おかえり、透
「透を何処へやった」
目覚めて開口一番、目の前で悠々と笑みを浮かべ仕立てのいい紺地のスリーピースを着こなした男に吠えたてる。
透によって自宅に縫い付けられたはずの自分の身体はいつの間にか何処かの白い床に転がされていた。何故薬で眠らされていたのに目が覚めたかと言ったら、それはこの両足に走る痛みが起因。両足を抉るような激痛に、朦朧とした意識は霧散し視界がチカチカと点滅した先に黒光りする革靴を見つけ、本能的に、確信を持って思った。この男が、彼を……。
だが、身体を動かそうと腕を立てたときに気付く。足の痛みを感じるどころか、むしろ痛みは引いていて。そもそも感覚が、ない。
無理矢理首を回せば灰のスウェットは片足が赤黒く染まり、もう片足はありえない方向に曲がっていた。なのにも関わらず痛覚が何処かに飛んで行ったことに腕の力がガクリと抜けた。
「石川透が起きるまであと少しある。その前に彼の情人と遊ぶにも一興と、部下に連れてこさせたんですよ」
「……あの人を、どうするつもりだ」
楽しそうに、にへらにへらと嫌な笑い方をしながら口を開く。
「それは、起爆剤といった所でしょうか」
「起爆剤?」
「可愛がっていた弟分が重傷で、頭を砕かれて伏せっているところを見た樋口の顔が見たいんですよ。いい顔をするはずです。あぁ、想像するだけで舞い上がりそうだ」
「その人を殺すために……透を?」
「最初はただの狗としてだったが、それ以上に役に立ってくれるだろう」
くるりと振り返った男の手には鉄製の棒。それが振りかざされ、背を縮こまらせギリギリで避ける。床の大理石にヒビが入ったのをみて冷や汗が出た。
「避けないで下さいよ」
「イ゙ッ、」
仰向けに転がされた肩に硬い革靴がめり込み、抉るように踏みつけられる。
「にしても、あの男にこんな眉目秀麗な恋人がいたとはねぇ。車椅子とは知っていたがどこで出会ったんだか」
一思いに腹を蹴られると大階段の角に背を強く打ちつけ息が止まり、激しく咳き込み蹴られた腹部を抱える。庇う腕の上からもフルで振った長い脚で重ねるように幾度も蹴られ息が上がる。顎を捕まれ涎の垂れた口端と床で擦って出血した額を舐めるように見られるのが我慢ならず口に溜めた唾液を相手の顔に吹っ掛けると忌々しそうに顰め、頭を床に投げ出された。出来るだけ受身は取ったが、脳が揺れて吐き気が増して逆に意識がはっきりしてくる。
「威勢のいい雌猫だ。あの狗はろくに躾をしていないのか」
「はッ、猫って躾できるもんだけ?」
口の溜まった血を吐き出し、無理矢理口角をつり上げると不快そうに男の目元に皺が寄った。男が手を挙げ身を固くした時、はたと手を止め携帯端末を弄り出す。喉が裂けるような呼吸音を出しながら胸を上下させる俺の方をちらりと見やると、男は先程までの不機嫌さを何処かに捨て去っていて、むしろ楽しそうに鼻歌さえ口ずさんでいて。
「彼が目覚めたようです。申し訳ないが、貴方はここで大人しく這い蹲って助けでも祈っていてください」
その言葉と同時にスーツの内側から出されたのはギラリと光る銀色。その物体を認識した刹那、腹部に鋭く痛みが刺した。
「あ゙、うッあぁ……」
「動かない方が身の為だ。まあ、動脈を切ってしまっていたら二人諸共お空の上で会えるのでは?」
「……手前ぇは、親バカな親父諸共地獄に落ちてろよ。ッう、…は、手前のケツも手前で拭えないガキがよ」
悪意たっぷりにそう吐き捨てた。今までで一番の速さで男の拳が上がる。
───視界が真っ黒に塗りつぶされた。
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
透が本格的に意識を取り戻しそうな状態になり、自分は本日二回目だがあの病院へ足を運んでいる。大樹は同じ病院に透がいると知ると「透ちゃんのとこにお見舞い行く!!」と言って聞かず説得するのに大変だった。でもいつも面倒を見てくれたお兄ちゃんが昏々と眠る姿を見たらショックだろうからまだ足止めさせている。
今朝来た時、短い間だったが目を覚ました。応答はしないし、目の焦点も合っていない。反応といえば今まで通りの手の反応だけだったが、俺の声を聞くとあの優しい目元からぽろぽろ涙が零れていくのを見てこちらの胸が引き絞られるようで。ごめんなさい、と音のない声を繰り返すのに大丈夫だと繰り返すが、俺を認識しているのか分からないまままた眠りに戻ってしまった。三十路の男にしてはあどけなさすぎる寝顔を見て苦笑する。見てもいないのに、暗闇の中でぐしぐしと涙をぬぐいながら苦しそうな顔をのぞかせる姿が頭に浮かんで苦しくなった。
『昼過ぎ、四時ぐらいにまた来るよ。それまでには起きてろよ、透』
そう手首を掴んで言えば、ゆるりと意志を持って手先が動いた。
そわそわする俺を見兼ねた室長に早めに仕事を上がらせてもらい、106号室に走る。迷いなくドアにかけようとした手だったが、力を込める寸前に中からの声に動きを止めた。高めの男の声がする。必死に彼の名を呼んでいる。
「……おる、透、透ッ‼」
「ぅ、や……?」
「うん、祐也だよ。へへ、兄貴さんより先に名前呼んでもらってよかったのかね」
掠れた声に返す明るい声は聞き覚えがあった。二度ほど救助に向かった青年。そして、透を助けに向かった豪邸の大階段の下で薄っぺらい腹をサバイバルナイフ刺され倒れていたのを見つけていた。足が悪い割に腕っ節が強かった気がする。そうして今回、俺達を襲う一環の流れの内に巻き込まれ、歩行はこれから出来なくなるだろうと診断されたと聞いている。
透の病室では今まで鉢合わせることなんてなかったから、自分自身も傷は重いはずなのにわざわざ俺を含む彼の知り合いが来る時間を避けて透の元に通っていたのだろうか。
「あにきが…ここに?」
「うん、何度もね。透、大好きな兄貴さんが来て手首を掴まれて名前を呼ばれたら誰よりも大きく指を動かしてたんだからな。今朝いらっしゃった時も、一瞬目を覚ましたって聞いた」
「……全然、覚えてねえわ」
少し落胆してしまう自分がいる。
「でも、頭を撫でられてた気は、してた」
「どんな手つきだった?」
「……少し雑だけど、優しくて、あったかくて。この手が兄貴だったら、いいなって」
咄嗟に手で声を出しかけた口元を覆う。感じて、気付いていたのか。
「兄貴さんだよ、それは。間違いなく。ほとんど毎日来てらっしゃるよ。ひかりさんも定期的に顔見に来てくださってる。やっぱり透は愛され上手だな」
「それを裏切ってちゃぁ、俺はそれを全部……」
声色のトーンが下がった。それでも、透に言葉を返す彼の声は変わらず明るいままだ。
「裏切ってたとしてもさ、このたくさんの見舞い品の数見ればあんたがどれだけ想われているか、分かるでしょ?」
彼の部屋の棚を思い出すと、確かそこには自分や室長、彼の同期達、部下、そして巡査時代の上司や駐屯していた交番の近所の住民が噂を聞き付け送ってきた物で溢れていたのを思い出す。多すぎるから、花や果物が棚から落ちそうだと常連の中華料理店の女主人が一部を箱に詰めていた。ふわふわした笑顔は刑事と言われてもピンと来ず、最初にバディを組んだ時はその童顔からどんな新人だと思ってしまったぐらいだったなと思い出す。実は腕っ節が強かったり食い意地が張ってたり……いや、後者の場合咀嚼する顔が童顔を加速させていたからイメージ通りと言ったところだったか。
「多分、もうそろそろ兄貴さん来るからおいとまするね」
気を使わせているのを申し訳なく思いながら壁に背をつけ待った。車椅子のブレーキを外す音がしたと思うと、軽い接吻の音が聞こえ束の間思考が止まる。すれば、
「お疲れ様だったな。……ああ、そうだ」
クスリと、ふわりとした笑みを彷彿とさせる笑い声が聞こえて。
────おかえり、透。
今まで聞いていた中で一際柔らかい声がした。全てを抱きしめて、包み込むような包容力のあるものを聴くのは久しぶりで。
『おかえりなさい、彰吾さん』
数年前まで聞いていた妻の声が記憶から綺麗なままに呼び起こされた。室内から押し殺そうとする嗚咽が聞こえ、泣き虫だなあとか兄貴さんにそんな顔見せていいのだとか言っているがこれに関しては彼が悪いと思う。病室に入って透が泣いていたとしてもこればかりは許すしかないな、だって自分は涙こそ流れていないが恐らく目は真っ赤だし濡れて光っていそうだ。
「足が悪くなって世話が面倒って思っても、捨てないでよ、俺のこと」
「馬鹿、んなことできるか。そういうの言うのはこっちの方だろ。情けないって……思わないのかよ」
「んーん、透は、優しいだけだよ。ご両親想いでお人好しで素直で正義感強くて、」
「やめろって。もう……」
そんな会話を聞きながら、目の火照りが引くのを待った。しばらく経って病室のドアが開き、車椅子が完全に出てきたところでゆっくりと代わりにドアを閉めると、大きな瞳がこちらを見上げる。驚かせてしまったようだが、少し目を泳がせ「『兄貴』さん、ですか?」と聞かれると少し笑ってしまった。ちょっと話していいかと誘えばテラスでと提案され振動の少ないように車椅子を押していった。
薬に影響が出たらいけないので水を二つ汲んで片方を彼の前に出すと小さな頭がぺこりと上下した。
「すみません、わざわざ」
「俺が誘ったんだ。気にしないでくれ」
「でも、透のとこに行かなくていいんですか? その、……」
「樋口彰吾だ。樋口でいい」
「すみません樋口さん、兄貴さんなんて呼んじゃってて。あ、手越っていいます」
にこりと微笑む彼は透よりも圧倒的に華やかな顔立ちだったが、笑うと主張の強い眦が緩んで表情が数段柔らかくなるからだろうか。彼と同じく目の位置が低く童顔気味な事もあいまって、少し二人が似ている気がした。
あの館の影の下、透とは別の場所で重症で見つかった彼の容体を聞きながら今回の事件の詳細をつらつらと話し、証言台に立つことにつくだろうことは云々とその辺の話を終えると、互いに透について話し始めた。サッカースクールの少年を庇い守っているさなかに透に助けて貰ったこと。偶然が重なって顔を見るうちに惹かれていき、奥手な透よりも先に彼が交際をもちかけたこと。ある時を境に魘されたり苦しむ姿を見るようになったこと。自分が脚を悪くしてしまい日常生活が大変になった時は献身的に支えてくれたこと。あと、不意打ちのキスには弱いこと。俺はこの会話でようやく「交際」のことをはっきりと認識した。
「よかったよ。あんたみたいな人がいて」
彼は俺の言葉に目を丸くした。ぱっちり開かれた目はうちの室長を思い出させる。
「いやいや、それ兄貴さんには敵いませんよ」
「兄貴さんはやめてくれ」
「あ、すいません。……ふふ」
もうそろそろ投薬の時間だと看護師に言われた彼は申し訳なさそうに眉尻を下げる。気にしないでいいと言いつつ立ち上がり彼の車椅子を押して部屋まで送った。早く透のところに、と俺を急かす彼は本気で透を想う瞳をしている。この子がいてくれれば、とどこかで安心した自分がいた。
予定よりも三十分ほど遅く入室した106号室で、透は眠りもせず自らの右手を握りしめたり開いたりを繰り返している。
「透」
その手をビクリと揺らして透がゆっくりと首を回す。兄貴、と呼んだと思うとまだまだ痛む身体を無理やり起こそうとして顔を歪めるのを見て、慌てて宥めた。
「よかったよ、目が覚めて。本当に……よかった」
手首を強く握って目を見れば、その双眸は動揺して揺れている。
「なんで、来て……」
「来るに決まってるだろ。お前が退職願を出したとて、俺はお前の兄貴を辞めるつもりは無い」
そう言いながら傷に障らぬ程度の力で頭をわしわし撫ぜると、透の睫毛がしっとりと光った。怪我が治ったら飲みに行くぞと声をかければ案の定首を振って断られる。
「何であに…樋口さんは、そんな風に俺に接して……」
「拗らせてんなぁ。兄貴って呼べよ」
「でも、」
「そっちの方が話しやすいしな。何よりそんなんじゃ手越くんに心配させちまうだろ」
「会ったんですか!?」
手越、という名に激しく反応し背けていた顔がこちらを向いた。素直な反応に口角が上がる。座り直し、ベッド柵に腕を置きながら彼の恋人を思い浮かべる。いい子だなと言えば、そんなレベルでは無い、助けられっぱなしだと呟く。先程の金糸の彼も同様に「脚がどんどん悪くなっていってもなにも面倒な顔せず助けてくれるから、嬉しいようで申し訳ない」と零していたのでつくづく似合いのカップルだ。そこで思い出すのは、数十分前の『おかえり』の声。
「あの子を見ていると……なんでだろうな。未希を思い出すんだ」
「……奥さんを、ですか」
あいつ大分気が強いですよ、と透は言うが。
「なんて言うかな。何があっても自分が帰ってくる場所で待ってくれているっていう根拠の無い確信を持たせてくるんだよ。『おかえり』なんて言いながら満面の笑顔で迎えてくる。一周回ってタチが悪い」
「兄貴、聞いてたんですか」
少々顔を赤くしている弟分ににやけながらもう少し強めによしよしよしとすると、弱ったような何とも言えぬふうな顔になって、拗ねた子犬を彷彿とさせた。何があっても可愛い弟に変わりはなかった。
「動けるようになったら、大樹のとこにも行ってやってくれ。あいつ俺が来る度にお前のこと聞いてくるんだよ」
「……いいんですか」
「いいも何も、あいつが望んでるんだ。お前が来なくなってからまだ一ヶ月たってないのに『透ちゃんは?』って言ってくるからな」
「大樹のやつ……」
彼の表情が少し緩む。透があの時勘づいていなかったら、大樹は樋口の刺客によって襲われていた。あの時の腕の傷跡は、三週間動かず安静にしていたことでようやく塞がってきた。
「透、」
こちらに首ごと顔を向けた男の頭をぽんぽんと撫でる。息子にするような手つきにきょとんとしている。
「お疲れさん、だったな」
暫し固まった透はおもむろに痛む筈の左腕を上げ、目元を覆った。
《留守電:一件》
もしもし、パパ?
あのね、今日透ちゃんが来てくれたよ!手越くんって人も一緒だった。今は大きい会社のところで、僕と同じぐらいの子のボディーガードやってるんだって!元気そうだったよ!
でね、透ちゃんと仲良しな手越くん、この前手術してリハビリが終わって、やっと退院なんだって。それでね、前はサッカーの先生やってたんだって。それで教えて貰ってた子達が僕のとこに来てた手越くんに会いに来て、友達になったんだ!もし退院できたら僕もサッカーやりたいなーって思った。いいかな?
時間あったらまた来てね!待ってるよ、パパ!
じゃあ、ばいばい。早く来てね