第十章 沈黙 黄昏にさ迷う
六
窈は、自分の人生なんてこんなものだと、七歳を過ぎたばかりのころに思った。
言葉も文化も、あたりまえだが民族も異なるこの地に連れて来られたのは、どこか必然だったとも思う。連れて来られた、聞こえはいいが、その実、売られたのだ。
窈の住んでいたところは、土地があまりいいとは言えなかった。伝えられたという米と土地の相性がよくなかったし、広大とも言えなかった。それを実らせる労力も乏しかった。米を育てるよりは、川へ出て魚を釣ったり、森へ入って獣を狩るほうが何倍も利にかなっていた。それに、果実を手に入れることもできたのだ。
でこぼこの土地だけに注視すれば、穀物を育てるのに注視すれば豊かと言えないだけで、ほんとうは豊かであると、まちがいなく思っていた。
そのなかで、窈は売られた。売られた、これを少しばかりちがう言い方にすると、とてつもなく裕福な人間の家で下働きすることになった、である。親であったひとは、だれかと話していたと思う。そして、「おまえが行ってくれれば、あたしらの生活が助かる」と言った。あたしの家の生活は、貧しかったのだろうか。疑いの靄が頭のなかをぐるぐるしたが、またたくまに話は進み、窈が声を出す前に事はとどこおりなく済んでいた。
そりゃあ、育てたものを食うには貧しかったろう。けれど、肉や魚が喰えた。ほかにも食べられるものはあった。住む場所があった。寝る場所があった。鶏や豚や犬を追いかけまわした。ああ、貧しかったのか?親とだれかのどちらがだまされたのだろうか。いや、だまされたのは自分だったのだろうか。いまとなっては、どうでもよかった。しかし、これはめずらしくはない。たぶん、きっと、そう。ちがいない、めずらしくはない。
窈はだれかに連れられ、とてつもなく裕福な人間の家に放りこまれた。そして、そこでこき使われる生活を送る。窈は、世を渡る術を着々と身に着けていく。
獣を追いまわし、魚を狙う日々を過ごしてきた窈にとって、下働きは息苦しいこの上なかった。
やたらといばりたがる年上、屋敷の主人、ちいさい主人さまどもからよく平手を喰らう日常。あれがなっていない、これもなっていない、どれもそれもなってはいない。お上品で窮屈な世界に慣れることは無理難題だった。窈は、身体を思う存分動かしたくて、たまらなかったのである。部屋の隅に立って声がかかるのを待つのは嫌。音を立てないよう慎重に慎重に歩くのも嫌。
放り込まれた世界の人間は、窈にとって、腹の立つ肉の集まりだった。けばけばしい白い泥をぬりたくって、似合いもしない光る石と色鮮やかな布をかぶって、周囲にいるこれまた腹の立つ同族をほめたたえる。そして、喰えるものを大量につくって並べたか思えば、ろくに手もつけずに捨てやがる。頭が悪いんじゃなかろうか。なんで食えるものを捨てるんだろう。わけがわからない。食べられることはしあわせだ。そのしあわせを捨てるのだから、やっぱりあいつらは頭が悪いのだ。そうなのだ。
きれいがきたないで、おいしいがおいしくないのだと、思った。
うそとうそとうそにまみれた世界が、窈は嫌いだった。
はじめは、反発をくりかえし、そのたびに殴られ罰を与えられていた。正しいと思うことが、そこでは正しくなくて、むしろ責められる的であった。一番大切なのは、ただ黙っていることだとだと知る。どんなにひどくても、おかしくても、どんなに叩かれても、黙っていればいい。黙ってさえいれば、こちらの被害は少なくて済む。
だが、窈は引き下がらなかった。
黙っていろと言うのなら、黙っている。その代わり、窈は笑うことを止め、その目をつねにつりあげつづけていた。小さいだろう。しかし、それが唯一の反撃であった。思えば、これが窈が窈であるべき存在を保つためのおまじないだったのだ。ただ、やはり、目つきが悪いとぶたれる。
月日が経った。瞳を虎のように光らせる窈は、また売り飛ばされた。反抗するから使いものにならない、と。
着地先は、娼館である。
背中側の毛が逆立った。
娼館なる場所がどういうものかは知っていた。だから、窈は暴れた。ろくに覚えていないこの国の言葉と、むかしの言葉を散らしつづけた。はなせ、ばかやろう、ちくしょうめ。
暴れるのは大の得意だ。木に登り、魚を泳いで追いかけ、野原を駆けめぐっていたおかげか、窈の身体は野性的で強靭だったのである。さらに、窈は薪割りや庭の手入れといった、とにかく身体を動かす仕事を黙々とこなしていた。
売りに来た男に背を押され、店の男に両手首を引っ張られる。ここの敷居を一歩でも跨いだら、あたしはもう外には出られないのだ。しぬんだ。思った。しぬのだ。死ぬわけなんかないと知ってるけど、しぬんだ。むっつり甘い香りと油っぽい料理のにおいが店のなかからただよってくる、これは自分の死体のにおいなんだ。
抵抗していたものの、大の男ふたり相手には敵わぬ。もう無理だ、意図に反して力が入らなくなってくる。
横から風に攫われるみたいに、窈の身体は体勢をくずした。
これが転機だった。
頭をあげると、男が居た。「この子、ちょうだい」きれいな声がきこえてきた。続けて、ふざけるな、だみ声がきこえた。なんの話をしているんだろう?わずかに目を迷わせて戻した先に、道が赤くなっているのを見た。目の前の男たちはいなくなっていた。わけがわからない。
わけがわからない。
「帰ろうかあ」間延びした声とともに、引かれた手。
美しい男だった。こんなひとがこんな世界に居るだなんて。たなびく黒髪は、夜の一部分をくりぬいたようだ。すうっと、とおりぬけてしまいそうな白い肌のひと。後姿でも、思わず見惚れてしまった。お人形さんのように美しいひとだった。
同時に、得体の知れない怖気もあった。たとえるならば、きれいな花に誘われて近づいたはいいものの、つぎには、隠れた大きな口でひと呑みにされてしまうような。そんな。
窈はぽかんと口をあけたままんま動けなくなって、気がついたらお屋敷の居間に、突っ立っていた。「あんたは起きたまま寝るの?」蒼い瞳の男の人は、けたけた笑った。まずい。ここは娼館じゃないけれど、場所が変わっただけのはなしじゃないか。きもちがわるくなった。身構えた窈を呆れ気味に見つめた蒼い瞳。「あんたに興味なんかこれっぽっちもないよ、ばあか」
新しい窈の主は、この男。
そのひとから、仕事が与えられた。女の世話だった。
生きるための苦労が特にいらない屋敷での生活が始まった。
新しい主はひょうひょうとしていて、礼儀も作法にも関心がなかった。目の前であくびをしても、無駄口をたたいても、大きな足音を立てても、どんな粗相をしたって決して怒らない。「お姉ちゃんの世話をしてくれればいい。あとはあんたの好きなようにしていいよ」といった具合だ。いままでいたところにくらべたら、なんて言えばいいんだろう。言葉が見つからない。言葉が見つからないほど、おだやかでやさしい。夢じゃないのかなんて思って、何度も頬をつねったりしたけれど、やはり夢ではなかった。また、けたけた笑われた。
「くれぐれも、ねえさまに怪我をさせないこと。たとえば、木や屋根から落っこちても頭から血を出さないようにね」
男の名前は、雛さまと言った。
女の名前は、理嬢さまと言った。
理嬢さまは、雛さまと同じお顔をしていたけど、のんびりしていてどこかほうっとしたひとだった。年齢のわりには、自分よりもずいぶん幼くもあって、危なっかしい。このまえだって、お庭の木に登って、困らされた。
「あそこに鳥の巣があるでしょう?卵がないか気になったの。それで、かこうとんさまにご覧になっていただこうと思ったの。でもね、だいじょうぶよ。心配しないで、窈。前は落っこちたけれど、もう失敗しないから。ね?」……………こんな突拍子のないことをする。だいじょうぶったって、信用できるか。話によれば、そのときは頭を怪我したそうではないか。まったく、とんでもない。
だけれど、とてもおだやかで親切だった。いろんなことを知っていて、ここの言葉や、歌、おとぎばなしを教えてくれた。妙に上品ぶった高慢さがないこのひとといるのは、楽しい。
そしてもうひとり、住人がいた。自分よりちょっと年上の少年で、名を月郎と言った。雛さまと理嬢さまはこいつを「小月(シャオユエ)」と呼んでいる。少年はびくびくと気弱で、窈から見たらとんと頼りない。なよなよしたところをよく目にするのだが、そのたびに尻を蹴飛ばしてやりたくなってしまう。だが、こいつは理嬢さまの大切な世話人だから、我慢せねばならない。とにかく、いらいらさせられるが、料理と掃除が上手なのが長所だ。これは認めているし、窈も教わっている。
とまあ、一度蹴り飛ばしてやったら、理嬢さまにとんと怒られた。女の子が乱暴をしちゃだめ。言っていることはわかるのだけど、やるときはきっちりやらないとだめだと思う。男だからとか女だからとか、それはやっぱりちがうよ。
月郎には医術の心得があった。
理嬢さまにはお医者さまが必要だった。
理嬢さまは怪我をする。
ある日。日課であるお昼寝をしていると思い、寝台の帳をちらりとめくってみると包丁で切ったような傷からどくどく血を流して眠っていた。お世話をしているとき、お食事をしているとき、お湯を浴びているとき、それは前触れもなくやってくる。
さっき、包丁でなんて言ったけどそんなのじゃない。もっと痛い。もっと鋭くて。もっとこわいもので切られたような。
どうしてこんなことがあるんだろう。月郎もわからないって。窈は、近くに怖いなにかがいるのではないかと、とても怖かった。でも、そいつは窈が竹の棒を持って怒っていてもやってくる。
雛さまに、くれぐれも怪我をさせるなと言いつけられているというのに。
はじめて、理嬢さまが血を流したときに遭遇した。月郎が理嬢さまの手当てをしているあいだ、窈はこわくてこわくて、箒を振りまわした。こわくてしかたがなくて、夢中で。その様子を、雛さまは、一瞬、驚いたふうだったが、涙と鼻水でぐちゃぐちゃのきたない顔を拭ってくださり、背中を抱いてあやしてくれながら優しい声音でおっしゃった。
「ねえさまは、こういう病気なの」
あっけらかんとした声音。慣れているようだった。
理嬢さまがかわいそうだった。なんでこんな病気なの。こんな病気だから、無駄に怪我はさせられない。雛さまの言いつけは、理嬢さまへの愛情に他ならなかった。
理嬢さまの身体は、傷だらけだった。薄くなった傷痕、赤い紅の傷痕、大きなものと小さなものを含めると数えきれない。理嬢さまが傷に埋もれてしまいそう。
お顔も傷だらけ。おでこから左頬の傷、お顔のまんかなをまっすぐな傷、右の頬からななめ上の傷。小さいのをふくめると多過ぎてわからなくなる。とにかくたくさんのお顔の傷。
なんでこんな目に合わなくてはならないのだろう。湯浴みのお手伝いをするたびに、窈はいつも思った。だが、理嬢さまはけろりとしている。いつもにこにこしておられて、取り乱さない理嬢さま。なんででしょう。湯浴みを痛がったり、苦しがったりなさらない。たぶん人間が持っているだろうよくないと思うものが、穴に落ちてしまっているのだ。
理嬢さまは。
血が足りないから、とても白く、細い。目をつぶれば死人みたいだ。
なぜだろう。
理嬢さまは、自分の身体から流れる血を気にしていない。ぼんやり、魂が飛んでいるようにしているだけで。窈は、この世の御人なのだろうかとうたがうことがある。でも、ちゃんと触れるから、幽霊ではない。
どうして理嬢さまは、お優しい顔を歪めたりしないのだろう。痛々しい傷口なのに、どうして泣いたりしないのだろう。呻いたりもしない。あたしなんか、小さい棘が刺さっただけでも大騒ぎしたいくらい。
ちょっと、理嬢さまがこわい。腕が真っ赤なのに、ほほえんでいるときは倒れそうになった。もしかしたら、あれは、かまいたちという痛くない傷なのかもしれない。
不思議に感じつつも、窈は、もう考えないようにしていた。
窈はこわかったのである。
理由はわからないが、窈の小さな胸のどこかで、「さわるな」と言っていたから。知ってしまったら、理嬢さまだけでなく、雛さまにも、このお屋敷にも近寄れない。
そんなことになったら、あたしはどうすればいいの?
やっとのことで手に入れた安心して生きていける場所は、窈を弱くさせたのかもしれない。
自分に危害を与えるものがいない、ご飯も市場へお使いに行って、買って、みんなの分を作って食べられる。布にくるまってあったかくして、眠れる。気を張って生活しなくていい。窈は手放せなかった。
続
窈は、自分の人生なんてこんなものだと、七歳を過ぎたばかりのころに思った。
言葉も文化も、あたりまえだが民族も異なるこの地に連れて来られたのは、どこか必然だったとも思う。連れて来られた、聞こえはいいが、その実、売られたのだ。
窈の住んでいたところは、土地があまりいいとは言えなかった。伝えられたという米と土地の相性がよくなかったし、広大とも言えなかった。それを実らせる労力も乏しかった。米を育てるよりは、川へ出て魚を釣ったり、森へ入って獣を狩るほうが何倍も利にかなっていた。それに、果実を手に入れることもできたのだ。
でこぼこの土地だけに注視すれば、穀物を育てるのに注視すれば豊かと言えないだけで、ほんとうは豊かであると、まちがいなく思っていた。
そのなかで、窈は売られた。売られた、これを少しばかりちがう言い方にすると、とてつもなく裕福な人間の家で下働きすることになった、である。親であったひとは、だれかと話していたと思う。そして、「おまえが行ってくれれば、あたしらの生活が助かる」と言った。あたしの家の生活は、貧しかったのだろうか。疑いの靄が頭のなかをぐるぐるしたが、またたくまに話は進み、窈が声を出す前に事はとどこおりなく済んでいた。
そりゃあ、育てたものを食うには貧しかったろう。けれど、肉や魚が喰えた。ほかにも食べられるものはあった。住む場所があった。寝る場所があった。鶏や豚や犬を追いかけまわした。ああ、貧しかったのか?親とだれかのどちらがだまされたのだろうか。いや、だまされたのは自分だったのだろうか。いまとなっては、どうでもよかった。しかし、これはめずらしくはない。たぶん、きっと、そう。ちがいない、めずらしくはない。
窈はだれかに連れられ、とてつもなく裕福な人間の家に放りこまれた。そして、そこでこき使われる生活を送る。窈は、世を渡る術を着々と身に着けていく。
獣を追いまわし、魚を狙う日々を過ごしてきた窈にとって、下働きは息苦しいこの上なかった。
やたらといばりたがる年上、屋敷の主人、ちいさい主人さまどもからよく平手を喰らう日常。あれがなっていない、これもなっていない、どれもそれもなってはいない。お上品で窮屈な世界に慣れることは無理難題だった。窈は、身体を思う存分動かしたくて、たまらなかったのである。部屋の隅に立って声がかかるのを待つのは嫌。音を立てないよう慎重に慎重に歩くのも嫌。
放り込まれた世界の人間は、窈にとって、腹の立つ肉の集まりだった。けばけばしい白い泥をぬりたくって、似合いもしない光る石と色鮮やかな布をかぶって、周囲にいるこれまた腹の立つ同族をほめたたえる。そして、喰えるものを大量につくって並べたか思えば、ろくに手もつけずに捨てやがる。頭が悪いんじゃなかろうか。なんで食えるものを捨てるんだろう。わけがわからない。食べられることはしあわせだ。そのしあわせを捨てるのだから、やっぱりあいつらは頭が悪いのだ。そうなのだ。
きれいがきたないで、おいしいがおいしくないのだと、思った。
うそとうそとうそにまみれた世界が、窈は嫌いだった。
はじめは、反発をくりかえし、そのたびに殴られ罰を与えられていた。正しいと思うことが、そこでは正しくなくて、むしろ責められる的であった。一番大切なのは、ただ黙っていることだとだと知る。どんなにひどくても、おかしくても、どんなに叩かれても、黙っていればいい。黙ってさえいれば、こちらの被害は少なくて済む。
だが、窈は引き下がらなかった。
黙っていろと言うのなら、黙っている。その代わり、窈は笑うことを止め、その目をつねにつりあげつづけていた。小さいだろう。しかし、それが唯一の反撃であった。思えば、これが窈が窈であるべき存在を保つためのおまじないだったのだ。ただ、やはり、目つきが悪いとぶたれる。
月日が経った。瞳を虎のように光らせる窈は、また売り飛ばされた。反抗するから使いものにならない、と。
着地先は、娼館である。
背中側の毛が逆立った。
娼館なる場所がどういうものかは知っていた。だから、窈は暴れた。ろくに覚えていないこの国の言葉と、むかしの言葉を散らしつづけた。はなせ、ばかやろう、ちくしょうめ。
暴れるのは大の得意だ。木に登り、魚を泳いで追いかけ、野原を駆けめぐっていたおかげか、窈の身体は野性的で強靭だったのである。さらに、窈は薪割りや庭の手入れといった、とにかく身体を動かす仕事を黙々とこなしていた。
売りに来た男に背を押され、店の男に両手首を引っ張られる。ここの敷居を一歩でも跨いだら、あたしはもう外には出られないのだ。しぬんだ。思った。しぬのだ。死ぬわけなんかないと知ってるけど、しぬんだ。むっつり甘い香りと油っぽい料理のにおいが店のなかからただよってくる、これは自分の死体のにおいなんだ。
抵抗していたものの、大の男ふたり相手には敵わぬ。もう無理だ、意図に反して力が入らなくなってくる。
横から風に攫われるみたいに、窈の身体は体勢をくずした。
これが転機だった。
頭をあげると、男が居た。「この子、ちょうだい」きれいな声がきこえてきた。続けて、ふざけるな、だみ声がきこえた。なんの話をしているんだろう?わずかに目を迷わせて戻した先に、道が赤くなっているのを見た。目の前の男たちはいなくなっていた。わけがわからない。
わけがわからない。
「帰ろうかあ」間延びした声とともに、引かれた手。
美しい男だった。こんなひとがこんな世界に居るだなんて。たなびく黒髪は、夜の一部分をくりぬいたようだ。すうっと、とおりぬけてしまいそうな白い肌のひと。後姿でも、思わず見惚れてしまった。お人形さんのように美しいひとだった。
同時に、得体の知れない怖気もあった。たとえるならば、きれいな花に誘われて近づいたはいいものの、つぎには、隠れた大きな口でひと呑みにされてしまうような。そんな。
窈はぽかんと口をあけたままんま動けなくなって、気がついたらお屋敷の居間に、突っ立っていた。「あんたは起きたまま寝るの?」蒼い瞳の男の人は、けたけた笑った。まずい。ここは娼館じゃないけれど、場所が変わっただけのはなしじゃないか。きもちがわるくなった。身構えた窈を呆れ気味に見つめた蒼い瞳。「あんたに興味なんかこれっぽっちもないよ、ばあか」
新しい窈の主は、この男。
そのひとから、仕事が与えられた。女の世話だった。
生きるための苦労が特にいらない屋敷での生活が始まった。
新しい主はひょうひょうとしていて、礼儀も作法にも関心がなかった。目の前であくびをしても、無駄口をたたいても、大きな足音を立てても、どんな粗相をしたって決して怒らない。「お姉ちゃんの世話をしてくれればいい。あとはあんたの好きなようにしていいよ」といった具合だ。いままでいたところにくらべたら、なんて言えばいいんだろう。言葉が見つからない。言葉が見つからないほど、おだやかでやさしい。夢じゃないのかなんて思って、何度も頬をつねったりしたけれど、やはり夢ではなかった。また、けたけた笑われた。
「くれぐれも、ねえさまに怪我をさせないこと。たとえば、木や屋根から落っこちても頭から血を出さないようにね」
男の名前は、雛さまと言った。
女の名前は、理嬢さまと言った。
理嬢さまは、雛さまと同じお顔をしていたけど、のんびりしていてどこかほうっとしたひとだった。年齢のわりには、自分よりもずいぶん幼くもあって、危なっかしい。このまえだって、お庭の木に登って、困らされた。
「あそこに鳥の巣があるでしょう?卵がないか気になったの。それで、かこうとんさまにご覧になっていただこうと思ったの。でもね、だいじょうぶよ。心配しないで、窈。前は落っこちたけれど、もう失敗しないから。ね?」……………こんな突拍子のないことをする。だいじょうぶったって、信用できるか。話によれば、そのときは頭を怪我したそうではないか。まったく、とんでもない。
だけれど、とてもおだやかで親切だった。いろんなことを知っていて、ここの言葉や、歌、おとぎばなしを教えてくれた。妙に上品ぶった高慢さがないこのひとといるのは、楽しい。
そしてもうひとり、住人がいた。自分よりちょっと年上の少年で、名を月郎と言った。雛さまと理嬢さまはこいつを「小月(シャオユエ)」と呼んでいる。少年はびくびくと気弱で、窈から見たらとんと頼りない。なよなよしたところをよく目にするのだが、そのたびに尻を蹴飛ばしてやりたくなってしまう。だが、こいつは理嬢さまの大切な世話人だから、我慢せねばならない。とにかく、いらいらさせられるが、料理と掃除が上手なのが長所だ。これは認めているし、窈も教わっている。
とまあ、一度蹴り飛ばしてやったら、理嬢さまにとんと怒られた。女の子が乱暴をしちゃだめ。言っていることはわかるのだけど、やるときはきっちりやらないとだめだと思う。男だからとか女だからとか、それはやっぱりちがうよ。
月郎には医術の心得があった。
理嬢さまにはお医者さまが必要だった。
理嬢さまは怪我をする。
ある日。日課であるお昼寝をしていると思い、寝台の帳をちらりとめくってみると包丁で切ったような傷からどくどく血を流して眠っていた。お世話をしているとき、お食事をしているとき、お湯を浴びているとき、それは前触れもなくやってくる。
さっき、包丁でなんて言ったけどそんなのじゃない。もっと痛い。もっと鋭くて。もっとこわいもので切られたような。
どうしてこんなことがあるんだろう。月郎もわからないって。窈は、近くに怖いなにかがいるのではないかと、とても怖かった。でも、そいつは窈が竹の棒を持って怒っていてもやってくる。
雛さまに、くれぐれも怪我をさせるなと言いつけられているというのに。
はじめて、理嬢さまが血を流したときに遭遇した。月郎が理嬢さまの手当てをしているあいだ、窈はこわくてこわくて、箒を振りまわした。こわくてしかたがなくて、夢中で。その様子を、雛さまは、一瞬、驚いたふうだったが、涙と鼻水でぐちゃぐちゃのきたない顔を拭ってくださり、背中を抱いてあやしてくれながら優しい声音でおっしゃった。
「ねえさまは、こういう病気なの」
あっけらかんとした声音。慣れているようだった。
理嬢さまがかわいそうだった。なんでこんな病気なの。こんな病気だから、無駄に怪我はさせられない。雛さまの言いつけは、理嬢さまへの愛情に他ならなかった。
理嬢さまの身体は、傷だらけだった。薄くなった傷痕、赤い紅の傷痕、大きなものと小さなものを含めると数えきれない。理嬢さまが傷に埋もれてしまいそう。
お顔も傷だらけ。おでこから左頬の傷、お顔のまんかなをまっすぐな傷、右の頬からななめ上の傷。小さいのをふくめると多過ぎてわからなくなる。とにかくたくさんのお顔の傷。
なんでこんな目に合わなくてはならないのだろう。湯浴みのお手伝いをするたびに、窈はいつも思った。だが、理嬢さまはけろりとしている。いつもにこにこしておられて、取り乱さない理嬢さま。なんででしょう。湯浴みを痛がったり、苦しがったりなさらない。たぶん人間が持っているだろうよくないと思うものが、穴に落ちてしまっているのだ。
理嬢さまは。
血が足りないから、とても白く、細い。目をつぶれば死人みたいだ。
なぜだろう。
理嬢さまは、自分の身体から流れる血を気にしていない。ぼんやり、魂が飛んでいるようにしているだけで。窈は、この世の御人なのだろうかとうたがうことがある。でも、ちゃんと触れるから、幽霊ではない。
どうして理嬢さまは、お優しい顔を歪めたりしないのだろう。痛々しい傷口なのに、どうして泣いたりしないのだろう。呻いたりもしない。あたしなんか、小さい棘が刺さっただけでも大騒ぎしたいくらい。
ちょっと、理嬢さまがこわい。腕が真っ赤なのに、ほほえんでいるときは倒れそうになった。もしかしたら、あれは、かまいたちという痛くない傷なのかもしれない。
不思議に感じつつも、窈は、もう考えないようにしていた。
窈はこわかったのである。
理由はわからないが、窈の小さな胸のどこかで、「さわるな」と言っていたから。知ってしまったら、理嬢さまだけでなく、雛さまにも、このお屋敷にも近寄れない。
そんなことになったら、あたしはどうすればいいの?
やっとのことで手に入れた安心して生きていける場所は、窈を弱くさせたのかもしれない。
自分に危害を与えるものがいない、ご飯も市場へお使いに行って、買って、みんなの分を作って食べられる。布にくるまってあったかくして、眠れる。気を張って生活しなくていい。窈は手放せなかった。
続