第十章 沈黙 黄昏にさ迷う
四
静寂の夜が去ると、どこか影のある爽快な晴れが広がった。何度もおなじ夜とおなじ朝がくりかえされるなか、あるひとりが夏侯邸の門をくぐった。主へのお目通りと目的の旨を一番最初に聞いたのは明雪であった。
「ひさしぶりね、姜維」
姜維は記憶にあるすがたよりも、はるかに様相を異なっていた。
目つきは明るさを失い、落ち着いたというよりも沈み、暴発をつねにおさえこんでいる。または、火に投げ棄てた手紙が灰になるまで見張っているような。そんな色だ。
「あなたも、お変わりなく、明雪さま」
「どんな御用かしら?」
「元譲さまは居られますか」
「居らっしゃるわ。どうしたの、旦那さまに」
「このたび故郷に、いえ、天水の地にて任を正式に司ることになりましたので、ご報告を」
「栄転ね」
「ありがとうございます」
「褒めたわけではないのよ、勘違いしないでちょうだい」
「では、どのようなおつもりだったのでしょうか?」
「御自身で考えあそばせ」
姜維は軽く会釈をして、明雪の横を通り抜けた。その際、きらりと白く小さな反射が明雪の目の端を走った。
姜維は、このお屋敷に行儀見習いとして住み、庭師としても夏侯元譲に仕え、遊び相手としても理嬢に仕えた。
明雪と姜維は同じくらいの歳であったが、仕える年数は明雪のほうが断然長い。
金糸の髪に碧の瞳。異国にはあるであろう風貌をもつ少年は、明雪が見つめたようにだれかを見つめていた。このお屋敷に居るものならば、誰でもその先を知っているのではないかと思う。明雪が姜維と特別な親交を持っていたわけではない。好意やなにかしらの情もあるわけもなく、ただ使用人仲間としか映ってはいなかった。しかし、碧眼の先を知っているこの聡明かつ思慮深き賢女はほほえましく必要とあらば少しだけ背を押してやろうとも思っていた。周知のどおり、理嬢はかの曹丞相の側室になられる身であり、お屋敷に居るのは仮宿のようなものだった。結末はとうに出されている。しかしながら、それでも見守らずにいられようか。過ぎゆく流れでともに生きたという思い出は、移りゆかぬ強いものである。明雪は信じていた。
だが、姜維は理嬢が去ったのち、曹丞相の長子である曹子桓さまに付きお屋敷を出て行った。
信じられないことだった。
どういう意図があって、考えがあって、その結果を出したのだろう。
想いがあるのであれば踏みとどまるべきではなかったのか。なぜ去るなどと言うことができるのだろうか。明雪が明雪以外のなにものにもなれない、だから姜維の胸中を知ることはできない。
できないでもだ、この裏切られたと思う感情を変えることはできない、ゆるせないとさえ思うのだ。
曹丞相の御側室になられてから、すぐにまたこのお屋敷へ一時とはいえ戻ってこられたのに。きっと、姜維は知らないにちがいない。心を弱らせていたことも、姿を消してしまったことも。
もう二度と出会うこともないでしょう。と思いながら溜飲下らぬ疑問と苛立ちをかかえていれば、すれちがった侍女仲間に「伯約が来たわよ」とたいそうおどろいたふうに声をかけられた。「そうみたいね」知っているわ。簡単に相槌を打てば、「お茶の準備をはやくしなくちゃ」なぜか興奮気味で、すこしあきれて「いそがなくてもよいはずよ」と忠告してあげる。
なにを焦る必要があるのか。かつての使用人が戻ってきただけではないか。
いや。戻ってきたわけではない、客として来たのだ。姜維はもう使用人ではない。曹丞相にお仕えする武官のひとりなのだ。出て行った姜維にこのお屋敷での居場所はとうにない。明雪をふくめ、仕えている身であるものたちにとってはこのお屋敷は帰る場所でもある。だけど、姜維はみずからそれを取り壊したのである。
たかが姜維なんかに、茶など出そうものか。さきほどの侍女仲間のようにだれかがなにやらかにやら走るだろう。
片付けなければならない雑務をすでに終えている明雪は、久々のにぎわいをかもす光景を少し宙から眺めているようだった。
お客さまとあらば屋敷の主人の大事な御方だろうから気を張り詰め背筋を正し、たとえお茶を係りでなかろうと緩みを許さない。しかし、今日はどうだ。どうでもいい武官さまなど有りはしなかった。
姜維が世話をしていた庭。あれから専門に携わる者はいなかった。その代わり生業にするものを呼んだり、手の空いたものが手入れをしていたのだった。
花にはすがたの可憐さから宿る気がするが、草にも木にも心があるのだろうか。素人の目にも、姜維は庭の手入れが上手だった。きっと、よろこんでもらいたい人がいたから注ぐに力が入っていたろうが、それだけではあるまい。声を聴けるのかと思うほど、豊かにする力を持っていた。
侍女仲間たちが祭り前のように、控えめではあるが高い声ではしゃぎ合っている。前に居たものが帰ってきた、雰囲気を変えて。懐かしい気持ちがさらに気持ちを囃し立てるらしく、気安い客人としているのか元譲さまの書斎の前でも取り繕う様子もない。明雪は盛大にひとつため息をついた。みっともない。あの武官さまはもう元譲さまのお客さまなのだから、と注意する気にもならない。だれかがするだろう。
きっと、あの武官の噂で数日は持ちきりになる。奥さまにもなにか問われるだろうか。まったくもって憂鬱だ。
明雪は庭を歩いた。なんとなく奥まった場所へと足が向かっていた。実は以前に大きな赤い花が咲いていたのを知っていた。一輪ひっそり咲いているのを見つけたのだ。種がどこからか飛んできたのか、その花は深い赤色で光と方向によってはきめ細かにきらめく鮮やかな赤色だった。
偶然が重なって芽吹いたのか、姜維が植えたのかはどちらでもいい。眺めていたくてひそかに足を運んでいたのだ。
また、木の枝も葉も下の草も伸び放題になっている。成長が早いから油断するとこのお屋敷が森にでもなってしまいそうだ。
そう。このあたり。ちょうどここに咲いていた。
なにも考えずなにも感じずに空にしていると、背後で枝を踏む音がした。雀(シャン)との夜の回廊での出来事を思い出し勢いよく振り向けば、碧の瞳を大きくした姜維が立っていた。
「ここでなにをしているんです」
「べつに、なにもしていないわ」
「そうですか」
雀(シャン)であったほうが、ましだった。
「お屋敷も変わりましたね」
「あなたほどではないわ」
「元譲さまが奥さまを娶られたとは知っていました。それに、知らない人も居て知っていた人がいなくなっている」
だれのことを言っているのかなんぞ、すぐ察しがついた。
「理嬢さまが居られた痕跡がありませんね」
急に頭に血が昇って行くのがわかった。
「代わりにあの方がいらっしゃる、雀(シャン)とおっしゃいましたか」
「あのひとは理嬢さまの代わりなんかじゃなくてよ」
代わりだったら、代わりだったら、きっと元譲さまは、きっと、もっと、もうすこし、お心を、平穏を、保たれて、いるはず、なのだから。
「私には代わりに思えます。いや、乗っ取ったみたいですね。まあ、もうあまり関係ありませんが。明雪さまは雀さまをいかに思われますか?」
「そうね、とくに」
「方々は、とにかく美しいと口々に申します。そうですね、いくら顔が理嬢さまでもあのひとにはよくわからない謎の美しさがあります。明雪さま、あまり雀さまにお近づきになりませんように」
「警告かしら」
「あのひとは少々狂っておいでだから」
「……………望んでお身体を痛めつけているとか、かしら?」
「よくご存知ですね」
「どんな噂もどこから耳に入るのかわかったものじゃないわね」
沈黙。
噂はどこから流れてくるかわからない。そう、その通り。真実を、本当のことを知るには自分から動くしかない。
「あなたは、どうして出て行ったりなんかしたの」
「児戯の一幕ですよ。私は、理嬢さまのそばで花のお世話ができるだけで幸せだったのです。いつか終わるなどとだれが予想したのでしょう」
「幸せがあったのに、たしかにそこに存在していたのに。あなたは、どうして外へ目を向けたの」
「子どもだったのです。世界は統べて自分の手にあると思っていたのです」
「だから、あなたは出て行ったの」
「いいえ。子桓さまのもとでお仕えしているあいだも、お会いしたい気持ちがありました。それに、子桓さまは目を盗んでこっそり、いえ、一目でもと場をご用意してくださる心づもりでもあったようです」
そして、そのまえに丞相のお屋敷の一室が血肉で染まった。じくり。痛みが耳元でゆれる小さな白玉から染みる。耳飾りの穴を開けたときの痛みよりもはるかに酷い痛みが姜維をずたずたに引き裂いたことを、明雪は知らない。姜維はじくりと痛む耳を髪ごと覆った。
「詳しくは存じ上げませんが、女性が多く殺されたと教えていただきました」
明雪は目を細めた。
「曹丞相も著しく動かれたとのことです。そうでしょう。よもやご自分のお屋敷が襲われたのですから」
姜維、あなたは知らないのね。「理嬢さまがその場でお亡くなりになった」そう思っているのね。
あなたはとんだおろかものだわ。胸のなかで叫んだ。元譲さまが理嬢さまについてお話しなさっていれば、きっとあなたはそんなことを口にしないはず。だから、わたくしは主に倣いあなたにはなにも教えない。信じないあなたに対する罰よ。姜維。どうしようもないおろかものだわ。
姜維はしばし口を閉じ、耳から手を離した。そして、明雪を笑うように息をつく。
「明雪さま、あなたはいま私をさげすんでいますね」
「軽蔑できない理由がないの」
「わからないですよ。あなたに私の心なんか、わかるはずがない」
「あたりまえよ、わかろうとも思わないわ。でもね、あなたがどれほど軟弱者であるのかは痛いほどわかったけれど」
「お聞きしますが、いとしい気持ちを抱き、共に居たい、生きてゆきたいと祈ったひとりが自分の力およばぬ大きな流れで死に追いやられたとするなら、明雪さまはいかがなさいます」
「そんなこと訊かれたくないわっ」
「おっしゃるとおりです。想像することでさえ忌まれます」
あなたは、理嬢さまの死を信じた。死を確実なものとした。
「だれが愛する方の最後を好みますか」
姜維の口元に皮肉めいた色が見えた。明雪は氷の瞳を変えずに返す。
「好まぬからこそあがくのでしょう」
「どうしようもない大きな渦があります。私は立ちつくすばかりでした」
「考えることと信じることはちがうのよ、姜維。あなたは立ちつくしているばかり、あがくのをやめた、それはあなたの罪よ」
「罪か、なるほど。わたしが犯した罪ですか。ではだれが罰を与えてくれるのでしょうね」
「だれもあなたを裁いたりなんかしない」
「明雪さまではないのですか」
「わたくしではないわ。罰を受けたいの?」
「裁かれるほどの罰というものに興味があるだけですよ」
「残念だけれど、だれもあなたに罪も罰も与えてくれないわよ。それはいつか貴方が与えるものよ」
「おかしいではありませんか、私は裁かれるほどの罪を犯しましたか」
「犯したわ。かわいそうな姜維、もういいわ、この話はおわりよ」
明雪は顔をそむけ、姜維の横を足早に通り過ぎる。また、目の端に白い光が小さくまたたいた。姜維はまだなにか言いたげだったが、戸惑いや未練を残すこともなく、明雪の背を一瞥してから、この場から去った。
あのときと同じままだわ。このお屋敷を出て行ったときの背。
あわれな姜維、いつか気付けばいいわ。そしてその手が幾つのものをこぼしたのか、後ろを振り返ればいい。あなたの罪をとがめるのはあなた自身よ。そのときのあなたを、わたくしは知らない。
自分の部屋に向く明雪の足どりは軽かった。詰まっていたすべてを吐き出した気分である。言い過ぎた部分もあっただろうかとちくり胸を刺すこともなかった。ふと、「おまえが信じる真実は真実か」と言われていたらと思った。わたくしはそれがもし挑発であったとして、噛みついただろうか。「信じる真実」を守るための行動をするであろうことは想像に難くない。そして、頭の中で姜維との言い合いが始まる。
わたくしのなかでは真実よ。
夢想ではありませんか。
あなたにとってはね。信じるか信じないかの選択なのだわ。黒と白、生と死、あまりにも極端であり、歓喜と暗鬱に分かたれるとしたら、わたくしは歓喜を選ばせてもらうわ。
ふん、ですがあなたの意思ではない。元譲さまがおっしゃられたからでしょう。
きっかけや理由はどうであれ、信じる発端であるだけよ。
安易、まことに安易ですね。
どうかしら?目を背いたあなたとはちがうのよ。
明雪は石段の上で一度立ち止まり、姜維のもとまで駆けた。
「待ちなさい」
門の手前にある厩からすぐ出たところ。馬の手綱を引いていた。
「目を背けないで」
毅然と一言放った。姜維は眉を顰めた。
「あなたこそが目を背けている」
「自分の意志で決めたことではないとでも言いたいのかしら?そうねあなたにとってはね。わたくしは信じるものを信じるわ」
「信じたいものを信じる、でしょう。妄想を信じつづけるなど、現実から目を反らし事実を受け入れたくない愚かもののすることだ」
「納得できないからこそ信じつづけるのよ。虚構を無意味に求めているわけではないの、真実を探して探した先にあるものを」
「あなたは、なにを私に伝えたいのです」
「餞別よ」
すでに興味を失ったという薄い目を向けた。
「わたくしがあなただったら、諦めない。……………もがくだけよ」
「みじめですね、悪あがきですか」
「あら、そう見える?」
「でしょうよ。死んだ生き物を見ても生きていると言えますか。枯れた花を見ても満開などと言えますか。荒れた不作の畑を豊作かと言えるのか。明雪さまが言っていることは、つまり妄想なのです」
「あなたは見たの。直接、現実を前にして溜飲を下げたのなら、正しいことこの上ないわ」
「丞相さまのお屋敷に押し入った輩は惨殺を得意とするおぞましい賊です」
「導きはひとつだけじゃないのよ……………。たしかに、いくつかの結果は最悪のかたちしか導かないでしょうけれど、結果はひとつしかないのだけれど、わたくしは究極的な結果を求めるわ」
「やはり、明雪さまとは相容れませんね。私が信じている真実はどうしてもあなたとはちがう。結果はひとつしかないのに」
「こんなにもかたくなとは思いもしなかった」
「そんなもんでしょう」
姜維の碧い瞳は、明雪が視た光景ではない。
噛みあうようで噛みあわない、そんな会話だから喰ってかかり、喰ってかかられるのだろうか。宙に吊らされている気分だ。
「わたしは、あなたはお強いと思いますよ」
「どうして」
「あなたは視たいもの聞きたいものしか感じておられないから」
投げかけられた言葉。
手を上げて陰気な顔を引っ叩いてやりたいと思った。白い指先がわずかにかたく揺れる。なにも知らないくせに、知ろうともしない惰弱者めが。考えることを止めたうつけものめが。わたくしは。
「あなたこそとんだ頑固ものです。あなたの信念は批判しますが否定はしませんよ。どうぞ」
「姜維、最後に言う。もう一度、探し回ってみて」
どうしてこんな言葉が出たのかは解らない。だけれど、少しだけ賭けてみたかったのかもしれない。
「くどいですよ」
「……………」
「もうお会いすることはないはずです、もうここに戻ってくることも。どうぞ、お元気で」
夜も更けて、自分たちの役目が終わったのにもかかわらず、まだ元気が残っていた侍女の三人は一部屋に集まっていた。灯火をひとつともし、厨屋からこっそり頂戴した菓子や、おつかいで市場に行ったときに買った果物を持ち寄った。
互いに、今晩いかがかと昼間に目配せし合う。
月に数回行われるこの秘密の会合は女たちの楽しみだった。
日中のかたくるしく締め上げた帯をゆるめ、足を投げ出し、猫のように布団の上に寝そべって会話に華を咲かせるのだった。
明雪、清春、夏晨がとくに仲が良かったのは、三人が夏侯邸に入った時期が近かったことと、歳が近かったことだろう。
いつも凛としている明雪も、このときばかりは自分が幼い頃に戻っていると感じる。
「伯約が来たわね。お花が好きなのほほんとした男の子だったのにしばらく見ないうちにあんなに立派になっちゃってね」
清春が干し菓子をつまみながら、やけににこにこして姜維について題を出した。
「だけど、どうもやけにこわそうな顔したもんね、声をかけづらかったわ。ねえ明雪、あなた、なにかしゃべってたよね、なにを話したの?」
「いいえ、なにも。ばったり出くわしただけ」
「あなた、やけに伯約には手厳しいよね」
「私もそう思う」
夏晨が相づちを打った。
「気があわないの、こういうこともあるのよ」
「まあね、生来のものってのがあるわけだしね」
「ねえねえ、話は変わるのだけど、雀(シャン)さまって、やっぱりお美しいわよねえ」
清春が身を乗り出した。また、と明雪と夏晨はたがいに目配せする。
「たまあにしか、お目にかかれないのが残念だけど、少しでも見られると嬉しくなっちゃう。お人形さんみたいで、ときどきお花をあの髪に編み込みたくなってしまうの。長い髪もたいそう素敵だったけど、短いのもいい」
「ほんと、好奇心旺盛よね、私はあのひと、こわい」
「不機嫌な顔も好き。お化粧をしてさしあげたくなってしまう」
「好奇心旺盛なのではなく、清春は悪趣味だ」
「なあに、明雪も、もうっ。まあ、今日はどこにもいらっしゃらなくて残念だったわ。御顔を拝見するのが日課になっていたのに」
理嬢さまとひどく似ているのに……………などと誰も言わなくなった。急に屋敷に居つくことになった時期は、みんな気味が悪いと言っていたのに。今はお美しいと言う。そう、あの方はひどくお美しい。理嬢さまがすこしずつ薄れていくのがわかる。口を噤むことから始まりやがて風化していく。
清春が美しいと感嘆する気持ちは理解するが、よくもまあ日常のひとつにできたものだ。
理嬢さまが居られた痕跡がありませんね。どこからか姜維が呟き、明雪は干し菓子をみっつまとめて口に詰め込んだ。甘さよりも酸味がひろがる。
「実はね、私そろそろ帰るかもしれないの」
夏晨がちょっとかしこまってうつむいた。額は若干青ざめている。
「このまえのお手紙?」
「まとまりそうなのですって」
なにを、とは訊かなかった。まとまるから帰る、この意味を指しているのはひとつしかないからだ。
「どのような、御方?」
自然な興味で明雪が尋ねた。
「遠い親戚で同い年なの」
夏晨はちょっと頬を赤らめさせる。乙女の様相に結婚への期待をふくらませているのがわかる。かわいらしいと思った。さきほどの青ざめた額は緊張だったのだ。
「小さいころ一度会ったことがあってね、そのときは腕白な男の子って感じだった。いまはどうかわからないけど」
「知っている人なら、安心?」
「まったく会ったことないほうがもっとどきどきしただろうから、残念かな?」
ぜいたく。清春が夏晨を小突いた。
夏晨を見れば幸せそのものだ。
「いいなあ、夏晨。綺麗な着物を着て、髪も可愛く結ってもらえて頭に飾りをつけて、素敵なお部屋をつくってもらえるのよね」
一生に一度の華やかな衣装と装飾品はたしかに憧れのものだろう。それは物語によく出てくる姫君のように女神のように、きっとそれらに倣う心地は夢のはずだ。
自分たちは世間が言う婚期の適齢期だ。自分の意思ではなく親が決めた相手と、まあそれが全てではないが、だれかと契りを結ぶ。
嫁ぐ女はみんな夏晨と同じなのだろうか?
「私にも、はやく縁談がまとまったってお手紙が来ないかな。楽しみ」
夏晨と清春の会話を聞きながら、明雪の思考は一人歩きをしていた。
いや、理嬢さまはそのようには見えなかった。しかし、特別な立場だったこともある。そして、理嬢はずいぶん世間から行き遅れた類だったはずだ。
自分もいつか?
……………いやだ。唐突にも似た自らの正直な答えは世の条理に背を向けていた。甘いはずの干した果物が吐き出したくなるほど苦い。
清春、夏晨の縁談話がどうしても頭を離れず、半ば自然の流れのように寝床で天井を見つめ想像した。
もしもである。縁談がまとまり、あれよあれよの流れで紅い礼服に身を包むのだとしたら。輿に乗せられ、揺れを感じつつ知らない道を行くのだろう。晴れていれば、頭から被った紅い布ごしに伝わる淡い光に目を細めるのだろう。
知らない人々に囲まれる、なんと心細いことか。そして、知らない殿方。なんとまあ、不安でしかない。知っている顔ならすこしは安心できるのかもしれないが。
頭のなかで仮想の将来を過ごしているうち、まどろんできた。やがてそれは自分が考えているものか夢なのか判別が難しくなってくる。目の前の中心から溶け始めているように、白と黒のもやがかかってきた。
想像はつづいた。
やんややんやのわずらわしい馬鹿騒ぎ。人の声、太鼓と笛と鐘が絡み合う音楽の音、皿を箸で鳴らす音もある。それをただひとり寝室で聞いている花嫁、それは自分。冷めていた。
布ごしの光が気づかぬ早さで消えてゆく。
布ごしの光は、灯の沈んだ暗い色になった。
めくられる面。
知らない殿方、否、夫。なにか、夫は言った。言っているのは分かるのだが、理解できなかった。
肩を抱かれ、背を寝台の冷たい紅い敷布に押し付けられた。
……………なんとおぞましい。
明雪は足で振り払った。夫の腹を思い切り蹴り上げる。
生々しい感触が夢からおどり出て明雪を不快にさせる。鳥肌が立っていた。
夜明け前の薄暗い部屋が広がっている。
身を震う夢で肌にはべったりと汗がにじんでいた。
男性に身をゆだねる、これは自分にとって嫌悪でしかなかった。知らなくとも知っていても。それが幸せだと言う、その意味も理由もわからないものでもない。しかし、それは自分を殺すものだと思う自分がいた。納得できないと言ってもいい。
だれかと契り、子を成し育て衣をつくろい夫に従い、死すれば子に従い死ぬ。それができないと言うのならばいかにして生きるのか。わからない。だが明雪は受け入れ難い。死ぬときはだれだって死ぬだろう、生きるときは精いっぱい生きるだろう。受け入れる代わりに、自分は奉公人として働く方が性に合っているのだ。
嗚呼、生きるとはなんなのだろう。
実家からの文で夏晨が荷物をまとめ始めたのは、夜の会合から、すぐのことだった。
身の回りの整理をしている夏晨の横顔は晴れていて、以前の不安はない様子だった。
まただれかのこの屋敷を出て行く。しかし時を止めることはできないし、ましてや同じ日々を永遠につづけることなどないのだからと、明雪は言葉にできない寂しさを感じながら荷造りを手伝った。「おめでとう。幸せに」
厨房で夕餉の支度をしていると、清春が足音をひそめ近づいてきた。
湯気が立ちこめ火の鳴る音がせわしない。
「ねえねえ、戻ってらしたわ」
「どなたが?」
「雀(シャン)さまよ、今日は運がいい」
鳥のように飛びはねながら浮かれる清春に明雪は呆れた。包丁で緑の野菜を切る手を止めしてしまったのをこれほど悔やんだことはない。
「あなたがどうしてあの人に入れこむのか、さっぱりわからない」
「前にも言ったじゃないの、お綺麗な殿方だからよ」
「ええ、うん。ほんとうだわね、ほんとうに、お人形なかんばせ」
「どうしたのかしら、眉間に皺が寄ってらしたわ。だけどそれでもお美しいの」
清春は前かけをつけながら満面の笑みを途絶えさせない。
「はやく準備をしてちょうだい。夏晨がいなくなってしまったから、人手が足りないの」
明雪は野菜に目を落とし、ふたたび包丁で刻み始める。すると清春は困った顔をして言った。
「機嫌悪いね、苛々してる」
いかにも疲れた色をにじませている。いつものはなやいだ声音ではなかった。
「……………忙しいのだもの」
「忙しいのはいつも。慣れてるはずでしょ」
「ひとりいなくなったから、仕事が増えたからよ」
「ううん。明雪は不穏で仕方がない。理嬢さまが、消えてしまったから」
「清春」
その方の名を出さないで。奥方さまや養子になられた若さまに聞かれたら。それよりも元譲さまの耳に入れたくない。
「みんな忘れてるふりや始めから無かったことにしてるようだけど、そろそろ限界かもね」
「限界?」
「変わるのを嫌いなものも好きなのもあるけど、理嬢さまに蓋をするのって、気に入らないの。だって、みんなして芝居をするってことでしょう?」
「……………理嬢さまは、旦那さまが」
「ここにいまふたりだけだから言っちゃう。不自然なの。不自然に慣れない。不自然をあたりまえにして虚勢を張っているから、みんな苛々してる……………明雪、私はあなたが一番に心配」
「わたくしが?なぜ」
元譲さまでは、と言いかけて明雪は口を噤んだ。
「理嬢さまを任せられたのは、あなただもの」
そう。清春ならず屋敷の使用人は全員が知っている。
夏侯元譲さまは、お優しい旦那さまだ。それに甘えていた。理嬢さまを物置に入れると知ったとき、自分を含む侍女たちは横を向いた。ただ唯一、明雪だけが従ったのだ。もちろん、不信が募った。「なにかお考えがあってのことなのだから」ごくわずかな迷いもなく言い切った。
先の大戦の前、夏侯惇から理嬢の世話を託された筆頭は明雪だった。そして、姿を消したのはだれにも予見できるはずもなく、明雪に非などあるわけがない。それでも背負ってしまうのが明雪だった。
「みんなが理嬢さまのことを懐かしんだりしないのは、あなたを想ってもあるんだよ」
「そんな」
「事情が事情だから、奥さまに内緒にしているのは正しいと思うけど」
清春はようやく野菜を籠から取り出した。あら、土がまだついているわ。甕から水をたらいに移し、洗い始めた。
「……………気を遣わせて申し訳ないわね」
「ほんとう、ここのお屋敷はお人好しばかりだ」
「まったくね」
「ちょっとずつでいいから、前みたいにのんびりな時に戻れればいいなと、この清春は思うわけよ。その前に、私も明雪もお嫁に行っていなくなってるかもだけどね」
やめてちょうだい。明雪は肘で清春をつついた。
「抱えこまないでよね、明雪」
仕返しも込められているだろう、清春は平手で明雪の背を大げさに叩いた。
「あぶないじゃない、刃が爪をかすったわっ」
「あら、ごめん。でもちょっと元気になったよね。感謝してよ」
悪びれることなく軽口で返す友人にあきれたが、友人と使用人仲間たちが慮ってくれていたとは驚いた。そして、ありがたい気持ちだ。
分かち合うことが大切なのかもしれないと、数日前の奥様とのやりとりが自然に口からついて出ていた。
「奥さまに、聞かれたわ」
「なにを?」
「雀さまは旦那さまと、どんな縁なのかって」
あと、奥さまも雀さまは美しい殿方に見えてそうよ。清春同調を示さなかった。
「なんて答えたの?」
洗った野菜を別の籠にしまい、指先についた水滴を払いながら、清春は聞いた。
「知らない、と答えるしかないわ」
「そりゃあ、そうだよね。実際のところ、雀さまのことなんにも知らないよね。気づいたら、理嬢さまの部屋に居るのだもん」
「本当ね。それとね、女の勘なのか、旦那さまのご様子に納得いかないよう」
「……………どういうこと?」
「眼差しがとおいのですって」
「よく、わからないけど……………」
明雪は野菜をすべて切り終え、鍋に水をそそぎ、火にかける。湯になるまでのあいだ、手が空く。
「つまり、あなたが言いたいのは」
「もしかしたら、奥さまは調べるつもりかもしれないと思ってしまって」
「そうしたら、面倒ね。あれこれ訊ねられたとしたらどう説明したらいいか、わからないもの」
「話すつもり?」
「私は内緒にしてるっ」
「そうよね。みんな、知らぬ存ぜぬで通すわよね」
なんでもかんでも話す義務はない。すくなくとも、明雪にはもともと教えるつもりもないが。
「私たちに訊くとは限らないのじゃない?それこそ、旦那さまに直接、訊ねればいいじゃない?」
「雀さまのことを、旦那さまに当たればいいものを、わざわざわたくしに訊ねてきたのよ」
「飛びすぎなような気がする。旦那さまに引っかかるとして、すぐ理嬢さまには辿り着かない」
「奥さまは、夏侯妙才さまともお知り合いなのよ。出どころは意外にたくさんあるわ」
「夏侯妙才さまって、よく喋る方?」
「陽気な方だったはずよ」
なんでもかんでも話してしまうような空気をまとっていると言えばそのとおりだ。
正妻杜玉玲の前夫は夏侯淵の部下だったし、仲人を務めたことから、距離は近いほうだろう。
「結局、秘密って、秘密じゃなくなるね」
「このお話はおわりにしましょうか。あなたの言うとおり、こぼれてしまいそうだから」
鍋の湯が噴き出しかけていた。あわてて野菜を突っ込むと、はじけそうだった湯の泡は沈んでいった。野菜のあつものの他に、なにをこしらえよう。侍女ふたりは食材をまえに、相談を始めた。
書斎にて書をしたためていた夏侯惇の耳に、普段の時刻では聞きなれない声がかけられた。筆先から視線を上げると、ひとり気だるげにたっていた。
「ただいま、夏侯惇」
「今日は早かったな」
「こういう日もあるよ」
ふらり。頭を重そうに揺らしながら口もろだけで笑っている様子にいぶかしむ。
「血のにおいも、返り血もないようだ」
なにをしてきた?おまえのことだから何もせずもどってくるのはおかしい。
不穏を感じ、夏侯惇は椅子から立ち上がり雀(シャン)に近づいた。
雀(シャン)の服が湿っている。髪も耳から前は乾いているようだが、全体として生乾きで、ところどころ束になり毛先には水滴がやどっていた。
衣も生乾きだ。しかし血のにおいはしない、傷をつくってきたわけではないが、ずいぶん丹念に身体を洗ってきたようだ。いつもは水をかぶるだけでよしとし、あまつさえ雨でもよいとしていた雀だ。
「なにをしてきた」
もう一度問う。
雀は唇を曲げた。
「嘘をつくな、つくのならもっと徹底して隠せ」
「どうして、わかるの」
「いつもの様子とちがうからだ」
「……………夏侯惇を」
「私が?」
「夏侯惇を侮辱したやつらを駆除してきました」
「……………」
「俺を夏侯惇の色子だと言った」
「……………」
「そして、俺に迫ってきたので」
「……………」
「処分した」
「だれをだ」
「知らねえ。どうせ雑兵だ。居なくなったってだれも困らねえよ」
「……………」
「俺は侮辱されるのが一等許せない」
「……………」
「安心して、だれにも見られていないよ」
「……………」
「そもそもだ。なぜだ。どうして夏侯惇が下劣な言葉をなげられねばならねえのだ」
雀は足音激しく室内を歩き回り、身振り手振りを交えながら怒りの丈をあらわした。
兵卒たちによる上の者への陰口は別段気にするものではない。曹操への叛旗ならば捨て置けないが、兵卒たちとは使役するに充分な対価もとい報酬を払って契約しているにすぎない。力になる、それ以外はなにも求めていないのだ。忠義で動くのはそれこそ血縁のみに限られるだろう。
「あれらの心まで支配する必要などない、捨て置け」
「俺には関係ない、ゆるせないものはゆるせない」
「であるならば覚えろ。相互の利益があり相応の働きで相応の褒美が与えられる。これは人間という世界のなかにおける体制のひとつだ」
「むつかしくて俺にはわからない」
「ほざけ、貴様は利口だ」
「ありがとう、うれしいな、ほめてもらえるんだ」
「はぐらかそうとするんじゃない。雀、勝手気ままに殺すな」
「だって、夏侯惇を馬鹿にしたっ」
雀は床をおおいに蹴り上げた。夏侯惇はひるんだ。
「あいつらの吐き気がする声がまだ耳にこびりついているっ。あんなに洗ったのになっ」
耳を塞ぎながら髪を掻き乱した。
「なんて言ったと思う?あの野郎どもっ。毎晩お楽しみなんだろうって、なんなら昼もかって。そしたら穢い手で俺の顔に触ろうとしやがった。一回どうだって。あの、あの、も、よりってっ。一等ゆるせないのは、夏侯惇のことを……………夏侯惇の身体を侮辱しやがったことだっ」
ぎくり、夏侯惇の無いはずの右の肘から下がうずく。も、これはすぐに察しがついた。盲夏侯、己への唾棄すべきあだ名である。
雀自身の容姿から浮かぶ下世話な歓声が沸き起こるのは容易に想像できた。そして、この顔がより人を惹きつけるのも。しかし、雀が憤るのは自分のためではなかった。もっぱら、夏侯惇への実のない醜聞に対してであった。
「聞きたくないんだよ、夏侯惇を馬鹿にする言葉は、ほんのちょっとでも。きらいだ……………それでも殺しちゃだめなのかい……………」
「だめだ」
「……………」
「兵は私のものではない、曹孟徳のものだ。監督こそすれ生殺与奪は許可されていない」
「嘘つき。このまえ、挽き肉にしたら報告は受けようって、言ったじゃない」
「あんなもの冗談に決まっているだろう。真に受けるな」
「じゃあ、言わないでよっ。俺は、俺は……………」
きみがよろこんでくれると思って。言いかけて雀は唇を結んで眉間に皺を寄せた。そんなことがあるわけがない。
「……………うん……………」
「今回は不問にしてやるが、従兄上には報告する」
「……………そう……………」
「反省しろ」
「……………迫られたのが俺じゃなくて理だったら、怒り狂ってたのは、きみのほうなくせに」
夏侯惇の舌は凍りついた。
理嬢の顔がそこにあった。
そのとおりだ。
声が出なかった。
理がもしも雀とおなじ目に遭ったのなら、私はきっと激情に駆られたまま迫った輩を生かしてはおくまい。
しかし、凍えたのは束の間。掻き乱されたとしても早々に立ち直りやすくなっていた。
「もしも、今日言われたことを理が言われたら、せいいっぱい言い返しただろうさ。夏侯惇がけなされるのを黙ってやり過ごせるもんか」
ああ、俺はなにを言っているんだ。腹に収めていたほうがいいと思えば思うほど喉から這い出されていく。気持ちがひとつひとつ、怒りが意思を持っているように。
理が知らない男たちに囲まれたと言ったら、拳で壁を殴るくせに。
「理だったら、泣いてたら、抱きしめてあげるくせに」
理が知らない男にありもしないでっちあげを言われて、悲しみと怒りで震えて帰ってきたら心配するくせに。
理が恐怖に青ざめ息も浅く言葉を詰まらせていたら、夏侯惇は我を忘れてしまうくせに。
どんどん出てくる。止めたほうがいい、頭のすみで自分がささやいている。
夏侯惇は唇を結び、じっと雀に耳をかたむけている。
「ばか、ばか、夏侯惇のばか」
がきだ。われながら呆れてしまう。それでも止められない。
「ばかやろう、おおばか、すこしくらい、理にもってるやさしさのちょっとくらい、俺にもくれたっていいだろ、ばか、夏侯惇はばか」
黙っている夏侯惇が腹立たしい、俺を黙って視ている夏侯惇が俺の感情を焚きつける。
「ば、夏侯惇……………」
散々わめき息が上がってくる。あとは出てくる言葉も言いたい言葉もしりすぼみになって無くなってしまった。残ったのはなさけさなだ。
肩で息をする雀に夏侯惇は変わらずの瞳を向けている。
「言いたいことは、言い終わったか」
「おわった……………」
「私になにをしてほしい。私はおまえを理嬢として視ていない。雀、おまえは私になにをもとめている」
「……………心配、してほしい」
「おまえの安否は常に心がけている」
「じゃあ、怒って。俺が不快になった原因の無礼な輩に怒ってよ」
「軍律違反ではないにせよ、乱す分子は早々に対処しておいたと考えればいいだろうな」
「俺は良いことをした。夏侯惇への不敬は大逆だろう」
「私への罵倒などたかが知れている」
「そんなことないっ」
「このたわけめ。おまえを案じるからこそ言っているのだ」
「心配だって?」
「従兄上は軍律に厳しい方だ。諍いで乱れようならば徹して取り締まられるだろう。今後は勝手に殺害するな。急に人間が消えることがつづけば、どれだけきれいに処理しようと、いつかは足がつくぞ。私でさえ、かばいきれなくなるやもしれん」
「俺が黙って罰を甘んじるとでも?」
「妙な気は起こすなよ」
「俺は本当のことしか言わないもん」
幼い口調になった。
「だれも俺を殺すなんてできないからね。俺を処刑するなら、先に曹操を殺してやる」
「貴様、ふざけたことを。何を言ったか理解しているのか」
「この国の全員、敵に回したって痛くもかゆくもない」
「そのあとはどうする」
「夏侯惇をさらってやる」
「性懲りもなく舐めた言い草を」
「俺は夏侯惇を傷つけられない」
「私がとどめを刺してやる」
「できないね。きみは」
「私が、おまえの顔に臆すとしているな?」
「きみを避けて曹操を突き殺してやる」
「ならば、私は従兄上をかばってもろとも串刺しだな」
「そんなのだめっ」
雀は夏侯惇におどりかかった。胸にすがりついて、膝が徐々にくずれていく。腰をきつく抱きしめた。加えられた重みに、夏侯惇はあやうく尻を床に打ちつけるところだったが、なんとかこらえた。
「だめだ……………夏侯惇……………だめだ……………だめ……………いや、いやだ……………」
声が震える。夏侯惇が串刺しに?想像しただけでも、なんとおそろしい。夏侯惇が自分の手で刃に貫かれるなどと、これほどの恐怖があるだろうか。
「ごめんなさい、言い過ぎました。ごめんなさい……………」
腹に顔を埋め哀れなほどがたがた肩を揺らす雀に、夏侯惇はあっけにとられた。
悪さをした子どもに仕置きで「物置に閉じこめてやるぞ」と脅したときの心境だと思った。
細く長い高い声で、まだ同じ言葉を雀はつぶやきつづけている。夏侯惇はよぎる記憶をよみがえらせたくなくて、雀の顔を掴み、黙らせた。
今の雀に、夏侯惇の黒い瞳は綺麗なほど冷雨に映る。
鼻を赤くし、潤んだ瞳がどうしようもなく幼なかった。盛大な溜め息がもれてしまう。叱責する気も失せてしまった。
「いいか?先ほど従兄上をおびやかす発言を口さがない者どもに聞かれてみろ。またたくまに反逆者だ。見えるものばかりではない、従兄上の耳や目は把握できぬほど数多に居る。わかるか?」
「わかった、わかったから……………。もう、こわいこと言わないで……………」
雀のくずれた表情は夏侯惇を少し苛つかせた。
「たしかめるぞ。従兄上を殺すなどと、口から出た勢いまかせの冗談だな?」
雀はいきおいよく何度もおとがいを縦に振った。
「弑せんとする気は露ほどにも持ち合わせていないな?」
もう一度、さらに強く頷いた。
「よろしい」
「夏侯惇、ごめんなさい……………」
「雀、口から出まかせを吐くのはよろしくない。慎めよ」
「うん、ごめんなさい、あと、夏侯惇の冗談、気をつける……………」
「不愉快を言われ殺意を抱くのは、仕方ない場合もあるが、殺したくなったら、かならず私に報告しろ。いいな?」
「……………はい」
「私が殺せと言えば殺せ、殺すなと言えば……………わかるな?」
「殺しません……………」
まるで犬の躾だ。
感情の起伏が激しい雀。貯めた川の水が堰を切り土砂を巻きこみ押し寄せたようだと思った。似ているのであれば、暴風雨が過ぎ去った後のように平穏になるにちがいない。
口や態度は荒々しく乱雑であるが、夏侯惇が手綱を曳いてやれば途端におとなしくなる。
薄々ではあるものの自分が雀の弱みだと感じていたが、弱点なるものはなかなかにわずらわしい。
「雀、当分のあいだ、屋敷から出るな。白兵戦演習を禁じる」
音がするほど雀は目を大きくした。なにか言いたげに、おそらくは不満を、唇を突き出す。
「これは命令だ」
わかったら、さっさと部屋で頭を冷やせ。
「でも、夏侯惇……………」
「なんだ」
衣の裾を握りしめている手を、夏侯惇は払いのけ背を向けた。
「どうした」
「怒ってる……………よね……………?」
黒い瞳は雀をたしかめもせず、静かな足音で書斎から出ていく。
雀は衣を握っていた手をそのままにしたあと、膝を抱えてうずくまった。
夏侯惇は回廊を進んでいた。似ている光景をどこかで目にしていた気がする。雀の表情が雀のものであったり、理嬢のものであったり、憎くてたまらない雀の弟のものであったりと夏侯惇を苛立ちというかたちで翻弄している。
雀の笑いを噛み潰したような哀しげに歪んだ顔に、あの蒼い瞳をした弟の嘲笑う部分も宿っているように見えてしまい、少しの違いがあれば、首を絞めんと襲っていたかもしれない。
ひとりに三人の表情が浮かぶのは、ゆっくり浸食する毒のようだった。
雀に白兵戦演習を禁じたように、私もしばらくは雀と顔を合わせないほうがいいだろう。
無限の回廊へ放り出され、目の前のそれはひとりだけなのに、ちらちらとうつりゆく倒錯は心身を重くする。休息が必要だ。疲弊はまたいずれ悪夢として眠りの無防備を襲ってくるはずだ。
赤壁から、ずいぶん季節が変わった。日々のなかで立ち止まれば、外の大きな変化が否が応でも存在を訴えかけてくる。
笑い声が聞こえた気がした。
話し声が聞こえた気がした。
とんでもなく下手な筝曲が聞こえた気がした。
せわしない足音がした気がした。
私を呼ぶ声がした気がした。
俺を呼ぶ声がした気がした。
「夏侯惇さま」
私を呼ぶ声がした。
「お仕事は、一段落つきましたの」
杜玉玲が白い花をたわわに抱え、ほほえんでいた。祝言をあげたのも、かなり前のことだ。
「玉玲、それは?」
「お庭のお花がとても綺麗に咲いていましたから、飾ろうと思いましたの」
ひとりで摘んだのか、侍女らと摘んだのか、花冠でも首飾りでも花遊びはしないのかと問いかけた。また、自分に渡すつもりなのかとも思ったが、そんなことはありえない。
「そうか」
玉玲の両耳で白玉の耳飾りが小さく揺れている。夏侯惇が贈ったものだ。
「花が好きなのか」
「ええ、まぶしいくらい白色があざやかでしょう?」
「そうだな」
「花瓶に活けてまいりますわ」
寝室にでも置くつもりなのだろうか。
正妻は優雅に一礼した。夫がじっと顔を見つめていたので、首をかしげる。
「夏侯惇さま?いかがしましたの?」
「いや、ただ」
「泥でもついていたかしら?はずかしい」
「耳の飾りがよく似合っている」
想定していなかったと言わんばかりに、玉玲は頬を赤らめさせた。そして、夢に横たわるように言った。
「夏侯惇さまがみつくろってくださったものですもの」
変わっていく。人間も季節も。
変化は夏侯惇の心だけを置いてけぼりにし、廻っていくのだった。
夏侯惇は遠いものをたぐりよせるように、白玉の耳飾りに触れた。
静寂の夜が去ると、どこか影のある爽快な晴れが広がった。何度もおなじ夜とおなじ朝がくりかえされるなか、あるひとりが夏侯邸の門をくぐった。主へのお目通りと目的の旨を一番最初に聞いたのは明雪であった。
「ひさしぶりね、姜維」
姜維は記憶にあるすがたよりも、はるかに様相を異なっていた。
目つきは明るさを失い、落ち着いたというよりも沈み、暴発をつねにおさえこんでいる。または、火に投げ棄てた手紙が灰になるまで見張っているような。そんな色だ。
「あなたも、お変わりなく、明雪さま」
「どんな御用かしら?」
「元譲さまは居られますか」
「居らっしゃるわ。どうしたの、旦那さまに」
「このたび故郷に、いえ、天水の地にて任を正式に司ることになりましたので、ご報告を」
「栄転ね」
「ありがとうございます」
「褒めたわけではないのよ、勘違いしないでちょうだい」
「では、どのようなおつもりだったのでしょうか?」
「御自身で考えあそばせ」
姜維は軽く会釈をして、明雪の横を通り抜けた。その際、きらりと白く小さな反射が明雪の目の端を走った。
姜維は、このお屋敷に行儀見習いとして住み、庭師としても夏侯元譲に仕え、遊び相手としても理嬢に仕えた。
明雪と姜維は同じくらいの歳であったが、仕える年数は明雪のほうが断然長い。
金糸の髪に碧の瞳。異国にはあるであろう風貌をもつ少年は、明雪が見つめたようにだれかを見つめていた。このお屋敷に居るものならば、誰でもその先を知っているのではないかと思う。明雪が姜維と特別な親交を持っていたわけではない。好意やなにかしらの情もあるわけもなく、ただ使用人仲間としか映ってはいなかった。しかし、碧眼の先を知っているこの聡明かつ思慮深き賢女はほほえましく必要とあらば少しだけ背を押してやろうとも思っていた。周知のどおり、理嬢はかの曹丞相の側室になられる身であり、お屋敷に居るのは仮宿のようなものだった。結末はとうに出されている。しかしながら、それでも見守らずにいられようか。過ぎゆく流れでともに生きたという思い出は、移りゆかぬ強いものである。明雪は信じていた。
だが、姜維は理嬢が去ったのち、曹丞相の長子である曹子桓さまに付きお屋敷を出て行った。
信じられないことだった。
どういう意図があって、考えがあって、その結果を出したのだろう。
想いがあるのであれば踏みとどまるべきではなかったのか。なぜ去るなどと言うことができるのだろうか。明雪が明雪以外のなにものにもなれない、だから姜維の胸中を知ることはできない。
できないでもだ、この裏切られたと思う感情を変えることはできない、ゆるせないとさえ思うのだ。
曹丞相の御側室になられてから、すぐにまたこのお屋敷へ一時とはいえ戻ってこられたのに。きっと、姜維は知らないにちがいない。心を弱らせていたことも、姿を消してしまったことも。
もう二度と出会うこともないでしょう。と思いながら溜飲下らぬ疑問と苛立ちをかかえていれば、すれちがった侍女仲間に「伯約が来たわよ」とたいそうおどろいたふうに声をかけられた。「そうみたいね」知っているわ。簡単に相槌を打てば、「お茶の準備をはやくしなくちゃ」なぜか興奮気味で、すこしあきれて「いそがなくてもよいはずよ」と忠告してあげる。
なにを焦る必要があるのか。かつての使用人が戻ってきただけではないか。
いや。戻ってきたわけではない、客として来たのだ。姜維はもう使用人ではない。曹丞相にお仕えする武官のひとりなのだ。出て行った姜維にこのお屋敷での居場所はとうにない。明雪をふくめ、仕えている身であるものたちにとってはこのお屋敷は帰る場所でもある。だけど、姜維はみずからそれを取り壊したのである。
たかが姜維なんかに、茶など出そうものか。さきほどの侍女仲間のようにだれかがなにやらかにやら走るだろう。
片付けなければならない雑務をすでに終えている明雪は、久々のにぎわいをかもす光景を少し宙から眺めているようだった。
お客さまとあらば屋敷の主人の大事な御方だろうから気を張り詰め背筋を正し、たとえお茶を係りでなかろうと緩みを許さない。しかし、今日はどうだ。どうでもいい武官さまなど有りはしなかった。
姜維が世話をしていた庭。あれから専門に携わる者はいなかった。その代わり生業にするものを呼んだり、手の空いたものが手入れをしていたのだった。
花にはすがたの可憐さから宿る気がするが、草にも木にも心があるのだろうか。素人の目にも、姜維は庭の手入れが上手だった。きっと、よろこんでもらいたい人がいたから注ぐに力が入っていたろうが、それだけではあるまい。声を聴けるのかと思うほど、豊かにする力を持っていた。
侍女仲間たちが祭り前のように、控えめではあるが高い声ではしゃぎ合っている。前に居たものが帰ってきた、雰囲気を変えて。懐かしい気持ちがさらに気持ちを囃し立てるらしく、気安い客人としているのか元譲さまの書斎の前でも取り繕う様子もない。明雪は盛大にひとつため息をついた。みっともない。あの武官さまはもう元譲さまのお客さまなのだから、と注意する気にもならない。だれかがするだろう。
きっと、あの武官の噂で数日は持ちきりになる。奥さまにもなにか問われるだろうか。まったくもって憂鬱だ。
明雪は庭を歩いた。なんとなく奥まった場所へと足が向かっていた。実は以前に大きな赤い花が咲いていたのを知っていた。一輪ひっそり咲いているのを見つけたのだ。種がどこからか飛んできたのか、その花は深い赤色で光と方向によってはきめ細かにきらめく鮮やかな赤色だった。
偶然が重なって芽吹いたのか、姜維が植えたのかはどちらでもいい。眺めていたくてひそかに足を運んでいたのだ。
また、木の枝も葉も下の草も伸び放題になっている。成長が早いから油断するとこのお屋敷が森にでもなってしまいそうだ。
そう。このあたり。ちょうどここに咲いていた。
なにも考えずなにも感じずに空にしていると、背後で枝を踏む音がした。雀(シャン)との夜の回廊での出来事を思い出し勢いよく振り向けば、碧の瞳を大きくした姜維が立っていた。
「ここでなにをしているんです」
「べつに、なにもしていないわ」
「そうですか」
雀(シャン)であったほうが、ましだった。
「お屋敷も変わりましたね」
「あなたほどではないわ」
「元譲さまが奥さまを娶られたとは知っていました。それに、知らない人も居て知っていた人がいなくなっている」
だれのことを言っているのかなんぞ、すぐ察しがついた。
「理嬢さまが居られた痕跡がありませんね」
急に頭に血が昇って行くのがわかった。
「代わりにあの方がいらっしゃる、雀(シャン)とおっしゃいましたか」
「あのひとは理嬢さまの代わりなんかじゃなくてよ」
代わりだったら、代わりだったら、きっと元譲さまは、きっと、もっと、もうすこし、お心を、平穏を、保たれて、いるはず、なのだから。
「私には代わりに思えます。いや、乗っ取ったみたいですね。まあ、もうあまり関係ありませんが。明雪さまは雀さまをいかに思われますか?」
「そうね、とくに」
「方々は、とにかく美しいと口々に申します。そうですね、いくら顔が理嬢さまでもあのひとにはよくわからない謎の美しさがあります。明雪さま、あまり雀さまにお近づきになりませんように」
「警告かしら」
「あのひとは少々狂っておいでだから」
「……………望んでお身体を痛めつけているとか、かしら?」
「よくご存知ですね」
「どんな噂もどこから耳に入るのかわかったものじゃないわね」
沈黙。
噂はどこから流れてくるかわからない。そう、その通り。真実を、本当のことを知るには自分から動くしかない。
「あなたは、どうして出て行ったりなんかしたの」
「児戯の一幕ですよ。私は、理嬢さまのそばで花のお世話ができるだけで幸せだったのです。いつか終わるなどとだれが予想したのでしょう」
「幸せがあったのに、たしかにそこに存在していたのに。あなたは、どうして外へ目を向けたの」
「子どもだったのです。世界は統べて自分の手にあると思っていたのです」
「だから、あなたは出て行ったの」
「いいえ。子桓さまのもとでお仕えしているあいだも、お会いしたい気持ちがありました。それに、子桓さまは目を盗んでこっそり、いえ、一目でもと場をご用意してくださる心づもりでもあったようです」
そして、そのまえに丞相のお屋敷の一室が血肉で染まった。じくり。痛みが耳元でゆれる小さな白玉から染みる。耳飾りの穴を開けたときの痛みよりもはるかに酷い痛みが姜維をずたずたに引き裂いたことを、明雪は知らない。姜維はじくりと痛む耳を髪ごと覆った。
「詳しくは存じ上げませんが、女性が多く殺されたと教えていただきました」
明雪は目を細めた。
「曹丞相も著しく動かれたとのことです。そうでしょう。よもやご自分のお屋敷が襲われたのですから」
姜維、あなたは知らないのね。「理嬢さまがその場でお亡くなりになった」そう思っているのね。
あなたはとんだおろかものだわ。胸のなかで叫んだ。元譲さまが理嬢さまについてお話しなさっていれば、きっとあなたはそんなことを口にしないはず。だから、わたくしは主に倣いあなたにはなにも教えない。信じないあなたに対する罰よ。姜維。どうしようもないおろかものだわ。
姜維はしばし口を閉じ、耳から手を離した。そして、明雪を笑うように息をつく。
「明雪さま、あなたはいま私をさげすんでいますね」
「軽蔑できない理由がないの」
「わからないですよ。あなたに私の心なんか、わかるはずがない」
「あたりまえよ、わかろうとも思わないわ。でもね、あなたがどれほど軟弱者であるのかは痛いほどわかったけれど」
「お聞きしますが、いとしい気持ちを抱き、共に居たい、生きてゆきたいと祈ったひとりが自分の力およばぬ大きな流れで死に追いやられたとするなら、明雪さまはいかがなさいます」
「そんなこと訊かれたくないわっ」
「おっしゃるとおりです。想像することでさえ忌まれます」
あなたは、理嬢さまの死を信じた。死を確実なものとした。
「だれが愛する方の最後を好みますか」
姜維の口元に皮肉めいた色が見えた。明雪は氷の瞳を変えずに返す。
「好まぬからこそあがくのでしょう」
「どうしようもない大きな渦があります。私は立ちつくすばかりでした」
「考えることと信じることはちがうのよ、姜維。あなたは立ちつくしているばかり、あがくのをやめた、それはあなたの罪よ」
「罪か、なるほど。わたしが犯した罪ですか。ではだれが罰を与えてくれるのでしょうね」
「だれもあなたを裁いたりなんかしない」
「明雪さまではないのですか」
「わたくしではないわ。罰を受けたいの?」
「裁かれるほどの罰というものに興味があるだけですよ」
「残念だけれど、だれもあなたに罪も罰も与えてくれないわよ。それはいつか貴方が与えるものよ」
「おかしいではありませんか、私は裁かれるほどの罪を犯しましたか」
「犯したわ。かわいそうな姜維、もういいわ、この話はおわりよ」
明雪は顔をそむけ、姜維の横を足早に通り過ぎる。また、目の端に白い光が小さくまたたいた。姜維はまだなにか言いたげだったが、戸惑いや未練を残すこともなく、明雪の背を一瞥してから、この場から去った。
あのときと同じままだわ。このお屋敷を出て行ったときの背。
あわれな姜維、いつか気付けばいいわ。そしてその手が幾つのものをこぼしたのか、後ろを振り返ればいい。あなたの罪をとがめるのはあなた自身よ。そのときのあなたを、わたくしは知らない。
自分の部屋に向く明雪の足どりは軽かった。詰まっていたすべてを吐き出した気分である。言い過ぎた部分もあっただろうかとちくり胸を刺すこともなかった。ふと、「おまえが信じる真実は真実か」と言われていたらと思った。わたくしはそれがもし挑発であったとして、噛みついただろうか。「信じる真実」を守るための行動をするであろうことは想像に難くない。そして、頭の中で姜維との言い合いが始まる。
わたくしのなかでは真実よ。
夢想ではありませんか。
あなたにとってはね。信じるか信じないかの選択なのだわ。黒と白、生と死、あまりにも極端であり、歓喜と暗鬱に分かたれるとしたら、わたくしは歓喜を選ばせてもらうわ。
ふん、ですがあなたの意思ではない。元譲さまがおっしゃられたからでしょう。
きっかけや理由はどうであれ、信じる発端であるだけよ。
安易、まことに安易ですね。
どうかしら?目を背いたあなたとはちがうのよ。
明雪は石段の上で一度立ち止まり、姜維のもとまで駆けた。
「待ちなさい」
門の手前にある厩からすぐ出たところ。馬の手綱を引いていた。
「目を背けないで」
毅然と一言放った。姜維は眉を顰めた。
「あなたこそが目を背けている」
「自分の意志で決めたことではないとでも言いたいのかしら?そうねあなたにとってはね。わたくしは信じるものを信じるわ」
「信じたいものを信じる、でしょう。妄想を信じつづけるなど、現実から目を反らし事実を受け入れたくない愚かもののすることだ」
「納得できないからこそ信じつづけるのよ。虚構を無意味に求めているわけではないの、真実を探して探した先にあるものを」
「あなたは、なにを私に伝えたいのです」
「餞別よ」
すでに興味を失ったという薄い目を向けた。
「わたくしがあなただったら、諦めない。……………もがくだけよ」
「みじめですね、悪あがきですか」
「あら、そう見える?」
「でしょうよ。死んだ生き物を見ても生きていると言えますか。枯れた花を見ても満開などと言えますか。荒れた不作の畑を豊作かと言えるのか。明雪さまが言っていることは、つまり妄想なのです」
「あなたは見たの。直接、現実を前にして溜飲を下げたのなら、正しいことこの上ないわ」
「丞相さまのお屋敷に押し入った輩は惨殺を得意とするおぞましい賊です」
「導きはひとつだけじゃないのよ……………。たしかに、いくつかの結果は最悪のかたちしか導かないでしょうけれど、結果はひとつしかないのだけれど、わたくしは究極的な結果を求めるわ」
「やはり、明雪さまとは相容れませんね。私が信じている真実はどうしてもあなたとはちがう。結果はひとつしかないのに」
「こんなにもかたくなとは思いもしなかった」
「そんなもんでしょう」
姜維の碧い瞳は、明雪が視た光景ではない。
噛みあうようで噛みあわない、そんな会話だから喰ってかかり、喰ってかかられるのだろうか。宙に吊らされている気分だ。
「わたしは、あなたはお強いと思いますよ」
「どうして」
「あなたは視たいもの聞きたいものしか感じておられないから」
投げかけられた言葉。
手を上げて陰気な顔を引っ叩いてやりたいと思った。白い指先がわずかにかたく揺れる。なにも知らないくせに、知ろうともしない惰弱者めが。考えることを止めたうつけものめが。わたくしは。
「あなたこそとんだ頑固ものです。あなたの信念は批判しますが否定はしませんよ。どうぞ」
「姜維、最後に言う。もう一度、探し回ってみて」
どうしてこんな言葉が出たのかは解らない。だけれど、少しだけ賭けてみたかったのかもしれない。
「くどいですよ」
「……………」
「もうお会いすることはないはずです、もうここに戻ってくることも。どうぞ、お元気で」
夜も更けて、自分たちの役目が終わったのにもかかわらず、まだ元気が残っていた侍女の三人は一部屋に集まっていた。灯火をひとつともし、厨屋からこっそり頂戴した菓子や、おつかいで市場に行ったときに買った果物を持ち寄った。
互いに、今晩いかがかと昼間に目配せし合う。
月に数回行われるこの秘密の会合は女たちの楽しみだった。
日中のかたくるしく締め上げた帯をゆるめ、足を投げ出し、猫のように布団の上に寝そべって会話に華を咲かせるのだった。
明雪、清春、夏晨がとくに仲が良かったのは、三人が夏侯邸に入った時期が近かったことと、歳が近かったことだろう。
いつも凛としている明雪も、このときばかりは自分が幼い頃に戻っていると感じる。
「伯約が来たわね。お花が好きなのほほんとした男の子だったのにしばらく見ないうちにあんなに立派になっちゃってね」
清春が干し菓子をつまみながら、やけににこにこして姜維について題を出した。
「だけど、どうもやけにこわそうな顔したもんね、声をかけづらかったわ。ねえ明雪、あなた、なにかしゃべってたよね、なにを話したの?」
「いいえ、なにも。ばったり出くわしただけ」
「あなた、やけに伯約には手厳しいよね」
「私もそう思う」
夏晨が相づちを打った。
「気があわないの、こういうこともあるのよ」
「まあね、生来のものってのがあるわけだしね」
「ねえねえ、話は変わるのだけど、雀(シャン)さまって、やっぱりお美しいわよねえ」
清春が身を乗り出した。また、と明雪と夏晨はたがいに目配せする。
「たまあにしか、お目にかかれないのが残念だけど、少しでも見られると嬉しくなっちゃう。お人形さんみたいで、ときどきお花をあの髪に編み込みたくなってしまうの。長い髪もたいそう素敵だったけど、短いのもいい」
「ほんと、好奇心旺盛よね、私はあのひと、こわい」
「不機嫌な顔も好き。お化粧をしてさしあげたくなってしまう」
「好奇心旺盛なのではなく、清春は悪趣味だ」
「なあに、明雪も、もうっ。まあ、今日はどこにもいらっしゃらなくて残念だったわ。御顔を拝見するのが日課になっていたのに」
理嬢さまとひどく似ているのに……………などと誰も言わなくなった。急に屋敷に居つくことになった時期は、みんな気味が悪いと言っていたのに。今はお美しいと言う。そう、あの方はひどくお美しい。理嬢さまがすこしずつ薄れていくのがわかる。口を噤むことから始まりやがて風化していく。
清春が美しいと感嘆する気持ちは理解するが、よくもまあ日常のひとつにできたものだ。
理嬢さまが居られた痕跡がありませんね。どこからか姜維が呟き、明雪は干し菓子をみっつまとめて口に詰め込んだ。甘さよりも酸味がひろがる。
「実はね、私そろそろ帰るかもしれないの」
夏晨がちょっとかしこまってうつむいた。額は若干青ざめている。
「このまえのお手紙?」
「まとまりそうなのですって」
なにを、とは訊かなかった。まとまるから帰る、この意味を指しているのはひとつしかないからだ。
「どのような、御方?」
自然な興味で明雪が尋ねた。
「遠い親戚で同い年なの」
夏晨はちょっと頬を赤らめさせる。乙女の様相に結婚への期待をふくらませているのがわかる。かわいらしいと思った。さきほどの青ざめた額は緊張だったのだ。
「小さいころ一度会ったことがあってね、そのときは腕白な男の子って感じだった。いまはどうかわからないけど」
「知っている人なら、安心?」
「まったく会ったことないほうがもっとどきどきしただろうから、残念かな?」
ぜいたく。清春が夏晨を小突いた。
夏晨を見れば幸せそのものだ。
「いいなあ、夏晨。綺麗な着物を着て、髪も可愛く結ってもらえて頭に飾りをつけて、素敵なお部屋をつくってもらえるのよね」
一生に一度の華やかな衣装と装飾品はたしかに憧れのものだろう。それは物語によく出てくる姫君のように女神のように、きっとそれらに倣う心地は夢のはずだ。
自分たちは世間が言う婚期の適齢期だ。自分の意思ではなく親が決めた相手と、まあそれが全てではないが、だれかと契りを結ぶ。
嫁ぐ女はみんな夏晨と同じなのだろうか?
「私にも、はやく縁談がまとまったってお手紙が来ないかな。楽しみ」
夏晨と清春の会話を聞きながら、明雪の思考は一人歩きをしていた。
いや、理嬢さまはそのようには見えなかった。しかし、特別な立場だったこともある。そして、理嬢はずいぶん世間から行き遅れた類だったはずだ。
自分もいつか?
……………いやだ。唐突にも似た自らの正直な答えは世の条理に背を向けていた。甘いはずの干した果物が吐き出したくなるほど苦い。
清春、夏晨の縁談話がどうしても頭を離れず、半ば自然の流れのように寝床で天井を見つめ想像した。
もしもである。縁談がまとまり、あれよあれよの流れで紅い礼服に身を包むのだとしたら。輿に乗せられ、揺れを感じつつ知らない道を行くのだろう。晴れていれば、頭から被った紅い布ごしに伝わる淡い光に目を細めるのだろう。
知らない人々に囲まれる、なんと心細いことか。そして、知らない殿方。なんとまあ、不安でしかない。知っている顔ならすこしは安心できるのかもしれないが。
頭のなかで仮想の将来を過ごしているうち、まどろんできた。やがてそれは自分が考えているものか夢なのか判別が難しくなってくる。目の前の中心から溶け始めているように、白と黒のもやがかかってきた。
想像はつづいた。
やんややんやのわずらわしい馬鹿騒ぎ。人の声、太鼓と笛と鐘が絡み合う音楽の音、皿を箸で鳴らす音もある。それをただひとり寝室で聞いている花嫁、それは自分。冷めていた。
布ごしの光が気づかぬ早さで消えてゆく。
布ごしの光は、灯の沈んだ暗い色になった。
めくられる面。
知らない殿方、否、夫。なにか、夫は言った。言っているのは分かるのだが、理解できなかった。
肩を抱かれ、背を寝台の冷たい紅い敷布に押し付けられた。
……………なんとおぞましい。
明雪は足で振り払った。夫の腹を思い切り蹴り上げる。
生々しい感触が夢からおどり出て明雪を不快にさせる。鳥肌が立っていた。
夜明け前の薄暗い部屋が広がっている。
身を震う夢で肌にはべったりと汗がにじんでいた。
男性に身をゆだねる、これは自分にとって嫌悪でしかなかった。知らなくとも知っていても。それが幸せだと言う、その意味も理由もわからないものでもない。しかし、それは自分を殺すものだと思う自分がいた。納得できないと言ってもいい。
だれかと契り、子を成し育て衣をつくろい夫に従い、死すれば子に従い死ぬ。それができないと言うのならばいかにして生きるのか。わからない。だが明雪は受け入れ難い。死ぬときはだれだって死ぬだろう、生きるときは精いっぱい生きるだろう。受け入れる代わりに、自分は奉公人として働く方が性に合っているのだ。
嗚呼、生きるとはなんなのだろう。
実家からの文で夏晨が荷物をまとめ始めたのは、夜の会合から、すぐのことだった。
身の回りの整理をしている夏晨の横顔は晴れていて、以前の不安はない様子だった。
まただれかのこの屋敷を出て行く。しかし時を止めることはできないし、ましてや同じ日々を永遠につづけることなどないのだからと、明雪は言葉にできない寂しさを感じながら荷造りを手伝った。「おめでとう。幸せに」
厨房で夕餉の支度をしていると、清春が足音をひそめ近づいてきた。
湯気が立ちこめ火の鳴る音がせわしない。
「ねえねえ、戻ってらしたわ」
「どなたが?」
「雀(シャン)さまよ、今日は運がいい」
鳥のように飛びはねながら浮かれる清春に明雪は呆れた。包丁で緑の野菜を切る手を止めしてしまったのをこれほど悔やんだことはない。
「あなたがどうしてあの人に入れこむのか、さっぱりわからない」
「前にも言ったじゃないの、お綺麗な殿方だからよ」
「ええ、うん。ほんとうだわね、ほんとうに、お人形なかんばせ」
「どうしたのかしら、眉間に皺が寄ってらしたわ。だけどそれでもお美しいの」
清春は前かけをつけながら満面の笑みを途絶えさせない。
「はやく準備をしてちょうだい。夏晨がいなくなってしまったから、人手が足りないの」
明雪は野菜に目を落とし、ふたたび包丁で刻み始める。すると清春は困った顔をして言った。
「機嫌悪いね、苛々してる」
いかにも疲れた色をにじませている。いつものはなやいだ声音ではなかった。
「……………忙しいのだもの」
「忙しいのはいつも。慣れてるはずでしょ」
「ひとりいなくなったから、仕事が増えたからよ」
「ううん。明雪は不穏で仕方がない。理嬢さまが、消えてしまったから」
「清春」
その方の名を出さないで。奥方さまや養子になられた若さまに聞かれたら。それよりも元譲さまの耳に入れたくない。
「みんな忘れてるふりや始めから無かったことにしてるようだけど、そろそろ限界かもね」
「限界?」
「変わるのを嫌いなものも好きなのもあるけど、理嬢さまに蓋をするのって、気に入らないの。だって、みんなして芝居をするってことでしょう?」
「……………理嬢さまは、旦那さまが」
「ここにいまふたりだけだから言っちゃう。不自然なの。不自然に慣れない。不自然をあたりまえにして虚勢を張っているから、みんな苛々してる……………明雪、私はあなたが一番に心配」
「わたくしが?なぜ」
元譲さまでは、と言いかけて明雪は口を噤んだ。
「理嬢さまを任せられたのは、あなただもの」
そう。清春ならず屋敷の使用人は全員が知っている。
夏侯元譲さまは、お優しい旦那さまだ。それに甘えていた。理嬢さまを物置に入れると知ったとき、自分を含む侍女たちは横を向いた。ただ唯一、明雪だけが従ったのだ。もちろん、不信が募った。「なにかお考えがあってのことなのだから」ごくわずかな迷いもなく言い切った。
先の大戦の前、夏侯惇から理嬢の世話を託された筆頭は明雪だった。そして、姿を消したのはだれにも予見できるはずもなく、明雪に非などあるわけがない。それでも背負ってしまうのが明雪だった。
「みんなが理嬢さまのことを懐かしんだりしないのは、あなたを想ってもあるんだよ」
「そんな」
「事情が事情だから、奥さまに内緒にしているのは正しいと思うけど」
清春はようやく野菜を籠から取り出した。あら、土がまだついているわ。甕から水をたらいに移し、洗い始めた。
「……………気を遣わせて申し訳ないわね」
「ほんとう、ここのお屋敷はお人好しばかりだ」
「まったくね」
「ちょっとずつでいいから、前みたいにのんびりな時に戻れればいいなと、この清春は思うわけよ。その前に、私も明雪もお嫁に行っていなくなってるかもだけどね」
やめてちょうだい。明雪は肘で清春をつついた。
「抱えこまないでよね、明雪」
仕返しも込められているだろう、清春は平手で明雪の背を大げさに叩いた。
「あぶないじゃない、刃が爪をかすったわっ」
「あら、ごめん。でもちょっと元気になったよね。感謝してよ」
悪びれることなく軽口で返す友人にあきれたが、友人と使用人仲間たちが慮ってくれていたとは驚いた。そして、ありがたい気持ちだ。
分かち合うことが大切なのかもしれないと、数日前の奥様とのやりとりが自然に口からついて出ていた。
「奥さまに、聞かれたわ」
「なにを?」
「雀さまは旦那さまと、どんな縁なのかって」
あと、奥さまも雀さまは美しい殿方に見えてそうよ。清春同調を示さなかった。
「なんて答えたの?」
洗った野菜を別の籠にしまい、指先についた水滴を払いながら、清春は聞いた。
「知らない、と答えるしかないわ」
「そりゃあ、そうだよね。実際のところ、雀さまのことなんにも知らないよね。気づいたら、理嬢さまの部屋に居るのだもん」
「本当ね。それとね、女の勘なのか、旦那さまのご様子に納得いかないよう」
「……………どういうこと?」
「眼差しがとおいのですって」
「よく、わからないけど……………」
明雪は野菜をすべて切り終え、鍋に水をそそぎ、火にかける。湯になるまでのあいだ、手が空く。
「つまり、あなたが言いたいのは」
「もしかしたら、奥さまは調べるつもりかもしれないと思ってしまって」
「そうしたら、面倒ね。あれこれ訊ねられたとしたらどう説明したらいいか、わからないもの」
「話すつもり?」
「私は内緒にしてるっ」
「そうよね。みんな、知らぬ存ぜぬで通すわよね」
なんでもかんでも話す義務はない。すくなくとも、明雪にはもともと教えるつもりもないが。
「私たちに訊くとは限らないのじゃない?それこそ、旦那さまに直接、訊ねればいいじゃない?」
「雀さまのことを、旦那さまに当たればいいものを、わざわざわたくしに訊ねてきたのよ」
「飛びすぎなような気がする。旦那さまに引っかかるとして、すぐ理嬢さまには辿り着かない」
「奥さまは、夏侯妙才さまともお知り合いなのよ。出どころは意外にたくさんあるわ」
「夏侯妙才さまって、よく喋る方?」
「陽気な方だったはずよ」
なんでもかんでも話してしまうような空気をまとっていると言えばそのとおりだ。
正妻杜玉玲の前夫は夏侯淵の部下だったし、仲人を務めたことから、距離は近いほうだろう。
「結局、秘密って、秘密じゃなくなるね」
「このお話はおわりにしましょうか。あなたの言うとおり、こぼれてしまいそうだから」
鍋の湯が噴き出しかけていた。あわてて野菜を突っ込むと、はじけそうだった湯の泡は沈んでいった。野菜のあつものの他に、なにをこしらえよう。侍女ふたりは食材をまえに、相談を始めた。
書斎にて書をしたためていた夏侯惇の耳に、普段の時刻では聞きなれない声がかけられた。筆先から視線を上げると、ひとり気だるげにたっていた。
「ただいま、夏侯惇」
「今日は早かったな」
「こういう日もあるよ」
ふらり。頭を重そうに揺らしながら口もろだけで笑っている様子にいぶかしむ。
「血のにおいも、返り血もないようだ」
なにをしてきた?おまえのことだから何もせずもどってくるのはおかしい。
不穏を感じ、夏侯惇は椅子から立ち上がり雀(シャン)に近づいた。
雀(シャン)の服が湿っている。髪も耳から前は乾いているようだが、全体として生乾きで、ところどころ束になり毛先には水滴がやどっていた。
衣も生乾きだ。しかし血のにおいはしない、傷をつくってきたわけではないが、ずいぶん丹念に身体を洗ってきたようだ。いつもは水をかぶるだけでよしとし、あまつさえ雨でもよいとしていた雀だ。
「なにをしてきた」
もう一度問う。
雀は唇を曲げた。
「嘘をつくな、つくのならもっと徹底して隠せ」
「どうして、わかるの」
「いつもの様子とちがうからだ」
「……………夏侯惇を」
「私が?」
「夏侯惇を侮辱したやつらを駆除してきました」
「……………」
「俺を夏侯惇の色子だと言った」
「……………」
「そして、俺に迫ってきたので」
「……………」
「処分した」
「だれをだ」
「知らねえ。どうせ雑兵だ。居なくなったってだれも困らねえよ」
「……………」
「俺は侮辱されるのが一等許せない」
「……………」
「安心して、だれにも見られていないよ」
「……………」
「そもそもだ。なぜだ。どうして夏侯惇が下劣な言葉をなげられねばならねえのだ」
雀は足音激しく室内を歩き回り、身振り手振りを交えながら怒りの丈をあらわした。
兵卒たちによる上の者への陰口は別段気にするものではない。曹操への叛旗ならば捨て置けないが、兵卒たちとは使役するに充分な対価もとい報酬を払って契約しているにすぎない。力になる、それ以外はなにも求めていないのだ。忠義で動くのはそれこそ血縁のみに限られるだろう。
「あれらの心まで支配する必要などない、捨て置け」
「俺には関係ない、ゆるせないものはゆるせない」
「であるならば覚えろ。相互の利益があり相応の働きで相応の褒美が与えられる。これは人間という世界のなかにおける体制のひとつだ」
「むつかしくて俺にはわからない」
「ほざけ、貴様は利口だ」
「ありがとう、うれしいな、ほめてもらえるんだ」
「はぐらかそうとするんじゃない。雀、勝手気ままに殺すな」
「だって、夏侯惇を馬鹿にしたっ」
雀は床をおおいに蹴り上げた。夏侯惇はひるんだ。
「あいつらの吐き気がする声がまだ耳にこびりついているっ。あんなに洗ったのになっ」
耳を塞ぎながら髪を掻き乱した。
「なんて言ったと思う?あの野郎どもっ。毎晩お楽しみなんだろうって、なんなら昼もかって。そしたら穢い手で俺の顔に触ろうとしやがった。一回どうだって。あの、あの、も、よりってっ。一等ゆるせないのは、夏侯惇のことを……………夏侯惇の身体を侮辱しやがったことだっ」
ぎくり、夏侯惇の無いはずの右の肘から下がうずく。も、これはすぐに察しがついた。盲夏侯、己への唾棄すべきあだ名である。
雀自身の容姿から浮かぶ下世話な歓声が沸き起こるのは容易に想像できた。そして、この顔がより人を惹きつけるのも。しかし、雀が憤るのは自分のためではなかった。もっぱら、夏侯惇への実のない醜聞に対してであった。
「聞きたくないんだよ、夏侯惇を馬鹿にする言葉は、ほんのちょっとでも。きらいだ……………それでも殺しちゃだめなのかい……………」
「だめだ」
「……………」
「兵は私のものではない、曹孟徳のものだ。監督こそすれ生殺与奪は許可されていない」
「嘘つき。このまえ、挽き肉にしたら報告は受けようって、言ったじゃない」
「あんなもの冗談に決まっているだろう。真に受けるな」
「じゃあ、言わないでよっ。俺は、俺は……………」
きみがよろこんでくれると思って。言いかけて雀は唇を結んで眉間に皺を寄せた。そんなことがあるわけがない。
「……………うん……………」
「今回は不問にしてやるが、従兄上には報告する」
「……………そう……………」
「反省しろ」
「……………迫られたのが俺じゃなくて理だったら、怒り狂ってたのは、きみのほうなくせに」
夏侯惇の舌は凍りついた。
理嬢の顔がそこにあった。
そのとおりだ。
声が出なかった。
理がもしも雀とおなじ目に遭ったのなら、私はきっと激情に駆られたまま迫った輩を生かしてはおくまい。
しかし、凍えたのは束の間。掻き乱されたとしても早々に立ち直りやすくなっていた。
「もしも、今日言われたことを理が言われたら、せいいっぱい言い返しただろうさ。夏侯惇がけなされるのを黙ってやり過ごせるもんか」
ああ、俺はなにを言っているんだ。腹に収めていたほうがいいと思えば思うほど喉から這い出されていく。気持ちがひとつひとつ、怒りが意思を持っているように。
理が知らない男たちに囲まれたと言ったら、拳で壁を殴るくせに。
「理だったら、泣いてたら、抱きしめてあげるくせに」
理が知らない男にありもしないでっちあげを言われて、悲しみと怒りで震えて帰ってきたら心配するくせに。
理が恐怖に青ざめ息も浅く言葉を詰まらせていたら、夏侯惇は我を忘れてしまうくせに。
どんどん出てくる。止めたほうがいい、頭のすみで自分がささやいている。
夏侯惇は唇を結び、じっと雀に耳をかたむけている。
「ばか、ばか、夏侯惇のばか」
がきだ。われながら呆れてしまう。それでも止められない。
「ばかやろう、おおばか、すこしくらい、理にもってるやさしさのちょっとくらい、俺にもくれたっていいだろ、ばか、夏侯惇はばか」
黙っている夏侯惇が腹立たしい、俺を黙って視ている夏侯惇が俺の感情を焚きつける。
「ば、夏侯惇……………」
散々わめき息が上がってくる。あとは出てくる言葉も言いたい言葉もしりすぼみになって無くなってしまった。残ったのはなさけさなだ。
肩で息をする雀に夏侯惇は変わらずの瞳を向けている。
「言いたいことは、言い終わったか」
「おわった……………」
「私になにをしてほしい。私はおまえを理嬢として視ていない。雀、おまえは私になにをもとめている」
「……………心配、してほしい」
「おまえの安否は常に心がけている」
「じゃあ、怒って。俺が不快になった原因の無礼な輩に怒ってよ」
「軍律違反ではないにせよ、乱す分子は早々に対処しておいたと考えればいいだろうな」
「俺は良いことをした。夏侯惇への不敬は大逆だろう」
「私への罵倒などたかが知れている」
「そんなことないっ」
「このたわけめ。おまえを案じるからこそ言っているのだ」
「心配だって?」
「従兄上は軍律に厳しい方だ。諍いで乱れようならば徹して取り締まられるだろう。今後は勝手に殺害するな。急に人間が消えることがつづけば、どれだけきれいに処理しようと、いつかは足がつくぞ。私でさえ、かばいきれなくなるやもしれん」
「俺が黙って罰を甘んじるとでも?」
「妙な気は起こすなよ」
「俺は本当のことしか言わないもん」
幼い口調になった。
「だれも俺を殺すなんてできないからね。俺を処刑するなら、先に曹操を殺してやる」
「貴様、ふざけたことを。何を言ったか理解しているのか」
「この国の全員、敵に回したって痛くもかゆくもない」
「そのあとはどうする」
「夏侯惇をさらってやる」
「性懲りもなく舐めた言い草を」
「俺は夏侯惇を傷つけられない」
「私がとどめを刺してやる」
「できないね。きみは」
「私が、おまえの顔に臆すとしているな?」
「きみを避けて曹操を突き殺してやる」
「ならば、私は従兄上をかばってもろとも串刺しだな」
「そんなのだめっ」
雀は夏侯惇におどりかかった。胸にすがりついて、膝が徐々にくずれていく。腰をきつく抱きしめた。加えられた重みに、夏侯惇はあやうく尻を床に打ちつけるところだったが、なんとかこらえた。
「だめだ……………夏侯惇……………だめだ……………だめ……………いや、いやだ……………」
声が震える。夏侯惇が串刺しに?想像しただけでも、なんとおそろしい。夏侯惇が自分の手で刃に貫かれるなどと、これほどの恐怖があるだろうか。
「ごめんなさい、言い過ぎました。ごめんなさい……………」
腹に顔を埋め哀れなほどがたがた肩を揺らす雀に、夏侯惇はあっけにとられた。
悪さをした子どもに仕置きで「物置に閉じこめてやるぞ」と脅したときの心境だと思った。
細く長い高い声で、まだ同じ言葉を雀はつぶやきつづけている。夏侯惇はよぎる記憶をよみがえらせたくなくて、雀の顔を掴み、黙らせた。
今の雀に、夏侯惇の黒い瞳は綺麗なほど冷雨に映る。
鼻を赤くし、潤んだ瞳がどうしようもなく幼なかった。盛大な溜め息がもれてしまう。叱責する気も失せてしまった。
「いいか?先ほど従兄上をおびやかす発言を口さがない者どもに聞かれてみろ。またたくまに反逆者だ。見えるものばかりではない、従兄上の耳や目は把握できぬほど数多に居る。わかるか?」
「わかった、わかったから……………。もう、こわいこと言わないで……………」
雀のくずれた表情は夏侯惇を少し苛つかせた。
「たしかめるぞ。従兄上を殺すなどと、口から出た勢いまかせの冗談だな?」
雀はいきおいよく何度もおとがいを縦に振った。
「弑せんとする気は露ほどにも持ち合わせていないな?」
もう一度、さらに強く頷いた。
「よろしい」
「夏侯惇、ごめんなさい……………」
「雀、口から出まかせを吐くのはよろしくない。慎めよ」
「うん、ごめんなさい、あと、夏侯惇の冗談、気をつける……………」
「不愉快を言われ殺意を抱くのは、仕方ない場合もあるが、殺したくなったら、かならず私に報告しろ。いいな?」
「……………はい」
「私が殺せと言えば殺せ、殺すなと言えば……………わかるな?」
「殺しません……………」
まるで犬の躾だ。
感情の起伏が激しい雀。貯めた川の水が堰を切り土砂を巻きこみ押し寄せたようだと思った。似ているのであれば、暴風雨が過ぎ去った後のように平穏になるにちがいない。
口や態度は荒々しく乱雑であるが、夏侯惇が手綱を曳いてやれば途端におとなしくなる。
薄々ではあるものの自分が雀の弱みだと感じていたが、弱点なるものはなかなかにわずらわしい。
「雀、当分のあいだ、屋敷から出るな。白兵戦演習を禁じる」
音がするほど雀は目を大きくした。なにか言いたげに、おそらくは不満を、唇を突き出す。
「これは命令だ」
わかったら、さっさと部屋で頭を冷やせ。
「でも、夏侯惇……………」
「なんだ」
衣の裾を握りしめている手を、夏侯惇は払いのけ背を向けた。
「どうした」
「怒ってる……………よね……………?」
黒い瞳は雀をたしかめもせず、静かな足音で書斎から出ていく。
雀は衣を握っていた手をそのままにしたあと、膝を抱えてうずくまった。
夏侯惇は回廊を進んでいた。似ている光景をどこかで目にしていた気がする。雀の表情が雀のものであったり、理嬢のものであったり、憎くてたまらない雀の弟のものであったりと夏侯惇を苛立ちというかたちで翻弄している。
雀の笑いを噛み潰したような哀しげに歪んだ顔に、あの蒼い瞳をした弟の嘲笑う部分も宿っているように見えてしまい、少しの違いがあれば、首を絞めんと襲っていたかもしれない。
ひとりに三人の表情が浮かぶのは、ゆっくり浸食する毒のようだった。
雀に白兵戦演習を禁じたように、私もしばらくは雀と顔を合わせないほうがいいだろう。
無限の回廊へ放り出され、目の前のそれはひとりだけなのに、ちらちらとうつりゆく倒錯は心身を重くする。休息が必要だ。疲弊はまたいずれ悪夢として眠りの無防備を襲ってくるはずだ。
赤壁から、ずいぶん季節が変わった。日々のなかで立ち止まれば、外の大きな変化が否が応でも存在を訴えかけてくる。
笑い声が聞こえた気がした。
話し声が聞こえた気がした。
とんでもなく下手な筝曲が聞こえた気がした。
せわしない足音がした気がした。
私を呼ぶ声がした気がした。
俺を呼ぶ声がした気がした。
「夏侯惇さま」
私を呼ぶ声がした。
「お仕事は、一段落つきましたの」
杜玉玲が白い花をたわわに抱え、ほほえんでいた。祝言をあげたのも、かなり前のことだ。
「玉玲、それは?」
「お庭のお花がとても綺麗に咲いていましたから、飾ろうと思いましたの」
ひとりで摘んだのか、侍女らと摘んだのか、花冠でも首飾りでも花遊びはしないのかと問いかけた。また、自分に渡すつもりなのかとも思ったが、そんなことはありえない。
「そうか」
玉玲の両耳で白玉の耳飾りが小さく揺れている。夏侯惇が贈ったものだ。
「花が好きなのか」
「ええ、まぶしいくらい白色があざやかでしょう?」
「そうだな」
「花瓶に活けてまいりますわ」
寝室にでも置くつもりなのだろうか。
正妻は優雅に一礼した。夫がじっと顔を見つめていたので、首をかしげる。
「夏侯惇さま?いかがしましたの?」
「いや、ただ」
「泥でもついていたかしら?はずかしい」
「耳の飾りがよく似合っている」
想定していなかったと言わんばかりに、玉玲は頬を赤らめさせた。そして、夢に横たわるように言った。
「夏侯惇さまがみつくろってくださったものですもの」
変わっていく。人間も季節も。
変化は夏侯惇の心だけを置いてけぼりにし、廻っていくのだった。
夏侯惇は遠いものをたぐりよせるように、白玉の耳飾りに触れた。