第十章 沈黙 黄昏にさ迷う
五
これは昔の夢である。
可愛い弟ができたのを覚えている。あにさま、あねさまと呼んでいた小さな自分が、あにさまと呼ばれる日が来た。
子脩のあにさま、子昴のあにさま、清河のあねさま。一、二、三、四と一本ずつ指を折り、自分は四番目だった。四、とは死を連想するからなんとなく縁起が悪い。
一、二、三、四、五。左手の指の小指になったのは姓は曹、名は彰、字は子文の弟だった。
彰は元気がよく、うるさいほど、いやたまらなくうるさい。泣き声で夜に起こされたのは母や乳母、父だけではなかった。子脩のあにさまもよく彰の話を出して、「あの子はどうしてあんなに大きな声なのだろうねえ」苦笑まじりにして呟いていたのだった。「彰が大きくなったら、なんでずっと泣いていたの?って聞いてみようか」
あやつのけたたましさは信じられなかった。口になにか入っているから泣くのかと不思議に思ったので、つい彰の口に指を入れてしまった。結果から言えばそれは大失敗だった。生えかけの赤子の歯といえど思いっきり噛まれれば跳び上がるほど痛かった。
一、二、三、四、五、六。左手がすべて広がってしまったので、右手の親指を使う。右手の一番始めになったのは、姓は曹、名は植、字は子建の弟だった。植もうるさかったが、彰ほどではなかった。
彰は稀に見る相当な逸材だったのだ。植は彰とくらべおとなしかった。そして、とても可愛かった。彰が可愛くないわけではない。ただ、彰は負けん気が強いというのか我が強いというのか日がな一日棒きれを手にわざと危ないことをしている。たとえば、欄干の上を歩く、屋根にのぼり走り回る。池に飛びこみ素手で魚を捕まえようとする。そしてわざと大きな物音を立て、戸を壊そうとする。つまり、やかましいのだった。豪快に、にいさん、にいさんと呼ばれるのは悪くなかった。ただ、力を上手く加減できない節もある。
彰は書が大嫌いだ。子文、立派な字があるのに襟を平気で乱し、私が書を読むあいだおまえも読め、私に倣えと言えばよく癇癪を起した。しかし、父上は彰のそういうところを愛しているようだ。母上にとっても乱暴者と言えなくもない息子なはずなのに元気がありあまる子としか映っていないらしい。
彰は武芸に秀で、無謀とも言える突撃を好み命をはでに爆ぜさせる戦闘を好んでいることを私は知っている。弓矢、槍、剣技、すべてをよくこなすが本人は自らの拳を駆使することを一等好んでいるのも知っていた。
「弓と剣だけは、にいさんにかなわないよ」
屈託のない笑みで可愛いことを言う。
「あにさま、まって」
背を引かれる。前へ前へと足音が大きい彰とはちがうもうひとりの弟であるちいさい植。
ちいさい弟は、文字に興味を持つ、書を読んでやると喜ぶ、私と趣向が似通っていた。
あにさま、あにさま。舌足らずに呼ばれるとくすぐったい気持ちになって、やれやれ仕方あるまいよなどと相手をしたくなってしまう。自分が兄上にしていた姿を見せられているようで恥ずかしくもなったが、理由もなく受け入れてやりたいのだった。
あにさま、あにさま。私が歩けば植も付いてくる。いじわるな欲求もわいてくる。これには抗えない。右に曲がれば右に。左と見せかけて右に曲がれば慌てて右に。早歩きで植との距離を十分にとり、柱の影に隠れれば、幼い植には私が忽然と消えてしまったように映ったそうで、あにさま、言葉にならない声で私を探し回る様子を眺めるのは愉快でたまらなかった。
書を読んでいると自分もそれがいいと言う。弓術をすれば自分もすると言って、小さいくせに五つも歳の離れた自分のまねをする。そして、案の定、植は弦を思いっきり弾かせ小さな手のひらに赤い線を一筋作ったのだった。雷が頭に直撃したのではと疑うほど、彰よりも大きい声で泣きわめいた。
一、二、三、四、五、六の指のうち、左の一、二が三、四、五、六の指が曲がっているのに真っすぐに伸びた。左手の指、親指とひとさし指が伸びたのは突然だった。始めに親指が、つぎに間を空けてひとさし指が。私は薬指でありながら二番目になり男兄弟のなかでは一番目となってしまった。
姐々(チエチエ)、と呼び慕うひとができた。
夏侯元譲のおじ上が連れるようになったひとだった。だれだこいつは。はじめて会ったときそう思った。なぜか人のような気がしなかった。魂のような芯のようなものが無い気がしたからだ。
理嬢という名は半分は父上が名づけたらしい。歳も私より上だそうで、ならば半分は私の姉になるのだろうか。
おじ上が連れてきたこの人をただ単に名で呼んだり、「おい」だの「おまえ」だの失礼があってはいけないのではないだろうか。だから、姉上ではなく姐々と呼ばせてもらうことにした。
姐々はわたしを子ども扱いした。
清河の姉上とはちがう。清河の姉上は父上に似ていた。そして威厳を以て私に接していたからだ。清河の姉上は丁母上に、いわゆる良き淑女となるための礼儀作法を身につけさせられていた。そして、弟でありながら幼いながらも男児は男児、親指とひとさし指が伸びてからはひとりの男として見られていたのだと思う。清河の姉上はまなざしが父上に似ていた。そして、実の兄たち子脩の兄上、子昴の兄上にもどことなく顔立ちが似ていたから、清河の姉上に認められることは三人の大人に認められているようで、誇らしい気持ちになっていた。
姐々はちがった。二度目に会ったときから「ちえちえ」と呼ぶとはにかんで、すこし困った顔をした。
弟ができてから、私は弟たちがするような遊びをやめた。大切なおもちゃを押しつけるように、暗い小箱に詰めて川へ流してしまうようだったがしかたがない。
私は男であるのだから。私は一番目の男なのだから。父の跡を継ぐのはだれか。これはその家で一番最初に生を受けた男児。そう、嫡男。
子脩の兄上は果敢にも父上を助けるため身を犠牲にし天へ召された。
子昴の兄上はお身体が丈夫でらっしゃらなかった。子脩の兄上が亡くなられてから、子昴の兄上はほとんど召し上がらなくなり、どんどん痩せ細り牀から起き上がることさえもできなくなり眠っているうちにこの世からいなくなった。子脩の兄上が殺された事実はことのほか堪え、子昴の兄上のこころをじわじわ食いつくしてしまった結果だった。
丁の母上はあの父上に血を吐くほど怒鳴りわめき、手当たり次第に物を投げつけてからお屋敷を出て行って帰ってこなかった。丁の母上は子脩の兄上をとてもとても愛しておられた。血はつながっていない継母だったけれど、愛しておられたから。「わたくしが代われたらよかったのに」「わたくしの身が引き裂かれればよかったのに」「わたくしの息子を我が子を返して」丁の母上が子昴の兄上と清河の姉上を置いて行ったのは、父上が子脩の兄上の身体を持って還ることができなかったからだろう。
私も、子脩の兄上の最期の瞬間を知っていた。私も居たのだ。子脩の兄上は私の身体を持ち上げて馬に乗せてくれた。何が起こっているかは判らなかったが、黒い煙が頭の上を勢いよく漂い、炎の熱がじわりじわり肌を舐めるように迫ってくるのを感じていた。煙と炎と怒号の混じる痛さは、今でも思い出すことができる。狙いを定められつづけ、抵抗さえもままならぬ状況であること。
「子脩の兄上」私は、子脩の兄上も乗ってくださると思っていた。私ひとりだけでは心細く、怖く、あれほど死を間近に感じたことはない。兄上が死ぬとも父上が死ぬとも思ってもいなかった。物事には順序がある。四番目の指はどうなろうと一番目にはならぬはずであった。四番目の指。縁起が悪い言葉と同じ呼び名。私はどれほど情けない表情をしていたのだろう。
「子脩の兄上」問いかけに何も答えぬ代わりに、兄上はにっこり満面の笑みで馬の尻を叩いた。そういえば、目が覚めたのは、なぜか子脩の兄上に担がれていたからだ。不自然な揺れのためだ、兄上の肩が顎に当たって痛かったんだ。
馬が駆け出すのを私は止められなかった。迫る干戈の音が怖かったからだ。死にたくなかった。子脩の兄上は心底嬉しそうに手を大きく振っていた。遠ざかるほどに、子脩の兄上の御姿が小さくなって、後ろの炎が天を突くように大きくなっていった。塗りつくすような黒い煙が、赤色に照らされている。兄上。兄上。兄上。こわい。いやだ。こわい。声が出なかった。喉につっかえ、呼吸の音しかでなかった。袖を振る子脩の兄上は、私が黒染めの星空を映すまでつづいていた。
私の母上は泣きながら私を抱きしめた。ご自分の涙で私のすす汚れた頬を拭う。私を抱き上げた子脩の兄上の指先の痕が赤茶になって衣に遺っていたのを、母上の悲鳴で気がついた。兄上。私は生き延びた。子脩の兄上は、ふさわしくないはずの私も救ってしまった。
「ごめんね、丕。ごめんね、丕」
木の枝のように細くなった指先と掌で、子昴の兄上は私の頭をゆっくり撫でた。目に涙がたまっていたのは、きっと自身の身体の虚弱さと私が兄上の代わりになるであろうことへの憐れみだったからにちがいない。
不愉快だ。
どうして私をそんな瞳で見られるのだ。
私は剣術が得意だ。私は弓術が得意だ。私は強い。私は強いのだ。なのにどうして、子昴の兄上、ぼくをそんなふうに見るのだ。
「ごめんね、丕」「よろしくね、丕」「きっと、見守っているから」
ばかな子昴の兄上。私は弱くない。
自分が立っているこの場を悲しむことなどない。
幼子をあやすようなだましの言葉など、私にはなにも響かなかった。
私は父の親指として立派にならねばならぬのだ。
だから。私は子どもであることをやめたのだ。
それを知ってか知らずか、姐々は私を子どもに戻してしまう。川へ流したはずの箱を持ってきておもちゃを出す。いちど放ったものを拾い上げるなど卑しい気がして躊躇っていれば私の手を引っ張ってあくまで姐々自身の遊びとして巻き込んだ。
私が楽しんでいると思ったのか姐々はうれしそうに笑った。私はその時だけ還る。四番目の薬指に。
夏侯元譲のおじ上の庭園を走る。姐々を追いぬいて駆けめぐる。姐々はぼくにまったく追いつけない。急に立ち止まれば姐々はぼくに覆いかぶさるようにしてそのままふたり地面に倒れた。目を開けると、見上げている姐々の顔があった。身体をひねり私をかばったらしい。いやそれよりも突然のことに固まってしまったが、姐々はふきだして声を上げて笑った。喉をふるわせて大声で、ぼくもなにがおかしくてわからないけれど声を上げて笑う。笑いすぎて腹がよじれる。衣が土ぼこりに汚れるのもいとわず、ふたりで地面にころがった。
「おまちください、子桓さま」
「こちらです、姐々」
ぼくは走るのが好きだから、姐々がぜったい追いつけないとわかっていても走ってぼくを追いかけさせる。
姐々がいつ元譲のおじ上にぼくを捕まえてもらうよう頼むかどうか冷や冷やしたものだけど。
手をつないで、くるくるくる回った。右も左もわからなくなるまで、円を描いて、くるくる、くるくる。姐々の顔だけがはっきり明るく、周囲の風景が薄く影をのばしていく。くるくる、くるくる。色が変わり、まざってゆく。世界の色をこねくりまわし、ひいてゆく。
姐々は、私が知る女性からは考えられないことをした。木に登り、衣の裾をまくり水遊びに興じる。信じられない光景だったが、いっしょに走り回る姐々だから、当たり前かと気にもしなくなった。水しぶきは光に当たり、ひとつひとつをまばゆい玉にさせ姐々によく似合った。
私とはちがう世界に住んでいる姐々。姐々は私が知らない世界からやってきた。ぼくは姐々のそばにいくと姐々の世界の人間になる。
ぼくは四番目のゆび。
ああ、あそこでこちらを静かに眺めているのは元譲のおじ上。ほとんど表情が読めないいつもの顔なのに、今日はさらに静かだ。柱に身体をもたれあずけている。あの黒い瞳はすこし苦手だ。おじ上の前だと息を止めるほどに慎重になる。父上は多少のことは笑いとばしたりするけど、おじ上はまばたきをしないでじっと淡々と説く。
庭園の花をつんだ。花だけを並べ指で弾く。ぼくはおはじきが好きだった。
「私はおはじきが好きです」
「どうしてですか、子桓さま?」
「楽しいのです」
「たのしいと、どうなるのですか?」
「楽しいのが好きだから。楽しくて好きなことは、きもちがよいのです」
元譲のおじ上の屋敷には小さな水路があった。庭の池とつながっていて、どこが終わりか始まりかはなく、水路と池が一周できる形になっていた。風が吹けば水は風に誘われるがままに波をたゆたわせるのだった。
すでにいくつも姐々(チエチエ)といっしょになってとばしているから、池には花がたまっているかもしれない。
花をおもいきりはじいた。水面に載り、くるくるかわいらしくまわりながら流れていく。狙いをさだめてぼくが弾くと、水に浮き泳ぐ花に当たる。
「わあ、またあたり」
「ぼくは弓矢が得意ですから、こんなのかんたんですよ」
そう。弓術は夏侯妙才のおじ上に褒められるほどだ。妙才のおじ上のように矢を囲んだ中心に当てるのはまだできないけれど、その前まではふたつだったのに、最近は馬を走らせ的にみっつも命中させることができた。
「それに、ぼくは剣も上手なんだよ」
「子桓さまはすごいですね」
だってぼくは一番目の指。
誇らしい気持ちになった。私がすごくないなんてことはないのだ。
「今度、剣舞も騎射も姐々にごらんにいれましょう」
「楽しみにしていますね」
おにごっこも、かくれんぼもおはじきも、姐々と遊ぶのは楽しい。しかし、それよりも大人としての特技を披露するのは身体の芯が熱く沸き立ち、とめどめない歓喜に包まれるようだ。姐々の手をとって走った。世界がすべてきらめいていた。葉の深緑なる青も、花の色鮮やかな艶も、白珠を散らした水面も白き壁も夢のようにきらめいていた。陽のあたたかさは甘いかおりをともない私と姐々は胸いっぱいに吸いこむ。光のにおいがまぶしくて、世界が白く白くとけていく。
「姐々、約束ですよ」
おぼろげに世界がくるくるとめぐってゆく。花びらが舞うように、花びらは色を変え声を変え形を変え果ては雪のように降り積もる。すべてを掃きさるように覆い隠してつつむかのように。
姐々がいる。手をこちらへさしのべ招いていた。なんの疑いもなく握れば憂いを忘れてもよいとさえ思った。うつつだった。後ろを見やれば子脩のあにさまが子昴のあにさまが晴れやかに片手を振りながらゆっくりこちらに歩いていた。彰もいる、植もいる。みんながいる。これはまぼろしか現実か、境界があいまいだったけれど満ちていることだけが自分の真実なのだとはっきりわかる。そして、これは私の世界ではなかった。
たわわに花を実らせる木が、風に大きく揺られ花びらを散らす。花びらはひとつひとつ好きなようにはためきひるがえり、巻かれ自由に舞っていく。いずれは地なり水の上にたたずむけれど終わるまで好きなように吹かれていく。くるくる飛ぶ花びらは、ひとつひとつあたたかさをやどしているようだった。私がたたずんだことがない世界だった。
「約束ですよ」
耳に好い声音が木霊していた。
名も知らぬ花が咲いていた。見たことがないはずの、記憶のずっと遠くにある花が咲いていた。水面の花が波紋をひとしくなびかせている。そこは、うるわしく妖艶な世界だった。
笑って笑って笑って……………笑い疲れていつのまにか芝生の上で眠ってしまっていた。姐々が頭を撫でて背中を撫でてくれている。姐々の手のあたたかさ、草の香りと太陽の香りがまざりあい、正体が曖昧になってしまう。
目が覚めたのは自分の寝台の上。天窓からのぞく白い月がこちらをじっと見ていた。
それから姐々とは遊んでいない、会うこともなかった。薬指になることもなかった。
最後に遊んだその日は、私は屋敷をひとりで飛び出して姐々のもとへ走ったのだった。もう歳も十になるし、だいじょうぶだと決めつけのない自信があった。自らの手で閂を外し、堂々と正門を抜けたのである。
だれにもなにも告げないでおじ上の屋敷へ向かったのはことのほか大目玉を喰らい、数日は見張りの使用人を付けられ息苦しかったものだ。父上も母上もこっぴどく私に説教をした。
今にして思えば、屋敷の者すべてはこの私が勝手に姿を消すなどと想像もしていなかったにちがいない。反して、私は踏み出す言いつけをされた記憶もなにもないので良しと、ただひとり都合よく判断したのだろう。
「腕白はよい。自由なのはよい。大いに結構。しかし立場をわきまえよ」父上はおっしゃった。
「母を心配させないで、丕。弟たちも心細かったのですよ」母上は言った。「あなたは長兄なのですよ」
植はふくれていた。「あにさま、ずるいな、いいな、あにさま、すごいな」私がたったひとりで屋敷を抜け出したのを羨望のまなざしでみつめていた。ふくれたほほの植は、私の真似なのかしきりに塀を登ろうとしたりこっそり門から外へ出ようとしたり、いたいけな反抗を垣間見せる。
彰は木の枝の先から塀に飛び移ろうとした際どいところで見つかって止められては「にいさんはできたのにっ」などとわめいて使用人たちをおおいに焦らせた。
しばらくは弟たちにまるで英雄のように羨ましがられた。
そうか。長子の私が好き勝手に動いては下の弟たちが真似をしてしまうか。長子としてあまりにも軽はずみであった。己を省み、長子として恥ずかしくない振る舞いをすること、それは私に課せられた義務であり責務であるのだ。
厳格に冷静に自らを律した人間へと曹子桓は在らねばならない。なぜなら、曹丕は親指であるのだから。
「あにさま」
目の前いっぱいに可愛い曹植の顔があった。
「来ていたのか。来るまえに使いのひとりやふり、寄越してくれ」
弟の突然の訪れに曹丕はいとおしくなった。約束をとりつけず気が向くままで歩く奔放さは、だれかには礼儀知らずの印象を与えるだろうが、まただれかには曹植だからと納得とかわいらしさを感じさせる。
曹丕は寝台に背をつけたまま、光になじまない眼で曹植を見つめた。
手を伸ばして成長しても未だやわらかそうな頬に触れようとすると避けられる。避けられれば余計にも求めたくなるのはだれでも持つ欲だろう。しかし曹植はことごとく兄の手をかわしてしまう。
「植、すこしくらいいいだろう、絶妙なんだ、おまえのほほ」
「やめてよ」
「歳はいくつになったか。そのやわらかさが固くなってしまうだなんて、兄は受け入れがたい」
「あにさま、ちゃんと起きて」
曹植はため息をついてあきらめた。
ようやく揉んだ頬は肉が薄く触り心地が良いとは言えなかった。
「どうしたんだ、植。なんで。こんなのおかしい、おまえのほほがこんなにも……………」
「ずいぶんと良い夢を視てらっしゃる」
曹植が狼のような目つきの男になった。弟ではないとようやく気づき、曹丕は身体を退かせた。
「仲達……………」
「このような頬で申し訳ありませんね、丕さま」
「仲達、すまない、寝惚けていたのだ。もう起きた」
「私は子建殿とはずいぶん歳が離れていますからね」
「わかった、わかったから。すまない、怒るな」
「怒ってなどいませんとも」
司馬懿仲達。曹丕に付けられた学問の師である。父曹操が是非にと召し抱えた逸材で、司馬懿の兄、司馬朗とすぐ下の弟司馬も登用されている。司馬孚は曹植の学問の師を務めている。
「良い夢見でしたね」
「わかるか」
「ほほえんでらしたからね。起こそうかしばし悩みました」
「すぐ起こしてもらってかまわなかったのに」
「いいえ、あなたの穏やかなひとときは私のひとときでもあります。これでもだいぶ待っていたのですよ。まあ、結果として起こしてしまいましたが」
「なにかあったのか」
「いいえ、なにもございません。まあ、しいて言うならば、そうですね」
意外に骨ばった指先で顎先を支えしばし目を上へ向けた。
「お天気もよろしいですし、お散歩にでもいかがかとお誘いに来たのですよ」
外から風が吹いて居室のなかを巻きこみながらめぐっていく。居室の前にある木々と葉のゆらめきが狼のような風貌にまたたく影をさした。
陽は多少、頂からかたむいていた。暑くはなく、また寒くもない。
屋敷の庭は緑が映え、ところどころに白い花をつけている。曹丕は司馬懿の前を歩いて、司馬懿はわずかに後を従っていた。
司馬懿をはじめ、兄弟たちはみな背が高かった。全員を直接知っているわけではないが、八人もの大柄が列をなしていたならばさぞ壮観だろうと曹丕は思う。
長兄の司馬朗は幼いころ、大柄をからかわれたことがあるのだと、司馬懿が言っていた。
司馬懿は曹丕の耳もとで話すには少しかがまねばならないほど身長があった。
「夢は、どのようでしたか?」
「むかしのことを、すこし」
「私が知らない頃のですね。丕様はさぞ、かわいらしかったのでしょう」
「いやはや、どうだろうな。私は愛嬌がない」
可愛いなんぞ言葉が浮かぶのは曹植や曹彰たちを含む弟妹たちだ。ころころ顔をほころばす。
「笑うのは苦手だ」
「天真のみが愛らしいとは言いますまい。幼子はどのようであれ、ひとしくかわいいものです」
「そのような言葉、かけてもらった記憶がない」
「丕様は丞相の嫡男としてご自分の立場を理解していた聡明な御子だったのでしょう。大人は軽薄ですからね。丕様の立派なお姿に気後れしたのですよ」
司馬懿は曹丕が欲しいものをくれる。会ったときから感じていた。まるで、曹丕自身の心のなかへ入ってくるような寄り添い方だった。拗ねて閉じこもっていても仲達は部屋の前で自分が自ら出てくるのを待ちつづけてくれているような。心地よさは時として毒になると用心しつつも、警戒がおろそかになってしまう。
甘やかされているとはちがうと思う。
「仲達はいつも私を褒めてくれるのだな」
「本当のことを申したままですがね。あなたは気を張っておられる。人を見る目はいい方なのですよ」
「おまえに気づかれているなら、みな、気づいているだろうか」
おや、と司馬懿は首を面白くなさそうにかしげた。
「不満でも?」
「気を張っている、とは思われたくはない。演技をしているようだろう」
曹孟徳の嫡男であるにふさわしい雰囲気を求めていた。それが自然に目元から、肩から、口元から、指先から、背中から、足元から、爪先から髪の一本一本先から、全身から滲んでいなければならない。父の威厳に載ったものではなく、父に似ているかつ曹子桓であるべき無二のものだ。
「志が高くていらっしゃる」
「当たり前だ。演技は、造られたものは偽物だと思われるやも。それは私への不信につながる」
「ご安心なされませ。丕様は丕様の矜持が備わっておられます」
まただ。司馬懿は褒める。
「丕様は時代にふさわしい風格を日々身につけておられます」
「はて、なあ」
「不安がおありなら、ここで吐いてしまいなさい。私しかいません」
司馬懿は立ち止まり、やわらかに覆うよう語りかけた。曹丕は振り向いた。
目下の不安。父曹孟徳の後継はまだ決まっていない。曹操が健在だからというのもあるが、曹操自身が決めかねているらしい噂が流れている。
後継者に名が挙がっているのはおおまかに三人いた。まずは曹丕、そして実弟曹植子建、もうひとり九歳年下の異母弟曹沖である。
「不安なんて」
曹植は父に愛されている。曹沖も父に愛されている。ならば、私は?いや愛されることとふさわしいこととは別だ。
父に愛される要因とは。曹植は詩がずば抜けている。だれもが手を叩いて喝采する。だれかが植の詩を「後世に末永く伝えられ万人が感嘆するでしょう」と才能を讃えていた。兄の欲目だろうが、我が弟に栄光が贈られる有様は気分が大変に良い。
曹沖は利発で、人が見落としてしまいがちな細かい部分にも視線をめぐらし、時には策とも言える状況整理をすることができ、命を救った結果になった話もある。
三人のうちに入っていない実弟曹彰だが、父に愛されている。戦場においてひときわ苛烈な猛攻をしかける弟は野蛮とされようと映えるのだ。父自ら書を贈られようが「強い将軍になりたい」と見向きもしない。しかし、父は「それでこそ我が彰だ」と満足している。
ならば、私は?曹丕は深い溝にはまる寸でで我に返った。
選ばれないなんて、有り得ない。
「いや、ないな」
「さようですか」
曹丕は散歩を再開した。司馬懿も後につづく。
「丕様、お忘れなきよう」
司馬懿の声がまた入ってくる。そして、最後の助けの糸とでも言うふうにささやいた。
「私はなにがあろうと常に丕様に控えております」
もしも、姐々がこの場に、仲達の代わりに散歩に付き合ってくれていたのなら、どうだったろうか。願い叶わぬことだが、だからこそ想像が飛躍してしまう。
きっと姐々は仲達のような先手を打った褒めはしまい。どこにでもあるありふれた話題しかでてこないだろう。作った詩を披露し合い、猫が迷いこんできた、こっそりひとり市場へ出て元譲のおじ上に叱られた、そのような。そして、自分が不意に溝へ片足を踏み込んでしまったのなら、さりげなく茶にでも誘ってくれるのだろう。四番目の薬指にみちびいてくれるのだろう。
だが、姐々は自分が溝で身動きがままならぬのを気づきにもならないかもしれない。それでも、とりとめのない姐々の話は、関わりがないからこそ曹丕に癒しと忘却のつかのまの安らぎをもたらすだろう。
しかし、もう、姐々はこの世にいない。
四番目の薬指に戻りたがっていた。憂いがないあの時代が恋しくてたまらないのは、夢を視たせいだ。いけない。己を律しなければいけない。
夢に引きずられている。髪を引かれるような傷の痛みのようだと曹丕は悟られぬよう肩を落とした。
「物を思いすぎるのは御身体に悪うございます」
「物思いなんてしていない」
「ならばそのように眼を伏しません」
「考えごとだ」
「思い詰めるのはよくないと申しています。御身体を崩されては私も胸が痛い」
「仲達はおかしなことを言う」
「とんでもありません」
それから、たがいに言葉を発せずに歩いた。芝生の上を、石畳の上を、風がやんだり吹いたりをくりかえし、ともなって白い花がうなずくようにふるえていた。
「丕様、指が動いておりまする」
右手のひとさし指と親弓がこすりつけ合っていた。これは、おはじきをやり過ぎた癖だった。意識していないのに動いてしまう。
「なかなかに、治らない」
「どれほどやり込んだのですか?」
「さあな。飽きる以上にだろうかなあ」
なぜか満足げに司馬懿は目を細めた。
「一興、お相手いたしましょうか」
「子どもに戻れと?無茶な」
鳥の鳴き声がしたので見上げると、陽光がうっそうと生え誇る緑の葉から満天のきらめきをまたたかせている。まるで夢のつづきのようだ。
これは昔の夢である。
可愛い弟ができたのを覚えている。あにさま、あねさまと呼んでいた小さな自分が、あにさまと呼ばれる日が来た。
子脩のあにさま、子昴のあにさま、清河のあねさま。一、二、三、四と一本ずつ指を折り、自分は四番目だった。四、とは死を連想するからなんとなく縁起が悪い。
一、二、三、四、五。左手の指の小指になったのは姓は曹、名は彰、字は子文の弟だった。
彰は元気がよく、うるさいほど、いやたまらなくうるさい。泣き声で夜に起こされたのは母や乳母、父だけではなかった。子脩のあにさまもよく彰の話を出して、「あの子はどうしてあんなに大きな声なのだろうねえ」苦笑まじりにして呟いていたのだった。「彰が大きくなったら、なんでずっと泣いていたの?って聞いてみようか」
あやつのけたたましさは信じられなかった。口になにか入っているから泣くのかと不思議に思ったので、つい彰の口に指を入れてしまった。結果から言えばそれは大失敗だった。生えかけの赤子の歯といえど思いっきり噛まれれば跳び上がるほど痛かった。
一、二、三、四、五、六。左手がすべて広がってしまったので、右手の親指を使う。右手の一番始めになったのは、姓は曹、名は植、字は子建の弟だった。植もうるさかったが、彰ほどではなかった。
彰は稀に見る相当な逸材だったのだ。植は彰とくらべおとなしかった。そして、とても可愛かった。彰が可愛くないわけではない。ただ、彰は負けん気が強いというのか我が強いというのか日がな一日棒きれを手にわざと危ないことをしている。たとえば、欄干の上を歩く、屋根にのぼり走り回る。池に飛びこみ素手で魚を捕まえようとする。そしてわざと大きな物音を立て、戸を壊そうとする。つまり、やかましいのだった。豪快に、にいさん、にいさんと呼ばれるのは悪くなかった。ただ、力を上手く加減できない節もある。
彰は書が大嫌いだ。子文、立派な字があるのに襟を平気で乱し、私が書を読むあいだおまえも読め、私に倣えと言えばよく癇癪を起した。しかし、父上は彰のそういうところを愛しているようだ。母上にとっても乱暴者と言えなくもない息子なはずなのに元気がありあまる子としか映っていないらしい。
彰は武芸に秀で、無謀とも言える突撃を好み命をはでに爆ぜさせる戦闘を好んでいることを私は知っている。弓矢、槍、剣技、すべてをよくこなすが本人は自らの拳を駆使することを一等好んでいるのも知っていた。
「弓と剣だけは、にいさんにかなわないよ」
屈託のない笑みで可愛いことを言う。
「あにさま、まって」
背を引かれる。前へ前へと足音が大きい彰とはちがうもうひとりの弟であるちいさい植。
ちいさい弟は、文字に興味を持つ、書を読んでやると喜ぶ、私と趣向が似通っていた。
あにさま、あにさま。舌足らずに呼ばれるとくすぐったい気持ちになって、やれやれ仕方あるまいよなどと相手をしたくなってしまう。自分が兄上にしていた姿を見せられているようで恥ずかしくもなったが、理由もなく受け入れてやりたいのだった。
あにさま、あにさま。私が歩けば植も付いてくる。いじわるな欲求もわいてくる。これには抗えない。右に曲がれば右に。左と見せかけて右に曲がれば慌てて右に。早歩きで植との距離を十分にとり、柱の影に隠れれば、幼い植には私が忽然と消えてしまったように映ったそうで、あにさま、言葉にならない声で私を探し回る様子を眺めるのは愉快でたまらなかった。
書を読んでいると自分もそれがいいと言う。弓術をすれば自分もすると言って、小さいくせに五つも歳の離れた自分のまねをする。そして、案の定、植は弦を思いっきり弾かせ小さな手のひらに赤い線を一筋作ったのだった。雷が頭に直撃したのではと疑うほど、彰よりも大きい声で泣きわめいた。
一、二、三、四、五、六の指のうち、左の一、二が三、四、五、六の指が曲がっているのに真っすぐに伸びた。左手の指、親指とひとさし指が伸びたのは突然だった。始めに親指が、つぎに間を空けてひとさし指が。私は薬指でありながら二番目になり男兄弟のなかでは一番目となってしまった。
姐々(チエチエ)、と呼び慕うひとができた。
夏侯元譲のおじ上が連れるようになったひとだった。だれだこいつは。はじめて会ったときそう思った。なぜか人のような気がしなかった。魂のような芯のようなものが無い気がしたからだ。
理嬢という名は半分は父上が名づけたらしい。歳も私より上だそうで、ならば半分は私の姉になるのだろうか。
おじ上が連れてきたこの人をただ単に名で呼んだり、「おい」だの「おまえ」だの失礼があってはいけないのではないだろうか。だから、姉上ではなく姐々と呼ばせてもらうことにした。
姐々はわたしを子ども扱いした。
清河の姉上とはちがう。清河の姉上は父上に似ていた。そして威厳を以て私に接していたからだ。清河の姉上は丁母上に、いわゆる良き淑女となるための礼儀作法を身につけさせられていた。そして、弟でありながら幼いながらも男児は男児、親指とひとさし指が伸びてからはひとりの男として見られていたのだと思う。清河の姉上はまなざしが父上に似ていた。そして、実の兄たち子脩の兄上、子昴の兄上にもどことなく顔立ちが似ていたから、清河の姉上に認められることは三人の大人に認められているようで、誇らしい気持ちになっていた。
姐々はちがった。二度目に会ったときから「ちえちえ」と呼ぶとはにかんで、すこし困った顔をした。
弟ができてから、私は弟たちがするような遊びをやめた。大切なおもちゃを押しつけるように、暗い小箱に詰めて川へ流してしまうようだったがしかたがない。
私は男であるのだから。私は一番目の男なのだから。父の跡を継ぐのはだれか。これはその家で一番最初に生を受けた男児。そう、嫡男。
子脩の兄上は果敢にも父上を助けるため身を犠牲にし天へ召された。
子昴の兄上はお身体が丈夫でらっしゃらなかった。子脩の兄上が亡くなられてから、子昴の兄上はほとんど召し上がらなくなり、どんどん痩せ細り牀から起き上がることさえもできなくなり眠っているうちにこの世からいなくなった。子脩の兄上が殺された事実はことのほか堪え、子昴の兄上のこころをじわじわ食いつくしてしまった結果だった。
丁の母上はあの父上に血を吐くほど怒鳴りわめき、手当たり次第に物を投げつけてからお屋敷を出て行って帰ってこなかった。丁の母上は子脩の兄上をとてもとても愛しておられた。血はつながっていない継母だったけれど、愛しておられたから。「わたくしが代われたらよかったのに」「わたくしの身が引き裂かれればよかったのに」「わたくしの息子を我が子を返して」丁の母上が子昴の兄上と清河の姉上を置いて行ったのは、父上が子脩の兄上の身体を持って還ることができなかったからだろう。
私も、子脩の兄上の最期の瞬間を知っていた。私も居たのだ。子脩の兄上は私の身体を持ち上げて馬に乗せてくれた。何が起こっているかは判らなかったが、黒い煙が頭の上を勢いよく漂い、炎の熱がじわりじわり肌を舐めるように迫ってくるのを感じていた。煙と炎と怒号の混じる痛さは、今でも思い出すことができる。狙いを定められつづけ、抵抗さえもままならぬ状況であること。
「子脩の兄上」私は、子脩の兄上も乗ってくださると思っていた。私ひとりだけでは心細く、怖く、あれほど死を間近に感じたことはない。兄上が死ぬとも父上が死ぬとも思ってもいなかった。物事には順序がある。四番目の指はどうなろうと一番目にはならぬはずであった。四番目の指。縁起が悪い言葉と同じ呼び名。私はどれほど情けない表情をしていたのだろう。
「子脩の兄上」問いかけに何も答えぬ代わりに、兄上はにっこり満面の笑みで馬の尻を叩いた。そういえば、目が覚めたのは、なぜか子脩の兄上に担がれていたからだ。不自然な揺れのためだ、兄上の肩が顎に当たって痛かったんだ。
馬が駆け出すのを私は止められなかった。迫る干戈の音が怖かったからだ。死にたくなかった。子脩の兄上は心底嬉しそうに手を大きく振っていた。遠ざかるほどに、子脩の兄上の御姿が小さくなって、後ろの炎が天を突くように大きくなっていった。塗りつくすような黒い煙が、赤色に照らされている。兄上。兄上。兄上。こわい。いやだ。こわい。声が出なかった。喉につっかえ、呼吸の音しかでなかった。袖を振る子脩の兄上は、私が黒染めの星空を映すまでつづいていた。
私の母上は泣きながら私を抱きしめた。ご自分の涙で私のすす汚れた頬を拭う。私を抱き上げた子脩の兄上の指先の痕が赤茶になって衣に遺っていたのを、母上の悲鳴で気がついた。兄上。私は生き延びた。子脩の兄上は、ふさわしくないはずの私も救ってしまった。
「ごめんね、丕。ごめんね、丕」
木の枝のように細くなった指先と掌で、子昴の兄上は私の頭をゆっくり撫でた。目に涙がたまっていたのは、きっと自身の身体の虚弱さと私が兄上の代わりになるであろうことへの憐れみだったからにちがいない。
不愉快だ。
どうして私をそんな瞳で見られるのだ。
私は剣術が得意だ。私は弓術が得意だ。私は強い。私は強いのだ。なのにどうして、子昴の兄上、ぼくをそんなふうに見るのだ。
「ごめんね、丕」「よろしくね、丕」「きっと、見守っているから」
ばかな子昴の兄上。私は弱くない。
自分が立っているこの場を悲しむことなどない。
幼子をあやすようなだましの言葉など、私にはなにも響かなかった。
私は父の親指として立派にならねばならぬのだ。
だから。私は子どもであることをやめたのだ。
それを知ってか知らずか、姐々は私を子どもに戻してしまう。川へ流したはずの箱を持ってきておもちゃを出す。いちど放ったものを拾い上げるなど卑しい気がして躊躇っていれば私の手を引っ張ってあくまで姐々自身の遊びとして巻き込んだ。
私が楽しんでいると思ったのか姐々はうれしそうに笑った。私はその時だけ還る。四番目の薬指に。
夏侯元譲のおじ上の庭園を走る。姐々を追いぬいて駆けめぐる。姐々はぼくにまったく追いつけない。急に立ち止まれば姐々はぼくに覆いかぶさるようにしてそのままふたり地面に倒れた。目を開けると、見上げている姐々の顔があった。身体をひねり私をかばったらしい。いやそれよりも突然のことに固まってしまったが、姐々はふきだして声を上げて笑った。喉をふるわせて大声で、ぼくもなにがおかしくてわからないけれど声を上げて笑う。笑いすぎて腹がよじれる。衣が土ぼこりに汚れるのもいとわず、ふたりで地面にころがった。
「おまちください、子桓さま」
「こちらです、姐々」
ぼくは走るのが好きだから、姐々がぜったい追いつけないとわかっていても走ってぼくを追いかけさせる。
姐々がいつ元譲のおじ上にぼくを捕まえてもらうよう頼むかどうか冷や冷やしたものだけど。
手をつないで、くるくるくる回った。右も左もわからなくなるまで、円を描いて、くるくる、くるくる。姐々の顔だけがはっきり明るく、周囲の風景が薄く影をのばしていく。くるくる、くるくる。色が変わり、まざってゆく。世界の色をこねくりまわし、ひいてゆく。
姐々は、私が知る女性からは考えられないことをした。木に登り、衣の裾をまくり水遊びに興じる。信じられない光景だったが、いっしょに走り回る姐々だから、当たり前かと気にもしなくなった。水しぶきは光に当たり、ひとつひとつをまばゆい玉にさせ姐々によく似合った。
私とはちがう世界に住んでいる姐々。姐々は私が知らない世界からやってきた。ぼくは姐々のそばにいくと姐々の世界の人間になる。
ぼくは四番目のゆび。
ああ、あそこでこちらを静かに眺めているのは元譲のおじ上。ほとんど表情が読めないいつもの顔なのに、今日はさらに静かだ。柱に身体をもたれあずけている。あの黒い瞳はすこし苦手だ。おじ上の前だと息を止めるほどに慎重になる。父上は多少のことは笑いとばしたりするけど、おじ上はまばたきをしないでじっと淡々と説く。
庭園の花をつんだ。花だけを並べ指で弾く。ぼくはおはじきが好きだった。
「私はおはじきが好きです」
「どうしてですか、子桓さま?」
「楽しいのです」
「たのしいと、どうなるのですか?」
「楽しいのが好きだから。楽しくて好きなことは、きもちがよいのです」
元譲のおじ上の屋敷には小さな水路があった。庭の池とつながっていて、どこが終わりか始まりかはなく、水路と池が一周できる形になっていた。風が吹けば水は風に誘われるがままに波をたゆたわせるのだった。
すでにいくつも姐々(チエチエ)といっしょになってとばしているから、池には花がたまっているかもしれない。
花をおもいきりはじいた。水面に載り、くるくるかわいらしくまわりながら流れていく。狙いをさだめてぼくが弾くと、水に浮き泳ぐ花に当たる。
「わあ、またあたり」
「ぼくは弓矢が得意ですから、こんなのかんたんですよ」
そう。弓術は夏侯妙才のおじ上に褒められるほどだ。妙才のおじ上のように矢を囲んだ中心に当てるのはまだできないけれど、その前まではふたつだったのに、最近は馬を走らせ的にみっつも命中させることができた。
「それに、ぼくは剣も上手なんだよ」
「子桓さまはすごいですね」
だってぼくは一番目の指。
誇らしい気持ちになった。私がすごくないなんてことはないのだ。
「今度、剣舞も騎射も姐々にごらんにいれましょう」
「楽しみにしていますね」
おにごっこも、かくれんぼもおはじきも、姐々と遊ぶのは楽しい。しかし、それよりも大人としての特技を披露するのは身体の芯が熱く沸き立ち、とめどめない歓喜に包まれるようだ。姐々の手をとって走った。世界がすべてきらめいていた。葉の深緑なる青も、花の色鮮やかな艶も、白珠を散らした水面も白き壁も夢のようにきらめいていた。陽のあたたかさは甘いかおりをともない私と姐々は胸いっぱいに吸いこむ。光のにおいがまぶしくて、世界が白く白くとけていく。
「姐々、約束ですよ」
おぼろげに世界がくるくるとめぐってゆく。花びらが舞うように、花びらは色を変え声を変え形を変え果ては雪のように降り積もる。すべてを掃きさるように覆い隠してつつむかのように。
姐々がいる。手をこちらへさしのべ招いていた。なんの疑いもなく握れば憂いを忘れてもよいとさえ思った。うつつだった。後ろを見やれば子脩のあにさまが子昴のあにさまが晴れやかに片手を振りながらゆっくりこちらに歩いていた。彰もいる、植もいる。みんながいる。これはまぼろしか現実か、境界があいまいだったけれど満ちていることだけが自分の真実なのだとはっきりわかる。そして、これは私の世界ではなかった。
たわわに花を実らせる木が、風に大きく揺られ花びらを散らす。花びらはひとつひとつ好きなようにはためきひるがえり、巻かれ自由に舞っていく。いずれは地なり水の上にたたずむけれど終わるまで好きなように吹かれていく。くるくる飛ぶ花びらは、ひとつひとつあたたかさをやどしているようだった。私がたたずんだことがない世界だった。
「約束ですよ」
耳に好い声音が木霊していた。
名も知らぬ花が咲いていた。見たことがないはずの、記憶のずっと遠くにある花が咲いていた。水面の花が波紋をひとしくなびかせている。そこは、うるわしく妖艶な世界だった。
笑って笑って笑って……………笑い疲れていつのまにか芝生の上で眠ってしまっていた。姐々が頭を撫でて背中を撫でてくれている。姐々の手のあたたかさ、草の香りと太陽の香りがまざりあい、正体が曖昧になってしまう。
目が覚めたのは自分の寝台の上。天窓からのぞく白い月がこちらをじっと見ていた。
それから姐々とは遊んでいない、会うこともなかった。薬指になることもなかった。
最後に遊んだその日は、私は屋敷をひとりで飛び出して姐々のもとへ走ったのだった。もう歳も十になるし、だいじょうぶだと決めつけのない自信があった。自らの手で閂を外し、堂々と正門を抜けたのである。
だれにもなにも告げないでおじ上の屋敷へ向かったのはことのほか大目玉を喰らい、数日は見張りの使用人を付けられ息苦しかったものだ。父上も母上もこっぴどく私に説教をした。
今にして思えば、屋敷の者すべてはこの私が勝手に姿を消すなどと想像もしていなかったにちがいない。反して、私は踏み出す言いつけをされた記憶もなにもないので良しと、ただひとり都合よく判断したのだろう。
「腕白はよい。自由なのはよい。大いに結構。しかし立場をわきまえよ」父上はおっしゃった。
「母を心配させないで、丕。弟たちも心細かったのですよ」母上は言った。「あなたは長兄なのですよ」
植はふくれていた。「あにさま、ずるいな、いいな、あにさま、すごいな」私がたったひとりで屋敷を抜け出したのを羨望のまなざしでみつめていた。ふくれたほほの植は、私の真似なのかしきりに塀を登ろうとしたりこっそり門から外へ出ようとしたり、いたいけな反抗を垣間見せる。
彰は木の枝の先から塀に飛び移ろうとした際どいところで見つかって止められては「にいさんはできたのにっ」などとわめいて使用人たちをおおいに焦らせた。
しばらくは弟たちにまるで英雄のように羨ましがられた。
そうか。長子の私が好き勝手に動いては下の弟たちが真似をしてしまうか。長子としてあまりにも軽はずみであった。己を省み、長子として恥ずかしくない振る舞いをすること、それは私に課せられた義務であり責務であるのだ。
厳格に冷静に自らを律した人間へと曹子桓は在らねばならない。なぜなら、曹丕は親指であるのだから。
「あにさま」
目の前いっぱいに可愛い曹植の顔があった。
「来ていたのか。来るまえに使いのひとりやふり、寄越してくれ」
弟の突然の訪れに曹丕はいとおしくなった。約束をとりつけず気が向くままで歩く奔放さは、だれかには礼儀知らずの印象を与えるだろうが、まただれかには曹植だからと納得とかわいらしさを感じさせる。
曹丕は寝台に背をつけたまま、光になじまない眼で曹植を見つめた。
手を伸ばして成長しても未だやわらかそうな頬に触れようとすると避けられる。避けられれば余計にも求めたくなるのはだれでも持つ欲だろう。しかし曹植はことごとく兄の手をかわしてしまう。
「植、すこしくらいいいだろう、絶妙なんだ、おまえのほほ」
「やめてよ」
「歳はいくつになったか。そのやわらかさが固くなってしまうだなんて、兄は受け入れがたい」
「あにさま、ちゃんと起きて」
曹植はため息をついてあきらめた。
ようやく揉んだ頬は肉が薄く触り心地が良いとは言えなかった。
「どうしたんだ、植。なんで。こんなのおかしい、おまえのほほがこんなにも……………」
「ずいぶんと良い夢を視てらっしゃる」
曹植が狼のような目つきの男になった。弟ではないとようやく気づき、曹丕は身体を退かせた。
「仲達……………」
「このような頬で申し訳ありませんね、丕さま」
「仲達、すまない、寝惚けていたのだ。もう起きた」
「私は子建殿とはずいぶん歳が離れていますからね」
「わかった、わかったから。すまない、怒るな」
「怒ってなどいませんとも」
司馬懿仲達。曹丕に付けられた学問の師である。父曹操が是非にと召し抱えた逸材で、司馬懿の兄、司馬朗とすぐ下の弟司馬も登用されている。司馬孚は曹植の学問の師を務めている。
「良い夢見でしたね」
「わかるか」
「ほほえんでらしたからね。起こそうかしばし悩みました」
「すぐ起こしてもらってかまわなかったのに」
「いいえ、あなたの穏やかなひとときは私のひとときでもあります。これでもだいぶ待っていたのですよ。まあ、結果として起こしてしまいましたが」
「なにかあったのか」
「いいえ、なにもございません。まあ、しいて言うならば、そうですね」
意外に骨ばった指先で顎先を支えしばし目を上へ向けた。
「お天気もよろしいですし、お散歩にでもいかがかとお誘いに来たのですよ」
外から風が吹いて居室のなかを巻きこみながらめぐっていく。居室の前にある木々と葉のゆらめきが狼のような風貌にまたたく影をさした。
陽は多少、頂からかたむいていた。暑くはなく、また寒くもない。
屋敷の庭は緑が映え、ところどころに白い花をつけている。曹丕は司馬懿の前を歩いて、司馬懿はわずかに後を従っていた。
司馬懿をはじめ、兄弟たちはみな背が高かった。全員を直接知っているわけではないが、八人もの大柄が列をなしていたならばさぞ壮観だろうと曹丕は思う。
長兄の司馬朗は幼いころ、大柄をからかわれたことがあるのだと、司馬懿が言っていた。
司馬懿は曹丕の耳もとで話すには少しかがまねばならないほど身長があった。
「夢は、どのようでしたか?」
「むかしのことを、すこし」
「私が知らない頃のですね。丕様はさぞ、かわいらしかったのでしょう」
「いやはや、どうだろうな。私は愛嬌がない」
可愛いなんぞ言葉が浮かぶのは曹植や曹彰たちを含む弟妹たちだ。ころころ顔をほころばす。
「笑うのは苦手だ」
「天真のみが愛らしいとは言いますまい。幼子はどのようであれ、ひとしくかわいいものです」
「そのような言葉、かけてもらった記憶がない」
「丕様は丞相の嫡男としてご自分の立場を理解していた聡明な御子だったのでしょう。大人は軽薄ですからね。丕様の立派なお姿に気後れしたのですよ」
司馬懿は曹丕が欲しいものをくれる。会ったときから感じていた。まるで、曹丕自身の心のなかへ入ってくるような寄り添い方だった。拗ねて閉じこもっていても仲達は部屋の前で自分が自ら出てくるのを待ちつづけてくれているような。心地よさは時として毒になると用心しつつも、警戒がおろそかになってしまう。
甘やかされているとはちがうと思う。
「仲達はいつも私を褒めてくれるのだな」
「本当のことを申したままですがね。あなたは気を張っておられる。人を見る目はいい方なのですよ」
「おまえに気づかれているなら、みな、気づいているだろうか」
おや、と司馬懿は首を面白くなさそうにかしげた。
「不満でも?」
「気を張っている、とは思われたくはない。演技をしているようだろう」
曹孟徳の嫡男であるにふさわしい雰囲気を求めていた。それが自然に目元から、肩から、口元から、指先から、背中から、足元から、爪先から髪の一本一本先から、全身から滲んでいなければならない。父の威厳に載ったものではなく、父に似ているかつ曹子桓であるべき無二のものだ。
「志が高くていらっしゃる」
「当たり前だ。演技は、造られたものは偽物だと思われるやも。それは私への不信につながる」
「ご安心なされませ。丕様は丕様の矜持が備わっておられます」
まただ。司馬懿は褒める。
「丕様は時代にふさわしい風格を日々身につけておられます」
「はて、なあ」
「不安がおありなら、ここで吐いてしまいなさい。私しかいません」
司馬懿は立ち止まり、やわらかに覆うよう語りかけた。曹丕は振り向いた。
目下の不安。父曹孟徳の後継はまだ決まっていない。曹操が健在だからというのもあるが、曹操自身が決めかねているらしい噂が流れている。
後継者に名が挙がっているのはおおまかに三人いた。まずは曹丕、そして実弟曹植子建、もうひとり九歳年下の異母弟曹沖である。
「不安なんて」
曹植は父に愛されている。曹沖も父に愛されている。ならば、私は?いや愛されることとふさわしいこととは別だ。
父に愛される要因とは。曹植は詩がずば抜けている。だれもが手を叩いて喝采する。だれかが植の詩を「後世に末永く伝えられ万人が感嘆するでしょう」と才能を讃えていた。兄の欲目だろうが、我が弟に栄光が贈られる有様は気分が大変に良い。
曹沖は利発で、人が見落としてしまいがちな細かい部分にも視線をめぐらし、時には策とも言える状況整理をすることができ、命を救った結果になった話もある。
三人のうちに入っていない実弟曹彰だが、父に愛されている。戦場においてひときわ苛烈な猛攻をしかける弟は野蛮とされようと映えるのだ。父自ら書を贈られようが「強い将軍になりたい」と見向きもしない。しかし、父は「それでこそ我が彰だ」と満足している。
ならば、私は?曹丕は深い溝にはまる寸でで我に返った。
選ばれないなんて、有り得ない。
「いや、ないな」
「さようですか」
曹丕は散歩を再開した。司馬懿も後につづく。
「丕様、お忘れなきよう」
司馬懿の声がまた入ってくる。そして、最後の助けの糸とでも言うふうにささやいた。
「私はなにがあろうと常に丕様に控えております」
もしも、姐々がこの場に、仲達の代わりに散歩に付き合ってくれていたのなら、どうだったろうか。願い叶わぬことだが、だからこそ想像が飛躍してしまう。
きっと姐々は仲達のような先手を打った褒めはしまい。どこにでもあるありふれた話題しかでてこないだろう。作った詩を披露し合い、猫が迷いこんできた、こっそりひとり市場へ出て元譲のおじ上に叱られた、そのような。そして、自分が不意に溝へ片足を踏み込んでしまったのなら、さりげなく茶にでも誘ってくれるのだろう。四番目の薬指にみちびいてくれるのだろう。
だが、姐々は自分が溝で身動きがままならぬのを気づきにもならないかもしれない。それでも、とりとめのない姐々の話は、関わりがないからこそ曹丕に癒しと忘却のつかのまの安らぎをもたらすだろう。
しかし、もう、姐々はこの世にいない。
四番目の薬指に戻りたがっていた。憂いがないあの時代が恋しくてたまらないのは、夢を視たせいだ。いけない。己を律しなければいけない。
夢に引きずられている。髪を引かれるような傷の痛みのようだと曹丕は悟られぬよう肩を落とした。
「物を思いすぎるのは御身体に悪うございます」
「物思いなんてしていない」
「ならばそのように眼を伏しません」
「考えごとだ」
「思い詰めるのはよくないと申しています。御身体を崩されては私も胸が痛い」
「仲達はおかしなことを言う」
「とんでもありません」
それから、たがいに言葉を発せずに歩いた。芝生の上を、石畳の上を、風がやんだり吹いたりをくりかえし、ともなって白い花がうなずくようにふるえていた。
「丕様、指が動いておりまする」
右手のひとさし指と親弓がこすりつけ合っていた。これは、おはじきをやり過ぎた癖だった。意識していないのに動いてしまう。
「なかなかに、治らない」
「どれほどやり込んだのですか?」
「さあな。飽きる以上にだろうかなあ」
なぜか満足げに司馬懿は目を細めた。
「一興、お相手いたしましょうか」
「子どもに戻れと?無茶な」
鳥の鳴き声がしたので見上げると、陽光がうっそうと生え誇る緑の葉から満天のきらめきをまたたかせている。まるで夢のつづきのようだ。