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Baby Please Don't Cry

「手越、俺のスカーフ知らない?」
「見てないよー」
「そう?楽屋に忘れたかな」
「ホテルの中もっかい探したら?」
「そうする。いくらだっけ?ここ」
「今回は俺が払うよ」
前回はこちらが代金を出したから、今回は彼が宿の代金を払うことになっている。俺に起こされてシャワーに入った彼は下着だけを履いてバスルームから出てきた。着替えが完全に終わった俺を見て、相変わらず早いのなと笑う。ゆるっとした襟から覗くのは赤紫の歪な蝶のような痣。彼が襟を整えたことでそれはすぐに見えなくなった。
彼を助手席に乗せて家まで送るのはだいたい俺だ。いくら‪アルファの俺とセックスして、発情期特有の頭がぼーっとする感じをオメガ用のエナジードリンクで打ち消したとてこの期間にオメガである彼が運転するのは危ない。
「着いたよ」
「あ、ホントだ。ちょっと待って、もうすぐ終わるから」
タブレットを何度かタップして、ケースを畳んだ。
「あんがと、増田さん」
「んーん、こちらこそ」
「またこの時期になったら頼むわ」
手を振り振り返すことも無く淡々と互いの家へと急ぐ。俺達は番だ。ただ、世の中で出回るオメガのイメージと彼はかけ離れている。そもそも俺達がこの関係になったのは事故でも好きになったからでもない。利害が一致した、というのが一番近い。
俺はオメガのフェロモンをキャッチしやすい体質で、わざわざ高めのヒート抑制剤を買って飲んでも微弱なフェロモンでさえ気になってしまっていた。対して手越は、人よりフェロモンの香りが色濃く、ベータでさえもその芳香をキャッチして襲われやすくなっていた。現に彼はスタッフ達を無意識に匂いで誘ってしまい大人数に襲われかけたこともあった。助け出そうと手を伸ばした時は心臓がバクバク鳴り手が震えたがそれを押さえ込み、怯える彼を抱き締めて恐慌状態からなんとか引きずり出した。彼を背負いながら、これは手越、声変わりも終わりきらない頃から隣で立っていた手越だと言い聞かせ、脳内の理性が焦げ付くのを感じながらホテルの部屋に彼を押し込んだこともあった。だから俺達は契り合ったんだ。加えてこの世の中では未だにオメガに対する差別が激しく、出来るだけ早く番を番を持った方がいいと事務所からも言われていたから。
番ありということで俺は言い寄られないし、彼だって女の子とも自由に遊べる。最近は昔ほど遊びをしていないが、変わらず俺達は仕事仲間として、相棒としての関係をずっと続けている。

『好きになることはないだろうしね』

軽く笑いながらそう言い合って項を噛んでから何年経ったろうか。俺はこの長い年月の中で変化した心境を押し殺し続け、何事もないように振舞っている。
小山とシゲは愛情を持った番関係にあるが俺達のことに言及することは無いし、過剰に心配することも無かった。だから俺達は淡々とした身体の関係。そして強固な相棒としての結び付きを手を取り合って築いてきていた。
そんな中、ある病が流行る。罹患するのは総じて数少ないオメガ。発症するのが彼等だけということからデリカシーも何も無く『オメガ不安症』と名付けられた。ふとした瞬間に目眩、立ちくらみ、パニック症状のような過呼吸が起こり、立っていることも呼吸さえできなくなる。まだ死亡例は出ていないが発生源すら分かっていないのが恐ろしい。増してうちのメンバー内二人がそのオメガだ。小山はシゲだけでなく手越にも口酸っぱく気を付けろだとか何か異変があったらすぐに言ってと必死に伝えていた。俺も気になってきて、メイクルームの椅子に座ってスマホを弄る彼の背に問いかける。
「手越、」
すれば、スマホを取り落としそうになりながら大慌てで画面を暗くした。どのみち何も見えなかったからなんともないが。
「なんか変なサイト見てたのか?」
「ちっがうし!そういうの流石にこんなとこで見ねーよ」
「別にいいけど。……で?身体は?」
スマホのカバーを閉じる親指が不自然に動く。あー、と無意味な声を漏らしながらこちらに身体を向けた。
「流行りの病気とかと関係ないんだけどさ、なんかホルモンのバランスが崩れてるらしくて……」
「これ終わったら時間空いてるけど」
そう言うとあからさまに安堵したように息を吐き、肘を着いた手で額を抑えた。俯いた体制のままつむじの上で手を合わせ崇めるようなポーズをとる。
「マジ助かる。明日ロケあってさ」
「ああ、なるほど」
早くから出るのにこのままじゃ不味いと思ったらしい。撮影後、彼とホテルに向かった。ラブホはあまり気が向かず、少し高いが壁が厚いビジネスホテルに決めた。部屋に向かう途中で彼の方を見遣れば、確かに頬が赤いし薄い唇も少し腫れている。そこに手を伸ばして熱に触れようとしたら、彼は指をすり抜ける花弁のように躱す。
「先、シャワー行っていいよ」
仕方ないので腕を下ろし、頷く。そこからの流れはいつも通りだった。そっとその頬に触れたら熱くて、感じるとすぐに涙腺が緩む。それでいて初めて抱いた時から変わらず声を必死に抑えるところ。サブジェンダーを知った時からオメガだということを酷く恥じている彼はこうして抱かれている時も世間が思う”アルファに蕩ける淫らなオメガ”になりたくないようで、必ずバックでするように指定し後処理も自分ですることが常だ。快楽の後、だるいであろう身体をいたわることなどしたら猫が威嚇するように拒絶した。『女扱いするのだけはやめてくんない?』引き攣った笑みを浮かべる口元に対し、大きな瞳は凍りついていた。俺は今でもあの目が忘れられない。そんなに悔しいことがあったのか、誰かに何か言われたのかなんて言える空気ではなかった。ただ、彼は俺の襟首を掴み叫ぶようにして言ったんだ。
『増田さんさぁ、俺がこの性を捨てたいって思う理由、分かる?分かんないでしょ。分かるって言うなら、発情期に無条件にアルファやベータを引き寄せちゃうってこと。確かにそれもあるよ。でもね、どれだけ頑張って馬鹿みたいに副作用の強い薬飲んで対策したって、効きが悪い俺は漏れるもんは漏れんの。それを口実にオメガのフェロモンに充てられたからって無理やりに襲ってくるやつなんてゴロゴロいる。貴方みたいな人は優しいから違うって知ってるよ。でも大多数は違う。向こうが強要したり身体を押さえつけて無理やり押し倒してレイ……勝手にしてきたとしても、全部俺のせい。無条件にフェロモンを撒き散らした卑しいオメガがアルファを誘ったから自業自得になんの』
『そんなことされたなら訴えれば……』
『はは、そんなの、最早罪として認められないよ。事件として扱ってすら貰えない。経験者だけど、聞く?』
顔を不自然に歪ませる彼は笑おうとしているんだろうか。髪を触ろうとした指は高い音を立て手酷く振り払われた。
『……さっさとしてくんない?こっちも理性保つのに必死なの』
その後、俺彼は行為が終わってシャワーを浴び戻ってくるまで顔を見せようとしなかった。



「……ぅん、ふ、ふぐッ…ん、ん……‼」
「ほら、イけ」
バスタオルに擦り付けられた唇がたまに見える。若干切れて白い布に赤い筋が見えた。明日仕事なんだったら噛むなと指を噛ませる。だがそれから彼は唇を噛むことをピタリとやめ歯を食いしばった。昔からこの調子だから、俺もそれを普通と見なして要望通りに突き放したようなやり方で抱くようになっていった。中で出すこともそう。オメガのフェロモン抑制はアルファの射精によって起こるからそうしているのか、自分たちの関係に線引きする為なのか。もう、分からない。手軽で冷たくてスッキリしていたはずの番関係は、いつの間にか、もう既にこの時には俺の中でぐちゃぐちゃになっていた。
いつも通り先にシャワーを浴びて先に布団に潜り込む。
「先寝るわ」
「うん」
さっきまでの余韻を全く感じさせぬ素振りで手越はベッドを立った。仕事の疲れも相まって簡単に眠りに落ちることが出来た。ただ、夢を見た。最近よく見る夢だ。手越が目の前で泣き濡れる夢。その場所ではいつも二人きり。俺の家だったり彼の家だったり、待機部屋、メイクルーム、打ち上げに使った料理店、ステージの上だったこともあった。喘声一つ漏らさない彼が嗚咽してはらはらと涙しているのを自分は立ち尽くして見ている。最近は夢の中でも身体を動かせるようになった。肩をゆすったり声を掛けたりしても手越は顔を上げないままなのが常だった。
今回の夢では、ベッドに横たわる俺の隣で薄いTシャツを着た彼が嗚咽を押し殺して泣いていた。青白い月明かりに照らされる薄い背が呼吸に合わせて動くのがいつもの夢よりも生々しく見える。手を伸ばし、細っこい腕を掴んで腕の中に引き込む間に真っ赤に充血した大きな瞳を捕える。癖のつていないぺたんとした髪を撫で、偶像に語り掛ける。
「そんな泣いたら、目が腫れるよ」
口を開いてはくれない。都合のいい夢だと心中で笑いながら腕の中の温もりを抱きしめる。
「手越が、ベータかアルファだったらよかったのにね」
もしそうだったら、彼はあんなに苦しまなかった。直接聞いてはないけど、理不尽な差別だって受けることは無かった。副性を知る事務所の人間からもその努力を素直に評価してもらえるはずだったはずだ。そして、俺もこんな偶像に縋ることだって無かった。そんな思いを頭に巡らせ、閉じ込めるように虚像をきつく抱き締める。自分勝手な明晰夢に閉じ篭る自分に吐き気がした。
朝が来て目を覚ませば一人。ベッドサイドに多めに置かれたホテル代が自分を現実に引き戻した。目を閉じて浮かぶのは彼。夢でも虚像でもなく、泣いてもいない現実の手越。ふわりと笑うあの顔。今でも見る機会はあるのに何故か遠く感じるのは、自分の脳裏に張り付くあの時の瞳に未だに凍らされているからか。いや、それは多分ただの言い訳だ。
「ごめんね。·····───」
今更鳴った無感情な目覚ましに嘲笑われた気がした。

当然状況は変わらぬまま時は過ぎていく。それから数週間ほど経ったある撮影の後。それぞれが騒がしくしていたのがようやく治まってきて、小山が次の打ち合わせへ向けて身支度をしているのを横目で見ている。背後ではシゲと手越が話しているのが聞こえている。エマに構っているらしい。漏れないほどには小さいが、吠えているのは珍しい。
「エマちゃん珍しいね、いつもは鼻を鳴らすぐらいなのに」
携帯から視線を背後に移した小山も同じくそう言った時、硬い音が近くで響いて驚く。小山がテーブルにスマホを落とした音だった。同じく後ろを振り返る。すれば、桃色の頭がソファを転げ落ちているのが見えて。
「手越!?」
彼の名を呼んだのも駆け出したのも小山が先だった。一瞬目を疑った俺はすぐに動けなかった。手越は突如倒れ込み首に手をやって短く呼吸を繰り返している。ぜい、ぜいと酷い喘鳴が鳴り、晒された喉元は蒼い静脈が透けている。バランスを保っていられなくてソファから転げ落ちた身体をシゲが支えながら必死に呼びかけている。すれば、黒髪の隙間から大きな瞳がこちらを見上げた。
「まっすー、こっち来て」
「……、うん」
ワンテンポ遅れて返事を返したのは、その視線があの時の手越のものと重なったからだった。いよいよ目が虚ろになりかけている手越の傍らに跪くと、シゲがその痩身をこちらに差し出し、言う。
「手越にキスしてやって」
「は?」
「いいから早く!相棒殺したいのか!?」
唐突な指示だがすぐに彼に口付け、そっと舌を伸ばし軽く絡める。その状態をしばらくキープしていると、嵐のような症状がだんだんと治まってきた。口を離すと、シゲは手越に厳しい声で問うた。
「いつから?」
「何が?」
「とぼけんなよ。感染してたんだろ。いつから?」
「……分かんない。目眩がするなーっていうのは二ヶ月ぐらい前から」
返答に溜息を吐くと、シゲは俺に視線を戻す。
「まっすー、しばらくは手越を家に入れたげて。出来るだけ接触を多くして」
それに激しく抵抗したのは手越だったが、「死にたいのか?」と一喝されると大人しくなった。今まで手越を家に上げたことは無い。俺が他人を自分のテリトリーに入れるのを嫌がってこういうふうになっているのに彼の方が抵抗を感じているのが意外だった。
「いや、俺は別に……いいけど」
薄桃の間から透ける瞳が見張られる。が、増田さんの許可が出たのはいいけど、とまで言って言葉を濁らせた。
「……発情期?」
「…あーあ、シゲにはお見通しか。そうだよ。あと二、三週間で発情期が来んの。いつもは薬とΩ用のエナジードリンクで最小限に抑えてるから一回だけで済むし楽なんだけど、流行ってるやつに罹患した人がそれを飲んだら副作用が出て入院したんだって」
「だから?」
「だから、って……」
視界の端でシゲが分かった、と手で足を叩く。
「抑制剤無しの発情期間中の状態をまっすーに見られたくないんだろ」
途端に目の前の耳が髪色よりも桃色、いや赤色に染まった。抑制剤無しって、そんなに変わるんだろうか。話のついていけていない俺にシゲがゆっくり説明する。
「発情期が起きたらまず抱かれるだろ?なんだけど、発情のしように驚いたり引いたりはしないで欲しい。それ結構傷つく要因になるらしいし、されたらぜったいショックだから。手越はいつもは色々対策して発情した次の日にはいつものペースで生活するんだけど、薬剤が無いとその後二日間ぐらい状態が安定しないんだ。その時期はオメガ不安症の発作を起こしやすいって言われてる。だから……」
「……もういいよ」
手越の顔はもう火が吹きそうに真っ赤だった。目も潤みきっている。シゲはクスっと笑って手越の肩を叩くと、表情を改めて俺の目を見ていくつかの注意事項を挙げた。今の手越は不安になりやすいし色んなことに恐怖を抱きやすくなる。それに加えて発情期前だから尚更心が不安定だから、下手したら倒れるかもしれない。エマは小山が一旦引き取って明日手越の実家に送るから、まっすーはちゃんと手越の事見てて、と念を押された。手越は複雑そうな顔をしていたが、立ち上がるときの立ち眩みに自分の症状の酷さを再認識したのか観念してとぼとぼ俺の後ろをついてきた。いつもなら喋ったりする車内では珍しく無言で、彼もスマホゲームさえやろうとしなかった。のろのろと靴を脱いで、まず風呂入るわ、という俺に「ソファーに座っていい?」と借りてきた子猫のように聞くのが可笑しかった。
シャワーに当たりながら今まで見てきた彼の夢を思い出す。相変わらず場所は様々で涙を見せていたけれど、あの日のように一瞬でも顔が見えることはなかった。それが不思議だった。風呂場を出て部屋着などを着て髪を拭きながら向かい合う洗面台の鏡にはリビングで待つ彼の私物は一切ない。それは彼の家でも同じだろう。身体の付き合いももう何年も続いているのに……なんて、俺が憂えることではない。
すると、部屋の方から何か物音が聞こえる。タオルを洗濯機の縁に掛けリビングに向かって部屋を見渡すが、先程居たはずのソファーに彼の姿はない。
「手越ー?」
ソファーの裏を見たが、やっぱりいない。一応玄関まで行ってはみたが靴はそのままだった。先に寝た?いや、手越は俺が風呂に入っていない体で寝室に入るのを嫌うことを知っている筈。そう思い廊下を引き返した時、トイレの電気が付き、光が閉じきっていない扉から漏れているのに気付いた。
「おい、ドアぐらい閉めろ…って……」
その光景は想像と違った。
これは夢だ。いつもの下らない夢。

本当にそうだったらよかったのに。






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