△ 贋作(がんさく)とフルート〜re:make
■■■07-すれ違い
ダリアが家出した日から2回目の月曜の事。ゼラがクレセントのアパートに訪れた。
あれから展示会の話はトントン拍子で進み、来週の火曜から10日間、絵が公開される事となった。
今日は絵の搬入日だった。
「ところで、折り入ってご相談が…」
「何でしょう?」
「あなたが非売品と言っていた、あの『まどろむ裸婦』を私の所で貸して頂けないでしょうか?勿論お売り出来ないと、きちんと明記して展示させて頂きます。私、あの絵の虜(とりこ)になってしまって。あんな美しい色合いの絵は今まで見たことがありませんわ!」
クレセントは、ためらった。もし誰かの目に留まり売買の話が出た時は、かなり厄介な事になる。あれは只の絵ではないのだ…ダリアがモデルと言うのもあるが、あの絵にはもう1つ秘密があった…。
しかし今、完全にダリアと仲違いしたクレセントは何とか彼女をもう1度振り向かせたいと思っていた。あの絵を展示会の目玉にすれば評判になってダリアも自分の事をもう1度見直してくれるかもしれない…そんな期待もあった。クレセントは貸し出す事にした。
「分かりました。売らないとお約束して下さるなら貸しても構いません。正式な契約書を用意して下さい。それから、この絵を展示する時は…」
そう言うとクレセントは展示する時の「条件」をお願いした。
*
町のギャラリーに到着して絵を運び出す作業をゼラが指示していた時だった。
「こんにちは」
1人の男性に呼びかけられゼラは振り向いた。
「あら、あなた。久しぶりね。ここ最近見かけなかったけど元気にしていた?」
「お陰様でね。ちょっと俺の周りでゴタゴタがあって…最近やっと落ち着いたのさ。君は元気そうだな。ギャラリーも上手く言ってる様だし」
「ええ、お陰様でね。そうそう最近私ね、駆け出しの若い画家さんに会ったの。これ彼の絵なんだけれどセンスが良いのよ。その中で特に気にいった油絵があったのだけど非売品で…無理を言って貸して頂いたの。あ、これよ。ちょっと見てみない?」
ゼラと男性は客間に行き、彼女は丁寧(ていねい)に梱包をほどく。
「そうだわ、彼に注意されたの。この絵は日光が当たる部屋では決して開けないで欲しいって」
「暗がりで絵を見ろって事か?」
「今はね。おそらく少しでも酸化させると変色を起こすのね。大丈夫、展示する時はギャラリー特製の額縁で完全密封するわ」
遮光カーテンを閉めて絵の入ってる箱を開ける。中には裸婦の油絵が入っていた。微かな光でモデルの顔を見た時、男性は驚(おどろ)いた。
「ダリア…!?」
彼は昔のダリアの政略結婚の相手「プラチナ」だった…。
*
クレセントは自宅であるアパート近所の公園にいた。彼は立ったまま腕を組み、鋭い目つきで目の前のベンチに悠々と腰を下ろしいる男を睨みつけていた。それは向かい合う男も同じだった。昼間だと言うのに大の男が2人で睨み合う状況は、ただならぬ雰囲気があり、散歩したり、通りすがる人々は2人を迂回してその場を後にする。遠くからその様子を見てる人々は、取っくみあいのケンカでも始まるのではと野次馬根性で成り行きを見ていた。
「久し振りだな悪党、こんな町で再び会うとはな」
「今更、「お嬢さん」の目の前に現れて一体どういうつもりだ!?」
しかしプラチナはクレセントの言葉に答えず続ける。
「情けない話だな。花嫁を盗んだ泥棒が、花嫁に逃げられるとは。ゼラから聞いたよ。愛想を尽かされて彼女は今、修道女生活らしいな」
「僕らはまだ別れたわけじゃない。今は距離が必要なだけさ。お嬢さんは分かってくれる。必ず戻って来るさ」
「君たちは勝手に「夫婦ごっこ」でもしてるんだろうが周りはそうは見ないだろ。彼女はまだ指輪もしてないそうじゃないか。君のアパートの隣のご婦人が教えてくれたよ。生活は楽じゃないようだな…彼女も俺と結婚していれば、今頃はこんな苦労を知らない優雅な生活の奥方だったのに。気の毒だな」
するとプラチナは声をひそめてささやいた…
「…その様子だと式を挙げて神の赦しを得てなければ、市庁舎に届けてもいないだろう…?」
痛いところを突かれクレセントは悔しそうに顔をしかめた。その通りだった。婚姻届も出してないし、それ以前に神の赦しも得てなかった。もし土曜の時、指輪が用意できていれば…翌日の日曜に式を挙げて今頃は正式な夫婦となっていたはずだが…人生は、なかなか上手く行かない。
「だからといって、もう「お嬢さん」は貴方の元に戻りはしない。生憎、僕らは既に夫婦の営みは済んでいる。気位の高い貴方はお嬢さんを「傷物」とでも言いたいのだろう。何をする気だ!?」
「ダリアは本来なら君のような貧相な者とは、かけ離れた世界の人だ。指輪がないのは都合が良い…これはきっと神様の思し召しなのさ。君とダリアは、お似合いではないし潮時なのだよ。今からでも遅くはない。彼女を返してもらおうか?お前のせいで以前より落ちぶれたとはいえ、俺はまだ彼女に苦労をかけたりしない余力はあるさ。返した暁には貴様に2度と関わらないし、俺が一生ダリアを世話して側室にしてやるよ…!」
「囲うのか?そんな事して見ろ。お前の全財産を奪って今度こそ破産させてやるからな…!僕にできないと思うか?お前がケンカ売ってるのは、富裕層の連中を散々恐れさせた「財産の死神(モントスティル)」だ。敵に回すもんじゃないぜ…!」
するとプラチナは立ち上がり、すれ違いざまに吐き捨てるように言った。
「おっと、言葉に気をつけろ。俺も貴様の「正体」を知っている。その気になれば今度こそ牢屋行きにできると言う事を忘れるな…!」
そう言うと、公園を後にした…。
■■■08-禁忌色(きんきしょく)
モデルと言うのは骨の折れる仕事だ。寝そべってるだけのダリアだったが、服を着てないから少しだけ肌寒く、デッサンを終えたクレセントが温かいカップを勧めて自分も飲もうとした時、ダリアは緊張がほぐれたのかマットの上で寝息をたてていた。
そっとブランケットをかけて温かい微糖コーヒーをひと口飲むと、彼はキャンバスに向かい今、描いたデッサンを写し取っていく。
次に彼は部屋の隅に行くと、しゃがみ込み壁から3枚目の床板を剥いた。中は少し空間になっていて中から拳くらいの岩をいくつか取り出した。それは鉱石や宝石の原石だった。これは怪盗だった頃に集めたもので、油絵具を作るために換金しなかった石だった。ダリアには内緒だが生活費で困った時に、ためらわず換金するための隠し財産でもあった。
…昔、富裕層からの注文で絵を描く際は、当然高価な油絵具は支給されるのだが、特殊な視力の彼には市販の絵の具は色がくすんで見えてしまうのだった。
(※普通、人間は色を3原色で視るが彼の目は特殊なので4原色で視てる。霊感がある人というのは普通の人には認識できない、この「4番目の紫の色覚」を持っている人の事らしい…幽霊ではなく正確には紫外線を認識してると思われる…)
(富裕層の連中は安っぽい油絵具で満足してればいいさ…)
彼は盗みに入った先で鉱石や原石を見つけては、それを少しずつ集め、いつか自分の絵を描くときに使おうと考えていた。そして今がその時だった。
深海のようなラピスラズリ瑠璃石(るり)…
新緑のようなマラカイト孔雀石(くじゃくいし)…
熟した実のような辰砂(しんしゃ)…
黒ダイヤとも呼ばれる赤黒いヘマタイト赤鉄鉱(せきてっこう)…
カリブ海のようなトルコ石…
ダリアの白い素肌のような象牙(ぞうげ)…それを焼くと夜の闇(やみ)のような黒色に…
深い青色アズライト藍銅鉱(あいどうこう)…
これは自分と似てるとクレセントは思った。空気に触れると、ラピスラズリに変身する石だ。
ゴーグルをかけ、慎重にそれらを砕いて…溶かして…自分の感性で油絵具を生成して行く…鉱石から造る絵具は市販の油絵具では決して醸(かも)し出す事は出来ない深みのある色彩を放つ。キャンバスのデッサンを高尚な油絵具でで付けて描いて行く。
そしてもう1つ、クレセントはこの絵に「仕掛け」を施した。
それは、万が一この油絵が意にそぐわない相手に渡ってしまった時に備え、日光に晒すと、たちまち絵が真っ黒に変色してしまう「禁忌色」を使用した事だった。自分で生成した油絵具、とりわけ鉱石から生成したものは不安定で変色しやすい。ダリアから絵を売ったり譲(ゆず)ったりしないでほしいとお願いされてる。見知らぬ誰かの手に落ちるぐらいなら破損して2度と見ることができなくなる方がマシだ。
こうして『まどろむ裸婦』は、仕上がった。
決して日の目を見る事のない、彼だけの絵……
賢明な画家ならば、決して真似しない方法でクレセントは、あの絵を描いたのだった。
■■■09-贋作(がんさく)依頼
クレセントから借りた『まどろむ裸婦』の額入れがようやく終わり、ゼラは、ほーっとため息をついた。このギャラリー特製の額縁に入れられた油絵は、完全密封され、酸化防止、UVカット、防火、防水の4点セットで保護してくれる。絵を改めて眺めながら、ゼラは昔を思い出していた…
*
…実はゼラは以前、クレセントを見たことがあり、彼を知っていた。子猫を助けてもらった際、怪我の手当に留まらずお茶を用意し、絵の話を持ち出したのは、彼の事を確かめたかったからだった。そしてアパートで絵を見せてもらった時…その作風から以前、彼女の屋敷に出入りしていた画家だと確信した。クレセントとは身分が違うので、ゼラは家族や侍女たちから話しかけたり、仲良くしてはならないと、きつく注意されていた。彼は親戚の者が次々と注文してくる絵画を、手際良く、鮮やかに仕上げて見せた。ゼラは彼の潔さ、画家としての力量に憧れを持って見ていた。でも遠くから見ているだけだった…彼女も富裕層の淑女のご多分に漏(も)れず婚約者がいたからだ。
ある日、ゼラは婚約者の家から指輪を仕立てる予定の2粒のダイヤモンドの所在を尋ねられた。相手の男性の家はゼラの家が所有していると言い、ゼラの家の者は相手の男性が所有していると言い、お互いの家が「あちらが所有してる」と言い張り、決着がつかないため、「怪盗モントスティルに盗まれた」と言う結論で落ち着いたのだった。
ところが…その直後、ゼラの遠縁の親戚の者が「贋作売買をしてた」と言う事件が起きてしまった。その頃はもう、クレセントも行方をくらましてたが、実は彼が受けてた依頼は、贋作を描かされていたのだと、後に知った。
ゼラの家は信用を失い、ダイヤもその親戚が盗んだに違いないと、濡れ衣を着せられてしまった。結局この事が原因で両家は仲違いし、婚約も破談になりゼラは婚約者と引き裂かれてしまったのだった…。
しかし、婚約者の男性はゼラを気にかけ、彼女がこの先、肩身の狭い思いをしないようにと、彼が所有してた遠くの町のギャラリーの管理をお願いした。ゼラは画商の仕事を得ることができたのだった。しかしそれが精一杯だった。彼は家の者から、もうゼラと関わるなと言われ、その上、別の女性を婚約者として宛行(あてが)われたのだった…。もっともその女性は後に怪盗に誘拐されてしまい、今は行方知れずだとか……。
相手の男性は、どう思ったか分からないがゼラはその時、怪盗を恨んだ。
(あの泥棒が、私達のダイヤを盗んでさえいなければ、今頃、別の結果になっていたでしょう…優しかったあの人…最後まで私の事を信じてくれたあの人、せめて彼の方だけは家庭を築くささやかな幸せをと願っていたが…それさえも奪って行った酷い怪盗…!もし今、私に財産があったなら…2人の指輪を作るはずだったあのダイヤが手元にあったなら…私は、あの人にプロポーズしたのに……)
…ゼラの心に悪魔が囁いた……
…そうよ…この絵がもう1枚あれば……それを売ったお金でダイヤが買える……彼に贋作を描かせればいいんだわ……もし拒否されたら…?…いいえ、言う事を利かせて見せるわ……彼が贋作画家だった事を…私は知っているのだから……
……
■■■10-盗まれた2人の将来
「お断りします!」
ゼラが複製の話を切り出した時に見せたクレセントの顔は、ゼラが今まで見た事のない険しい顔だった。
「あの油絵は事情が有って同じ物は描けないんです。正確には同じ色合いを出せないんです…それに、今は別々に暮らしてますがモデルの妻と絵を売ったり譲ったりしないと約束してます」
するとゼラは甘い口調でささやいた…。
〝
「贋作を…あなたは依頼されてたのでしょう…?」
「え…!?」クレセントは、昔の仕事の話を突然持ち出され、動揺した。でも、後にあの騒動の絵は殆どが回収され処分されたと聞いている。自分の労力が処分されるのは痛かったが、しょせん偽物だし、僕が描いた事が知られる事もなくなるし…一体誰がそんな事…まさかプラチナが僕の過去を調べたのか…?
「私は知ってますよ。私の親戚の者があなたに贋作を描かせてたんですもの。おかげで私は婚約破棄になった上に、恋人で婚約者だった方と引き裂かれましたわ。ねえ、1枚だけでいいのよ。そうすれば、あなたの事もこの先、優遇するし、お得意様には率先して紹介致しますわ」
「だからといって、描けないものは描けない!」
するとゼラは、急に不機嫌になりこう言った。
「あら、そう…ならばいいわ。あなたの大切な愛妻に「あの絵を売って頂戴」とお願いするから。愛する旦那様の夢と出世がかかってるとなれば彼女も、うなずくでしょう」
「生憎、彼女は、か弱いお嬢様に見えるが、ああ見えてプライドが高いのさ!しかも今は、仲違いしてる僕に協力するとは思えないけどね」
クレセントは嘲笑(あざわら)い、呆れた様に言った。
「じゃあ、こう言えばいいのかしら?画家の旦那様は妻に愛想を尽かして、画商の私と浮気してますのよ。その約束として、あの絵を私にゆずってくれましたわ、と!」
彼女は魔性の女か!?クレセントは怪訝(けげん)そうな顔でゼラを見た。まずい…!確かに、お嬢さんの気を引きたくてあの絵を貸したが、あくまで自分の描いた絵を注目して貰いたいからだった。それは決してゼラと浮気をする為じゃない!!
「僕を脅すのか!?」
「引き受けて下さいますよね?」
ゼラは勝ち誇った様に微笑した…
ゼラが帰ってからクレセントは考えた。
(このままでは…お嬢さんとの約束を破る上に、とんでもない誤解をされる事になる。ゼラの手元に『まどろむ裸婦』を置いといては駄目だ。取り返さなくては……でもどうやって……)
クレセントは戸惑った。でもダリアに誤解されたくない。迷いはなかった。
(もう1度、怪盗に戻る時が来たな……!)
*
町のマルクト広場から西の方に歩いて行くと林が茂った敷地の中に1軒の屋敷がある。ここは町の博物館で国内でも珍しい“犯罪博物館”だった。こんな博物館がある町に自分が住むようになるなんて…やはり自分の人生は窃盗とは切り離せない運命なのかもしれないと、この町に引っ越した当初、クレセントは思った。ここに来たのはプラチナに話があったからだった。数日前の公園では人目があるし、明らかに職業も地位も違う2人が、やれ盗みだの、不貞だの話をしてれば嫌でも人目を引く。魔女裁判や拷問道具の歴史を紹介してるここならば、窃盗や贋作の話をするのには、打って付けだった。
入場料を払い、薄暗い階段を降りて、石の廊下を進み、また石の階段を昇ると、博物館の中庭に出た。庭の真ん中に人が1人入るぐらいの金属籠(きんぞくかご)が吊るされてる。その下には、大きな盥(たらい)があった。
「…それはパン屋が計量をごまかしてパンを売った時の“水攻めの拷問”だそうだ。どうした、こそ泥。自首する気にでもなったか?」手元に鳥のマスクを持て余しながらプラチナは言う。博物館の入り口で土産として売ってる物だ。
(彼とゼラがどういう関係か知らないが、プラチナが僕の正体をバラさないところを見ると、彼も僕が怪盗という確実な証拠はまだ持ってないのだろう…)そう考えたクレセントは、ゼラの親戚が手を染めたと言う贋作騒動について尋ねた。
「ああ、あれか…あの騒動で彼女は、とんだ「とばっちり」だと俺も思ったよ。何の関係もないのに親戚と言うだけで叩かれたんだからな。でも元はと言えばモントスティル…貴様のせいだぞ!お前が彼女の家から2粒のダイヤモンドを奪ったりしなければ、あそこまで信用が落ちることはなかったし、彼女の婚約にまで響(ひび)く事はなかったはずだ。
贋作は保険もあったから、大した被害にならなかったが、ダイヤがそれを上回る損害だった…贋作騒動のせいで信用を失ってダイヤの保険がおりなかったのさ。
ついでに…どうして俺がお前を人一倍、目の敵にするか教えてやるよ。ゼラは昔の俺の恋人だったのさ。以前ダリアから、こう言われたよ【好きでもない私と結婚しなくて済むでしょう、怪盗のおかげで】とな。冗談じゃない!俺たちは怪盗に将来を盗まれたんだ。俺だって、ダリアには心から愛する人と結ばれて欲しいと思っていたさ…けど貴様がそれを引き裂いたんだ!だから怪盗を贔屓(ひいき)にしていた彼女が赦せなかった。模擬挙式の時、彼女の処女を奪ってでも結婚しようとしてたのも、それが理由だよ。お前が…ダイヤを盗んでさえいなければ……!」
そう言うとプラチナは、持っていた鳥のマスクをクレセントに思い切り投げ付けた。それはこの博物館で売っている土産物だった。恥辱(ちじょく)のマスク…窃盗した者が、被らされたというマスク……。
「俺は今でもゼラを想ってる。取り戻せるならそうしたいさ。でも…もう戻れない。ダイヤは、もはやないし、俺は家の者から、ゼラと2度と関わるなと言われてる。この先、俺はダリアを囲いながら、ゼラと密会する不貞な男として生きて行くしかないのさ…貴様も罪を被って生きて行くがいいさ…!」
プラチナは、そう言うと去って言った…
クレセントは何も言い返せないまま、庭で独り立ち尽くしていた……
■■■11-小さな額縁の絵の中で
夕方、アパートに戻ると、クレセントはキッチンのテーブルにふらつく様に座り込んだ…
(…すべて、僕のせいだったのか…彼らが引き裂かれたのは……それだけじゃない。やっと自由を手に入れて平穏に暮らしていたお嬢さんの事まで、僕は危険に晒してしまった……あの時、『まどろむ裸婦』を貸したりなんかしなければ……いや、それよりも…もっとずっと前、もしあの時、盗んだダイヤモンドを、ためらったりせず、すぐ返してさえいれば……こんな事にはならなかったはずだ……!)
いつの間にか日は沈み、小さなアパートの部屋の中は真っ暗になっていた。夕方からの仕事を、さぼってた事に気づいたが、どうでも良かった。窓からは、満月の月明かりが優しく部屋の中を照らしている。この部屋の唯一の家具であるキッチンの真ん中に置かれたテーブルと2脚の椅子。ダリアと笑い合いながら暮らしてた、幸せな日々……しかし、向かい合いの椅子にダリアはおらず、今はクレセントが1脚の椅子に座っているだけだった…テーブルの上には、プラチナから投げ付けられた鳥のマスクが転がっていた…窃盗の罪人が被るマスク…
彼は自分の過ちを後悔し、自分の情けなさを悔やみ、1人…泣いた……
■■■12-贋作展示会
展示会の前日。
その日の夕方、ギャラリーでは新人画家のデビューと言う事もあり、ゼラはその夜、お得意様の方々を招いてパーティを開いた。クレセントも勿論、招待されてたが当日は少し遅れると言い、彼は先に始めてもらうようにゼラにお願いしていた。
(クレセントは、数日前から仕事も休んだ。クビを覚悟したが、彼の目が泣き腫(は)らして、ただならぬ様子だったので、親方は何かを察し何も聞かず休暇を許してくれた。もっともクレセントも普段から急な出勤にも快く応じていて、親方にとって彼が貴重な人材であった事も要因だった。人は普段からの心がけが大切だ)
屋敷のホールでは色とりどりの硝子のランプが会場内を灯し、テーブルがいくつか並べられ、立食パーティ形式で行われていた。招待客たちはテーブルのおつまみを食べながら談笑していたが話題は専(もっぱ)ら、ゼラが招待状に記した「まどろむ裸婦」の事だった。当初「非売品」と言われた話題の絵画がこの度、画家本人の意向により売買される事になり(勿論、画家は心からそんな事を承諾してない)画商であるゼラが「前代未聞の色使い」と言うフレーズに招待客たちの期待が高まった。その絵はホールの一段高くなったステージ上にイーゼルによって立てかけられていた。大きな厚手の黒い布が被せられていて、招待客たちは布がめくられるのを待ちわびていた。ただし、クレセントは自分が行くまで決して公開しないで欲しいとお願いしていた。そのため、布はまだめくられていなかった。
*
屋敷の調理場でパーティの料理を給仕してる男性は、裏口から声をかけられた。
「こんばんわ~、ピザの配達です!」
それは直径60cmはあるであろう超特大ピザで、宅配の男は抱えながら尋ねた。
「すみません~ここから入ろうとすると、ピザが曲がっちゃうんです。玄関から入っていいですか?」
給仕の男が許可すると宅配員はお礼を言い、玄関へ迂回(まわ)って行った。彼が去った後、給仕の男は呟いた…。
「あれ、ピザなんて品書きにあったかな…?」
*
パーティーが始まって小1時間ほど経った。クレセントは、まだ会場に現れていなかった。招待客たちはゼラと会話する度、そろそろあの絵をお披露目してくれませんか?と声をかけたが、ゼラはパーティの最後に…と言い、上手く時間を稼いでいた。それを見ていたプラチナは見兼ねて言った。
「クレセント画伯は、社交界の礼儀と言う物を知らない育ちのようだな。いいよ、俺がアパートまで行って彼の様子を見て来よう」そう言うと玄関から出かけた。
裏手の庭を抜けて通りへの近道をしようとした時だった。裏庭に、誰かが走り去る影がプラチナの目に止まった。普段の彼なら気にしないだろう。しかしその走り方には見覚えがあった。嫌な予感がした。彼は屋敷に引き返した。
玄関まで来るとホールの方から驚(おどろ)く声や悲鳴が聞こえた。プラチナは駆け出し、ホールに飛び込んだ。招待客たちが驚いたり、騒いでいる。皆、視線はステージの方に注がれていた。ステージの上を黒い影が素早く走り去って行く。
プラチナは「あ…!」と声を上げた!
影はイーゼルに立てかけた絵を抱え上げると、ステージの裾《すそ》から太い柱の彫刻に飛びつき、あっという間に2階の踊り場に着いた。そこから窓をこじ開けて外に飛び出した!
あっという間の出来事だった…一瞬だったが、プラチナは確かに見えた。
その影は、頭に見覚えのある鳥のマスクを被り、全身黒ずくめの、カラスの様な男だった…!!
■■■13-復縁の絵画
会場に残された招待客たちは、呆気に取られたり、ただ驚くばかりだったがプラチナだけは叫んだ!
「あいつは怪盗モントスティルだ。すぐに追いかけろ!」
屋敷にいた警備の2人とプラチナは玄関を飛び出し、怪盗を追いかけた。
盗んだ絵を抱えながら、通りから1本裏手の薄暗い道を怪盗は走った。思った以上に絵が重いのはギャラリー特製の額縁のせいだ。当初、ギャラリーの裏庭の向こうにある城壁跡から逃げ去るつもりだったが、絵を抱えた瞬間、重すぎて無理だと悟った。パーティーにプラチナがいる事は計算済みだったが、裏庭を通過するところを見られたのは予想外だった。騒がれて追手が来るのが早過ぎた。まったくプラチナは、ことごとく水を差して来る邪魔な奴だ…!
しばらく走ると広場の裏の方に出た。建物の隙間から夜の外灯で、ぼんやり浮かび上がる集会所の塔が見えた。脇道に入り、そこから集会所の裏手へ廻り、建物に沿って脇の小道を駆け抜ける。すぐ側で水の音が聞こえる。川が近いのだ。
建物の間を抜けようとした時だった。突然、目の前に壁が立ち塞がる。おそらく昔、町を囲っていた城壁の名残だろう。何も持たなければ問題ないが、絵を抱えたまま超えるには、無理な高さだった。仕方なく川の方へ向かう。少し進むと川のほとりだった。追っ手は、もうそこまで迫っていた。足元の暗闇(くらやみ)の中では激しく水が流れる音が響く。怪盗は焦った。
(どうする…!?どうする…!?泳いで向こう岸まで行くか?絵は完全密閉されてるから濡れたりしないだろう。でも絵を抱えたまま飛び込めば溺れるかもしれない…!)
だが迷ってる暇はなかった。もしここで捕まり、絵の回収に失敗すれば、ダリアは再び、プラチナの手の中に落ちるのだ。そうなれば、ダリアの人生は終わりだ…!!
彼は覚悟を決めた。
怪盗は大きく息を吸うと絵画、諸共(もろとも)、川へ飛び込んだ!
………
*
怪盗は、水量の増した川で必死にもがいた。
(絵だけは絶対に手放すものか!意地でも!!)
だが、意志と裏腹に川下へどんどん流されて行く。視界の隅で川辺で追っ手たちが立ちすくんでいるのが見える。川に飛び込んでまで追ってくる者はいなかった。
(早く…対岸に……!)怪盗は上手く流れに乗りながら向こう岸を目指す。
だが、どうした事だろう。手足は水中に取られ、思う様に進めない。この川は、こんなに流れが荒かったのか?普段、遠くから眺めてる感じでは穏やかな川だったと思ったが。そういえば水深も深い様な…その時、数日前に大雨が降った事をようやく思い出したのだった。段々、力が入らなくなって来る。追っ手のいた川辺も川のカーブの向こうへ見えなくなった。怪盗は、まだ川の真ん中を流されている。
突然、足に痛みが走る。ツリを起こしてしまった。その瞬間、水を飲んでしまい怪盗は溺れた!
(絵だけは…!お嬢さん…だけは…!!)
必死に絵を抱えて何とか体勢を戻そうとする。
しかしそれも虚しく、更に呼吸が苦しくなり、自分が絵を抱えてるのかさえ、もはや分からなくなった。怪盗の意識が薄れる……
(……もう1度、あなたの笑顔が見たかった……)
(…神様…お願いです…
どうか《ダリア》をお守り下さい………)
そこで彼の意識は、途切れた………
………
※第2章へ続く……
***