△ 贋作(がんさく)とフルート〜re:make
■■■〜プロローグ~
…怪盗モントスティルは暗闇で息を潜めてた…耳を澄ますと遠くで護衛たちの声が聞こえる。
…そっちは?
…いや、いない…!
…探せ、まだ近くにいるはずだ…
声が遠のくと怪盗は駆け出した。
(捕まえるならやってみろ、贅沢(ぜいたく)に身を沈めた者ども…!)
彼にとって護衛の動きなど子供の鬼ごっこの様なものだ。優れた視力で護衛たちの動きを読み、猫のような身のこなしで屋根の上を伝って敷地の出口へ駆け抜ける。
ふと、ある寝室の窓をよぎった時だった。部屋には1組の男女がいた。それは怪盗が知ってる人物だ。男はプラチナ氏。女性の婚約者で怪盗は時折、嫉妬を向けていた。女性の方はダリア。怪盗にとって特別な存在…そして「手に入れたい」女性だった。
ダリアは、護衛たちから逃げ回ってるこの怪盗に憧れを抱いている。しかしその事を知ってるのは怪盗の方だけだ。なぜならダリアは怪盗の正体を知らないからだ。しかもそれがダリアの大切な友人である「画家のクレセント」だと言うことも…部屋の中で何をしてるのか、気を取られては捕まってしまう。だが部屋からは、ただならぬ雰囲気を察した。
男女は揉み合いになった。ダリアは、あっさりねじ伏せられ、あろう事かプラチナは明らかに無礼な振る舞いを始めた。その瞬間、怪盗の中で何かが弾け、隣の窓から寝室へ入り込んだ。逃げる途中で人助けなど自分の首を締めるようなものだ。だがその光景は到底、無視出来るものではなかった。
ダリアに襲(おそ)い掛かるプラチナを殴り飛ばし、彼女を逃がそうとする。しかし自分は部屋に駆け付けた護衛たちに捕まってしまった!
(この極悪人、顔を見せろ!)仮面を剥がそうとするプラチナ…!
(畜生っやめろ!!「お嬢さん」には正体を知られたくない!)
すると仮面を剥がすのをやめ、代わりにダリアに近づき鋭いナイフで彼女の服を乱暴に引き裂いた!
ダリアは必死にやめる様に泣き叫ぶがプラチナは容赦しない。とうとう彼女はプラチナ、護衛たち、怪盗の目の前で、あられもない姿にされた…ダリアは嗚咽しながら呟いた…
(私にはもう差し上げられる物がありません…
さあ、どうぞ…お好きになさって…)
(何故そんな事を言う!?貴女は誇り高い女性だったはずだ!だから僕との取引に応じたのだろう…!?)
しかしダリアは、虚ろな目で怪盗を見つめるだけだった…怪盗は護衛に抑えつけられ身動きできない。プラチナに無理矢理、腕を引っ張られダリアは隣の部屋へ連れて行かれてしまった。
ドアが閉じる前、隙間から特殊な視力で怪盗が先読みしたダリアの姿は痣だらけだった……
ドアに鍵がかけられ……
(やめろぉぉ!!)
………そこで目が覚めたのだった…
*
土曜の昼食はダリア特製フライドライスだ。キッチンでフライパンを叩く音が聞こえる。クレセントは土曜は寝坊する。平日は仕事があるし、日曜の朝はお祈りで集会所に行くため早起きしなくてはならない。金曜の夜は夜更しをして絵を描く。夜の方が静かで集中して作業出来るからだ。
ゆっくり起き上がり、シャワーを浴びて、髭剃りを済ませると居間の椅子に座った。
「おはよう。大丈夫…?明け方に、うなされてたみたいだけど…また昔の夢を見たの?」
「いいや、ちょっと昨日は作業を張り切り過ぎかなぁー?ごめん心配させたね」
まさか、朝から妻のヌードの夢を見てたとは言えない…上手く誤魔化して朝食(昼食?)を2人で食べる。これは一緒に暮らす様になってから始めた習慣だ。ダリアは学校で音楽の教師をしてる。土日が休みだが、クレセントは平日の夕方に仕事に出るので2人が一緒にいられるのは土曜のお昼だった。食べながらクレセントはダリアに話しかけた。
「明日さ、お祈りの後、少し先生と君と3人で話をしたいんだけど、いいかい?」
「いいけど。何の話?」
「まあ、それは明日話すよ」
「じゃあ明日の昼食はサンドイッチにするわね。後で買い物に行って来る。貴方もたまには一緒にどう?」
「僕は午後ちょっと出かける。仕事じゃないから夕方には戻るよ」
「あら、それは残念…☆」
食事が終わり、ダリアが市場に出かける支度をしてる時だった。
「あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど…」
そう言うとクレセントはポケットから指輪を取り出した。指輪は3種類あり、赤、青、緑の小さなガラス玉がはまっていた。それは子どもが「ごっこ遊び」で使う様な玩具の指輪だった。
「例えばさ…もし急にお金に余裕が出来て、もし手元に手頃な宝石があって、君に指輪を作りたいなぁと思った時に…せめて君の指のサイズは知っておきたいなと思って…この中でどれがピッタリ合いそうかな?」
「なあに?急に指輪なんて」ふふっと笑うと1つずつ指にはめて確かめて行く。
「そうね、この赤い石かしら」
(ビンゴ!)クレセントは心の中でガッツポーズを決めた。普段から指を眺めていたのでサイズは分かっていた。でも指輪を作るチャンスは1回きりだ。失敗は許されない。ばれてサプライズが失敗するリスクはあったがサイズは絶対間違えたくなかった。
「でも、もし指輪を作る時は私、あなたと一緒に選びたいわ。何年かかるか分からないけど…それに、せっかく指輪があってもあまりはめられないと思う…だってフルートを扱うもの。こう、ネックレスにして首にかけて持ち歩けばいいのかしらね…」
「それじゃあ意味がないんだよ。君の指に指輪がないと…」
「なあに?それって私があなた以外の人と浮気するって疑っているのかしら」言葉とはちがって、ダリアの顔はいたずらっ子のように微笑んでる。
「違うよ。お嬢さんが外を歩いてる時に薬指に指輪がなかったら下心を持った男が近づいて来ないとも限らないだろう?君はちょっと無防備すぎるよ」
「そんな人が来てもお断りするわよ。ねえ、それよりこの指輪、玩具だけど結構可愛いわねー。借りてもいいかしら?指輪をはめないと、どこかのヤキモチな画家さんがサンドイッチの材料も買い出しに行かせてくれそうにないしね☆」
「どうぞ、ご自由に」
「ふふっありがと」
ダリアは赤い硝子玉の指輪を左手の薬指にはめた。買物かごを持って、帽子を被るとスカートの裾をひるがえし、うれしそうに出かけて行った。
■■■01-妻はシスター
よく晴れた日曜の朝だった。クレセントはお祈りをするためアパートから歩いて10分程の所にある集会所に向かった。朝日がキラキラ輝いて空気が心地よく気持ち良い朝だが、車道脇の歩道を歩きながら少し溜息をついた。
「この前までは…お嬢さんと、こんなわずかな距離を歩くのも、とても楽しかったのに…」1人で歩道をゆっくり歩いて行く。集会所の前にやって来ると親子連れやご隠居生活の年配の老夫婦、クレセントと同世代の連れ合いが見られた。
その集会所は町で1番大きな塔がある。高さは60m程だと聞いた事がある。集会所の前はちょっとした広場になっていて石畳を敷き詰めた一角ではコーヒーやホットドックの屋台が店を広げる。集会所の建物に沿うように立つ塔の向こうは幅の広い大きな川が流れている。流れは緩やかで水面が朝日を反射し輝きながらゆったり流れてる。
クレセントはコーヒーを1杯立ち飲みした。
「おはようございます。良い天気ですね」
その集会所のシスターはお祈りにやって来た人々に爽やかな声で挨拶している。最近この集会所で働き始めた彼女は、お祈りに来てくれた子ども達に飴玉を配っていた。クレセントは彼女に近づいた。
「僕にも1つくれないか?」
「あらダメよ。これはお子様限定なの。あなたは見たところ分別のある“立派な大人”に見えますけど。違うのかしらね?」シスターは、くすっと微笑んだ。
「残念、ばれたか」
塔の鐘が響いて9時を知らせる。人々は集会所の中に集まった。それから館長である先生の話が始まった。彼は長くこの仕事をしていて彼の妻もシスターだ。この集会所の裏に自宅があり一緒に暮らしているそうだ。先生の話が終わるとフルートの演奏が始まった。先程、子ども達に飴玉を配っていたあのシスターだ。オルガンもあるがそれは先生の奥さんが得意だった。最近は、お年を召したので時々お休みし代わりに新米シスターである彼女が音楽の演奏をしている。
演奏が終わるとお祈りの時間も終わる。人々はそれぞれの家に帰って行った。クレセントは集会所の建物の中に何列も並べられてる長椅子の端に座ったまま高い天井を眺めていた。
「どうかされましたか?」先程のシスターが声をかけた。クレセントは天井を眺めたまま答えた。
「…心が苦しいんです…」
「では、こちらへどうぞ」
そう言うと告解室にクレセントを案内した。狭く頑丈な木製の小部屋だ。格子の向こうでシスターは壁を向いて座った。クレセントも座るとシスターに話しかけた。
「…君は、まだ怒ってるのかい?」
「申し訳ありません、プライベートな事はお答えいたしかねます」シスターは壁の方に向いたまま答えた。
「先週の日曜もそう答えたよね?おかげで僕は2時間も君と同じ言葉を交わし続ける羽目になったよ。なあ頼むから、そろそろ家に戻って来ておくれよ」
「私は神に使える者です。ここが私の家ですわ」
「そんな冗談、やめてくれよ…」
「あら、元はと言えばあなたが悪いのよ!」
急にクレセントに振り向くと、シスターは尖った調子で言った。
「あなたは私と結婚する時『もう2度と怪盗にならない』と約束したじゃない。けど結局、表向きには私をだまして結婚してからもずっと盗みをしていたのでしょう!?」
「違う。あのダイヤモンドは持ち主には、もう返せなくなった物で…!」クレセントを無視してダリアは続ける。
「しかも、私が家を出た途端に女の人をアパートに呼び込んだりして。きれいな人よねー、しかも画商だなんて。あなたとは本当に、とっても、お似合いよね!本当は前から私が邪魔だったのでしょう!?」
「そんなの言いがかりだ!ゼラ館長は仕事のパートナーで僕を高く評価してくれてるんだ。パトロン(=芸術家を金銭的に援助する人)なんだから、ないがしろにはできないだろ!?」
「……でも、キスしてたわ…!」ダリアの目に光る物がちらつく。
「あれは…!」クレセントは言葉に詰まった。あれは事故だ。それに「実際は」キスしてない。言い訳を話そうとするがシスターは素早く立ち上がり、肩越しに振り向くと冷たく言い放った。
「あなたの言い訳なんか聞きたくないわ。どうぞ、あの画商の女性と仲良く暮らして下さいな!」
そう言うと告解室からさっと出て行ってしまい、集会所の関係者しか入れない奥のドアの向こうへ行ってしまった。クレセントはため息をつき、告解室からうなだれて出ると、重い足取りでアパートへと帰って行ったのだった。
一体、どうしてダリアが集会所のシスターとして働く事になったのか。それは2週間前の、ある出来事がきっかけだった…。
■■■02-君に結婚指輪を…
クレセントには1つの計画があった。ダリアと、この町で暮らし始めてから、そろそろ1年経とうとしていた…
彼は昔、ここから遠くの町で泥棒をしていた。その町では有名な怪盗だった。その町は貧富の差が激しく、いつからか…彼自身もう忘れてしまったが富裕層から貴金属や宝石類を巻き上げ貧しい人々にばら撒くようになった。
ある時、クレセントの住む地区に富裕層の娘ダリア(今は彼にとって1番の宝石で愛妻)が迷い込み、柄の悪い連中に絡まれた所を彼が助け、2人は仲良くなった。色々あって怪盗はダリアを盗み出し、その町から逃げて来たのだ。
お互い愛し合っていたがクレセントがダリアに求婚した際、彼女は1つ条件を出した。
「この先、2度と危険な「怪盗」にならないと、どうか約束して頂戴。そうすれば貴方の妻になりますわ」
これは容易い事だった。昔の町は、ダリアの政略結婚が御破算になってからというもの町の体制が大きく変わり、自分はもう「怪盗」と言う裏の顔は必要なくなった。それにクレセントはダリアの人生を大きく変えてしまった…と言う責任も感じてた。自由になったのなら、これからは彼女を愛し、幸せにして行く事に人生を費やしたいと思った。
それから2人で逃げてきた町の、この小さなアパートで暮らし始めたのだが、日々の生活やお互いに仕事も見つけて結構忙しく過ごしていたので、あっという間に1年近く経ってしまった。
ある時、玄関先で隣室に住む年配の女性と挨拶した時の事…
「ねえ、ちょっと聞きたいのだけど…一緒に暮らしてるあの娘さん、貴方とはどういったご関係なのかしら…?」
「僕の妻ですよ」
「あら、そうなの…指輪をしてないからてっきり、お姉さんか、妹さんなのかと思って。ふふふ、ごめんなさいね。私の知り合いの娘さんに、誰か良い殿方がいないか聞かれちゃって。あなたが独身だったら…と思って声をかけたのよ。でもあんな可愛らしいお連れさんがいるなら他を当たらなくてはね…」
何気ない会話だったがクレセントはふと気付いた…
(もしかして、お嬢さんの薬指に指輪がない事で他の男たちに誤解を与えているのでは…)
今まで特に気にしなかったが彼女は学校で教師をしている。当然、様々な人と交流があるだろう。そんな中、若くて、キレイで、独身で(…と勘違いされて)下心を持った男が近づかないとも限らない。クレセントは急に落ち着かなくなった。彼女に、できるだけ早く結婚指輪を与えなくては…!
しかし今のクレセントはとても指輪を買う余裕はなかった。怪盗の頃は、それこそ一晩で指輪100個ぐらい軽々と盗んでいたが…しかしそれではダリアとの約束を破る事になってしまう。
クレセントは思いついた…
(いよいよ「あれ」を使う時が来たな…)
*
怪盗をしていた頃…ある晩、彼は黒いヴェルヴェットの小袋を1つ盗み出した。そこには2粒のダイヤモンドが入っていて一緒に小さな紙片が入っていた。メモにはイニシャルと指輪サイズが書かれていた。おそらく富裕層の夫婦が結婚指輪を注文する予定だったのだろう。
いつものように怪盗は盗んだ宝石、貴金属類を裏ルートで換金した。しかしあの2粒のダイヤモンドだけはなぜかその気が起きなかった。心の何処かで「返すべきだ…」と思っていたせいかもしれない。けど一方で、彼らだけが幸せになるのを受け入れられない気持ちもあった。怪盗は何ヶ月も、あのダイヤを手元に持っていた。
その後ダリアと出会い、彼女を婚約者プラチナから奪う計画を進めてた頃…1度だけ、元の持ち主にダイヤを返しに行った事があった。しかし屋敷は、既に住人が引っ越した後だった…。結局、返せないまま捨てるのも惜しく、何かに役立つだろうとダリアをデッサンしたスケッチブックと共に大切に保管していた。
しばらくは、ダイヤの事はすっかり忘れていたが指輪の事を考えた時、思い出したのだった。
(考えて見れば、もうあの町に戻ることはないし、ダイヤの持ち主の夫婦も、盗まれた宝石なんかさっさと諦めて、別の指輪を作って今頃は幸せに暮らしてるだろうな…)
そう考えると、あのダイヤモンドでダリアとの結婚指輪を作ろうと言う考えに至ったのだった。
■■■03-「私と宝石、どちらが大切…?」
土曜日の午後。
ダリアが市場に買い物へ出かけて行ってしまうと、クレセントは部屋の隅に向かった。ダクト穴のフタを開けると、中から黒い小袋を取り出した。怪盗をしていた時から貴重品を隠す癖が未だ抜けてない。もっとも、ダリアに宝石を見られたくないのが1番の理由だった。生活で手一杯なはずなのに、もしこんな宝石をクレセントが持っているのを見たら、盗んだと誤解されてしまうだろう。
そのダイヤを懐(ふところ)にしまうとクレセントは出かけた。アパートを出てレンガを敷き詰めた通りを歩いて行き、一軒の店にやって来た。小さな宝石店で貴金属細工の職人が営む店だった。しかし土曜は休みで店は閉まっていた。仕方なく諦め、月曜にまた来ようと思い、店を後にした。
用事が済んでないので少し間が出来た。クレセントは帰り道に、通りから一本奥に入った所にある一軒の屋敷に向かった。樹木が敷地に沿って植えられ、木製の仕切り壁が道端に沿って向こうまで続いている。中庭もかなり広いだろう。屋敷は2階建てで広い屋根と寝室が幾つも在りそうな大きな建物だった。そこはこの町にあるギャラリーだった。高額な入場料を取られるので、まだ中に入ったことはないが…名のある巨匠の絵画を数多く所有しており、コレクションはかなり充実してる様だ。
自分の作品も、いつかあのコレクションの中に入れたら…などと考えながら彼が道ばたを歩いていると、何やら猫の鳴き声が…見ると敷地の樹木の上で子猫が鳴いている。
「まあ、どうしましょう…いい子だから降りて来てちょうだい」
飼い主らしい、品の良い雰囲気の女性が上を見上げながら困っていた。どうやら子猫が登った木が思ったより高く、怖くて降りられないらしい。
「あの…良ければお手伝いしましょうか?」
クレセントは女性に声をかけた。
「まあ…どなたか存じませんが、子猫を降ろしていただけますか?」
するとクレセントは木製の仕切り板に近づくと軽々と上に乗り、そこから木に移ると、あっという間に子猫の元まで辿り着いた。子猫は怖がって鳴いてたがクレセントが胸に抱えると大人しくなり、そのまま地上に降りてきた。子猫をそっと女性に渡す。
「まあ、ありがとうございました。あなたのその身のこなし素晴らしいわね。ひょっとして…鳶(とび)職人の方?
「いいえ、しがない駆け出しの画家です」
「まあそうなの。あら大変…手が擦れて怪我をなさってるわ。手当てしなくては」
クレセントは大した怪我じゃないと断ったが女性がお礼にお茶もご馳走したいと言ってくれたので、お言葉に甘えて屋敷に入れさせてもらった。
*
広々とした玄関のポーチを通り、屋敷のホールから奥の客間へ進む。女性は子猫をソファーに預けると救急箱を持って来て手当てしてくれた。クレセントは昔…真夜中の地下室でダリアが手当てしてくれた事を思い出していた…
(少しお嬢さんと似てるな…彼女がもう少し年上になったらこんな感じだろうな…)
それから2人でお茶を飲み、話題はクレセントの絵の話になった。
「まあ、では今度ぜひあなたを絵を拝見させて下さい」
「ゼラ」と名乗った女性は、このギャラリー館長で画商でもあると言う。クレセントは今度、絵を見せると約束しアパートの住所を教えて帰った。
*
アパートに帰るとダリアが先に帰宅していた。
「帰りなさい、遅かったけど…急に仕事にでもなったの?」
「まあ、そんな所かな。聞いてくれよ!今日、ギャラリーの前へ行ったんだけど偶然、館長に会ってさー、今度、僕の絵を見てくれるって!」
「え、ギャラリーって…通りの奥の、あの大きな屋敷の事…?」
「そうさ、上手く行けば僕の画家の記念すべきデビューになるかもしれないぞ。多くの人の目にとまる様になれば絵も売れて、そうすれば君の事をもっと楽させてあげられるし!」
「はいはい、期待せずに待ってるわ~」
ダリアの前で上着を脱いだ時、あの黒い小袋が床に落ちた。クレセントは気が付かず、ダリアは気付いて拾い上げた。彼女が袋を開けて中身を見るのと、落とした事に気付いたクレセントが(あ…!!)と声を上げたのは、ほぼ同時だった。
「何これ…どう言う事…!?」
「違うんだ…それは…!!」
2人の間に沈黙があった…
クレセントは、部屋の空気が一気に険悪になって行くのを感じた……
*
次の日の朝。起きるとダリアはもうアパートには、いなかった。昨日の夜は結局、一言も口を利いてもらえなかった。どんなに話しかけても駄目で…「あの宝石は、まだ怪盗だった頃の…もので…」(ここで言葉を濁したのが、まずかったかもしれない。ダリアに「やっぱり盗んだ物じゃない!」と、ぴしゃりと言われた…)
取りあえず今日は日曜だ。きっとお嬢さんは先に集会所に行ったのだろう…クレセントはシャワーを浴び、髭を剃り、支度をしてアパートを出た。
ダリアは集会所にいた。しかし彼女はいつもの長椅子席側ではなく、先生の隣で灰色の尼さん服を着て座っていたのだ。お祈りの時間が終わるとクレセントはダリアに駆け寄った。
「一体、何をしてるんだい!君の職業はシスターじゃなくて音楽教師だろう?」思わずダリアの両肩に触れるが、ダリアはそっと顔をそらした。
「…私は神様に赦しを乞うことにしたのです。私の夫が「昔の悪業」に再び手を染めてしまったから…あなたにとって、私と宝石と、どちらが大切だったのか、私は今更、気づいたから」
クレセントは顔から血の気が引いた…ダリアは「告解」してしまったのだ。自分が昔、怪盗で数え切れないくらいの盗みを働いた事も…ダリアが望んだとはいえ、婚約者だった男から彼女を奪ったことも…その彼女を娶(めと)った事も…
傍(かたわ)らに先生が来た。どんな顔をしているのだろうか…?そっと顔色を伺う。クレセントを睨むでもなく、咎めるでもなく、軽蔑でもなく…ただ、ただ、憐れみの眼差しを向けられた。
(やめてくれ…そんな目で僕を見るな…!)
クレセントは先生から顔を背けた。
…それから2時間、告解室でクレセントはダリアに、あのダイヤの事を説明しアパートに戻って来る様に説得したが聞き入れてもらえなかった。仕方なく1度お互いの距離を置こうと帰って行った。
アパートに帰ると、お昼近くだった。昨日ダリアが買ったサンドイッチの材料がそのまま残っていた。その具材をパンに挟み1人で頬張る…レタスもベーコンも新鮮だったのに少しも美味しいとは思わなかった……
■■■04-怪盗、ハートを盗まれる…?
月曜になった。仕事は、夕方からだから、それまで間があった。
(※一応、読者様に補足しておくと…クレセントは現在、怪盗ではなく真面目に普通の仕事をしてます。ただ、今回の小説の話と彼の仕事の話は接点も関係もないので具体的な描写は省略してます。彼も生活して行かなければならないのです…)
土曜は休みだった宝石店は、もはや行く気になれず、かと言って絵を描こうかと筆を持って見ても、ダリアが家出した事がショックでそんな気持ちすら当分、起きそうになかった。取りあえず起きて、シャワーを浴びて、髭を剃って、居間の椅子に座って、ぼんやりしていた。こんなに孤独なのは何ヶ月振りだろうか。ダリアがいた頃は、毎日が活き活きしていた。描きたくもない富裕層達からの絵の注文を描いてた頃だって、今の、この状況と比べたらはるかにマシだった。空間の中の輝きは失われてしまった。真に絵を描いていたのは自分じゃない。灰色の生活に色彩と輝きを与えてくれていたのはダリアだったのだ…クレセントは改めて気づかされたのだった…。
ふと、アパートの部屋のドアをノックする音が聞こえた。最初、隣の部屋かと思ったがクレセントの部屋をノックしていた。ドアを開けた。
土曜に会ったゼラ館長が立っていた。
*
「突然でご迷惑だったかしら?近くを通ったもので、お声掛けさせて頂きましたの」
「いえ、どうぞ。狭いですが」
玄関とキッチンの間には段差が有り、クレセントは注意を促した。ここに引っ越してきたばかりの頃、ダリアは、よくつまずきそうになり、その度にクレセントが抱き止める、という事が何度もあった。(このアパート設計者は「わざと」そう言う造りにしたのではないか…と思ったほどだ)
キッチンのテーブルに向かい合って座った。
「先週、絵を見せて頂けるとお聞きしてから私、気になってしまって、早く見てみたくて本当はお伺いしましたの」
「そうですか。では今よろしいですか?僕は駆け出しですし点数は多くないです」
「ええ、是非!」
クレセントは部屋の隅に立て掛けた絵を何枚か持ってきて見せた。その時ゼラは、ハッとした様だったが絵を見てそう思ったのかクレセントには分からなかった。
「これで全部です」
「あの絵は?」
ゼラは1枚だけ裏返したままの絵を指差した。
「申し訳ありません、あの絵は特別で…手放す事は出来ないんです」
「見るだけと約束するわ。見せて下さらない?」
「ええ、それなら良いですよ」
彼が持って来たのは裸婦の絵だった。
題名は…『まどろむ裸婦』
モデルはダリアで、このアパートに引っ越して、最初に描いた絵だった。ダリアが自分の事を婚約者の元から「盗んで」見せた時は、一糸まとわぬ姿でモデルになる、と約束していた。クレセントは自分からはその事は言い出さなかったが、ある日、ダリアが「あの時の約束を守りたい」とモデルを申し出てくれたのだった。「でも…あなたは写実が得意だから、決してこの絵だけは、売ったり、譲ったりしないと約束して頂戴ね」そう言うとダリアは服を脱いだのだった…
「まあ素敵…!ひょっとして奥様…?」
「ええ、そうです」
「あの、奥様は…?」
「………」
「…ごめんなさい。私ってば、辛い事を…!」
「いえっ違います、彼女は生きてます!ちょっと色々あって…今ここには、いないんです」
「そうなの、ありがとう。そんな大変な時に私のわがままを聞いて下さって。あなたの絵はかなり見所があると私は感じました。1度私のギャラリーで展示会を開いてみませんか?」
思ってもなかった申し出にクレセントは喜んだ。
「はい、是非お願い致します!」
ゼラが帰ろうとした時だった。クレセントは、嬉しさで気が緩んでいたのか、ゼラに床の段差に注意するよう促さなかった。慣れない他人の家でゼラはバランスを崩し、倒れそうになる瞬間、クレセントは思わず抱き留めた!
ゼラの唇がクレセントの顔をかすめ…
丁度その時、突然、玄関のドアが開いた。
ドアの外にはダリアが立っていた。
ダリアは、玄関で抱き合ったクレセントとゼラを見下ろしていた…
…クレセントは、思った。
(神様、これは…散々、盗みを働いた
僕への罰なのですか…?
何で、よりによって、
今、このタイミング
今、この瞬間に
1番、見られたくない場面を
1番、愛する人に
見られなければ
ならないのでしょうか…?)
…
■■■05-もしかして浮気!?
ゼラは、ゆっくり立ち上がった。
「大変、お恥ずかしい所をお見せしました。では、近い内に展示についての打ち合わせに来ますので」
そう言うと、まるでなにも無かったかのように上品な足取りで帰って行ったのだった。
クレセントとダリアは、玄関先でたたずんでいた。
「お帰り、入りなよ…」やっとクレセントから声をかけた。
「……」ダリアは無表情だった。
2人はアパートに入った。
*
クレセントはダリアが段差で、つまづきそうにならないだろうかと期待したが、彼女は段差に、まるで地縛霊でも居るかのように、サッとまたいで通過してしまった。
「あ、あのさ…ありがとう、戻ってきてくれ…」
しかし次の瞬間、ダリアは振り抜くとクレセントを思い切り突き飛ばした!動きを予測した彼は倒れないよう寸前で踏み留まる!
「危ないじゃないか、いきなり何する!」
ダリアは目に涙をためて叫んだ!
「信じてたのに!ひどいわ!!わたし、先生の奥様に説得されて、頭を冷やして、あなたが赦してくれるように祈りながら、やっとの思いでここに来たのよ!それなのに…あんまりだわ!」
一体何が…と言いかけてクレセントは気づいた。ダリアは自分とゼラの間柄を完全に誤解してるのだ。
「違うよ、あの人には先週、絵を見せる約束をしてたんだ。土曜日に話しただろ?あの人が画商なんだよ。あーそうだ、良い知らせがもう1つ。僕の絵の展示会を検討してくれるって!」
「ふーん、一体どんな手段を使ったのかしらね?あなたは騙(だま)しの天才だもの。女性を手玉に取るぐらい訳ないでしょうから。甘い言葉でもささやいたのかしら?私にそうした様に…!」
「何言ってんだよ、そんなわけ…」
「…してたでしょ…!」
「え、何を?」
「私に言わせるの?イヤらしい!してたでしょ!
…キス…!」
クレセントは、いよいよこれはダリアが告解をした事で神様が自分に与えた天罰の様に感じた。あの時、ゼラの唇(くちびるは頬(ほお)をかすめただけだったのに。立ち姿勢のダリアから見たら、まるで熱烈な口付けをしてる様に見えただろう。
「だから誤解だって。僕はさ、君がこの2日間いなくなって気づいたんだよ。この部屋で真に絵を描いてたのが誰だったのか。それは僕じゃなくて君だったのさ。このアパートに輝きと潤いを与えてくれてたのは君だったんだ。その君が戻って来てくれて、本当に僕は心から嬉しいんだ!
君を…君の事を…愛してるから…!!」
ダリアを素早く抱き寄せ、唇を重ねようとした時だった。
パァン!
突然、クラッカーが弾けた様な音が響いた!
■■■06-平手打《ひらてう》ち!
…彼は昔、遠くの町で有名な怪盗だった。
今まで彼はどんな警備だろうと、どんな罠だろうと潜り抜けて見せた。「特殊な視力」を持つ彼にとって、あんな物はどれも暇つぶしの遊具でしかなかった。
でも、それだけは避けようがなかった。
いくら視力が優れていようとも、そんな事は「起こるはずがない」と彼は思い込んでいたのだから。
でもそれは起きてしまった。
避けようがなかった。
当然だ。それは突然の予想しない出来事だったのだから。
ダリアの手のひらが
クレセントの頬を
思いっきり打った!
……
…怪盗モントスティルは暗闇で息を潜めてた…耳を澄ますと遠くで護衛たちの声が聞こえる。
…そっちは?
…いや、いない…!
…探せ、まだ近くにいるはずだ…
声が遠のくと怪盗は駆け出した。
(捕まえるならやってみろ、贅沢(ぜいたく)に身を沈めた者ども…!)
彼にとって護衛の動きなど子供の鬼ごっこの様なものだ。優れた視力で護衛たちの動きを読み、猫のような身のこなしで屋根の上を伝って敷地の出口へ駆け抜ける。
ふと、ある寝室の窓をよぎった時だった。部屋には1組の男女がいた。それは怪盗が知ってる人物だ。男はプラチナ氏。女性の婚約者で怪盗は時折、嫉妬を向けていた。女性の方はダリア。怪盗にとって特別な存在…そして「手に入れたい」女性だった。
ダリアは、護衛たちから逃げ回ってるこの怪盗に憧れを抱いている。しかしその事を知ってるのは怪盗の方だけだ。なぜならダリアは怪盗の正体を知らないからだ。しかもそれがダリアの大切な友人である「画家のクレセント」だと言うことも…部屋の中で何をしてるのか、気を取られては捕まってしまう。だが部屋からは、ただならぬ雰囲気を察した。
男女は揉み合いになった。ダリアは、あっさりねじ伏せられ、あろう事かプラチナは明らかに無礼な振る舞いを始めた。その瞬間、怪盗の中で何かが弾け、隣の窓から寝室へ入り込んだ。逃げる途中で人助けなど自分の首を締めるようなものだ。だがその光景は到底、無視出来るものではなかった。
ダリアに襲(おそ)い掛かるプラチナを殴り飛ばし、彼女を逃がそうとする。しかし自分は部屋に駆け付けた護衛たちに捕まってしまった!
(この極悪人、顔を見せろ!)仮面を剥がそうとするプラチナ…!
(畜生っやめろ!!「お嬢さん」には正体を知られたくない!)
すると仮面を剥がすのをやめ、代わりにダリアに近づき鋭いナイフで彼女の服を乱暴に引き裂いた!
ダリアは必死にやめる様に泣き叫ぶがプラチナは容赦しない。とうとう彼女はプラチナ、護衛たち、怪盗の目の前で、あられもない姿にされた…ダリアは嗚咽しながら呟いた…
(私にはもう差し上げられる物がありません…
さあ、どうぞ…お好きになさって…)
(何故そんな事を言う!?貴女は誇り高い女性だったはずだ!だから僕との取引に応じたのだろう…!?)
しかしダリアは、虚ろな目で怪盗を見つめるだけだった…怪盗は護衛に抑えつけられ身動きできない。プラチナに無理矢理、腕を引っ張られダリアは隣の部屋へ連れて行かれてしまった。
ドアが閉じる前、隙間から特殊な視力で怪盗が先読みしたダリアの姿は痣だらけだった……
ドアに鍵がかけられ……
(やめろぉぉ!!)
………そこで目が覚めたのだった…
*
土曜の昼食はダリア特製フライドライスだ。キッチンでフライパンを叩く音が聞こえる。クレセントは土曜は寝坊する。平日は仕事があるし、日曜の朝はお祈りで集会所に行くため早起きしなくてはならない。金曜の夜は夜更しをして絵を描く。夜の方が静かで集中して作業出来るからだ。
ゆっくり起き上がり、シャワーを浴びて、髭剃りを済ませると居間の椅子に座った。
「おはよう。大丈夫…?明け方に、うなされてたみたいだけど…また昔の夢を見たの?」
「いいや、ちょっと昨日は作業を張り切り過ぎかなぁー?ごめん心配させたね」
まさか、朝から妻のヌードの夢を見てたとは言えない…上手く誤魔化して朝食(昼食?)を2人で食べる。これは一緒に暮らす様になってから始めた習慣だ。ダリアは学校で音楽の教師をしてる。土日が休みだが、クレセントは平日の夕方に仕事に出るので2人が一緒にいられるのは土曜のお昼だった。食べながらクレセントはダリアに話しかけた。
「明日さ、お祈りの後、少し先生と君と3人で話をしたいんだけど、いいかい?」
「いいけど。何の話?」
「まあ、それは明日話すよ」
「じゃあ明日の昼食はサンドイッチにするわね。後で買い物に行って来る。貴方もたまには一緒にどう?」
「僕は午後ちょっと出かける。仕事じゃないから夕方には戻るよ」
「あら、それは残念…☆」
食事が終わり、ダリアが市場に出かける支度をしてる時だった。
「あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど…」
そう言うとクレセントはポケットから指輪を取り出した。指輪は3種類あり、赤、青、緑の小さなガラス玉がはまっていた。それは子どもが「ごっこ遊び」で使う様な玩具の指輪だった。
「例えばさ…もし急にお金に余裕が出来て、もし手元に手頃な宝石があって、君に指輪を作りたいなぁと思った時に…せめて君の指のサイズは知っておきたいなと思って…この中でどれがピッタリ合いそうかな?」
「なあに?急に指輪なんて」ふふっと笑うと1つずつ指にはめて確かめて行く。
「そうね、この赤い石かしら」
(ビンゴ!)クレセントは心の中でガッツポーズを決めた。普段から指を眺めていたのでサイズは分かっていた。でも指輪を作るチャンスは1回きりだ。失敗は許されない。ばれてサプライズが失敗するリスクはあったがサイズは絶対間違えたくなかった。
「でも、もし指輪を作る時は私、あなたと一緒に選びたいわ。何年かかるか分からないけど…それに、せっかく指輪があってもあまりはめられないと思う…だってフルートを扱うもの。こう、ネックレスにして首にかけて持ち歩けばいいのかしらね…」
「それじゃあ意味がないんだよ。君の指に指輪がないと…」
「なあに?それって私があなた以外の人と浮気するって疑っているのかしら」言葉とはちがって、ダリアの顔はいたずらっ子のように微笑んでる。
「違うよ。お嬢さんが外を歩いてる時に薬指に指輪がなかったら下心を持った男が近づいて来ないとも限らないだろう?君はちょっと無防備すぎるよ」
「そんな人が来てもお断りするわよ。ねえ、それよりこの指輪、玩具だけど結構可愛いわねー。借りてもいいかしら?指輪をはめないと、どこかのヤキモチな画家さんがサンドイッチの材料も買い出しに行かせてくれそうにないしね☆」
「どうぞ、ご自由に」
「ふふっありがと」
ダリアは赤い硝子玉の指輪を左手の薬指にはめた。買物かごを持って、帽子を被るとスカートの裾をひるがえし、うれしそうに出かけて行った。
■■■01-妻はシスター
よく晴れた日曜の朝だった。クレセントはお祈りをするためアパートから歩いて10分程の所にある集会所に向かった。朝日がキラキラ輝いて空気が心地よく気持ち良い朝だが、車道脇の歩道を歩きながら少し溜息をついた。
「この前までは…お嬢さんと、こんなわずかな距離を歩くのも、とても楽しかったのに…」1人で歩道をゆっくり歩いて行く。集会所の前にやって来ると親子連れやご隠居生活の年配の老夫婦、クレセントと同世代の連れ合いが見られた。
その集会所は町で1番大きな塔がある。高さは60m程だと聞いた事がある。集会所の前はちょっとした広場になっていて石畳を敷き詰めた一角ではコーヒーやホットドックの屋台が店を広げる。集会所の建物に沿うように立つ塔の向こうは幅の広い大きな川が流れている。流れは緩やかで水面が朝日を反射し輝きながらゆったり流れてる。
クレセントはコーヒーを1杯立ち飲みした。
「おはようございます。良い天気ですね」
その集会所のシスターはお祈りにやって来た人々に爽やかな声で挨拶している。最近この集会所で働き始めた彼女は、お祈りに来てくれた子ども達に飴玉を配っていた。クレセントは彼女に近づいた。
「僕にも1つくれないか?」
「あらダメよ。これはお子様限定なの。あなたは見たところ分別のある“立派な大人”に見えますけど。違うのかしらね?」シスターは、くすっと微笑んだ。
「残念、ばれたか」
塔の鐘が響いて9時を知らせる。人々は集会所の中に集まった。それから館長である先生の話が始まった。彼は長くこの仕事をしていて彼の妻もシスターだ。この集会所の裏に自宅があり一緒に暮らしているそうだ。先生の話が終わるとフルートの演奏が始まった。先程、子ども達に飴玉を配っていたあのシスターだ。オルガンもあるがそれは先生の奥さんが得意だった。最近は、お年を召したので時々お休みし代わりに新米シスターである彼女が音楽の演奏をしている。
演奏が終わるとお祈りの時間も終わる。人々はそれぞれの家に帰って行った。クレセントは集会所の建物の中に何列も並べられてる長椅子の端に座ったまま高い天井を眺めていた。
「どうかされましたか?」先程のシスターが声をかけた。クレセントは天井を眺めたまま答えた。
「…心が苦しいんです…」
「では、こちらへどうぞ」
そう言うと告解室にクレセントを案内した。狭く頑丈な木製の小部屋だ。格子の向こうでシスターは壁を向いて座った。クレセントも座るとシスターに話しかけた。
「…君は、まだ怒ってるのかい?」
「申し訳ありません、プライベートな事はお答えいたしかねます」シスターは壁の方に向いたまま答えた。
「先週の日曜もそう答えたよね?おかげで僕は2時間も君と同じ言葉を交わし続ける羽目になったよ。なあ頼むから、そろそろ家に戻って来ておくれよ」
「私は神に使える者です。ここが私の家ですわ」
「そんな冗談、やめてくれよ…」
「あら、元はと言えばあなたが悪いのよ!」
急にクレセントに振り向くと、シスターは尖った調子で言った。
「あなたは私と結婚する時『もう2度と怪盗にならない』と約束したじゃない。けど結局、表向きには私をだまして結婚してからもずっと盗みをしていたのでしょう!?」
「違う。あのダイヤモンドは持ち主には、もう返せなくなった物で…!」クレセントを無視してダリアは続ける。
「しかも、私が家を出た途端に女の人をアパートに呼び込んだりして。きれいな人よねー、しかも画商だなんて。あなたとは本当に、とっても、お似合いよね!本当は前から私が邪魔だったのでしょう!?」
「そんなの言いがかりだ!ゼラ館長は仕事のパートナーで僕を高く評価してくれてるんだ。パトロン(=芸術家を金銭的に援助する人)なんだから、ないがしろにはできないだろ!?」
「……でも、キスしてたわ…!」ダリアの目に光る物がちらつく。
「あれは…!」クレセントは言葉に詰まった。あれは事故だ。それに「実際は」キスしてない。言い訳を話そうとするがシスターは素早く立ち上がり、肩越しに振り向くと冷たく言い放った。
「あなたの言い訳なんか聞きたくないわ。どうぞ、あの画商の女性と仲良く暮らして下さいな!」
そう言うと告解室からさっと出て行ってしまい、集会所の関係者しか入れない奥のドアの向こうへ行ってしまった。クレセントはため息をつき、告解室からうなだれて出ると、重い足取りでアパートへと帰って行ったのだった。
一体、どうしてダリアが集会所のシスターとして働く事になったのか。それは2週間前の、ある出来事がきっかけだった…。
■■■02-君に結婚指輪を…
クレセントには1つの計画があった。ダリアと、この町で暮らし始めてから、そろそろ1年経とうとしていた…
彼は昔、ここから遠くの町で泥棒をしていた。その町では有名な怪盗だった。その町は貧富の差が激しく、いつからか…彼自身もう忘れてしまったが富裕層から貴金属や宝石類を巻き上げ貧しい人々にばら撒くようになった。
ある時、クレセントの住む地区に富裕層の娘ダリア(今は彼にとって1番の宝石で愛妻)が迷い込み、柄の悪い連中に絡まれた所を彼が助け、2人は仲良くなった。色々あって怪盗はダリアを盗み出し、その町から逃げて来たのだ。
お互い愛し合っていたがクレセントがダリアに求婚した際、彼女は1つ条件を出した。
「この先、2度と危険な「怪盗」にならないと、どうか約束して頂戴。そうすれば貴方の妻になりますわ」
これは容易い事だった。昔の町は、ダリアの政略結婚が御破算になってからというもの町の体制が大きく変わり、自分はもう「怪盗」と言う裏の顔は必要なくなった。それにクレセントはダリアの人生を大きく変えてしまった…と言う責任も感じてた。自由になったのなら、これからは彼女を愛し、幸せにして行く事に人生を費やしたいと思った。
それから2人で逃げてきた町の、この小さなアパートで暮らし始めたのだが、日々の生活やお互いに仕事も見つけて結構忙しく過ごしていたので、あっという間に1年近く経ってしまった。
ある時、玄関先で隣室に住む年配の女性と挨拶した時の事…
「ねえ、ちょっと聞きたいのだけど…一緒に暮らしてるあの娘さん、貴方とはどういったご関係なのかしら…?」
「僕の妻ですよ」
「あら、そうなの…指輪をしてないからてっきり、お姉さんか、妹さんなのかと思って。ふふふ、ごめんなさいね。私の知り合いの娘さんに、誰か良い殿方がいないか聞かれちゃって。あなたが独身だったら…と思って声をかけたのよ。でもあんな可愛らしいお連れさんがいるなら他を当たらなくてはね…」
何気ない会話だったがクレセントはふと気付いた…
(もしかして、お嬢さんの薬指に指輪がない事で他の男たちに誤解を与えているのでは…)
今まで特に気にしなかったが彼女は学校で教師をしている。当然、様々な人と交流があるだろう。そんな中、若くて、キレイで、独身で(…と勘違いされて)下心を持った男が近づかないとも限らない。クレセントは急に落ち着かなくなった。彼女に、できるだけ早く結婚指輪を与えなくては…!
しかし今のクレセントはとても指輪を買う余裕はなかった。怪盗の頃は、それこそ一晩で指輪100個ぐらい軽々と盗んでいたが…しかしそれではダリアとの約束を破る事になってしまう。
クレセントは思いついた…
(いよいよ「あれ」を使う時が来たな…)
*
怪盗をしていた頃…ある晩、彼は黒いヴェルヴェットの小袋を1つ盗み出した。そこには2粒のダイヤモンドが入っていて一緒に小さな紙片が入っていた。メモにはイニシャルと指輪サイズが書かれていた。おそらく富裕層の夫婦が結婚指輪を注文する予定だったのだろう。
いつものように怪盗は盗んだ宝石、貴金属類を裏ルートで換金した。しかしあの2粒のダイヤモンドだけはなぜかその気が起きなかった。心の何処かで「返すべきだ…」と思っていたせいかもしれない。けど一方で、彼らだけが幸せになるのを受け入れられない気持ちもあった。怪盗は何ヶ月も、あのダイヤを手元に持っていた。
その後ダリアと出会い、彼女を婚約者プラチナから奪う計画を進めてた頃…1度だけ、元の持ち主にダイヤを返しに行った事があった。しかし屋敷は、既に住人が引っ越した後だった…。結局、返せないまま捨てるのも惜しく、何かに役立つだろうとダリアをデッサンしたスケッチブックと共に大切に保管していた。
しばらくは、ダイヤの事はすっかり忘れていたが指輪の事を考えた時、思い出したのだった。
(考えて見れば、もうあの町に戻ることはないし、ダイヤの持ち主の夫婦も、盗まれた宝石なんかさっさと諦めて、別の指輪を作って今頃は幸せに暮らしてるだろうな…)
そう考えると、あのダイヤモンドでダリアとの結婚指輪を作ろうと言う考えに至ったのだった。
■■■03-「私と宝石、どちらが大切…?」
土曜日の午後。
ダリアが市場に買い物へ出かけて行ってしまうと、クレセントは部屋の隅に向かった。ダクト穴のフタを開けると、中から黒い小袋を取り出した。怪盗をしていた時から貴重品を隠す癖が未だ抜けてない。もっとも、ダリアに宝石を見られたくないのが1番の理由だった。生活で手一杯なはずなのに、もしこんな宝石をクレセントが持っているのを見たら、盗んだと誤解されてしまうだろう。
そのダイヤを懐(ふところ)にしまうとクレセントは出かけた。アパートを出てレンガを敷き詰めた通りを歩いて行き、一軒の店にやって来た。小さな宝石店で貴金属細工の職人が営む店だった。しかし土曜は休みで店は閉まっていた。仕方なく諦め、月曜にまた来ようと思い、店を後にした。
用事が済んでないので少し間が出来た。クレセントは帰り道に、通りから一本奥に入った所にある一軒の屋敷に向かった。樹木が敷地に沿って植えられ、木製の仕切り壁が道端に沿って向こうまで続いている。中庭もかなり広いだろう。屋敷は2階建てで広い屋根と寝室が幾つも在りそうな大きな建物だった。そこはこの町にあるギャラリーだった。高額な入場料を取られるので、まだ中に入ったことはないが…名のある巨匠の絵画を数多く所有しており、コレクションはかなり充実してる様だ。
自分の作品も、いつかあのコレクションの中に入れたら…などと考えながら彼が道ばたを歩いていると、何やら猫の鳴き声が…見ると敷地の樹木の上で子猫が鳴いている。
「まあ、どうしましょう…いい子だから降りて来てちょうだい」
飼い主らしい、品の良い雰囲気の女性が上を見上げながら困っていた。どうやら子猫が登った木が思ったより高く、怖くて降りられないらしい。
「あの…良ければお手伝いしましょうか?」
クレセントは女性に声をかけた。
「まあ…どなたか存じませんが、子猫を降ろしていただけますか?」
するとクレセントは木製の仕切り板に近づくと軽々と上に乗り、そこから木に移ると、あっという間に子猫の元まで辿り着いた。子猫は怖がって鳴いてたがクレセントが胸に抱えると大人しくなり、そのまま地上に降りてきた。子猫をそっと女性に渡す。
「まあ、ありがとうございました。あなたのその身のこなし素晴らしいわね。ひょっとして…鳶(とび)職人の方?
「いいえ、しがない駆け出しの画家です」
「まあそうなの。あら大変…手が擦れて怪我をなさってるわ。手当てしなくては」
クレセントは大した怪我じゃないと断ったが女性がお礼にお茶もご馳走したいと言ってくれたので、お言葉に甘えて屋敷に入れさせてもらった。
*
広々とした玄関のポーチを通り、屋敷のホールから奥の客間へ進む。女性は子猫をソファーに預けると救急箱を持って来て手当てしてくれた。クレセントは昔…真夜中の地下室でダリアが手当てしてくれた事を思い出していた…
(少しお嬢さんと似てるな…彼女がもう少し年上になったらこんな感じだろうな…)
それから2人でお茶を飲み、話題はクレセントの絵の話になった。
「まあ、では今度ぜひあなたを絵を拝見させて下さい」
「ゼラ」と名乗った女性は、このギャラリー館長で画商でもあると言う。クレセントは今度、絵を見せると約束しアパートの住所を教えて帰った。
*
アパートに帰るとダリアが先に帰宅していた。
「帰りなさい、遅かったけど…急に仕事にでもなったの?」
「まあ、そんな所かな。聞いてくれよ!今日、ギャラリーの前へ行ったんだけど偶然、館長に会ってさー、今度、僕の絵を見てくれるって!」
「え、ギャラリーって…通りの奥の、あの大きな屋敷の事…?」
「そうさ、上手く行けば僕の画家の記念すべきデビューになるかもしれないぞ。多くの人の目にとまる様になれば絵も売れて、そうすれば君の事をもっと楽させてあげられるし!」
「はいはい、期待せずに待ってるわ~」
ダリアの前で上着を脱いだ時、あの黒い小袋が床に落ちた。クレセントは気が付かず、ダリアは気付いて拾い上げた。彼女が袋を開けて中身を見るのと、落とした事に気付いたクレセントが(あ…!!)と声を上げたのは、ほぼ同時だった。
「何これ…どう言う事…!?」
「違うんだ…それは…!!」
2人の間に沈黙があった…
クレセントは、部屋の空気が一気に険悪になって行くのを感じた……
*
次の日の朝。起きるとダリアはもうアパートには、いなかった。昨日の夜は結局、一言も口を利いてもらえなかった。どんなに話しかけても駄目で…「あの宝石は、まだ怪盗だった頃の…もので…」(ここで言葉を濁したのが、まずかったかもしれない。ダリアに「やっぱり盗んだ物じゃない!」と、ぴしゃりと言われた…)
取りあえず今日は日曜だ。きっとお嬢さんは先に集会所に行ったのだろう…クレセントはシャワーを浴び、髭を剃り、支度をしてアパートを出た。
ダリアは集会所にいた。しかし彼女はいつもの長椅子席側ではなく、先生の隣で灰色の尼さん服を着て座っていたのだ。お祈りの時間が終わるとクレセントはダリアに駆け寄った。
「一体、何をしてるんだい!君の職業はシスターじゃなくて音楽教師だろう?」思わずダリアの両肩に触れるが、ダリアはそっと顔をそらした。
「…私は神様に赦しを乞うことにしたのです。私の夫が「昔の悪業」に再び手を染めてしまったから…あなたにとって、私と宝石と、どちらが大切だったのか、私は今更、気づいたから」
クレセントは顔から血の気が引いた…ダリアは「告解」してしまったのだ。自分が昔、怪盗で数え切れないくらいの盗みを働いた事も…ダリアが望んだとはいえ、婚約者だった男から彼女を奪ったことも…その彼女を娶(めと)った事も…
傍(かたわ)らに先生が来た。どんな顔をしているのだろうか…?そっと顔色を伺う。クレセントを睨むでもなく、咎めるでもなく、軽蔑でもなく…ただ、ただ、憐れみの眼差しを向けられた。
(やめてくれ…そんな目で僕を見るな…!)
クレセントは先生から顔を背けた。
…それから2時間、告解室でクレセントはダリアに、あのダイヤの事を説明しアパートに戻って来る様に説得したが聞き入れてもらえなかった。仕方なく1度お互いの距離を置こうと帰って行った。
アパートに帰ると、お昼近くだった。昨日ダリアが買ったサンドイッチの材料がそのまま残っていた。その具材をパンに挟み1人で頬張る…レタスもベーコンも新鮮だったのに少しも美味しいとは思わなかった……
■■■04-怪盗、ハートを盗まれる…?
月曜になった。仕事は、夕方からだから、それまで間があった。
(※一応、読者様に補足しておくと…クレセントは現在、怪盗ではなく真面目に普通の仕事をしてます。ただ、今回の小説の話と彼の仕事の話は接点も関係もないので具体的な描写は省略してます。彼も生活して行かなければならないのです…)
土曜は休みだった宝石店は、もはや行く気になれず、かと言って絵を描こうかと筆を持って見ても、ダリアが家出した事がショックでそんな気持ちすら当分、起きそうになかった。取りあえず起きて、シャワーを浴びて、髭を剃って、居間の椅子に座って、ぼんやりしていた。こんなに孤独なのは何ヶ月振りだろうか。ダリアがいた頃は、毎日が活き活きしていた。描きたくもない富裕層達からの絵の注文を描いてた頃だって、今の、この状況と比べたらはるかにマシだった。空間の中の輝きは失われてしまった。真に絵を描いていたのは自分じゃない。灰色の生活に色彩と輝きを与えてくれていたのはダリアだったのだ…クレセントは改めて気づかされたのだった…。
ふと、アパートの部屋のドアをノックする音が聞こえた。最初、隣の部屋かと思ったがクレセントの部屋をノックしていた。ドアを開けた。
土曜に会ったゼラ館長が立っていた。
*
「突然でご迷惑だったかしら?近くを通ったもので、お声掛けさせて頂きましたの」
「いえ、どうぞ。狭いですが」
玄関とキッチンの間には段差が有り、クレセントは注意を促した。ここに引っ越してきたばかりの頃、ダリアは、よくつまずきそうになり、その度にクレセントが抱き止める、という事が何度もあった。(このアパート設計者は「わざと」そう言う造りにしたのではないか…と思ったほどだ)
キッチンのテーブルに向かい合って座った。
「先週、絵を見せて頂けるとお聞きしてから私、気になってしまって、早く見てみたくて本当はお伺いしましたの」
「そうですか。では今よろしいですか?僕は駆け出しですし点数は多くないです」
「ええ、是非!」
クレセントは部屋の隅に立て掛けた絵を何枚か持ってきて見せた。その時ゼラは、ハッとした様だったが絵を見てそう思ったのかクレセントには分からなかった。
「これで全部です」
「あの絵は?」
ゼラは1枚だけ裏返したままの絵を指差した。
「申し訳ありません、あの絵は特別で…手放す事は出来ないんです」
「見るだけと約束するわ。見せて下さらない?」
「ええ、それなら良いですよ」
彼が持って来たのは裸婦の絵だった。
題名は…『まどろむ裸婦』
モデルはダリアで、このアパートに引っ越して、最初に描いた絵だった。ダリアが自分の事を婚約者の元から「盗んで」見せた時は、一糸まとわぬ姿でモデルになる、と約束していた。クレセントは自分からはその事は言い出さなかったが、ある日、ダリアが「あの時の約束を守りたい」とモデルを申し出てくれたのだった。「でも…あなたは写実が得意だから、決してこの絵だけは、売ったり、譲ったりしないと約束して頂戴ね」そう言うとダリアは服を脱いだのだった…
「まあ素敵…!ひょっとして奥様…?」
「ええ、そうです」
「あの、奥様は…?」
「………」
「…ごめんなさい。私ってば、辛い事を…!」
「いえっ違います、彼女は生きてます!ちょっと色々あって…今ここには、いないんです」
「そうなの、ありがとう。そんな大変な時に私のわがままを聞いて下さって。あなたの絵はかなり見所があると私は感じました。1度私のギャラリーで展示会を開いてみませんか?」
思ってもなかった申し出にクレセントは喜んだ。
「はい、是非お願い致します!」
ゼラが帰ろうとした時だった。クレセントは、嬉しさで気が緩んでいたのか、ゼラに床の段差に注意するよう促さなかった。慣れない他人の家でゼラはバランスを崩し、倒れそうになる瞬間、クレセントは思わず抱き留めた!
ゼラの唇がクレセントの顔をかすめ…
丁度その時、突然、玄関のドアが開いた。
ドアの外にはダリアが立っていた。
ダリアは、玄関で抱き合ったクレセントとゼラを見下ろしていた…
…クレセントは、思った。
(神様、これは…散々、盗みを働いた
僕への罰なのですか…?
何で、よりによって、
今、このタイミング
今、この瞬間に
1番、見られたくない場面を
1番、愛する人に
見られなければ
ならないのでしょうか…?)
…
■■■05-もしかして浮気!?
ゼラは、ゆっくり立ち上がった。
「大変、お恥ずかしい所をお見せしました。では、近い内に展示についての打ち合わせに来ますので」
そう言うと、まるでなにも無かったかのように上品な足取りで帰って行ったのだった。
クレセントとダリアは、玄関先でたたずんでいた。
「お帰り、入りなよ…」やっとクレセントから声をかけた。
「……」ダリアは無表情だった。
2人はアパートに入った。
*
クレセントはダリアが段差で、つまづきそうにならないだろうかと期待したが、彼女は段差に、まるで地縛霊でも居るかのように、サッとまたいで通過してしまった。
「あ、あのさ…ありがとう、戻ってきてくれ…」
しかし次の瞬間、ダリアは振り抜くとクレセントを思い切り突き飛ばした!動きを予測した彼は倒れないよう寸前で踏み留まる!
「危ないじゃないか、いきなり何する!」
ダリアは目に涙をためて叫んだ!
「信じてたのに!ひどいわ!!わたし、先生の奥様に説得されて、頭を冷やして、あなたが赦してくれるように祈りながら、やっとの思いでここに来たのよ!それなのに…あんまりだわ!」
一体何が…と言いかけてクレセントは気づいた。ダリアは自分とゼラの間柄を完全に誤解してるのだ。
「違うよ、あの人には先週、絵を見せる約束をしてたんだ。土曜日に話しただろ?あの人が画商なんだよ。あーそうだ、良い知らせがもう1つ。僕の絵の展示会を検討してくれるって!」
「ふーん、一体どんな手段を使ったのかしらね?あなたは騙(だま)しの天才だもの。女性を手玉に取るぐらい訳ないでしょうから。甘い言葉でもささやいたのかしら?私にそうした様に…!」
「何言ってんだよ、そんなわけ…」
「…してたでしょ…!」
「え、何を?」
「私に言わせるの?イヤらしい!してたでしょ!
…キス…!」
クレセントは、いよいよこれはダリアが告解をした事で神様が自分に与えた天罰の様に感じた。あの時、ゼラの唇(くちびるは頬(ほお)をかすめただけだったのに。立ち姿勢のダリアから見たら、まるで熱烈な口付けをしてる様に見えただろう。
「だから誤解だって。僕はさ、君がこの2日間いなくなって気づいたんだよ。この部屋で真に絵を描いてたのが誰だったのか。それは僕じゃなくて君だったのさ。このアパートに輝きと潤いを与えてくれてたのは君だったんだ。その君が戻って来てくれて、本当に僕は心から嬉しいんだ!
君を…君の事を…愛してるから…!!」
ダリアを素早く抱き寄せ、唇を重ねようとした時だった。
パァン!
突然、クラッカーが弾けた様な音が響いた!
■■■06-平手打《ひらてう》ち!
…彼は昔、遠くの町で有名な怪盗だった。
今まで彼はどんな警備だろうと、どんな罠だろうと潜り抜けて見せた。「特殊な視力」を持つ彼にとって、あんな物はどれも暇つぶしの遊具でしかなかった。
でも、それだけは避けようがなかった。
いくら視力が優れていようとも、そんな事は「起こるはずがない」と彼は思い込んでいたのだから。
でもそれは起きてしまった。
避けようがなかった。
当然だ。それは突然の予想しない出来事だったのだから。
ダリアの手のひらが
クレセントの頬を
思いっきり打った!
……