第九章 邂逅 深淵の蒼



「雀(シャン)殿」

張遼は軍艦の上から真っさかさまに落ちてゆく雀を見た。

得体の知れない圧に、張遼は当てられた。

雀とともに居たそれは、闇に深く紛れていた蒼く光っていた気がする。だが、注意する猶予はなかった。夜をとどろかせる炎が、炭が赤くなった静かな色へ染め上げた。闇が彩られて、騒々しく踊っている。蒼は暗い黒を、沈黙の色を通すだけで踊りには目もくれず、す、と気配を遺して溶け込んでしまった。

「雀殿を、はやく」

蒙衝船の舵をとる部下に命じ、雀が落ちた場所まで行かせる。そして、間一髪のところで沈みかけている男を数人がかりで引き揚げた。

狭い甲板に載せたまではいいが、そこに横たえられたものを見て、短く悲鳴をあげたのは張遼を含む一部隊全員だった。それは、物言わなかった。気を失っているらしい。

……………人間なのか?だれもが、そう思った。濡れた生物はあの美しい容姿をしていたものだった。だが、これは、双方の紅い瞳が飛び出し、見える肌に走る幾重もの筋、肉をえぐりとろうとせんばかりの爪と牙。髪は短くなっているが、これは雀というあの男だ。牙の隙間から風に似た音がし、意識はないようだが、生きていた。

「化け物だ」

誰かがそう言った。

「化け物だ」

「化け物だ」

ひとりを皮切りにみなが口々に言い放ち始めた。なかには、剣を抜き放ち叫ぶものもいる。初めて目にした異形に、屈強な兵士たちは取り乱した。だれも見たことがない異形だ……………。

「黙らんか」

張遼は自分の外套で雀の顔を巻いた。兵士たちは少しだけ理性を取り戻したが、殺すべきだと進言する。川に放ってしまうべきだと。おそろしいのだ。人間が持っている姿ではあるけれども、あきらかに我々とはちがう。

「いまはそれどころではない。ここで気を違えるな。いま成すべき任務は撤退だ」

張遼に恐怖がないと言えば嘘になる。張遼にも、恐怖があった。だが、殺してもよいとはどうしても思えなかったのだ。この異形はあの雀であるのかという疑う気持ちがあったが、身に着けている衣服から雀であるにちがいないとすぐに知れた。あの雀は、こんな化け物だったのかとも思う。我々に害意でもって襲いかかってくるかもしれない。

気持ちの在り様は、部下たちとなんら変わりなかった。

それでも、殺してはいけないと張遼は思ったのだった。いや、頭では殺すべきと感じてはいても身体が動かなかったと言ったほうが正しいかもしれない。

「他言は無用。生殺与奪の権利は私が持つ」

船頭に指示し、すでに江陵へ退き始めている曹操を追うべく、漕ぎ出させた。

背後では大きな音を立てて軍艦が炎をまとったまま河の藻屑となっていった。熱い花びらが舞い、それらも水面で燃え尽きた。






赤壁で業火の策に飲み込まれ大敗した曹操はただ馬を急き立てて、烏林から華容道づたいに江陵を目指していた。

孫権と劉備の連合軍はここぞとばかり追いかけてくる。後方から、容赦なく追いかけてくる。

気を許す暇など、江陵に着くまで寸分も無い。

敗けた。

曹操は唇を噛んだ。

敗けるはずのない戦で、敗けたのだ。敗けてはならない戦で敗けた。

握る手綱が肌に食い込んだ。痛い。血が滲む。

ど。衝撃に突き上げられた。

浮いた腰を落ち着けることもできず、曹操は宙に投げ出され、そのまま泥に叩きつけられる。世界が大きく緩慢にひしゃげていくのを見た。こんなにもゆっくり動いていくものなのか。一回、二回と景色が横に薙いで上へ下へとうねっていく。何度か泥のなかを転げまわり、落ち着いたときには仰向けになって空を眺めていた。忌々しいくらいの澄んだ青い空だった。

煙にまみれ、火にあぶられ、擦り傷だらけの手と顔。泥にまみれる身体。口の中に砂と水の味がひろがり、舌で押し出す。唾液を含んだそれは、唇にべとついた。

ぶざまよのう。

ひとりごち、腹から笑いがこみあげてくるようだった。だが、そんな気力さえも、どこかへきえてゆく。眼前に広がる豊かな空に、雲がゆっくり流れている。嗚呼。

浮かぶ雲は、掴めそうなほど近く感じだ。ゆるやかに過ぎる周囲のなかから、馬のひづめが激しい。

だれかがくる。敵か、味方か。殺しにきたか、それとも助けにきたか。

「父上」

曹操を抱え起こしたのは息子曹彰だった。猛獣を素手て倒すほどの剛腕を父の肩と腰に回して引き起こす。

黄髭。同じく火にあぶられた顔が、おびえをのぞかせている。それがどこか幼子が虫におそれをなしているようで可笑しくて、曹操はかすかに鼻を鳴らす。

「江陵にはすでに伝令を走らせています。きっと、子孝おじ上や元譲おじ上たちが援軍を率いてかけつけてくれるはずです」

「手際が良いな、子文」

「いいえ」

曹仁。夏侯惇。ほかの武将たちが思い浮かぶ。歴戦古参の猛将たちがこちらに向かっているのか。勝利の報を届けてやりたかったが、まあ、あやつらもよもや敗北とは思ってはいないだろう。

くちおしい。

そうだな。騎馬し、報せに青い色をのぞかせてむかっているのだろうか、このようにみじめなすがたをみせたくない。

曹操は肩を借りながら立ち上がった。二本の足がふらつき、重い泥が鉄のようにからみついた。目が揺れ、世界が小刻みにゆがんでいた。死のような笑い声がゆっくり耳に近づいてきた。

なんともいえずなさけないではないか、曹孟徳よ。

囁きに似た愚弄する言葉が聞こえた。なさけないだと、だれがだ。無礼もの。

愚弄の主は曹操孟徳、自分自身だ。やつは、腕を組んで傲慢に見下している。

みじめだぞ、曹孟徳よ。田舎ものと軽んじた田舎ものにおまえは赤子の手を捻られるように敗けたのだ。見るがいい。

だれだ?曹孟徳とは?それは俺だ。

曹操は俺の名だ。字は孟徳。

我は曹孟徳だ。漢帝国の丞相だ。

あの諸葛亮とかいういけ好かない男。そして、周瑜の顔を思い出すがいい。「ごめんあそばせ、丞相。あら、もうおかえりになりますの?では、どうぞ、敗北をおみやげに。ごきげんよう」だとよ。おまえは南に遊びに来たのか。急ごしらえの水軍という土産品をひっさげて?そして最悪の土産を持たされて?ふざけるのもいいかげんにしろ。

蔑みの怒りを口元に含ませていた。黙れ。制止することはしなかった。どこか、聴いていたい気持ちもあった。

もうひとりの曹孟徳は盛大にため息をついてから、鼻で笑った。

郭嘉が居ればよかった、だ?あの素晴らしい才能を持った軍師か。そうだよな。ああ、わかる。だがな、居ても居なくてもおなじだ。天命だよ。は、は、は。笑わせてくれるな。この世に居ない魂になにを語りかける?なかなかに女々しいな。

百万もの大軍を率い、大仰な湖を造って子供だましの訓練をしたな。それがこの結果だ。荊州を無傷で制圧したのはただのまぐれ。天の気まぐれだ。おまえの兵たちは死んだぞ。火にまかれ、水に溺れ、弓で射られ、槍で串刺しに、剣で薙ぎ払われた。おい、丞相よ。漢帝国丞相よ。帝の前に立つものよ。おまえは敗けたのだ。

死体だ。哀れな亡骸の山だ。やがて腐ってすえた香りを漂わせるぞ。ほら、あっちにも、こっちにも、おお、もっともっと遠くにもある。こやつらには待っている人間が大勢いたのにな。歌え、歌え曹操。馬上で酒を飲んで歌え。舞え。そして詩にしろ。これは傑作だ。

曹操は笑った。出せるかぎりのすべてを、力をこめて笑い、吐き出した。曹操の身を案じていたつわものどもが、その場に居合わせたすべてのものたちは呆気にとられた。

そうだ。積み重なった亡骸。この結果は俺が招いたのだ。俺が望んだのだ。俺はすべての哀れなものどもの上に立つのだ。俺を憎め、俺を怨め亡者たちよ。俺はおまえたちを受け入れよう。

天命だ?笑わせるな、曹孟徳よ。見えない力にすがりたいのか?

なさけないだと?

丞相だと?俺は曹孟徳だ。死ぬか生きるかというぎりぎりの死地のなかで、そんな飾りがついたものにいかほどの値打ちがある。

敗けた?だれがだ。

おまえだよ。

なにに敗けた?敗けただと、この俺が?

人間、生きていれば敗けることなんぞいくらでもあるわ。

ひとしきり笑い終えたと、月の光を宿した銀の剣のように曹操は凛と前を見据えた。こころよい冷たい風が、身体のなかで吹いている。

曹操は曹彰の肩を押し返し、自らの足で泥の大地を踏みしめた。

敗けた。それがなんだ。たった一度負けたからと言って、死ぬわけではあるまい。敗けるのがなさけないだと?ちがうな。敗けたと思ってあきらめることこそが、無様なのだ。

生きる。生きようともがく力こそが真の力だ。自分で引き寄せ、その引き寄せる力ですべてを巻き込みおのれのものにする。思いの力だ。これが脆弱か強固かのちがいだ。

なさけないと俺を蔑むか。だったら好きなだけ蔑め下郎。いくらでも盛り返してやる。いまに見ているがいい。生きておまえの目をひん剥いてやる。

なさけない、みじめ、無様、敗戦の丞相。そうだ。それはまちがいなくこの俺だ。だがな俺の灯火は燃えている。揚子江の水でさえ俺の命を消せなかった。

生きているぞ。

曹孟徳は生きている、ここにいるぞ。ここだ。

孫のやつらが我々を皆殺しにせんと、焼き殺そうと下手な芝居を打ち、油を使い、藁を使い、蒙衝船を突っ込ませ、火を放った。溺れさせて殺そうと追い詰めた。手を下さんと前から後ろから襲いかかってきた。そして、根絶やしにしようと必死に血眼で追いかけてきている。持てる力の総てでもってな。

だのにだ。俺を殺すに至っていない。間抜けどもめ。なぜ曹操ごときの人間を掻き切れぬ。俺は丞相だ。しかし丞相である前に男だ。男である前に、ただの、どこにでもいる人間だ。数多の部下たちを殺したのに、なぜ人間曹操だけを殺せぬのだ。おかしいぞ。

これほど滑稽なことがあるのか。嘲笑せずにはいられんだろうが。なんの芝居だ。なんの児戯だ。馬鹿どもが。愚かものどもが。俺は死なんぞ。

俺の命はここだ。

曹操は叫んだ。

来い。

貴様らが欲するくびはここにあるぞ。欲しいのだろう、だからくるのであろう、田舎ものどもめが。我の首が欲しいか。であるなら討ってみるがいい。欲しければ好きなだけくれてやる。俺の首をめがけて吠えろ。黄金財宝の上に立つ漢帝国の臣下ではなく、茨の上を歩いて這いずり回る鼠の首が欲しいというのか、虫けらどもめ。

我はここだ。

俺はここに居るぞ。

来い。

来い。さあ、にじり寄れ。命をかけて攻め抜いてみせろ。さっさとせねば俺は生き延びて逃げ帰ってしまうぞ。簡単には死なん。そもそも、容易に死ぬと思うか?

生きてやる。曹操は剣を抜き放ち、軽い身のこなしで馬に飛び乗った。

生きるぞ。

なんとしてでも生きてやる。

泥のなかをころげまわり、汚泥を舌で舐め啜りながら、のうのうとみすぼらしく生きのびてやる。病人を馬で踏み殺さねば前へ進めぬのならば、情け容赦なく殺す。そして前進してやる。見ているがいい。

蛇、鼠、昆虫、それらがなければ屍肉や雑草を喰らって飢えをしのぎ、畜生と言われるのも悪くない。生きているからだ。

曹操の兵たちはごくりと唾を飲み込んだ。仕える主君のすがたが、眼に焼きついて頭のなかまで鮮明に刻みつける。

生きるぞ。

曹操は叫んだ。風を飲みこんだ声は空へと跳ねあがり、大きく飛んで、遠くまで響き渡ってゆく。兵たちは腹の底、臓物と臓物のあいだにあるほんの空洞の部分から震えた。これは歓喜だった。

曹操の声がみるみるうちに痩せ細った心と身体を満たしていく。

生きるぞ。

曹操のみすぼらしいすがたに、漢帝国の丞相と威厳と自信に満ちた雄々しい勇姿とはかけ離れた影に、呼応する。兵たちも声を上げる。慟哭に近い焦点なき鬨の声を我先にと張り上げ、焼きついた喉をささげる。

敗戦の御大将が見せたすがたは、疲弊した兵たちを奮わせずにはいられなかった。奮わずにはいられなかった。諦めようどうせ死ぬしかないのだとだれもが思っていた。だのに、その考えは消え去ってしまった。わけがわからぬほど、「生きる」と改めた。

泥と血に全身を汚しながら、馬を駆る曹操が、渇望の的となり兵たちに残されていたわずかな生気を抉りだしていった。

すべての鬨の声は、遠く孫の旗を震わせる。騎馬隊の馬たちがなにかを感じ取り、ある馬は歩を止めてしまった。しかし、曹操たちは知らない。

「ゆくぞ」

ついて来たいもの、ついて来られるものよ、ついて来い。好きにしろ。だれも咎めはしない。

曹さま、孟徳さま、丞相、われらが殿。万歳。

兵たちは見た。太陽の光に射される敗戦の将。

曹操の瞳から、ちょっとのひと部分が消えた瞬間でもあった。いや、時が来たと言ったほうが的を得ているかもしれない。曹操は感じていた。身体のどこかにある、残っていたすこしのかけらが音を立ててくずれたのを。

楔であったのか、それとも新たな扉の鍵であったのか。喪ってはいけないものであったのかはわからない。喪わないほうがよかったものであった。おそらく、背にある扉を開けるためであったろう。

だが、しかし。

生き延びるためには、この道を最後まで歩くためには、いつかはなくさなければいけないものだったろう。そう思うことにした。

なくしたのではない、なくさなければならなかったのだ。棄てなければいけなかった。

この道を進んでいるあいだに、自分でさえも知らぬうちにどこかに棄てたと思っていたものを、まだもっていたのだな。だから、曹操は手放した。……………これでよい。これでいい。

俺の道は、最後までこの道だ。

もう一度と、曹操は別れを告げた。今まで、道を引き返す機会は多々にあった。そして、立ち止まっても構わない時も多々にあった。やめよう、すべてを投げ出す心もあった。だが、もはや退く路は喪われた。背後には奈落の断崖しか残されておらぬ。立ち止まることも許されぬ。進む道しか曹操にはなかった。

剣で大きく晴天を裂く。我はここにいる。生き延びるのは、天や神の意思でもなくこの曹孟徳の力だ。

見えない力だと言って、だれがついてくる。だれもあとにつづきはしない。見える力でもって俺はゆくぞ。

生きるぞ。

来い。




曹操が江陵に無事に帰還して、遅れながら張遼も到着した。そして、そのまま江陵の地下牢にぶち込まれたものがいた。それは、地下牢にひとりぼっちで伏している、化け物とも人間とも言えない、人間のかたちをした生き物だった。

雀(シャン)である。

飛び出ていた紅い双眸はもとの位置に戻り、爪も牙ももとのかたちになっていた。身体じゅうをめぐっていた筋はまだ数少ないとは言え、残っている。

瞳の色、つまり紅が茶色へと色を変えていないのは、雀(シャン)本人の意思だった。暗く座る紅の瞳がぎらぎらと血走っている。

まばたきをしていないのか、少しも動かない眼は、どこかの宙を凝視したままだ。

見張りの衛兵たちは、背筋にないぞうをえぐられるような怖気を味わいながらも、任務を遂行せんとしていた。

静まり返る地下は寒く、通路の篝火がときおり揺らめくが、暖をとるにはいたらない。

雀の存在は、末端のものまで改めて知られることとなった。

美しいすがたをした雀という男の、異形を。

雀の意識は遠のいていた。目の前がぼんやりとかすんでいて、ここはどこかと考えるよりも先に、蒼い眼と炎と刃、そして白玉の耳飾りがちらりちらり揺れて、ずうっと巡っている。

炎が踊る。刃が躍る。白玉の耳飾りがあいだに舞う。夢うつつに、雀は蒼に倒れた。

俺は、敗けたのだ。

俺は、護れなかったのだ。

そうだ、俺は。

石の床を爪で掻いて咆哮した。高くかすれた声が蜘蛛の巣みたいに広がり、地下牢全体にこだまする。見張りのものたちが互いに顔を見回し、懸命に足をとどまらせた。起き上がったやつが、自分たちを殺しにくるのでは?そのとき、どうすればいいのだ?唾をくだし、ひとりでに槍を握る手に力がこもった。

雛とのたまった、俺の弟。俺の身体と理の身体、それぞれ一部から産まれた弟。俺から夏侯惇と理を奪った弟。

殺してやる。

殺してやる。弟の名があたかもそうであるがように、雀は雛の幻影に告ぐ。

雀は身体を起こそうとしたが、重りをつないだ鎖にがんじがらめに縛られたように手足が痺れ、自由がきかない。動かない。何で。力がもどらない。

「理……………夏侯惇」

ちくしょう。なんで俺は。守れなかった。

ずっと夏侯惇のそばに居ればよかったんだ、理のそばにずっといればよかったんだ。背のびなんかしなければよかった。そうすれば、俺は失わなかったんだ。俺はばかだ。

夏侯惇、会いたい。夏侯惇に会いたい。きみは、まだ生きているよね。また、会えるよね。もしもなんて、有り得ないよね、夏侯惇。

「ああ…………ああ……………ああ」

雛は雀の大事なものを一度にすべて、奪い去った。雀は寒くてたまらなかった。黒い揚子江に落ちたためではない。雀のなかのぬくもりが消え去ったためだ。ぬくもりの跡に遺ったのは、弟に対する氷の憎しみだけであった。氷は増し、凍らせていく。

雀は命令をきかない肢体を暴れさせ、床にたたきつけるようにしてのたうちまわった。石畳の上に、あたたかい鮮血がひろがる。ぬるりとした血が、指をあたためた。腹から流れたと思うと、次は胸、うで、足、せなか、肩、くび、腹……………え?孔が開いて、裂けて。

勝手に、血が。……………もしかして、理は、まだ、生きて……………?

理嬢と雀は、もとはひとつの肉体だった。一方が傷つければ、その傷が寸分たがわずもう一方にあらわれる。同調と共有が、まさにこのとき起きている。無花果が割れるようにいくつもいくつも傷が身体に刻まれ、血が外へ広がってゆく。

雛は言った。

代わりに遊んでおいてあげる。ねえさまはどこまで耐えられるかなあ。

あいつの、どこまで耐えられるかという試しを含んだ遊びの意味は言わずと知れた。

いやだ。

雀はうめいた。あいつは、俺をもてあそぶために理をさらったのだ。そして、この瞬間、理をなぶっている。

いやだ。

なにもできない、どうすることもできない、ただ理が引き裂かれ串刺しにされるのをかんじることしかできない。穿たれていく傷を抑えることも、刻まれていく身体を自らいだくこともできない。雀は、声が出るかぎり叫んだ。声を成していない声をあらんかぎりの力でもって押し上げる。やがて、掠れ、消え、血におおわれた。

声が満足に出ない。血を吐くしかなくなった。理がいたぶられ、命を真珠の欠片にしてゆく。遠ざかる理の存在。あんなに近くまで行ったのに、そのときではないと判断した自分が憎い。理をまったく知らない。それなのに、崩れていく鼓動を否が応でも感じている。こんなにも近くに感じているのに、なんで俺は、なにもできない。

ああ、いけない。それはいけない。理、死なないで。死なないで。

祈った。お願いだと。お願いしますと。神さま、神さま。お願い。だけど、どう祈ればいいのだれに祈ればいいの?え、神さま?人間か創りだしたお人形さんに過ぎないと、だれかが昔に教えてくれた。……………そもそも、殺戮人形が祈るのを神さまって受け入れてくれるの?

……………そもそも神さまは、なあんにもしてくれないじゃない。……………だから、俺は……………。

雀は血だまりのなかに舌を突っ込み、掬って飲み干そうと這いずりまわった。腐ったような酸のある粘りを、えづきながら収めてゆく。それなのに、血はどんどん溢れて止まらない。石畳を埋めてゆく。

追いつかない。

砂利とともに血を舌で掬い、飲む。

飲んだ血が理の血になるとは思えなかった。しかし、それでも、なにもできない雀はこうすることが理のためになると考えて、無理矢理に自分を納得させた。

理のためだから。理は死なせない。感じたくない。

おいしくない。こうやって、口を血に沈ませたのはいつぶりだろう。俺が最後に人間の肉を喰らったのはいつだったろう。血の味は記憶にあるよりもこんなにも苦いものだったろうか。忘れようとしていた、忘れていた殺戮人形の自分が、今の自分を見たらどう思うだろう。きっと、嘲笑う。

人間に近づこうとした 人形の末路だとでも蔑むだろうか。ああ、そうだ。きっとそのとおりにちがいない。

俺は、なんで、こうなっちゃったんだろう。

人間が武器を手に争うのを笑って馬鹿にしていたけれど、馬鹿にしていた人間が、夏侯惇が大好きになった。自分でも信じられないくらいいとおしくて、理といっしょに居たかった。守りたかった。

俺はちょっとだけ、やさしくなった。

優しい幻想を抱いていた自分は、戦場にふさわしい心もちではなかった。遊びに行き、日暮れまで遊び、家に帰り家の人間のぬくもりに出迎えられるような、子どものようなそれだった。

そんな甘さが隙をつくり、守りたいものを守れなかった。結果は、好きなひとたちを陥れた。……………俺のせいだ。

「なにが……………しゃん、だ……………」

血を流し過ぎたせいか、雀の目の前が陰りをおびたてきた。これは死か?……………死、なのか?……………なにも見えなくなっていく。

死んでたまるか……………死んでたまるか……………。せめて、あいつを、あいつを……………。

ゆるさない。なにもかも。もうなにもかんがえられない。

俺と理から産まれた弟を、俺はゆるさない。

雀は飢えた。心が腹を空かし、心が喉を渇かした。どうすれば満たされるか、方法を探すまでもなく、自然と答えが導かれていた。弟を名乗るあいつを八つ裂きにする。

「夏侯惇、理……………」

血よりも熱いしたたりが紅い瞳から粒になって、尾を引いてゆく。

「夏侯惇……………」

死んでたまるか……………。死なのか?壊れるのではなくて?

そう思ったのを最後に、雀はつかの間のひとときを得る。






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