拝啓
いつも二人で過ごした部屋の中で、一人の黒いスーツに身を包んだ青年が呆然と座っている。二人でよく連弾したピアノの椅子の上で、暗く静かな部屋を見渡している。その手には彼からの数枚に渡る手紙があった。
『ゆうや、急にいなくなってごめんね。
俺ももっと一緒にいたかったし、もっと色んなとこ連れて行ってあげたかった。
勉強忙しいのにわざわざお見舞い来てくれてありがとうね。
凄く嬉しかった。
一緒にいた時は自分が病気だってこと、すっかり忘れられたんだ。救われてた。
だから、どうか自分を責めるなんてことはしないで欲しい。
最後にね、一つ約束して欲しい。それは──────────』
大好きな人に置いていかれた彼の目からははらはらと綺麗な涙が落ちて、黒い布をさらに黒く染めていく。
「置いてかないでよ……ーーくん」
震える背を撫でるのは彼と同じ歳の片割れ。彼もまた整った顔立ちをしている。
「祐也、弁護士さんから相続のお話が来てる」
祐也と呼ばれた彼は、相続なんてどうだっていい。彼がいなければどうにもならない。そして、これ以上の悲しみ、苦しみはないだろうと思っていた。
けれど、運命はこれから彼を手酷く虐めた。彼が、人と関わりを持たずとも済むような場所に籠るほどに。
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
都心からは離れた関東にある県の郊外の町。目を凝らせば山々が見えるが、電車で一時間も揺られれば都会の匂いがするビルの群れに出会うような場所に大きな公園がある。森と称しても良いほどに自然が豊かな場所が俺のお気に入りだった。デザインの専門学校を出た後すぐ就職した俺は代替わりした社長と感性が合わず苦心していたところに、幸運にも声をかけられ大手の会社に引き抜かれた。自由な社風とのびのびと活動をさせてもらえるそこをすぐに気に入り、入社後もすぐに馴染むことが出来てそこから十年弱経った今。上司から有給を取って羽を伸ばしてみろとのお達しが来て今ここを訪れている。上の人の友人で美術大学からの付き合いの油画家のところに住まわせてもらっているところだ。俺は毎日のようにその大きな公園に行き、緑を感じたりおもむろに道行く人々や木々や花をスケッチするのが趣味になっていた。油画のセットは使わせてもらえるし使用法もわかるのだが、どうもそこまで描きたいと思うものがなく、ハガキを一回り大きくしたようなサイズのカンバスに絵を描きつらねるばかりでこれといったものが描けずどうしたものかと悩んでいたある日、俺はその人と出会った。
小鳥を追っているとき、偶然にも今まで入ったことの無い森の小道に出会いそこに入ってみたのだ。進んでいくと綺麗に整えられた芝生が広がっていて、花々も踏み倒されることなく咲き誇っている。ここなら寝転がっても子供たちに踏まれる危険はなさそうだ。などと思っていると、視界の端にきらりと輝く金。何かとそちらに目を向けると、小型犬を相手に細身の男が遊んでいる。ちらりと見えた横顔を見たとき、まるで彼の周りだけが別次元から映し出された幻想の演出のように見えて、慌ててスケッチブックを出し気付かれないよう目の前の大樹を描くフリをして気が済むまでその人のスケッチを進め、彼が帰っていく所まで何も言わないまま見送った。半ばストーカーだ。部屋に戻ると肩慣らしに小さなカンバスに彼の印象強い瞳を描いてみれば、なおさらあの姿を思い出し大きなカンバスにあの姿を写したいという欲がむくむくと膨れ上がっていった。俺はそこから続けて数日間同じ場所に出向き、その人のスケッチを繰り返した。
アトリエに帰れば、体が勝手に動くのに任せF20サイズのカンバスに慎重に色を乗せていく。公園の彼を頭の中の通りに微笑ませるのには苦労した。
「いい感じじゃん」
部屋を貸してくれた画家は感心したように俺の絵を覗き込みまじまじと見つめる。そして静かに笑みを浮かべると俺に視線を移した。
「今までのお前とは筆遣いも色の合わせ方も全然違う。……なに?あの森林公園で運命の人でも見つけた?」
間違ってはいない。あれは間違いなく一目惚れと呼んでいいものだった。それにもう影からスケッチしたり記憶を頼りに筆を滑らすのだけでは我慢できなくなってきている。金の髪と長い睫毛、遠目からでも薄い身体、そして、あの透き通った瞳をこっちに向けて欲しいと願う。初対面からモデルを申し込むのってアリなんですかと今この部屋を出んとする彼に問えば、のんびりとした口調でこう言われた。
「その絵でも見せたら、口下手な増田でも伝わるんじゃない?」
「……はい。やって、みます」
「頑張れよー」
その言葉を胸に、木漏れ日の落ちるあの場所に向かった。相変わらずその人は可愛らしい子犬と戯れていると思っていたが、行ってみると珍しく彼は座り込んでこちらに背を向けていた。
耳に入るのは彼が口ずさむ英語か何かで紡がれる何かのメロディーで、何故かそれがさめざめと泣いているように聞こえた。吸い寄せられるようにそばへと歩み寄るが気付いていないのかその透き通った歌声は止まることなく。荷物を傍らに置き、その薄い肩を叩きながら声を掛けようとした、直前。
音が出るほど勢いよく振り返り、ぎょっとしたように目を見開いて俺を射抜いた。長めの金髪がふわりと舞う。そして怯えたように後ずさろうとした。
「危ない‼」
「ひっ……」
だが彼の真後ろは急斜面。ほぼ崖である。慌てて手を伸ばし肩を片手で掴み引き寄せ胸の中に抱き込んだ。初めてきちんと目を合わせたばかりなのに抱きしめるようなことをしてしまったことにドキリとする俺に対して、この人は怯えているようだった。
「すみません、突然話しかけて……怖がらせてしまったみたいで」
「い、いえ、貴方のせいじゃない。俺の方こそ、ごめんなさい」
ここまで近くに来れたのに、合わせられない瞳は平均的な日本人のそれよりも薄く光が当たるとヘーゼルのようにすら見える。それらに見つめられたくて言葉を重ねようとしたら、意外にも彼の方から話かけられた。
「あの、いつもここにいらっしゃってる人ですよね。スケッチ……?とか、描かれてたような」
気付かれていたのか。頬が赤くなりそうだ。
「はい。描くの、好きで。最近は休暇をとってよくここで鉛筆握ってるんですよ。いつもはデザインをやらせてもらってるんですけど」
「へえ……。俺、絵が壊滅的なんでそういうの憧れます」
そうですか?なんて返しながら、いつ本題に入ろうか覗っていれば先程から置いたままになっていた荷物が彼の目にとまった。
「ああ、これなんですけど、最近描き進めて出来た絵で……」
「これ、って」
「すみません。初めて貴方を目にしてから描きたくてたまらなくて、何度もここに通ってました」
「……てっきり森を描いてるのかと」
ぽかんとした顔で大きなカンバスを手に持って画面を見つめる横顔も綺麗だ。今すぐスケッチブックと画材を手に撮りたいがそれをなんとかこらえる。瞬きする度に揺れる睫毛が長い。
「なんか、すごい神々しく描きすぎじゃありません?」
「俺からはそう見えるんです。眩しいくらい綺麗だなって。ご自身でもそう思いません?」
「そんな。思えませんよ」
そう言って照れたように笑う。意外とくしゃりと効果音のつきそうな可愛らしい笑い方でこちらを振り返るので不覚にも胸が高鳴った。
そうしてぽつぽつと会話を続けているうちに俺は奇跡的に彼を絵のモデルとして家に誘うことが成功した。連絡先を交換して、クロッキーから付き合ってもらって、ヌードは描かないんですかなんてからかわれたりもして。息抜きでよく洒落たカフェで食事を共にすることも当たり前のように楽しんだ。ブラックコーヒーを砂糖ミルク一切入れず飲むことなんて自分は絶対出来ないので感心したりもしたし、それを見て、アイスばかり頼むのでたまにはホットも頼めばどうかと言ってみれば「猫舌だから……」と少し恥じらいながら言ったり、サンドイッチの中の香草が苦手らしく俺がそれだけを抜き取って食べてあげたりすれば喜んで。そういう子供っぽいところを発見したりする度彼への好意を自覚していくのになんの動揺も違和感も驚きさえ湧かない自分が逆に驚きだった。あと、見目の良さに反していつもファッションがTシャツ短パンなところも。そうしているうちに、「好きだなぁ」と、漠然と思い始めてしまった。
そうなったのは仕方ない。初めて見かけた時からそんな予感はうすうすしていた気がする。公園の花畑に案内した日もあった。一年前にここに越してきたと言う割に、彼はこの街をほとんど知らずにいるようで驚いた。あの場所に行く以外は家に籠っていることが多いらしい。コンビニでの会計で交通系のカードを使った際にはポカンと呆気に取られた様子だったし、大分浮世離れしているようにも見える。以前はアウトドア大好きだったんですよ、そう零した彼にその経緯を聞こうと思ったのだが、止めた。彼の視線は水平線の向こうに向けられ、何を考えているのか全く読めず言葉に詰まったから。
「見て、あそこ」
俺が指を指す延長には、砂浜の丘と小さな島とサンセットが一直線上に並んだ絶景。それは俯いていた彼の顔を上げさせて、うっすら浮かんだ涙さえ朱に染め上げた。
「すごいだろ。フォトジェニックな場所だから人が結構いたりすんだけど、流石に夏休み明け直後に来る人はあんまいないみたいだったから良かった」
「……うん。すっごい綺麗」
眩しそうに目を細める彼の手首を一旦離し、すぐに指を絡めて握ると、ピクリと薄い手のひらを震わせて驚いたように俺を見上げる。
「貴久さん?」
「あのさ、祐也」
握った手が震える。さっき初めて名前を呼び捨てにしたから。出会ってから、話すようになってから二週間。タメ語解禁は一週間ほど前。だったらそれぐらい、もうそろそろいいでしょう?でも、問題はここから。
「本気で好きだって言ったら、どうする?」
強い海風が二人の脇に流れる。間には風は通らないようにピタリと肩を寄せあって、さらに強く手を握った。
「一目惚れだったよ。高嶺の花だって思った瞬間もあったけど、ここまで近付けたからにはもう迫るしかないじゃん?……言っとくけど、答えてくれるまでは離さないって決めてる、から」
「……マジで?」
「大真面目」
もしかしてもしかして、すんなりOKしてくれるかな、と思ったが、
「でも、その前に話したいことがあるから、ちょっと考えさせて?」
でも、という逆接にヒヤリとしたが……あぁよかった。一瞬ダメかと思った。それならばと繋いだ手をそのままに並んで足を踏み出し、ここまで来るのにも使った大型二輪に跨り彼の腕が腰に回ったことを確認してペダルを踏み出す。今までよりも強めに抱きつかれ、肩口に柔らかい頬と貸しているヘルメットが遠慮なく凭れてきてくれるのがじんわりと背を温めていた。
「先行ってて。バイク停めたらすぐ後を追うよ」
「エレベーターの前で待ってるね」
少し離れたスペースに愛車を停め、レトロチックな彼のアパートへ駆け足で向かっていると傷一つない白塗りの外車が軽やかに追い抜かれた。嫌な感じがして足を早め飛び込んだロビーでは、先程別れた彼を囲んで二人の男の一人がシャツの胸ぐらを掴んでいる。普段は賢く静かなはずの子犬はその小さな小さな体から出しているとは思えないほどに激しく彼等を吠えたて、手越は愛犬に危害が及ぶことを恐れているのか彼女を胸に強く抱き込んでいる。目を疑うような光景だった。放っておける訳もなく間に割り込んで彼を背に庇うと、痛いほどに責めるような視線が突き刺さってきた。
「彼に何の用だよ」
「お前、知らねーの?これ、」
俺より背が高い方の男がずい、と携帯画面を見せてくる。あからさまな嘲りを帯びる笑みに眉間の皺が寄るが、最新機種で画面の大きなそれはスクロールせずとも大体の内容を理解することは可能で、俺はその内容に一瞬驚いて画面を凝視した。そして、背後からは手越が脱力して壁に背をつけた軽い音が聴こえた。
「……まだそのことは直接聞いてないし、あんたらには関係ない」
ちらりと外を見れば、アパートの駐車場の入口に住人と巡査がなにやら話し込んでいる。彼らの目は恐らくこの二人のものとみられる車に向かられている。
「入口に駐車するって、どんな常識持ってんだよ。駐禁とられてるぞ。あんたのとこの高級車」
「ちょっと、あれ父さんから借りたやつなのに!」
片方が高い声で喚くにもう一人は顔を青くしている。「行くよ」と一声かけてエマを片手で抱えながらへたりこんだ彼を引き立たせ、バイクに座るように促しヘルメットもつけてやって一気に速度を上げた。心ここに在らずだった彼は慌てて背に抱きついた。
「ここは?」
「俺が住まわせてもらってるとこ」
「本当に隠れ家みたいだな、この立地」
「でしょ?俺もそこが気に入ってる。……でさ、さっきの話って」
言い進めようとしたが、サッと顔から表情を消した彼を見て閉口した。自分を見て、整った顔が自嘲気味に歪む。すれば、無言で一枚、一枚と衣服を脱ぎ始めた。俺は黙りこくっていた。外にもほとんど出ず服で守られていた肌は、彼の背後に積まれた画用の張り布よりも白くて。棒立ちになった自分に彼は投げやりに言葉を投げかけた。
「これが、動機」
色白だから見やすくなっている刺傷、裂傷、火傷。どれも塞がっていて薄桃の薄そうな皮膚で治ってはいるが痛々しいことに変わりない。
「耐えきれなくなった末にってやつよ。もともとは違う大学同士のサークルで知り合って親密になって、たまに家に行くぐらいの仲になって……初めて泊まった時に、様子が変わった。四年生の時には家に軟禁……、監禁紛いのことされ始めて、動画とか撮られてたから逃げる気になれなくてさ、段々追い詰められておかしくなってった。最後の方は覚えてないんだけど、気が付いたら血塗れの人が倒れてた」
とうとうと話す彼の横顔は人形のように感情が消えていた。俺は、その両肩を掴んで一人がけのソファに沈める。急にそうしてしまったことで一瞬怯え体を強ばらせてしまった。「寒いかもしれないから」とブランケットを彼の下半身に掛けると、自分は描きかけのカンバスの前に座った。固まりかけた筆先をペーパーナプキンに油に浸して拭い、パレットにかけたラップを雑に剥がして適当に丸め足元に転がす。
「体横に傾けて、肘掛にもたれかかる感じで……そうそう。前みたいに」
筆を動かしながら、同時に頭の中も整理していく。画面の中のそれより、今の彼の表情は困惑気味に強ばっている。
「何すんの」
「怖い顔しないでよ」
西日に照らされる体を受け止めるのは古めのソファ。趣のあるアトリエ。膝に掛けられる若草色のブランケット。画面では、天使が一人森の中で微睡んでいる。その肌は傷一つ無く、白いままで朝日を受け光っている。
「本当は、知ってたんじゃない?俺の事」
どこか見透かしたような言い方だった。
「だったらどうする?」
「……別に、変な人だなって思うだけ」
彼の言う通り、本当は気づいていた。一週間ほど前に。浮世離れしすぎていることろがあるし、どこかで見た顔だとも思っていた。そしてふと、一時期大きなニュースとなっていた話を思い出したのだ。男が頭部を強く殴打されたが、その加害者の身体には目に入れるのにも耐え難いほどの暴行の痕跡があったと。発見された直後は逮捕連行云々以前に治療を優先されそのために色々な手続きを遅らせた後に公開された顔写真や裁判中のスケッチで、彼が顔立ちの良い青年であったということと被害者の男が大きな衣料品メーカーの後継ぎだったことが世間を騒がせるスパイスになってしまっていた。面白おかしく週刊誌に取り上げられ、殺人未遂だ正当防衛だと騒がれていたとはいえこれは十年弱前の話。SNSも今より広がっておらず、顔写真が拡散されて……なんてほど大きなふうにはならなかったが、少なくとも二週間はワイドショーで話題に上がっていた覚えがある。
「金髪にして印象変えたから、割とバレずにいけるんじゃないかって思ってたんだけどなぁ」
「知らずのうちに人の目を引いてるんじゃない?」
「なにそれ」
「まあ俺は、初めて見かけた時からバッチリ印象に残ってたけど」
「そりゃあ貴方は……」
そこまで言って口を噤んで窓の方に視線を逸らした彼にクスリと笑いが漏れる。顔そっち向けないでと言えば素直に元の位置に戻してくれたが目線は逸らされたままだ。
「何だよ。俺は一目惚れだったから、覚えてたって言いたいの?」
「違うわけ?」
焦りと照れが混じった大きめの声を聴きながら赤色をペールピンクに溶かして絵に乗せた。
「好きだよ。森で見かけた時からずーっとね」
「俺の前科知ってんのに、なんとも思わなかった訳じゃないでしょ」
「それがどうでも良くなるぐらいに惹かれたんだよ」
「……やっぱり、変わってるよ。あんた」
そう呟くと、呆れたように目を瞑った。口元に、隠しきれない笑みを浮かべながら。
あと三日しかここにいられないんだ。ねえ、一緒に来ないかと描きながら聞けば、彼は何も言わずに思案してからこちらを見た。
帰る日まで何回も誘ったが結局、迷惑かけられないからと言って断られてしまった。「出来上がって仕上げまで終わったらその絵を見せてよ」と言われたのをまた会いに来てもいいという許可と捉え、ようやっと帰る気になりはじめた。帰り際、徐々にスピードを上げて走るバイクのミラーには犬を抱えて俺を見送る彼の姿が写っていた。まっすぐすぎる一本道を三百メートルほど走り左折。一瞬視界に映った金色はすぐに視界から見切れていった。
その日から、彼からの連絡はピタリと途絶えた。
電話をしても、メールをしても返事がない。もう相手にしてくれないのかな。訳があってそうしているのかなんなのか。
休暇中彼と一緒にいたから、あんなに静かで平穏な街でも退屈しなかった。自分は今まで恋愛には淡白な方、そんなのに付き合う相手も然りだったので元カノの二、三人とはふわっと付き合って自然……という言い回しはおかしいのかもしれないが、根っこの想いの重みがお互い軽かった。未練もなんにもなし。そろそろじゃない?そうだな。なんていうやり取りは俺にとって、もうそろそろやめにしよう。楽しかったよ。っていう風に受け止めそのように使っていた。相手もそうだったようで、仕事で会ったりしても何も気にすることなくコミニュケーションが取れてきていた。
でも、彼は違うんだな。こんな自分にメロドラマ思考があったとは驚きだった。二人で公園に行って周りを見れば、森の緑や植物の彩度と明度がぐんと上がっていた。彼を見たら、若い女の子たちが使っているカメラアプリのフィルター越しみたいにキラキラしているように見えていた。今でも写真を見るとそう見えてしまう。あの時使っていたスケッチブックだって、他にページが余っているのに使いたくなかった。わざわざ新しいものを仕事に使った。
売れ残りでそれしかなくて買ったそのスケッチブックは可愛いパステルカラー。普段なら俺は絶対買わない色のそれの中で、彼は笑っている。それを手に取って立ち尽くしあの記憶を脳内で追い、巡らせていたら上司に頭をはたかれた。こんな調子では仕事に関わる。
メッセージに応じてくれないならばと日帰りであの街に行く計画を立てよう。この週末は隣の部署が忙しそうだから急な仕事を押し付けられかねない、じゃあ次の週末はどうだろうと自宅の書斎でスケジュール帳をぺらぺら捲っていた時だ。唐突に電話が鳴った。まさか、まさかではないかと思い非通知の電話を手に取ると、
『……増田さん、ですか?』
聞こえてきたのは彼とは真逆と言ってもいい声。低めでハスキーな男の声だった。ガックリと身体の力が抜け椅子に背を沈める。
「はい。何故私の名前を?」
電話の奥から男が細く息を吐き出す音。それを聞きながらさっきまで弄っていた手帳を引き寄せようとする。
『私の弟の祐也が今病院にいまして、意識が戻ったと思ったら貴方と思われる姓を呼んですぐまた眠ってしまったので……ちょっと、大丈夫ですか?』
「……ちょっと待ってください」
驚き咄嗟に立ち上がろうとした自分の体は姿勢悪く座っていた体制と滑らかに動くキャスター付きチェアが災いし、後ろに滑った椅子に置いていかれ床に勢い良く落下した。痛い。それに耐えつつグッと腕を伸ばし落としたスマホを引き寄せ仕切り直そうとする。
「すみません、あの、彼に何かあったんですか?」
『ああ……あの、直接話したいので、出来たら、明日の土曜に来れますか?都内の病院なんですけど』
「行けます!では、何時に?」
手短に詳細を聞き、通話を終了させると落下したままの身体を仰向けに転がし天井を見上げる。病院にいるなんて聞いてない。そりゃあ連絡が取れないわけだ。いつからそうだったのだろうか。落ち着かなくなってくる。
もし明日緊急で仕事に呼ばれたら腰を痛めたと言っておこう。嘘ではない。
翌朝、連絡通りの場所に着くと全身保護色の服を着た黒髪の男が待っていた。祐也の兄と言ったが双子らしい。黒髪と金髪という対象的なところはあれどどうしたらそんなにでかくなるんだと思うほどの大きな目と幅広二重が印象的で彼と重なった。でも祐也よりは服に気を使う人のようで、彼なりの統一感を感じた。病院は嫌いでは無いけれど、今日その戸を開けるのには勇気が必要だった。
真白の病室、白いベッドに布団、その色に溶けそうな金糸を認識すると、勝手に足が動いた。
「……てごし」
声をかけても応答はない。力なく投げ出された手を握った。小さく動いたのに気付き手の力を強くする。
「二週間前に、玄関で口論になって突き飛ばされて階段から落ちたみたいで。昨日やっと反応してくれるようになったんです」
「口論?」
「彼の前までのこと、聞いてませんか?」
「詳細は全く分かってなくて」
ああ、と彼は相槌を打ってどこから話すかとこめかみを引っ掻いた。色々あったみたいなんで長くなるんですけど、と前置きして話し出した。
「元はいい彼氏さんがいたんです。二人で寄り添ってデートしてるのが凄く自然に見えて、違和感なんて感じませんでした。頭も良くて男前で……本当にいい人だったんですけど、ある時突然心臓を悪くして亡くなったんです。しかもその彼、わざわざ奨学金で大学生やってた俺達に遺産の一部を与えるように言ってくれていたみたいで。ちゃんと弁護士を通して正式に」
だが何故同じく若い恋人がそんな遺産なんていうものを持っていたかというと、彼は大手衣料品メーカーの御曹司、そしてそこの長男。祐也に与えられたのは双子揃って大学を卒業出来るに十分な費用と、海辺の別荘(そこはまさに俺が連れて行った場所のすぐ近くだった)。次の祐也の誕生日にプレゼントとしてあげるはずだったらしいアクセサリーも渡されたらしい。
「彼についてた秘書さんからそれを初めて知らされて最初は驚いて受け取れないって言ったんだけど、ずっと前から決めてたし、その彼の気持ちだからって。心臓が悪いのは自覚してたみたいで、だから若いうちからそんな細かい所まで指定していたらしくて」
「……それと今回の事故、なんの関係があるの?」
「彼の下の兄弟二人がそれを良く思わなかったんだよ。祐也と歳が近かった一人が大学のサークルを利用して近付いて、それであの事件が起きて……今回の事故は、その時のと同じ奴」
頭部から出血しコンクリートの上に身体を投げ出す祐也を見て我に返った男は彼を放置し姉の居る車に駆け戻ったが、様子のおかしいことに気付いた姉が問い詰め即刻通報したらしい。幸い命に別状はなかったが、頭を強く打った影響で意識は未だに戻っていない。法律事務所に務めている忙しい身であるはずなのに毎日この病院に通ってきた彼の目の下にはくっきりとクマが浮かび、スマホケースのカード入れから覗いたコーヒーショップのポイントカードは二枚目に突入しようとしていた。疲労による眠気をカフェインで誤魔化し続ければ身体を壊すというのに、双子の兄は弟の元に通うのをやめようとはしなかった。
彼の疲労がそろそろピークに達し病室での寝落ちが増えてきた頃、やっと彼が意識を浮上させ、自分の状況を理解した。入院してから一月を過ぎた頃だった。「なんでシゲ泣いてるのさ」「タカ、俺の絵ってもう出来上がったの?
」なんて気楽に尋ねてきたのには全身の力が抜けた。
数日後の退院の後、シゲが連れて帰るだろうと思っていた手越は俺の家に泊まることになった。
車の助手席に乗せて家に向かう時は車が信号で止まるたびにその手を握りたい衝動に駆られたが、一回そうすると二度と離したくないと思うに決まっていると思い家まで無理やり自分に我慢を強いて、車を出てようやくその手を握った。あの田舎町に移り住む以前に2度も住処を調べられ家に押しかけられたという彼は、ここに来てもフードを目深く被って降車し俯いて俺の後ろを着いてきた。
「手越は何も悪くないんだし、気にせずにいちゃいけないの?」
道中でそう尋ねるも、
「噂好きの人達にとっては、悪いか悪くないかなんて眼中に無いからね。やろうと思えばいつだってあのことを蒸し返されるから隠れるにこしたことないよ……あなたに迷惑かけたくないし」
本心から仕方ない、と諦めているらしいのを見て悔しくなった。こんなに細くて綺麗で、触れたら消えそうな人に無情な言葉を刃物のように投げつける奴らの気が知れない。彼をシェルターに招き入れるように、マンションの部屋に誘導した。
久しぶりに会えて、久しぶりにふわりと笑ってくれたのを見て泣きそうな程に堪らなくなった。苦しいほどに抱き寄せて細い体のラインに指を滑らせる。
「会いたかった」
後頭部に手を回し、体全体を密着させるように肉の付かない腰を撫でた。
「マジで心配したし……」
「ごめんって」
「あとね」
鳶色の瞳としかと目を合わせる。
「本当に手越が好きだって、分かった。会えないし声も聞けなくて……この半月、本当に抜け殻みたいになってた。上司からも釘刺されるしさぁ」
「ふふ……増田さんって情熱的だね」
からかうように言われるのがちょっと不服だ。
「『増田さん』って呼ばないでよ」
「えー、たかひさ?」
「……うん。そっちのがいい」
「単純だなぁ。……じゃあさ、タカ」
前の呼び名に突然戻って少し動揺する俺を彼は笑ったようだ。頬が上がると尚更幼さがまして可愛い。
「あなたが描いた絵、出来たんでしょ?見せてよ」
「いいけど…二枚ある中の、どっちがいい?」
「え、一枚だけじゃなかったの?」
「うん」
彼は少し考えて、「あの部屋で描いたやつを見せて」と言った。
奥の部屋から取り出した少し大きめの絵を取り出す。暖色系の色味で描かれ、うたた寝る彼の姿が映っている。それを見せたら、彼は柔らかく笑ってくれた。
「俺、気がつかなかったんだけど」
「何?」
「すっごい、俺ってタカの事好きじゃん」
「分かんの?」
「うん。自分がこんな顔してるとは思わなかった。というか本当にこんな…力抜けた顔してた?」
「してたよ。『やっぱり、変わってるよ』って言った時にね」
「そんな細かく覚えてんのか」
しばらくしゃがみこんでその絵を見続けた彼は、ぱっと立ち上がると一人がけのソファに座って彼を見つめていた俺に横から首に手を回して抱き着いた。
「こんな都会のど真ん中のマンションに連れて来たってことは、俺にとって軟禁状態だってことわかってるの?怖くてそう簡単に外出られないっていうのに」
「手越が良ければずっと俺が守るつもりだけど、不安だったり嫌だったりしたらいつでも言って欲しいって思ってる」
少し息を吐いて、改めて彼の瞳を強く見返す。
「……好きだよ。手越が許す範囲で、俺のものになって欲しいと思うくらい」
かぁっと白い頬に朱が差した。こんな初心な照れ方をされるとは予想範囲外で痺れるほど嬉しくなる。
「一応確認したいんだけど、昔俺に相手がいたっていうのは知ってる?」
「うん。成亮さんから聞いた」
「そう、か。あのね、俺、そういう人はいたことあるんだけど、今まで……シたこと、なくて」
薄い唇を引き結んだりわななかせたりしながら言うことには、怖がったりしてしまったことで行為に及んだことはなく、相手が病院通いになった時からはそれどころではなくなっていたらしいから、要するに彼はまだ処女だということか。
「処女って言い方やめてよ!事実だけど、さ。俺、本当に甘やかされてきたから」
「じゃ、これから俺がもっと手越を甘やかしていいってこと?」
「へ?」
意味をよく受け取れなかったらしい彼は、徐々に俺の言わんをしていることを察し、真っ赤な顔をしながら俺にしか聞こえない小さな声で言う。
「嫌だったらついて行かないし、あなたのところに行くかを迷ったりもしないよ」
眉尻を下げてそう言う彼が本当に愛しいと叫びたくなった。
「……そっか。ありがとう」
立ち上がって彼の唇に自分のそれを当てると、遠慮がちに、でも今までの中では一番強い力で背に腕が回された。
「祐也がいいって思ったら、言ってほしいな」
「そんなの……もういつだっていいよ」
潤んだ瞳でそんなことを言われたら我慢できなくなりそうだ。
「バカ、そんなこと……」
「本気だよ。タカになら今されても、いい、から」
涙ぐみながらそう言われ、今すぐ寝室に連れていきたくなった。それを一旦押しとどめ、代わりに深く唇を合わせる。項に手を当て動きずらくして舌を深く差し込むと、油断していたらしい彼は簡単にその侵入を許してしまって背中の布を必死に掴む。舌裏を舐め上げ、絡めた熱い舌をきつく吸い上げるとかくんと膝が折れた。それをすぐに支えると、脇腹を掠めた手に彼の身体がぴくりと跳ねる。
そんな触れ合いを重ねるにつれて、頭の奥でちらちらと燃えていた小さな火が赤々と燃え盛っていくのに自分で苦笑いだ。
「タ、カ…」
参った……本当に。そんな声出さないで欲しい。
「……すぐに手を出しちゃうってさ、なんか祐也の元彼に理性面で負けた気がして悔しい気がする」
正直にそう告げれば彼はきょとんとしたのもつかの間、くすくすとあどけなく笑った。そして俺の手を確かめるように絡めて握る。
「あの人と一緒にいた時は……お互い、若かったのもあるし。もうあれから十年近く経って、俺はもう三十路よ?年取ったんだ。俺も」
「それなら俺らは大人だね」
「うん、そう。だから、お互いのことはお互いの責任と判断で……だしね。ちなみに、俺はしたいと思ってる」
「……いいの?」
「そうっていってんじゃん」
彼の方から腕が回され、心地よい体温が首を伝った。遠慮なく取った手はすぐに握り返されて
、二人で寝室までの道のりを急ぐ。ゆっくりと倒した薄い身体は白いシーツの上でよく映えるくらい薄赤く染まっていて、鎖骨のくぼみに口付けると「ひゃっ」と可愛い声が上がった。自分で驚いて慌てて口元を押さえるのが堪らなくて、煽られる身体を少しでも冷まそうと息を吐いたとき、枕を握っていた手が俺の頬を滑った。そして目を綺麗に細めて言う。
「いいよ、タカ……我慢なんてしなくて」
「……はっ、敵わねえな」
彼はもうとっくに覚悟を決めているようだ。それなら後は、自分が誓えばいい。
「前の人よりもっと、その人が嫉妬するぐらい祐也のこと愛して、大事にしてみせるから」
「…ふふ、楽しみにしてる」
その柔らかな笑顔に答えるべく、俺は腕の中の彼と夜に溶けていった。
『最後にね、一つ約束して欲しい。
それは、もしゆうやに好きな人が出来て、その人が本当に祐也を愛してくれる人だったら、俺なんかに遠慮しないでね。お前には幸せになれる権利があるから。あの別荘も、その人と休暇中にでも使ってよ。その方があの家も喜ぶ。
でもその男には条件がある。
俺が嫉妬するぐらい祐也のこと愛して、大事にしてくれるような人じゃないと俺が許さないよ。草葉の陰から飛び行ってやめた方がいいって忠告するからね。
それじゃ、元気で。幸せにねーーー』
1/1ページ