このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

Dear you…

警察官になりたいと思ったのは高校生の時だった。かっこいい警察のお兄さんに守ってもらったからだとか、親が警察関係者だったからだとか、そういった理由は一切ない。人より多めの体力と、悪くない効率のよさを活かすことができて、それでいて高賃金等条件をつけて探せば浮き出てきたのが警察官だっただけだ。勉強もそこそこできた俺は、さっさと警察学校に入学を果たし、特に苦労もなくすいすいとそれなりの順位で学年を上げて行くことに成功した。警察という危険な仕事に母親は最後までいい顔をしなかったが、良成績の通知書を渡せば「頑張っているみたいだからやりたいところまでやりなさい」と半ば諦めたように笑ってくれた。親が応援してくれたからには決して悪い結果を残すわけにはいかないと文武両道で努力した結果、学校での最終成績は実技筆記共に1位というバケモノのような結果だった。ちなみに実技に関しては、あまりに強すぎて同級生から付けられた渾名が「ゴリラ」だった。誠に遺憾であったので、ドラミング替わりにそいつの顔面をグーパンすれば授業態度の成績から20点ほど引かれた。おかげで総合順位は2位だった。解せぬ。
そして俺は、昨年の春、晴れて警察官になれたわけだ。ちなみに、警察学校での成績が多大に影響して所属は警視庁公安部。新卒にしてはなかなかの配属であったので、普通に満足だ。これは余談だが、予想していた通り給料もかなり高かった。初任給のゼロの多さに目ん玉が飛び出そうになった。とりあえず1/4程を親に送り、残りは貯金することにしている。いつかいい感じの車を買おうと思っているからだ。スポーツカーと乗用車で迷ってはいるが、男のロマンとしてスポーツカーにかなり心が傾いているのは秘密である。
さて、そんな感じで人生ほぼイージーモードで進めてきた俺だが、別に就職してから手を抜いてきた訳では無い。社会で求められるのは効率の良さ、リーダーシップ、そして周りからの信頼の厚さ。当然のように昇格を貪欲に目指していたため、徹底的に勉強してそれらを身につけた。おかげで同僚からは「シルバーバック」というあだ名を付けられた。誰がゴリラの群れのリーダーだと?ちなみに名付け親は学生時代顔面ドラミングしたあいつであったので、今度は回し蹴りをお見舞いしてやった。
話が逸れてしまったが、つまり俺はそれなりの努力をして、とうとう上司に昇格確定枠と太鼓判を押されるまでになったのだ。1年目にして昇格の話が出るなんて、我ながらかなり頑張ったとしか言えない。ちゃんと昇格が決まったらご褒美に車を買おう。
そして、今日。いつも通り仕事をばりばりと片付けていると、後ろから頭をこつんとつつかれた。振り返ると、めがねがチャームポイントな先輩、風見先輩がコーヒーの缶を片手に緩く笑っていた。
「頑張ってるみたいだから、差し入れだ」
風見先輩は、俺が新人の頃からずっと面倒を見てくれている先輩である。三白眼にめがね、そしてキリッとした眉毛が特徴だ。強面気味な上に仕事にストイックな性格なので、怖い人だと誤解されがちだが、実は優しくてその上仕事もできるかっこいい先輩なのだ。
「そろそろ休憩したらどうだ」
「ありがとうございます。もう30分ほどすればひと段落するので、これが終わった後に少し休憩いただきます」
「もしかしてさっき頼んだやつか?相変わらず早いな」
缶コーヒーを俺のデスクに置きながら、感服したというように風見先輩は目を瞬かせた。褒められて素直に嬉しかったので、ふにゃりと笑ってみせると先輩も笑い返してくれた。そうして風見先輩からのコーヒーというご褒美を手に入れた俺は、また背筋を伸ばしてPCに向かおうとしたが、先輩が焦ったように再度肩をとんとん叩いた。
「ああ、すまん、違うんだ。実はお前に上から呼び出しがあってな。その件を伝えようと思って話しかけたんだ」
はっ、と身体が揺れてしまった。もしかして、もしかするのだろうか。そろそろかとは思っていたが、成程。こういう時は直接ではなく風見先輩を通して話が来るのか。あまりに動揺していると恥ずかしいので、何でもないように取り繕ってきょとんとあどけなく首を傾げてみせる。
「上から…。分かりました。待ち合わせの場所や時間はありますか?」
「15:00に第三応接室だ。無いとは思うが、くれぐれも失礼のないようにな」
「了解です」
風見先輩から再三釘差しがあるということは、その上司自ら話をしに来ると言うことか。スーツ、もう少し高いやつ着てこればよかった。ネクタイもシャツもスーツも、普段使い用のものだ。まあ、とんでもない柄とかではないので大丈夫だろう。それよりも、15:00となると午後の事務処理は期待しない方が良さそうだ。今のうちに期限が明日までの事務を終わらせなければ。
ぐるぐると考えていると風見先輩が、「じゃあ、頑張れよ」と俺の肩をぽんぽん叩いてデスクを離れていった。はい、としっかり返事をして今度こそPCに向き直る。色々考えるより、今は今やるべきことに専念しよう。

時間というものは早いもので、腕にはめてある腕時計の針は14:55を指していた。目の前にある大きな木製の扉のてっぺんには、わかりやすく「第三応接室」と記してある。例の風見先輩が言っていた待ち合わせ場所だ。目を落とすと磨かれた革靴。ok。スーツのズボン、ジャケット、シワなし。ok。ネクタイは曲がっていない。ok。髪型もトイレで確認してきた。特に寝癖なし。ok。小さく深呼吸すれば、いつもより早く鼓動を打つ心臓が少し収まった気がした。スマートに、動揺を出さないように、それでいて偉そうな態度にならないように。よし、俺ならできる。なんたって俺なのだから。
手を伸ばして、扉をコンコンと2度ノックした。なんだか面接を思い出す。あの時もちょっとだけ緊張してたな。懐かしい。
「入れ」
中から聞こえてきたのは、思ったより若い男の声だった。失礼します、と応えて扉を開くと、中にいた人物は俺の様々な予想を良くも悪くも裏切る人物だった。
まず目に付くのは窓の光を受けて輝く金髪。そして、相対的な褐色の肌。前髪のあいだからこちらを隙無く観察するのは甘く垂れた空色の瞳だ。そしてグレースーツに包まれた身体は、線が細く見えつつもしっかりとついた筋肉を思わせる。そして何より特筆すべきは、そのオーラだった。ぴりりとピアノ線を引き伸ばしたような緊張感。その人がそこにいるだけで、自分の背筋が自然と伸びるような気がした。
予想だにしなかった圧に一瞬怯みそうになるも、ゆっくり息を吸って呼吸を整え、極めて冷静に敷居をまたぐ。負けん気が強いのは昔からだ。
「失礼します」
後ろ手に扉を閉めて、相手の目の前まで歩を進めた。背筋をぴっと伸ばして踵を揃え、相手の目をしっかり見ながら告げる。
「警視庁公安部、四ッ谷 嵩です。お話があるとの事で、お伺いしました」
「ああ。ご苦労だった。俺は降谷零だ」
そう述べると、降谷さんは腕組みしていた(これがまた威圧感を増幅させていた)手を解き、右手を差し出した。握手を求められているということは、それなりに第一印象はよかったということか。俺の姿勢は正解だったようだ。幾分か緊張を解きながら自らも右手を差し出す。がしりと力強く握手を交わせば、ベビーフェイスに似合わずかなり使い込まれた手のひらを感じ、すぐに気がつく。これは、人間を守る手だ。人を守り、傷つき、努力し、乗り越えてきた手だ。この人のことは全く知らないが、それだけで尊敬の念を抱いた。
「さて、四ッ谷。早急で悪いが、話を進めさせてもらう。いいな」
「はい。お願いします」
手を離し、今一度姿勢を正す。
「お前には、昇格の話を持ってきた。本日付けでお前は、警視庁から警察庁に異動してもらうことになる」
ばくん、と心臓が脈を打った。警察庁。内閣総理大臣の下に置かれる国家公安委員会の「特別機関」。警視庁が首都を守る機関であるなら、警察庁はこの国「日本」を守る組織であった。
血液が勢いよく身体を巡る音が聞こえる。興奮を悟られぬ様、息を吸って吐いて、尋ねる。
「身に余る光栄です。部署の配属は決まっていますか」
「ああ。警備局警備企画課だ」
警備企画課…?自分に何か情報分析能力に特筆した技術があったのだろうか。全体的に満遍なく極めた記憶しか無いので、一瞬考え込んでしまった。パソコンに関して飛び出た成績を残した訳では無かったから、サイバー攻撃分析センターではないだろう。同じく画像情報分析室も可能性は低い。となると、警備総合研究室か総合情報分析室…?どちらにせよ、サイバー系の勉強をもう一度しておいた方がよさそうだった。
じっと考え込んでいると、俺を観察していたらしい降谷さんが小さく笑い声を漏らした。
「よく回る頭だな」
「…すみません」
「いや、常に情報を取り込み分析して仮説を立てるその姿勢は歓迎に値する。そういう姿を見ていると、お前に目を付けてよかったと思うよ」
え、と怯んでしまった。この人は、俺に目を付けていたと言ったのか?一体この人は何者なんだ。確かに俺は飛び抜けていい成績を残した記憶はある。しかしそれよりも、気になった人材を選出し、ましてや自分の元に付けるなんていう権限をもつこの降谷零という人物が全く読めなかった。
俺の動揺をよそに、降谷さんは表情を引き締めて続けた。
「四ッ谷 嵩。本日より、お前に警察庁警備局警備企画課、ゼロへの移動を命じる。この国と国民の為、その身を削る覚悟を決めてくれ」
窓の光が広がった気がした。目の前が光のヴェールで輝く。堂々と立つ上司の瞳には、強い正義と決意の光が煌めいていた。
ああ、こういうことかと思った。この人の背には、国と国民が乗っているのだ。責任と使命が、この人をこの人たらしめているのだ。俺のような未熟者が、この人に選ばれた事への達成感が身体を満たした。応えてみせよう。必ず、届いて見せよう。そうして、この人の荷物を半分でも肩代わりしようと、心からそう思った。
「はい」
するりと口から出たのは、肯定の言葉だった。
「本日より、私、四ッ谷 輝は、この身、この心、全てを国のために捧げることを誓いましょう」
この決意が伝わればと願いながら、そう唱えれば、降谷さんはまたにっこりと笑った。それは、太陽に向かって真っ直ぐ花開く夏のひまわりのような屈託ない笑顔だった。

そこからの話は早かった。降谷さんは、上機嫌な様子で近くの引き出しを漁り、書類を数枚取り出してきた。ここにサインを記して判子を押せとのことだ。ざっと目を通せば、守秘義務のことや、その他業務内容の詳細、必要技術とその必要性への承認等が主な内容だった。俺の仕事はデスクワークから実働まで幅広く与えられるようだ。要はなんでもオールマイティにできなければいけないわけだが、これは本当に新人に任せていい内容なのだろうか。いささか重すぎやしないか。その意を込めて、ペンを止め視線を寄越せば、「やれるだろ?」と当然のように丸め込まれた。ええ、降谷様のお心のままにやらせていただきますとも。俺ですから。出来ないことはないです。最後にぽんぽんと四ッ谷の判子を押す。ちなみに四ッ谷姓は都会ではそこそこ珍しく、はんこ屋さんに行っても既製品じゃなかなか見つからない。どっちにしろ就職が決まった時にオーダーメイドのシャチハタと実印を注文しようと思っていたので、特に問題無かったわけだが。
終えた書類をとんとんと揃え、相手に渡す。ぱらぱらと流し見された後、何も問題が無かったようでさっさとそれらをファイルに仕舞った降谷さんは、さて、と続けた。
「うちに所属する上で、必要特別技術があることは知っているな」
「はい。協力者運営が主な仕事ですが、時と場合によってはピッキングや盗撮・盗聴等も行うことがあると聞きました」
「その通りだ。俺たちの目的はあくまで国を守ること。その為には、非合法行為に手を染めるなんてよくある事だ」
「承知の上です」
「物分りが良くて助かる。そこで、お前にはそれらの技術を習得してもらう為に一時的にカリキュラムを組んでいる。確か警察学校出身だったな。そういったことは教えてもらえなかっただろう」
「ええ、まあ。一般的な科目のみでした」
「それらの習得が終わり次第すぐに、現場で実働してもらうことになる。何か質問は」
「1つだけ。カリキュラム内での習得が間に合わなかった場合はどうなりますか」
降谷さんの目がきょとんと丸くなる。新しく発見した事は、彼はびっくりした顔をすると余計に幼く見えてしまうことだ。あまりにも気の抜けた顔をするので、ふと笑ってしまいそうになる。まさか上司の前でにやける訳にはいかないので、下唇を少し噛んで耐え抜いた。
「習得が間に合わないなんてことがあるのか?お前が?」
一体彼の、俺への厚い信頼は何処から来ているのだろう。俺からすると彼は今日初めて会った人なので、妙にむずむずしてしまう。自分が優秀なのは慢心しない上で承知しているが、こうも問答無用で絶大な信頼を寄せられるといささか恥ずかしい。
「……いいえ。期間内に必ず習得します」
「ああ、そうだろうな」
当然のように相槌を打った降谷さんは、先程とは別の引き出しからぺらりと1枚紙を取り出した。それをそのままこちらに寄越してくる。手を出して受け取れば、どうやら言っていたカリキュラムとやらの予定表らしかった。月曜日からまさかの日曜日までぎっしりである。当然のように消え去った休日に多少の脱力感を感じるが、文句を言って技術が拙いまま現場に出て痛い目を見るのは自分なので、ぐっと気合を入れ直すことにした。
「基本的にはうちの実働部隊の人間を入れ替わりで立ち会わせる。俺も出来るだけ入れるように予定を調節している。座学の場所は大体警察庁本部の会議室が多い。実践場所は山奥に設置された専用コテージだ」
なんと、訓練には降谷さんが立ち会ってくれるという。成程、時間割を見れば比較的夜が多いようだ。深夜三時集合の日なんかもある。きっと忙しい人だろうに、こんな新人に時間を割いてていいのだろうか。それとも、それほどまで期待を寄せられているのか。期待があればあるほど燃えるタイプなので、全くもって構わないのだが。
どうやら、記念すべき訓練一発目は明日らしい。かなり早急すぎて驚いた。しかも、初っ端から降谷さんが同伴なようだ。小手調べということだろうか?何にせよ、気合いが入るのでこちらとしては好都合だ。
「ありがとうございます」
予定表の用紙を綺麗に折り畳みながら、内ポケットにしまい込む。今日は家に帰って予習だな。そして、しっかり寝る。恐らく次の日の講義で知識を山ほど詰め込むのだから、脳を休めておいた方が得策だ。俺が紙を直し終えたのを見計らって、降谷さんが口を開いた。
「さて、お前にしておくべき話はこれで以上だ。何か質問はあるか」
いえ、と答えそうになるも、ふとさっきから気になっていたことを思い出した。
「…あの、本当にささやかな質問なのですが」
「いいだろう」
許可が降りたので、おずおずと疑問を口にする。
「何故私を選んだのでしょう」
聞いたものの、そんな答えは既に自分で分かりきっていた。実績と成績だろう。しかし、俺はどうしてもこの人の口から理由を聞きたかった。
「何故、か…」
彼は顎を摩って口角を上げた。
「学校の成績と今までの実績。と、言っても、お前は納得しないんだろう」
降谷さんは続ける。
「有り得ないくらい、噛み付く力が強いやつが欲しかったんだよ。お前を見た時びびっと来た。こいつ、狙った獲物は死んでも離さないタイプだなって」
これは遠回しにえげつない頑固者だと非難されているのだろうか?文脈的には褒められているようだが。確かに俺は達磨並に負けん気が強い。頭と身体以外に、そんな所で評価されているなんて驚きだ。まあでも、ありえないことではない。先程から渡されている書類を見る限り、異動先ではかなりの激務をこなさなければならないようだから。降谷さんの言葉を「忍耐力がある人が欲しかった」と解釈するなら、成程、納得出来る。
「なるほど…納得しました。ありがとうございます」
「まあ、それだけじゃないがな」
「はい?」
なんと。まだあったのか。目を丸くすれば、降谷さんはちょいちょいと手招きをした。なんだ?戸惑いながら恐る恐る近付く。俺と彼の間は20cm。まだ手招きされる。意図が読めないまま一歩近づいて15cm。「もうちょっと」と催促される。困惑しながらもう一歩。10cm。最早吐息が触れ合いそうな距離。え、初対面の人間の距離ってこんな…ヤバいのではないか?上司の言うことだから素直に従ったが、一体降谷さんは何をするつもりだ?耳打ちでもしなければならない事項なのだろうか?悶々と脳の中で仮説が飛び交う音を聞きながら、あ、この人、思ったより小さいんだな、と気付く。俺の方が5cmほど身長が高い気がする。そんな事を考えて現実逃避を計りながら、じっと相手の顔を見続ける。すると、降谷さんはきゅっと眉間に皺を寄せて命令した。「屈め。座れ」あ、はい。理解が追いつかないままぎくしゃくとその場に片足を立てて跪く。ちらりと見上げれば、さっきのご機嫌ななめな表情が一変、機嫌良さげに唇は弧を描き、目は三日月型に細められていた。後ろからの陽の光で相手の顔には影が落ち、ブルーの瞳だけが煌々と光っている。その輝きを見ていると、なんだか現状の異常なシチュエーションが当然の様な気がしてきた。催眠術でも心得ているのだろうか。降谷さんが、組んでいた腕を解いて両手の平で俺の顔を包み込む。親指で頬をすり、すりと愛撫される。触れられると思っていなかったので俺が驚いて硬直しているのをいいことに、頬だけでは飽き足らず親指は唇の形をなぞり始めた。右の親指が俺の下唇を左から右へ優しく撫でる。2~3回それを繰り返すと、なんと指はつぷりと口の中への侵入を始めた。「あの、」流石に抗議の声を上げようとすれば、「しー…」と口に人差し指を置かれて宥められる。なんだか小さな子になった気分だ。右の指が俺の歯並びや唇を堪能している間、左の手のひらは俺の首…詳しくは喉仏の辺りを往復していた。親指と人差し指で何度も形を確かめるように、くる、くると喉仏を撫で回される。なんだかくすぐったい。ゆるゆると首を振れば、今度は首の筋を人差し指で辿られることとなった。どっちにしろくすぐったい。これはもう耐えるしかないのだろうか。そして、口の中に入ることに飽きた様子の右手は、今度は耳の形をなぞり始めた。輪郭から始まり、凹凸の部分に至るまで触れるか触れないかくらいの力加減で行ったり来たり。耳は弱いので勘弁して欲しいが、やめてくださいとは言えない。最後にくしゃくしゃと癖毛を掻き回されて、やっと解放された。
「お前の顔が好みだったんだ」
ぼうっとしたままの俺を差し置いて、熱を込めた瞳をした彼は淡々と述べた。
「欲しいと思ったんだよ」
そうしてにっこり笑った降谷さんは腰を曲げて、屈んだ俺に近付いた。顔の距離がずいっと縮まり、ふわりと彼の香りに包まれた瞬間、唇に柔らかい感触。ちゅ、と軽い音がして、顔が離れていく。きっかり3秒固まったあと、自分の口からは「はい?」と掠れた声が漏れた。
「じゃあ、またあとで」
何事もなかったかのように軽い調子で手をひらりと振ると、降谷さんは革靴を鳴らしながら出口に歩を進め、扉を開けて退出していった。残るは片膝をついたまま呆気に取られる俺一人。ちくたくと時計の針が進む音が聞こえる。俺の脳みそは既にキャパオーバーで、考える事を放棄していた。しかし、一つだけ頭の中で引っかかっていることがあった。カチ、と時計の針がてっぺんにはまった音がした瞬間、弾かれたように立ち上がり、扉に走る。力任せに扉を開ければ、金具がみしりと音を立てた。左右を見回せば思ったより近くにいたグレースーツの背中が見える。
「あの!」
背中に向かって叫んだ。ゆっくりと相手が振り返る。
「もしかして、俺を選んだ八割方の理由がそれですか!?」
最早自分がどんな顔をしているか分からないが、さぞかし情けない顔をしているのだろう。しかし、もう何でもよかった。もしこれに肯定の言葉が返されたら、俺はちょっと泣いてしまうかもしれない。だって、だって、上司の好みの顔だったから昇格できただなんて、そんなこと思いたくねえ!
降谷さんはまた目を丸くしたあと、ぷっと吹き出した。そして腹を抱えて笑いだす。何がそんなに面白いのか!?こっちは真剣なのに!
そして、大きな声で返ってきた言葉は肯定ではなかった。
「馬鹿か!」
そして流れるような動作でポケットからスマホを取り出して俺の顔を撮影すると、今度こそ早足に去っていった。小さくなる背中を見守りながら、呟く。
「なんなんだよ…」
というか、ゼロは写真に残る事は御法度ではなかったのか?それにあの人「また後で」って言ったか?また明日じゃなくて?今日中に会うということか?どんな顔して会えばいいのだ。キスしたのは初めてではないが、同性で、上司で、しかも初対面のひととキスするのは当然のように初めてだ。動揺を隠し通せるだろうか。ずるずるとその場に座り込む。ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。
「あー、くそ、意味わっかんねえ!」
結局俺は、風見先輩が迎えに来るまでそのままだった。
1/2ページ
スキ