第二章 慟哭 側室入り


理嬢を寝かしつけると、夏侯惇は自分の部屋で従者のひとりと話し合っていた。

先日、市場で見回りの兵と争っていた旅人の動向を探らせた従者の死体が見つかったという話である。

今朝方、川の水面近くに垂れた枝に引っかかっていたのを発見したそうだ。

「奴に殺されたか」

「おそらくは」

重い沈黙がのしかかる。今の夏侯惇にとって、殺しは追い打ちをかけるもの以外になにものでもなかった。

「申し訳のないことをしたな」

「なにをおっしゃいますか、元譲さま。元譲さまが気を落としていては、あの者も浮かばれません」

「いや、これは私の失態だ。そのような手練れのものであったなら……………私があの場で、奴の外套を剥いでおくべきだった」

「しかし、これで一気に分かったことがあります。城下に間謀が紛れています。いえ、珍しいことでありますまいが、非常な凶暴なやつです」

従者はやや興奮気味にまくし立てた。

「しかしであります。奴は、あのひとごろしではありません。また別の脅威であります」

夏侯惇は黙って聴いていた。

「私の予測ではありますが、あの場での挑発的な言動と大胆な態度からして、頭の方はいささか足りぬのやもしれませぬ。いえ、間諜ではなく暗殺者でしょうか。どちらにも属さぬようなただの無法者です。うまくいけば、尾をだしましょう。しかし、忍びの手ほどきは受けていると思われますので、十二分に注意せねばなりますまい」

「そうだな……………」

夏侯惇は頷く。

「生け捕りにして、奴に命令した大元を突き止めてやりたいです」

「民の間には、不穏は流れていないだろうか?」

「はっきりとは分かりませんが、大丈夫でしょう。もともと、この世の中ですから。」

弄ぶように人間の身体を弄ぶ輩もいるのですから、と従者は付け足した。たしかにそうかもしれない。この都では、まだひとごろしの方が話題であった。

夏侯惇は顔を右手で覆い、息を止めて唇を噛んでから訊ねた。

「……………殺し方、はどうだった?」

「殺し方?」

「そうだ。もしかしたら、手がかりがわかるかもしれない」

「刀傷、でございました」

従者は、眉をひそめた。

「刀傷」

「はい。しかも、外傷は刀傷一閃のみなのです」

「……………たったひとつで死に至らしめた、と?」

「いかにも」

「やはり相当の手練れだな」

傷は左胸から腰まで斜線に、深く刻まれており、それひとつだけで、ほかの外傷は見当たらなかったという。

「もう、行方は知らぬか」

「残念ながら」

大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。しばし、目を閉じ、開く。

「ご苦労だった。下がっていいぞ」

「あの者の、捜索はなさいますか?」

「いや、止しておこう。だが、民衆に紛れ混ませる隠密は増やしてくれ」

「具体的な数は」

「十……………五、二十だ。できるだけ、平凡な民の生活をおくれるものを。あと、あやしい輩を見つけても、独自の判断は慎むこと。まずはお前への報告を義務付けてくれ」

従者は短く応答すると、音もなく、部屋から去っていった。

夏侯惇はひとりになった部屋で、椅子に背をも垂れかけ、天井を向き、目を閉じる。

また人が死んだ。

胸が少し締め付けられる思いがする。苦しかった。

そして、理嬢のこと。理嬢には、大きな哀れみとどこか、裏切られた、という気持ちがあった。そのようなことをするように、育てた覚えはない。

武術や剣術をいっさい教えたことはなく、茶の入れ方、歩き方、目上の者に対する礼儀作法など、しおらしい女性となるための教育だけを施した。

それが、理嬢は短刀で殺人を犯した。

裏切られた。いや、裏切られたというよりは、まだ信じることができないだけなのかもしれない。ちがう。信じたくないだけだ。

自分が、初めて人を殺したのは、十四。師を侮辱したものを斬り殺した。

歳をとるごとに、その時のことを思い出すと、いつも自嘲気味に口元が歪み、なんとも浅はかなことをしたのか、と思う。

悔いはないが、人はこんなにもあっけないのだということと、自分の中には、理性を持たない激情のままに行動する黒い獣が棲んでいると知った。

そいつは普段、隠れているが、一度、檻の錠が外されると意気揚々と外に出て行く。しかし、光のような、足元を照らす筋が射すとそれを恐れ、隠れるために兎のように逃げてしまう。

そいつが逃げたときには、ただ肉を斬り、骨を断ったときの感覚と血の臭いだけが、生々しく感じられた。

斬ったあと、自分の手からは長いあいだ血の臭いが消えなかった。

そして、戦にでるようになると、血の臭いなど、もう気しなくなっていた。

理嬢は、どうなのだろうか。

意識のない殺しは。だが、あの調子では、いつまでも引きずる気がする。

きっと、消えることはないのだろう。

だが消えることがないまでも、薄れることは確かだ。人間というものは、そういうものだ。

時がすべてを解決する。自らの手でどうしようもなくなってしまえば、もう自然に任せるしかないのだ。

しばしの間、理嬢との距離を作ろうかと思った。自分がいることで、俺にしたことを思い出すのであれば、致し方のないことだ。

窓から差し込む光は薄れ、やがて夜を迎えるように、闇を誘っているのを、夏侯惇は見た。

夜など来なければいい。光が燦々としていればいいのに。

両方の肩を揉む。肩の肉は硬い。筋力の固さではなく、凝りからくるものだ。

改めて腰を掛け直すと、慌ただしく扉をたたかれた。

次は何事だ。ため息をつくと、気が重いのをそのままに、声を出して応答する。

「どうした?」

侍女だった。

「丞相さまがおいでになりまして、理嬢さまを」

なんだと。

それ以上、侍女の言葉を聞かずに、夏侯惇は勢いよく立ち上がり、扉を開け、理嬢の部屋へ向かう。回廊が異様に長い、遠い。

このような強行をとるか。

このように掻き乱れるか。

「従兄上っ」

屋敷の侍女たちが困惑の色を示し、右往左往としている。夏侯惇が来たことに、わずかな安堵を表したが、すぐに消えた。

理嬢の部屋から、曹操は理嬢を抱いて現れた。夏侯惇を冷ややかな瞳で睨む。はっきりと、邪魔なものを見る瞳だった。

侍女たちは隅に身を隠し、成り行きをただ見守らんと身体を固くしている。

怒りを含んだ言葉を、夏侯惇はかける。

「何をなさっておいでなのですか」

「見て分かるだろう。連れ戻しに来たのだ」

寝着の姿のまま、曹操に抱かれた理嬢は、視線を震わせながら曹操と夏侯惇を交互に見つめたあと、悲しそうにうつむいた。

「身体がよくないと、申し上げたはずですが」

「ならば我のもとにて養生すればよい。そなた言うたな。理嬢を側室として正式に加えてしまえば、もう何も言わぬと」

「加えるおつもりで?」

「加えて何が悪い。側室となれば、そなたの手出しは無用」

「しかし今日とは、あまりにも急すぎます。こちらにも準備が」

「黙れっ」

「……………」

「反論するつもりか?おのれが言うたこと覆すか」

分かっている。反論できる権利など、もう自分にはないのだ。理嬢は曹操のものだ。曹操の思うままだ。

側室としてしまえば、もう自分は口出ししない。確かに、自分はそう言った。夏侯惇は唇を噛む。

曹操は鼻でせせら笑う。やはりな、と。

「欲しいのではないか」

「欲しい……………?」

「そなたはやはり、理が欲しいのではないか」

「ちがいます」

「ならば、何故そのように我を阻む」

「阻むなどとは」

「であるなら、そこを退け。夏侯惇」

事実を言い、曹操をあきらめさせるか。それでは理嬢を傷つける。

どうしようもできぬまま、夏侯惇は道をあけた。

頭を上げた理嬢は、状況が、起こっていることが、わからない。という顔をしながら、曹操の腕のなかで、曹操と夏侯惇を交互に見つめる。

「あの、孟徳さま」

「これからは、常に我のそばに侍ってもらうぞ。理」

穏やかな笑みを向ける。穏やかなその顔に、ますます理嬢は困惑する。

「よい。屋敷に戻った後、ゆっくりと話す」

曹操は表情を一変させ、夏侯惇を冷笑し、理嬢を抱きかかえ去っていく。

少しの間、理嬢が夏侯惇に瞳を向けていたが、その瞳を見てしまったら、曹操から理嬢を引き剥がして奪うような気がして、たまらず眼を反らした。

後に残ったものは激しい動揺。曹操が言った言葉。理が欲しいのではないか。

ちがう。ちがう。ちがう。ちがう。ちがうんだ、従兄上。

断じて、ちがうっ。

ただ貴方が、従兄上が心配なだけなのだ。もし、理嬢が曹操までをも、手に掛けるようなことになれば。それが、自分は怖いだけなのだ。察してくれ。察してくれ、従兄上。

理嬢に首を絞められたときに襲い来た悲しみが、遅効性の毒のごとく、じわじわと夏侯惇を染めあげてゆく。

吹く冷たい風が、肌を刺す。自分の身を案じる侍女たちの声は、さっぱり聞こえなかった。

勢いよく振り上げた腕が、虚空を切る。侍女たちは身をすくませた。下がってくれと言うと、互いに顔を見合わせ、しずしずと持ち場に戻った。

残ったのは、理嬢付きの三人の女たちだった。いつでも理嬢の世話を焼き、その様子は姉妹のようにも感じたものだ。

「理嬢さまのお部屋は、お片付けしますか?」

「……………当分、ままでいい」

かしこまりました。下がった。

自分の本当の気持ちは、自分の思っているものとちがうのか。どうなのか。分からないで、ただ、うなだれる。

最初から、ずっと曹操についてきたが、これほどまでに、溝が深くなったのは初めてだった。

太陽が沈みかけ、闇がゆっくり、ゆっくりと、世界を浸食する。
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