第十一章 翅翅 荊棘の静寂を食む



夫の身体は傷だらけだった。

無数の傷痕はとっくに腫れも赤みも引いている。肌の色に同化しているが、傷のかたちにふくらんでいた。

杜玉玲は初夜に夫の身体を視て怖気づいた。紅い灯りにほのかに包まれた肘から下が無い右腕の姿。端正な背中の一面に傷が散り、その中心は執拗に刻まれていた。

左眼のように、傷のひとつひとつになにかいわれがあるにちがいなかった。知りたい欲求がないわけではないが、直接、訊ねるには気が引けた。今、訊ねるものではないと、思うところもある。

赤と金糸でできた顔を覆う花嫁衣裳をめくられた。黒い瞳に、部屋の赤色がちらばっている。星のような黒色だった。「疲れてはいないか」初めてかけられた言葉に、張りつめたものが、ほぐれていく感じがした。

初夜である。すぐに緊張はやってくるが、二度目というのも手伝ったろう、新しい夫の手は自分を労り、優しさそのものに力が抜けた。

傷だらけの片腕に抱かれたとき、熱と恍惚で意識が飛びそうであった。すがりつくような愛撫に、いとおしさがあふれ、満たされるよろこびでこぼれてしまいそうだ。

抱かれ組み敷かれたとき、あたくしはこの方に愛されるのだと春の乙女のようにときめいた。そして、自分が畏れとともにこの方を愛するのだと思った。予想どおり、玉玲は夏侯惇をいつくしんだ。

前の夫とのあいだには、ひとり息子をもうけた。息子が十の歳をすぎたころに、下級武官であり、頼もしくもった前夫は病にかかりあっという間に死んでしまった。義父母も実父母も早々に死別していた玉玲の後ろ盾となるものはなにもなかった。息子が夫を継ぐことは、息子の年齢がわずかに達しておらず、かなわなかった。貯蓄もいつまで保つのかもわからない。息をひそめるよう詰めた日々を過ごしていたそんな折、かの夏侯淵妙才から再婚の話を持ちかけられた。前夫の上官である将軍からいただいた機会を断る理由はどこにもなかった。それに、息子の将来をかんがえるのならば是非と決意と覚悟をあらたにするところである。側室でも妾でもなんでもいい。このままでは路頭をさまよい息子にひもじい思いをさせてしまう。それは絶対に、避けなければならない……………。

しかし、その憂いも晴れることになる。息子は姓を改め、夫の姓である夏侯を名乗ることとなった。血のつながりがないことで、夫から敬遠されるのでは、もしそうであるのならどうにかして自分の手で安泰のために導いてやらねばという未来は杞憂に終わった。

夫は血のつながらない息子を邪険に扱うどころか、正式に嫡子として据えているようだ。また、書物を勧めたり学問の面倒を見てくれる時もある。玉玲は、ふたりが肩を並べ書物に向かっている様子を見かけるたびに安堵した。

夫は、自分にもやさしかった。表情は固く、漆黒にとじこめた悲愴をやどしているようなひとだが、ずいぶんこちらの身を案じてくれる。花があったからと摘んできてくれることもあれば、売っていたからと白玉の耳飾りを買ってきてくれたこともあった。

口数が少なく、冷静に人のかたちを与えたようなあのひとが、あどけない花を摘むすがたを想像すると噴き出してしまいそうになるぶん、たまらなく可愛らしいと思ってしまうし、切なくなってしまうのだった。日々、いとおしさが募ってゆくのを感じ、自分の決断はまちがいではなかった、最良すぎたと太陽に顔を向け誇らしく思うのだった。

愛されている。そう思える。だけれども、それは勘違いかもしれないと、ためらう時がある。

黒い星のような、夫の眼差しが一抹の不安を抱かせるのだった。自分に見えないものを見ようとしている素振りをする時を知っている。

また、屋敷のものたちの態度も玉玲の心にさざなみを立たせた。不快になるというわけではない、ただ、なにかを隠されている。知られないようにされている、謎に皮を被せているような気配を感じるのだ。はじめは、妻と言えど自分が新参者だから、使用人たちはこちらの出方をうかがっているのだろうかと思っていた。しかし、使用人たちの意識は、自分ではなく隠すことに向いているのではないかと、とある侍女とのやりとりから思うようになった。こちらの問いをはぐらかされているように感じたためだが、確証にはいたらない。それに、最近はぎこちなく感じていた空気が無くなりつつある。先の大きな戦と夫の負傷は知っていたから、ぎこちなさはそのためだと言われれば納得するところではある。

「玉玲」

「おかえりなさいませ、あなた」

出仕から戻ってきた夫を、妻は出迎えた。日が大きく傾き、暗くなり始めている。しかし、昨日よりも影が伸びるのは遅くなってきていた。

夏侯惇が歩くがままに、その後を従う。足がそのまま寝室に向いていると知るや、玉玲は侍女に水桶と手ぬぐいを用意させた。夫の身体を拭くためである。

外套を外して衣を解き、上半身を露出させた。

顔よりも少し薄い肌の色があらわになり、戦いをくぐりぬけてきたからだが玉玲の胸をしめつける。

埋めこまれた傷痕の上を玉玲は丁寧に拭った。背中を、肩を、脇腹を、胸も。拭くたびに、張っていた筋肉が弛緩するようで、夫は息を吐いていた。安心を感じる場所を築けている、玉玲は嬉しくなった。

「お食事はいかがしますか?」

拭きながら、玉玲は訊ねた。

「いただこう」

玉玲はほほえんだ。耳に揺れる白玉の耳飾りが揺れ、きらりと小さくまたたいた。

「それは気に入ったのか」

「それとは、なんでしょう?」

「耳の飾りだ」

玉玲はさらにほほえみを深め、頷いた。

「とても。光りに照らすと虹が見えることもあります」

夏侯惇は衣を羽織った。玉玲が後ろの裾を整え、前にまわり、帯を締めてくれる。その間も、白玉の耳飾りはかすかに揺れていた。

居間にある自分の椅子に腰かければ、見計らったように料理が湯気をあげて運ばれてくる。

盛りつけも華やかなものだった。やはり、作ったのは玉玲である。

「帰る時刻は伝えていなかったが、待たせてしまったか?」

「いいえ。同じ刻とはありませんが、夏侯惇さまがお帰りになるのはいつも、ほぼ決まっていますから」

夏侯惇が思うより、玉玲は新しい生活に順応しているようだ。

「私はいつも同じ頃合いに帰っているか?」

「ご存知ありませんでしたか?あたくしもつい最近、気づきましたのよ」

自分の隣に座った玉玲が、杯に酒をそそぐ。一口舐めると、舌に酒の甘味と苦味が引いた。

「市には出るのか?」

「おでかけは時々します。今日はお屋敷にずっといました」

考えすぎかもしれないが、夫の留守を狙っての不貞でも疑われているのだろうか。心にやましいことはなく堂々としていればいいのは分かっているが、夫に疑われてでもしたら嫌で嫌で仕方がない。玉玲は、お屋敷に、ずっとの言葉に力を込めた。

「刺繍をしていたのです」

事実だ。侍女たちと共に刺繍をして過ごしたのだ。

「市でお買い物もしようとは思いますが、その前に、お屋敷の方々が買ってきてくれていることが多くて」

「困ったことがあれば、自ら動くのもよいし、使用人に任せる、どちらでもかまわん」

「はい、夏侯惇さま」

肉を食い、野菜を食う。汁物をすすり、酒を飲む。並べられた皿や椀が空になってきて、夏侯惇は玉玲と話をした。

「銅雀台を知っているか?」

「あの、作られている大きな建物ですわね?お屋敷からも見えますわ」

「従兄上から今後の企みをお聞きした」

「曹丞相さまから?どのような」

「教えてしまっては企みの意味がないだろう。楽しみにしているといい」

「予想がはかどってしまいますわね」

「おまえの料理の腕を話してな。興味を抱かれたらしい。近いうちに我が家へいらっしゃるやもしれん」

「あら、あら」

控えめに顔をゆるませているつもりだったが、子どもが喜ぶように玉玲の表情は明るくなった。初めて見る妻の顔だ。

「嬉しいのか」

「お客さまがいらっしゃるのですもの、腕が鳴りますわ」

「私は料理を作るのに疎い。まるで戦の前のようだ」

「あたくしの戦場は厨房ですから。だれかのために作る、喜んでもらえたらと思うと、より一層、気持ちに熱が入ります。もちろん、夏侯惇さまに召し上がっていただく夕餉にも」

夫に作ったものを食べてもらえるのが好きだ。

今夜の玉玲はとても気分が良かった。夫とは、婚姻から会話をしてきた。なんのとりとめのない話を覚えていてくれて、それを誰かに話してくれて、そして、なにか新しいことが起きようとしている。

幸せだと思う。穏やかなひとときを過ごせることが。

料理が並べられたときは多すぎて腹に収まるかと心配になったが、すべて夏侯惇の腹の中だ。玉玲は嬉しそうにしている。

「おまえは、量の配分も考えているのか?」

「戦場には軍師も必要ですもの」

しとやかな玉玲が、今夜は活き活きとしている。よほど客人に、いや、だれかに料理を振るうのが好きなのだろう。また、人と会うのも好きなのかもしれない。

呼ばれた侍女が空になった食器を運んでいくと、酒と杯だけが残った。

まただわ。夏侯惇の黒曜の瞳が、遠くを見つめている。杯にそそがれた水面を揺らし、眺めてはいるが、瞳の実が結ばれていない。このような癖なのだろうか。だがそれも、とても綺麗だと玉玲は眼差しに吐息をついた。

夏侯惇は玉玲を抱いた。すがりつくように、目の前に存在している肉体を確かめるように。

理嬢が浮き出るように、夏侯惇の視界の端に現れた。理嬢が現れるのに、なんの意味もどんな理由もないと、夏侯惇は解っていた。自分が作り出した幻想に近いのだろう、それこそ、妄執と願望の産物にすぎない。証拠に、娘の表情は笑いも泣きも怒りもなにもしない、ただ姿を見せるのみだ。夢の一幕が目を覚まして朝を歩いている。自分のなかにある欠片のようなものが嵌まるように、ただ現れる。交わりの時にしか姿が見えないのは、女体に触れるという欲求が高まるにつれ、己の願いも強くなるからなのだろうか。また、陰と陽が溶け合うために生じるのだろうか。

だが、理が目の前にいる。これは事実だ。だれにも見えずとも、夏侯惇には視えていた。

この逢瀬のために妻を抱く。夏侯惇は杜玉玲を妻として抱いている。妻として抱くこと、その行為が理嬢とつながっているとしても、妻をないがしろにはしていないと思う。くりかえすうちに、自身をとがめる気持ちが無くなっていった。

視線を合わさなければ、理嬢は消えることはない。

右腕で、玉玲ではない方向に手を伸ばすと、理嬢に触れた瞬間、右腕ごと消えた。そうだった。俺は右の腕を喪っていた。喪った右腕が理嬢を求めた。なぜ右腕だけがそこに行けるのだ。なぜ私はそこに行けぬのだ。喪った左眼が理嬢を見せている幻想ならば、それはまさしく私の肉体の一部であり、持ち主を哀れんだ慰めにちがいない。もっとも、癒しにはほど遠いものだが。

利用する不純な動機を当たり前とするように、いつか、私は理を忘れる日が来るのだろうか。それは、おそらく、癒えたということでもあるのだろう。しかし、とても恐ろしいもののように、感じられた。

忘れるなどできようはずがない。今はその時ではない。否、その時など来ようはずがない。

花があの顔を思い出させるように、雲の流れがあの髪がたなびくさまを思い出させる。回廊を歩けば、四季折々の庭を眺めれば、景色に自然と映るあの姿を思い出す。

白玉の耳飾りをしている者がなにかをすれば、自分の名を同じように呼ぶものがいれば、理はどうだっただろうと過去を振り返らずにはいられなくなる。求めていようがいまいが、夏侯惇の周囲にある事象すべてが、ことあるごとにあの姿をかたどらせるのだ。

寝台の軋みや息遣い、布が肌でこすれる音、なにも耳に入ってこなくなる。頭のなかで思考が絶えずたゆみ、折られ、巻きこまれてゆく。

どうしようもなく憑りつかれているな。曹操の言葉が聞こえた。理嬢の姿をなした妄執。

従兄上は、理について自らの心情をなにも言わない。自ら出向き強引にも近いかたちで連れ去るように側室に据えたというのに。いや、従兄上こそ、通常なのだろう。憑りつかれていると指される自分こそ異常なのだ。

ええ、そうですね。私は捕らわれているのです。認めるところだ。

打ち消そうとも消せるものではない。二度も自分のなかで殺すわけにはいかなかった。夢で、俺は理嬢を何度も突き刺し、現実で名さえ呼ぶのもやめたのだ。その期間、理は俺の手で死んでいたのだ。

理は死んだ。皆、そう言う。無理もない。肉片まみれの部屋に、居たはずの理嬢がいないのだ。だが、しかし、私が視た部屋の光景と、駆けつけた曹仁たちが視た光景は同じものであると言い切れるのか?

私が感じる、納得できない引っかかりはそれだ。肉片をかきあつめれど、それが元の形に戻ろうはずがない。わかっている。調べる術がないのだ。ならば、理とも言い難いだろう。私が部屋へ行ったときにはすでに、肉塊が出来上がっていたのだから。

十にひとつ、百にひとつ、千にひとつ、万にひとつ、私は信じないわけにはいかないのだ。もう、二度と泣かせるわけにはいかない。守れなかった。殺してしまった後悔を、信じる生であがなおうともしているのだ。守れなかったが故に、一度殺したが故に、今度こそはと、俺は生にしがみついているのである。

夏侯惇は幻と目を合わそうとした。右眼に定めようとする。そこには、寝台の帳が静かに黙っているだけだった。喉の奥から嗚咽が這い上がってくるのを耐える。舌に血の味が広がっていく。

玉玲の傷ひとつない腕が伸び、右頬を撫でた。汗とも涙ともわからない滴りを拭った。

「夏侯惇さま」

労わる声が自分の下からする。妻だ。

「あなた、どうなされたの」

右眼から次から次に溢れるしずくを、玉玲の指先が拭っている。

涙を払われたことがあった。よい空だった。花がたわわに咲きほこっていた。あの日のことだ。

泉のように、いつもは忘れている思い出がめぐってしまう。止めようがなかった。

夏侯惇さま。

理嬢の声は、どんなふうだったか。どんな声で、私の名を呼んでいただろうか。

字ではなく諱で呼ぶ声。

すぐには思い出せない。雀(シャン)の声とよく似た、声だ。思い出せない。さらさらと、砂で作った城が風で音も無く、くずれていく。みえなくなっていく。

初めて、ひとつ、喪われた。それを自覚した。

夏侯惇さま。

私の諱に重なるのは妻の声。

おもいだせない。

また、声が無い理嬢が現れた。

できることならば、叫びながら抱きしめてやりたかった。生きていた、生きているぞと言葉にして認め、知らせて、両腕に抱きしめたまま業の都じゅうを走りまわりたかった。

煙のような存在では、それはできない。こんなにも近いのに、こんなにもそばにいるのに、こんなにも求めているのに、おまえはかき消えてしまう。

俺のなかから、いなくなる。

醒めない毒が、夏侯惇の身体を冒していく。

あの時、あんなにも、あんなにもそばにいたのに。夏侯惇は敷布に爪を立てた。無くなった右腕が恨めしい。息が詰まってくる。完治していなかったと言えど、右腕の痛みなど大したことはなかったはずだ。痛みを忘れ抱えて逃げ出せていればと、何度も思う。せめて、せめて一歩でも部屋の外に出ていれば、あのような結果にはならなかったのではないか。恐怖に耐えかね、守るべきものに震えてすがった俺がゆるせない。

はじめのうちこそ、現れる理嬢は、夏侯惇の胸のうちに安堵をもたらしたかもしれない。しかし、それはもどかしさになっていく。視線はおろか、声も手さえも届かない透明な存在。どうしたとしても、理であっても、やはり理ではないのだ。

だが、逢瀬をやめられるとは思えないのは、頭のなかで思い出す理ではないことが大きかった。いくら幻であっても、虚像が理のかたちをしていたとしても、それは理なのだ。視える理嬢が存在しているに違いなかった。

やりなおせるのであれば、戻れる手段があるのなら、どんな非道の術であろうと用いるだろう。そんなもの、自らが産み出した空想の愚行にでしかないないのに。

夏侯惇の心は、自らが罪だとする責めにのたうち回っていた。空想の愚行であろうと、求めずにはいられないのだ。

天を墜としてしまいたい衝動をぶつけるように、夏侯惇は目の前の妻の身体を、片腕できつく抱きしめた。





今日は明雪が朝餉当番なので早く起きねばならなかった。しかし、仕込みは昨晩のうちにすませておいたので、温めたりするのが大半だから、仕事は意外に少ない。

最近は空が白むのが早いため、それほど苦なく目を覚ますことができる。しかし、眠気はそれなりにある。

あくびを噛みながら、羹が煮だちすぎないよう薪の量を少なくして火の勢いを調節する。

もしかしたら、今日はちょっと起きるのが早すぎたのかもしれない。とんと誰の気配もしないのだ。これでは、温めた料理がまた冷めてしまう。そうしたら、再び火にかけなくてはならなくて、何度も温めてしまっては味が落ちてしまう。

食器を用意しながら、みんなが起き始めるまで棚に寄りかかり、まどろんでしまおうとも思う。厨房の火の温かさと、くゆる香りに鼻を澄まし、火が小さく鳴らす音を耳にまぶたを軽めに閉じたり開いたりするのが、実は好きだった。

よし、と肩を後ろに引いた明雪は、開け放たれていたままの扉の前で立っている夏侯惇に、肩を弾かせて目を丸くした。

目を凝らしていたり、細めたり、厨房の一点を見つめているふうだったが、なにかを探しているようであり、しきりにまたたいている。

その姿は、いつもの冷静で落ち着いた背筋が張った様子だったものの、必死さを感じたため、声をかけるのをためらった。「御用でしたら、なんでも御申しつけください」たったそれだけの言葉をためらってしまった。

声が詰まっていると、遠くを形づくる影を浮き彫りにするような声で問われるのだった。

「明雪、理嬢は、料理をしたことがあっただろうか」

明雪は指に棘が刺さったかのような顔をしてから、困ったように眉をひそめた。唇を軽く結んだあと、こう答えた。

「はい」

「覚えていないな」

「指を切られることが、多くございました」

「刃物の使い方は身につかなかったか」

理嬢は、刃物ひとつ満足に使えなかった。間違いなかった。

雀(シャン)から教えられた。怪異な出生ゆえに、雀の傷が理嬢に、理嬢の傷が雀に現れる。どこでこさえたか知らない傷を作っていたことを、夏侯惇は覚えている。しかし、指の傷は修練してのものだったか。

「いいえ、刃物の扱いは必ずしもお上手とは言えませんでしたが、ずいぶん励んでいらっしゃいました」

「楽しんではいたのか」

「不ぞろいな野菜を、実は、旦那さまは召し上がっています」

「私が?」

「はい」

「気がつかなかった」

「恥ずかしいと、わたくしたちに固く口止めをされていましたから。ですが、召し上がっていただきたかったのでしょう、何度も挑まれていました」

探している。元譲さまの探しものなんて、わかりきっていたことなのに。心が空に飛んいってしまったように、お屋敷をさ迷っていた主人の姿を思い出した。その日からも、指の数では間に合わないほど経っている。

「言ってくれれば、よかったものを」

「きっと、もっとお上手になられてから、その際に明かされるお心積もりであったのではないでしょうか」

言葉が尻すぼみになる。しかし、あの冷たい朝に抱いた恐怖はない。大切に想い、大切に想われていた旦那さまたち、知っている旦那さまだ。

言われたら言われたらで、その時の自分がどう反応していたかは見当もつかない。夏侯惇にとっては、摘んできた花を手渡されるようなものだ。手渡された花を、自分はあれの目が離れた隙に捨てていた。あの時の俺と、今の俺が同じだとは思えなかった。

「知ったつもりでいたのに、未だに新しいものを知る」

夏侯惇の口のなかで呟かれたそれを、明雪はかろうじて拾ってしまった。ご自身に、呆れと悔いを感じておられる。

「聞きたいことがある」

「なんなりと」

「私が、ふぞろいな野菜を食ったとき、理はどんな様子だった?」

「ご機嫌でいらっしゃいました」

「どんなふうに?」

「ご一緒に召し上がれたときでしたから、旦那さまが退室されると、鳥が踊るように喜ばれていました」

感情に身体が操られている姿を容易に想像できた。自分の膳はまだ下げられていないのだろう、宴でもないのに、はしたない。だが、理らしい。

明雪は思い出していた。その日、元譲さまは出仕されておらず、おふたりで夕食を召し上がられていた。先に席につかれている理嬢さまは、始終そわそわしつづけていた。お気づきになられてしまいますよと告げたけれど、どうしても落ち着かないご様子。わたくしも、夏晨も清春もちょっと呆れてしまった。元譲さまが席につかれると、静かにされたけれど、じっと元譲さまの箸の動きを注視されているものだから、すぐばれてしまうと三人で目配せし合ったのだった。それなのに、元譲さまは黙々とお食事を進められるし、理嬢さまは大仰な表情でこちらに合図をしまくるしで、笑いをこらえるのに必死だった。元譲さまが退室されてすぐに、鳥がはばたきの練習をするように席をお立ちになって喜ばれるのだから、何度目かもわからない「気づかれますよ」となだめた。

明雪は噴き出した。

「どうした」

「思い出してしまいました」

「笑えることがあったか?」

理嬢さまのあからさまな仕草に気づかない元譲さま、気づかれない自信があったのか元譲さまの目の前ではしゃぐ理嬢さま。わざとではないかと疑ってしまうような、まるで表と裏のおふたりに笑いを誘われずにいられようか。事の詳細をお教えしてもよろしいだろうが、きっと叱られてしまう。

「申し訳ありませんが、言えません」

「勿体ぶってくれるな」

「料理の秘密をお伝えしてしまいましたから、これ以上はお話しできませんわ。理嬢さまがお戻りになられれば、叱られてしまいますから。旦那さまも、きっと」

ですから、理嬢さまとご一緒に……………ここで明雪は手で口を塞いだ。今の元譲さまにとって、失言だったかもしれない。

夏侯惇は目を少し見張っていた。

決して、明雪の言葉で閉じこめていた記憶が顔をのぞかせてしまったからではない。有難い、これが、夏侯惇が感じた感情である。

突然の静寂に、薪の日が小さく弾け、響いた。静寂の長さを示すかのように、何度も弾けて火の粉が舞っている。

お戻りになられましたら。明雪はとくに意識をせずに口にしていた。だれかの口から、先へつづく言葉を不意に得られた。夏侯惇の身体に染みひろがっていた淀みが、わずかに浄められていくようだった。熱いものが頭から右眼にかけて湧きあがる。

「なんと言った……………」

左手で目元を覆った。明雪が戸惑っているのが分かる。わずらわせてすまない、言葉を発しにくかった。唇をゆるませてしまえば、情けない声を出してしまいそうだ。鼻で息を大きく吸ってから、夏侯惇は明雪に向き合った。まだ、身体のなかで操れぬ、されど安らかな波が馳せているが、それなりの体裁は繕えているはずだ。

「どうか、どうか、おゆるしください、わたくしは……………」

小さく震えながら、明雪の背はゆっくり縮んでいった。

「ちがう」

夏侯惇は明雪の右肘を掴み、そのまま引き上げた。膝をついて叩頭しようとするのを止めさせた。しかし、明雪の重心は、まだ膝にかかっているようだ。

「おまえに一切の非はない。むしろ、逆だ」

いつも凛とすんだ眉を寄らせ、うろたえる明雪に、夏侯惇は慌てた。理嬢がいなくなったのは己の罪だと叩頭する娘だ。不必要に、頭を打たせたくはない。本心を述べればいいのだろうが表しきれない気持ちをどう伝えればいいのか。もどかしい。

「嬉しかったのだ。理が戻ったらと、おまえが言ったのが」

「旦那さまを取り乱させてしまったのではないかと」

「すまん、予期していなかったのだ」

「お訊ねしてもよろしいでしょうか……………」

夏侯惇は頷いた。

「わたくしは、旦那さまに無礼を働きませんでしたか?」

「していない。助けられた」

「そんな、たいそうなこと」

「いいや、私は助けられたよ…………」

今、目の前にいる主人の表情は、明雪が初めて視るものだった。

「戻ると、言ってくれた。おかしいだろうが、その言葉はおまえが思う以上に私を満たしてくれた」

わかってしまったかもしれない。明雪は思う。これは、わたくしのさらなる邪推だ。

元譲さまは、ひとりで立っておられる。それは、きっと、ひどく暗くて陽炎を追うようなものなのだろう。

わたくしが言った「お戻りに……………」これは、すこし、陽炎が消えない身を宿したのかもしれない。理嬢さまの生存を強く望むあまり、強すぎるせいで、こんなわたくしの言葉にさえも揺れてしまうほど感じ入ってしまわれるのだ。

何も言えなかった。理嬢を別の存在のように切り捨てようとした夏侯惇に食い下がれたというのに、今は、なにもできなかった。それに、先の言葉は意識から外れた知らず知らずのうちに発せられたものだ。だから、揺れてしまうほどに力もあった。これ以上、なにかを言ってもすべてわざとらしい演技めいて、醜いものとなってしまう。

今の自分にできることは、膝をつかないことだけだ。夏侯惇は明雪が背を正したのを見て、握ったままだった手を離した。

「また聞かせてくれ、私が知らない理を思い出したら」

期待に添えられるものを、わたくしは持っていただろうか。旦那さまのなかにある大切な思い出に勝るものを自分が持っているだなんて思えない。わたくしは、たしかに理嬢さまの侍女であったけれど。思い出せば、ふたりが共に在られた姿ばかりが浮かんできてしまう。

明雪は、はい……………とだけささやくように答えた。
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