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預けられた子猫

「ほら、口開けろ」
「嫌」
「食べろって」
「後で食べるさ!アンタが仕事行ったあとに」
「……それぜってー食べねぇだろ。それに、昨晩あれだけ動いたんだから尚更食べなきゃダメだ。アレは疲れたろ」
「あ、アレって……!!ッむぐ」
「隙あり」
今日から俺は有給を終え仕事に戻る。休んでいた間にあったことはデータで送られてきているので問題は無いが気がかりなのはこの小太郎のことだった。朝食と夕食はこのように一緒だからいいのだが昼食は彼一人で摂ることになる。食べるのを苦手とするのに彼が自分から食すと思えなかった。今はせめて朝食ぐらいはしっかり食べてくれとまたも格闘している。

なんとか食べさせ、家を出ようと靴を履きドアに手をかけた時、背後に気配を感じた。
「カズヤ……」
「どうした?」
「……帰って、くる?ここに」
いつも生意気な口を聞いている彼がやけに不安げな様子で、気の所為か少し涙ぐんでそう問うた。
「当たり前だろ。なんだ、寂しいのかよ」
「ちっ違うし!そんなこと言ってないだろ!」
「はは、そうかよ。じゃあ行ってくるけどちゃんと嫌でも昼飯食えよ」
「…ん」
珍しく素直に頷いた。

小太郎は俺が仕事に行くときそう聞いてくるようだった。そもそもここは俺の家だからそんなの当たり前なのに毎朝毎朝何かのルーティンのように。
――「帰ってくる?ここに」
――「ああ。当たり前だろ」
このやり取りが俺たちの"いってらっしゃい"のようなものになっていて。
一度だけ彼を試そうと「どうだろうな」と返したことがある。その時はきゅっと小さな口が引き結ばれ勝気な瞳が潤んで、薄い身体がさらに儚く見えて。悪いことをしたと思い既に履いていた靴を脱ぎ傷付いたことを隠そうとしていやいやと捩られる身体を抱きしめた。しばらくそうしていたら控えめに裾が握られ、額の重みを肩口に感じた。状況が状況で体を繋げた時よりも彼を近く感じたような気がした。「嘘だよ、帰ってくる。ここにな」って、そう言ったら少しの間を置いてこくりと金糸の頭が頷いた。一息ついてその髪をゆるく撫でる。
この男を預かってから俺の中で一番変わった事。それは、いつの間にやらもう抱かないだろうと思っていた感情をうっかりこの男に対して抱いてしまったことだ。

まあ、でも良かったのは昼食も残しがちだがきちんと食べているようでだんだんとあばらが目立たなくなっていったことだ。暇つぶしに家にいくつかあるトレーニングマシンを使っているようで脂肪はつかず綺麗に薄く筋肉がつき健康的な体に近づいていてほっとしていた。のだが、近頃また食べる量が減り始めた。
聞いてもただ単に食べられなかったと言われればそうかとしか言いようがなくそのままになってしまっていた。それが悪かったのだ。いつもよりも少し遅めに帰ってくると隠れて腹を抱え苦しんでいるのを発見し、平気だからという彼を抱き上げ慌てて直接緊急外来に連絡して病院に連れ込んだ。
診断結果は盲腸。
破裂寸前だったらしくすぐに手術が行われ無事助かった。医師からはすぐ退院できることとともによくああなるまで黙っていられたものだと感心されてしまった。

「小太郎、なんで言わなかった?」
「病気だって思わなかったんだ」
「…、いや盲腸だぞ?」
幸いなことに術後個室に入れてもらいあとは回復を待つのみとなった。栄養不足気味な体に反して回復力は上だと主治医も驚きを隠せていない様子だったが、今後このようなことがあっては堪らない。もしあの時俺が見つけておらず腸が破れていたら本当に危険だったのだ。
「今回はギリセーフだったが、次なんかあったら絶対に言えよ。本当に、心配させんなって…」
「……わかった」
「やけに素直じゃねえか」
「たまにはいいじゃん。なあカズヤ、」
「ん?」
「屋上、連れてってくんない?」
ここの病院って屋上行けるよね、と突然の提案。丁度来た看護師に聞けば車椅子なら言ってもいいとの事だったので、よいせと彼を抱えあげ備えてあったのに座らせ手術痕に響かぬようにゆっくりと押し進めた。
細いうなじに自分の意識が向かぬようずっと前を向いて歩みを進める。途中で小太郎が横の窓を見てわあっと華やいだ歓声をあげた。そちらを見遣ればたくさんの桜の花びらが青空に舞っていた。ここの病院は桜の木が多く植えてあるのでも有名だということを思い出す。
「屋上からはもっと見えるよ」
「本当!?」
弾んだ声でこちらを振り返るが傷のことを忘れていたようで短く呻く。
「本当。エレベーター乗ればすぐだから落ち着けって」
お前時々ガキみたいに素直な喜び方するよな、そう車椅子を進めながらぼそっと言ったら誰がガキだって?と噛みつかれた。だがその先を言い募ろうとした時、扉が開かれそちらの景色の方に意識が向く。
ここの屋上は屋上と言うよりもサンルームと言った方が近く、天井以外がガラス張りの仕様になっている高級感のある空間で、ひとつ空いた窓からひらりひらりと花弁が入ってきていた。見下げれば眼下に桜が咲き誇っている様は見事で、その窓の近くによりそこで足を止める。ちょうどソファもあり、隣に車椅子を止めると俺もそこに腰を下ろした。
「春だな……」
「わぁ、すごい」
少しの間静かな時間が流れる。ひゅうと風が吹き柔らかな金糸を巻き上げ花弁がそれに絡んだ。取ってやろうと身を乗り出したところで、小太郎がふいにこちらに顔を向けて、お互いその近さに驚いて動きをピタリと止める。俺の前髪が彼の滑らかな頬にかかり、はくと動いた薄い唇からも吐息を感じた。花弁を取ろうとした手が横髪を耳にかけ頬に手を添え――
眼をつぶったのはどちらが先だったろうか。頬に触れていない方の手でそうっと細い肩を抱き寄せ、柔らかい桜色にふわりと触れた。初めて会い触れた手の冷たさはなくなりちゃんと人間味のある温度があってほっとするとともに心が震えた。
「んっ……」
「…小太郎、悪ぃ」
「待って!…カズヤ、その……」
我に返りはなれようとすると肩に添えていた腕を華奢な手が掴んで引き止めた。しばらくそのままで何かを言うのを躊躇うように視線を逡巡させ、俺の顔に焦点を合わせると泣き笑いのような表情を見せて。
「その…僕、アンタの……カズヤのことが好き」
息をのんだ俺に気づかないまま急にごめんと言って目を逸らし彼は続ける。
「初めてだったんだ。こんな風に、壊れ物みたいに扱われたの。僕はそんなに弱くないよ。なのに、あの時馬鹿みたいに優しく抱いてさ……俺がここに来る前何してたか勘づいてはいるでしょ?」
「……ああ」
出かけた時小太郎に薬を打った男達が言っていた内容で粗方理解はしていた。
「タチの悪いヤツらに捕まって、怖くてなんの抵抗もできなくて…変なとこで働かされた挙句、僕のことを気に入った変態野郎に買われる寸前だったんだ。薬打って自我をなくした具合の良いラブドールとしてね」
「その寸前に在全達にここに連れてこられたのか?」
「そう。もう全部全部が嫌でさ、カズヤには早く嫌いになって見放して欲しかったのにどんだけ面倒臭い態度とっても懲りずにそばにいるしさ」
とん、と俺の肩口に額が預けられる。
「……ごめん、好きなんて言って。峰子に何を言われたのかは知らないけど、嫌になったらいつだって追い出してくれていいから。生まれが生まれだから自分がどんな終わり方しても仕方ないって覚悟はしてるし」
呆れたものだ。勝手に告って勝手に振られやがって。一つ息を吐き、仕切り直そうと冷たくなった風が入り込む窓を閉めるため立ち上がり歩き出そうとした、のだが。くいっと袖を引かれてたたらを踏む。
「…小太郎?」
「へ、……あっ」
本人は無意識だったのか俺の袖を掴む己の手を見てサッと青ざめた。
「ちっ違う!これは、これ、は……」
自分の行動を否定するように激しく首を振り俯く。離したいと思っている、でもその手が言う事を聞かず離さないのだろうか。
どんなに強がっていても彼はいつまでも本当は底なしに寂しいのかもしれない。ヒビの入ったガラスの容器のように、いつか心に空いた穴からせっかく溜まった幸せが流れ出していって、いつまでたっても寂しさが彼のことを縛り付けて離さないのか。
「ちがう……」
掴まれた布地からも震えが伝ってくる。
「お前なぁ、」
力んで硬直気味になった手をさすり、それをとって車椅子の前にしゃがみこんで今にも泣きそうに歪んだ顔を見上げた。
「どこにも行ったりしねえって。ちょっと窓をしめに行こうとしただけ……ってお前、なんて顔してんだよ」
噛み締めすぎて白くなっている唇を親指でなぞり、さすっていた手を指を絡めぎゅっと握り直すとまたその手が震えた。
「小太郎、こっち向け?」
「いや」
「大丈夫だから。ほら、」
しばらく声をかけ続けると観念したのかやっとこっちを向いた。涙は流していなくとも目の縁はうさぎよりも真っ赤で見るだけで可哀想になる。
「思い込み激しいみたいだけど、俺もお前と同じ」
「おなじって?」
「……好きだよ、俺も」
すればこぼれ落ちそうなほどに目をまん丸に見開いて驚く。繋いでいた手が強く握られた。
「う、うそだ」
「嘘じゃない」
「だって!なんでだよ……こんな」
「なんでって、好きになったもんは仕方ないだろ。いつの間にかなってるもんだろ」
「そういう意味じゃなくって…っ」
あわあわと俺からの好意を否定しようとする。
「毎日小生意気な口聞くくせに毎朝しおらしく帰ってくるかって聞いてきて、桜見てガキみたいにはしゃいで、頭撫でたりしたら顔どころか首まで真っ赤になるし……可愛いんだもん。お前」
「う…ああもう黙れって!」

繋いでいない方の手で顔を覆い小さく呻く。それについ笑いが漏れたのが聞こえてしまったらしく「笑うな!」と叱責が飛んでくる。不本意にも可愛いと思ってケラケラ笑ったらうさぎの目が不満げに睨んできた。
ふいに、彼の座る車椅子にかけてある大きめの袋が目に入る。告白沙汰があり自分も不意打ちで動揺していたのかすっかり忘れていた。これを用意していたせいで帰宅がいつもより遅れてしまって、これを取りに行くためにわざわざ病院と家を一往復したのだ。

「危ねぇ忘れてた。――これ、お前に」
「え?これ…僕に?」
「ん」
ぽかんとしている小太郎の膝の上に紙袋から出した大きめのピンクのビニールを置く。リボンを解くように促し、中から出てきたのは両手で抱き締めたら少し余るくらいのテディベア。アクセサリーや服など色々考えたのだがどれもピンと来なく、結局買ったのはこいつの髪色によく似たクリームゴールドのそれだった。れっきとした成人男性ということは分かっているがなんとなく似合う気がしたのだ。
「わぁ!かわいい!」
ほら似合う。
「色々考えたんだけど結局それにした。気に入ったみたいでよかったわ」
「うん、……でも、なんで?」
「え?」
自分で気付いていないのか?見た目からしてもイベント大好きっぽいこいつが?そう思っても呆けた表情はそのままで、ああ本当に忘れているのかと理解した。
「いや、だって今日お前……あれだろ」
「あれって?」
「いや…だから、誕生日だろ?お前の。四月七日、お前が生まれた日」
「……ッあ、」
やっと気付いたかと思ったが、すぐにそれどころではなくなった。今度は本格的に大粒の涙がぼろぼろとまろい頬を滑り落ちていく。これは手では拭いきれないと思いハンカチをそっと目元に押し付ける前に、彼は自分の涙に遅れて気付くと泣き顔を見られたくないのかクマに目元を押し付けた。
「……なんで、知ってんの?」
「前に後藤峰子に聞いてたんだ。でも気付いたのは四日前でさ、慌てて買って帰って十二時丁度に渡してやろうと思ってたのにお前倒れてるし。ほんとビビったわあの時……ってうぉッ!?」
そう言いかけ俺はリノリウムのひんやりとした床に尻餅を着いた。小太郎が車椅子から飛び出し抱き着いてきたのだ。腹の傷は大丈夫なのかと思ったが間に挟まっているぬいぐるみが衝撃を吸収してくれたらしい。
腕の中に収まる身体から泣き声は聞こえない。
だが小刻みに震える背と縋り付く右の手で意固地にも嗚咽を堪えているのがわかる。予想通り左手を噛んでしまっていたのでそっと外させたら、僅かに声が漏れ出した。その左手に指を絡めて繋いだら今までで一番の力で握り返された。その事で素直に嬉しいと感じる自分がいる。
「ふぇっ、く……ッう」
「堪えなくていい。多分ここには誰も来ねぇよ」
そう言っても変わらず必死に泣きを我慢しようとする。意地っ張りなそんなところが好きだと思った。
「誕生日祝っただけでそんなに嬉しいかよ」
「うるさいなあ…っ」
「それくらい毎年祝ってやるから、な?」

そういえばもっと泣いてしまったのにふふと笑って、ぬいぐるみごと彼を抱き込んだ。
少し落ち着くと、縋り付く手を緩め小太郎が俺と目を合わせてきゅっとプレゼントしたくまを抱きかかえ、ぐしゃぐしゃの顔で笑う。

「カズヤ、……ありがとう」
「…ん、どーも」


やっぱりこいつは笑ったのが一番可愛い。





「部屋にも一応花用意しといたんだぞ?」
「ふふ、ありがと。ロマンチストだよね、カズヤって……なんて花?」
「クロッカスってやつ」



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