第二章 慟哭 側室入り

曹操の屋敷へ連れられた理嬢は、困惑していた。

目に映るすべての人々が、頭を垂れ、並んでいるのだ。今までも孟徳さまのお屋敷にお邪魔することはあったけれど、このようなことはなかった。理嬢は知る。自分は正式に側室になったのだ。

孟徳さまはそのために自分を連れてきたのだと。一時的なものではなかった。確信したとき、足先から芯がまっすぐ抜けていく感じがした。ゆっくりと瞼もおりてゆく。胸のなかが捻じれて圧されていく息苦しさで頭が白んでいく。

夏侯惇さまに、きちんとお別れの挨拶ができなかった。姜維、まだ、あなたがくれたお薬を飲んでいない。

肩を抱かれ、身を少し弾かせてから見上げた。目を細めている孟徳さまのお顔。

「部屋へ案内しよう」

母屋からはすこし離れた一室は、曹操だけが使う四阿に近い場所にあった。一本の渡り廊下をしばし歩く。

連れて行かれるままに案内された部屋は、曹操の趣向で凝らされていた。調度品、帳の刺繍。派手とまではいかなくとも、品があり落ち着いたきらびやかさでまとまっている。また、花の香で満たされていた。

「理、そなたの部屋だ」

「こんなに……………綺麗なお部屋に、わたしが……………本当によろしいのですか?」

「何を言う。全てそなたのために揃えたのだ」

満足げに微笑む曹操を見る。喜んでくれるかと聞かれ、理嬢はただ小さく頷いただけだった。曹操の長い指が、髪に触れ、やさしい眼差しと向き合わされる。

「湯浴みの用意をさせてある。ゆっくりとつかるといい」

理嬢の頬を指先でついばむように撫でてから、曹操は出て行った。それと入れ替えて、三人の女が入ってくる。手際良く理嬢が身に付けていた寝着を脱がし、湯浴み着に着替えさせられ、湯を浴びるために半ば運ばれるように連れて行かれた。

湯もまた香水と湯を混ぜた芳しい湯である。肌にしみこませるように、身体の隅々まで絹の手拭いでこすられる。ここちよい香りと身を清められる力加減に眠ってしまいそうだったが、それを見た湯浴み係に咎められ、慌てて目を見開いた。湯浴み後には、新しい寝着が用意されていた。袖に小さな花の刺繍がちりばめられている。

そのあと、薄く化粧をほどこされた。また、足の爪と指の爪をほど良い長さにととのえられると、部屋にひとりにされた。あまりの手際よさに呆気にとられた。

卓の上には、自分が湯を浴びているあいだに用意されたかと思われる豪勢な料理と、酒が置かれていた。

卓の近くにある椅子に腰をかけ、改めて部屋を見渡してみた。

多からず少なからず、品良くそろえられた数々の調度品。書が正しく重ねられた書棚。自分にはもったいないほどの部屋に、なかなか落ち着かない。夏侯邸の部屋も、自分には勿体なかったのに、ここはそれ以上なのだ。

卓の隅に置かれた小さな香油入れは、瑪瑙で造られ精巧なものだった。指を滑らし、困ったように息をつく。何もしていないのに、悪いことをしている気分になる。

孤児であり、素姓もはっきりとしない自分が、このような恵まれた待遇を受けることに、抵抗があった。嬉しくないわけではない。人からの好意というのか、優しくされることに、申し訳ない気持ちがあるのだ。素直に人の好意を受け止められないときがある。まさに、今の状況だった。

こうやって、毎日を暮らさねばならぬのだろうか。

耐え難い。できれば、宝石の装飾をとって、ひっそりとした部屋が良かった。

どうしても落ち着かなくなり、椅子から立ち上がったり座ったり、迷い犬のように、部屋の中を右往左往する。動けば動くだけ、ますます落ち着かなくなってきた。困った。

「貴姫さま」

女の声がした。自分の侍女になった女かどうか分からないが、女はそう呼んだ。

「貴姫さま」

再び呼ばれる。二度めにして、やっと自分のことを呼んでいたのだと気づく。しかし、どうして自分は「貴姫」なのだろうか。名で呼ばれた方が、はるかに分かりやすい。

「あの、貴姫とは」

返事よりも先に聞いた。女は、早々に面倒ごとを片付けたいかのように、目も合わせず、これからが、あなたさまのここでの呼び名でございますと告げる。そして、旦那さまがおいでになられましたと言い、出て行った。

わたしは、理ではなくなるの?名前を取られたような心ぼそさが耳をさらった。
「理」

曹操が部屋に入ってくる。呼ばれた自分の名前に一抹、ほっとした。理として認められていた。

寝着の姿であった。いつもは正装に身を包み、自分も自分の着物に身を包み過ごしていた。今までお酌をしたり、抱きしめられるだけの相手しかしたことがなかった。しかし、今日は違う。違うのだ。身体の節々が強ばった。心の臟が、大きな音を立て始める。


いつものように、抱きしめられる。寝着であるために、相手の肌の柔らかさ、温かさをより強く感じる。それでも、理嬢は震える。震えるのを鎮めさせるように、曹操はより強く抱きしめた。

「理」

曹操の長い指が伸び、頬に、顎に触れた。顔を上へ向かせられる。微笑む曹操の顔があった。あでやかな御顔だと思った。目を反らそうとしたが、曹操の瞳は許さない。捕らえて離そうとはしない。顔が近づいてきて、理嬢は慌てて瞳をとじた。初めて、他人の唇が自分の唇に触れるのを感じた。

離れるのを感じると、ゆっくりと瞳を開ける。やはりそこには、微笑む曹操がいた。

「理」

また、曹操の顔が近づく。瞳をとじると、次は頬に、まぶたに、口のすみに唇を感じる。そこで、はじめて曹操の呼ぶ声に応えた。

「はい」

「そなたは、我のものぞ」

「はい」

いつもの言葉だった。自分のものだ、と曹操は言う。ずっと、同じ言葉を、その言葉を流す。我のもの、という言葉は理嬢の耳へ入り、やがては頭の中央に達する。そして、そのまま泳ぎ回って沈みこんでゆく。

力が抜けて、全てをまかせる。

自分を抱きしめる腕が離れたかと思うと、手を優しく包み込み、肩を抱き、寝台に誘われる。

理嬢を寝台に座らせ、曹操は隣に腰を下ろす。

「眠くはないか」

「すこしだけ、眠いです」

「そうか」

再び曹操は理嬢を抱きしめ、そのまま身を横たえた。

やさしく、やさしく理嬢の背を撫でてゆく。弾力のある肌に触れる心地よさを感じ、酔いながら呟く。

「眠ってよい」

「はい」

このまま、時が止まればいい。奪うように連れてきた理嬢を抱きながら思う。嘘ではない。

「おやすみなさいませ」

理嬢の瞼がとじたのを見届けてから、曹操も目を閉じた。

二人は泥のように、眠りについてゆく。

眠りにつく瞬間、曹操は幻を見た。

夏侯惇の胸のなかで、安らかな表情をした理嬢。微笑みを絶えず振りまく理嬢の姿だった。急に、胸に渦巻く強い衝動が生まれる。衝動を抑えるために、しがみつくように理嬢を抱きしめた。

渡すものか。

「我のものぞ……………」

言い聞かせるように耳元で呟き、曹操は理嬢の頬に唇をよせた。





次の日、特になにもすることがなく、自分の部屋の欄干から庭を見ていた。

夏侯邸に居たときは、庭を散歩したり、侍女と刺繍をしながら話をしたり過ごしていた。また、監督役の侍女に所作の指導を受け、夏侯惇に勉強や琴の手解きをしてもらい、さらに時間があれば、夏侯惇に連れられて城の外へと足を伸ばしたりと、なにかしらすることがあった。ここではさっぱりと無かった。

正妻や、第二、第三の夫人たちに挨拶をしなければならないのは解っている。だが、部屋の外へ出ると、いる人々全てが自分に与えられたという「貴姫」で呼び、自分に頭を下げる。名前があるのに、持っていた名前で認められないことに理嬢は我慢できず、正妻たちへの礼儀を欠いていると感じながら出ることができない。出たくない。かといって部屋に閉じこもっていても、することもない。だから庭を見ていた。

緑が輝く庭だった。庭を見ていると姜維を思い出す。夏侯邸の庭の整えは、本当に美しいものだったが、ほうぼうと草が生えており、曹操の奥殿の庭はいささか雑に見える。姜維であったら素晴らしい庭へと変えてくれるのに、と思う。

姜維は知っただろうか。知っているのだろうか。

別れの言葉もなしに来てしまったこと、そして、改めて茶を飲むこともできなかったことを後悔した。

どんな味がしたのだろうか。強く、強く思いが募る。もし、許してもらえるのなら、夏侯邸へ戻って姜維にあいたい。それで、きちんと、別れを告げて、できれば最後に茶を飲みたい。

できるわけがないことを、十分知っている。無理だと思って鼻を鳴らして寂しく笑った。しかし、散歩くらいならば、できるのではないだろうか。それくらいならば、いいのではないだろうか。

そう。こんなふうに。夏侯邸を思い出しながら歩こうと決めると、理嬢の行動は早かった。

庭に人気がないことを確認し、欄干をまたがって庭へそっと降り立つ。夏侯惇さまに見られたら、はしたないとすごく怒られるかなと苦笑した。

奥殿の庭は、夏侯邸よりも広かった。

小さな花壇の群を見て、自分の背丈よりも頭が二、三個分大きな木々の間を進んでゆく。整えられていても、やはり、わずかに雑に見える草を分け入ってみたりもした。

よく姜維と、こうして遊んだのだ。

自分を見つけるまで、化かし合いのような遊びをして、楽しんだことを覚えている。

幼心に戻りかけていると、自分のいる方向から、わずかに離れた場所で、今しがた自分がしていたように草を分け入る音がする。

見つかるまいと、身をじっとして固くした。どんどん音が大きくなり、近づいてくる。見つかる。見つかってしまう。身を屈め、両手を頭で抱えた。音は目の前で止まった。

「……………なにをしている、おまえ」

男のひとの声に、恐る恐ると理嬢は顔を上げた。そこには、曹操によく似た顔があった。草を左右に分けて、狐に化かされたように首をかしげている。

「……………姐々(チエチエ 姉上の意)ですか?」

「もしかして、子桓さま、でしょうか?」

曹操の第三子、曹丕だった。曹丕は苦笑いをしながら口を開いた。

「なにをしておられるのです」

「ちょっと、お散歩を」

「散歩は隠れながらするものでしたか、奥殿に足を入れる不届きものかと思いましたよ」

「こっそりお部屋を出てきてしまったものですから。子桓さまだとわかっていたら、隠れたりはしませんでした」

「これが鬼ごっこだったら、私の勝ちですね」

軽く、曹丕は噴き出した。

「ごめんなさい、こんなみっともない」

幼い自分を咎められたような気がして慌ててしまったが、曹丕こそあどけない表情で首を左右に振った。

「なにも謝られることはありませんよ」

曹丕は、理嬢に姉を指す呼称を用いていた。理嬢が曹丕の遊び相手をしたこともったときの名残であった。年齢は理嬢が上である。

不思議な再会を果たした曹丕は、懐かしく感じながら理嬢を助け起こした。

「お久しぶりです」

「子桓さまは背がすごく高くなりましたね」

理嬢の頭ひとつ、背が高い。頬をゆるめ、やわらかい声で笑った。

「ずいぶんと長いこと、お会いしていませんでしたから。姐々」

「ほんとうに」

「はい。でも姐々は寸分も変わっておられない」

「よく言われます。わたし、そんなに成長しないのでしょうか?」

「そんなこと。姐々はいつまでも私の知っている姐々のままで、安心しております」

「お待ちください」

理嬢は辺りを見回す。曹操の雰囲気を漂わせ、曹丕は首を傾げた。

「はい」

「そろそろ、姐々と呼ぶのは、よしたほうが良いですよ?」

「なぜですか?」

「なぜと言われましても。あなたさまは、孟徳さまのご子息ですから……………」

「そのようなことはありません。私にとって、姐々は姉上です。あんなに遊んでくれたでしょう?姐々こそ、丕と名で呼んでくださればいいのに」

「そんな、恐れ多いこと」

「まあ、そのような話はここまでにしましょう。時間があまりありませんから。実は姐々に用があって来たのです」

「わたしに?」

「すぐにお会いできたのは幸運でした」

そう言って、曹丕は腰帯から提げた巾着から紅い蕾の開きかけの花を差し出した。よほど気をやって持ってきたのだろう、少々花びらの先に皺が見えるが、形は崩れていない。

「姐々に。どうぞ」

「まあ、子桓さまが」

「いえ、夏侯元譲伯父上の屋敷の……………確か、姜維というものから託されました」

「姜維が?どうして」

「用事があって、伯父上を尋ねたときに、偶然に会いまして」

心底驚いて、理嬢は声を上げた。すこしふるえる手で、でも慎重に、大事に大事に受け取った。開きかけと言えど、花の甘い香りが花に届く。

自然と顔がほころぶ。

「うれしい」

「よかった。持ってきた甲斐がありましたね」

思いがけない名前たちと花に、目が輝いている。曹丕は、ほっと息をついた。

「子桓さま、ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」

「はい。では、私はこれにて」

「私の部屋ですこし、ゆっくりして行けばいいのに。そうだ。お茶を淹れましょう」

「いえ、曹孟徳の息子といえど、父の妻妾たちの奥殿に、長くとどまっていてはなりませんから。こっそり来たので、なおさらです」

「ひとりで舞い上がってしまって。なにも考えずに、すみません」

自分の不明に頭を下げた。

「いいえ、今日はひさしぶりにお会いできて嬉しかったです。きっと、後日お会いしましょう」

曹丕は別れを惜しむように頷いてから、足早に立ち去る。草木にまぎれ、見えなくなるまでその背中を名残惜しく見つめた。

私は孟徳さまの妻妾のひとりなのだ。改めて実感する。

男性が、曹丕が長居をすれば、曹操のものに手を出したと噂が立っても仕方がない。

もっと、この世界に慣れなければ。ここでは、自分の我がままが、人への迷惑につながってしまうのだから。きちんと、側室としてわきまえなければいけない。

しかし、曹丕との再会は単純に嬉しかった。もしかしたら、この世界にも、この世界なりの楽しみがあるのかもしれない。理嬢はそう思い、姜維がくれた花に鼻を近づける。姜維が子桓さまに頼んだというお花。なんだか、夏侯惇さまのお屋敷のにおいがするような気がする。







夜が更けてから、曹操は理嬢の部屋に来た。

「孟徳さま。いらっしゃいませ」

曹操は黙ったまま、椅子に腰をかける。そのただならぬ雰囲気に、理嬢は首を傾げた。もう一度、声をかけてみるも眉間に皺が寄り、下唇がやや突き出ている。気分が曇っているのは明白だ。どう接したら良いのか分からなかったため、理嬢は曹操の足もとに膝をついて、深々と頭を垂れた。

「いかがなさいましたか?」

「そのようなこと、せずともよい」

「はい……………」

曹操の声は投げ捨てるような色をしている。おずおずと頭を上げると、冷ややかな目がこちらを見下ろしていた。初めてのことに、理嬢は紡ぐ言葉をなくした。たまらず目を泳がすと、問われた。

「そなた、昼間はどこへ行っていた」

「え……………?」

「どこへ行ったかと聞いている」

物を一閃地面に落とすような口調で問われ、冷たい刃が入り交じった瞳に、唇を固くした。膝をついたまま、後ろに退いた。

「どこへ行った」

勢いよく椅子から立った拍子に倒れた音に身を竦ませた。

「なんの、ことでしょうか……………」

「とぼけるなっ」

髪を根元から掴まれる。思い切り顔を上げさせられた痛みで、理嬢の顔は歪んでいた。だが、それは痛みによるものだけではない。

「我を軽んじるか」

知られてしまったのか。庭に出たこと。散歩をしたこと。でも、どうして?理嬢はしぼりだすように答えた。

「……………お庭を、お散歩しました」

「それで」

間髪入れずに、曹操はつづけた。

「え……………」

「誰と会った」

「だれ?」

「誰かと会ったのではないか?」

それだけは言えない。もし曹丕の名を口に出せば、きっと曹丕に迷惑がかかってしまう。べつに、疑われるようなことはしていないのだけれど、幼い頃とはもう立場も事情もちがうのだ。自分の言葉がだれかに迷惑がかかってしまうのだ。

「お散歩だけです。お散歩だけ……………」

ほう。曹操は変わらず感情を露わにしたまま、理嬢を試すかのように呟く。髪を掴む手が離れると、理嬢は床に倒れ込んだ。

「これはなんだ?」

曹操は大股で寝台の横まで行くと、置かれた小さな卓の前で紅い花を不作法に掴み上げた。

理嬢は小さな容器に水をためて、花を浮かべ飾ってていた。できるだけ長くその鮮やかさが保つようにという心くばりである。

「我はこのようなもの、用意した覚えはない」

「それは」

お庭にあったのです。どうしても、欲しかったので。だから、勝手に採ったのです。という言葉を、どうして言えないのか。言葉を発することができなかった。嘘を言うことになる。嘘は言うな、どこかから聞こえた。

「言えっ」

乾いた声とともに、曹操の手が床に腰を下ろしたまま理嬢の首を掴み無理矢理引き上げる。息苦しさに、声にならない声を上げ、苦しさを訴える。震えが大きくなる。頭がうまくはたらかない。

首を掴まれたまま引きずられ、理嬢は寝台に叩きつけられた。頬に強い痛み。

容赦のない力が、左右に与えられる。

口を切ったのか、鉄の味が溢れる。口内を切らないための術を理嬢は知らなかった。口に力が入らず、だらしなく、開いた。血と唾液が口から流れ出る。

「滑稽よな」

腹に拳が与えられる。咳が出てくる。くぐもった声を出そうとも、その力は止まない。数回に及ぶ腹への圧迫に呻いた。申し訳ありませんと言ったつもりだったが、声は意味をかたちづくれなかった。

はじめて、理嬢は腕を叱責し持ち上げたが、すぐさま左手首を掴まれ、ひねられる、折れてしまうのではないかと思った。鈍い痛みは増してくる。

応じて、理嬢の声は呻きへと変化していく。痛みと恐怖で涙が自然とこぼれ落ちた。

ぼやける視界でも、曹操の怒りの表情はよく分かった。

折れると思った矢先、痛みは引いたが、その代わり頬に衝撃が与えられた。つづいて首を絞められる。

言え。吐け。木霊する曹操の声がぼやけて聞こえる。

頭が白む。死ぬのかもしれない。

自分が気を失うということも知らぬまま、理嬢は力なくして意識を手放した。曹操は、そのあともしばらくは冷めやらぬ激情のままに理嬢に痛みを与えた。動かない身体が殴るたびに小さく揺れる。

曹操は知っていた。息子の曹丕と理嬢が会っていたのを見た。

昼に部屋を訪れたのだが、理嬢の姿がなかった。窓から風が入ってきていたため、のぞいてみると、庭の片隅でふたりが楽しげに話をしていたのだ。

嫉妬にも近い羨望を、曹操は息子に向けていた。焦がれるほどの虚しさを、取り繕わずまっすぐ理嬢に向けた。それは暴というかたちで現れたのだった。









光が窓から差し込んでいた。格子戸の向こうは橙色を含んだ赤色に滲んでいる。理嬢は瞬きをした。見慣れない天蓋に、ここは孟徳さまのお屋敷だと認識をあらためた。

曹操の姿はなかった。

口のなかが苦く、乾いている。よく、生きていたと思った。

身体が固かった。同じ姿勢を長い時間保ったままだった後のようだ。節々をほぐすように、ゆっくりと身体を起こそうとした。呼応するように、腹、顔、左腕がいつもと違うことを発した。自由に動かすことができない。制止するように、痛みが走る。左の手首は、手形の痣を作っていた。

そして、左肩に違和感がある。腹や顔を殴られたような、痛みとはまるで違う。より鋭く、より重い。

おそるおそる指をのばし、慎重に触れてみる。最初は、発する痛みの少し離れたところを。

血が流れていたようで、変色した血の固まりが、胸まで垂れていたのを確認し、すぐに目を反らした。

息をのみながら、血の跡を指先で辿ってみた。血の出どころに触れた瞬間、突き刺すような感覚に息が止まった。布団を握りしめて、声を上げるのを耐えた。

血の出どころには歯形がくっきりと残っていた。曹操がつけた傷だ。

涙が溢れた。ようやく気が緩んだのかもしれない。身体のなかが上下し始めて、うずくまった。自分の意志に反して、痛みを伴いながら動いていた。声を出すまいとするも、声は呻きから、だんだん激しいものとなり、やがて叫びになったので、枕に顔を伏す。籠った鳴き声が虚しく部屋に響いた。

寝台のしたでは、紅の花びらが散っていた。





4/4ページ
スキ