとまた激しく吠え始めるものだから慌ててそれを戻し抱き直す。
「ごめんごめん、あれのことはパパも忘れるからね〜、落ち着いて、ね〜ぇ」
そう言って顔を近づければ頬を舐められる。その時、ベルが鳴った。玄関からノックの音が聞こえる。でも、昨日のようにエマの威嚇はなく、彼女はただドアの前に座ってお利口さんにするだけだ。なんでだろうと思ったが、インターホンに映っているのがいつも親切な隣人さんだと気付いて納得がいった。
「すみません……」
そう言ういつも穏やかなご婦人の顔色に影が落ちている。どうしました?と返す前に彼女の手に持たれたバラの花に目を見開いた。
「それ、……」
「さっき手越さんの部屋の前に変な人がいて……ここのフロアの人じゃ絶対ないと思うんですけど、この花を手越さんの家の前に置いていったんです」
「そう、なんですか…知り合いですかね」
「でも今まで見てきた方とはシルエットからしても似ても似つきませんでしたよ?この階に来る人は限られてますし」
たまに家に来る慶ちゃんや増田さんを彼女は見た事があった。運良くシゲとも遭遇して、かっこいい人ねぇ、と穏やかに笑っていたのを思い出す。このフロアは部屋が広くとってあるのでそこまで多くの人が住んでいる訳では無いから大体顔見知り程度にはなっているものなのだが。
すると彼女がその花に視線を戻す。
「ブラックバカラなんて、なんだか怖いわね」
「そうなんですか?」
彼女は緩やかに首を振る。
「良いお花なのよ。一途な想いを伝えるならぴったり。でも手越さんの知らない人なのでしょう?」
「はい。心当たりもなくって」
「……花言葉にね、『恨み』とか『憎しみ』とかそういうの以外に意味もあるんだけどね、知らない人からって言うと怖いわね。気を付けてね」
「は、い……」
後ろ手で扉を閉めて花を見つめる。黒い薔薇、ブラックバカラ。先程の言葉が恐ろしく感じてその花さえも何かしらの邪気を放っているように見えてくる。
考えに耽っていたらスマホが鳴った。非通知と表示される画面に寒気を覚え、取らずにいたらコール音が途切れ留守番に切り変わる。留守電には何も録音されないままプツリと電話が切れた。その次の日も、その次の日も玄関には黒い薔薇が届きブレスレットも添えられるようになり、並行して赤い薔薇の描かれた白い封筒も送られてくる。手紙の内容はごくごく普通のファンレターのようなものに変わりはないが、気味が悪いことに間違いはなかった。無言電話も相変わらずで、この前は粘着質ななにかの物の音が流れたりして気分が悪くなり吐き気がした。というかその後の夕飯はすぐに吐いてしまった。無いはずの視線を感じてしまって。それから食事がろくに喉を通らなくなっていく。増田さんを家に呼んだら俺たちの関係を手越の差出人に勘づかれると思うと怖くて、自分の家に彼を呼ぶことを避け始めた。
そして一週間ぐらい経った頃、エマが痺れを切らしたようにずっと威嚇し続けていたブレスレットに噛み付いた。
「ああもう、だめだって」
あまりに強く噛み付くものだから綺麗に巻かれた布が裂け始め、ついにブチッと紐が切れる。その中から黒い紐のような何かがぶちまけられうねうねと自分の方に……
「ヒッ、」
エマを抱き寄せギュッと目をつぶった。……が、数秒後我に返り床に落ちたブレスレットを見直す。でもそこには黒い奇妙な触手生物なんてものはいなくて。
「……髪?」
黒い髪がねじられてブレスレットの芯になっていたらしい。さっき流れてきた変な映像が幻覚だとしたら自分ももうそろそろヤバいな。他人の頭髪なんて、いくら自分でも触りたいと思わないから片付けたくない。気持ち悪い。けれど放っておいたらでこの髪一本一本が部屋中を這い回るような気色の悪い想像をしてしまったので片さないのも嫌。手に触れないように処理をし、散らばったものは掃除機で吸い込んだ。まさか今までのもそうなのだろうかと他のものを切って見れば、布で覆われた紐の中は縄などではなく間違いようもない人毛だった。一応証拠ではあるので捨てはせず全てを袋に押し込んで廊下の隅に置いてウェットティッシュで床を拭き手を洗いに行く。だが気付けば洗い過ぎて爪の辺りに血が滲んでいた。一気に降り掛かってきた不安と不快感に耐え切れず、タオルを握り締めながら座り込む俺にてちてちと歩み寄る愛らしい影。
「エマ……」
膝の上に抱き上げると鼻を鳴らして心配してくれているようだった。
「気付いてたのか。あれの中身がヤバイの」
潤んだ瞳で見上げる彼女はそれを肯定し、慰めるように手のひらに鼻を擦り付ける。そしてパーカーのポケットの部分をカリカリする。そこにはいつもスマホを入れていた。
「なに?これで増田さんに電話しろって?」
「キャンッ」
スマホを取りだした手の甲を舐めそう促す。
「……そう、だな。…あ」
鳴り響く非通知からの着信。鳴るドアベル。
着信を切り耳を塞いだ。冷汗が流れ息が上がる。呼吸音さえも聞かれている気がしてまた吐き気がする。
するとまた液晶が光った。非通知かと思われたそれは予想に反して見慣れた恋人の名で。俺は縋るように電話をとった。
「ます、だ、さん」
『あ、手越ー?』
柔らかい声に安心して涙さえ滲んでくる。
「なんかあった?」
『いや……今日元気ないように見えたから来てみたんだけど、インターホン鳴らしても出ないからちょっと気になって』

あの音は増田さんだったのか。なんだ。

「ねえ、車で来てるの?」
『うん』
「じゃあさ、増田さんの車じゃだめ?」
『俺の家ってこと?』
「うん」
『もう手越ん家の前にいるのに?』
「うん」
『……ふふっ、いいよ。どうしたの最近』
「なんか甘えたい気分なんだって。タカのとこ行きたいの」
『可愛いーの』
くっと言葉が詰まった俺に彼は吐息だけで笑う。
『ほら、それなら早く行こう。エマも連れてきてね』
通話を切ったスマホを胸の前で抱きしめる。エマ、増田さんが来てくれたよと言って撫でると早く行こうと言うように一吠えした。外へ出た時に目に入ったブラックバカラにまた恐怖へと引き込まれそうになったが、増田さんがすぐそばにいる、早く行かなくてはと足を速め花を跨いでエレベーターまで駆け足で走っていった。
「本当に来てくれてたんだ」
「だからそういったじゃん?」
増田さんはそっと俺の頬に指を滑らせる。何かと思ったが、さっきの涙のあとが残ってしまっていたらしい。泣いていたなんて自覚していなかったけれど。その時また視線を感じて、彼に早く出発するよう急かした。
彼の家に着くと玄関先でいきなり彼に抱きついたが、彼は少し驚くだけでそのまま受け止めてくれた。
「いやー、安心するわ、この厚み」
「鍛えてますから」
「それ言ったら俺だって鍛えてるわ」
「ふふ……ていうか玄関は寒いだろ、中入ろう」
背を押されるままにソファーに座れば、隣に来るかと思われたタカは奥の方に行ってしまう。なんでなのか分からず彼の顔を凝視すると、頬をそっとなぞられた。
「顔色悪すぎ。ちょっと軽いの持ってくるから、待ってて」
くしゃりと頭を撫でられ、そこにあったクッションを抱えさせられて毛布までかけられた。そんなに顔色やばい?と聞こうとすると彼はもうキッチンの方に足を向けているところで、大人しくテレビの方に視線を向ける。
程なくして差し出されたのは鮭入り粥。そんなにするか?そんな心の声が伝わったのか、整った眉が寄せられた。
「しばらくまともなもの食ってませんって顔してるし」
「あ、マジ?」
うん、と大きく頷く恋人に従い、すごすごと柔らかい粥を口に運んでいく。何口か飲み込むのを見届けてから、彼も自分の食事を摂り始めた。シゲから教えて貰ったらしいそれは塩気も丁度よく匙が進んで、最近のペースと比べたらずっと早く食べ終わった。
「美味しかった。ありがと!」
「家でもちゃんと食えよ」
「……うん」
「食べて、風呂入ったら一緒に寝ようぜ」
「え…シないの?」
思ったことを率直に問えば憮然とした表情で顔を覗き込まれる。
「だから言ってんじゃん。酷い顔してるって。エマもずっと心配してんだろ」
ソファーの上のタオルケットですやすや眠る彼女の方を見やると、小さい身体でずっと俺のことを気遣ってくれていたせいで気疲れが溜まっていたのか熟睡しているのかもしれない。
「そっか……そうだな」
増田さんの言葉通り素直に言う通りにするとそれはそれで彼を心配にさせたようだ。いつもはもっとブーイングするものだから。
寝巻きにスウェットを借り、同じベットに潜り込んでしなやかな背中に寄り添うと、タカは寝る方向を変え半回転して俺と向き合い、抱き寄せてくれた。その肩口に額を潜り込ますと、指輪の嵌った指が髪を撫でる。
「寝れそう?」
彼も眠いんだろう。少し舌っ足らずな鼻にかかった声に、手を握ることで返す。
「ん。びっくりするぐらい…ねむ、い……」
ふわりと微笑んでくれた恋人の顔を最後に、すとんと簡単に俺は眠りに落ちることが出来た。ここ最近変なのに付き纏われてからはベッドに入ってから二時間は眠れず、加えていつも以上に浅い睡眠のせいで頭痛薬とお友達だったのが嘘みたいなほど。それに目覚めもよかった。
朝飯は食欲無いからいいや、との意見を一蹴され、一口でもいいからと縋るように子犬のような目を向けられたら無碍にできず、一口、一口と粥を腹にためていった。喉につっかえず柔らかな味付けのそれは昨晩と同じように体を芯から温めてくれた。
増田さんは午後前から仕事で、自分は今日一日offということもあって家に帰ることにした。家にいてもいいと言ってくれたけれど、もし自分の家にストーカーが入っていたらと思うとゾッとしてくるし、落ち着かない。
タカは仕事に行くついでに家に送ってくれた。車中でスカーフに隠れながらキスをして、じゃあまたすぐにと手を振った。
一夜ぶりの我が家に辿り着く前に、封筒が入っているであろうポストを調べると案の定入っている。しかもいつもより重い、厚い、あとなにか柔らかいものも……見たくないけれど、正直見ないと逆に怖い。
リビングルームのテーブルに新聞紙を敷き、ゴミ袋代わりのコンビニ袋を傍らに置き、手紙を開封する。

─────なんでその人と一緒なんですか?なんでその人を選んだんですか?─────

いつもより赤みの濃いインクで書かれたメッセージ。

─────その人は仕事仲間でしょう?ただの。私の方がずっと貴方を見て、理解して、愛している自信があります。なんでその人のほうに行ってしまうんですか?─────

その人って、なんで。予測はしていたけれどどうしてそこまで俺に執着するんだ。お前は俺に会ったことでもあるのか?直接話したこともないだろうに。

─────愛していますよ。でも貴方は僕に背いた。何故?私の想いが誰よりも強いということは分かっているでしょう。─────

その便箋は5枚に渡って俺への愛を書き連ねていた。これを読み切っただけで生命力が半減した気がする。そして、まだふっくらと物を有した封筒にゆっくりと手を伸ばし、袋に中身を注いでいく。半透明の袋の中にパラパラと落ちていくのは潰れたり千切れたりして傷んだブラックバカラの花弁。2本分はあるだろう。こんなくだらないことに使われる花が本当に可哀想になった。あらかた出し終わったかと思ったがなにかずっしりとしたものが残っているようだがなかなか落ちてこないのに気付き、面倒だと思いつつ封筒の中を覗き見た。だがすぐに後悔する。それを封筒ごと袋の中に放り込んで口をしっかりと縛った。
「……使用済みのゴム送るってそんな神経してんだマジで」
嫌だ、どうしよう。気分が悪くなってきた。ここにいたくない。タカは仕事に見送ったばかりだから迷惑かけるわけにはいかないから、誰か都合のいい人……そうだ、慶ちゃん今日午後から暇とか言っていなかったっけ。少々申し訳ないが少しの間話し相手が欲しくてメッセージを送ろうとスマホを手に取った時、なにか物音がした。エマかな、いや彼女は足元に座っているから違う。まして部屋の中の何かが勝手に落ちたなんておかしい、他の可能性は信じたくもない。息を止めてこちらからは死角となっている玄関の廊下の突き当たりの角を睨みつけた。
足音が聞こえる?気のせいだ、気のせい……エマを引き寄せて抱き上げまた前を向いた時、見たことも無い男が部屋の中に立っていた。一瞬「え」と呆然としてそれを幻覚のように感じたが、男が手を挙げた時の衣擦れとエマの激しい威嚇でそれが現実だと認識した。咄嗟に考えたのは腕の中の愛犬のこと。そして警察に通報しなければということ。俺はエマを洗面所と風呂場が繋がった扉に彼女を押し込み、携帯を取って1を押そうとした。
だが侵入者がそう簡単にそれを許すはずもなく、押し倒されると激しい揉み合いになった。ここで抵抗しすぎてこちらが過失をしてしまえば色んな人に迷惑をかけることになるし、かと言ってやりたいようにされるなんて冗談ではない。
「離、せ……!!」
男は何も言わずのしかかって動きを封じてきた。まあまあいい体格しているらしく簡単に腕を拘束される。だが自由な脚で男の腹を筋力の限りを尽くし蹴り上げ、蹲ったところでまたスマホに手を伸ばす。そこで履歴の欄に『増田』の文字が見えた。本能はそれに助けを求めようとして指を伸ばしたが、自分の中のどこかに引っかかって自らブレーキをかけてしまう。
なんて言えばいい?理由があるとはいえ今まで相談すらしていなかったのに。この人に下手な迷惑をかけたくない。そう思うと手が止まった。
もたついた短い間に男は易々と復活し覆いかぶさってきた。今度は足も封じられ、うつ伏せに転がされる。スウェットを下着ごと下げられ強引に挿れられた指は何か錠剤のようなものを入れてきて、投与法が座薬と同じであって効き目が早いせいで間もなく手足が痺れて意識が朦朧としてきて体がどんどん麻痺していった。視界や音も歪んで、全てが遠のいていく。頬を張られたり背を強い力で押し付けられたり、ついには後ろに欲望を押し付けられて蹂躙され……記憶はところどころ飛んでいる……気付いたら男は消えていて、ひやりと冷えたフローリングに身を預けている自分がいた。時計を見れば、意識を飛ばしてからもうすぐ2時間ほど経つという時間だった。仕事がない日でよかったな、とぼんやりと思った。まだ痺れの残る手を握り、開いて、力を込めて何とか起き上がった。Tシャツは着させられたままだが、下は下着以外何も身につけられていない。代わりに掛けられたタオルケットは寝室の棚に仕舞われているもので、どうしてこの位置を知っていたのかと思うが、そうだ、あの男はどこから入手したのか合鍵を持っていた。そりゃあ知っているはずか。なんで今日に限ってチェーンロックをかけなかったんだろう。不思議と自分の行為と状態を客観視していたが、掛けられたタオルケットにへばりついた白濁と血液、そしてじわじわ戻ってきた体の感覚、呻くほど酷く痛む下肢に現実を押し付けられる。
あぁ、やっぱり幻覚なんかではなかった。俺は犯されたのか、と。
痛い。痛いけど、あの人になんて言えばいいのかわからない。あの人は優しいからこんなになった自分を侮蔑するようなことはしないっていうことは知っている。むしろ進んで手を広げてくれるだろう。けれどそうしたら、綺麗なあの人を逆に穢してしまうとか、そういうことを考えて会うのさえ怖くなってしまう。どうしよう、どうしよう。ぐるぐると考えすぎてドツボにハマって行こうとした頭を叱咤したのは洗面所の扉から聞こえる軽い引っ掻くような音。襲われる前に慌てて彼女をそこに押し込んだのを思い出す。這うようにして進んでドアを開けると一目散にトイレシートの方向に走っていった。わざわざ我慢させてしまったことを申し訳なく思いつつ、スマホから事務所関係者に電話をかける。今の状況を説明し、表からは内密に病院や警察を手配するので自宅で待機するようにと言われたので了承のことを伝え電話を切ると壁に凭れた。するとエマが駆け寄ってくるのに気付いた。でもその先に汚れたタオルケットがあるのに気付き、それを取って立ち上がろうとするが、かくりと膝が折れて床に蹲ってしまった。エマは膝に前足をかけて心配そうに鳴く。大丈夫、とだけ声をかけてタオルケットを袋に入れ、テーブルに手をかけてようやっと立ち上がった。手を洗い、体を拭いてからエマに遅めの昼ご飯を食べさせ、また手を洗う。ざっと体も洗ったがちゃんと掻き出す体力も力も無かった。それでもあの男に触れた手が、身体が汚いような気がしてならなくて無意味と分かりつつも手を流水で流し続けていた。
その後、数々の嫌がらせの物品を捜査官の方に渡して、検査のために病院に行った。幸い病気などは移っていなかったが心的外傷後ストレス障害になっている可能性が高いと言われ処置法なども聞いたが、それらは俺にとって酷く屈辱的だった。家に帰ると待っていたエマに飛びつかれた。1人にしてごめんねとふわふわの毛並みを撫でたら膝に飛び乗って顔中を舐められた。
「エマ、ダメだって…塩分摂りすぎちゃうよ、もう……」
止まらぬ涙を彼女はずっと舐めようとして、止まらないとわかると俺に寄り添って鼻をくっつけてきてずっと慰めてくれた。
そして電話が鳴った。恋人からのコール。



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