第十一章 翅翅 荊棘の静寂を食む
三
おだやかな時が過ぎていた。暑くも寒くもなく、ちょうどいい空気が漂っている。
書斎でただぼんやりと椅子に座っていた。最近、室内を整理したためか、棚の書簡群に乱れはない。
妻の声が入室の許可を求めてきたので、許可した。腰をかけるようすすめる前に、唐突に妻から進言があった。
「身籠りました」
玉玲が、へその下あたりに白い両手を添えていた。かばうように、または支えるように。
だれが、と喉から出かけて夏侯惇は短く咳を切った。夏侯惇の妻は玉玲ただひとりだったから、玉玲のほか考えられない。
玉玲は前の夫とのあいだにひとり、つまり杜充、現在の夏侯充を産んでいた。ふたりめともなれば、勝手知ったるものだろう。
「夏侯惇さまは、よろこんでくださいますか?」
夫側が返答に窮していると、後ずさりしつつこちらを探るような声音で訊ねてきた。
よろこぶもなにも、いままで一度も父親になったことがないのだ。夏侯惇の表情がとぼしかったがゆえに、玉玲は夫が不快を抱いたと勘違いしていた。それを察して、少々口早に夏侯惇は弁明した。
「……………父親の気持ちというものがわからない。だから、こういう時、どうすればいいのかわからんのだ」
もしも、玉玲が「あなたの子どもを身籠りました」と言っていたら、感じ方は変わっていたかもしれない。妻の目もとに青白い影が浮かんで、夏侯惇は申し訳ない気持ちになった。しかし、その腹にもうひとり妻のほか、名前さえもわからないだれかが居ることがなかなか信じられなかった。
「きっと、産まれましたらわかりますわ」
「これよりは環境を整えねばならんのだろう?それくらいは私も知っているが……………私に足りないものがあれば教えてほしい」
椅子から立ち上がり、こちらに近づいてくる夫を見て、妻の目もとから恐れがなくなり、ぬくもりほどに明るくなった。結んだくちびるも、それを含んでいる。玉玲は夏侯惇がすくなからずよろこんでいるととらえた。
「必要なものがあれば、用意しよう」
「あなたにご相談しても?」
「言ってもらえると、助かる。赤子の世話はしたことがない」
「元気ないい子を産んでみせますわ」
玉玲は強さがある微笑みで答えた。
「ここに、おりますのよ」
白い指が夏侯惇の手に添えて、腹へいざなった。
「夏侯惇さまの御子です」
腹の中にいる子の反応はなく、玉玲の体温が衣を通して伝わるだけだった。
正妻に子が宿ったことで、年配の侍女らはにわかに慌ただしく動き出した。表情に艶がある。
赤子に必要な物品の準備はもちろん、正妻の体調について細やかに気を配るようになった。そして、子の衣装や布団など身近な品の細部にいたるまで、相談している。小さな祭りのようだ。子ができるということは、こういうことかと、夏侯惇は走る者たちの背を後ろから眺めているような気持ちになった。
従兄上にもご報告せねばと、また、ぼんやり思った。
ここ最近、玉玲は体調がすぐれないと言って臥せることが多かった。そのあいだ、夫婦の交わりは妻の意を尊重し控えていた。そうか、だからか。玉玲は、子ができたときの体調の変化を敏く感じとっていたのだった。
玉玲と肌を合わせないことで、必然として理嬢の幻に逢っていなかった。理嬢の声を喪ったことを自覚してから、理嬢そのものの輪郭がおぼろげにもなっていった。忘れていたと思う瞬間がある。いや、忘れてなどいないと己を否定する。しかし、薄れゆく実感は認めざるをえない。それが、冷たい焦燥となって背筋をざわつかせた。
書斎を出て、回廊をめぐり、庭に降りて暗くかげらせる日射を受ける。
あれは、ただの幻だ……………。まぼろしだ。こだまする自分の声が内側に波紋を起こす。
いくら歩いて探そうとも、見つけようとしても、実体がない身は無いものなのだ。
さがそうとも、いないのだ。だって、いないのだから。
しかし、理をとらえたい気持ちはあった。だが、日々新しく重ねられていく出来事に覆われていく。人間の生きる中で抗えない事実だった。自覚するたびに、心が過去に飛ばしてしまうのだった。どうして、俺は、あの時、と妄想の分岐をあの手この手くりかえすのは、忘却を咎とし、まるで贖罪を求めるようなものだった。
玉玲が身籠ったと言ったときも、両耳に白玉の耳飾りが揺れていた。
理嬢が妻と同じ言葉を報せてくる日があったとしたら、従兄上との子が宿ったからだ。私の孫か。いや、従兄上の子は曹丕の弟になり、わたしのおいにあたるのだ。ややこしすぎると、ここまで考えて止めた。
しかし、そのような光景は有り得ないし、できれば出くわしたくないとも思う。
雀(シャン)は、謹慎だった身を解かれ、再び白兵戦演習に参加し始めていた。白兵戦演習に交ざり進んで傷をつくる。先日、顔の中心に大きな切り傷を作った。見た目に反し傷は浅かったが、夏侯惇はいつもより眉間の皺を深く刻んだような気がした。両頬を抑えこむように覗きこまれながら「傷は残らんな」と言った夏侯惇に「残ったら夏侯惇とおそろいなのに」と呟けばあからさまな表情になった。
肉体的な痛みには、ずいぶん慣れた。鋭い衝撃が腕や腹をえぐろうともひることはなくなった。雀の立ち回る足もとにためらいはない。
雀は、傷を拭いてもらえる時が好きだった。夏侯惇とふたりきりの邪魔をされないひととき。弟を殺すためという明確な目的があるのにもかかわらず、傷がひとつでも多ければ多いほど夏侯惇はいっしょに居てくれる。雀は夏侯惇が好きだった。これほどの宝などないくらい好きだった。だからだろうか、夏侯惇の息子になったという男に付きまとわれるのを突き放さずとりあえず勝手にさせているのは。
しかし、機嫌はめっぽう悪くなる。屋敷にはもう一人、目障りな使用人の女がいるのだ。
夏侯充、字は子備。
夏侯惇の息子。夏侯惇と冠がつくとどうでも許してやれそうな気がするのだ。言葉の呪いと言ってもいい、暗示でもいい、夏侯惇の息子という称号はまさにそうだ。
杜の姓を改めた夏侯充は、当たり前ではあるが夏侯惇にまったく似ていない。あの女、夏侯惇の妻によく似ている。父と似ているところを強いて挙げるのならば、鼻があるところ、口があるところ、腕と足が二本あるところ、歩くところだろうか。
太哥(タアコオ)、夏侯充は雀のことをこう呼んでいる。
この国の言葉で長兄に対して使うらしい。
今日の雀は、夏侯惇から屋敷にいるよう命じられている。曰く、白兵演習に身を入れ過ぎたかららしい。身体を休ませろとのこと。自身は疲労など自身も感じてはいないのだが、夏侯惇が言うのなら従うしかない。
木漏れ日の下、四阿の外で木にもたれうたた寝をしていた雀は夏侯充により現実へと引き戻された。
なにかいい心地だったのを断たれた不快さに雀は舌打ちした。
「太哥」
母親譲りの目が自分を映しにこにこしている。身長はやや小柄だが、夏侯充の年頃なら、まだ背は伸びるだろう。母親の玉玲も上背があるのだ。
「お部屋で休まれてはいかがですか」
夢を視ていたのか覚えていない。しかし、とても良い夢だったはずだ。思い出せない。「太哥」もう一度。夏侯充は雀の思考をさまたげる。
「うるせえぞ」
残念そうに夏侯充はほほえんだ。それが癪に障る。そして、引き下がろうとしない。
「では、わたくしもごいっしょしても?」
「あっちに行け」
宙を足蹴にしてやれば、夏侯充は「あっち」の言葉通り二人ぶんほどの間隔を空け、腰を下ろした。ちがう、俺はそんな意味で言ったんじゃないぞ。おまえは頭の一部がないのか。大馬鹿めが。
夏侯充はほほえんでいる。
「太哥」はじめて兄上と呼ばれた日、こいつは阿呆であるにちがいないと確信した。
なぜに兄上なのか。長兄であれば嫡男である。それなりの地位を持つ夏侯惇の嫡子なら爵位をそのまま継承するだろう。つまり、安定が苦もせず受け取れるわけだ。邪魔ではないのか。夏侯惇は曹操の血縁であり、気を許すほどの腹心のなかの腹心である。その男の嫡子とあらば、将来は約束されたものだろう。それが次男、三男ではかなわぬ。まあしかし、かならずしも長兄が世継ぎになるとは言い難いのではあるが。
「太哥はわたくしがお嫌いですか」
「きらい?なんで嫌う必要がある」
「では、憎からずおいでですか」
「さあな、おまえになんの関心もない」
「わたくしは、あなたに関心があります」
夏侯充は言いきかせる、むしろ弟を説得する兄のようにつむいだ。
「あなたを知りたいのです」
「知ってどうする」
「仲良くしたいが適切でしょうね」
「なかよくだ?なかよくしてどうする」
「とくにこれと言った目的はありません。お話をしたいのもありますね」
「俺は、てめえと仲良くしたいなんて気持ちはない、あきらめな」
「でも、こうして相手をしてくださる。ありがたいです、太哥」
雀は盛大な溜息をついて、背を向けた。俺の機嫌の悪さに気づいていないのは相当の阿呆だ。だが、気づいていないのなら相当の性悪。こんなやつが、夏侯惇の息子だと、ふざけるな。
「同じ屋根の下、いっしょに住んでいるのです。家族のことをもっと知りたいのは自然ですよ」
「名前は雀(シャン)、これだけ知ってりゃ十分だろ」
「お好きなものは、なんですか?」
「ない」
穏やかな姿勢をくずさない夏侯充に、ついに痺れを切らした雀は、地面を蹴るように立ち上がった。
「俺は不愉快だ」
血が身体じゅうをめぐり熱くなる。紅い瞳で睨みつけた。このとき、初めて夏侯充は怯んだ色を見せた。
俺の中に、おまえは要らない。
夏侯充が言葉を発する間も与えず、雀は境界を引くつもりで右腕を大きく薙ぎ払ってから居室に閉じこもった。
「雀」
夏侯惇が居室に入ってきた。雀(シャン)は寝台に腹ばいになったままで迎えた。顔は、枕に埋めている。
いつも自分が訪ねる側だったのに、今日はどうして夏侯惇が来てくれたのか。理由は、簡単に予想できた。
「なにか、用?」
心当たりがなければ、夏侯惇の姿と声に満面の心で迎えていたはずだった。
「俺、今日はどこにも出かけていないよ。白兵戦演習もしていない」
「知っている」
「じゃあ、なあに」
「聞きたいことがある」
夏侯惇が寝台に腰かけた。布団が沈む感触に、雀は少し頭をもたげて横目でそれを確認した。
聞きたいことがある、この先を少しためらっているのを察して、雀は唸った。
「きみが言いたいこと、わかってる」
自分の声が猫のように伸びていると思った。夏侯惇にだけだ。夏侯惇には、固さや厳しさがゆるんでしまう。これが、本当の自分だと思った。
「あいつ、夏侯充がなんか言ったね」
夏侯惇は息を吐いた。それは、緊張を解いたのでも呆れたのでもなかった。わかっているのなら、話しやすいという言葉の詰まりを解いたことによるものだった。
「俺、あいつを傷つけてなんかいない」
「そうじゃない」
「あいつがしつこいのが悪い。あっちに行けって言ったのに、まとわりついてくる」
「充は、おまえを非難していない。自分の気持ちを押しつけるようなまねをしてすまなかった、と」
「それだけ?」
「ああ、それだけだ」
「父親に泣きつくなんて、とんだお子様だな」
「まだ子どもだ」
「拒絶されても止めない馬鹿、自分が正しいと改めないよがりもの」
「悪く言うな、仮にも私の息子だぞ」
雀は、ふんと鼻から息を吐き捨て、重そうに上半身だけを起こした。
「充は、おまえと仲良くしたいだけだ」
「俺は嫌だ。かかわりたくない」
首を左右に何度も振った。
「時間が解決するなんて、思わないでよね」
黒曜の瞳が、ちょっと細められた。これ以上言っても無駄だろうという諦めである。同じ屋敷に住んでいる以上、顔を合わせないなど到底無理な話であるから、できるだけ穏やかな関係を築いてほしかったが、叶いそうにない。
「ほどほどに対応してやってくれ」
「俺の機嫌が悪くなけりゃね」
「もうひとつ、伝えることがある」
夏侯惇は、さらりと手短に呟いた。
「子ができた」
「はあ?」
雀は間抜けに、また見たこともない生き物と遭遇したような声を出した。
「私の妻に、私の子が宿った」
「夏侯惇、やめて。もう話さないで、聞きたくない」
耳を塞ぐ。
夏侯惇が奥方と交わった。だから、奥方に夏侯惇の血と精を受けた子ができただけ、たったそれだけのことだ。夏侯惇は人間で生き物なのだから、あたりまえのこと。だのに、雀は拒否したかった。
仮初めの冠ではない、正統な冠を被らされた血肉が生まれる。こわい。
夏侯惇、俺の知らない夏侯惇に成っていく。夏侯惇の子が、夏侯惇の奥さんの腹の中にいる。理解できることなのに、理解できない。気持ちが拒否している。夏侯惇が、どこかに行く。置いていかれる、井戸の底から一歩も動けない感覚があった。
「いやだ」
今すぐにでも白兵戦演習で刃を浴びたい衝動に駆られた。できた傷を、夏侯惇に拭ってほしい。
「夏侯惇」
「私のこれからに大きな変化はないが、屋敷の者らはせわしなくなるはずだ。やはり、こういうことは知っておいたほうがいい」
なにも言わないで、話さないで、俺を置いていく気持ちにさせるようなこと言わないで。腹の中央から酸味のある液がせり上がって喉を痛めつける。その痛みが、溢れる感情を止めたと言ってもいい。夏侯惇を困らせたくない。自分の言葉を封じるために両手で口を覆って俯いた。
夏侯惇がこちらを見ている。哀れにも困惑にもとれる色をしていた。それがまるで、自分が矮小であることへの証のようにも思える。
どうして俺がこんなに苦しまねばならないのだ。雀は、夏侯惇への執着にもたらされる辛苦の情を、わずかに夏侯惇へ向けた。俺をこんなふうに変えたのは、おまえのせいだと。
夏侯邸内では、年長の侍女たちが足どり軽やかに浮き立っていた。歓喜を隠しきれていない。この日を待ち望んでいたと言う声もすぐ耳に入った。
昼頃、雑事を終えてひと息ついたところに、明雪たちと使用人たちが一か所に集められた。厳かな空気に何事かと心して聞けば、奥方さまのご懐妊を告げられたのだった。
数日にかけて体調が芳しくなかった奥方さまの様子と併せて薄々勘づいてはいた。
夏侯惇に古くから使える年長者たちの顔は、大層誇らしげであった。この日をどれほど待ち望んでいたか。お仕えする旦那さまの御子にようやく会えると。
奥方さまの体調、ひいては御子さまに万が一の出来事がないよう気を引きしめ業務にあたることと、これからの心構えを説かれた。
ほかの仲間たちがどんな思いを抱いたかは話さないのでわからないが、ご懐妊の報に祝福をもたらされているようだった。
明雪は、自分にできることはなにかと考えた。
奥方さまが出産まで無事に過ごされるようお支えするのは、張り切っている年長者たちに任せればいい。自分ができるのは、年長者たちの指示のもとに動くことくらいだろう。
変っていく。明雪は思った。十月十日後に向かって、いままでこのお屋敷に存在していたものが変容して行っている。
元譲さまは、いかがされたのかしら。おそらく最初に報を受けたであろう屋敷の主人が気になった。御子さまの存在を知った姿を知りたいと思うのは、ひとつの判断材料にしたかったからだ。
また聞かせてくれ、私が知らない理を思い出したら。
元譲さまは、わたくしにそう命じられた。元譲さまは、お伝えした理嬢さまのお話に対して、助けられたと確かにおっしゃった。あのあと、お話することはなく日々が過ぎたところに今日の御子さまの報である。大きな出来事だ。元譲さまが、ひとつのけじめであるとして理嬢さまのお話を望んでいらっしゃらなかったとしたら?姿勢を新たにするお心づもりであったら?思い出したとして、お伝えするべきか否か判断する必要がある。
わたくしの勝手な忠誠で、元譲さまのこれからの妨げになることは、あってはならないのだ。
夕方に晩の料理の準備を始める前に、厨房で食材の用意をしなくてはならない。向かう途中で、背後から「どけ」の声とともに肩を押しのけられた。雀(シャン)の逃れるようにばたばたと去っていく背に「無礼者」と怒鳴りかけたところに、男の名を呼ぶ声が被さった。
「雀、待て」
声の主は、夏侯惇だった。届かなかった声に少々落胆しているようだった。黒曜の瞳は、前を行く背から明雪を定めた。
明雪は動揺などしていないと何食わぬ顔をつくろい、流れるような洗練された動きで拱手した。
「肩は痛まぬか」
「どうということはありませんわ」
はしたないところを見られずによかったと思った。
「代わって非礼を詫びよう」
「お気になさらずに。わたくし、頑健ですので」
今が好機かもしれない。明雪は少々の勇気を抱き、敢えて此処で御子の反応を確認することにした。
「奥方さまのご懐妊、心よりお慶び申し上げます」
「教えられたのか」
声に、とくに変化はなく淡々としている。
「はい、先ほど頭目の方々から知らされました」
「そうであったか」
こっそり夏侯惇の表情をうかがったものの、御子に対する感情を読み取ることはできなかった。
そして、先に去った姿を追いかける主人は、聞き分けのない子に手を焼く親のようであった。
おだやかな時が過ぎていた。暑くも寒くもなく、ちょうどいい空気が漂っている。
書斎でただぼんやりと椅子に座っていた。最近、室内を整理したためか、棚の書簡群に乱れはない。
妻の声が入室の許可を求めてきたので、許可した。腰をかけるようすすめる前に、唐突に妻から進言があった。
「身籠りました」
玉玲が、へその下あたりに白い両手を添えていた。かばうように、または支えるように。
だれが、と喉から出かけて夏侯惇は短く咳を切った。夏侯惇の妻は玉玲ただひとりだったから、玉玲のほか考えられない。
玉玲は前の夫とのあいだにひとり、つまり杜充、現在の夏侯充を産んでいた。ふたりめともなれば、勝手知ったるものだろう。
「夏侯惇さまは、よろこんでくださいますか?」
夫側が返答に窮していると、後ずさりしつつこちらを探るような声音で訊ねてきた。
よろこぶもなにも、いままで一度も父親になったことがないのだ。夏侯惇の表情がとぼしかったがゆえに、玉玲は夫が不快を抱いたと勘違いしていた。それを察して、少々口早に夏侯惇は弁明した。
「……………父親の気持ちというものがわからない。だから、こういう時、どうすればいいのかわからんのだ」
もしも、玉玲が「あなたの子どもを身籠りました」と言っていたら、感じ方は変わっていたかもしれない。妻の目もとに青白い影が浮かんで、夏侯惇は申し訳ない気持ちになった。しかし、その腹にもうひとり妻のほか、名前さえもわからないだれかが居ることがなかなか信じられなかった。
「きっと、産まれましたらわかりますわ」
「これよりは環境を整えねばならんのだろう?それくらいは私も知っているが……………私に足りないものがあれば教えてほしい」
椅子から立ち上がり、こちらに近づいてくる夫を見て、妻の目もとから恐れがなくなり、ぬくもりほどに明るくなった。結んだくちびるも、それを含んでいる。玉玲は夏侯惇がすくなからずよろこんでいるととらえた。
「必要なものがあれば、用意しよう」
「あなたにご相談しても?」
「言ってもらえると、助かる。赤子の世話はしたことがない」
「元気ないい子を産んでみせますわ」
玉玲は強さがある微笑みで答えた。
「ここに、おりますのよ」
白い指が夏侯惇の手に添えて、腹へいざなった。
「夏侯惇さまの御子です」
腹の中にいる子の反応はなく、玉玲の体温が衣を通して伝わるだけだった。
正妻に子が宿ったことで、年配の侍女らはにわかに慌ただしく動き出した。表情に艶がある。
赤子に必要な物品の準備はもちろん、正妻の体調について細やかに気を配るようになった。そして、子の衣装や布団など身近な品の細部にいたるまで、相談している。小さな祭りのようだ。子ができるということは、こういうことかと、夏侯惇は走る者たちの背を後ろから眺めているような気持ちになった。
従兄上にもご報告せねばと、また、ぼんやり思った。
ここ最近、玉玲は体調がすぐれないと言って臥せることが多かった。そのあいだ、夫婦の交わりは妻の意を尊重し控えていた。そうか、だからか。玉玲は、子ができたときの体調の変化を敏く感じとっていたのだった。
玉玲と肌を合わせないことで、必然として理嬢の幻に逢っていなかった。理嬢の声を喪ったことを自覚してから、理嬢そのものの輪郭がおぼろげにもなっていった。忘れていたと思う瞬間がある。いや、忘れてなどいないと己を否定する。しかし、薄れゆく実感は認めざるをえない。それが、冷たい焦燥となって背筋をざわつかせた。
書斎を出て、回廊をめぐり、庭に降りて暗くかげらせる日射を受ける。
あれは、ただの幻だ……………。まぼろしだ。こだまする自分の声が内側に波紋を起こす。
いくら歩いて探そうとも、見つけようとしても、実体がない身は無いものなのだ。
さがそうとも、いないのだ。だって、いないのだから。
しかし、理をとらえたい気持ちはあった。だが、日々新しく重ねられていく出来事に覆われていく。人間の生きる中で抗えない事実だった。自覚するたびに、心が過去に飛ばしてしまうのだった。どうして、俺は、あの時、と妄想の分岐をあの手この手くりかえすのは、忘却を咎とし、まるで贖罪を求めるようなものだった。
玉玲が身籠ったと言ったときも、両耳に白玉の耳飾りが揺れていた。
理嬢が妻と同じ言葉を報せてくる日があったとしたら、従兄上との子が宿ったからだ。私の孫か。いや、従兄上の子は曹丕の弟になり、わたしのおいにあたるのだ。ややこしすぎると、ここまで考えて止めた。
しかし、そのような光景は有り得ないし、できれば出くわしたくないとも思う。
雀(シャン)は、謹慎だった身を解かれ、再び白兵戦演習に参加し始めていた。白兵戦演習に交ざり進んで傷をつくる。先日、顔の中心に大きな切り傷を作った。見た目に反し傷は浅かったが、夏侯惇はいつもより眉間の皺を深く刻んだような気がした。両頬を抑えこむように覗きこまれながら「傷は残らんな」と言った夏侯惇に「残ったら夏侯惇とおそろいなのに」と呟けばあからさまな表情になった。
肉体的な痛みには、ずいぶん慣れた。鋭い衝撃が腕や腹をえぐろうともひることはなくなった。雀の立ち回る足もとにためらいはない。
雀は、傷を拭いてもらえる時が好きだった。夏侯惇とふたりきりの邪魔をされないひととき。弟を殺すためという明確な目的があるのにもかかわらず、傷がひとつでも多ければ多いほど夏侯惇はいっしょに居てくれる。雀は夏侯惇が好きだった。これほどの宝などないくらい好きだった。だからだろうか、夏侯惇の息子になったという男に付きまとわれるのを突き放さずとりあえず勝手にさせているのは。
しかし、機嫌はめっぽう悪くなる。屋敷にはもう一人、目障りな使用人の女がいるのだ。
夏侯充、字は子備。
夏侯惇の息子。夏侯惇と冠がつくとどうでも許してやれそうな気がするのだ。言葉の呪いと言ってもいい、暗示でもいい、夏侯惇の息子という称号はまさにそうだ。
杜の姓を改めた夏侯充は、当たり前ではあるが夏侯惇にまったく似ていない。あの女、夏侯惇の妻によく似ている。父と似ているところを強いて挙げるのならば、鼻があるところ、口があるところ、腕と足が二本あるところ、歩くところだろうか。
太哥(タアコオ)、夏侯充は雀のことをこう呼んでいる。
この国の言葉で長兄に対して使うらしい。
今日の雀は、夏侯惇から屋敷にいるよう命じられている。曰く、白兵演習に身を入れ過ぎたかららしい。身体を休ませろとのこと。自身は疲労など自身も感じてはいないのだが、夏侯惇が言うのなら従うしかない。
木漏れ日の下、四阿の外で木にもたれうたた寝をしていた雀は夏侯充により現実へと引き戻された。
なにかいい心地だったのを断たれた不快さに雀は舌打ちした。
「太哥」
母親譲りの目が自分を映しにこにこしている。身長はやや小柄だが、夏侯充の年頃なら、まだ背は伸びるだろう。母親の玉玲も上背があるのだ。
「お部屋で休まれてはいかがですか」
夢を視ていたのか覚えていない。しかし、とても良い夢だったはずだ。思い出せない。「太哥」もう一度。夏侯充は雀の思考をさまたげる。
「うるせえぞ」
残念そうに夏侯充はほほえんだ。それが癪に障る。そして、引き下がろうとしない。
「では、わたくしもごいっしょしても?」
「あっちに行け」
宙を足蹴にしてやれば、夏侯充は「あっち」の言葉通り二人ぶんほどの間隔を空け、腰を下ろした。ちがう、俺はそんな意味で言ったんじゃないぞ。おまえは頭の一部がないのか。大馬鹿めが。
夏侯充はほほえんでいる。
「太哥」はじめて兄上と呼ばれた日、こいつは阿呆であるにちがいないと確信した。
なぜに兄上なのか。長兄であれば嫡男である。それなりの地位を持つ夏侯惇の嫡子なら爵位をそのまま継承するだろう。つまり、安定が苦もせず受け取れるわけだ。邪魔ではないのか。夏侯惇は曹操の血縁であり、気を許すほどの腹心のなかの腹心である。その男の嫡子とあらば、将来は約束されたものだろう。それが次男、三男ではかなわぬ。まあしかし、かならずしも長兄が世継ぎになるとは言い難いのではあるが。
「太哥はわたくしがお嫌いですか」
「きらい?なんで嫌う必要がある」
「では、憎からずおいでですか」
「さあな、おまえになんの関心もない」
「わたくしは、あなたに関心があります」
夏侯充は言いきかせる、むしろ弟を説得する兄のようにつむいだ。
「あなたを知りたいのです」
「知ってどうする」
「仲良くしたいが適切でしょうね」
「なかよくだ?なかよくしてどうする」
「とくにこれと言った目的はありません。お話をしたいのもありますね」
「俺は、てめえと仲良くしたいなんて気持ちはない、あきらめな」
「でも、こうして相手をしてくださる。ありがたいです、太哥」
雀は盛大な溜息をついて、背を向けた。俺の機嫌の悪さに気づいていないのは相当の阿呆だ。だが、気づいていないのなら相当の性悪。こんなやつが、夏侯惇の息子だと、ふざけるな。
「同じ屋根の下、いっしょに住んでいるのです。家族のことをもっと知りたいのは自然ですよ」
「名前は雀(シャン)、これだけ知ってりゃ十分だろ」
「お好きなものは、なんですか?」
「ない」
穏やかな姿勢をくずさない夏侯充に、ついに痺れを切らした雀は、地面を蹴るように立ち上がった。
「俺は不愉快だ」
血が身体じゅうをめぐり熱くなる。紅い瞳で睨みつけた。このとき、初めて夏侯充は怯んだ色を見せた。
俺の中に、おまえは要らない。
夏侯充が言葉を発する間も与えず、雀は境界を引くつもりで右腕を大きく薙ぎ払ってから居室に閉じこもった。
「雀」
夏侯惇が居室に入ってきた。雀(シャン)は寝台に腹ばいになったままで迎えた。顔は、枕に埋めている。
いつも自分が訪ねる側だったのに、今日はどうして夏侯惇が来てくれたのか。理由は、簡単に予想できた。
「なにか、用?」
心当たりがなければ、夏侯惇の姿と声に満面の心で迎えていたはずだった。
「俺、今日はどこにも出かけていないよ。白兵戦演習もしていない」
「知っている」
「じゃあ、なあに」
「聞きたいことがある」
夏侯惇が寝台に腰かけた。布団が沈む感触に、雀は少し頭をもたげて横目でそれを確認した。
聞きたいことがある、この先を少しためらっているのを察して、雀は唸った。
「きみが言いたいこと、わかってる」
自分の声が猫のように伸びていると思った。夏侯惇にだけだ。夏侯惇には、固さや厳しさがゆるんでしまう。これが、本当の自分だと思った。
「あいつ、夏侯充がなんか言ったね」
夏侯惇は息を吐いた。それは、緊張を解いたのでも呆れたのでもなかった。わかっているのなら、話しやすいという言葉の詰まりを解いたことによるものだった。
「俺、あいつを傷つけてなんかいない」
「そうじゃない」
「あいつがしつこいのが悪い。あっちに行けって言ったのに、まとわりついてくる」
「充は、おまえを非難していない。自分の気持ちを押しつけるようなまねをしてすまなかった、と」
「それだけ?」
「ああ、それだけだ」
「父親に泣きつくなんて、とんだお子様だな」
「まだ子どもだ」
「拒絶されても止めない馬鹿、自分が正しいと改めないよがりもの」
「悪く言うな、仮にも私の息子だぞ」
雀は、ふんと鼻から息を吐き捨て、重そうに上半身だけを起こした。
「充は、おまえと仲良くしたいだけだ」
「俺は嫌だ。かかわりたくない」
首を左右に何度も振った。
「時間が解決するなんて、思わないでよね」
黒曜の瞳が、ちょっと細められた。これ以上言っても無駄だろうという諦めである。同じ屋敷に住んでいる以上、顔を合わせないなど到底無理な話であるから、できるだけ穏やかな関係を築いてほしかったが、叶いそうにない。
「ほどほどに対応してやってくれ」
「俺の機嫌が悪くなけりゃね」
「もうひとつ、伝えることがある」
夏侯惇は、さらりと手短に呟いた。
「子ができた」
「はあ?」
雀は間抜けに、また見たこともない生き物と遭遇したような声を出した。
「私の妻に、私の子が宿った」
「夏侯惇、やめて。もう話さないで、聞きたくない」
耳を塞ぐ。
夏侯惇が奥方と交わった。だから、奥方に夏侯惇の血と精を受けた子ができただけ、たったそれだけのことだ。夏侯惇は人間で生き物なのだから、あたりまえのこと。だのに、雀は拒否したかった。
仮初めの冠ではない、正統な冠を被らされた血肉が生まれる。こわい。
夏侯惇、俺の知らない夏侯惇に成っていく。夏侯惇の子が、夏侯惇の奥さんの腹の中にいる。理解できることなのに、理解できない。気持ちが拒否している。夏侯惇が、どこかに行く。置いていかれる、井戸の底から一歩も動けない感覚があった。
「いやだ」
今すぐにでも白兵戦演習で刃を浴びたい衝動に駆られた。できた傷を、夏侯惇に拭ってほしい。
「夏侯惇」
「私のこれからに大きな変化はないが、屋敷の者らはせわしなくなるはずだ。やはり、こういうことは知っておいたほうがいい」
なにも言わないで、話さないで、俺を置いていく気持ちにさせるようなこと言わないで。腹の中央から酸味のある液がせり上がって喉を痛めつける。その痛みが、溢れる感情を止めたと言ってもいい。夏侯惇を困らせたくない。自分の言葉を封じるために両手で口を覆って俯いた。
夏侯惇がこちらを見ている。哀れにも困惑にもとれる色をしていた。それがまるで、自分が矮小であることへの証のようにも思える。
どうして俺がこんなに苦しまねばならないのだ。雀は、夏侯惇への執着にもたらされる辛苦の情を、わずかに夏侯惇へ向けた。俺をこんなふうに変えたのは、おまえのせいだと。
夏侯邸内では、年長の侍女たちが足どり軽やかに浮き立っていた。歓喜を隠しきれていない。この日を待ち望んでいたと言う声もすぐ耳に入った。
昼頃、雑事を終えてひと息ついたところに、明雪たちと使用人たちが一か所に集められた。厳かな空気に何事かと心して聞けば、奥方さまのご懐妊を告げられたのだった。
数日にかけて体調が芳しくなかった奥方さまの様子と併せて薄々勘づいてはいた。
夏侯惇に古くから使える年長者たちの顔は、大層誇らしげであった。この日をどれほど待ち望んでいたか。お仕えする旦那さまの御子にようやく会えると。
奥方さまの体調、ひいては御子さまに万が一の出来事がないよう気を引きしめ業務にあたることと、これからの心構えを説かれた。
ほかの仲間たちがどんな思いを抱いたかは話さないのでわからないが、ご懐妊の報に祝福をもたらされているようだった。
明雪は、自分にできることはなにかと考えた。
奥方さまが出産まで無事に過ごされるようお支えするのは、張り切っている年長者たちに任せればいい。自分ができるのは、年長者たちの指示のもとに動くことくらいだろう。
変っていく。明雪は思った。十月十日後に向かって、いままでこのお屋敷に存在していたものが変容して行っている。
元譲さまは、いかがされたのかしら。おそらく最初に報を受けたであろう屋敷の主人が気になった。御子さまの存在を知った姿を知りたいと思うのは、ひとつの判断材料にしたかったからだ。
また聞かせてくれ、私が知らない理を思い出したら。
元譲さまは、わたくしにそう命じられた。元譲さまは、お伝えした理嬢さまのお話に対して、助けられたと確かにおっしゃった。あのあと、お話することはなく日々が過ぎたところに今日の御子さまの報である。大きな出来事だ。元譲さまが、ひとつのけじめであるとして理嬢さまのお話を望んでいらっしゃらなかったとしたら?姿勢を新たにするお心づもりであったら?思い出したとして、お伝えするべきか否か判断する必要がある。
わたくしの勝手な忠誠で、元譲さまのこれからの妨げになることは、あってはならないのだ。
夕方に晩の料理の準備を始める前に、厨房で食材の用意をしなくてはならない。向かう途中で、背後から「どけ」の声とともに肩を押しのけられた。雀(シャン)の逃れるようにばたばたと去っていく背に「無礼者」と怒鳴りかけたところに、男の名を呼ぶ声が被さった。
「雀、待て」
声の主は、夏侯惇だった。届かなかった声に少々落胆しているようだった。黒曜の瞳は、前を行く背から明雪を定めた。
明雪は動揺などしていないと何食わぬ顔をつくろい、流れるような洗練された動きで拱手した。
「肩は痛まぬか」
「どうということはありませんわ」
はしたないところを見られずによかったと思った。
「代わって非礼を詫びよう」
「お気になさらずに。わたくし、頑健ですので」
今が好機かもしれない。明雪は少々の勇気を抱き、敢えて此処で御子の反応を確認することにした。
「奥方さまのご懐妊、心よりお慶び申し上げます」
「教えられたのか」
声に、とくに変化はなく淡々としている。
「はい、先ほど頭目の方々から知らされました」
「そうであったか」
こっそり夏侯惇の表情をうかがったものの、御子に対する感情を読み取ることはできなかった。
そして、先に去った姿を追いかける主人は、聞き分けのない子に手を焼く親のようであった。
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