第十章 沈黙 黄昏にさ迷う



頭の上から、はるか遠くから水晶を溶かした粒がひっきりなしにしたってくる。

髪の先から鼻の先からあごのさきからふたたび粒になり地面に落ちるそれは土のなかで眠り本来のすがたへと戻る。そして、人間により掘り出され空に昇り、くりかえされる。水晶の成り損ないたちの声は妙にさびしげで暗い。やかましく、不愉快だ。……………なあんて、子どもだましの妄想を考えていた。

身体のなかが靄のようにぼんやりとやわらかく灰色にひろがっている。ぼうっとする。

紅い眼にはなにも映ってはいなかった。いや、映ってはいないと言うと語弊がある。正確には、意に入れず本能のままに目の前のすべてを分別しているだけだった。

草、木、土、柱、屋根、瓦、欄干、石壇、人間。

人間には大きな分類があり、それは大切なものとどうでもいいものだった。自分にとって価値あるもの、価値なきもの。いま雀(シャン)には、無くていいもののほうが圧倒的に多かった。価値あるものを守るためならば、自身の身体がいくら傷つこうともかまわなかった。たったひとりだけの肉体があまたの傷痕に埋めつくされたとしてもだれも悲しみにくれたりなどしない。この傷痕どもが大切なものの関心をひくことない。それでよかった。雀は気を引こうと刃を受けつづけているわけではないのだ。

血の香りがある場所、痛みのある場所、そこでなければ俺は生きていられない。そう、俺は生きるためにその場所へ還ろうと決めたのだ。見つけた居は心が安らぎ、生まれる前のすがたでずっと眠っていたいと願うほどいとおしかったが、新たな利と害ゆえに離れることとなった。望まないわけではない、望む意味が無くなったのだ。

最近、探る意識を感じる。女である。

直接、言葉を交わしたことは一度もないが、同じ箱庭にいるのだから指で数えられるくらいにはすれちがったことがある。

目元は涼しげで、そう、たとえるのなら雪のようだ。凛と背筋がのびたあの女。たしか、理の世話をしていたはずだ。その女が自分を見つめてくる。殺意と欲ならば敏感に察知できるが、女はどちらでもない。何かを知りたがっている、それも切実に思いつめた、または羨望のような。

ほっといておくしか結論が出せなかったが、あの眼はいささかうっとおしい。自分はすべてを悟りきっています、小生意気なことを押しつけられているようで不快なのだ。

なにが言いたい、そのくちびるで。お高く止まっている女、馬鹿にされているようで不愉快だ。

だから、俺は不本意ながらも問い質してみることにした。

女は息を止めた。

宵の口頃、小さな灯りを持っている女の背後に胴をしっかり付けて後ろから抱えこんだ。脇の下をもぐりななめ腰をつかみ、声を出されては面倒だから四本の指で首を軽く握る。

「……………ごようで、ございますか」

肩口からの顔でも十分整っている。声音はふるえていないが、指の腹で感じる脈動に、女が怖じ気ついているのがわかる。

「なんで俺を見る」

「はい?」

「あんなのすぐに気付く。御用があるのそっちだろうが」

女は考えこんでいるようだ。暇だったので、灯りを吹き消す。夜の生き物どもが活き活きとするざわめきがさんざめいた。

「聞きたいことがあったら、聞けよ。俺、あんたの眼が嫌いだ」

「この状態をといてくださりませんか?」

「たずねているのは俺だ。失礼なやつだな」

「女にこのような狼藉をはたらく殿方こそ、無礼ではありませんか」

首の脈動は正直だ。平静を必死に装っている。しかし、声音は刃にやどる雪の結晶のように鋭い。ますます雀の気をねじ曲げた。

「ふん。心配しているのか。あんたの身体になんぞ興味なんかこれっぽっちもない、ばかめ。すぐに殺してもかまわない害虫然とした人間どもといっしょにしないでくれるか。殺したくなる」

指に力がこもる。この女の首をこのまま引っこ抜いてもいいだろうか。

「ならば舌を噛み自害して御覧にいれましょう」

「へえ、そんなことできるのか」

「殺そうと思う人間に自ら死なれてしまうお気持ちを察すれば、さぞ残念でしょうね」

伝わる脈動がもとの位置にもどっているようだ。空にあふれる気を感じて、ざわめきが音大きくひしめく。強気で言っているのではない、そんな声音だった。あ、そういうところ、夏侯惇にちょっと似ているのかもしれない。

夏侯惇、思いがけずそのすがたが浮かぶとこんな女さっさと捨てて夏侯惇のもとへ駆け出したくなった。

「ああ、おもしろくないし、くやしい。よくわかっているね」

「ではいかがなさいます」

「まだ質問に答えていない。だから、あんたはまだ死ねない」

「離してくだされば、考えてさしあげてもよろしいですわ」

「かんがえてもよい、言い方が狡猾だ。言うと言え」

「約束はできません。このような無体なまねをされておいてやすやすと許諾するとお思いですか」

「たしかに、そうだ」

まあ、この女の言い分に一理ないわけではない。どの時代でもどこの国でも女が男に心を許す範囲は狭いのだから。

雀は首にあった手を下ろした。

「俺はあんたが懸念しているようなことはしない。でも、離したとして、逃げるんじゃないかという疑惑があるから、もう一本の腕はこのままだよ」

「あなたが、わたくしに疑惑をですって?」

「逃げて、大声で、手ごめにされかけたとか有りもしない口上をつぎつぎに走られるのは御免だよ」

女は鼻を鳴らした。かすかにうごいた横顔があきらかにこちらを馬鹿にしていた。

明雪は、使用人としても個としても義理堅く責任を負う意味の強さを知っていた。かわした約束を反故にする、それは考えられぬことであった。約束とは重いもの、言葉とこころの枷である。雀はそんなことも知らないでいるのか。自分を軽んじられたことへの反発、自分に疑いを持たれたことに対しての抵抗が我慢できなかった。

「このお屋敷にいる人間はだれひとりとして交わした約束を吐き捨てるなどいたしません」

「へえ」

「それは一重に、主である夏侯元譲さまの御人柄も相まってのことですから」

あ、また。夏侯惇だ。この女、夏侯惇、夏侯惇。やっぱり気に入らないな、すこし、やっつけてやろうか。

「じゃあ、信じてあげる。話がしたいんだ、こっちを向いて」

雀は二、三歩退がった。明雪はやつが退いたのを感じると向き合った。

うつくしいひと。夜の青が男の薄情なうつくしさを影として際立たせている。

「あんた、さっき約束って言ったけど、破ったじゃない」

女。聡明そうな顔立ちで美人だと思う。背筋がすっと通っているし、肌は白い。吹き散らされる雪の冷たさが眼に宿っているようだ。

「わたくしが?」

「夏侯惇に頼まれていただろう。よろしく、頼むって。理は、どこだ」

あ、そっか。雀の残酷なくちびるに、明雪は熱を含ませ美眉を寄せる。白かった顔が首まで赤くなった。あ、そっか。蠢く嗤いが腹をくすぐる。あ、そっか。

この女は、知らないことを知りたかったのか。

「わたくしを愚弄するおつもりですか」

頭のなかで目の前の男が放った声と、元譲さまのお言葉が打ち鳴らす鐘のごとく反芻する。

「まさか。あんたがまちがいを言うから正してやっただけだ」

言い返せなかった。明雪は拳を握りしめた。視線を紅い瞳から外さなかったのは意地でもあった。負けてなるものか、甘くみられてなるものか、軽んじられてなるものか。あきらかな怒りが自分を支配していくのがわかる。

「たしかに、あなたの言い分は正しいでしょう。わたくしは、主のご期待を裏切ったやもしれません」

「まあ、そんなふうにかしこまるなよ。責めているわけじゃないんだ」

女が求めている内容を察した雀(シャン)は勿体ぶって、女の周囲をゆっくり回った。二、三周したところで耳もとでささやく。

「理は死んだよ」

「旦那さまは否とおっしゃいました」

間髪を入れず静かに拳を下ろすよう反論した明雪に、雀はすこしひるんだようだった。

「あなたはなにがしたいのですか。わたくしを愚弄するのならば、御勝手に。しかしながら、我が主を愚弄するとあらば、その愚かなる所業、赦すわけには参りません」

闇の底のような眼で雀は明雪を見た。

「俺がいつ夏侯惇を蔑ろにしたんだ」

「いま、です」

「なんだと?」

「理嬢さまの死について、旦那さまの見解はいちはやくご存知のはず」

「ははあ、あんたは俺と夏侯惇の意見がいっしょじゃないのが気にいらねえってのか。てめえのそれこそ愚かなる所業ってやつじゃねえか」

「その口、つつしみなさい」

「馬鹿女。てめえが持ってるそれは妄執だ。自分で考えることをやめた、進むことを止めて、なにかにすがりつくだけで楽をしたい、ただ生きていたい寄生する虫どもといっしょだ」

雀の手が明雪の首を鷲掴みにする。息が刹那止まった。

「わたくしが歩むことを放棄しているですって?」

「ちがうのか、ちがわねえだろうよ」

妄執。そう言われても仕方がないのかもしれない。知らないことが多すぎたのは、たしかに明雪を一本の袋小路へと迷わせ、暗闇の光として夏侯惇をひとりまばゆい存在にさせていたのかも知れない。また、この美しく残酷でおそろしく醜い男に火を点けたのは、まちがいなく自分の言葉だ。元譲さま。意志を踏みにじられた、まるで元譲さまが否定されたように感じられた。軽率な言葉だった。

「おい、言い返せよ」

「……………言い過ぎましたわね……………。あなたのご意見と旦那さまのご意見、相違があってもおかしくありませんのに」

「へえ、急にしおらしくなったもんだ」

侮蔑がこもった声があたりにこだまする。首を絞める力が緩むことはなかった。

明雪はさほど恐怖を抱かなかった。燃える月のように紅い瞳にも怖れを抱いていない。この男はわたくしに憎悪を向けているのだろう。「我が主を愚弄するとあらば」この言葉が発端となっている。単純な導きであった。自分が敬愛する主を賤しめるようなことをいわれれば、わたくしはなんの躊躇無く激昂する。同じだ。この男は元譲さまを、わたくしとはまたちがった立場で、そしてただならぬ想いを向けている。時として矛になり哀しみになるであろうそれを男は秘めている。だから、あの言葉は元譲さまを想う雀と想いそのものを打ったのであった。

「だれでも、想いと矜持をけがされれば頭に血がのぼります」

「まあな。これからは口に出すまえに考えるんだな」

「では、わたくしの質問に答えていただけますか」

「なにを?知りたいの。……………なんてね、あんたの腹なかはわかってる」

「理嬢さまをお教えください」

「俺よりわかってんのそっちだろ」

「でも、わたくしが知らない戦の事実をあなたは……………知っているでしょう」

雀(シャン)は不遜なたたずまいだったが、わずかに集中する色をにじませた。

「死んだよ」

そして、あやしい毒をふくむ。

明雪は二度目の言葉に雪の瞳で返した。

「旦那さまは、逆をおっしゃいましたわ」

主の字を出すと雀は紅い瞳を細めた。

長い漆黒の黒、剣よりも鋭い眼、一筋の強い光の後ろに控えるすがたはさながら黒い太陽のようでもある。輝きを放することはないけれど、慎ましく守護を担うごときの我が主。その声はたとえ視界を奪われた闇のなかでもやさしく響こう。「雀が言うには理嬢は死んだと。だが、私はそうは思わない」

わたくしには主がもうひとり居られる。その方の「死」を呟いたあなたをわたくしは信じられない。元譲さまがおっしゃられた「生」を信じます。だけれど、あなたは。

あなたが理嬢さまに刃を振り上げた過去が、わたくしから信じるという感情をどこかへ追いやったのやもしれませんね。

「わからず屋だな。まあ、どっちでも好きなのを選ぶがいいさ」

「なにがあったのですか。なぜ理嬢さまは生死問われねばならぬのですか」

雀の紅いくちびるから笑みが消え去った。怒りやあざけりなどの感情をいっさい無くした顔は血潮の氷のようにあたたかさをあらわしていた。明雪はたじろいだ。

じっと真っ直ぐに視線を向け、右手が不自然に固くびくついていた。それがなにを示しているのかはわからない。いや、ここでこわがってはいけない。逃げてはいけない。

首すじにあたる空気がなまあたたかく、あの火粉をよみがえらせた。雀の身体が熱くうずき、傷が暴れる。舌が血の味であふれかえり、あの地下牢での命をつなぐ行為を思い出していた。

あのときの絶望がふたたび襲ってきた。

雪が深淵の蒼と重なり合った。気がつけば、雀は明雪を押し倒していた。燭台が重い音を立て手もとから転がった。なんの感情もなく深く荒い息に身をふるわせながら。

「ころしてやる」

ころしてやる、ころしてやる、ころしてやる……………。ひどい口の臭いが鼻をかすめる。言ってやるまえに、明雪になっていた。身体じゅうにきざまれた傷がおさまっていく。この女、死に神とどこも似ていないのに。自分でも馬鹿馬鹿しくなった。

だが、俺のなかにはやつに対する有無ない憎悪と殺意が確実にあると確かめられた。この芽を枯らしてはいけない。もっと茎を肥大させ、最後には実を破らねばならないのだ。

歓喜に笑っている……………?明雪は目を反らせなかった。負けるわけにはいかない、意地ではなかった。ただ、その表情がえげつないほど惹きこませる力があった。

「はなしなさい」

「うん」

ゆっくりと女のからだを離れると、衣服についた埃をはらいのけながら明雪も立ち上がった。

「夏侯惇に教えてもらったはずじゃないのか」

「旦那さまには理嬢さまの生死、右腕、敗戦を教えていただきました。わたくしはあなたの眼で視た事実とあなたを教えてほしい」

「どうせ好奇心だろ」

「そうでしょうね。あなたにとってわたくしは関わりがありませんもの。しかしながら、理嬢さまに縁あるあなたさまを知ることで、気持ちに区切りをつけられます」

「自己満足か……………」

「そう思ってもらいかまいません」

「俺は、理だから」

「え?」

「俺は理なの。だから、理が生きているのも死んでいるのも、わかる。血が流れた……………十分だろう。あいつが切り刻んだ。指先まで丁寧にやったんだ……………腹にもいくつもいくつも孔を空けてな……………」

最後のほうは独り言のようだった。

恐ろしいつぶやきが入ってくる。このひとは嘘を?それにしてはそぞろ寒く血の気を奪っていく。

「孔………………?それは、どういう………………」

ぎょろり。紅い瞳は明雪を捕らえた。膝が落ちたのは偶然ではない。紅い瞳に混ざる暗闇はどこまでも容赦なく広がっていて、明雪はたちまち青ざめた。

このうつくしいひとが幾つもの遺体の上を這いずり血肉を啜っているまぼろしを視た。

死の香りがうつくしい口もとからただよってくる。

今度こそ、女は怖じ気づいている。雀にとっては大笑いものだった。

「雀」

風に乗って自分を呼ぶ恋しい声がする。

「夏侯惇」

紅い瞳をした得体の知れない不気味な生き物は、あの花のように愛らしく、駆けていった。





「傷を見せろ」

夏侯惇は雀の胸に、左のひとさし指を立てた。

雀は頷き肯定もせず、首もとの留めをはずしていく。

今宵はかすかな風が吹いていて、天窓からこぼれたかぜはゆるく蝋燭の明かりを揺らし、夏侯惇の書斎の影をもわななかせた。やみにとりかこまれる。

上着が足元にばさりと音を立てる。白磁の肌には真新しい赤紅の傷痕と塞がった古傷がいくつも混在していた。赤紅からは血の香りが発せられている。

斬り傷、かすり傷、打撲痕、刺し傷、……………種類も多岐に及んでいた。しかし、治りは常人よりも早い。さすがだとも夏侯惇は内心思っていた。

「増えるばかりだ」

「夏侯惇、きみはいつから、そんなものを数えるのが趣味になったの?それとも、もともと傷痕数えは好き?それで、かぞえ歌でもつくるつもりなの?」

「悪趣味だ」

「俺もそう思う」

「私にそんな嗜好はない」

「あっても良かったよ?夏侯惇になら、いつでも、どこでも、何回だって見せてあげる」

「ちゃんと洗っているのか。血のにおいが臭いぞ」

「水はかぶっているよ」

「……………嘘だな」

「どうして?どうして?」

「井戸の水と雨の水とでは香りがちがう。おまえ、今日は井戸水で清めてはいないだろう」

「雨のしたに居たから、いい」

「おかしなにおいに慣れるなよ、雀。服もひどい」

「気にしすぎなんだよ、きみは」

雀は手首に鼻腔を添えた。自分の身体からはどんなにおいがしているのか、気にならない。なろうとも思わないばかりか、どうでもいい些事であった。

「……………俺は」

紅い瞳が恨みがましく夏侯惇を見据える。

「きみさえ傷つかなければあとはどうなったっていいんだ」

夏侯惇は黙っていた。透けてしまう声がつづける。

「俺はもっと強くなるんだ。もっともっともっと強くなるんだ。剣でどんなに貫かれたって痛いと感じなくなるように、槍でどんなに刺されてもひるまないように、矛でどんなに叩かれたって歩みが止まらなくなるように、俺はどんなになっても強くなるよ。きみの敵は曹操の敵でしょ?曹操の敵が居なくなればきみを傷つける敵はもうどこにも居ない。夏侯惇、俺は夏侯惇が傷つくのが嫌なんだ。きみを傷つけるだれもがなにもがすべてが憎いんだ。殺してやりたいんだ。考えるだけでだれかを殺したくなるくらいなんだ。殺すしかないんだ。殺すよ?殺していいんだよ?殺していいんだ」

小さな灯りが雀に宿り、激しく想いを燃え上がらせていく。

それは狂気なのだろうか、盲目なのだろうか、夏侯惇は雀がため込んでいる黒く淀んだ死と闇と血の渇望をどろどろと溢れさせているようにとれていた。

「きみをないがしろにするのは罰だ。罪を犯せば報いは受けてもらうのが条理だろう?」

「罰だと」

「だから、俺はね」

唇だけが引きつりながら曲がった。

「夏侯惇を傷つけたあいつの首をもいで、きみに贈るよ」

夏侯惇が望んでいる言葉を雀が言った。

雀が歪だというのならば、私もあますところなく歪である。

もっと強くなってしまえばいい。殺戮人形の名のもとに牙を研ぎ、殺意をのばし、どんどん狂気に塗りかたまってしまえばいい。夏侯惇のなかにあるだれにも視られたくない願望は、目の前に居る雀として具現しているかのようでもあった。

灯りが雀の傷痕を揺らす。ひとつだけきらめく光りが紅い瞳のなかにも在って際立たせていた。この瞳は愛しさと憎しみを夏侯惇に自覚させる。雀の瞳は長年そばにとどめた愛しいものであり、また自分を屈辱の底におとしいれた憎悪の象徴であった。ちょうど中央に立つにこの存在は鋭さだ。

夏侯惇は水差しの水と布きれを用意した。

水差しはもともと部屋にあったもので、汲みたてではないゆえにぬるかった。布きれは急ごしらえで、棚にあった絵飾りもなにもないただの白布だ。そこにあったのは偶然だ。なにか目的があってのことだったと思うが、忘れてしまったし、自分が置いたのかもわからない。水を含ませたそれを傷ひとつひとつに這わせていく。手つきは落ち着きを払い、ときに力がくわわることもあり、時おり雀は眉間を動かすのだった。

白が赤を薄く吸ってゆく。

雀が瞳を閉じた。

白兵戦演習に臨むとき、自分の気配を消そうとでもしているのか、息はひそやかであった。

風はいつのまにや途絶えている。夜空を往く鳥の声はなく、虫や蛙どものけたたましさもも無い。

静寂だ。気がつけば、雀の息を吸う音だけが聞こえる。

見捨てるの。ずっとまえに雀が言った声を思い出す。私は理をどうして見捨てようか。

突き放すのか。夏侯淵がそんなことを言っていた。私が雀を突き放すそのときは、私がなくなったそのときだ。私は雀を利用しているが、雀も私を必要としている。雀も認めているはずだ。やつとのあいだにある棘は理解されなくていい、私と雀だけが共有できる感情のみにとどまっているほうが好ましく、他者の介入は煩わしくさせる。

夏侯惇と雀を結んだのは理だった。その存在を無くした今、隙間を埋めるように互いの目的に暗い執念を燃やしている。非常に、勝手である。

「夏侯惇、奥さんはいいの?待たせているんじゃないの?」

背の傷を拭ってやっている。

「……………物足りない?」

返答をせずにいると、次の問いを投げかけてきた。首をがっくり落としうつむいている状態から、表情は伺えない。

「まだ蜜月だから、きちんと相手をしてあげたら?仲、悪い?」

「おまえが心配することはない。昼夜毎日、相手をしては身が保たんだろう」

「……………いやらしい」

から笑いが毒を引く。吐き気を催すような素振りは演技である。

「俺、女は嫌いだよ」

「ひとつ注意しておくが、床での営みをしているわけではないのだぞ?」

「ああ?そんなこと、知ってる」

あからさまに機嫌が悪くなった。夏侯惇に少し身体を近づける。

「女のさ、喘ぎ声ってのは何回も聞いたことあるよ。俺も抱いたことあるもん。気持ちいいとか支配欲が満たされるとか、全然楽しくなかった。抱いているときの女は、人間みたいで人間じゃないみたいだったよ。ねえ、どうして女は男に抱かれて、男は女を抱くの?」

「ひとつは繁栄のため。交わり、子を成し、未来への種を確実なものにしていく。人間はおろか鳥獣や虫にいたるまでずっと行われてきた」

布が赤に染まる。そのまま腰の傷を拭ってやる。

「もうひとつは?」

「享楽だ」

「ふうん、だから娼館があるわけか。夏侯惇は行った?」

「行ったよ」

もっと若い頃、曹操と夏侯淵に連れられて、初めて女体というものを抱いた。自分よりも年上の女だった。狭い個室で交わり女を知った。思い出せるのはそれくらいだから、あまり関心は向いていなかったのだろう。

戦が近いと昂ぶると言う輩たちが居るが、自分はそうではなかった。しかし、男に興味があり女に無いというわけではない。もともと自分は性への欲求が薄いのだ。

「どんな気持ちだった?」

「覚えていない」

「そう」

雀がこちらを向いた。紅い瞳が花を手折りかけるように夏侯惇を見つめている。

「奥さまを抱くときは?」

夏侯惇は唇をすこし開きかけにしたまま固まった。雀の腕を拭こうとしていた布を所在なさげに宙にとどまっている。

理があらわれるなどと、言えようか。

妻と交わるのは、夫婦だからだ。夫婦というのはそういうものだった。愛や恋が生まれることもあり、子種が宿るのは当たり前で、自然に合っているものなのだ。だが、私は、理との逢瀬を求めている。

初夜から、肌を重ねる寝る夜もあれば重ねない夜もあった。無理に関係を迫ったこともなければ、求められたこともない。

女の立場は解らない。世継ぎ、と玉玲は望んでいるだろうか。嫡男として妻の連れ子の夏侯充を認めている、告げているはずなのだが、本心のところは謎のままだ。

快楽よりも新しい生命よりも私が、望んでいるのは。

「夏侯惇」

瞳を冷ややかに、傷痕だらけの白い胸を張っている。雀は言った。

「俺を抱いてもいいよ?それとも、抱いてほしい?」

夏侯惇は一歩あとずさる。雀が左手を握り、さらなる退行に否を申し立てた。

「逃げないで」

「私を驚かすための冗談だろう?」

「俺はどちらでもできるよ?教えてあげたでしょう、男の相手の仕方も覚えさせられたって」

「間に合っている」

「見ちゃいけないものだってのは。ちょっとだけ悪いな、なんて気持ちはあったんだけどね」

どこの女とも知らないやつが、夏侯惇のお嫁さんになるってのが気にくわないのさ。俺はきみのものだ。だのに、きみはだれかのものになる、それがいやだったの。

だから、こっそりまぐわいを見ることにしたんだ。初夜の儀式っていうのは、とてもえげつないものなんだね。どこもかしこも真っ赤っかのか。臓物のなかで蛇みたいによがりくるってるみたい。

雀が妖しく嗤った。

「言ったでしょう、理って」

赤い唇がきらめく灯りに彩られている。

「息を呑みながら言ったでしょう」

視られていた。どこか滑稽さを感じる、他人には秘めておきたい姿を視られていたことよりも、口走ったあの幻を視られていたことにうすら寒さを持った。

「夏侯惇が抱いていたのは、たしかに奥さんだったよ」

理は、あの女じゃない。あんな女じゃない。

こめかみにかすかな歪みが生じる。

「かわいそうな、夏侯惇。理が欲しかったの?」

「ふざけるな。貴様まで、不快な冗談を言うのか」

「言われたことがあるのね」

雀の顔がぐっと迫った。

「俺が理になってあげようか。声も、仕草も、表情もすべて理そのものになってあげる」

指先が夏侯惇の頬に触れる。背筋を虫が走った衝撃で体勢を崩し、膝がかたむいて床に尻をつくと、そのまま背を倒された。

雀が、夏侯惇の胸に右手を、顔の横に左手を置き、のぞきこんでくる。一度、目を反らしたが再び向けたとき、雀の瞳は茶色になっていた。

「夏侯惇さま」

左耳殻をやわらかい曲線がかすめ、甘いささやきがとろけてくる。怖気にも似た声を短く出し、顔をこわばらせた。舌が顎の骨をつたい、喉から襟を割って入ってくる。生つめたい感覚が首の傷痕をかすめ、背が粟立った。

雀の奇行を咎めようと声をかけようとしたが、遮る声は夏侯惇の喉の力を抜いてしまう。

「夏侯惇さま、わたしね、ずっとあなたを想っていましたよ」

声。

ちがう。ちがう。ちがう。

私は、理に会いたいだけだ。こんな関係を望んだことなど一度もない。

「会いたかったです」

ちがう。ちがう。ちがう。ちがう。

「ずっとずっと、あなたとこうしたかったの」

理はそんなこと言わない。言うはずがない。

「やめろ、雀。理を、けがすな」

「夏侯惇さま」

理の声だ。だけども理ではない。求めているもののはずなのに、これは偽物だ。それが無性に望みを強めさせる。会いたかったと。生きていたと。

夏侯惇は歯をくいしばり、息を吐くのさえ苦しくなるほど空虚で胸を締め付けられた。

「ごめんなさい、居なくなったりして」

夏侯惇の左眼は見えない。ゆえに、半分の視界では左側にかしいでいる雀の姿をとらえることができなかった。視覚でとらえられないが、聴覚は自分が思うよりも鮮烈に研ぎすまされる。

「もうどこにも行きませんよ、ずっと、ずうっと、いっしょですよ」

右眼がぼやけはじめ、思わずきつく瞑った。

「好きですよ。とっても。だれよりも、いっぱいに」

呼吸が焦る。なぜか思うように息ができなくなっていた。

「声」が夏侯惇を惑わせる。「声」が夏侯惇に現実と幻の境のあやふやな線引きを与え力を奪う。

理の「声」が理のように巧妙な間合いをとってささやきかけてくる。そして、その度に息が短くなり、苦しくなるのだった。

ちがう。ちがう。ちがう。ちがう。ちがう。

理の「声」ではない。

ここにいるのは、理嬢ではない。

だのに、もっとこのままでいたいという気持ちは嘘ではない。ここに在る、と。

左手で顔を覆う。悪い夢だ、醒めてくれ。これは現実だ。世迷いごとをぬかす。なにも感じなくなってしまいたい。夢なら醒めてほしい、現実であるなら夢を視せてほしい。

どこが、どれが、どちらが、どこからが、本物なのだろうか。感じるものすべてが虚に侵されつくし、求めている事象さえをも無に帰そうとしているのだ。喉の傷痕がじんわり熱くなってくる。血の熱が逆流して身体をめぐっていく。夏侯惇は細い雷のような呻きをもらした。左手の爪を牙のように雀の背を突く。仰け反りながらも、しがみつくかたちをとる夏侯惇へ、雀はいつくしみをつくろった手で頭をささえてやった。

「夏侯惇さま」

かっ、と黒い瞳が見開かれる。

「わたしはここに居ますよ」

ちがう。

「やめろと、言っただろう」

低く震えた声に、茶色の瞳に紅がじわり染まった。

「おまえは雀だ。理じゃない」

「まだ真似が足りなかった?」

「……………いや、誘われるがままに落ちて行きそうだった」

背を床につけたまま左手の甲で顔を隠す。目の前に居る男が会いたいと願う存在と酷似しすぎているだけと解りながらも、そうであるようにと望む心が優位へ立ってしまう。惑わされているのではない、べつのだれでもない夏侯惇が自身を惑わせているにちがいなかった。

脆かった。私は。

「俺はきみに意地悪をしたいわけじゃないんだよ」

「……………されたと思っていない」

「きみがしてほしいことをしたかった」

俺はきみの特別なんだ。満足したかったんだ。

「冗談にしても、悪趣味がすぎる」

内にひそむものが安寧を取り戻し夏侯惇は息をつきながら左手の甲をおろした。

雀は、雀の笑みを浮かべ、夏侯惇の胸を枕にした。

「もう、こんなことは止してくれ」

「じゃあ、きみは俺が望むことをしてくれる?」

利用している見返りだろうか。ならば、私は報酬を支払わなければならない。

「きみを抱いていい?」

「遠慮してほしい」

予期しなかったわけではない言葉に、夏侯惇は苦笑した。

「ふふ、冗談だよ。きみが、大好きだよ、夏侯惇。抱かない。もしも抱いたら、夏侯惇はきっとべつのなにかになっちゃうよ。きみはそのままありのままでいいの」

口の隅に息がかかる。腹が重くなり右肩に髪のさきがかかって首をくすぐる。小柄な熊がじゃれついているようだ。

「俺を見て、どう思う?」

「人並みになら、美しい、かな。おまえは自分が思うよりもはるかに美しいよ。千人がまちがいなくこう答えるだろう」

「うん、知ってた。可愛くて、綺麗でしょう?この顔をさらしながら山とか砂漠とか歩いてるとね、言い寄ってくるんだよ。ここでもね、何人か来たけど、どうしたと思う?」

「どうした」

「挽肉にしちゃった」

そうか。もしもあやまって売られていたとしたらとんだ大事だな、雀らしいと騒ぐまでもなくなぜか夏侯惇は平静だった。しかし、そこまでやってしまうものなのか。首を刎ねるまでならば理解できる。それを挽いてしまうとは、仰天だ。慣らされてしまったのだろうか、だとしたら私もずいぶん変わったものだ。

「頼めば叶うとでも自分を過剰に持ち上げているのって気に入らないんだよね。思い上がりもはなはだしいと思わない?まったくつまらない」

「従兄上の兵力を低下させるのは好ましくないな」

「俺に叶えてやれと言いたいの?」

「ちがう。挽肉にするな、殺すなと言っている」

「十人や二十人消えたって困ることないでしょうよ。俺が挽肉分のはたらきをすればいいだけ」

「安易に言ってくれる」

先の動揺は後も引かずに薄れていった。雀が巧みにいざなっているのだろうか。子どものように残忍にかわいらしく自慢する。

「挽肉がだめ?じゃあ豚の餌なら?」

「どこで覚えてきた」

会話を楽しんでいた。

「教えてもらったの、まちがいだよ。今度、見せてあげようか」

「機会などない。やるならこっそりやってくれ。しかし報告は受けよう」

「夏侯惇、あのね」

「うん?」

「きみを抱きたいなんてどうして言うんだって、おかしくならないの?」

「おまえなら言ってもふしぎではないからかな。春が来れば花が咲く、きれいだとだれもが言う。おなじだ」

雀は少々破廉恥な言葉を素知らぬ顔で言う男だと、夏侯惇は認識していた。そこに裏もなにも無い。ただただ冗談でしかないと。

「俺がだれにでもこんなことを口にすると?」

すこしの怒気が含まれていた。

「おまえはそんなやつではないだろう。ただ、行き過ぎた冗談を言いがちだ」

一蹴してやれば、持ち上げかけていた頭がもとにもどる。私の胸の上で小さくなった。

「……………ばいいの」

「雀?」

「きみがいればいいの。もう、きみしか、俺には無いんだから……………」

おおげさだ。雀のなかの私は思うよりも深刻なのかもしれない。病的だな、そう思った。頭を撫でてやる。自然な手の動きに雀は落ち着いたようでもあった。

「夏侯惇は……………きれい……………。透けている……………」

この人間がだれのものにもならなければいいのに。

夏侯惇の忠誠は曹操のもの。夏侯惇の妻の座はあの女のもの。そして、心と魂は……………。あとに残されているものといえば、からだしかないじゃないか。からだだけ、もしもからだをもらったとしてもむなしいだけでしかない。そんなのいらない。俺はこのひとのなかにのこっていられるのだろうか、いつか、忘れられることもあるのだろうか?それはいやだ。絶対に、嫌だ。おねがい、ひとりにしないで。

……………ねえ、夏侯惇。どうして怒ってくれないの。だれかに言い寄られたんだよ、薄汚い人間にけがれた欲望で言い寄られたんだよ。これが理なら、挽肉にしたのは夏侯惇のはずでしょう?どうして、「こわかったな」とか「だいじょうぶか」ってやさしいことばをくれないの。俺が雀だから、理じゃないから。俺は理を想い出させる人形にすぎないの?そんなのいや、嫌だ。雀を大好きになってよ、夏侯惇……………。

……………傷痕に触れる以上のことをとしてくれないの。

ほんとうのことを言えば、きっときみは俺を遠ざけるから。きもちわるいって自分ではわかってるんだ。だから、理の皮を隠れ蓑にして、道化の皮をかぶり気を引こうとしているんだ。こうすればきみは離れていかないだろうから。きづいていないでしょう。そうだよね。きづいていたらこんなことゆるしてくれないものね。

ほんとうの雀は、浅知恵のおろかものなんだ。きづいて、きづいてよ。おねがい、おねがいだから。

きみに俺を大好きになって欲しい。きみの優しい言葉が欲しい。きみの好きを受けたい。きみの傷痕を、俺の傷痕に重ねて欲しい。

腕に、抱かれたい。抱きしめてほしい。

きみのかたわらで眠りたい。朝になったら、おはようって声をかけてほしいし、頬と頭も撫でてほしい。

大好きになってよ、俺を大好きになってよ、俺だけを大好きになってよ……………。

理は大切だった。だのに俺は、理にちょっとした嫉妬を抱いている。もしも、俺が先にきみに出逢っていたら、なんて。

俺は、こんな感情を理へ向けるのか。

「雀?」

急に黙りこんだ雀(シャン)を心配して、夏侯惇は声をかけた。

「どうした?」

黒い瞳により紅い瞳の呪縛が一瞬解け、雀本来の茶色に戻った。

素裸の身体はすっかり冷えている。

「ううん……………なんでもない……………ただ……………」

「ただ?」

もっと撫でて欲しい。もっと。……………などとねだれるはずもなく、唾液とともに息を飲み、あらためて夏侯惇の胸に頬を埋もれさせた。

口から吸い込み吐く息に混ざり、せつない声がもれる。つらい、そうなのだ。これは、つらいということなのだ。くるしい、こころがさみしくてかなしい。夏侯惇が好きになってくれればすぐに治るのに、この痛みは夏侯惇のせいなのに、きみは自分が傷つけていることも癒せることも知りはしない。

俺のものにならない。俺はきみにとって理でしかない。どうしたら、どうしたら雀は雀になれるのだろう。

血染めをつづければ、きみの関心を引きつづけられるのだろうか。こんなにきみを大好きでいるのに、きみは好きになってくれない。

俺は愛されていない……………。

きみは雀を大好きじゃない……………。

俺は、理の代わりでさえもない……………。

「雀」

いつまで経ってもなにも言わない雀の額をこづいた。合わさった瞳が幼子のように弱々しかったので、からかうように頬をつまむ。幼さがさらに幼くなり、つい吹き出した。

笑い声は雀の耳にここちよく、さきほどのうねる願望を薄れさせていく。

「具合でも悪いのか」

ちがうと、おとがいを振る。

「それにしてはうつろだな。血を流しすぎたせいだろう、明日はゆっくり休んでいたほうがいい」

どこで?ひとりで?しかし、またしても言えぬまま胸にうずくまる。……………ここでずっとこうしていたい……………。夢を見るけれど、溺れたりはしない。それは現実がいかなるものか承知しているから。

このあと……………夏侯惇はきっと奥方のところに足を向けるのだろう。あんな女に理の面影を重ねているのだ。奥方は自分が愛されていると勘違いしているだろうから、真実を知っているぶん、優越を感じるし気分も良い。

愛されているわけじゃない、愛されるような種をたまたま持っていただけだ。せいぜい有頂天になっているがいいさ。

しかし、利用されている部分では俺たちは同じ穴の住人に過ぎない。俺は復讐の名のもとに利用されている。受け入れているはずだ。だのにその事実と鏡合わせになるたびに言い知れぬさびしさが俺を責めたてる。あいつの首をはねたら、夏侯惇は俺をどうするんだろう。こわくて聞けない。それに、夏侯惇はわからない未来を語ることを好まない。

先のことなんてだれにもわからない。視る由もない。

いまはただ、自分がしあわせだと感じることを楽しんでいたい。

きみが内側に隠し持っているものをすこしでも多く自分のものにしたい。

月は、どれほどかたむいただろうか。

そろそろ肩をゆすられるはずだ、そして、この部屋を出ていってしまう。

置いて行かれるのなら、どこかひとりで行ってしまうのなら、それならばみずから、さきに居なくなったほうが幾分楽だ。

このぬくもりもかおりも、このときは俺だけのものだ。だれのものでもない。たとえ夏侯惇が自分は……………のものと決めていようとも。

雀は身を夏侯惇から離した。夏侯惇もつづいて、傷を拭いてやろうとするが雀は上着の袖に腕を通してしまった。

「もういいよ、眠いから」

「擦れると痛むぞ」

「きみは望んでいるんでしょう?俺がもっと痛みになれることを」

「そうだ。おまえの弟という輩をおまえが殺すことを望んでいる」

「ならいいでしょう?俺も、きみを利用しているんだから」

妥協やあきらめではないのだ。この清らかさに触れてしまうと、悪くないと浄化される気持ちになってしまう。そして、夏侯惇の清らかな精神は雀を変えていた。きみになら使役されるのもかまわない。

「私を?どんなふうに」

「きみの名前があるかぎり、俺の血はきみの舌の上だ」

おやすみ。紅い瞳でこちらを一瞥し、雀は無音の夜へと入っていった。

夏侯惇と雀は互いが互いに求め、自分の理想と渇望をなすりつけ合っていた。だが、溶け合うことは無かった。
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