おかえり、透
「うっっげ、あっちい……」
Tシャツの裾で適当に汗を拭う。朝は肌寒かったので来てきた上着だが汗がしみていることに気付いてからすぐに脱いだ。住んでいるアパートの階段を上るのでさえもしんどく感じて頭を掻くと指先に汗がまとわりついてきて「うわっ」と間抜けな声を上げてしまう。何度目かの湿ったため息をこぼしたところで部屋の前にたどり着き適当に鍵を差し込む。手の汗が多すぎて鍵を錆つかせそうだななんてどうでもいいことを思ってドアを開けると、違う意味のため息が零れるほどに心地いい冷気が汗ばんだ身体を包んだ。
「……天国だ」
「あ、透ー?おかえり!暑いんだから早く入れよ」
「ん、エアコンつけててくれたんだ。助かる。……あ、ただいま〜」
それにニコッと返す金髪は一年ほど前に知り合った手越という男だ。子供向けの大きめなサッカークラブチームのコーチの一人、あとジムのインストラクターの仕事で働いていて、飄々としているが案外真面目なんだな、と知った時から仲が深まっていった。彼の両親はすでに亡くなっていてそのまま実家暮らしをしていたが、頻繁にこちらを訪ねてくるので最近はほとんど半同棲になっている。料理はダメだが洗濯は手際がいいので特に助かっている。
「その顔は、なんか事件一段落したの?」
「何とか、な。でも俺ほぼなんも出来なかったし……」
「そうやってすぐに反省モードに入んないの!お疲れ様!」
「……ふはっ、うん、ありがと」
この男のこういう所が好きだ。一緒にいると、勝手に自分がうだうだとどくろを巻いて思い悩んでいるのを馬鹿じゃねーのと一蹴してくれるし、何よりなんだか癒される。
「シャワー浴びる?」
そう言い終わる前に服を脱ぎながら脱衣所に向かう俺を見てカラカラと笑った。
「生徒の親御さんから差し入れられたサンドイッチの余り貰ったんだけどシャワーのあと食べる?」
「めっちゃ食べたい」
「りょーかい。待ってる」
言われたら自覚するもので、風呂の間腹は鳴りっぱなし。髪を拭くのも億劫でそのままリビングに向かって飯に齧り付くと背後からタオルが被せられて手際よく乾かしてくれる。
「今日はまたハードだったみたいだな」
「お前と会うきっかけになった事件の女子大生版みたいな事件」
「あ〜!さっき速報出てたわ」
「それそれ」
会うきっかけになった事件とは、当時世間を大いに騒がせていた男児連続拉致暴行事件だ。五件は起きてしまっていたと思う。その渦中のさなかに開かれたある試合の時、いつもなら迎えに来る母親が仕事でどうしても応援に来てやれないが一人で帰すのは恐ろしいと言ったところ手越が家まで送ると立候補したらしい。そして、目をつけられた。
家がそこまで離れていないからと手を繋いで歩いていっていたところ誰かが確実に後を追ってきたという。110番をかけ、男の子を腕の中に抱き上げながらも何度もその不審者をまき逃げようとしたが遂には追い詰められた。でもその腕を離そうとはせず、小さな体を必死に抱きしめて盾となり傷をその背に受け続けた。俺は違う事件からの帰りで署に戻る途中だったのだが、公園設置されたレンガの遊具から子供の鳴き声が聞こえてこた。件の事件が頭を過りそこに向かうと一連のそれを彷彿とさせる光景があった。偶然緊急司令室よりも早く現場に着けたのだ。
「コーチ!!しっかりして!!てごっっ!!」
男を拘束したが、男の子を庇い続けた彼は多すぎる出血からかなり重症になっていて、そんな彼を見て男の子は小さな手で傷を負った手を握ってわんわん泣いていた。
「ごめんなさい!僕のせいで、ぼくの……」
「たい、が ?」
何とか薄く目を開きながら口を動かす。
「怪我、ない?」
「ッないよ!テゴがずっと守ってくれたからぁ、う、うえぇえ……」
「ああもう、泣くなって」
携帯でやり取りをしながら、その光景を眺めていた。上着を男の子に貸していたようで薄着しているのを見かね自分のものを掛けてやると、ほうと薄い唇から息が漏れる。体温も低くなっているはずだ。
「もうすぐで救急車着きますから待っていてください。頑張って」
そんなこんなで彼も男児も無事保護された。
それから数日後、彼は貸していた俺のジャケットをもって職場を訪ねてきたのだ。腕のいいクリーニング屋に頼んでいたらしく、血痕も以前に付いてからなかなか落ちなかったタールのシミも取れていて逆にどこのクリーニングに!?と聞いてしまったことを思えている。そして、今はこんなに距離が近くなっていた。
「手越、」
「んっ…どーした?」
「ちょっと充電。だめ?」
後ろから抱きしめて、あの事件のときに負った刺傷を唇でなぞる。あと数ミリ深ければ大きな血管を破っていたというその傷は、細い項にくっきりと残ってしまっていた。
「いいよ、勿論。もしかして、言ってたひかりっていう人と何かあったの?」
「……少し。なんか、気に食わない」
「珍しい。透がそういう風に言うなんてなぁ」
後ろ手に頭をポンポンと撫でられるのを大人しく享受すると、腕の中の彼がくるりと振り返って微笑んだ。
「透がついて行きたいって尊敬するのは?」
「……兄貴」
「だろ?じゃあその人をまっすぐ信じていけばいいじゃん。その『兄貴』も、そんな透が必要なはずだから」
心をひりつかせていたささくれがちょっと治まった気がする。やっぱり俺には彼が必要だ。
「――うん。ありがと」
「どうも。そろそろ寝る?疲れてるだろ」
「今日は大人しく従うわ」
「お利口さん!」
『子供達を預かっている身なので当然ですよ』と、守りきった男児の母親に言った彼の凛とした表情が忘れられない。"それ"を仕事としている俺はそんな彼を素直に尊敬した。未だに残る無数の傷跡。背中から肩、腕までまあ酷いものだが、彼はそれらを勲章としているほどにはなかなかタフである。俺は事件があったらいつでも駆り出される身だからあまり会えない時もあるけれど、初めて一緒にいたいと心から願った人だ。なけなしのセンスで買ったお揃いのペンダントを渡した時のはにかんだ笑顔を一生忘れることはないと誓えるほどには、この男が支えになっている。
手越は最近の俺のoffの癒しだ。
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