第二章 慟哭 側室入り




足をついている。次は十歩も百歩も進んでいた。最初の足跡から、これまでの足跡のあいだについての記憶がない。

理嬢は目を覚ましたが、淀んでいた意識が明瞭になった感覚に近かった。延々と歪む水面が、急にひとつの波も立たぬまっ平らになったような。

ここはどこ。

見渡せば、見慣れた天蓋に家具などが目にはいる。ここは自分の部屋、つまり夏侯邸だと知る。

また、眠ってしまっていた。まただ。ああ、まただ。理嬢は、気をつけようとしていたのに繰り返してしまった情けなさにため息をついた。

ここ最近ずっと、記憶が切れてしまうことが多いと感じる。自覚したのは、夜伽に呼び出されるようになった頃だったように思う。それよりも前から記憶が途切れて突然の風景に驚くことはあったが、さほど気にはならなかったのに。

おぼろなのだ。目の前の光景が潤んで見えなくなったり、黒い壁が勢いよく落ちてくる。次の光景に行くために、いつもなら歩いているのに跳んで先に着地している。そんなふうだ。

わたしは、どこかしらで寝てしまう癖がある。不審に感じながらも、もっとも腑に落ちる説はそれだった。

今回は、孟徳さまが眠った自分をわざわざ連れてきてくれたらしい。きっと、そうにちがいないと自分を納得させた。

いたい。怪我をすることも多くなった。目が覚めると両腕が鈍痛を訴えている。引っ搔いたような、抉ったような血が滲んだ気味が悪い傷ができているのだ。

起きないと。

上体を起こすと、鉄のような血なまぐさい臭いが鼻についた。いま着ている衣がそれを放っている。これは、なあに。頭のなかの思考が追いつく前に、衣に爪を立てていた。このにおいは間違いなく血だ。赤茶色に固くなった着物だった。

声が出なかった。喉に力が入らない。悲鳴をあげたくなったが、あげられなかった。息が外に出て行かない。しかし身体は必死に動き回っていた。指が衣を掻き毟る。鈍い音を立て裂けた衣を脱ぎ捨て、寝台から放り投げた。

肌に血の臭いがついているようだ。だが、それだけでは終わらない。

増えている。露わになった両腕の傷痕にも背筋が凍りつくような悪寒が駆け巡る。記憶が正しければ、この引っかかれたような傷はこんなに無かった。それが確実に、傷の数が増えているのだ。いったい、どうして。わからない。自分の知らないところで、確実に増えているのは、なぜ。

破れた布団で、裸を包み込み、うずくまる。自分の今の状況を把握しようと、意識を記憶に集中する。おちついて、おちついて、おちついて、おなまじないのように唱えていた。

わたしは孟徳さまに呼ばれた。

あとは、どうしたのだっけ。

抱きしめられる相手をした。そして、手を引かれて銅雀台という大きな楼閣を見せてもらった。作っている途中の、大きな建物。そして、ああ、そうだ。とても綺麗で、完成するのがとても楽しみで、月にまで届きそうだったと思った。まるで、銅雀台に登れば月にまで歩いて行けそうだったから。その後の自分は、なにをしていただろう。覚えているといえば、驚いた孟徳さまのお顔だ。

水面が歪んでいない、空白のときがある。思いだそうとしても、霧が立ちこめるようにぼやけるばかりか、切り取られたように思い出すことができない。取り残されて、たたずんでいるわたしがいる。

どうして?

思えば思うほど、自然と震えが起こってくる。なにか、とんでもないことをした気がする。

手指。身体の記憶がある。

まるっきり覚えてはいないが、残っている感触を覚えているのは、たしかだった。この手で触れたものがある。

こわい。こわい。あの着物についていた血は、誰のもの。

自分のものではないはずだ。腕の傷はあるが、大量に出血などするような傷ではないのだから。では、誰の。どうして。

もしかして、自分は。いや、そんなはずはない。自分は、剣などの武術は習ったことなどないのだ。斬ることなど、できはしない。そうだ、そうだ。そうなのだ。

自分に言い聞かせる。

記憶以外にも疑問はたくさんある。今の疑惑は、過去に起きた出来事に対する答えを示しているかのようだ。ちがうと言い聞かせた。今は今であって、過去は過去ではない。つながってはないはず。

いまはとにかく落ち着かなければ。いつもの日々に戻らなければと最初に思いついたのは、香を焚くことだった。

寝台から着物をまとわずに、裸で卓に近づく。近づくと、豪勢な料理があったが、食欲よりも血生臭さと吐き気が沸き上がり、たまらずに勢いよく横に払った。椀が割れ、料理は床にたたきつけられる。怒られてしまう。しかし、これから起きるであろう叱責に割く余裕が理嬢にはなかった。

香を焚く手は慣れたものだった。寝台の布団にくるまると、息が元どおりに近づきつつあるような気がする。

桃の香りが部屋を満たしつつある。しかし、その香りは理嬢だけ包み込まない。取り残された。

気を紛らわそうと焚いた香は、ますます記憶に対する気持ちを過敏にする。ひとりだ。

さらに身を丸くし目を閉じた。闇だった。闇のなかに、わたしひとりだけ。

すると。

窓をたたく音がした。風が軋む音か、気のせいかと思ったが、まだ聞こえている。

「理嬢さま、理嬢さま」

小さい声。姜維の声。闇のなかに、ひとつだけ、光の筋が通った気がした。

嬉しくなって、先ほどの恐怖はどこかへ行ってしまって。裸体をくるんだまま駆け寄って、かかる薄布の御簾ごと窓を勢いよく開けた。

星を集めたようにな姜維の髪がきらきら瞬いている。

「姜維?」

「理嬢さま」

「よかった。よかった。来てくれて本当によかった」

窓を乗り越えて出てきそうな勢いに、姜維は碧眼を丸くした。

「どうしたのですか?なにかございましたか?」

「なんでもない、なんでもないの。声をかけてくれてありがとう」

「突然申し訳ありません」

「なにか御用?」

「お身体の具合はいかがでしょう?」

「ぐあい?」

「はい。香の香りがしたので、きっと具合が、回復されたのだろうと思ったのですが。まだ不調なところはございますか」

自分は不調ということになっていたのか。だが、腕の傷以外に苦しいところはない。

「わたしは……………」

「お身体を温めるための、薬草を煎じてみました。女性の方のお身体は、冷えやすいと聞きましたから。どうぞ、お茶にでも混ぜてお飲みください」

「ありがとう……………」

戸惑う理嬢に反し、姜維は明るく笑っている。そんな笑顔をみていると、戸惑いもどこかへ行ってしまって、つられて笑ってしまう。いつもの姜維の光景だ。

そこで、理嬢は自身が裸だということに気づいて焦った。異性の前である。とんでもないことだったが、幼い頃からの長いつきあいだからと少々疎かった。これを夏侯惇さまに知られてしまったら、叱責どころの話ではない。

「ちょっと待っていて」

慌てて御簾を窓に引き、理嬢は寝着を纏ってから、再び御簾を退けた。

姜維から煎じた薬草の入った小袋を手に取る。ほんのすこしだけ、白い指が、日に灼けた指に触れた。

「ありがとう、姜維はやさしいね」

「理嬢さまがお喜びで、私もとても嬉しいです」

理嬢は小袋を強く握りしめた。

離したら、たちどころに眠ってしまうそうな気がする。

「一緒に、お庭をお散歩したいのだけど、お仕事は終わりました?」

姜維は焦ったように目を見開いた。

「それはいけません。六日間もお部屋でご養生なされていたのですよ。元譲さまにお聞きしました。まだ、ゆっくりと看ることにすると」

六日間。六日間、自分は目を覚ましていなかったのか。そして、自分は体調が優れないということになっていた。そうなのか、そうなのか。

「……………そうですね。ごめんね。我がままでした。ごめんなさい」

そんなことは知らないとは言えなかった。だから、話を合わせる。

「我がままだなんて。お誘いいただけて、嬉しいです。ご体調が本当に良くなったら、お散歩をいたしましょう?」

「そうね。……………またね」

「はい。理嬢さま」

御簾を引き、小袋を強く抱き締める。御簾ごしに、姜維が再び仕事へ戻り、やがてなくなるのを見送った。

足に力が入らない。寝台に倒れ込んで身体を丸め、姜維がくれた小袋を両腕で包み込み、胸に強く押し当てる。

涙が自然体に止め止めもなく流れ出てくる。安堵だった。夏侯邸に姜維がいた。

小袋に姜維の温もりはない。だが、姜維がわざわざ自分のために用意してくれた物。些細な出来事が理嬢に落ち着きを与えた。この言いようの知れぬ不安が紛れていく。

わたしの日常はなにも変わっていない。

つぎはぎの歪な世界ではなかった。はっきりと鮮明で朗らかな世界が目の前には在った。途絶えることはない。気が付いたら、間が抜けていた、そのような空白はない。

だが、嬉しい分よりも、それよりも締め付けられる感覚が強まってくる。自分の世界がいつまでこのようにつづいてくれるのかという不安だ。こわい気持ちがある。こうして日常を過ごしているものの、次の瞬間にはまた歪んで、空白の期間が訪れるかもしれない。それがこわい。知らない時が過ぎていることが、たまらなくこわい。

喉に渇きを覚えた。

壊した膳を片付けなくてはならないし、夏侯惇さまに謝らなくてもいけない。でもその前に、姜維のくれた薬を飲んで元気をもらおう。寝台を降りた。厨房でお湯をもらって来よう。

部屋の扉の近くに、細剣が落ちていた。それは、見紛うことのない夏侯惇の所有物である。抜き身の細剣がどうして落ちている。

ゆっくりと恐る恐る手を伸ばし、手に取った。見た目に反して、ずしりと重い。その刃のしなやかな光りを見つめた。

あまやかな妖しい光りに自分の瞳が映った刹那、脳裏に女の驚愕した顔が浮かび上がった。そして、夏侯惇のなんとも悲しそうな皺を刻んだ眉、固くなった黒い瞳。頬に刻まれている赤い一閃。

さらに情景は緻密に浮かぶ。血に染め上げられた部屋。感触さえも浮かび上がらせる。何かを掴み締め上げる自分の手。その実感がまざまざと芽吹いていく。

左手のひとさしゆびの先に乾いた赤茶色。

虚像だったはずの、うやむやだった世界に色が塗られ輪郭が構築されていく。まるで、本物だとでも言うように。

自分は、何かした。

もっと、もっと。いま、浮き上がらなかった以上に。取り返しのつかないをした。

扉を開け放ち、弾かれ逃げ出すかのように外へ飛び出す。追ってくる、追ってくる。なにかが追ってくる。追われている。足がもつれ、床に崩れたが、それでも追いつかれまいと床を這い、逃げ出そうとする。上手く、前に進むことができない。たすけて。だれか、たすけて。だれか、だれか。

「理?」

聞き慣れた声が後ろから声が聞こえた。これは、知っている声。追ってくる声じゃない。理嬢は、掠れた声で夏侯惇の名を絞り出し応えた。

「夏侯惇さま……………」

「どうしたっ?」

理嬢は目を大きく見開き、顔を蒼白にして震えている。駆け寄った夏侯惇は、膝を下ろして理嬢の肩を抱いた。震えが大きくなる。

「夏侯惇さま、夏侯惇さま……………」

夏侯惇の右頬にある傷を認めて、抱かれた手を払いのけた。しかし、大きな手は再び肩に添えられる。

「どうした」

「したの」

「何を言って?」

「わたし、なにかしました。ぜったい、なにかを、しました。女のひとに。夏侯惇さまにも、とんでもないことをしてしまいました」

「とんでもない?」

「くびっ、くび、くびくびくびを……………しめっ、しめっ」

みずからの首に両手を当て、どもりながら訴えるすがたに、背筋に水を浴びせられた気がした。

間違いなく、くびをしめたと発しようとしたのだ。言わせてはいけない。咄嗟に手のひらを口に押し付けた。

これは、いつもの理嬢だ。先ほどのあいつではない。

それより、全てを覚えていないのか。

「ない。なにもしていない」

唇をゆっくりと動かし、理嬢に言い聞かせた。そうだ。何もしていない。今の理嬢は何もしていない。するわけがない。

だが、夏侯惇の手をのけて恐怖という悪魔にとりつかれた娘は、なにもしていないという言葉に反発をしようとした。

「……………わたし、くびが」

「理嬢」

「夏侯惇さまの、くびが、くびが……………」

「私がどうした?首ならば、このように無事だぞ」

優しく諭すように、普段はするはずもない微笑みをつくった。

「顔、きず」

赤茶色が付着した爪先が右頬を示した。夏侯惇はそれを握り潰すように手のひらで覆い隠してしまった。

「夏侯惇さまの、お顔が……………」

「こんなもの、どこで付けてしまったのだろうな。私の不注意だ」

「わたし、わたしが……………」

「ちがう」

呼吸をひとつ、大きく息を吸い込んだ。

「怖い夢でも見たんだ。落ち着くんだ。夢でなければ、おまえのいう、とんでもないことを私にできようはずがない」

包み込むように抱きしめてやる。背をさすってやれば、だんだんと震えが鎮まっていく。

鎮まった身体は、夏侯惇の胸にすり寄ってきた。

「夢、ですか?ほんとうに、ほんとうに、ほんとうですか?」

「夢だ。そうだ、夢だ」

「……………それなら、どうして、わたしの服、血まみれなのですか?わたしの部屋に、夏侯惇さまの剣があるのですか?……………どうして、布団が引き裂かれているのですか?……………腕も、痛い。ふえてるの、たくさん、たくさん、ふえてるの……………」

しまった。夏侯惇は、喉が狭まっていく感触に唸りたくなった。息が上がるのを必死に耐えた。

「どうして、わたしはずっと、具合が悪いことになっていたんですか?どうして、どうして、どうして……………」

身体の不調と服、腕は誤魔化せそうなものの、引き裂かれた布団と自分の細剣は、どう誤魔化せばいいものか。細剣を鞘に収めなかった自分は、よほど混乱していたのだ。

辻褄のあった理由を探すことができず、ただ、あやふやに濁すことしかできなかった。

自分のしたことを知らない、まったく知らない。演技ではない、ほんとうに、理嬢は知らないのだ。

「………………大丈夫だ。なにもしていないのだから」

「……………わからないのです。わからないっ。だから、……………だからこうして、……………聞いているんじゃないですかっ」

「知らないのだろう?覚えていないのだろう?」

「孟徳さまの驚いた顔が……………それだけは、はっきり覚えています……………でも……………でも、どうしてか、女の人が驚いている顔と、夏侯惇さまの驚いた顔も……………頭の中にあるのです。それは、覚えている、とかじゃなくて、頭に残っていて……………赤い部屋も……………締め上げる感覚が……………」

夏侯惇に告白しているのだろうが、誰に向けているのか分からない呟きだった。理嬢の身体が、力が抜けた精のない殻になってゆく。

「わからない、わからない、わからない。どうして、いやですっ、こわいっ……………」

「頭に残っているだけだろう?そのようなこと、忘れてしまえばいい」

すべては、悪夢だ。

「……………それで、それで、いいんですか?……………わたしは……………」

怖い夢の残害だ。

「そうだ。それでいい。忘れろ。すべて、忘れてしまえ。忘れてしまえばいい」

「いいの?わたし、いいの……………」

「勿論だ。私が、言うのだから」

理嬢の茶色い目が、夏侯惇をのぞきこむ。泣きそうな顔に、朗らかな色が射す。息をゆっくりと吐いてから、夏侯惇の胸に頬ずりをした。

いつもの世界に戻って来れたのだ。あれらは、重要のようで嘘にまみれたでたらめの嘘だ。夏侯惇さまがいる、姜維がいるこっちが本当の世界だ。

おかしいと思ったこと、変だと疑うこと、それらは全部、気に留めなくてかまないことだ。そのはずだ。

「……………よかった……………」

ゆっくり休め。夏侯惇がそう付け足すと、理嬢の頼りない身体を支えながら立ち上がらせた。

夏侯惇は唇を噛んだ。

こんなにも、脆い娘が殺しを犯すなど。自分の下した判断は正しく、間違っている。この私が、業の都を騒がせた犯人を前に、このように接している。有り得ないことをしている。この瞬間にも粛清すべきだろう。頭の中に答えがふたつあった。この娘に現実を押しつけるわけにはいかないと思った、理嬢が跡形もなく散ってしまいそうだったからだ。でも、そのほうがよかったのかもしれない。だがしかし、到底肯定できるものではなかった。

理嬢の足が震えている。壊れないようにしなければならない。自分がもっと、支えなければならない。自分の手のうちにあれば、止めてやれるのではないか?愚かな妄想だ、そんなもの。思考と感情がふたつ存在している。

「あの、夏侯惇さま……………」

「どうした?」

「すみません。お膳をひっくり返しました……………」

「それはおまえがやったのか?」

「思わず、手が出てしまって」

「寝惚けていたんだな」

「ごめんなさい、悪い子です」

「説教は、この次だな」

できるだけやわらかく、夏侯惇は呟いた。

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