第十章 沈黙 黄昏にさ迷う



傷の痛みが無くなったころ、華燭の段どりが済んだ。

傷が完全に癒えると夏侯惇のもとに妻がやってきた。そして、杜の姓を改めた息子ができた。

金細工がほどこされた真赤のかぶり布をめくると、さっぱりした女がいた。刹那、頭のなかにかすめる粒がひるがえった。

我が妻。名は、杜玉玲。

赤い帳のまぶしさは、夏侯惇の瞳をかげらせた。歓声の中心で、気持ちだけが屋敷の外へと飛んでゆく。めでたい。だれもが手を叩いた。めでたい。あの従兄上も、自分を祝福してくれた。めでたい。きょうはよき日和である。紅い帳、紅い敷布、紅い花、紅い壁掛け、紅い衣装、花嫁のくちびるにぬられた紅い化粧、目元にうっすらひかれた紅い化粧、頬にゆるく広がる頬紅、足と手の指先に濃く落とされた爪紅、祝福にもっともふさわしい色で詰まれている。紅い、紅い、紅い、紅い……………。

古くから伝わる婚儀をつつがなく淡々とこなし、夫婦としての契りを結んだ。何組もの夫婦がそうしてきたように、赤にしつらえられた寝台の上で、夫は妻を押し倒し、妻は夫に組み敷かれたのだった。

夏侯惇は妙な感覚に襲われた。視界の周囲がゆがむとでもいうのか、自分の視線がどこか他人のものになったような。意識はあるものの身体の支配をなにかに委ねてしまったような。

夏侯惇が女体と交わったのは初めてではなかったが、最後に抱いたのは、いつだっただろうかとぼんやり思った。妻があえいでいた。どこか他人事で、紅潮した顔をまじまじと眺めた。女の香りと、女の白い肌。白い肉体の下にある赤い敷布が血のように広がっている……………いとしいそんざい……………。

いとしいそんざいが、いとしきそんざいになるはずの妻の顔にかさなって、宙にうすくうかびあがった。

……………理。

夏侯惇の息は、たしかにその名を描いた。ここにいたのか。いや、ちがう。しっかりとすがたかたちをとらえる前に理嬢は消えゆ。

玉玲が理嬢と似ているわけではない。それどころか、面影のかけらさえもない。しかし、理がおぼろに居た。

それから、抱くたびに、夏侯惇は理嬢に逢った。……………逢ったと言っていいものだろうか。まぼろしでしかない影を追いたいだけではないのか、隻眼の瞳で捕らえられぬものを捕らえたいがために。

居ないはずなのに、どうしてここに居るのだ。理。そう呼びかけようとすると、理が消える。気のせいか、するとまた理が浮かぶ。視線を合わせようとしてもたちまち消え失せてしまうのだった。

実体なき理はまるで靄で、夏侯惇からのがれてしまう。

夏侯惇は冷えきっていた。やれ、と言いつけられた子どものように妻をかき抱いた。この肉体のぬくもりでは、満たされない。女を抱いて満たされるものはあるのだろうか。飢えでも渇きでもない空虚を埋める在り処を、夏侯惇は知っていた。それが、さきほど起きたものではないとわかっていた。そして、こんな行為で理嬢を視てしまったことに胸が吐き気で抉られそうにもなった。しかし、一瞬の出来事をのぞんでいた。

初夜に気付いた。花嫁を、いや、女体を抱くと理嬢との逢瀬がやってくる。夏侯惇はむごたらしい気分になった。妻をよこしまな目的で利用している嫌悪に苛まれてしまう。だが、拭い去ろうなどと思わなかった。抱いているあいだ、不安定な高揚とがむしゃらに手に入れたい優しさがせめぎあった。理。

そして、ほんとうに理が近くにいるのではないかと、探さずにはいられなくなる。むなしいこととわかっていながら、夏侯惇は何度も何度もくりかえした。

明け方、妻を残し、寝台から降りた。

肩に羽織もかけぬまま、冷えた庭を歩いた。空は凛とした音が聞こえてきそうなほど寒い。もとより熱があったわけではないので、空が身に染みる。

どこへ行くあてもなく足を進めると、いつのまにか石畳から芝生へと変わっていた。池のすぐそばの荒れた物置。

ああ、そうだった。従兄上から戻された理を、俺はここに閉じ込めたのだった。

手が扉にかかりかけていた。理はこの物置のなかに居るはずだった。心が弱った理は幼く「夏侯惇さま」と。声。やはり、おまえは……………。……………こんなところにいた。……………俺は理をずっとひとりにさせていた。……………すまない、ただいま。いま、帰ってきた。

強い風が吹いた。夏侯惇の長い黒髪が一気にはためき、ねがいにも似た妄想をかき消した。

扉に手を添え、あのときの自分を思い出す。俺は、どうしていたのだろうか。ごく当たり前のように、ここを開けていたのだろうか。心を吐露し、混じりけのない本音を通じあわせたのは、いつもの自分の部屋だった。しかし、華燭を祝う華々しい赤によって、塗りつぶされた。そして、いまはもう、あそこに理嬢の面影をおいておくことはできない。

理が居ない。どこにも居ない。居なくなった。

夏侯惇は、理嬢をさがしていた。

池のそばへ行く。理嬢を追って飛びこんだ水面はおだやかで、波紋が無いだけでなく、水と水がこすれる音もない。

残った手で水面を破った。あの白く細い指がゆびにからみつく、はずがない。染み入る冷たさとたわむれた。

夏侯惇は理嬢をさがしていた。

柱の影から、花壇の返照のなかから、中庭の木洩れ日から、ひらめく帳から「夏侯惇さま」。そうやってひょっこり現れてくれるのではないか。一方的なかくれんぼうでもしているのではないか。 興味があるほうに向かってしまう悪癖のせいで、どこかを散歩しているだけではないのか。

出仕し、屋敷に戻り門をくぐれば「おかえりなさい」聞き慣れた声とともに、出迎えてくれるのではないか。

夏侯惇は、理嬢をさがしていたが、影ひとつ見つからなかった。

一縷の望みがいつも夏侯惇をはやしたて、夕陽が音も無く落ちていくのをとがめるような気持ちが、決しても消しても力を増していく。

理嬢が死んだから、俺は面影を追っているのか?致命的な問いが自分から振りかかる。なにを言う。なにを言う。理が死んだ?嘘だ。どこから俺がそんな嘘を持ちだした。

私は泣いていない。

大切なものが、その存在を失ったとき、ひとは涙するはずだ。

私は見ていないのだ。感じてもいない。理が命を離すのを。

生きている。私が信じなければ、理は、もう二度と笑ってはくれまい……………。

江陵から屋敷へ帰還したとき、明雪は目元に大きな青色をつくっていた。理嬢が忽然と居なくなったと早口で途中まで述べ、人目もはばからず、ためらいなく地面に手をつき、勢いよく額を叩きつけた。二度、三度、四度と数を増していく。

やめろ。あまりにも激しく叩きつけたために、血を噴いていた。止めてもなお、明雪はかたくなに額を地にこすりつけようとする。愚直なほど尽くしている明雪にとって、理嬢が失踪したのは自分のせい以外に考えられなかったのだろう。しかし、それはちがう。

泣きながら取り乱す明雪の指先はひどくかじかんでいた。明雪、落ちつきなさい。

夏侯惇は明雪だけには自分が知った一部を話した。しかしながら、この娘はいつか真実を抱えこんでしまうのではないか。漠然とした予想が夏侯惇に宿った。

明雪の瞳が芯を失い、白くかげっていった。

雀が言うには、理嬢は死んだと。だが、私はそうは思わない。右肩から垂れる外套をはずしたとき、明雪は卒倒した。





遠くの空が淡く萌えはじめて、夏侯惇は妻のもとへ戻ろうとした。

明雪が回廊で立っていた。

明雪は、夏侯惇の後ろすがたをずっと見ていたのだった。明雪がまとうすずやかな気は、波に細かく乱れている。

おはようございます。とも言えぬまま、明雪は唇をわななかせた。舌が内で縛られてしまう。胸が灼けついて、身体じゅうの血潮が爆ぜそうだ。動かぬ身体を無理やりに傾けて、挨拶のていをとった。

「朝餉の仕度か。ご苦労」

夏侯惇は明雪が知る声音で言った。どこも変わりがない様子で横を通る。そして、主人の気配が奥へ行ってしまうと明雪は弾かれるように階の段を飛び降りて庭を走った。どこへ行くともないが走った。大声を上げてこの身をかきしだきたかった。狂人と言われてもかまわない。いや、むしろ狂ってしまえたらどれほど楽になれるだろう。明雪は唸った。それはかぼそく風が吹けばかき消されてしまうくらい弱々しかった。

叫ぶ代わりに明雪はとにかく走った。

夏侯惇が理嬢を探していた様子を、明雪は見ていた。

元譲さまが理嬢さまを、探されていた。影を追っておられた。

理嬢さまの死を信じていない元譲さまが、だ。

元譲さまは、理嬢さまが生きておられるとかたくなに想っているにちがいなかった。それは、わたくしだって信じたい。だのに、元譲さまは求めていた。

あの方は、おさびしいのだ。だから、さまよってらっしゃったのだ。そのうしろすがたを、明雪は見つめていた。

理嬢さまをうしなった元譲さまを見つめるのがこわかった。こわかった、これは適していないだろうけど、こわかった。わたくしが知る旦那さまの声音のまま、声をかけていただけたのが、とてもこわかった。幽鬼のようにさまよわれてなどいないと言うように、お戻りになって発せられるお声が。

理嬢さまをうしなった元譲さまは、ご自分を保たれるために、ご自分を殺してしまわれたのではないか?明雪は思った。気持ちを殺した?

まさか。元譲さまは、涙を流されたのだろうか。叫ばれただろうか。

わからない。語らえる方々に、心情を吐露なさったりされただろうか。死を拒むために、忌むあまりに、こころを茨でがんじがらめにして沈めてしまったのでは。元譲さまはお気づきになっていない。

けして見つけられない答えがいくつも頭をよぎる。そしてそのたびに呼吸が苦しくなった。

元譲さまが、お辛さのあまりに崩れて散ってしまうような気がして、とてもこわい。

もしも。もしも、ならば。

……………もし、わたくしが、男であったのならば。

もし、わたくしが、元譲さまの友人であったのなら。

もし、わたくしが、男だったら、……………おごりだ。

明雪はその場にすべりこんだ。膝が土と砂にこすれ、衣を汚した。

わたくしごときに、できることはなにもない。

突然の疾駆に足が痛みを訴える。足の爪が肉に入りこんだのだろう。しかし、そんなものを気にする余裕などはなかった。

目にとどまる景色がぼやけ、こぼれた熱が同じように熱くなった頬をたどり、かさついた唇をしめらせる。

気持ちがゆるんだわけではない。身体が勝手にそう判断したのだ。わたくしのこころはこんなにも自分を戴いている。

夏侯惇が出立した日、明雪は理嬢のお世話を頼まれた。そのときの主の表情は戦への緊張で凛々しくもあったが、どこか朗らかだった。明雪がよく知る旦那さまのあたたかい色だ。どうしてか、これからはすべての日が良い日になり、めぐるにちがいなかった。よく知り視つめてきた横顔は、こうごうしく、そのままこころへ射し込まれたのだった。

理嬢さまがいなくなった。

どこをどう探しても見つからない。こんなところに居るわけがない、わかりながらも屋敷じゅうをひっくりかえしてしまう勢いと人数で探した。見つからなかった。束の間の安らぎは夢の狭間であった。

元譲さまにとって大切な方を、わたくしが奪ってしまったにちがいなかった。そして、亡失をもたらした悪人はわたくしである。「おまえのせいではない」「おまえが額を打つ道理は微塵もないのだ」……………なぐさめにはならなかった。ののしって、鞭で罰をあたえてくださったのなら、どれほどよかっただろう。

明雪は両手で口をふさぎ、棒で殴られた衝撃にびくつくように身体をわななかせた。指の隙間から白い息がとめどもなくこぼれては消え、こぼれては消えていく。しかし、声はもらすまい、唇を合わせ、口のなかで舌を上顎に押しつけた。噛んでいた指が熱をもっていて痛い。自分の意志に反する涙が無数のとげを持って痛めつける。

痛くてたまらない。

冷えきった土に手をついて、明雪はだれにとも知れぬ叩頭をした。何度も、何度も、何度も、なんども……………。きよからな白い額に血がにじむまで打ちつつづけた。

土に額があたって音がするのに、ふしぎなほど痛みを感じなかった。そして、自分はなんのために叩頭しているのか疑問に思った。敬愛する元譲さまのためではない。また、ゆるしを乞うためでもない。頭ではなにもわからない、身体が勝手にうごいている。これでいいのだろうと、これはまちがっていないと痛みを肯定していた。

明雪は気が済むまで地面に額をたたきつづけた。答えをどうしても手にはできなかった。





ある日、夏侯惇の従兄である夏侯淵が眉間に皺を寄せ足音荒々しく訪れた。陽気な御方だと聞きおよんでいた明雪は、首をかしげる。

最近、悪い噂があった。しかし、小耳にした程度で詳しく知っているわけではなかった。

それは夏侯惇とそのすぐ傍にうごめく影に関係していた。ある時から、正確には華燭のあとから屋敷にはかすかに香りが漂うようになった。魚や豚を切ったにおいではないにおい。自身の命を守れ、危ないと警戒し、身を構えさせるにおいだ。

夏侯惇の書斎から怒鳴りを押さえ潰した声を、明雪は窓ごしに聞いた。それは偶然だった。聞き耳を立てるつもりはなかったが、つい足を止めてしまった。

「あれをやめさせろ」

「あれ?」

「雀の自己を虐げる訓練だ。いつか死ぬぞ」

「雀が望んでいることだ」

「望んでいるだ?おまえ、あいつがなにをしているのか、わかっているのか」

「……………わかっている。怖じ気づくものらに研いだ槍を握らせておそわせる。自分は鞘でそれらすべてを受け止めようとするが、できるはずもなく、かならず傷を負う。おかげで身体から血の気配が消えない。どこに居るかすぐわかってしまうくらいに」

「十二分に知っていながら止めないのはどうしてだ」

「言ったろう。雀が望んでいるからだ。それに、自分が死なない程度に加減はしているはずだ」

「もう一度、忠告するぞ。やめさせろ。おまえだって雀を孤立させたくはないだろ。あいつがなんて言われているか知っているのか」

「通り名でも?どのような?」

「狂犬だ。単独演習には行き過ぎたことをえんえんにつづける。狂っていないと言うほうがおかしいってな」

「そうか……………」

「どうして突き放したりする、夏侯惇」

「……………つきはなす?」

夏侯淵は夏侯惇の両肩をにぎり、真っすぐに自分と向き合わせた。

「私は雀を突き放してなどいない。淵は雀をそれなりに案じているのだな、おどろいたよ」

「一回だけとはいえ、共に戦った仲間だからな」

「仲間なら、意を尊重してやれよ」

「わからない。雀がまるで自身を傷つけるためだけの演習をするのも、おまえがずっと落ち着いていられるのも」

「私はあれでいいと思っている。淵、おまえには理解できまい」

「……………理か?」

「奪ったものに報復する力を得んと躍起になっている最中だ」

「惇、死んだんだ。死んだんだぞ、理は。報復したって死んだ人間は、戻ってこない」

「間違いを教えてやろう。理は生きている」

「なあ、どうしちまったんだよ」

「私は残念ながらこのとおりのざまだ。復讐する力がない。だから、雀に頼むしかない」

「まさか、おまえが仕向けているわけじゃないだろうな」

「仕向けてはいないが、私はあさましいやつなのだよ。雀を利用している」

夏侯惇の隻眼には暗い光が宿り、血走っていた。それは石で空飛ぶ鳥を撃ち殺した濃い血だまりの色だった。

夏侯淵はおぞましすぎる闇に距離をとった。喉のなかがからみつくようだった。

這い寄り牙を剥いた衝撃は明雪にも届いた。あやうく盆を落としかけたが、すがるようにだきしめ浅い息を整えるべく努めた。立ち去らなければいけない、これは秘めごとにも近い光景なのだ。使用人であるわたくしは、さっさときびすを返し、無かったことになしければならない。しかし、明雪は喉が狭まるのを感じながら踏みとどまっていた。

「私がやめろと言ったとて、止めるようなやつではない。おまえがやってくれ」

「何度だってしたさ。あいつはおまえにしか従わない」

「無理だ。気が満足するまで止めぬ、たとえ俺が叱りつけようがな。そもそも雀は私の部下ではないから、あたりまえだ」

「やりもしないでなにを言いやがる」

押し問答のすえに、夏侯淵が夏侯惇に掴みかかろうと拳をかかげた。このままでは、流血の沙汰になってしまう。とどまらせなければ。明雪は思い切って部屋に入ろうと扉に指をかける。刹那、雀(シャン)の足により蹴破られた。

中のふたりが気づくよりも先に、雀によりひとりの片腕がひねられ床に倒されてしまった。

「雀」

夏侯惇がとがめた。

「きみを傷つけようとした」

感情がこもっていない無の声が宙を這いずりまわり、夏侯淵を締めあげた。

「私はこのとおりだ」

「わかっているよ。俺が制したんだからね。……………よくも夏侯惇を傷つけようとしたね……………こいつ」

「口論に多少、火がくすぶっただけだ」

「どうだろうか……………」

みしり。小さい音がやたら大きく軋む。

「疑う余地はなかろう」

「俺が解いたら、またこのくそ野郎はきみを……………」

「殴る?切る?首を絞める?やけに物騒なことだ」

「だから俺がこの手で先手を打ってやる」

「心配をしてくれるな。離すんだ、いますぐに」

「でも」

「離せ」

理嬢と同じ顔をした紅い瞳の男は、夏侯淵にありったけの敵意を持ちつつ、名残惜しげにさがった。夏侯惇がかばうように夏侯淵を起きあがらせた。そして、左手で宙を払うと、雀はしばし眉間に皺を寄せ舌打ちした。

「命拾いしたな」

雀が明雪の目の前を通っていく。人形めいてととのえられたうるわしい横顔に短い髪が、牡丹の花びらが揺れるようにかすめている。紅い瞳。湖のほむらを思わせる。

女の自分でさえ呼吸をわすれてしまうほどうつくしいひと。

よく見知った理嬢の顔と同じものだったが、雀はまったくちがった。おなじもののはずなのに、異なっている。雰囲気のせいだけではない、ただ漠然と正体はいっさい不明だが、とてもなく痛々しいほどうつくしい。周囲にいやになるくらい影響をあたえる、いえ、雀に自覚があるのかないかは関係なく、与えずにはいられないのだ。

しかし、明雪は雀(シャン)に良い感情を秘めてはいなかった。理嬢と入れ替わるように突然お屋敷にやってきた雀にちいさな亀裂に似た不信を生じた。あまりにも理嬢さまと変わりない容姿について、仲間内で怪異だとささやきあったりもした。夏侯惇も接するのに手を焼いているようだったし、あのとき都を騒がせていたひとごろしの背景もあってか、不穏の空気をつくっているのはあの男ではないのかと邪推もした。奇妙に時期がかさなっただけにすぎないのだが、疑わずにはいられなかったのが本音だ。

そして、雀が理嬢に刀をかざし迫るのを見てしまった。自分はなにもできなかった。あのとき一番近くにいた自分が、だ。そして、わたくしは冷静にもなれぬまま部屋の隅でうずくまるしかなかった。そんな自分を仲間たちははげましてくれたが、不甲斐ない、気持ちが晴れることはなかった。おのれを責め、明雪は雀に壁のような敵意を宿すようになってしまった。理嬢に刃を向けた、この理由だけではない。

雀という美しい青年は、夏侯惇の傍らにひかえるようになった。部屋にひきこもり外に出るのがめずらしかったあの頃とは方向が変わった。よく庭に立っているのを見かける。すべての影の下にひっそりと寄り、夏侯惇が歩けば遠い影の場所で動く。しかし、いないこともしばしば多く、そういうときはかならずよどんだ臭気をまといふらりと帰ってくるのだった。

夏侯惇は、奇妙な男のふるまいをうけいれていた。影を認め、影を連れていく。明雪が見たふたりのすがたは、あの池のそばで怒りと軽蔑の視線を絡み合わせていたのが最後だった。ふたりの仲は険悪だと思っていた。しかし、なにがどうなって転んだのかはわからないが、いまのかたちにおさまったらしい。雀が夏侯惇に寄り添う理由もわからないが、ひとつだけ解ったことがある。あのひとは、元譲さまに盲目なまでの執念を抱いている……………。それは主人に忠実な犬のようであり、大事な小鳥を守る籠のようであり、卵にとぐろを巻く蛇のようでもあった。

「明雪」

夏侯惇が明雪の目の高さで左指を振るので、心を取り戻した。

「……………野蛮なものを見せてしまったな」

黒く沈んだ艶は明雪をすこしだけ安堵させた。初めてお目見えしたときとは変わっていたが、よく知る旦那さまだった。泣きたいのを押さえ「いいえ」とだけ答えた。

夏侯惇は少し明雪の肩を見つめたあと、ためらいつつ静かに問うた。

「……………話を聞いていたか?」

声はとがめているわけではなかったが、他人の耳に入れたくはなかったという意が含まれていた。それを敏感に感じとり、明雪は正直に是と答えた。

「なにを知った?」

「なにを……………とは、なにをでございましょう」

たしかに、話を聞いていた。使用人としては行き過ぎた行為であったにちがいない。しかし、関わりのある当事者でもないわたくしが聞き耳をたてていたとしても入ってくる内容はすんなり頭のなかへと吸収されなかった。

「夏侯妙才さまとの、お聞きしました。ですが、わたくしには理解できぬ事柄でした」

「知られてはならぬことを話していたわけではない。そのようにおびえるな」

「こわがってなどおりませんわ。おどろいてしまっただけですわ」

「婦人に縁無きだろう、無遠慮な光景を見せたことは心苦しいものがある」

「旦那さま、わたくしは使用人でございます。女の身ではありますが、殿方の心中を波立たせる要因は解しているつもりです」

明雪は主人に向け真っ直ぐに気持ちを向ける。

「おまえの聡明さは私も十分承知しているよ」

「ご心配をおかけしました」

「……………が」

夏侯惇が明雪の一点を凝視していた。

「血が?」

隻眼が額を映していると知って思わず顔を背けた。

「お恥ずかしいですわ。厨屋をお掃除していましたら。うっかりしていたのですね」

なさけない言い訳だと思った。切れ長の鋭い瞳はこの姿をどのように受け取っているのだろう。せめて、愚かなる使用人であるなどと持たれたくはない。……………わたくしは、おろかなのだろうか?

「お邪魔しました。たるんでいるようですわ。きちんと気を引き締めなくては」

平静を意識しても頭をたれる動作はせわしなかった。

情けない。自戒がまたひとつ増えた。

「明雪」

自分の名を呼んでくれた、低くまた底が優しいお声が耳をあたためる。

「無理は、よくない」

自惚れそうだ。わたくしだけによんでくださった、わたくしへ労いの言葉をかけてくださった、今まで無かったことではない。この旦那さまは下女であろうと身分の低きものにも高慢を与えず接してくれる。この方にいたっては珍しいことではなかった。だが、巷の噂を聞くにおよべばこの方の存在は非常に稀有なものだった。





室にふたりの女人が居た。ひとりは、赤にしようかそれとも青にしようか、糸の色になやんでいた。

夏侯惇と簾中の杜玉玲の仲はすこぶる良い。明雪にも、ほかの侍女仲間らもそう思っているのだから、やはりまちがいはない。

赤い提灯がくるくるまわりつづけたやうな甘い靄の華燭のあと。明雪は奥方さまにも仕えることになった。

「騒がしいようだったけれど、どうかしたのかしら」

刺繍の糸をひとつひとつ丁寧に縫いつけながら、遠慮がちにぼつりと奥方さまはつぶやいた。

「あたくしが立ち入るものではないのはわかっているのだけれど、気になってしまって」

「夏侯妙才さまが訪ねていらしたので、おおよそ戦に関わりがあることでしょう」

「男のかたは喧嘩がお好きね」

喧嘩。たしかにあれは喧嘩ではあったろう。しかし、それは仲が良いもの同士がすることで、荒ぶる様相にしても根底にはたがいに尊敬の念があるものだ。夏侯淵と夏侯惇は従兄弟同士のなかでも合う仲だったが、あの場でおこなわれたのは争いと言ったほうがたしかである。

夏侯淵は夏侯惇と杜玉玲の仲人をした。

「そういえば、夏侯惇さまがね」

気後れした。夏侯惇さま、この名を奥方さまが発しなされた。

杜玉玲は理嬢を知らない。大ぴらに言うことではないのは、屋敷のもの全員がわきまえている。もし、どこから知ったかさだかではない話を耳にし問われたらどう言おうか。そのときは、はぐらかそう。

このお屋敷のなかでほとんどの人間は主の夏侯惇を、旦那さまと呼んでいた。

親から与えられる名はとうとい珠玉であった。そもそも真名を口にするのは、与えた両親、もしくはその者の主に限られる。ゆえに、他の者らが名で呼ぶのは礼無き所業だった。しかし、奥方は親しみと愛をこめ「夏侯惇さま」……………と唇でつむいだ。夏侯惇と名で呼ばれるのを旦那さまはいやがっておいでにならない。そう、ふたりの仲は円満である。

夏侯惇さま。

このお屋敷でただひとり、めいいっぱいの親しみと愛情でそう呼んでいた方が居た。

理嬢と杜玉礼が不自然に成り代わってしまったようで、歯がかちあわない居心地の悪さを感じていた。自分が知らないところで、なにかが起こり取り残されたまま激動に翻弄されている。すべてのはじまりを砂漠の砂ひとつひとう縷につなげるようにして知れるならば、まどうことなどなく背を伸ばしていられるのだろうと思う。

ほかの使用人たちは、理嬢さまが居なくなってしまったことをどう思っているのだろう。理嬢さまはたいへんおやさしい方だったから、だれも悪く言わない。むしろ、みんな好きだった。でも、あの方の名を口にしない。曹丞相さまの側室として迎えられたときから、すでにちがう世界へ行ってしまったと線を引いてしまったのだろうか。いや、みんな禁句に感じている。理嬢さまという存在が仕える主人にとって傷をえぐる行為になっている。ひとりの娘をいつくしんでいたあの御方は、だれよりも深く傷ついているにちがいなかった。おもんばかり、だれも話題にはしない。

あの方々に長年仕えてきたものたちは、あの方々がたがいに強くむすばれているのをしっている。そして、とりわけ理解しているのは明雪にちがいない。

「夏侯惇さまは、いつも遠くを見てらっしゃるのね。なんだか、その、透明ななにかをがむしゃらにたぐりよせるようにね、見つめているの」

女の勘、というやつなのだろうか。明雪は、ただ、さようですか、軽く首をかたむけるだけだった。

「こころが上の空、ではないのよ。くわしく説明できないのだけど、いつもひとり孤独で、糸をたぐりよせ道しるべに外へ出ようとしているのだけどできない、ような……………」

「さきの大きな戦が終わって、まだ経っておりませんもの。旦那さまは丞相さまをお支えする一翼を担っておいでですから」

元譲さま。明雪は喉までせまった呼び方をくだした。

「戦、ね。ねえ、明雪。すこしあたくしのお話を聞いていただける?」

「どうぞ、なんなりと」

「雀(シャン)さまとは、いったいどのような方?初めてお会い、いえ、遠目に拝見しただけなのだけど、信じられないくらいお美しい殿方ね。女のひとかとうたがってしまったわ」

「旦那さまに縁ある御方です」

「夏侯惇さまもそうおっしゃられていたわ」

ではなぜいまさら侍女ごときにお訊ねになるのか、明雪は思った。

「奥さま。わたくしは一介の使用人でありますゆえ、穿った事情とは外の草木といっしょですわ」

「あなたは幼いころからお仕えしている身だと聞いたから、なんでも知っていると思ったのよ。気にさわったらごめんなさいね」

わたくしの声は尖っていただろうか。

「いいえ、そのようなことはございません」

「それでね、縁つづきと言っても、いろいろあるでしょう?おかあさまの血筋とか」

このひとはなにを言わんとしているのだろうか。とても面倒なまわり道をしている。こうやって本当に訊きたいことにゆっくり近づこうとしているのだけは、わかる。さっきのこちらを気遣う言葉は警戒を解かせんとする手法だったのだろう。

明雪はすべてを把握し、眼に収めているわけではなかった。だから、あれやこれや詮索されても知らないものは知らない。おそらく玉玲の本音には答えられない。

「遠い親戚なのかしら」

「申し訳ありません。わたくし、雀さまの御世話を任されておりませぬゆえ。わたくしだけでなく、ほかのものたちも。あの方はなんでもご自分でこなしてしまいます」

そう。吐息をつくとともにつぶやかれた応答は、質問への終止符を意味していた。まわり道だろうが、本音だろうが、玉玲は明雪がつらねた答えに問いを失ったのである。

ふたりは刺繍を再開し始めた。一糸一糸丁寧に模様を芽生えさせていくさなか、ほどほどに厚い雲が現われて空を籠った白にさせてゆく。雨が降るだろうか。雨が思いきりの勢いで打ちつけるのなら好機だ。自分はこの場から離れられる。

この方に、なにも話したくはない。

明雪は、使用人としては不敬の想いを持った。それは女の意地であるのかもしれない。いや、これはなんの苦労も逡巡を抱いたことがないような者に対する妬みだろうか。記憶、想念、四肢のなかに積みあげられた輝きを共有するのを拒んだ理由は、なんとも筆舌にしがたい。わたくしのもの、これはわたくしだけのもの、わたくしだけが解りあえるわたくしだけのもの。

明雪の額が疼いた。なにもかもがわからなくなった迷い小路のあの痛みがまざまざとよみがえり、胸に生みだされた静かなる熱に拍車をかけた。目の前にいるこの方、敬愛する夏侯元譲さまの令室、第一夫人、正妻。仲はすこぶる良い。片目を失い片腕を失った健常とはけして言えぬ身を奥方さまは妻としてだけではなく女としても労り、夫もまたその献身に応えている。清廉なお人には清廉な方が集うのだ。

わたくしはただの侍女、使用人。わたくしはただ主が不自由なく日々をお過ごしになられるよう努める身。わたくしに、心と心の共有などできるわけなどがなかった。だが、奥方はそれができる身であった。長年、まごころを尽くしてきた事実は明雪の矜持になっていたが、すべてをひっくり返してしまうような否定を生み出しかけている。冷徹な眉が互いに寄った。喉にこみ上がってくるものがあった。

だめだ。

明雪は目を伏せたまま、揺らぐ自身をなんとかとどまらせる。

「そろそろ、雨が降りそうですわ」

逃げるための扉を開こう、針を持ったまま戸に指をかけ始める。

所用がありますゆえ……………。ええ、ちゃんとしたご用事があれば気兼ねなく心を保てたでしょうに。

「夕餉の準備にはまだ早くなくて?」

「お食事ではありませんわ。朝のうちに済ませておかなくてはいけなかった雑用がございましたの」

「じゃあ、夕餉を作るときには呼んでちょうだいな。お手伝いするわ」

「たしかに。まだお時間がありますから、ごゆるりと」

「夏侯惇さまのご所望のものにいたしましょうね。だいじょうぶよ、ちゃあんと聞いておきますから」

形式だけの礼をし、室から 逃げるように退出した。そのまま、足の速さをゆるめぬまま迷いこんだ子犬のように屋敷の回廊を歩きまわった。かかとを床にのめりこませるようにするため一歩一歩が荒かった。頭の中では奥方さまとの会話が思い出され、消そうにも消せず不快さが増すばかりであった。知りたいという奥方さまの気持ちは解せる、わたくしだって知らないことばかりなのだ、知りたいのだ。

近い場所、近しき立場におられる貴女こそ夫である元譲さまにお訊ねすればいい、いや、するべきだ。わたくしはこのとおりなのです。わたくしは、なにも知らぬのです。おねがいですから、みじめにさせないでください。

なにも知らぬというのはなんでこんなにも無力なのだろう。

わたくしは、奥方さまの立場が妬ましいわけではない。そもそも、妬ましいとおもうのならば、まず理嬢さまにしている。

わたくしはどうしたいのか。

徐々に自分を取り戻していくのを感じ、歩みが落ち着いていく。そして、ふたたび産まれたときから持っている印を呪った。女などただ待つだけの身ではないか。そしてただの侍女という流れるままのさらに川底にある砂でしかない。男の身であれば身分が低くとも這いのぼる方法はいくらでもある。武芸を学び、野心を燃やし、男であれば同じ場所に立っていたはずだった。高望みだろうか、いや、そんなことはない。この身が男でさえあれば、あのひとのように仕えることもできたはずだ。わたくしの信と心がこのままであれば。

自分でもどうすることもできない暴れまわる気持ちが際限なく飛躍した。にくたらしい、ねたましい、もどかしい。……………わたくしは、こんな感情を持っていた。自分がおそろしくみにくいけもののように感じられる。

夏侯邸にお仕えし十年を過ぎたというのに、今となってこんなにも不可解な思いをなにゆえ抱かねばならぬ。だが、いつわりなどどこにもおらぬ。好きにできぬ思うままになれぬ窮屈なおのれに怒りさえ湧いてくる。

だれも、元譲さまのお気持ちを汲むことなどできない。奥方さまはもっとも近いでしょう。しかし、あなたさまはあの子の代わりにはなりません。

時の問題とおっしゃるのであれば、わたくしがお仕えしてきた日々に勝りますか。

からだが熱い。生温い雨粒がひとつふたつ地面に落ち、またたくまに濡れる影が暗く一面を染めた。屋根下にいるも、ななめ空から明雪におそいかかってくる。しかし、心にくすぶる呪いのかたまりを浄めることはできない。

夏侯邸の庭は整然に美しい。いまは、清らかなる緑にゆれ、いにしえよりいつくしみ伝えられてきた宝石のごとき彩色がひしめきあっている。そのなかで、ひとり、雨をかぶっているものがいる。墨で描いた絵を水でぼやかしたような人物。人間、いや生き物離れしたそれはただじっと立っているだけだった。紅い瞳は妙にぎらついている。

明雪には雀がどこかべつの世界から来た異質に思えた。

……………あなたは何者なの?

明雪は背すじをのばし、にらみに近いかたちで見つめた。

……………きっと、あなたはすべてをご存じなのでしょうね。

伝えぬが、語りかける。どうして、予期せぬことばかりが起こり、そして自分は知ることもできぬままで見つめるだけであるのか。すべてを知りたい。それは行き過ぎた身分違いの欲だ。

……………あなたに詰め寄ろうと話してはくださいませんでしょう。あなたは。

元譲さまと秘密の共有をしているであろう、あなたに。もしかして、あなたを知れば小さな錠はかたむくのかしら?

わたくしは、あなたが、……………いいえ、なんでもありません。

紅い瞳は虚無で水に濡れている。理性がない残酷な野獣だ。油断したら、腹に牙の一撃を受け生きたまま内臓を喰われると思った。赤い血が結晶となり宝石になったようなふたつと涼やかなる聡明な瞳が相対した。そして、大きな隔たりを。

目を反らさぬまま少しずつ後退していく、ゆっくり、ゆっくり。雀は明雪に興味を示さなかった。

回廊を進む。低い欄干を乗り越えれば霧のようにこまやかな繊維が一気に身体を包んだ。冷たいとも感じず、ただ、「包まれた」。

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