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おかえり、透

今までで一回だけ、彼を酷く傷つけてしまったことがある。

その日は、結構気が立っていた日だった。自分の負い目や精神を蝕んでいく感情も相まって――帰ってからすぐ酒をかっくらい、意識も記憶もぼんやりしかけてそのまま寝落ちて。
だが、目が覚めたら自分の下でぐちゃぐちゃになった恋人が壊されたように眠っていた。力ない手足、飛び散った精、鎖骨から胸あたりまでにいくつもついた鬱血痕、口角から垂れた涎に幾筋も頬に残る涙のあと……それを見た途端、頭から血液が一息に引いていき、脳内に焼き付いた音声が自分がしたことを知らしめた。
汗が吹き出して息が上がっていく。勝手に手足の先が震える。

――透?どうしたんだよ、こんなに飲んで、潰れて…――

――やめて!!落ち着けって!ちょっと、やッ――

――こわいよ、なぁ、ヒッ…あ、やぁ……う、うぇ、――

――とお、る……へいき?落ち着いた?…俺は、大丈夫だから、お疲れ様、ね……――

青白い頬に手を這わすと、穏やかな呼吸が爪先にかかり泣きたくなった。軽く体を揺すって声をかけても反応がない彼に目眩を覚えながらも体を清めて清潔なシーツの上に寝かせた。明日も仕事があるので朝まで休息を取らねばならないのになかなか寝付けず、ぼんやりしたまま小さな頭を撫でていた。すれば、長いまつ毛が震えて、ゆっくりと薄い色の瞳が俺を捉えた。
『ひっどい顔。……お疲れだったな』
『…ごめん』
『なんか、あったんでしょ?言わなくていいけどさ、怖いし。本当にお疲れ様な』
つい、真っ直ぐな瞳から目をそらす。なんでこの人はこんなに優しいんだろうか。悔しくて奥歯が音を立てた。また怖がらせたくなくて、それを必死に押し殺そうとしながら口を開く。
『ありがと。朝までなら一緒にいられるから、何かして欲しいことがあったら……』
『ここにいて』
『……え?』
『透が仕事にいるまでの時間まで、ずっと』
『…、分かった』
『うん』
衝動的に痩身の骨が軋むかと思うほどきつく抱き締めた。勝手にぼろぼろと涙が溢れてきて、口は"ごめん"という言葉をただただ繰り返す。
そんな情けない俺の頭を笑いながら撫でた。泣き虫だなあ、なんて言いながら。
『いいよ、大丈夫。無理しなくていい。透は案外脆いとこあるってことは分かってたし、仕事でなんかあったんだろ?』
分かってたのかよ、弱いなんて。恥ずかしいとこ見せたくなくてかっこつけてきてたのに。
名前を呼んだら、掠れた声が応える。
『……ねえ、ゆう、…これからも、一緒にいてくれる?』
自分の声は馬鹿みたいに震えていた。
『変なこと聞くのな、もし嫌いになってたら起きた瞬間に逃げ帰ってると思うけど』
酷い面を見られないように一旦彼に背を向けて肩を震わせた。悔しい、情けない、酷いことをした。こんなに優しくて華奢で、俺の仕事をわかってくれていて、何より俺のことをずっと好きてきてくれている彼にレイプ紛いのことをするなんて。服の襟元を握って声を噛み殺した時、色の薄い手が強ばった拳を包んで、もう片方の手が丸まった背筋に触れた。
『透』
『……』
『こっち、向いて』
『……いやだ』
『じゃあ無理矢理向かせるぞ』
応じない自分に軽く溜息を吐いて、背後でもぞもぞと動く気配、せめて涙は拭おうと手を目にやった時、背後でガタっと何かが崩れる音がし反射的に振り返って手を伸ばした。
『いってぇ…』
『け、怪我は!?』
慌てる俺に彼はしてやったりと笑っていた。
『ふふ、こっち向いた』
『ごめん、痛かったよな』
『それはもういいから』
軋むような痛みがあるはずなのに、それをものともせず俺をシーツに押し付け、上に覆いかぶさってきた。そのままポカンとした顔の自分の口にキスを落として。
『ほら、透も』
『ふぇ?』
『仲直りのキス!まあ、いうて喧嘩してないけど』
『……え、』
『してくんないの』
途端に拗ねた表情を見せる。違う違うと否定しようとしたら細い指が口を塞いだ。
『昨夜から今まで、してくれてない』
小さな口をきゅっと悲しげに引き結んだ。さっきまで明るいふうに見えたからその変化に焦る。
『ごめ、何を…』
『だから、キスしてって言ってんじゃん!!』
すん、と先が赤くなった鼻をすする。目も水の膜を張っているのが薄暗がりでもわかる。
『昨日シてるときも、全然してくれないし、いつもは言ったらすぐにしてくれんのに……だから尚更怖かった』
『……ゆうや』

怖い思いさせて、ごめん。ごめんな、大好きだよ。

上体を起こして震えている桜色にそっと触れた。後頭部に手を回してゆっくりと深くしていく。薄く目を開ければ間近にある整った顔が雫に濡れていて。
胸あたりに添えられていた手を握ったら、きつく、きつく握り返された。

そんなことがあった夜明け前もあった。


































「透起きて!!こんなとこで寝るなって言っただろ!」
「うぉ!?え、何なに」
「銃弾ギリギリ躱して頭打って怪我してんだから、ちゃんと休んで明日に備えてって、上司さんからも言われたんだろ?」
「え、怪我?」
大丈夫か、というような顔で頭を指さすジェスチャーをしてくる。いやそんなに呆れ顔しなくても。怪我?ってなんだっけ、と思いながら自分の頭に手をやると鋭い痛みが走った。
「いってえッ!?」
「ばっか!もう、疲れてるんだから早く寝ろって!」
慌てて氷嚢を持ってくるためにキッチンに走る彼を見て思う。ああ、懐かしい夢を見たなって。頼りなさすぎて最低な姿を見せたあとも彼は優しかった。逆に、こうして怪我をこさえて帰ってくると心配が過ぎて怒りっぽくなるのを少し前に気付いた。怒っているように見えても眉毛がハの字になっているので逆になんか嬉しくなってしまうが。
「そんなに心配しなくていいよ、軽く頭打っただけだし」
俺の言い分を聴きながらも無言だが優しい手付きで患部を冷やされる。彼の教える生徒にでもなった気分だ。
「本当に大丈夫だって。子供じゃあるまいし職業柄よくあるしそんな心配しなくても……」
「はぁ?怪我に子どもガキ大人デカもあるかよ!!」
「……すみません」
軽く……いや、大分ビビった俺を見てよし、と頷く。こういう時の手越はめっちゃ怖い。
小中学生向けのサッカーチームで働くにしては童顔過ぎてナメられないのかなと思ったことはある。けれど持ち前の運動神経があるからそんなことは無いのだろうと思っていたが、叱る時には整った顔立ちも相まって迫力があるし、よく通る声にもビビらせる力があるし、彼は刑事でも案外やって行けるんじゃないかと思う。長く一緒にいてきて。
「ん。とにかく、ご飯食べたし風呂にも行ったんだから早く寝な?」
「はーい」
「明日近くの道路工事するらしいからいつもより時間かかるかもだから早く行った方がいいかも。ちょっと早めに起こすよー」
「マジ助かる」
わあ、なんか、すっげえ夫婦っぽい。ベッドに潜り込みながらそう思って勝手に顔が赤くなる。隣に潜り込んできた彼を見ると、ちょっとニヤついていて。
「多分、同じこと考えてるよ。俺も」
と言った。
頭に置かれた氷嚢を抑えながらキスしたら、満足そうにニコッと笑う。お返しにおやすみと言いながら、彼は頬っぺにお返ししてくれた。


そんな腑抜けた夜もある。





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