このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

預けられた子猫




――僕、ひとりぼっちじゃなかったのかな



独り言のようにぽつりとそう零した小太郎を両のかいなの中に閉じ込め、赤くなった目元に口を寄せる。

「そうだ、絶対。お前はひとりぼっちなんかじゃない。前からずっと」
「……っ、」

まだ涙は止まらなくて。細い眉尻も下がったまんまで。でも俺は小さい子にするように頭を撫でたら少し微笑んでくれた。応えるように俺も笑ったら、不思議と二人して静かに微笑み合う。細い指が俺の前髪を耳にかけるのを目で追っていた。

「でも、やっぱり寂しかった。あんたと出会うまで……ずっと」
「うん。そんなはっきり言われると照れるな」
「さびしかった」
「…そうか」
「誰も、僕なんかに構ってくれねーの。まともに仲間とか、そんなふうに受けいれられたことないし」
「見る目がねぇのな」

こーんなにかわいいのに。とからかい混じりに言ってむにっと頬をつまんだら、

「もう、ばか。」

と手を控えめにはたかれた。
照れた笑顔はやはりかわいい。

ちらっと見えた笑顔をもう一度見たくてまたそこに手を伸ばした時、コンコンと個室の扉がノックされそちらに意識を向けた。
「あ、はーい」
返事をし、ちょっと待ってろと肩を叩いて彼に背を向けて歩きだそうとしたら、細い両腕が胴に強く巻き付き引き止め、その軽い体重で踏ん張ろうとぐっと力を込めてきた。振り払おうと思えばできるが、そんなことをしようとは思う訳もないので一瞬どうするか迷う。

「おい、どうし……」
「いっちゃだめ」

腹のところで服が皺を作る。

「こたろ、」
「いっちゃだめ!行っちゃやだ!…ハッは、やだ…」
「っ、分かった。行かないから、ちゃんと呼吸しろ」

サッと背筋が冷え、彼に向き直り取り敢えずベッドに座らせ呼吸を整えさそうとする。なんでこんな突然過呼吸に、そう思った時ある一言が頭をよぎった。


――『僕ずっと怖がりで、ちょっとした音でも呼吸がおかしくなるくらいだから……』
――『ノックに応えた祖父の逃げろって声がして、……』


「行かないで、死んじゃやだ!」

あぁ、さっきの音のせいか。
今日の出来事のせいでかつての記憶がフラッシュバックしやすくなってしまっているのかもしれない。あのノック音を殺人犯だと錯覚したのだろう。
ドアの方に目をやればゼロと一緒にいたヒロシとやらが驚きあわあわとしてドア口に立っていた。

「悪い、ちょっと待っててくれ。多分すぐに落ち着く」
「は、はい!」

そのあと数分の間に俺の服を強く掴む手をさすり何度も声をかけているうち、息が整い始め、焦点も合ってきて。ぐったりと力の抜けた体を抱き留めて、棒立ちになっていた男に向き直った。

「あーっと、ヒロシ?だったっけ」
「そうです!よく覚えてましたね。じゃなかった、ええと、先生がお呼びです。あなたに連れてきてもらった方がいいと」
「なるほど。……小太郎、行ける?」
「いっしょ、きて」

上目遣いで袖を引いてくるのにこれを拒む理由はない。そもそもそのつもりであったし。

「そのつもり。立てるか?」
「うん」

そうは言っても危なっかしい。さっきの発作で酸欠気味なせいで身体がふらつくようで、やっぱり心配で車椅子に乗せる。

「大丈夫だよ。僕、歩ける」
「一応な、危なっかしいから」

毛布を膝にかけて神経を解すように頭をなぜてから車椅子を押していき、廊下に出たところでヒロシと合流し診察室へと向かう。

「そういや、あんた達が小太郎のこと助けてくれたのか?」
「ゼロとセイギが先に気付いたんです。車はミツルさんのを使っていて。なんで、僕は全然……」
「え、まだあいつら居るのか?この病院に」
「はい。警察の事情聴取もあって」
「ああ、そうだよな」

あんな騒ぎになったんだ。恐らく処置が終われば彼もそれを受けるのは避けられないだろう。
そういえば、と隣の気弱そうな男を見やる。最初の方からゼロと行動を共にしていて、俺がゼロの友人だと紹介されその後殺そうとしていたことを知っている者の一人。クオータージャンプの時は驚いたろうな、なんて他人事のように思う。

「あんた、よく俺と話せるな」
「え?…あぁ、まあゼロがああいう感じってのもありますけど」
「……はっ、かなわねぇの」

今日病室の前で合流した時も俺に対してかつてのようにただの友人として接したゼロ。昔っからだな、ああいうとこ。そんなんだから俺みたいな碌でなしに殺されかけて傷つくことになるんだ。その代わり、あいつの周りにはいつも人がいる。本心から彼を慕う人々が。

「ホントに彼奴は……昔っから、救いようのないお人好しだな」
「中学からの同級生でしたっけ、それも海難の」
「そう。ずーっと同じクラスで、ずーっとあんな感じ」
「俺はそもそもそこに不合格だったんでお二人のスタートラインに立ててもいないですね」

外交官の父に見放されたくらい勉強とかできなくて、と眉尻を下げ笑う彼を意外に思って見やる。

「でも、国旗には詳しかったよな」

言葉を返したのは俺ではなく小太郎だった。

「え、小太郎会ったことあんの?」
「……さっき、裏切られた社員に手をかけたって言ったろ?そこでDKにスカウトされたんだ。"残虐な司会者"の腕を買われて」
「だから後藤峰子がお前を…」

どこで知り合ったかと思ったが、まさかあそこで出題者側にたっていたとは。するとヒロシがひそひそ話をするように手を口に添えて話しかけてきた。

「あの、ふっと思ったんですけど」
「ん?」
「小太郎の採用理由ってそのこともあると思うんですけど、ふっつーに気に入られてた感ありません?峰子とか顔採用したんじゃないかって思うんですけど」
「……あー」

顔採用というのは分からなくもない。そもそも子猫呼ばわりて。

「ちょっと、何二人で話してるのさ」

話の輪から外されたのが気に食わない小太郎が振り返る。

「んー?お前って変なところから好かれるなってこと」
「カズヤ、それブーメラン……」
「光栄だね」
「へ、」

(この二人って一体……)
と、ヒロシは思った。同時に二人の関係を察してしまった。

なんやかんや話しているうち、目的地に着く。
薄い灰緑色の壁紙で彩られた空間は心療内科だ。ここで軽く診察したのちに事情聴取をとるとのことだった。しかし、そこで落ち着いていたはずの小太郎がまた拒否反応を起こした。

「いや!やだ!受けたくない!……こっち来んな!!」

心療内科、検査。そう聞いただけでこれだ。付き合ってくれた若い医師はかつて同じような検査の時に虐待を受けたのかもしれないと恐ろしい推測をし、ここはひとまず見送ってくれた。
車椅子から跳ね起きて廊下の隅にうずくまったのを落ち着かせるころにはとっくに気疲れからか寝落ちしていた。よくよく確認すれば知恵熱が出ていたので、起こさぬよう個室に戻してやる。本来はこのあといくつかすることもあったのだが今日のうちは勘弁してもらった。体力気力共に尽きてぐったりと眠っているのを見た看護師長は管轄でないはずなのにわざわざ来て処置してくれた。
数分後に背後の扉から気配がしたのでノックされる前に自分から行って開ければ、ゼロ達が揃っていた。ゼロ、セイギ、ヒロシ、あとひょろっとした優男。

「小太郎、寝た?」
「ああ、もうぐったり…まあ入れよ。椅子足りるか分かんねぇけど」
「いいよ。突然ごめん」

備え付きの椅子を勧め俺はベッドに腰掛けた。

「二人はいつから知り合いに?びっくりしたよ。救急車でお前の名前呼び続けてて」
「そう、だったのか」

眠る彼の目にかかった金糸をはらう。ちょっと笑った気がして嬉しくなった。

「もう一月ぐらい前から同居してる」
「え、そんな前から…」
「今よりもっとやせ細ってて、最近ようやっとうなされなくなったと思ったらこんなことになっちまってさ。……本当、なんだってこんなに苦しむんだか」

それを聞いたゼロも眉をひそめた。

「聞いたかもしれないけど、俺達が小太郎と知り合ったのもDKなんだ。俺とヒロシさんとユウキさんでそのゲームに参加してて」
「ユウキって……ああアンタか」

薄く笑って手を振られる。備え付けの戸棚に背を預けていた優男がユウキらしい。軽い雰囲気のする彼はその時のことを思い出すように視線を上に向け喋り出した。

「マジで死ぬかと思ったよ。うわぁーヤベぇ奴きたって」
「生き残った時は、奇跡だって思いましたよ」

続けたのはヒロシだ。だが、それに対してゼロはこの病室に入った時から顔色が悪いように見えるし表情も暗い。

「……あの時、」

悔やむように膝の上で両手を組んでゼロは言う。
「あの時、いくら勝つためとはいえ小太郎を責め立てすぎたってよく思うんだ。他人の過去に爪を立てて引っ掻き回して……」
「それは、」

誰かがそう言いかけた時、静かであるが強く鋭い声がその場を制した。


「それは違う」


その場にいた全員の視線がベッドの方に向く。いつの間にか目が覚めていたらしい。

「それはなんでもお門違いのこじ付けだ、ゼロ。いい加減さ、……っと、」

思い切り布団を足で跳ね除け、ベッドの上、俺の隣に胡座をかいた。俺が熱があるからと寝かせようとした手をやんわりと止められる。

「そこの二人をこの世に留めておけたのはお前がいたからだ。それは紛れもない事実……そうだろ?」

大きな瞳がユウキとヒロシに向く。

「ユウキは頭はよかったけど勝つ意思がなかった。ヒロシは生きようとは思ってたけど、正解率が悪かった……ゼロがいなかったら、絶対僕は二人のこと殺せてたよ。君たちの前に来た人達みたいにね」

おもむろにシャツを腹のやけどが見える位置までたくし上げると腹の一部分、明らかに色が変わっているところが目に入る。膿んではいないが痛々しいのに変わりはなかった。小太郎はその痕をなぞりながら自嘲気味にふっと笑う。

「……っなんでそんな消し方!」

熱した鉄板を押し付けたようなその痕にゼロが痛ましそうに表情を歪めながら言った。

「この痕…衝動的に消したんだけど、上手く治んなくてさ。カズヤはちゃんと治療すれば治るからって勧めてくれるんだけど、とっとこうと思って」
「なんで?パッと見痕はハッキリ残るだろ、それ」

そう言ったユウキもギョッとした様子で怪訝な顔をし、ヒロシは最早青ざめていた。
怖がらせてごめんと言いながらそれをまたシャツで覆い、痛みを和らげるかのように撫でる。そして俺に半身を預けた。

「頭が捻られるみたいに痛くなるほど不快なことがあったら必ずこの火傷がじくじく痛み出すんだよ。……綺麗に治したところでそれは変わらない」

これに僕の嫌なところが全部詰まってる。そう言ってぎゅうっとその傷を服越しに握った。

「僕は辛くなったりすると記憶が抜け落ちやすくなる癖がある。それと一緒に忘れたくない思い出まで消える。だから、僕にとってこれはそれの留め具みたいなもの」

傷を掴んでいた手が俺の右手に移ってきたので、こちらからも迎えに行き指を絡めてやる。ふふっと軽い笑い声がしたと思えば、こういうあれこれがなかったらあんたに会ってないし、とまんざらでもなさそうに言った。

「なんだ、結局ノロケかよお前」

少々からかうように笑って言ったのはセイギだ。

「ははっ、別にいいだろ?本心を言っただけなんだから」

揚々と明るい口調で彼はそう返した。にしっと悪戯っぽく口角の上がったその笑顔は、彼が本来持っていたもの。俺にもいつからか見せてくれるようになっていたもので。
それがあったことだけでいくらかほっとした。
すれば、未だに暗い表情のままになっているゼロに向き直ると仕方ないな、というように先程よりも柔らかい笑みを浮かべて。

「だから、なんでゼロがそんな思い詰めてるんだよ」
「仕方ないよ。なんでも抱え込んじゃうタチなんだよ、ゼロは」

それに受け答えたのは聞き覚えのない男の声。自分でドアを開き、ゆっくりと車椅子を進め入ってきた。それに気付いたゼロは俯きかけていた顔を上げ、彼の入室に手を貸して自分の座っていた椅子の隣に止めて軽く彼を紹介した。
大学時代に知り合った友人だそうで、今は趣味の写真をポツポツ撮りながら在全グループの経営するペンションの管理などを請け負っているらしい。
にしても、この後藤姉弟は一体どこからそのスタイルの良さを受け継いだのか。車椅子から足余ってんじゃねえか。そんなどうでもいいことを思っていた時。

「なぁ、カズヤ。俺ら、やり直せないかな」

ゼロはそう言った。

俺以外のメンツが言葉の意味を理解しあぐねて空気が固まる。それに気付いたらしいゼロが小太郎に匹敵するレベルのでかい目を見開いて両手で必死に否定した。

「違う違う!そういうっていうか、みんながどう思ったのか知らないけど……、友達としてってこと」
「……は、なんでお前の方がそんな顔してんだよ。責められるのは俺の方だろ、普通」
「色々あったかもしんないけど、中高の時、やっぱりカズヤと話すのが一番楽しかったんだよ」

完全に面食らって言葉に詰まる。隣から小さな手が何ぼーっとしてんのさと言うように腕を小突いた。
そんな俺に気付かないまま彼は続ける。

「でも、大学入った後は学部違うしカズヤとあんまり話せなくなって正直さみしくて。そんな時に会ったミツルは聞き上手で、俺の研究とか、そういう興味のなさそうなことでもよく聞いてくれて……それが嬉しくてよく話すようになった。」
「良い奴じゃねぇか」

聞き上手か…俺にはできないことだ。
俺はよくゼロとあーだこーだ論じてばっかりだったからそうとは言えないな。自分が追いついていなかったことがあったら気になって調べてまた話したりしていたし。

「でも!それまで、カズヤ以外の人達は俺が色々話しても"ゼロは凄いな"って言ってあんまり付き合ってくれなくて……カズヤは違っただろ?知らないことがあっても楽々とついてきてくれてさ。すっごく嬉しかったんだ」
「、…そっか」
「これ、本当だよ。だからもう一回やり直したいって。……言っただろ?また、泳ごうって」
「っお前、お人好しすぎんだろ。」

するすると耳に流れ込むゼロの本心に唖然となった。組んだ両手の指が握りしめすぎて白くなっているのを見る。
そんなふうに思ってくれていたのか、お前は……。それなのに、俺は全部お前に押し付けて。いや、分かってはいたのに、自分のせいにしたくなくて勝手に逃げていただけか。
遅すぎる罪悪感と自分の愚かな思い込みに、ただ自責の念が募った。

「いいなぁ」

隣から、小さいながらもその言葉の通り羨ましさを色濃く滲ませた呟きが聞こえ、そちらに首をあまり動かさないまま小太郎のほうを見た。伏せられた目は憂いを帯びているように見える。
気を取られて握っていた手の力が少し緩んだ。

「カズヤ、自分に友人はできにくいなんて言ってたけど、いるじゃん。……とっておきのが」
「小太郎…」

長い睫毛が伏せられて、頬に長く影が落ちた。

――そうだ。
俺の周りにはあまり人がいなかったけど、いつもゼロがいてくれた。妬んだり悔しがったりしても何だかんだそれが支えになっていた。でも小太郎はどうだろう。周りに人はいても、誰一人として心から彼を大事に思って愛してくれたりする人はいなかった。唯一彼を愛した祖父母が亡くなってから、その孤独を埋められたもの……埋めようとした者はいなかったのだ。

「お前もだよ、小太郎」
「……え?」

そう言うと思った。ゼロが穏やかに小太郎にそう言って、対する彼は意味を消化しきれていないままホけっと目を丸くしている。

「カズヤと一緒にいてくれたんだろ?俺が出来なかった分。退院したらみんなでどっか行ったりしようよ」
「えっ、ちょっと、カズヤなら分かるけど、なんで僕までそんな……」
「俺が行かされんならお前も来いよ。一人で留守番させるとか不安しかねーし」
「勝手に家出たのはごめんって!」

一人でいるのに不安を感じるくせに、改めて周りを囲まれたらまたそれも怖くなって震えるのだから困ったものだ。わたわたする小太郎は"小太郎もおいで"と曇りなくゼロに言われて、なんでと薄い唇が震えた。

「どんなことがあったにせよ、俺たちを引き寄せてくれたのはお前だよ?それに、こうして集まってるってことはさ、なんか縁があるんだよ」

だからさ、友達って呼んでも良いよな?
そう言われたや否や俺の肩に目元を擦り付けた。そこが濡れていく感覚がして、前と同じでこいつはなかなか泣き顔を見せてくれないなと思う。

「ダメか?」
「だめじゃ、ない」

ちょっと涙に濡れた声がかえってきたとき、そこにいた皆がほんわかした雰囲気に包まれていた。
だんだんと耳や首筋も赤みを帯びていき、それをセイギにからかうように指摘される。と、慌てすぎてベッドから転げ落ちそうになるのを両手で支えれば、胸の中に閉じこめるような体制になったことでさらに、薄桃のサテンの寝間着よりもずっと紅潮した顔が間近に迫った。ふぇ、と意味を図りかねる言語を発したかと思えば、目に涙の膜が張って眉尻がキュッと下がりどこかの弱りきった仔犬のような表情になる。

「照れすぎだろ」

そう言ったら軽く背をバシりと叩かれて。
離れる気は無いようだったので、その体制のままゼロと話しているうちにやはり熱のせいだろうか。いつの間にか、くたりと眠りに落ちていた。泣き腫らした目元のせいでさらに幼く見える顔を数度撫でて、冷えないように首元まで布団をかけると、引き戸が開いて担当の看護師が入室した。
気分を落ち着かせるのも兼ねた点滴を入れるとからしい。必要なのかと疑問には思ったが主治医の判断なので任せることにし、俺は彼が起きてしまわないか少し不安でその間ずっと手を握っていた。手早く作業を済ませた彼女はマニュアルの通りに読み上げるかのごとく淡々とした口調で面会時間の終了を告げる。連絡できるように彼の携帯を近くに置いてあったチェストに置き、病室を出た。

他の部署の行っているプロジェクトの補佐を数日間のあいだだけ補佐の名目で任されるようになるため、小太郎の面会に行けなかったりする日があるとボヤくと、自分は就活中でまだ自由な時間があるとセイギが手を挙げてくれた。同じようにゼロやミツル達も同調して、ユウキも時間が空いて気が向いたら行ってやると遠回しに優しく言ってくれた。自分もできる限り彼の元にいたいがここから少し行けない日が出てくるかもしれない。これによって気がかりな部分が軽減された。



結局、小太郎と会えたのはその二日後だった。
引き戸を開けると、ただ窓の方を向いて空を見つめ続けている彼がいて、いつも物音がすると反応するのにな、と小さな違和感を覚えながら薄い肩を撫でた。なぜだかなかなかこちらを向いてくれない。会いに来れなかったことを拗ねているのかと思いながら軽く肩を二回叩くとハッとしたように俺を認識した。

「か、ずや……カズヤ!!」

すれば思い切り細い腕を伸ばして抱きついてきた。それに応じるようにこちらからも抱きしめ返す。

「ぅおっと。ん、あんま来れなくてごめんな?」
「んーん、大丈夫。ミツルとかセイギがよく来てくれたし」

珍しく直球に甘えてくれたのが嬉しい。でも何故だろうか、前より少し痩せた気がして胸がざわつき薄い背をかき撫でた。

「少し、痩せたか?」
「そ、んなことない!気のせいじゃない?」
「……そうか」

時間が許す限りその場に留まり、もうすぐ帰るというところでセイギからの着信があった。一応部屋を出てから画面をタップして電話に出た。

『カズヤか?今確か病院だったよな』
「ああ。今もうすぐ帰るとこだ」
『一応伝えておきてえんだけど……アイツ、最近ろくに飯が食えてないらしい。言うなって言われたけど言っとく』
「そうか、やっぱり…」

スマホを持つ手に力が入った。
向こうも忙しいのだろう、短めに通話を終わらせたあとにまた部屋に入れば、持ってきてやったテディベアを膝に乗せてふわふわ笑う彼がいて、もし、またあの時並に痩せてしまったらどうしようと胸の辺りがひりついた。
担当の看護師に聞けばまだ最低でも二週間は入院が必要らしい。そこまでする意味を問えば、後日主治医からの説明が…とはぐらかされた。ずかずかと問いつめたところで呼び出しが来たとかで逃げられてしまう。教授だとかいう主治医とは、俺は一度も会ったことなんてなかった。この対応の仕方に眉を寄せる。


不自然だ、あまりにも。


でも時間は待っていてはくれず、もう行かないと間に合わないくらいになってしまった。

「こた、」
「あ、カズヤ。入ってるんなら言ってよ」
「もう時間だから、行ってくる」
「…ああ、分かってる。また来てな」
「当たり前だろ」

金糸を流してそっと額に口づけ、片腕で自分の胸に抱き寄せる。

「ちゃんと飯、食えよ」
「……っ、うん、ありがと」

長い抱擁のあと、名残惜しく思いながらも俺はその場をあとにした。タクシーに乗り込む前に振り返った乳白色の建物に不信感を覚え始め、できるだけ多く来てやろう、あと一週間弱で俺の多忙期は終わるからと心に言い聞かせた。


だが、予想以上の忙しさに目眩がした。彼と最後会ってから三日は面会どころか自分の寝る暇さえなく、サポートしていた相手にプロジェクト案と提案用の原稿などを部下の分と一緒に提案する頃には参加者全員が抜け殻のようになっていた。
だが俺は休んでいる場合ではない。置いてある着替えをさっさと着込んで足早に本社の高層ビルをあとにする。
ここ最近セイギやミツル、さらにはゼロから小太郎についてのことがメールされ続けていた。

――『最近また痩せた』
――『看護師は食べてるって言うけど怪しい』

あれ以上痩せるなんてことがあるのか。そしてもっと気になるのが、

――『たまにすっごくぼーっとしてる。肩叩いたりすればこっち向いてくれるけど』
――『なんか意識がどっかに飛んでってるみたいな、そんなかんじ。絶対おかしい』

最後に小太郎の所に行った時のことを思い出した。虚空を見つめて、名前を呼んでもしばらく反応しなかったあの時。拗ねているのかと思ったが、本当は違うのか……?
よくよく考えてみれば、あの時の瞳には力がなかったような気がしてきた。人形……いや、まるでTVで見た催眠にかかっている時のような……、催眠?

乱暴にポケットを漁りスマホを取り出し、早朝に病院に向かうタクシーの中で小太郎の担当の教授の名を調べる。

~~大学卒、院でも研究を続けた。なんて当たり障りのない普通の情報しか入ってこない。苛立ちながらスクロールを続けると、引っかかる一文があった。
『研究の一環で孤児院などの子供たちの心のケアを担当した経験もあり……』

孤児院?心のケア?
前に話した若い医師の言葉が頭の中で蘇る。

――もしかすると、かつて同じような検査の時に虐待を受けたのかもしれないです。

まさか、嘘だよな。俺の思いすごしだよな。じわっと首の後ろと額が汗ばむほどの寒気を覚える。タクシーが目的地に着くと、俺は釣りはいいと言って札を置き、エレベーターまで走った。

それが本当だとすれば、一刻も早くこの病院から連れ出さなくてはならない。少なくとも看護師と共に担当を変えてもらうかしないとダメだ。いつも淡々とものを言っていた看護師の女を思い出しゾッと寒気がした。

結構奥の方、非常階段の前の大きめの個室。

そこにかけてある『城山』の文字を見つけると、名を呼びながら引戸に手をかける。音がならないように足元を見ながら開けて、声が帰ってこないな、と思い顔を上げ……

「……小太郎ッ!!」

頭を強かに殴られたような心地がした。

無駄に長いナースコールのコードが彼の細い首に巻きついている。その両端を引っ張っているのは――同じく細い、以前よりさらに細くなった手だった。
手からコードを抜き去り、首に巻きついたそれを弛め取り去る。でも虚ろな瞳は咳き込んだあともこちらを少しも見やしない。腕を掴んで揺さぶってもそのままで、肩に手を置いた時、スイッチが入ったかのようにやっとその瞳に精気が戻ってきた。でも彼は何事も無かったかのような顔をしていて、俺の必死な形相にぽかんと驚いている。

「ど、どうしたんだよ、そんな死にそうな顔して」

彼の表情は最後に会ったあの時と変わりない。あろうことか俺の方を心配し始める。

「……どうした?大丈夫?」
「大丈夫ってお前、」

気遣わしげな態度、穏やかに俺の頬や腕をさするいつも通りの小太郎。それに対して、ん?と傾げる細い首に着いた赤紫の圧迫痕のアンバランスさに恐ろしくなって、またぶり返した冷や汗にも構わずまた細くなった体を胸にきつく抱きしめた。


彼の背後に捨て置かれたコードが目に入る。驚きながら俺の名を呼ぶ彼の声が遠く聞こえた。




4/6ページ
スキ