ハイスクール・ロックンロール






 その日は、早朝にも関わらずやけに家の中がバタバタしていて、眠い目を擦りながらリビングに降りて行くと、薄暗い部屋の中、父さんが険しい顔でスーツに着替えているところだった。その顔は、まるでいつもの父さんじゃないみたいで、とても怖かったことを覚えている。
 私は怖くて、逃げ出したくて、けどうまく足が動かなくて、もつれるようにその場に倒れ込んでしまった。ビタン、と大きな音が鳴った。振り返るのが怖かった。怒られるような気がしたから。

 「誰だ」

 威圧感のある、低い声だった。耳の奥で、心臓が大きな音を立てる。ミシミシと床が鳴り、足音が近付いて来る。怖い。怖い。段々と息が上手く吸えなくなって、肺の浅いところで嗚咽のような呼吸を繰り返す。足音は、すぐ後ろで止まる。ヒュッ、と空気が喉を通り過ぎ、周囲から音が消える。あんなにうるさかった心臓の音も、恐怖の象徴だった床の鳴る音も、何も聞こえない。時間が、止まったみたいだった。

 「有羽……?」

 名前を呼ばれて振り返る。そこにあったのは、いつもの優しい父さんの姿だった。

 「ごめんな、起こしちゃったか。急に事件が起こったらしくてな、父さん出かけなきゃいけなくなっちゃったんだ」
 「じけん……?」
 「そう、父さんの大事な仕事だ。まだ朝早いから、有羽はもう少し眠ってなさい」

 無言で頷く。差し出された父さんのごつごつした手に引かれ、ベッドのある子ども部屋へと戻る。

 「じゃあ、行ってくるからな。ちゃんとお留守番するんだぞ」

 大きな口をいっぱいに広げて、くしゃっとした笑みを向けた父さんの笑顔の奥に、さっき見た怖い顔がチラつく。なんとなく、ここで別れたらもう二度とこの優しい父さんが帰ってこない気がして、途端にとても怖くなった。気が付いたら、引き留めるように父さんの足にしがみついていた。

 「どうした有羽?珍しいな、お前が甘えるのは」
 「だって……だって……」

 ピシッとアイロンがけされたスーツの裾をぐしゃぐしゃにして泣きつく。その頭を、ポンっと優しく暖かい父さんの手のひらが包む。

 「仕方ない、一緒に行くか?お前にもいい勉強になるかもしれない」
 「……うん!」

 父さんの車に乗せられて1時間ちょっと、舗装されていないガタガタの山道を登った先にあったのは、時代錯誤な洋館、だったものだった。
 霧か煙かもわからない白いモヤのかかったその場所で、父さんが瓦礫を掻き分けて作った道を後ろからついて行く。倒壊した建物の瓦礫の端々に、焦げついたような跡が痛々しく残っている。

 「父さん、ここは?」

 不思議な場所だった。家からほんの1時間ほどの距離にあると思えない。そこは、そこだけが中世のヨーロッパにでも取り残されたような、異様な雰囲気を纏っていた。

 「古い友人の家、だった場所だ」

 父さんは寂しそうに呟いた。
 瓦礫を掻き分けて進むと、中庭でもあったようなひらけた場所に、数人の人間が既に集まっていた。手を引く父さんの歩調が上がる。私は置いていかれないように必死でついていく。

 「課長!お疲れ様です!」

 先に居たスーツの男の一人が、こちらに気が付いて声をかけてくる。私がペコリ、と頭を下げようとした瞬間だった。

 「生存者は」

 低く冷たい声だった。見上げると、父さんが朝見たものと同じ、怖い顔をしていた。

 「残念ながら」

 男は絞り出すようにそう答える。

 「……そうか」

 短くそう呟いた父さんの手が、少しだけ震えていた。思わずその手を強く握り返すと、父さんはハッとしたように穏やかな顔に戻り、私の前にひざまづいて目線を合わせた。

 「すまない有羽、雑務を終わらせたら説明してあげるから、少しだけ待っていられるか?」
 「……うん」

 父さんの手が離れた右手が、なんだかとても冷たく感じられた。一人残された有羽の横を、担架に乗せられた何かが横切っていく。白いシーツの隙間から、傷だらけの人間の腕が見えた。不思議と、怖さを感じなかった。早朝という時間と、この異世界を感じる場所の雰囲気も相まって、なんだか夢を見ているような気分だった。
 ふと、声が聞こえたような気がした。ザワザワと風が木々を揺らす音に紛れて、誰かが、何かを喋っているようだった。誘われるように声のする方へと歩き出す。瓦礫の積み重なった足場の悪い道を進み、更にその先、木々の生い茂った森を掻き分け進む。
 薄暗い森の奥、そこには、まるでスポットライトでも当たるように太陽の光が差し込んでいた。大きな瓦礫が散らばる空間の中央に、キラキラと輝く黄金の光。導かれるように瓦礫だらけの足場を進むと、そこだけ何もなかったかのように、円状にコンクリートの床が残っていた。光の元は、大きな魔法陣だった。

 「君は、誰だ?」

 声が聞こえた。魔法陣の中央には、ボロボロの身なりの痩せ細った少年が座り込んでいた。年は私と変わらないくらい。目を引くのは、真っ白な髪と肌、そしてその瞼の奥で妖しく輝く真紅の瞳。
 悪魔だ、と思った。父さんが言っていた。魔界の住人は魔法を使う時、瞳が赤く発光すると。この子が、きっとそうなんだ。胸が高鳴る。未知との遭遇は、私に恐怖ではなく高揚感を与えた。気がつくと私は、少年に駆け寄り、手を差し出していた。さっきまで父さんに引かれていた右手を。

 「あなた、あたしと契約しなさい!」

 その日、私は初めて悪魔と出会った。


♢♢♢


 「有羽さん、有羽さん〜!」

 頭の上で声がした。見上げると、鼻がぶつかりそうなほどの距離に見知った顔。

 「おはようっす〜、有羽さん。よく眠れたっすか〜?」
 「央乃ひろの……?貴方が何故ここに?」
 「も〜う、寝ぼけてるんすか〜?今日は委員会やるから迎えに行くって、昼間メッセージ送ったじゃないっすか〜!」
 「そうだっけ……?ふぁあ……」

 大きくあくびをし伸びをする。真っ白で大きな机が並ぶ教室。家庭科室である。有羽の所属する、手芸部の主な活動場所だ。有羽の突っ伏していた机の上には、様々な色のレース糸が無造作に散らばっている。手元には、細いかぎ針と編みかけのクロッシェレース。

 「作業か寝るかどっちかにしてくださいっす。自分も人のこと言えないっすけど〜」

 糸の散らばった机に腰掛け、足をぷらぷらと揺らしながら、百瀬ももせ央乃ひろのはそう言った。

 「委員会として存在する以上活動報告くらい提出しろって、米汰べーたさんがうるさいんすよ〜」
 「ああ、あの唐変木はあたしを目の敵にしてるだけよ。放っておいていいわよ」

 そう言って有羽は机の上のかぎ針に手を伸ばす。

 「そういうわけにもいかないんだな、それが」

 ガラガラと音を立てながら引き戸が開けられる。入ってきたのは、艶やかな黒髪のロングヘアが特徴的な、長身の美女。

 「よっちゃん!」
 「よっちゃんさん!」

 よっちゃんと呼ばれた彼女が「よっ」と右手を挙げながら二人に近づく。

 「お疲れさん!」

 快活そうな声でそう言うと、彼女は有羽の隣の椅子に腰掛ける。

 「で?そういうわけにもいかないって?あたし達の活動がないって事は、校内の風紀が保たれてるって事でしょ?良いことじゃない」
 「それはそうだ。けどな有羽、それが保たれてる要因の一つには、少なからずお前たち風紀委員の存在がある」
 「当然よ、あたしに刃向かってまで悪さしようなんてイカれた連中、この学校には居ないわよ」
 「お前の行き過ぎた自尊心にはこの際目を瞑るとして、その風紀委員の活動報告が無い現状、生徒達の気も緩み始めている。このままではタガが外れて暴れる生徒も出始めるんじゃないか、と言うのが我々生徒会の見解だ」

 よっちゃん、火撫かなで宵莉より。有羽の通う、ここ彩紋さもん高校の生徒会長である。

 「あたしとしては大歓迎なんだけどね、このまま平和だと牙が錆びついちゃいそうだもの」
 「生徒会長としてはできれば歓迎したくないんだ。校内をパトロールしました〜みたいな簡単なので良いからさ、出すだけ出してくれれば助かるんだよ。お願い!」

 宵莉が手を合わせてわざとらしく頼み込む。その様子に、有羽が困ったような顔で机に肘を付く。

 「もう、あたしがよっちゃんの頼みを断れないの知ってて言ってるでしょ」

 有羽にそう言われて、宵莉はペロリと舌を出す。

 「当然。立場ってのは使うためにあるものだ。んじゃ、活動報告頼んだよ〜。完成したら米汰にでも渡してくれ」
 「はいはい」

 宵莉が歯を見せて悪戯っぽい笑みを浮かべる。引き戸を開け、宵莉が家庭科室を後にしようとした瞬間だった。ドンッ!と地響きとともに衝撃音が響く。
 宵莉が窓から下を見下ろすと、中庭に生徒が二人。見たところ喧嘩のようだ。

 「ほーら、言わんこっちゃない。活動報告のネタくらいにはなるんじゃないか?」
 「そうみたいね。全く……、あたしがやり過ぎる前に引き取りに来てよね」
 「副会長を拾ったらすぐに向かうさ」

 短く会話を交わすと、宵莉はヒラヒラと手を振りながら去っていく。出ていく宵莉を見送りながら、有羽はスカートのポケットに手を入れる。取り出したのは、風紀委員の腕章。

 「央乃」
 「はいはい、言われなくてもやってるっすよ〜」

 中庭へと続く窓を開けながら有羽が呼びかけると、央乃はいつの間にか取り出していたらしいノートパソコンを首にかけ、カタカタと何かを打ち込みながら歩き出す。

 「二人とも一年生っすね、御門みかどの家の子と、その分家の土門どもんの家の子。どっちも地属性魔術の家系っすね〜」

 パソコンの画面には、学校に登録されているらしい生徒の情報が顔写真と共に映っている。

 「さっきの地響きはそれね。普通の出力で大丈夫かしら?」
 「念の為ちょっと抑えた方がいいかもっすね〜。二人とも長兄ではないみたいっすし、この時期の一年生ならまだ防御術式が上手く扱えないかもっすから」
 「了解、行くわよ」

 上腕に腕章を付け、安全ピンを刺す。有羽がダンッと足音を立てると、その周囲に魔法陣。後ろに居た央乃の手を引くと、そのままお姫様抱っこの形で抱き上げる。

 「舌噛まないようにね」
 「ん……!はいっす!」
 「せーーのっっ!!!」

 掛け声とともに、有羽が窓枠を勢いよく蹴り中庭へ飛び降りる。自由落下する二人の体は徐々に勢いを増し、地面と衝突するかと思われた瞬間、ふわりと身体を浮き上がらせると、トンッと小さな足音を立てながら中庭の二人の生徒のちょうど真ん中に着地する。

 「双方止まりなさい、風紀委員よ」

 呆気に取られる生徒達を前に、有羽は顔色を少しも変えずにそう言い放った。
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