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預けられた子猫




誰かがさらさらと髪を手櫛で梳く。

今の僕にそんなことをする人は一人しかいないから怖がることなく目を開けた。それに気付いた彼が目を少しばかり見張る。
「起きてたのかよ」
「今起きた」
でも起き上がる気にはなれず腕の中にあるもこもこにぎゅーっと顔を埋める。
「こいつのことそんなに気に入ったか?」
大きな手がそのもこもこを軽く撫でる。これは彼が――カズヤが僕にプレゼントしてくれたものだ。僕の、誕生日に。
「うん。……子供っぽいって言うなよ」
「言わねぇって。思わないし」
そう言って彼は僕の前にしゃがみこんだ気配。僕もぬいぐるみをずらしたら厚く暖かな唇が降ってきた。
「ただいま。夕飯食おうぜ、買ってきた」
「おかえりー!え、何何?」
カズヤと一緒に暮らし始めてしばらくになる。僕は反抗することなく食事を摂るようになっていた。
そもそも僕が口にものを入れたがらなかった理由は戻してしまうのが嫌だったからなのと、単純にこの命を捨ててしまいたかったからだ。働かされていた売春屋でも食べなかった。その頃に何度か手首に刃を当ててみたけれどなかなか死ねなくて。でも確実な飛び降りとかは滑稽にも臆病な性が邪魔をしてどうしたって出来なかった。だから極限まで食べなかったらいずれこの体も自分の心と同じく壊れてくれるだろうと思っていたが、その前に彼と出会って。
「お惣菜でシューマイ買ってみた」
「ナイス!味噌汁あっためるついでにチンしとく」
こんな平和な会話もするようになっていた。
「サンキュ、火ぃ気をつけろよ」
「僕を何歳だと思ってんだよ…」
彼はいつになっても過保護だ。ここに来てから一度も一人で外に出してもらったことは無い。二人で出かける時だって常に手が握られている。最初に二人で出かけた時に僕が以前の客に絡まれた挙句薬を打たれたのが大きな要因なのだろうが、それに少し嬉しいと感じているのは事実。女扱いは気に食わないけれど大事にされているというのがくすぐったいほど嬉しくて、でも突然始まったこの日々が突然終わるのではないかという不安は日々募るばかりだった

夕食を食べ終え二人でソファにもたれて適当に決めたチャンネルを見ながら捻くれ者同士で何やかんやその内容にちゃちゃを入れている時、客の来訪を告げるチャイムが響いた。なんだこんな時間にとぼやきながらカズヤが玄関に向かった直後、彼の戸惑ったような声とともにぞろぞろと黒い集団が自分の前方を囲んだ。彼らに道を開けられ優雅に僕に歩みよったのは僕を拾って使えないと分かって捨て、また拾った在全グループ現トップ。
「……久しぶりだね、ハニー?」
「ええ、お久しぶり。今日は貴方に選択をしてもらいたくて来たの」
「選択?っていうか、カズヤは……」
「彼には別室で待機してもらっているわ。これはあなたに聞きたいことだから」
「へ、……」
無意識に膝に抱えていたぬいぐるみを抱きしめる。
「あなたはこれからもここにいたい?」
「…いたい。カズヤがいいって言うならここにいたいよ、ずっと」
「そう。じゃあそうすればいいわ」
「え、もしかしてそれを聞くためだけに来たのかい?わざわざ?」
「そうよ。あなたが楽しくやってるかって確認しにね」
何かもっと重大なものが来ると思っていたので思い切り肩透かしを食らった。力んでいた体を緩めソファに体重をかける。彼女はその後すぐ立ち去るかと思ったが、視界から消える突き当たりの数歩手前で振り返った。
「……彼といて、貴方は幸せ?」
少し目線を下に向ければにっこりと笑うカズヤにちょっとだけ似たくまと目が合って、これをプレゼントされた日のことを思い出した。
人に忘れられていた誕生日を自分だけ覚えておくなんて惨めで記憶の隅に追いやっていたのに、せっかく気付かないでその日を過ぎる事ができそうだったのに、当たり前のようにカズヤは祝ってくれたんだ。
あの時湧いた燃え盛るような歓喜を、僕はこれから忘れることはないだろう。
「うん、幸せだよ、すっごく」
「…そう」
ならいいわ、と言えばドレスをはためかせてくるりと背を向けて今度こそ彼女は去っていった。なんとなく不思議な人だと思った。

「って、カズヤはどうしたんだよ」
ハッとして胸にだいたくまはそのままに立ち上がる。
客間を出て書斎を覗きいないとわかると寝室に入って見れば彼はすやすやと寝ていた。眉間のシワが消えて、自分も人のことは言えないが本来童顔気味なせいでいつもより随分幼く見える。くまをヘッドボードに置き、彼の隣に潜り込んだ。
いつも自分の方が先に寝てしまうから寝顔を拝めることは滅多にないので今のうちに堪能しておく。ふにふにと丸っこい頬をつついたり、ただじぃと見つめたり。ぐっすり眠っている彼の腕を伸ばして肩と首の間のあたりに頭を収めると彼の胸に手を重ねて目を閉じれば、いとも簡単に睡魔がおしよせた。
そういえば、カズヤに抱き込まれて眠った時はいつも変な夢は見なかったな。
眠りに落ちる寸前にふとそのことに気付いた。


「小太郎、小太郎?」
「……あ、カズヤ。おはよ」
先に起きた彼が僕を揺すり起こした。朝の挨拶を返すのも忘れていきなり抱き締められる。どうしたのかとびっくりしながら聞いたら、もし僕が昨夜ここに留まることを望まなかった場合、カズヤが眠っている間にここからいなくなると言われていたようで。出ていくわけないのに、といえば「なんだかんだ不安だったんだ」と珍しく涙声で帰ってきた。
「んじゃ、これからよろしく。カズヤ」
「……ん、こちらこそ」
陽光がさし春の香が匂う穏やかな朝だった。


カズヤを送り出し洗濯など、粗方家事が終わったあと、さっきいれたミルクティーに口をつける。ソファに座って適当にワイドショーかムービーチャンネルの映画を回し見るのが最近の流行りだ。あれ?これ主婦か?なんて頭に浮かんだことは置いといて見たい映画がやるまでの時間を最近の事象を何かしらの専門家達やどこかしらの学府の教授達があーだこーだと話し合うのをぼーっとしながら見て潰していた。
うん。主夫業も板についてきたものだ。

すると突然赤い帯が画面下部に表示され、スタジオに緊張感が漂う。
『速報です。同じアパートに住んでいた女性を殺害したとして逮捕された容疑者が、証拠不十分として不起訴となり釈放されました』
へえ、こんなことってあるのか。もう一口とカップを傾けようとした、とき。フラッシュでその男がはっきりと画面に映された。
「え……」
それに釘付けになる。何も考えられなくなり指の力が抜けカップが落ちて鈍い音が遠く聞こえた。
「なん、で……なんでなんで…」
息が上がって酸素が入ってこない。自分の襟首を掴んで落ち着かせようとするも上手くいかず、自分で口を抑えて必死に息を吐こうとする。
『なお、彼には二十一年前、佐竹夫妻を殺害しその孫である男児に重傷を負わせた少年Aだったのではないかという憶測も飛び交っており……』
「どうして……」
床にへたりこんで呆然と画面を見る。カップの衝撃を吸収したほど毛足の長いカーペットを関節が青白くなるほど強く鷲掴む。
すればアナウンサーが顔を上げ追加で何かを読み上げる。
『追加の速報です。釈放された先程の男が〜〜公園前で報道陣からの質問に答えているとの事で、ただいま中継が……』
「〜〜公園…。」
そこなら知っている。ここからそう遠くないから走ればすぐだろう。
ほとんどものを考えず上着をひっつかみスラックスをジーンズに履き替え玄関を飛び出した。オートロックだから鍵は勝手にかかるから大丈夫。五分ほど走り続けると人だかりが見えてきた。その中心でマイクを向けられ堂々と背筋を伸ばして話しているのは先程画面に写ったあの男だった。
なんであいつが野放しにされているんだ。目の前で起きていることを信じたくない。目眩がする。棒立ちになっていたら男がこちらに目を向け何かに気づいたように凝視してきた。遠くからでも目を合わせているだけで気分が悪くなり俯いてその場所に背を向け立ち去ろうと走り出そうとした。
鍵なら大家さんに頼めば大丈夫だ。なんで家を出たかをカズヤに聞かれたらベランダから何か物を落としたと言えばいい。
「なんで行っちゃうの。こたろうくん?」
喉から引き攣った掠れた声が漏れ耳を塞いだ。呼ぶな。その声で。僕の名前を。
「誰のことですか……ッ!?」
足を速めて逃げようとすれば左手首を捻り上げられてコートとシャツの袖口を乱暴にまくられる。
「いッ…つ、」
「やっぱりそうじゃん。あーあーリスカなんかしちゃって、でも辛うじて消えてないな。俺がつけた傷跡」
掴まれた手首から悪寒が広がっていく。
「……離せッッ!!」
懇親の力で手を払いのけて距離をとる。無意識にまた右の下腹部を握りしめていた。
「瀬谷さん!その青年は誰ですか!?」
「まさかあの事件の……」
記者達が叫ぶように言葉を聞き出そうとし競うようにマイクを向けてくる。
やだ、こっち見ないで。
怖気づいて後ずさる前に男ががしりと両肩を掴み、耳元に口を寄せてきた。
「あのね、知ってる?俺が事件を起こした動機、キミなんだよ」
「……は?」
視線の先で血色の悪い唇が三日月のような弧を描く。頭に電撃が走ったような衝撃が走り、また呼吸がおかしくなり始めた。
「会いたかったからさぁ。でもやっぱり綺麗に育ったなぁ。まああん時も可愛かったけど、五歳だったっけ……欲しくなっちゃって」

――パシッ

頬に滑らされた手を反射的に払い除ける。それをしていいのはお前なんかじゃない。よく僕にそんなふうに接せるな。頭一つ分高い相手の襟首を掴むが奴の口はにんまりと歪んだままで。
「意味、分かんない」
「言葉の通りだよ。可愛かったから、自分のものにしたかったんだけどせっかく邪魔なの殺したのに捕まっちゃったから残念で、」
「……ぇせ」
「ん?」
「返せ!!」
あの時の記憶が一気に流れ出す。倒れた祖父、自分を身を呈して僕を守ろうとした祖母、赤を浴びた両親の写真、変わっていく床の色、聖なる日に貰ったぬいぐるみがその赤を吸って色が変わっていく様、笑いながら手首にナイフを突き立ててきた青年……

――――それからずっと、ぼくは、本当にひとりぼっちになった。

「…返せ、僕の全てを返せ!それなら僕だけで良かっただろ…返せよ、返せよ全部……ッ!!」
だんだん息が苦しくなっていく。それでも男のシャツにはシャツの布地越しにも爪が皮膚に突き刺さるほどきつく握りしめる。
周りに人やカメラがいることなど頭からとうに吹き飛んでいる。
「分かってないね、それじゃあ意味が無い。なんにもなくしたこたろうくんを俺は欲しかったんだ」
「なまえで、ッよぶ、な」
息がつっかえてうまく喋れない。
合わせられたそいつの目の奥にはタールのような不純物でどろりと濁って見え引き込まれるような感覚がして目を逸らした。
「どう?これから一緒にならない?存分に可愛がってあげるけど」
「ハッ、誰がおまえなんか、にッ」
笑ったのが気に食わなかったのかなんなのか乱暴に引き倒される。首を鷲掴まれただでさえ苦しい息が遮られた。
「生意気なッ、!」
ゴン、と頭を強かに地面に打った。コートのフードが少しは衝撃を吸収してくれたらしいが響くような痛みは強く呻くことしか出来ない。
癖で右手で脇腹の傷を摩る。これの存在を知っているのに理由を聞気もせずただ握りしめる僕の手をさりげなく解してくれた彼を思い出した。
「…ぁず、や……ごめ…ん」
「誰だよ…そいつ」
「ぅあ、ぐッ」
口角から喘ぐ息とともに涎が出てくる。苦しい。
カズヤごめん、やっぱり僕馬鹿だ。感情のままに動いて家飛び出した挙句こんなふうになって、こんなイカレに殺されるなんてお笑い種だね。自分も人のこと言えないけど。
「他の奴のもんになってんならせめて俺が……」
どうしよ、視界が霞んできた。抵抗する手も力が入らずに地面に落ちる。皆呆気にとられているのか動く気配がない。
ねえ、誰か、だれか…
「もう、やめとけッ!…おいお前!しっかりしろ!!」
気道を堰き止めていた圧迫感が突然消える。
「セイギさん!彼の息は!?」
「咳してるからそこは大丈夫らしい」
「だったらうちの車乗せてあげて!あと誰か警察――!?」
「きっと誰かもう呼んで――。こ――に人がいるんだ」
「え、あの人って――じゃぁ―か?」
「そん――関係ない――すよ」
「おい―っか――ろ!――」
意識がまた遠のいていく。この数十分で思い出すことが多すぎた。四、五人の話し声が聞こえる。そのいくつかは聞き覚えがあるけど、誰だったか。ああ、でもあのハスキーは覚えてる。あのいけ好かない奴、名前は……その名を思い出す前に僕の意識はブラックアウトした。


✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼




数週間前にも来た病院の白い床を蹴る。

いつもの通り仕事を片付けあとは簡単なものだからすぐ終われるだろうとファイルを手に取った時、携帯が鳴った。
そのコールは峰子から。なんとなく嫌な予感がしながらも手早く指を滑らせれば尖った声が矢のように耳を刺してきた。
今すぐ病院へ行け、詳細は今やっているニュースを見ればすぐに分かる。
こんな知らせが来るのはいつも彼絡みだ。数人の部下に指示を簡潔に飛ばせば飲み込みの早い彼らは直ぐに頷いてくれたのに頼り、そのままタクシーに飛び乗った。
その中で見たSNSに投稿された件の映像。頭が真っ白になった。この男はこの前釈放されたばかりだと記憶している。そしてやつにかかった噂――十四の時に近所の老夫婦と幼い子供の住む家を襲い、攫おうとしたらしい少年以外を殺害したという衝撃的なものだ。まさか、その少年が小太郎だった、なんて。そんなの信じたくない話だった。

看護婦に聞いた部屋番号に走ると、その前には五、六人の男達が屯していて。その中心にいた黒髪に目を見開いた。
「ッ、ゼロ……」
「あ!カズヤ!……久しぶり」
思ってもいない再開に一瞬呼吸を忘れる。よく見ればあとの男達はDKで彼と行動を共にしていた面々だったようで、俺のしたことを知っているのだろう、なんとも複雑な面持ちでこちらを見ている。何故ここに?と困惑していたら見かねたゼロが背を押した。
「俺達のことはいいから小太郎のとこ行ったげて。さっき鎮静剤打ってもらってから目を覚ましたんだけど医者も寄せ付けないほどの暴れっぷりでさ、病院着くまでとかずっとカズヤのこと呼んでたから待ってるはずだから」
「あ、あぁ。…ゼロ、ほんと助かった」
「いや……」
控えめに首を振る彼になにか返そうと思ったところで隔たりの向こうから俺の名を呼ぶ細い声が耳を掠めた。

「小太郎?」
名前を呼び返し引き戸に手を掛ける前にゆっくりとそれが動き、頭には包帯、頬に大きな湿布を貼った姿の彼が現れた。その頬は、その首の痣はどうしたんだ、と聞く前に肩に頭が寄せられ右手がシャツの肩口をを強く掴んできた。はらりとめくれた袖口から痛々しい包帯が覗き息が詰まった。
「お前、これ……」
「リスカの痕引っ掻いただけだから、へーき、だから」
「それのどこが平気だよ」
ふわりと抱きしめてぽんと頭を撫でたら犬みたくぐりぐりと頭を埋めてくる。すすり泣きを堪えているなと感じた直後かくんと膝から力が抜け崩れ落ちそうになり、慌てて抱きとめた。ゼロに軽く頷いて会釈したあと病室に相変わらず人形のように細い体を横たえたが、彼はわざわざ起き上がってこっちに両手を伸ばしてきた。俺はベッドに腰を下ろすと片腕で小太郎を引き寄せた。ことんと肩に重みを感じ、そっと小さな頭を撫で月明かりに照らされたつむじに口付ける。
「何が、あった?」
部屋の電気は消されており逆光も相まって彼の表情は暗がりで見えない。
「僕ね、二歳の時に両親が事故で死んだんだ」
「…そうか」
「そんな深刻に捉えないでよ。まだあんまり理解できる年じゃなかったけど、寂しくはなかった。祖父母が優しかったからさ」
でもね、知ってるかもだけど五歳の時、と続けられた時、無意識下で肩を抱く手の力が強くなる。
「ノックに応えた祖父の逃げろって声がして、祖母と裏口の方に行ったんだけど追いつかれちゃって……祖母はぼくを庇った。最後に何か言ってたような気がするけど、もうずっと思い出せないや。まあ、それで捕まって、その時にこれを付けられた」
右手首に巻かれる包帯を外すとある一点を指す。
「ほかの傷でわかりにくいけど、わざとなのか大事な血管を避けたところに深めにこれを付けられたんだ」
リストカットの奥に存在を主張する白い痕。パッと見ではほぼわからないがよく見たら完治した深い傷だとわかる。付けられたのが小さい頃と言っていたが、五歳児が手首にこんな大きな傷を……と思うとゾッとする。
傷は体と一緒に成長しない。大きさは当時のまま変わらないので、何故彼が重症と報道されたのかわかった気がした。その手を取って上書きするようにそこに唇を押し付ける。穏やかにふふと笑った。
「今日あいつとあって色々思い出しちゃってさ、あん時の部屋の様子とか、元々海軍でバリバリやってて強かったって憧れてた祖父が倒れてるのとか、現場の様子全部。忘れてたの。ぼんやりとしか覚えてなくってさ」
「そりゃ、そうだろ」
「それでね、思ったんだ。あのことがある前は両親がいなくとも幸せだったなって。だけどその時のことがずっと思い出せなかった、思い出したくなかった」
思い出したらさ、もっとさみしくなるから。
「お前、その時から……」
「ん…なんかね、ずっとひとりぼっちな気がしてるんだ。誰かが周りにいてもずっと不安ですぐ切れちゃうような繋がりでも馬鹿みたいに必死になって補強しようとして、そんでもって自爆して……ははっ、もう、笑えるくらい上手くいかねーの」
「まさか…なんか言われたのかよ、そいつに」
「"これで、君はひとりぼっちだね。だから、俺が一緒にいてあげる"って、言われて」
聞いている俺の方までが寒気がする。
「でもなんとか逃げて交番まで行って。お巡りさん真っ青だった。ま、身体中血まみれで、血を吸って重くなったぬいぐるみを抱えた子供が赤い足跡つけてきたらそりゃそうなるわな」
「小太郎…」
「ん、なに?」
「お前のそれからのこと、聞いていいか?辛かったらいい」
「……いいよ。カズヤなら、いいや」
二度、吸って吐く呼吸音が聞こえた。
「それからは、孤児院とか?」
「うん。でも僕ずっと怖がりで、ノックでも呼吸がおかしくなるくらいだから七歳過ぎても学校なんて行けなくて。中学でも相談室登校すら出きなかった」
「じゃあ高校は通信とか…」
「ううん、もうそろそろ出てもいいんじゃないかって言われて男子校に入ったんだ。随分なヤンキー校だったけど」
「は、」
どんな教師だ。そんな荒れた高校に入るのは危険だしそもそも頭のレベルが違いすぎるだろう。
「まあ仕方ないよ。その先生僕のこと嫌いだったみたいだし?」
「……なんだよ、それ」
「怒るなって。ま、そこでなんとか友達とか…繋がりとか作りたくってっていう意向もあったから。いい加減引きこもり卒業したくって」

でも失敗した、と。場違いにからからと笑った。

「ダメなんだよなぁ、僕」
いっつも失敗する。でも切り替えたくって短大行って留学して、思い切って会社開いたところで変わんなかった。全部崩れて切れてって。
「結局全部壊したのは僕だった――なんてさ、笑えるよね」
「……笑えるわけないだろ」
「はっ。笑ってよ、ねぇ」
こちらを見上げた彼は笑っていた。
いつも澄んでいた瞳が濁っているように見えるのが悲しくなる。笑うなら、その金糸のようにきらきらした笑顔が見たいのに。誕生日を祝ったときのような――
「笑えねぇよ。お前だって笑ってねぇだろ」
ガラスの仮面にヒビが入るように整った顔が引き攣る。
「は?何言ってんの、」
「そんな今にも割れそうで泣きそうな顔、笑ってるなんていわない。気付いてないのか?さっきから腹さすってんの」
ハッとしてそこから手を外し骨が軋むほど両手を組み合せ握り締めた。羞恥からなのか月明かりに当たって尚更青白かった頬に血が巡り赤くなる。
すれば、とん、と。胸を細い手首が胸のあたりを軽く殴った。でも当てるというよりも小さな衝撃で。
「おかしく……おかしくなる…!あんたといると、いっつも。自分が保てなくなって、上手く言葉が出てくなくなって詰まって。暮らし始めた時からそうだ」
言葉の間に聞こえてくる喘鳴が響く。久しぶりのパニックだろうか。それをおさめてやりたくて背をさすろうとしたが、その手はきつく払われた。
「離れさそうとしたって離れてかない。今までの奴らはそんなんしなくたって勝手に切れてったのにッ、なんで…」
俺を引き剥がそうと肩を押してくる。引き寄せようと腕に力を込めればやめろという代わりに首を振った。いつからか溢れ出した頬をつたう涙が散って俺のシャツを濡らす。
「離せよ!!他の奴らみたいに!!」
「嫌だ!」
子供みたいにそう言って、華奢な体が軋みそうなほど強く強引に腕の中に閉じこめた。いたい、離せと言うのも聞かず腕を緩めない。


「小太郎、」
抱きしめる腕はそのままに耳元に口を寄せる。どうしたら、彼のひび割れた心の器を直してやれるのか。不器用すぎる自分にはあまり分かってやれないけれど。
「寂しくさせてごめん」
自然とその言葉が出ていた。まるで彼をこの世に残した彼の両親達がそう言うように後押ししたがごとく。
「……は、…へ?」
「もっと前に会ってさ、もっと一緒にいてやればよかった」
それは、自分自身のas if的な願望もあって。もし高校の頃に俺達が出会っていたら、心の凹凸がぴったり合っていたような気がした。
「ちょ、カズ、」
戸惑い抵抗する気が失せた彼の頬を両手で包んで、そっと戦慄く唇を塞いだ。
「ひとりぼっちにして、寂しいって思わせてごめんな。これからはずっと一緒に居るから。お前の、居る家に、帰ってくるから」
呆気に取られたようにぽかんとこちらを見つめるアンバーの瞳。俺の目の奥に何かを探すように視線がゆらゆら揺れる。
「なに、言って……それは、昔のことなんてカズヤには関係ないだろ」
「そうかもしれねぇけど、今までお前が取り落としたやつ、全部俺で埋めれない?」
「なに、あんた…酔ってんの?」
「仕事から直できたからまるきりシラフだよ」
「あぁ、そう」
俯こうとした顔を添えた両手でぐいとまた上げる。
「聞けって。俺は本気だ」
「なんか、勘違いしてるみたいだから言っとくけど、僕は悲劇のナントカじゃないよ。自業自得。この腹の傷だって本当のとこはただの自己満足な復讐心の塊。さっき言った会社だって…裏切った社員たちは僕が……僕が殺した。僕が……ッ答えるのは無理だって感づいていながら出した問題であの三人は死んだんだよ。取り返しのつかない罪ってやつはもうしてるんだ。だから……」
「お前がそれを罪って思ってんなら、俺が……俺が、許すよ」
意味が分からない。そんなふうに顔をゆがめる。そりゃあそうだろうけど、こいつの美しいガラスの仮面を砕けさせるにはあと一押しだ。
「ばかじゃん。何も、何にも知らないくせに」
「知らない。けど、俺が許すから。お前の全部を」
頬に添えた手で下瞼の際をすぅとなぞればいつの間にか溜まっていたらしい涙がほろっと零れた。なんで、と言いながらそれらを乱暴に拭う手を止めさせて両手を握りしつこいのを承知で語りかける。
「お前はひとりぼっちなんかじゃないから。ほら、見てみろよ」
ひょいと抱き上げて窓際に連れて行く。そっと下ろし、彼の視線を窓の向こうに向けさせた。

窓際に居る時、小太郎はいつも空ではなく地面の方を見下ろしていた。澄み渡る青空も鮮やかな夕焼けも深い夜空の見ず、ただ目下の硬い地面ばかりを色のない瞳で見つめて。

今日は三日月。明かりが少ないので周りの星がこの辺の都会にしてはよく見える。それを見た彼の目に映る空。しばらくしたら、そこからさっきよりも大きな雫が零れだした。すれば、その雫も夜空に向けられた瞳もそのままに穏やかな声が聞こえてきた。
「こた は、ひとりじゃないからね。おばあちゃん、お星さまになっても、ずっといっしょだからね」
「小太郎?」
「私だけじゃない。ママも、パパもおじいちゃんもいっしょだから、つらくなってもお空をみてがんばって生きるのよ」
「……なんか、思い出した?」
しどどに濡れた頬を拭う。長い睫毛もしっとり濡れて雫がいくつも乗っていた。
「忘れてたんだ。祖母が僕を庇って死ぬ直前言ってたこと」
「さっきのが、そうなのか?」
「うん。カズヤのおかげでやっと、思い出した」

己の手を見つめて独り言のように呟いた。夜空を写している大きな瞳をこちらに向けて。

「……僕、ひとりぼっちじゃ、なかったのかな」

夜風に舞い上がったレースカーテンに束の間包み込まれた彼をそっと抱きしめた。

――今までのこれからもお前はひとりじゃないって、心臓に張り付いた孤独の霜が溶けるのを願いながら。




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