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Mark of Bruise

今日は珍しくも部屋にも自分にも香水はかけていない。だってそんなものよりも沢山送られてきた瑞々しい花達がその役目を担ってくれているから。人工的なものよりずっと快適だ。
真っ赤な薔薇、
紅色の薔薇、
可愛らしい薄ピンクのもの、
俺には似つかわしくない純白のそれ。
常連の客達から送られたそれらの中には金箔やレースでデコレーションされているものもある。尋常じゃなく大きいブリザードフラワーもあって、これらは合計して一体いくらになるのだろうななんて頭の中で計算するなんて俺は結構薄情な人間だ。
その中で一つだけ、部屋に元々あった花瓶に生けられているのは爽やかなイェローと可愛らしいピンクが一対になったものが清らかなふうに見える。それらを縛ってあった赤いリボンは、不器用な指先で頑張る前に器用なシゲに頼んで花瓶に蝶結びにしてもらった。
自分が今日でここを発つと聞いた常連達が送ってきたものの中で一番小さなその二輪をじっと見つめていたら部屋がノックされ、低めのハスキーが「増田様がいらしたよ」と声を掛けてから三秒もしないうちに扉を開ける自分にシゲが口角を吊り上げた。
「手越、部屋着のまま出んなって。せめてそのショールぐらい羽織ってからお出迎えしろよ」
「あー、そうね。全然気づかなかったわ」
ペラッペラの白シャツの上から大きめのものを肩にかけるとシゲに軽く整えられ、部屋を出てすぐの階段の踊り場で待つように言われる。そわそわを抑えて待てばすぐに爽やかなハーブが香った。
その姿が目に入ると部屋に誘うようにショールを靡かせて階段を上がり、部屋の前で振り返る。彼の口元は可笑しそうに上がっていた。
「逃げんなって」
「逃げてねーよ、ちょっと焦らしてみただけ」
「俺のとこに来てから本当にそうしたら首輪とかつけちゃうかもだからやめとけ」
「えー、そんなことすんの?」
「その前にさせんなよ」
「ふふっ……ん、」
部屋の前で口付けられて、自分から太い首に手を回し厚いそれの感触を楽しむ。腰に手が回ったと思ったらいつの間にか部屋に中にいて、思いっきり体勢を傾けてキスを深くするとショールが肩からズレて、腰を撫でる腕に引っかかった。息が続くギリの塩梅で唇が離されると、そのままソファーにかけて腰を引き寄せられ髪の中に指が通される。シルバーリングの冷たさが地肌に伝わってふるりと身体が震えた。
「ふぁ、ん……。まっすー、花、ありがと」
「あ、そうだったな。シンプルな方が目立つと思って選んだんだけど…気に入った?」
「うん。こういうのも結構ロマンチックだね」
嬉しかったよ、と頬にキスしたら髪を指輪の光る指が撫でる。自分よりも少し大きなそれを取って手のひらに自分の頬を滑らせ薬指の付け根にキスして、ちょっと強めに吸い付くと綺麗に跡ができた。目立つか目立たないか微妙なラインだが、彼からされたままだったからそのお返しだ。彼はにこりとしてその痕を撫でて俺のに痕をつけ直した。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


何色かの薄い色のバラが飾られた廊下を通り抜けると美しい大理石の床と洒落たガラステーブルが見えた。あまりの豪華さに目眩がする。でもあの店のような噎せ返るような芳香はなくて、スッとするハーブだけが香っていた。
もはや俺にとっては異世界だ。
手を引かれるままに上質なカウチに座らされ、謎に緊張してしまう。俺が使ってきたのは自室のこじんまりした一人がけのものと、人の欲で汚れたのを芳香で覆い隠していたものだけだったから、場違いなような気がしてならない。

それはこの衣服も同じだ。
The高級素材!という訳ではなくて、シンプルながらも質がいいものが選んである。正直あのシルクの寝間着より過ごしやすいと思った。家に入ってからすぐ風呂に入ったために今の自分からは彼の匂いがしている気がする。この部屋と少し違う、ちょっと甘めのハーブだ。
俺の髪を乾かし終わると、タオルをカゴに放って隣に座って優しいキスをくれた。見上げて深い黒曜の瞳を見つめるとその度に吸い込まれそうになる。初めて彼と会った時もそうだったな、澄み切ったシゲのそれとはまた違う深い色。
しばらくなんにも言わずにいたからか、首を傾げられる。心配させてしまっただろうか。
「ねえ」
「なんて呼んだらいい?」
「まっすーでも、なんでもいいよ」
そっか、分かった。で終わってしまう会話。何とかいい流れに持ち込めないかと脳内で模索するが、シンプルなものしか浮かばない。
「なあ……なんで俺の事あんなに早く見初めてくれたの?本当にただの一目惚れ?」
大きくカットされた氷の入ったグラスを持った手が中途半端な位置で止まる。
「……あー、実は、」
頬に大きな手が当てられ顔の方向を変えられたかと思うと、彼の瞳にしかと見つめられた。
「初恋の子に似てるんだよ。祐也は」
「女の子?」
「違う。だけど、ガキのくせにその子のことほんとに好きで守ってあげたいって思ってた」
「だけど……あなたの気持ちに気付かないまま結婚しちゃったとか?」
「それも違くて……いなくなったんだ。誘拐されて、そのまま行方知れず」
彼の目線が下げられると半ば縋るように抱き込まれ、首筋に額が擦り付けられる。
「ゆうやっていう名前が一緒でね、よく笑うところも重なったんだ。五歳の頃の記憶だからどんな顔になってんのか今では全くわかんないし、見つかってもないから生きてるのかすらわからない」
「それなら、今でもその子のこと好きなんだ」
「そうかもしれないけど、それは思い出だよ。俺が今好きなのは祐也だから」
にこっと笑いかけられる度に頬に浮かぶえくぼを、その”ゆうや”も見たんだろうか。
幼馴染、初恋の相手……自分にはあのバーで働く前の幼少期の頃の記憶がぽっかり抜け落ちている。俺を路地裏かなんかの汚い場所で拾ってくれたマスターは碌でもない人間に薬でも飲まされたんだろうと言っていたし、逆に自分が身を置いた場所に順応しやすくなっていたから困ると思うことなんて少しも無かった。けれど、たまに夢に見る記憶がある。同い年くらいの男の子との思い出だ。
「俺にもいたよ、友達。記憶はぼんやりしてるんだけど、同じぐらいの歳でちょっと泣き虫な男の子……たぁくんって呼んでたっけなー」
━━━首筋にかかっていた息が途切れる。
「ねえ、もう一回言って」
「あだ名を?」
「うん」
「……たぁくん」
顔を上げた増田さんの両眼はいつもより見開かれているように見えた。
そして彼は神妙な顔つきになる。
「ねえ祐也、自分の名前って分かる?漢字とか……名字とか」
「自分の名前は書けるよ。でも読み方がはっきりしなくて」
自分の名前は記号のようにでしか覚えていない。地下で育つ間に漢字の知識を断片的に入れていって、九つくらいの時に自分の名を漢字でしっかり書けるようになったのだ。
手足の”手”、年越しの”越”、神様が人を助けるという意の”祐”、んで、使い勝手のいい”也”。
一字づつ書いていくのを彼に見つめられて、大分緊張しながらも間違えないように四文字の名前を綴った。
「この名字ほんとに合ってるのかな。今まで読んできた小説なんかにもこんな人出てきたことないし。増田さん、この読み分か……」
「てごし」
「え?あ、知ってるんだ!へー、意外とそのまんまで読むんだな。……ッ!?」
こんな珍しい名を簡単に読んだことに感心して言葉を並べただけのはずが、何を思ったのか目の前にいる彼はぼろぼろと泣いていた。慌てて詰め寄り濡れた頬に指を滑らすが、次から次へと溢れるのでとにかく落ち着かせたくてその身体に抱きついてそっと頭を撫でる。
「……見つけた…!!」
きつく抱き込まれて確かめるように筋張った大きな手が俺の体を這う。
「え、何を?増田さん?」
はあ、と息をついた彼は涙をとめどなく零していながらも構わずに俺に笑いかける。
そしてまた「やっと見つけた」と言って、くしゃっと笑った。
「な、何を」
「俺の初恋の相手、だよ」
「……え」
ってことは、俺がさっき言ってたゆうやくんということなのか。小さい頃お互いのことを知っていたのか?でも何処で?
何回も言うが自分の記憶はあの甘ったるい空気の流れる地下空間から始まっている。いいお家に生まれて、ちゃんと社会の中の歯車の一つとして自分の会社を運営している彼とは生まれから月とすっぽんみたいな差があると思っていたから、いつ自分たちが交わったのか見当もつかない。けれどさっき彼が言ったように攫われて用済みになったところで捨てられたのならと想像した時、高い音が耳の奥で鳴って頭まで痛くなった。 ーーー三つの家が集まって行われたパーティー中に襲撃を受けて幼い子供たちを守ろうとして大人達は倒れていった。そこには増田さんのほかに見覚えのある黒髪もいた気がするーーーそれ以上思い出そうとするとまた耳鳴りがした。
体から力が抜け彼の肩口に重い頭を預けると、先程と逆転する体勢になる。しばらくしたら逆に頭がすっきりして冴え渡るような心地がし始めた。顔を上げて増田さんを仰ぎ見ると幼馴染の顔が、まだぼんやりしているが、彼の顔つきと重なってきた。
「あなたって童顔だね。……あんま変わってない気がする」
「祐也?」
分かりにくい言い方をしてしまったと思い言葉を続ける。
「俺は誘拐される前は手越家の一人息子で結構いい暮らしをしてた。あなたもいい家の子で親同士が仲良かったからよく遊んでた。……いくら忘れてたって言っても子供の頃の思い出だからぼんやりしてるけど、たぁくんのことはよく覚えてるんだよな」
たぁくん、たかくん、たかひさ……貴久。
大きくなって男らしくなった今でも健在のふくふくとした頬に口付ける。
「え?……どういうこと?」
ぽかんとした表情はさらにあどけない。
「初恋が叶ったみたいだねってこと」
その数秒後、ふわりと相好を崩して笑ってくれた。
その時軽やかに香った爽やかな彼の香りに、僅かだが劣情を煽られる自分が嫌になったけれど、この人はそんな俺の気持ちごとその暖かいかいなで包み込んでくれた。






清潔感のあるベッドの上で微睡んで彼を待って、しばらくして目の前のシーツに付かれた血管の浮く腕に気付き上方を仰ぎみればバスローブを緩く羽織った増田さんが微笑んでいた。胸元に当たるシェードランプの暖色の光が彼の胸筋にある隆起を美しく演出している。
「……祐也」
少し低めの掠れた声。ついキュンと来てしまって咄嗟に目を逸らしたら耳元に熱い唇の感触、軽いリップ音そして綺麗な並びの歯で耳輪を甘噛みされてつい甘い声が出てしまった。
「こっち見て」
恐らく赤くなり始めた顔を曝しながら見つめ返せば今度はキスされた。自然と深くなるそれは彼が上手いせいで酷く気持ちいい。ちゅく、ちゅくりと音を響かせ、指を強く絡ませながらも彼は目を離さない。正直恥ずかしくてたまらないのだが、その目線の熱さが「愛してる」と言われているようで嬉しくて嬉しくて……だからどれだけ頬が熱くなっても目を離したくなくなってしまった。
「んぅ…はッ、は……」
「キスだけで蕩けすぎじゃない?」
「うるっさ……ンッ」
もう、苦しいんだって分かんじゃん。嫌がるかと思えた髪への攻撃も上手く躱された上太腿を撫でられて力が抜けた。そしてあれよあれよという間にベロアのローブの腰紐を解かれて早々に全てをさらけ出してしまう。
「うしろ、緩んでるね」
「当たり前でしょ……なあ、ほら、はやく…」
あからさまに腰を浮かせて誘えど向こうは微笑むだけでちゃんと触ろうとしないまま柔い愛撫だけを続けるだけ。
「待ってて。俺はゆっくりしたいの」
「あんッ…ばか、」
「気持ちいいでしょ?今日ここに来てくれたんだから初夜みたいなもんじゃん。だったら優しくしたいと思うのは普通だろ」
初夜とか、マジで馬鹿だろ。俺が今まで何してたのか分かってるだろうに。ちょっと恥ずかしくなって口ごもった隙に胸の尖りを吸われ勝手に体が跳ねる。

「かわいいね」

「もっと声出していいよ、ほら……そうそう」

「唇噛むなよ。キスするよ?あ、して欲しかった?ふふふ……顔真っ赤っか」

「痛い?……違うね」

優しくて、甘くて、恥ずかしくさせてきて意地悪な彼の手に何度も上り詰めさせられてその快楽に啜り泣く。
「う……やんっあ、ああ、あん…だめぇ」
「気持ちいい?そうだったらそう言えよ」
「きも、ぢい…!!むり、いやっ」
「イきたい?」
「ひゃっ、あ、あ……」
「どうすんの?どうしたい?」
なんで店の時より断然優しく抱くのか。入れられる時はもうクタクタでされるがままになっていた。今まで自分が聞いたことがないくらい甘ったるくてはしたない声が本能のままに唇から漏れていても抑えられないようにその短時間でしっかり教えこまれてしまった。
でも優しい手つきは変わらない。まあ大分意地悪ではあるけれど。

そうしてそのままトんで寝落ちして、気が付いた時には全部綺麗になって清潔なベッドの上に一人で寝かされていた。腰の痛みに耐えながら体を起こすと暗がりでは気が付けなかったこの部屋の豪華さに圧倒される。見事に白で統一された広い部屋。ソファもランプも壁も全部真っ白!このベッドなんて天蓋付きだ。サラリとかかったカーテンに近付けば綺麗なレース……この感じだとおそらく手編みのものでひっくり返りそうになる。そして上から繋がった肌触りのいい編み紐を引くと軽くカーテンが動いたがどうも上手くいかない。諦めて隙間を探して出ようかと思ったとき、スっと伸びた手が紐を掴む俺の手を包んで自分がしようとしていた角度より少し手前にそれを引いた。すれば薄いカーテンはするすると流れ四隅に集まり見栄えよく収納していく。そのことにすごいと感心する間もなく俺の手を握った手の主に正面から抱き締められた。
「どう?ここ。気に入った?」
「気に入ったも何も……凄すぎてよく分かんねえよ。なんかお姫様扱いされてない?」
「んー、祐也似合うじゃん。そういうの」
俺を抱き上げ半回転周ってベッドに座り、膝の上に静かに下ろされる。ぽけっとしていると額にキスされてまたドキッとさせられた。いい加減心臓が持たねえっつの。この生地の良い金の細い刺繍の入ったガウンのせいもあってなんだか彼が王子様……って言うよりも皇帝感が感じられて、ぶっちゃけめちゃめちゃカッコいい。悔しいくらいに。
「……ずるい」
「何が?」
「何か、かっこよ……あー、何でもない」
そう言えば彼はにこにこと笑みを深めて、今度は唇にキスを落とす。そして優しい手つきで髪を梳くようにして撫でる。
ほんわりと甘くゆっくり流れる時間にいつまでも身を委ねていたいけれど、正直落ち着かない。だって俺は昨夜初めて地下から出て来て、この人からは無償で悠々自適な生活を享受しようとしていると思ったらなんだか申し訳なくなって言葉を発した。
「ねえ、俺は何ができるの?」
「……祐也は何かしたいことがあるのか?」
なのだが、そう言った途端声のトーンが数レベル下がり俺を支える腕の力が強くなった。
ーーまさか拗ねている?自由を手に入れた途端俺が彼から離れて一人での生活を謳歌しようとするとでも考えているのだろうか。
地下に埋められた鳥篭の中しか知らない鳥は地上に建った広い家の中で羽を伸ばすことができるようになった。それだけで十分ワクワクしているんだけどな。
そっぽを向いてしまっている頬をちょんちょんとつつくとムスッとした顔が正面を向いた。俺のことはまだ見ようとしない。
なんだか可愛い。この人にそんなことを思うのは初めてで、首に手を回して首元に頭を寄せながら背を丸めて笑う。
「機嫌損ねちゃった?」
「……別に」
「それじゃ、俺はずっとここにいてあんたに甘えてていいって解釈でオーケー?」
ゆっくりと彼の頭が動いた気配。そして顎を捕まれるまま上を向くと、微妙な表情でこちらを覗き込んでいる。
「ここであなたと寝起きして、飯食って、仕事以外の時は一緒に居て……恋人らしく暮らしていいんだよな?」
「え」と言った彼は俺の言葉を理解すると何度も頷き、「いい、いい、そうして欲しい!」と抱きしめる腕の力を強くした。



┈┈┈┈「出来たらこの敷地内から出ないで欲しいんだけど。ちっちゃいし軽いから祐也なんてしようと思えば簡単に連れてかれちゃうし」



こんなことを早朝からサラッと言えるくらいに、増田さんは恋人にとんでもなく過保護な人だった。あんたよりはちょーっとちっちゃいし軽いからって俺はもう三十を超えた男だぞ。なのにあからさまではないけれど、仕事ちゃんとできてんのかよっていうくらいに俺に目をかける。仕事から帰ってくれば直ぐに俺を探そうとするのが面白くって、この前ドアの陰に隠れて驚かしたら驚くよりも先に抱き締められた。そんなことでドキッとする俺も俺だけど。初な乙女じゃあるまいし。
普通の感覚なら重いのかもしれないけど、俺も彼も幼い頃に大きなものを奪われていたことがあるからか全然そうは感じなかった。幼い頃の記憶がよみがえったのと同時に両親を失ったことを知り、急激に行き場の無い感情が込み上げていって体の震えが止まらなくなった日は、彼がずっと一緒にいてくれた。「俺が怖くて泣き始めたら、お姉ちゃんがいっつも作って飲ませて一緒の部屋で寝てくれた」と言いながら暖かいミルクをくれて背を撫でてくれた。彼の体温は子供みたいに暖かくて、ついずっと抱きついていたくなってしまう。
だから昼は寂しくなることがい多いけれど、そんな時はシゲちゃんのいる敷地内の別館に行けば暇も潰せる。彼もまた俺と同じような境遇であの店に居たらしく、増田さんの秘書の小山さんは元々シゲの家の使用人で執事の見習いだったらしく、彼が車のドアを開けてエスコートする姿を見て記憶がカチッとハマったらしい。記憶を失くしたお姫様が自分を守るナイトの見覚えのある所作で記憶が戻るなんてロマンチックだねえと揶揄ったら顔を赤くして怒られた。

「ゆうやー、ただいま」
彼が子供みたいな笑顔で俺の待つ家に帰ってきては何をするよりも早く抱き締めてくるのは、俺がここにいることが何よりも嬉しいからだったらいい。
もう居なくならない。ずっとここにいるよっていう想いを込めて腕を回す。
「愛してるよ」
「うん、俺も。だから待ってた」
「おかえりって言えよ」
「ごめんごめん……あっ」
そう言うと首筋に吸い付かれ、多分、また痕を上書きされた。首輪も何もつけていない剥き出しのそこにはいつだって薄紫の鬱血痕がありありと残されているし、自分に用意されているトップスは首元が大きく開いたものだけだから、首輪などなくても彼が俺をここから出す気がないってことが分かる。もちろんそんなことされなくてもここを出る気なんて俺にはさらさらない。
ずっと地下のバーの売上のためにお客の狗となって人と関わってきたからか、あの時首輪を着けていたように誰かに拘束されていないと不安になってしまうようになっていたことがちょっとした性癖に繋がっていったが彼にとっては好都合だったみたい。
この広い箱庭の中でこの人から向けられる愛情は何よりも甘くて優しい。全部を包み込んで離してくれないくらいの束縛されているのは自覚しているけれど、それがたまらなく心地いいと思うのは変なんかじゃないと思う。『お前は自由だよ』なんてことを言いながら、奥二重の奥にある三白眼は『絶対に離したくない』『逃がしたくない』という感情を黒曜の奥に宿しているのが簡単に見て取れるから、それを見る度にこの人を好きになる。愛しくなる。
ねえ、そうやってずっと俺を見ててよ。
俺もタカだけで十分だから、他なんてどうだっていい、知ろうとも思えない。あんただってそうでしょう?
だけど待ってるだけだと寂しくて堪らないから早く帰って来いって毎朝布団の中で伝える。あの人は毎回触れるようなキスをして、微笑んで答えてくれる。そして俺はその彼の左手の薬指の付け根に吸い付いて痕を付けてから彼を送り出すのだ。
「この痕、もう取れないね」
俺の首筋を撫でて彼がそう言う。
「そりゃそうでしょ。毎日吸い付いてきてんのは誰よ」
「ふふっ……」
機嫌よく笑う彼を見て調子に乗り、深く考えないで新人のハウスキーパーさんにそのキス痕を驚かれて二度見されたと言ったら途端に顔色が変わり腰を抱く腕の力が強くなる。
「たッ……」
「今日から一週間、部屋から出ちゃダメだから」
「か、家政婦さんだよ!?男性だけど……」
「いつも頼んでる人達がみんな都合悪くなっちゃって、他の人に一週間だけ頼んだんだけど……やっぱ失敗だったな」
「ちょっと、」
「返事は?」
いつも俺の扱いは雑だったりするけど対応はいつも甘々なくせに、こういう時だけ俺が勝てないような尖った目付きで睨んでくる。
「……は、い」
頷いたのを見ると俺を抱き上げて部屋まで連れていき、黙ったまま部屋に押し込もうとする。その手を反射的に掴んで引き止めた。
「今からやることあったら悪いけど、今夜は飲みたい気分でさ。でもしばらく俺もうここから出られねーし……だから時間空いたら持ってきてよ」
「何がいいの?」
「んっとじゃあ……シェリーでもお願いしようかな」
その固有名詞をぽんと口に出すと、いっそ冷たい視線が緩むとともに彼が低い声で笑い、そっか。欲しいならいい子で待っててよ、と言いつけた。
音が立たぬようゆっくりとドアが閉められ鍵をかける音が部屋に響く。その扉は二十分も経たずに開かれることを俺は知っている。
今のうちに照明をほんの少しだけ絞って、昔から使っている香水から一つを選びとって首に吹き付けた。あとはベッドで待てばいい。
ごろりと横になって背伸びをする。
待っていたら段々眠くなってくる。
たか、たーか、と小さく彼の名を何度も呼ぶが、それでも眠気が抑えられなくなってきた。あの人の帰りが遅いのが悪い。
ぼーっとしていた意識を開錠する金属音が霧消させるとベッドが軋む音が聞こえた。

「おいで」

丸い彼の声が、少し掠れて色気を帯びている。
うとうとしていた時のように柔く「タカ」と名を呼びながらゆっくり目を開いて見えた彼の瞳は、部屋の隅で光るランプのせいで蜂蜜色にとろけて見えた。

「ずっとここに居てよ」
「あなたもね……」

二人の夜は終わらない。



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