小さな恋のうた
「よし、掛かった」
肇の声に、周囲の三人が顔を上げる。
「本当に大丈夫なんだろうな?」
自信たっぷりの肇に対し、ファイは訝しげな顔をしている。
「大丈夫、店の名前も出してたし間違いない。潜入成功だ」
「どちらかと言うと、この後の方が心配なんだがな」
不信感を隠さない表情のままファイがミルクティーを啜る。舌に触れる温度が少しぬるくなっている。
「まあまあ。アンリがしくじったらそれはそれで相手の気が引けるからよし、ということで納得しただろう?」
「一応はな。それで割を食うのが僕なことには納得していないが」
そう言ってファイがじろりと肇を睨む。何を隠そう、今回の作戦立案は他でもない肇なのである。
「なんだよ、僕の作戦に何か不満でも?」
「そもそもお前の考えた作戦って時点で不満と不安しかないが?」
二人のやりとりを聞いていたレガリアが「まあまあ」と宥める。表情は穏やかだが、その内心は「こいつらいつも喧嘩してるな」である。
「ここでぐだぐだ言い合っていても仕方ないだろう?アンリが気を引いているうちに僕らがビルに乗り込む作戦だからね、状況が動いたなら僕らも動くべきだ」
そう言いながらレガリアが店の扉へ向かって歩き出す。
「さっさと行ってとっとと終わらせるぞ」
続いてファイ、その後ろから肇と玲司が続く。カウンター席には飲みかけのグラス。全員が扉を潜ったことを確認して、レガリアが店の明かりを消す。三人を見送る扉には、「CLOSED」と書かれた札。
「――――」
レガリアが独り言のように何かを呟く。施錠代わりの結界術。
「さあ、行こうか」
ふと、レガリアの方を振り返った玲司の瞳に、ボウ…と、なにか赤く光るものが映った気がした。
♢♢♢
昼間は焼けつくような暑さだったが、日が落ちれば時期相応の気温で、肌を撫でる冷たい風にはほんの少しの肌寒さすら感じる。豪奢なネオンがキラキラと輝く中に、騒がしい若者の笑い声や、彼らに声をかけようとする客引きの声がこだまする。その頭上を、どこかで聞いたような声による客引き防止のアナウンスが流れていく。
「向こうも作戦通り、いつでもいけるぜ」
まるで何かの合図を待っていたかのように、目を閉じ周囲の音を拾っていた肇が顔を上げる。
「今更だが、アンリが都合よくスカウトされなかったらどうするつもりだったんだ?」
肇の言葉を待っていたファイが、外套のフードを脱ぎながらそう言った。
「あの顔面でされないわけがないだろう」
あっけらかんとそう言う肇の言葉に嫌味はない。
「あれは容姿だけで言えば絶世の美女だ。この先一生口を開かないとでも言うのなら、アンリたんと呼んでやってもいいくらいだ」
褒めているのか貶しているのかなんとも微妙な言い方だが、事実そのどちらのつもりもないのだろう。アンリの容姿が整っていることと、その性格に難がある事は肇にとっては単なる事実であり、それを裏付けるかのように、肇の口調はまるで説明書や注意書きを読み上げるときのように淡々としている。
「棗からの合図が聞こえた。状況が動く前にさっさと入った方がいい」
「それもそうだな」
二人は何事もなかったかのように話を終わらせ、流れ作業のように作戦を進める。肇がアンリの容姿をベタ褒めすることも含め、これが二人の通常運転なのである。
件のビルへと歩を進める彼らの後ろで、「あの……」と玲司が申し訳なさそうに口を挟む。
「さっきからアンリさん散々な言われようッスけど、その……大丈夫なんスか……?繋がってるんじゃ……?」
「繋がってる?何が?」
「いや、その……さっきから聞こえたって……」
玲司の疑問を察したらしく、それまで黙っていたレガリアが口を挟む。
「大丈夫、通話がつながってるわけじゃない、一方的に聞いてるだけだよ。肇ちゃんは耳が良くてね、このくらいの距離なら会話を聞き取れるってだけさ」
「聞き取れるだけって……それって耳が良いってレベルなんスか……?」
「気をつけろよ、歌舞伎町でこいつの悪口言ったら筒抜けだぞ」
ファイが意地悪そうな笑みを浮かべてそう言う。普段の無表情からは想像できないほどに心底楽しそうな笑顔である。
「ゲッ……、いや言わないッスけど!!」
思わず一瞬引いてしまった玲司が慌てて取り繕う。
「安心しなよ、僕のはそんな便利な能力じゃない」
玲司のそんな様子を見て、肇がそう声をかける。
「聞こえる距離と範囲は比例するんだ。360度全てを把握できるのはせいぜい数十メートル。歌舞伎町の端から逆端を聞き取ろうとするなら、その方向以外の350度くらいは捨てなきゃいけない」
「それでも充分凄いッスけどね……。俺にその能力があればあいつらも……」
悔しそうにそう言いかけた玲司の台詞を、ファイが「やめとけ」と遮る。
「お前は自分の周りで数十台のテレビがそれぞれ違う番組を流してるとして、その内容を全て把握できるか?」
「は!?そんなん無理に決まってるッスよ!」
「そういうこと。こいつの耳は範囲内の全ての音を拾うからな。そこから聞きたい情報を抽出するなんて芸当、生まれた時からその聴力とともに生きてきた肇にしかできないんだよ」
「すごいッスね……まるで聖徳太子ッス……」
感心した様子でそう言う玲司に、肇は苦虫を噛み潰したような顔を向ける。
「やめてくれ、そう言って未だに僕のことを"太子"なんてふざけた渾名で呼ぶ奴もいるんだ」
「ほほう、それは初耳だな」
肇の言葉を聞き逃さなかったファイがすかさず反応する。その様子に肇が「しまった」という風に表情をひきつらせる。
「くっそ……!言わなきゃよかった!」
「なあなあ、その話詳しく聞かせろよ、太子〜〜」
ニヤニヤと肇の脇腹をつつくファイの腕を、肇が迷惑そうに押し返す。二人の年齢よりも幼く見える容姿も相まって、まるで男子中学生のやりとりである。
「ほら、ファイも太子も、いつまでもふざけてないで。着いたよ」
「お前まで太子って呼ぶな!」
そんな二人の様子を微笑ましそうに見ていたレガリアが、進行方向を指差し声をかける。
レガリアの指す先にはただの路地、に見える何か。
「うん、風の通り方が不自然だ。ここに何らかの建物があるのは間違いない」
ファイがスマホを取り出し地図を確認する。
「例のビルの場所もここで間違いない。レガリア、破れるか?」
「誰に向かって言っているんだい?」
瞬間、風が通り抜ける。
「へ?」
玲司が間抜けな声をあげるのも無理はない。突然当たりを吹き抜け始めた風は、勢いを増しながらレガリアの足元に収束し周囲の小石を巻き上げる。
「相手の力量にもよるけど、最悪の場合結界に触れた瞬間戦闘になる。準備はいいかい?」
「それこそ、誰に向かって言っている」
そう言ったファイが胸ポケットから取り出すのは、年季の入った小さな皮の手帳。その向こう、周囲の風を巻き上げていた竜巻の中心に、微かな赤い光。それは、玲司が数刻前見たものと同じ光。
「あ」
玲司が思わず声を漏らす。視線が、レガリアのそれと交差する。そこでようやく、玲司は自分が吸い込まれるように見入っていた光の正体がレガリアの瞳であったのだと理解する。
「この世界には、人の形をした人ならざるものが紛れている。そして……」
レガリアが手を伸ばす。
「
空間が開く。実際には開いたわけではないのかもしれない。しかし少なくとも玲司にはそう見えた。それまで路地であった空間が引き戸を開けるように中央から裂け、本来あるべきものであった古びたビルが顔を出す。
「人はそれを古来から“悪魔”と呼んできた」
ファイが言葉を紡ぎ終えると同時にレガリアが玲司の方を振り返る。昨日見たターコイズブルーの瞳とは打って変わって、ギラギラと燃えるように輝く赤い瞳。玲司はその怪しさと美しさに引き込まれ、言葉を失ってしまう。
「で、レガリアがその悪魔だ」
多分、衝撃的な告白だったろうとは思う。けど、彼が人ではないという事実が玲司の中では妙に腑に落ちた。昨晩から色々と非現実的なことが起こり感覚が麻痺していたというのもあるかもしれない。だがそれ以上に、暗闇で怪しく光る赤い瞳で玲司を見つめ、ニヤリと上げた広角からチラリと尖った牙を覗かせるレガリアの姿は、彼が「悪魔」であるというファイの言葉に説得力を与えていた。
「はあ」
口をついたのは、間抜けな返事である。どうやら驚かせる意思が多少あったらしいファイが、がくりと体をよろめかせる。
「あれ?もしかして初めてじゃないのかい?悪魔に会うの」
そう続けたのはレガリアである。意外そうな顔で玲司を見るその瞳は、透き通るようなターコイズブルーに戻っていた。
「いや!勿論初めてッス!初めてッス……けど……」
「けど?」
「なんか納得というか、怖くはないというか……、なんスかね、なんかずっと知っていたみたいにしっくり来るんス」
刹那、考え込むように俯いた玲司が顔を上げ真っ直ぐにレガリアを見つめ直す。
「きっと、レガリアさんが良い悪魔だからッスね」
「はあ」
先程の玲司と同じ、魔の抜けた返事を今度はレガリアが漏らす。と、予想外の反応に困惑するレガリアをファイと肇がニヤニヤと見つめていることに気がついた。
「なんだい?」
「別に〜」
照れ隠しのようにレガリアがファイの額にデコピンをする。
「さて、首尾はどうだい?肇ちゃん」
と、何事もなかったかのように話を続ける。
「違和感くらいは感じてるかもな、一瞬心拍数に変化があった」
「ゲッ、お前そんなのまでわかるのかよ」
「あからさまにドン引くな!あいにく美女の心拍音にしか興味はないし、お前の感情まではわからんがな!」
「それはそれでキモ……ムグゥ……!」
何か失礼なことを言いかけたファイの口をレガリアが塞ぐ。
「で、踏み込むこと自体に問題はなさそうかい?」
「それは大丈夫そうだ、愛流たんのプロ意識ならただの違和感じゃ卓を離れない。内山が良いタイミングで酒を入れてるから離れる隙もないしな」
「名前しか知らないけど内山さんに感謝だね、行こう」
と、ビルに踏み込もうとしたレガリアの視線の下端を、バタバタと何かを訴えるように手のひらが横切る。
「あ」
視線を落とすと口元を抑えられたファイが真っ赤な顔をして暴れていた。
「……ぷはぁっ!クソッ、殺す気かよ!」
「悪い悪い、あまりのフィット感に忘れてしまっていたよ」
「僕はお前の抱き枕じゃないぞ」
クソッ、と悪態を吐きながらファイはズカズカとビルの中に入っていく。
「何をしている?さっさと終わらせるぞ」
そう言いながらファイは、手に持った手帳から一枚のページを切り離す。
「調査はレガリアに任せて肇は耳にだけ集中してくれ、状況が変わったらすぐに知らせろ。向こうが動いたら作戦通り僕が行く。玲司」
「は、はいッス!」
突然名前を呼ばれた玲司が慌ててファイのところに駆け寄る。
「場合によっては君と肇だけで逃げる事になる。肇は護衛としての戦力は期待できないから、万一の場合、君はこれを使って自分の身を守れ」
「これ……は……?」
渡されたのは、先程ファイが手帳から切り離していた一ページ。羊皮紙のような分厚く手触りの良い紙の中央に、赤黒いインクで魔法陣のようなものが描かれている。
「僕の魔力と簡単な防御術式を組み込んである。呪文はなんでも良いが、それを地面に叩きつけて発動しろって気持ちで唱えれば大丈夫だ」
「そんな適当で良いんスか?」
「適当でも発動する術式だ、君でも使えるように調整してある」
それだけ言ってファイはビルの中へと消えていく。
「なんだかんだ言いながら結局は面倒見が良いんだよね」
呆れたように、それでいて愛しいものを見つめる聖母のような笑みでレガリアが言う。
「もし呪文に困るのならこう言うといいよ。“
ブレイク、と口に出しそうになる玲司の口元に、レガリアが人差し指を立てて制止する。
「それを言うのは万一の時まで取っておくんだ」
「あの……!ブレ……この呪文ってどう言う意味ッスか?」
ファイに続いてビルの中へと消え入りながら、レガリアが言う。
「ファイが、いつも使っているものだよ」