- Trinity Blood -4章
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ここが夢の中である事が分かる。
暗くて、ただただ静かだ。
ただ、夢の中でも風景が見える事が殆ど無い事が残念である。
今もそうだ。
何故夢の中でさえも視界は閉ざされているんだろうと、納得がいかなくて。
記憶にある世界が見える日の方が少ない。
養父の顔だって覚えていないのだから、本当はどこの誰なんだろうかと考える事があるし、それに自分が一体どこからきて、何を見て来たのだろうかと思いを巡らせる事は多い。
踵を鳴らそうにも、足が地についている感覚は無い。
腕に付いた装飾である小さな十字架を鳴らしても距離が測れない。
小さくため息をついた。
と――
誰かに呼ばれた気がして振り向く。
相手は見えない。
ただ、誰も見えないのに確かに誰かが居る。
「レオンさんにまだ言ってないんですね?」
聞き覚えが、ある様な声が問い掛けてくる。
それとも誰かと、会話しているのだろうか。
それにしては相手の声は全く聞こえない。
ということは自分に語り掛けている、という事なのだろうか。
耳を澄ましていると「このまま調査と平行して例の企業と彼等の会談を待つとなると、かなりの時間レオンさんといる事になります」と、どこか聞き覚えの有る声がそう言っている。
「早く…言ってしまった方が良いのでは?」
自分に言われた言葉なのか、それとも誰かの会話を盗み聞いていたのか、あるいは――
その時突然聞こえてきた言葉は、掠れて小さく、ただ何故かはっきりと耳には届く男性の様な――いや少年の様な声が「必要ありません」と短く聞こえてきて。
ただその声もどこか聞き覚えがある様な気がして[#da=3#]は眉を顰めた。
その瞬間。
「!」
まるで呼吸を求めて水面から飛び出した生物の様に、酸素を求めて大きく息を吸った。
突然入ってきた呼吸に咽込む様に何度か咳をして、慌てた様子で酸素を求めて短い間隔で呼吸を繰り返す。
瞬間的に飛び込んできた言葉が、処理できない。
何故か頭の奥が痛い様な変な感覚に囚われながら、短い呼吸を繰り返す。
夢の中で何があったのかはもう分からないが、ただその場にいる事がとても怖く感じていた。
記憶から強引に追い出された?
両腕に力が籠る。
抱き締めたものはふわふわとしているのに、その先は丸い様な硬くて温かい――
「いてて」
声と同時に腕が離れ、心地の良かった拘束から解放された。
別に痛い訳ではなく、ただ声を掛けるきっかけが欲しかっただけだ。
すっかり寝入ってしまっていた為、何があったのかは分からない。
自分の欲が勝った結果だろうか。
またやってしまったのかと内心ひやりとしたが、そうではなさそうだ。
様子が違う。
「怖い夢でも見たのか?」
言葉を掛けながら慎重に抱き起こしてやるが、レオンの腕の中で震える少女は、余裕が無いのか返事をしない。
額が胸へ当たったのが分かる。
ただこの瞬間も彼女は呼吸を整えようとするばかり。
白髪の少女の髪を撫でてやりながら――
自分にはこんな事しかできないのかと内心嘆いていた。
少年として生活していた過去の子供は、すっかり――身長は兎も角年齢を重ねて、不本意な形ではあったが女性としての生活を取り戻している。
能力の消失が合図だったかの様に髪は白く染まり、日を重ねる内に記憶を手放していき、最後に瞳が光を失ったと聞いた。
ただ、[#da=3#]には一番に失ったのは「視力」だと伝えているそうだ。
心臓の音が少しずつだが落ち着いていくのを感じながら、レオンは髪を撫でる手を止めずにいた。
呼吸を整えているらしい小さな身体も次第に落ち着いていく。
「ガルシア、神父…」
レオンとは呼ばなかった。
名前で呼ばなけば罰ゲームという約束を交わしていたが、余裕が無い様子だから今回は見逃してやろう。
それに今はそんな状況ではなさそうだ。
こうやって改まって呼び掛ける訳だから、少し前に記憶について聞いてきた事と関連があるかも知れない。
あまり嘘はつきたくないとレオンは思っている。
少年は、いや[#da=1#]はとても頭が切れる神父だった。
大人顔負けの知識を持った同僚だったが、ただレオンの方が一枚上手であろう。
けれどもうどんな質問が投げかけられたとしても、[#da=1#]と同一人物である事を勘付かれてはいけない。
緊張しつつ「どうした?」と問い掛ける。
色素の抜けた硝子玉の様に透き通った瞳がこちらへと向いた。
「わたし、…誰だったの?」
顔を上げた少女の瞳はこちらを確かに向いていたが、その瞳はどう足掻いても目の前のレオンを映す事はない。
髪を撫でていたレオンの手が止まる。
「お前――?」
知って欲しくない。
いや、違う。
いつかは質問されるだろう事はきっと、どこかで分かっていた。
表情の感じでは記憶が戻っている様子はない。
――だとしたらどうして?
少女の疑問にどう応えるべきか。
何度も考えて来た。
戻る事は無いだろうと聞いている記憶に、触れる瞬間があるという事なのだろうか。
もしかしたら俺を通して記憶が流れ込んでいる?
こうやって鼓動を聞きながら眠る事で以前の記憶を掘り起こしてしまうという事なのだろうか?
いやそんな事普通に考えて、ある訳がない。
軽く頭を左右に振る。
「お前が知りたい事は、お前を傷付ける事だ」
奥歯を噛み「答えたくない」と小さな声で続ける。
「――…レオン?」
胸に触れた指先は体温が低い。
レオンにとっては慣れた体温ではあるが、その体温の低さは愛おしく、少し切なく感じた。
困惑した少女の表情を読み取るのは容易い。
不安な表情がこちらを覗き込んでいるがその瞳がレオンを映す事はない。
――私の記憶が自分自身を傷付けるという事?
どう声を掛けてやればいいのか悩むレオンの脳裏では、彼女がかつて神父として生活していた事を話してしまっても良いのではという気持ちと、知る事で混乱を招いてしまうのではという複雑な本音との、葛藤が繰り広げられている。
[#da=3#]が求めているのは自分の正体を知る事だとは十分理解しているがそれを知る事で、無理矢理閉じ込めた記憶をこじ開けてしまう事になってしまわないだろうか。
果たして真実を知る事に何の利点があるというのだろうか。
そうなると正直に話をする事は止めておいた方が良いと、思い至る。
揺らぎかけた心を否定してゆっくりと[#da=3#]を抱き締めた。
別人格でいなければいけない理由は既にある。
嘘を教える訳にはいかないが、一部は偽っても赦される。
ロクでもない神様よ、今この瞬間だけ俺の嘘を許してくれ。
「…お前には知る権利があるからな」
低い声でそう言った。
「俺は知る範囲で、答える義務がある」
小さな身体を両腕で抱え上げると、ベッドを離れた。
ソファへ向かう僅かな距離で「少し前に言ったが、俺は過去にお前を傷付けてる」と、告げて。
記憶が戻る事はないと言っていたが、記憶が浮き沈みする事で不安定になり、それが生活の妨げになる事が怖い。
記憶を閉じ込める事で傷を塞いだ[#da=3#]に、何をどう話し、今迄歩んできた生活を伝えてやる事が最善なのだろうか。
ソファに[#da=3#]を降ろしてから彼女を残して、コーヒーを淹れに奥へ進んでいく。
コーヒー淹れるその間に、記憶についてどの程度話をするか思案しているだなんていう事はきっと彼女は何となく察しているのだろうと、ため息をついた。
一方で漂ってきたコーヒーの香りに、少女は一度大きく息を吸い込んでから瞳を閉じた。
膝を片方上げ、それごと自分を抱える。
小さな身体がより小さくなって。
強く閉じた瞳の中には何も浮かばない。
ただ何かが形作られている。
ぼんやりとしたものは、何だろう。
触れないし見れないし、見えない。
どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
知りたいけれど、どこかで知らない方が良いと思っている自分もそこにいる。
もしかしてこのぼんやりした何かは『見ないで』と言っている過去の自分なのではないだろうか。
知る事は勿論怖い。
それに知った所で何を取り戻せるというのだろうか。
過去の自分を取り戻したい訳ではないと言えば噓にはなるが、レオンの言葉を聞く限り、聞かない方が良い内容なのだろうかと不安で仕方がない。
やっぱり聞かないという選択肢もあるが、今聞かないと後悔はもっと重なる様な気もして。
自問自答を続ける中、コーヒーの香りが近付いて来る。
テーブルにカップを置いたレオンが傍に座った。
「お前は大きな事件に巻き込まれて以降体温が苦手だ。俺はその時ローマに居なかったから詳細は知らねえんだけどな。――体温が苦手っていうのは身に覚えがあるだろ?」
頷く[#da=3#]を見届けてから「それを克服してやりたくて、俺は訓練を提案した」と静かに続ける。
事件とは、兄であった[#da=1#]が幾人かの吸血鬼と共に幼い子供だった[#da=1#]の一家を含め、一つの街が壊滅したあの夜の事だった。
詳細を告げると知ってしまう、記憶を掘り起こしてしまうのではと不安に思ってしまい『事件』と濁らせるに留まった。
[#da=3#]にとって何が記憶の鍵をこじ開けるきっかけになるかは分からないから、どちらかというとあまり積極的に過去の話をしたいと思っていない。
「訓練…?」
オウム返しで聞いてくる少女に短く「そうだ」と告げる。
「体温に慣れる訓練をな――」
そう。
私生活にも任務にも『体温』は人と触れ合う限り、必ずついて回るものだ。
純粋に彼女に、いやあの頃の少年には誰かと手を繋ぐ事、寄り添う事、それから――素肌を合わせる事ができる事を一心に願っていた筈なのに。
訓練を提案したのはレオンだったが、訓練を受ける事は強制しなかった。
幼い少年は訓練を受ける事を決断し、2人は同僚達には内緒でこの訓練を実行に移す事に決めた。
最初の頃は暴れて逃げ出さない様にと、[#da=1#]の手首を持って眠っていた。
取り乱して眠れずに何度朝を迎えた事か覚えていない。
度々起こしていた発作で暴れる事を危惧し、以前任務の時に’教授’が渡してくれた、特別に調合した薬を注射する事もあった。
また、夜に何事もなく終わったとしても、次の日にシャワールームで倒れている事もあった。
そういったトラブルの頻度も徐々に減り、自分で持つ場所を決めて眠る事が出来る様になっていった。
指先を握った少年の少しひんやりした指先が心地よかった事を思い出す。
ただ、回数を重ねるごとにレオン自身に問題が起こった。
幼い少年は同僚の神父だったが、彼は唯一性別を神に背いており、女性である事をひた隠しにしていたのだ。
外見や仕草を偽っても隠せない、女性の香りに魅入られていく同僚は会う度に募らせていく愛しさに気が付いてしまい、自身が抑えきれなくなっていった事でこの訓練は大きな問題を引き起こしてしまったのだ。
一方的に募らせた感情で無理矢理に抱いた事は、先日隠さずに伝えたところだ。
これ以上傷をえぐる様な行為をしてもいいものだろうか。
軽く頭を振ってから、一旦思考を切った。
自分があの時手を出さなければ今の[#da=1#]の未来は少し変わっていたのかも知れない――いやきっと未だ、同僚として隣を歩いてくれていたと思う。
傷を負った心を、記憶を手放す事で蓋をしたらしい彼女は、再会した時には視力もすっかり失ってしまていた。
挙げ句の果てに暴漢に乱暴される事になるなんて。
今思い出しても悔しくて拳を握りしめる。
勿論このトラブルを引き起こす一端を担っていたのが自分である事は間違いない。
同僚として接していた筈なのに、本能に勝てなかった事が原因なのだから。
体温が苦手なのは過去の事件がきっかけである事は事実ではあるが、詳細は知らないと言うしか術がない。
ここが有耶無耶になってしまうのは危惧されてはいたが…ともあれやるべき事は[#da=3#]が知りたい「過去の自分」を、彼女が混乱を起こさない程度で開示する必要が今この瞬間に起こっているという事。
そう。
訓練を積んで体温が苦手な過去の自分が、これを克服しようとしていた事実を知るのは、これからの彼女を形作るうえで非常に重要である。
体温が苦手である過去を克服し成長したいと願った気持ちが、あったと伝えなければいけないが、果たしてどうするべきだろう。
分からない事は一つ解決した。
詳細は知らないとレオンは言ったが、体温が苦手なのは記憶を失くす前からだという事。
けれど新たに出た『事件』の謎は解けそうにない。
過去の自分はちゃんと『事件』の事を知っていたのだと、少し残念に思ってしまう。
今の自分は、事件に巻き込まれた事など全く記憶にないのだ。
勿論『事件』という謎は、詳細は知らないとはぐらかされた事で解明されなさそうだが、ただそこが自分のターニングポイントで、そこから養女として既に生活していたらしい事が分かっただけでも大きく違う。
「事件で家族を失ったお前が天涯孤独だと知って、娘が欲しかったアーチハイド伯爵の奥方がお前を『養女にしたい』と言い出したらしくてな――事件の詳細は知らねえが、行く当てが無かったお前はそれを受け入れて養女になったっていうのは、あの時は…お前から聞いたんだったな」
今こうやって語られている『過去』が作話だったとしても、何故かまるっきり嘘を言っている様には聞こえない。
事件に巻き込まれ、天涯孤独――という事は恐らく一族殺害。
少女はアーチハイド伯爵公の奥方に気に入られ、養子となったという事なのだろうか。
この言葉を信じる事が正しいかどうかは最早分からない。
目の前で、過去について説明してくれるレオンの表情を確認して嘘を言っているか観察する事も出来ないのだから。
ゆっくりとした口調で、言い聞かせる様に語るレオン。
だとしたら首を絞められ薄れ掛けていた意識の中で聞いた「[#da=2#]子爵の娘」という言葉の意味は一体何だったのだろうか。
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