小さな恋のうた
打ちっぱなしのコンクリート、真っ暗な部屋の中に、明かり取りの小さな窓から月明かりだけが入り込む。
「シャルル様、お食事をお持ちしました」
ドアの向こうから聞こえるのは、淡々とした冷たい少女の声。振り返ると、ドアの下に作られた小さな隙間からバットに入れられた食事が差し出される。
魚の尾、野菜の芯、時間が経って硬くなったパン。今日も今日とて、僕の仕事は残飯処理だ。
「すみません、こんな物しかお持ちできなくて」
相変わらずドアの向こうの声からは表情を感じない。
「かまわない、君のせいじゃないさ」
そもそもこの屋敷では僕は居ないものとして扱われている。食事なんて残飯ですら用意されるはずがないのだ。毎日律儀に持ってくるのはおそらく彼女の独断だろう。
「それより、父上に見つかると面倒だ。君も早く持ち場に戻れ」
失礼致します、と一言だけ言って少女は去っていく。足音が聞こえなくなるのを確認して差し出された食事に手をつける。
生きるためではない。むしろ出来ることなら早くこの命を終えてしまいたい。それでも食事を口にするのは、この瞬間だけが僕に他人との繋がりという安心感を与えてくれるからである。
「いつになれば終わるんだろうな」
コンクリートの硬い床の上に寝転がる。窓の方を見上げると十六夜の月。ここへ来て何度満月を見たか、もうあまり覚えてはいない。はじめの数回は数えていたが、だんだんと馬鹿らしくなってしまった。
満月を過ぎて少し欠けた月を見上げながら瞼を落とす。
このまま目が覚めなければ良いのに。
瞼の裏に張り付く丸い残像を眺めながら、そう願わずにはいられなかった。
♢♢♢
遠くから音が聞こえる。耳障りな電子音。頭にガンガンと響く不快な音の発信源を手探りで探し当て、重たい瞼を開ける。どうやら眠ってしまっていたらしい。
寝ぼけ眼の目を擦りながら、ファイは未だ不快な音を鳴らし続けるスマホの画面を確認する。表示された名前は「
「遅い」
電話の主、緋田有羽は開口一番そう言った。
「こんな時間になんの用だ」
「こんな時間って、真っ昼間よ」
時間は午後一時。紛れもなく真っ昼間である。壁にかけられた時計を確認して、ファイは電話越しの有羽に聞こえないように再び舌打ちをする。
「で?真っ昼間から一体なんの用だって言ってんだ。悪いが僕も暇じゃない、なるべく手短に終わらせてくれ」
有羽がわざわざ電話をかけてくる理由は大抵ろくなものじゃない。ファイは面倒ごとの予感と睡眠を邪魔された苛立ちで、いかにも不機嫌といった口調で応対する。
「轟玲司ってのがそっちに行ったでしょう?」
ファイの態度を物ともせず有羽は淡々と要件を告げる。その口から出たのは意外な名前。
「顧客の情報は漏らせないな」
ファイの口調は冷静だ。しかし、動向を見透かされているかのような気味の悪さと企みの読めない有羽に対する警戒からか、表情が険しくなる。
と、電話口からは有羽の溜息。
「その言い方は来たと言っているも同然よ」
心底呆れたといったような有羽の声に、ファイは奥歯をギリリと噛み締める。どうせ言わなくても把握しているのだろうに、わざわざ嫌味ったらしい言い方をする辺りに有羽の性格の悪さが滲み出ている。
「ま、どっちでもいいわ。行ってないならこちらからお願いするだけだもの」
「警察は取り合わなかったと聞いたが?」
「今回は取り合わなかったというよりも“取り合えなかった”って言う方が正しいかしら。警察が動かないのにはそれなりの理由があるのよ」
理由?と、ファイは訝しげな顔をする。
「単純な話。敵の本丸がキャバクラとなるとピチピチJKのあたしは動けないし、あたし抜きでやれるほどうちの部隊は人員が揃ってないから」
ほう、とファイが手を打ち息を漏らす。どうやら納得した様子だ。
警察として動いている時が多いことと、普段の上から目線で偉そうな態度からファイもついつい忘れがちであるが、有羽の本職は高校生である。父親が警察上層部であることに加え有羽自身の提案もあり、実験的に部下を持ち部隊長を任されてはいるが、有羽曰くそれはアルバイトらしい。
「貴方が戻ってくれればうちも安泰なんだけど」
「何度も言っているが、僕はどこにも属す気はない」
「まあ、貴方の性格なら警察よりも私立探偵の方が向いてるでしょうね」
有羽はあっさりと引き下がる。有羽とファイの付き合いは長い。このやり取りももう幾度となく繰り返され、有羽自身もファイにその気がないことはわかっているのである。それでも何度も口にするところから考えると、人員不足とファイが欲しいという気持ちは本当なのだろう。
「さて、建前はこのくらいでいいかしら」
有羽はスゥっと息を吸い込み、ようやく本題に入る。
「人攫い、最悪の場合殺人の可能性もある。被害者の数も増え続けているとなると、さすがに無視するわけにはいかないの」
普段の態度のせいで誤解されがちであるが、有羽の根底にあるのは正義感である。困っている人が居れば放っておけない。それが自分に解決できるかもしれないことなら尚更……。
「君が独自に動いてるってことは」
ファイの言葉に滲むのは諦観。面倒ごとの予感が確信に変わる。
「ええ、そうよ」
有羽が続ける。
「犯人は恐らく悪魔、あたし達の管轄よ」
やはり、というようにファイは空を仰ぐ。玲司の話から予想はしていたものの、いざ明確に知らされると嘆息を禁じ得ない。
「そこまで確信してるってことは君の部下もか?」
「察しがいいわね、その通りよ」
魔術による犯罪を取り締まる“魔術捜査課”、追う対象は魔術師、そして“悪魔”。有羽が率いている部隊、
悪魔というのは比喩ではない。この世界には様々な理由で異界から召喚された悪魔が暮らしている。その殆どは人間の生活に適応し、自身の正体を隠して人間として生きているのだが、中には悪魔としての本能を抑えきれずに人に害を成す存在もいる。
魔術捜査課、通称
「調査に向かったはずの部下と連絡が取れなくなってるの。あたしが乗り込めるなら話は早いんだけど、さっきも言った事情で手を出すわけにはいかない。もちろん協力は惜しまない。こちらで調べた分の報告書を貴方の方に送ってあるわ」
そう言われてファイがPCを確認すると新規メールが一件、差出人は緋田有羽。メールにはこれまでに行方不明になった人間のリストや、犯人と思しきキャバ嬢についてや彼女の勤務している店舗の情報。そして、玲司からも聞いていたビルの所在が添付されている。
「いいのか?警察が民間人に情報なんて流して」
「それはあたしが個人的に集めた情報よ。警察は関係ないわ」
そこまで聞いて、わざわざ平日の昼間に電話をかけてきた理由を察する。アルバイトの時間外、すなわち魔捜としてではなく有羽個人としての依頼ということらしい。
「貴方たちなら問題はないと思うけど、気を付けて」
「まぁ、死なない程度に努力はするさ」
ファイは有羽の心配を適当にあしらう。口先ではやる気の無さそうに振る舞っているが、その目線は有羽から送られてきた資料を凝視している。お互い素直じゃないだけで、困っている人を放っておけない点は同じなのだ。
「進展があったらまた連絡する。じゃあな」
「ええ、頼んだわよ、“ゲートキーパー”」
「その呼び方はやめろ」
ファイの言葉に有羽がふふっと笑って電話を切る。電話口から聞こえるのはツーッという電子音。いつものことだが、有羽は突然電話をかけてきて突然切る。ファイ自身も長電話が好きな方ではないのでそれは良いのだが、最後に一言言ってやりたかったという気持ちで既に彼女とは繋がっていないスマホの画面を睨みつける。
「有羽からかい?」
電話を邪魔しないようにと部屋の外で待っていたレガリアがトレーに乗せたティーセットを持って入ってくる。と、同時に部屋に充満するのは芳しい紅茶の香り。
「ああ。珍しいな、カルダモンの香りだ」
「正解」
そう言いながらレガリアはテーブルに置いたティーカップに紅茶を注ぐ。一緒に並べられたミルクピッチャーからミルクを注ぎ軽く混ぜると、柔らかな色と香りのミルクティーが出来上がる。
「話の内容は大体予想できてるんだろ」
差し出されたティーカップに角砂糖を放り込みながらファイが言う。
「大体は、ね。けど事件を把握してるのなら、彼女の性格上自分で最後まで調べそうなものだけど」
「現役JKがキャバクラに乗り込むわけにはいかないんだと」
「ああ、なるほど。変なとこ真面目だよね、彼女」
ファイの向かいに腰をかけ、レガリアは胸ポケットから取り出した煙草に火をつける。ジュッと音を立て、煙と共に部屋に広がるのはアークロイヤルの甘いバニラの香り。
「年齢くらい、スーツ着て警察手帳でも見せれば誤魔化せるのに」
レガリアはすぅっと薄い煙を吐き出すと、マッチの火を消しながらそう言った。
「まあ、建前だろう。義理を通さずに去った僕の立場が悪くならないように、うまく言い訳して仕事を回したってところか」
ファイが見ていたパソコンの画面をレガリアの方に向ける。
「ここまで調べておいて“乗り込めない”は無いだろうからな」
思ったよりも楽できそうだ、と付け加えファイはレガリアの持ってきた茶菓子に手を伸ばす。生クリームのみをサンドしたシンプルなマカロン。近くのケーキ屋で売っているらしく、レガリアがよく買って帰ってくるものだ。控えめな甘さがミルクティーにもよく合うのでファイも気に入っている。
「さすが人気者なだけあって、客の面子も錚々たる物だね」
太客のリストには様々な業界に影響力を持つ人物がずらりと並んでいる。
「若者に人気のインフルエンサーに、大手コンサルのCEO、芸能事務所社長、裏社会の人間まで選り取り見取り」
リストをスクロールしながらレガリアは興味深そうに呟く。
「中には見知った名前もあったがな」
苦笑いを浮かべ、呆れたようにファイが言う。と、レガリアもその名前を見つけたらしく、ハハッと笑い声を漏らす。
「彼、キャバクラになんて興味あったのか」
「あいつの女好きは知っていたが、ともあれ接近しやすい奴が関係者に居るのは僥倖だ。せいぜい利用させてもらうさ」
可笑しそうに笑いながら、レガリアは持っていたタバコを灰皿に擦り付け、二本目のタバコに火をつける。再び甘ったるいバニラの香りが立ち上る。
「一本要るかい?」
「これを飲み終わってからな」
差し出されたタバコを一瞬見やって、ファイはティーカップに残っていた少し冷めたミルクティーを一気に飲み干した。