小さな恋のうた
ジリジリと強い日差しが肌を刺す。まだ六月だというのに梅雨の湿気は何処へやら、カラリと晴れ渡った猛暑が続いている。世間はすっかり夏の装いであるが、その暑さにも関わらずファイは真っ黒な外套を羽織りフードを深々と被っている。
「相変わらず、見ているこっちが暑くなるね」
隣を歩いていたレガリアが思わず小言を吐く。脱いだジャケットを腕にかけ、普段は上まで留められているシャツのボタンが二つほど開いている。いつものきっちりと着こなされたスリーピースも迫力があるのだが、今日の絶妙に着崩されたそれは、彼の綺麗な金髪と日本人離れした容姿も相まって、いつも以上に歌舞伎町によく馴染む。
「こんな時間に外に連れ出したのはお前の方だろ。文句言うな」
「仕方ないだろう。日没には玲司の先約が入ってるし、今晩例のビルに乗り込むとしたら話を聞くのは今しかない。それに、夜行性の彼を夜探すのは難しいからね」
「ならお前ひとりで行けばいい」
うだうだと言いながらもついて行くところがファイらしい。
賑やかな夜とは打って変わって閑散としたゴールデン街を通り抜け、都会らしい喧騒を感じながら花道通りを一番街の方へと進む。歌舞伎町のど真ん中、深い茶色の壁面にデカデカと店の名前を主張する白いネオン。二人の目的地であるネットカフェだ。
カウンターには顔見知りのスタッフ。ファイが軽く会釈をすると、彼は名簿を確認して部屋の鍵を手渡してくれる。
人がやっと一人通れるほどの細い廊下、薄暗く落ち着いた店内をまっすぐに進み、目的の部屋の扉をノックもせずに開ける。人が一人寝転ぶには充分な広さのフラットルームで、その男は寝息を立てていた。
ネットカフェのシングルシートは人が三人入るには少々手狭であるが、気にせず上がり込みドアを閉める。
「おい、起きろ」
部屋の端に座り込んだファイが、相変わらず気持ち良さそうに眠っている男の脇腹を足で小突く。男はピクリと身体を動かすと、迷惑そうに息を漏らしながら寝返りを打ち、重たい瞼を開ける。
「おはよう、
眠たそうに目元を擦る男の顔を、レガリアが満面の笑みで覗き込む。瞼をパチパチとしばたかせ、レガリアと見つめ合うこと数刻。ようやく自身の置かれた状況を理解したらしい彼が飛び起きる。
「また来たのかよ!お前ら!」
顔を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな顔で叫ぶ。寝癖ひとつないサラサラのマッシュルームヘアを振り乱し、童顔の大きな目が一際丸くなっている。
「またとは何だ、前回来たのは一週間も前だろ」
ファイはしれっとした顔で返す。
「週一でお前らに巻き込まれる方の身にもなれ」
テーブルに置かれていたボストン型のメガネを手に取りながら、肇は相変わらず泣きそうな声で文句を垂れる。
ファイがこうして肇の寝床に押しかけるのは珍しいことではない。夜間は神出鬼没な彼を探すのであれば、昼間寝泊まりしている場所へ行くのが手っ取り早く、防音で完全個室のネットカフェは情報交換の場としてこれ以上ないほど適している。そのため、彼はファイに事ある毎に睡眠を妨害され、面倒ごとを押し付けられているのである。
「悪いが僕は何も知らないぞ」
何を聞かれるでもなく、先回りして肇が答える。
「ほう、まるで何を聞きに来たのかわかってるような口振りだな」
「どうせ愛流たんのことでも聞きにきたんでしょ。最近こそこそ愛流たんのこと調べてた轟って男がお前らのとこに行ったから」
ファイに煽られ、肇はますます不機嫌になってしまう。しかし、相変わらずの情報の早さと正確さである。
「そこまでわかってるなら何かひとつくらいあるだろう?」
レガリアが畳み掛けるように続ける。
「知ってても教えるもんか。あそこは僕のユートピアなんだ」
肇は口をへの字に結んで完全黙秘といった態度である。腕を組み肇を睨みつけるファイの隣で、レガリアが困った様に笑い「ユートピアねえ……」と呟く。
「とは言え、君が彼女の周りで起こっていることを知らないはずはないだろう?このままだと君にも危険が及ぶかもしれないんだよ?」
レガリアの口調は穏やかだ。諭すように、優しく肇に語りかける。
「構わないよ、そう思わせられるだけの魅力が彼女にはあるんだ」
あまりにもハッキリと言い切る肇の言葉に二人は絶句する。そうだった、こいつはこういう奴だった、とファイは周りに聞こえるくらい大きなため息を吐き頭を抱える。女性に対する無防備さと破滅願望の同居。それに起因する危なっかしさを、二人はよく知っていた。
「お前なぁ……、そうやって何度女に騙されてきた?いい加減懲りてくれ」
呆れたファイがつい小言を口にする。
「騙されたとは人聞きが悪いな、僕は彼女たちを本気で愛していた、純愛だよ」
「そんなだから五度も結婚詐欺に引っかかるんだろ」
「失敬な!四回だ!」
「引っかかってる時点で同じだ」
過去四度の結婚詐欺騒動においても、彼は最後までファイたちの助力を拒んでいた。相手の素性も目的も全て分かった上で金を渡しているのだから当然である。自分がもし騙されていたとしても、それで彼女が幸せならばそれでいい、典型的な悪女キラーなのである。
「今回の相手はこれまでとは違う、取られるのは金だけじゃ済まないぞ」
ファイが釘を刺す。事実、これまでの相手も悪女ではあったが、彼女たちは人間だった。悪魔であろう今回の相手とはそもそもの前提が違う。金を取ることとその目的は別々にあった結婚詐欺師とは違い、悪魔の場合は標的の命そのものが欲の可能性がある。ターゲットにされてからでは遅いのだ。
「心配はもっともだけど、的外れだ」
肇は至って冷静である。
「はじめに言っただろう、何も知らないって。僕は選ばれなかったんだ」
選ばれなかった?とファイは訝しげな顔をする。その視線に、肇はどうしたものかと息を漏らす。と、意を決したようにファイの方を向き直し続ける。
「ひとつだけ聞いておく、この件に魔捜は関わっているか?」
「……?いいや、魔捜は手を引いている。少なくとも有羽はそう言っていた」
ファイの言葉に、肇は考え込むように俯く。質問の意図がわからずキョトンとしているファイの隣で、レガリアが返答を付け加えるように続ける。
「魔捜に話が行っている事は否定しない。本格的に動き出すのも時間の問題だろうね。けど、今ならまだ僕らだけで内々に処理ができる」
肇は観念したように座り直す。どうやら欲しかった答えが得られたらしい。髪をかきあげ、フーッと一息漏らすと、再びしっかりと二人の方を見つめる。
「愛流たんは太客は狙わない。店に認知されるレベルの上客が居なくなれば、足がつくことは避けられないから。何年も彼女の売り上げに貢献してきた僕は、既に彼女のターゲットからは外れてるってわけ」
「なぜそんなことがわかる?」
「僕が彼女に近づいたのがそれ目当てだったからさ。傾向と対策くらい調べておいて当然だろう」
あっけらかんと話すが、その内容にファイは違和感を覚える。
「待て、彼女が人攫いを始めたのはここ最近のことじゃないのか?」
もっともな疑問である。玲司の話だと人が消えるようになったのはここ一、二ヶ月のことであり、何年も前から人が消えているならそれこそ魔捜が放置するはずがないのだ。
「だから選んでたんだよ、人も頻度も。誰彼構わず周囲が不審に思うほどの頻度で人が消えてる今の状況が異常なんだ」
「なるほどな」とファイ。
「彼女の周囲、または彼女自身に何らかの異変があったわけだ」
その隣でレガリアは口元に手を当て何やら考え込んでいる。
「どうした?心当たりでもあるのか?」
「無くもない。けど確信は持てない」
ファイの問いに、レガリアは視線を落としたまま曖昧に返事をする。
「やっぱり一度例のビルに行ってみる必要はありそうだね」
いつもの軽薄な笑みではない、口角を落としどこか遠くを見つめるような目で視線を上げる。と、聞いていた肇がレガリアの言葉に反応する。
「ビルって、武丸ビルか?」
「そうだが、それがどうかしたか?」
「いや、そうか………やっぱりあそこが……」
言いかけて肇は口籠る。モゴモゴと要領を得ない肇の態度に、ハッキリ言えよとファイがその脇腹に蹴りを入れる。
「痛……!暴力反対!」
「いいからさっさと話せ」
「これだからお前らに絡むのは嫌なんだ……」
肇は飲み込むようにそう言うと、ファイの蹴りを警戒しつつ姿勢を直す。
「大したことじゃないさ。ただ、数ヶ月前からあそこだけ音が拾えなかったから、何かあるんだろうなって思ってただけだよ」
肇が情報屋として名を馳せているのは、その聴覚によるところが大きい。端的に言えば耳が良いのだが、肇の恐ろしさは半径数十メートルという範囲の広さと、その聞き分け能力にある。どこで誰が何の話をしていたか、それがどれほど内密なやり取りだったとしても、肇の耳には筒抜けなのである。
「お前の耳で拾えないってことは……」
「まあ、結界が張られてるのはまず間違いないね。あのブラックホールみたいに一箇所だけ音が消える感覚は、多分認識阻害系の結界だと思う」
視覚的に消えているという玲司の話、そして音が拾えないという肇の話。それに愛流というキャバ嬢が関わっているかどうかは別にしても、何者かが何らかの目的であのビルの存在を隠しているということは間違いなさそうである。
「とはいえ、そこのレガリアも実際に結界に触れないことには何もわからないわけだろう?ならここでうだうだ話してるよりも現地に行ったほうが早い」
そう言うと肇はその場で立ち上がり、壁にかけられていたハンガーを手に取る。
「行くのは今晩だったな、僕も同行する」
肇の行動はファイの予想の外だったらしく、唖然と言った様子で口を開けている。言った覚えのない今晩の予定を言い当てられたからではない。ファイが驚いたのはその後の方、「同行する」の部分である。無理もない、彼ともそれなりに長い付き合いではあるが、彼の方から進んで協力を申し出たのはファイの知る限り初めてのことである。
「どういう風の吹き回しだ?協力する気は無かったんだろう?」
「別に、気が変わっただけさ。殺すしか脳のない魔捜に捕まるよりは、その前にお前らに頼った方がマシな結末になるんじゃないかって」
肇は掛け布団代わりにしていたブランケットを丁寧に畳み、手に取ったハンガーにかける。
「僕も、最近の愛流たんは見てられなかったから」
二人にぎりぎり聞こえる程度の小さな声で、肇はそう付け加えた。