第一章 躍動 起こり始めるひとごろし



人殺しがでた。女。今月は、これで六人目。

場所は現在造営が続けられている宮殿の隅だった。資材をしまっておく個室で発見されたのだ。

二夜連続の殺人事件を耳にし急追出仕することとなった。

女の肢体は既に片付けられているだろうが、億劫な気分であるのは変わりようがない。戦でもないのに、殺しがあるというのは精神的に辛いものがあった。

賑やかな大通りを馬にまたがり、従者を数人連れ、進んでゆく。

大通りに人は多い。業の都は、食料や衣類など生活に必要な物資も十分足りている。職人たちも毎日働いている。働けば働くほど対価は手元に返ってくるのだ。いつまでその保証が続くかはわからないが、今はそうであった。

市場は所狭しと広がっており、屋台がひしめきあっていた。芸人たちの一団もおり、明るい音曲が流れ軽快な足踏みも聞こえる。心も身体も、ここに住む者たちはみな豊かであった。

喜ばしい、しかし、なんとものんきなことだ。と。

きっと、血や臓物の匂いを嗅いだことのない者たちばかりなのだろう。ここの民は。などと思わないでもない。

すると突然、似つかわしくない怒声が聞こえた。手綱を引き馬を止め、手を軽く挙げ進行を止めさせた。馬が小さくいなないた。

「何事だ?」

「見て参ります」

従者のひとりが馬から下りて、人ごみのなかへ消えた。

民同士の諍いもとい喧嘩の類ならば、内容によっては我々が干渉することもないだろうと思った。民を守ることが役目であっても入っていく範囲内のことではない。


やがて様子を見に行った者が戻ってくる。

「何事だった?」

「はい。見回りの兵と何者でしょうか。民がいがみあっております」

「見回りの兵が……………」

夏侯惇は、また厄介なことだと思った。干渉しなければならぬ。

「いかがなさいますか」

「私が話を聞こう」

見回りの兵であれば身内のことである。曹操の顔に泥を塗るようなまねはさせぬ。民の支持をなくしてはならなかった。

自分の愛馬を部下に任せ、夏侯惇は無言のままで人ごみのなかへ入った。人をかき分ける間もなく、民たちは道を開けてくれた。従者たちは急いで夏侯惇の後を追う。

いがみあっているのは見回りの兵数人と頭からうす汚れた外套を被ったひとりだった。言い合っているのが聞こえる。聞こえると言っても大声は全て巡回兵のものらしく、相手をしていると思われる者の声はしない。

「おまえたち、何をしている」

まずは兵に夏侯惇は声をかけた。

取り巻いていた人ごみは驚いたように夏侯惇を見て、その周りにいる兵たちと巡回兵を見回している。

巡回兵たちは思わぬ存在の登場に目を白黒させる。夏侯惇の目には怒りの色が浮かんでいた。

「夏侯元譲将軍」

「はあ?なあにをしているもなにも、そこのくそ野郎どもが金をご老人から巻き上げようとしていたのを止めただけだ」

濁ることなく凜とまっすぐに響く。夏侯惇の耳のなかに吸い込まれた。これは外套を被った者の声だった。

この声。

どこかで聞いた声。若い。女のような、いや、よく聞けば男ではないだろうか。

しかし、この声はいったい。

うねるような坩堝に囚われるような気持ちにさせられた。しかし、それも反論する声に引っ張られた。

「不審なものだった故にっ」

夏侯惇は蚊を払うような仕草で巡回兵たちを制し黙らせる。

「続きを聞かせ願いたい」

外套の者は、一歩前に足を進め、夏侯惇を測っているのか頭を動かしていた。

「うん?お前はここの偉い奴か?」

吐き捨てるように相手は言う。外套からのぞく口元には、嘲笑するかのような笑みが刻まれた。そして、それに激昂したのは夏侯惇ではなく城兵たちだった。

「夏侯将軍になにを無礼なっ」

「貴様、間諜か」

「なわけないだろう?間諜ならこんなことに首をつっこむものか。そんなこともわからねえのか?この国の人間どもは」

なんと無礼なっ。将軍、捕らえましょうっ。口々に姿を分からぬものに疑いをかける。しかし、挑発するかのように口元にはますます挑発するような笑みが刻まれる。

「なんなら、ここのお客さんたちひとりひとり教えてもらったって構わないんだ。証人になってもらおうぜっ」

外套が腕を広げれば、どよめきが起こる。中には小さくではあるが、そうだそうだと賛同も聞こえる。巡回兵は慌てだした。

「黙れ」

低く重い声とともに、夏侯惇の腹の底で黒い火がついた。

「これより先は私の領分だ。曹丞相に報告する必要はない」

巡回兵たちをにらみにつけ、去ね、と告げる。

夏候惇の圧に当てられた巡回兵たちと野次馬根性で取り巻いていた民たちはすごすごと逃げるように散り去っていった。にぎやかな市場でそこだけが静かになった。屋台で店番をしていたものたちの姿も見えなくなったが、おそらく物陰に隠れているのだろう。

「いやいやあ、助かった」

拍子抜けするほど、明るく華やいだ声がひびいた。さきほどの態度は大した演技だったかと思うほどで、詰めていた息を吐いて、はっはっはと大声で笑っている。

「申し訳ない」

「上がしっかりしているのは良いことだよ」

「身内の失態で我が丞相に泥を塗るようなことはできないのでな」

「あんたが出てこなかったら俺は奴らを殺していたから」

殺さなくてもさ、腕一本くらいはいただいていたかもな。けらけら笑っているが、口隅には猟奇な色に満ちていた。冗談ではないな。

「聞きたいことがある。その金を巻き上げられそうになったご老人はどこへ?」

「大丈夫だ。もう逃げているだろうよ。あのじいさんもさ、儲かった儲かったなんてはたから見てわかるようなことしなければいいのにな。まあ、あの兵のやつら、いやしさが顔ににじみ出てた」

「そうか。だが、給金は十分に渡していることを弁明しておこう」

「それよりさあ、あんた。偉い奴なんだろう?もう少し餓鬼の躾は厳しくやりな」

耳に痛みを感じながら目を伏せる。本当にその通りだ。上である自分がしっかりとしていれば、民に迷惑などかからなかっただろうに。

「そう落胆するなよ」

嫌に能天気な奴だと感じた。そして、嫌みな。

「ここではどうだい?」

「どう?」

「情勢さ。山賊や、反徒とか、殺し……………」

肩が一瞬、強張るのを感じる。

殺し。この業の都内で起こっているが、やすやすと口に出すわけにも行かず、気を取り直して毅然と言い放つ。

「ほとんどない。我が殿が丞相として帝の代わりとなり統治しているためだ」

「ふうん、そっか。じゃあ、ちがうかな?」

残念だ。奴は呟く。その言葉を不審に思い、夏侯惇は言葉を紡ぐ。

「おまえは、旅人のようだが。このご時世、不用心なものだ。しかし身なりは悪くない。金持ちのせがれか、何かか?」

「ふふん。残念だと言ったから不審に思っているな?ちがうね。俺は本気でそう思っていた。商人のせがれじゃないよ。俺は本当にただの旅人だよ。ずいぶん前に北の方から来たんだ。胡国の近いところから、と言ったほうがいいかな」

間髪を入れず用意をしていたとも思えない言葉を並べた。

胡国と言うが、我々の使役する言葉の音を一寸の淀みなくかつ正確そして明瞭に発するものだから、少々驚いてしまった。

「なんののために」

「目的?もちろん、目的はある。だけど、あんたに話す気は毛頭ないね。だってさあ、言う気がないもの。まあ、話したとしてもあんたらに利益はないけど」

「それならばそれでいいが。ここに滞在したいと思うのであらば、騒ぎは起こすな」

「そうか。分かった。出来るだけそうしよう。どこへ行ってもそう言われる」

信用できない物言いに、夏侯惇の瞳は涼やかになった。

「私からの忠告だが、見るからに不審なその身なりでは間諜として疑われる資格は十分にある。顔を出すなどしたほうがいい」

「顔を出すも出さないもこっちの勝手でしょ」

「強制するものではない」

「それより、もっと重要なことがある。先ほどのように兵がご老人などに手を出していたときはどうする?こっちにも性分でものがあってね。そういう輩は斬りたくなる。斬ってもいいか。いや、言い方が悪かった。制裁とでもいうべきか。あんた知らないか?地方では、あんたの目が届かないから、役人が不正をして裕福を蓄えているんだぞ」

ああ言えば、こう言う。自分の理論を曲げぬ奴だということは、よく分かった。

自分の表情で心のなかでも察したのか、冷たく笑い、では、と言って踵を返し去ろうとした。

「顔だけでも見せてはくれないか」

必要は感じなかったが、気を緩めれば戸惑ってしまう声色がどのようなものから発せられているのか単純に知りたかった。

「なんのために」

「万が一、兵を斬って牢にぶち込まれてもよいようにだ。顔をわかっていたほうが、のちのち役に立つだろう」

奴は自信気に口元をつり上げた。

「それは及ばないね。雑兵に斬られ捕らえられるほど腕は悪くないんだ」

「生憎、我が曹孟徳の目や耳が多くいる。すべて手練れのものたちだ」

「俺には適わねえな」

自尊心を傷つけられたとでも思ったのだろうか、旅人と名乗るものは捨てるように鼻を鳴らし、走り去っていった。やがて人ごみにまぎれ、人間のなかに溶けるようにしてなくなってしまった。

「……………奇妙な男でございましたね」

従者のひとりがつぶやいた。

「男?お前は男と感じたか」

「はい。言葉遣いが、乱暴でしたので。元譲さまはどのように?」

「どちらか分からぬ。女か、男か。正直に言うと男のようで女だった」

あの不思議な。どこかで聞いた声が自分をそうさせるのかもしれぬ。

「旅をしていたとなると、それなりに危険はございます。わざと声色を低く、粗野な言葉遣いを気にすることもあるでしょうね」

「……………追え」

「はっ」

「あの者を追え。あのものの顔を覚え帰ってこい。殺しを示唆したのだ。治安を乱されるわけにはいかん」

「分かりました」

従者のひとりは奴を追い、同じようにまぎれなくなる。夏侯惇の取り巻きの優秀な部下のひとりだ。心配はない。

顔を知りなにになるのか、だが好奇心も占めていた。顔を知らなくとも、あの声ならすぐわかるだろうが。

自分の心が乱れていることに夏候惇はふと気づいてしまった。あの声が、ひっかかってしまう。思い出そうとすればそれば鮮やかなほどだ。もしかしたら、私はどこかで会ったことがあっだろうか。だとしたら、顔見れば解決するにちがいないのだ。

行くぞという命令も出さず、夏侯惇は乱れる心をそのままに丞相府へ足を向けた。いつのまにか、市場はいつものようなにぎわいを取り戻していた。おそらく、今回の出来事は市井の噂話として話題をさらうだろう。しかし、それも数日の間に消えてしまうのだった。









丞相府にて曹操はいつもの妖艶な笑みを浮かべて迎えてくれた。機嫌がよろしいようだ。

「ご機嫌麗しゅう」

「よい。そのような堅い言葉など」

曹操は夏侯惇に部下ではないと言うようにそう言う。たしかに、漢帝国に仕える身とすれば同じ文官の位ではあった。しかし、夏侯惇は部下としての身持ちを崩すつもりはまったくない。

幼い時から変わらぬ従兄の声かけに珍しくほほえみを軽く見せた。

「遅かったではないか」

「市場で軽い騒ぎがありましたもので、首を突っ込みました」

「騒ぎだ?」

「巡回兵と流浪のもののいざこざです」

「いざこざだ?」

曹操の眉間にしわが寄る。言いたことはすぐに分かった。

「何をしでかした。兵は」

「老人の金を巻き上げようとしたため、流浪が老人を被ったのだそうです」

「つまり、我が手足が害を加えようとした、ということだな」

曹操は民を大切にしている。

民の支持がなければ国が成り立たないことはよく知っていた。漢帝国は、民の声が民の支持をなくし今は崩壊寸前であった。黄巾や五斗米道たちはいずれも民を惑わし狂わせた邪教だが、民の声を聞き民の支持を得たのであった。

財力、権力、それすらも上をいくは民つまり人民であること。国が滅ぶ理由は民の心が国から無くなるためである。曹操は解っていた。

心が必要なのだ。国を成り立たせるためには。人民の心をなくせばどうなるか知っている。息子である呂布に首を切り落とされたあの愚かな暴君薫卓のようになるのだ。

曹操は民の心をつなぎとめる方法を治安に求めた。正しきものが正しさで得た富を蓄えるべきで、正しくない悪しき方法を愛するものが民を蓄えるべきではない、あってはならないのだ。賄賂で私腹を肥やした役所の高官を眉のひとつさえも微動だにせず問答無用に叩き殺した曹操の冷徹な表情を、夏侯惇はまざまざと思い出すことができた。

不正を大いに嫌う漢帝国丞相。巡回兵はそんなことも知らず、民に害を与えた。

曹操の怒りが手に取るように分かった。

小さな傷はやがて化膿し大きな傷となる。化膿してからはもう遅い。癒そうとしても簡単に癒せるものではない。ひとつの芸術品を創るのに職人はどれほどの時を有するか。しかし、壊すのは容易い。

「誰だ、そやつらは。我自ら葬ってくれよう」

「従兄上。落ち着いてください。今回は状況が状況でしたので双方の話を聞くことができませんでいた。金を巻き上げようとしたとはまだわかりません」

「わからない?」

「流浪の狂言かもしれません。ここは従兄上の胸中にしまっていてください。老人の懐は無事だったのですから。私もそういたします」

「そのような確信がどこからくるのだ、夏侯惇」

「ありません。ですが、今は乱れた世。皆、不安なのでございまする」

「だから、狼藉をしたそいつらを殺してやる。治安の良さは安定につながるのだ」

「従兄上。一度くらい、猶予をつけるのも重要なことですよ。調べればすぐに明るみになることです。もし、その行いが正しいものではないと民が感じたならば、従兄上は首を並べ遊んでいると恐れられましょう。ですが、次にそれを耳にした場合、躊躇なく厳罰なされませ。咎めるものはなにひとつおりませぬ」

「ならば今回は見逃してやろう。だが、調べさせて我の頭にはいれておく」

ふう、と息をつき落ち着こうとしているようだった。

「あと、流浪ものですが不審に思えたため、一応、追っ手の者もひとりつけました」

「不審?どのようなことが。不審であったのだ?老人を助けてやったのだろう?殊勝なことではないか」

「顔を見せなかったのです」

ふとよぎったのは、あの口もと。嘲笑し挑発する歪んだ口が脳裏に焼きついて離れない。

「男だったか女だったか」

「いえ、女か男か分からぬ、声が奇妙な奴でした」

「それは、怪しい……………」

曹操の口元が歪む。似ているか。口元。妖艶に歪む曹操の口元をまじまじと見つめた。あの口元と、従兄上の口元。似てはいなかった。そこで夏侯惇は自分が声にひっかかっているよりも、あの口元のほうにひっかかっているのでは、と思った。ならばやはり顔が気になる。

どこかで。知っている気がするのに、思い出せない。遠い過去のことではないし、かといって近くでもない。

「よい、か。その話もいざこざも、信憑性が乏しいものならば」

そうだ。その通りだ、身元の知らぬものより、いまは起こった殺しについてが先なのだ。

「では、本題へはいりましょう」

「人殺しのことか」

「お聞かせ願います」

面倒そうに曹操は改めて足を組み、目をつぶる。天井を仰ぎ息を吐く。

もしや。夏侯惇は聞いた。

「死体を見られたのですか」

ああ、見た。気分でも害したのか。

「どのような……………」

思い出したくもないがなと呟き、曹操は話を続けた。

死体の主は、女。着ていた衣装の柄と色、そして髪に差されていたいたであろうかんざしから身元はすぐ割れた。宮殿内で働く女官のひとりだった。その夜、女官は不寝番のひとりだったそうだ。女官たちの聞き取りによれば、件の女官は不寝番のわずかに空いたわずかな時を見計らって、密かに心を通じさせていた男との逢引きをする心づもりにちがいなかったとのことだった。逢引き相手の男は宮中内の兵や文官ほかだれかはまだ特定されていないが、調べればすぐ判明することだろう。

女官の遺体があった建築用の資材を収納している個室は、その身体から出た多くの肉片と血にまみれていた。いくら水洗いをしても臭いがこびりついており、廃棄するしかほかはないらしい。

身体の関節という関節は切り離され、いや抜き取ったようになっていた。そして、わずかながらに、原型のとどめてある腹わたを棒のようなものでかきまわされたようになっていた、と。

虚ろな眼球がたったひとつついた顔は、まあまあきれいなままで、生きているものたちを恨みがましく睨み、床に立っていた。

ひどい殺し方だったらしい。

駆けつけたものたちは、皆が皆、同じような行動をする。あるものは口をふさぐ。あるものは顔を背ける。あるものは死臭に堪えきらずに、その場から逃げ出す。曹操は口をふさいだ。

片づけさせたが、血の臭いが個室に染み込み、臓物の異臭を放っている。吐き気を催すそれが消えるまで当分は、使えないという。もっとも、消えるまで何日かかるか想像がつかないが。

「……………なんと、惨たらしい…………」

全身の血が凍りつくような、感覚になる。きっと、豪胆な曹操でさえ、感じたに違いない。

「その遺体を、見つけたのは理だ」

「え?どうして。理?なぜ宮殿にいるのです?」

「我の仮眠室で眠っている」

理嬢は昨夜曹操と夜を過ごしていたはずだ。曹操の屋敷にいるのならまだしも、なぜ宮殿にいるのだ。

それに、曹操は理嬢を朝日が昇る前に必ず夏侯惇の屋敷へと送り届けるのが常であった。夏侯惇が目を覚ますと、必ず明るいときに見かけた通常どおりだったのだ。

今朝は、珍しく寝坊でもしているのだろうと、思っていただけだった。

「屋敷で過ごしたあとに、完成するだろう銅雀台のありさまを見せてやろうと連れ出したのだ。そなたが楼閣から景色を楽しませてやるように」

そして、ふたりで眺めていたはずだった。建造中の銅雀台は壮麗そのものだったが、目を奪われすぎたのがいけなかった。理嬢がいなくなったのだ。曹操は探した。特に案じることはなかろうと自分の目も耳も護衛につけていなかったのがいけなかった。

探すなかで血の臭いに気づき、たどっていけば惨劇であったのだった。

理嬢は入り口で返り血を頭から浴びた状態で、首と向かい合ったまま座り込んでいた。

なんで、そんなところに。悪い癖が理嬢にはあった。ふらりと、眼に入ったものに導かれるままに歩いてしまうところがある。それはなんでもいい、理嬢の気になったものならばなんでもいい。花でも蝶でも月でも水面が波打つのでも、なんでもよかった。

「……………無事だったのですね」

「さいわい、怪我をしているわけではなさそうだったが、危なかったのだろうな」

「まさか?」

「理嬢の衣服が組み合ったように汚れていた」

夏侯惇の身体じゅうの血が沸き立つようだった。左手指がひくついている。夏侯惇は左利きだった。筆を使うにしても、剣を握るにしても、左であった。曹操はそれを見やり、たしなめた。そして、その瞳は冷えていた。

「落ち着け。無事だ」

無事。なにごともない。それを繰り返し繰り返し口のなかでまじないのように唱えた。

「理嬢は、犯人の顔を視ているのかもしれないのですね」

「ひとつ解せぬことがある」

「なにをです?」

「状況だ。夜の巡回の兵たちがいるのだが、叫び声のひとつも聞いておらぬという。殺し方についてもそうだ。各部分が、これでもかというほど、切断されている。大の男といえども、そのようにきれいに切断するのは、それなりに時間がかかるであろう」

「殺された女たちの共通点は、あったのでしょうか?」

「わからぬな。ただの無差別かもしれぬ。理由があるようには思えん。よからぬ欲か、女の身体目的であるとは到底、思えんのだ。男の痕跡は出てこなかった」

「猟奇な欲望ゆえ、というのもありますが」

「女のみ……………そなた、目のつけている女がいたら、早よう一緒になってしまえ」

「女は、いりませんよ」

「淡白よのう。ああ、我の妾たちのなかに、気に入ったのがいるのか?」

「いいえ」

「そう言うな。すこしくらい、奔放になれ」

喉で笑う。夏侯惇に一種の感情が湧く。

「では、理嬢を、私の側へいただけますか?」

とりまく空気が変わる。少し間を置き、答えの声が暗く響く。

「どういう意味だ」

「冗談です。先日の従兄上の言葉同様に、深い意味などありません」

何故そのようなことを言ったのか、自分でも分からなかった。

逆らいたかったのか。皮肉を口にしてみたかったのか。無意識に口走っていた。

「退がります」

ただ、その言葉が、広間に響いた。

曹操の顔に、怒りの色は見えない。その代わりに、驚愕した色がのっていた。

「恐ろしい奴だな、夏侯惇」

「わたしは、従兄上のことが、一番、恐ろしい」

言葉の交わりが途絶えた。

肌のひとつひとつが、泡立ち、戸惑い、じっとしてられぬ焦り、長年、近しい場所で生き、互いに信頼しあい、守りあってきた男たちが初めて遭遇した場だった。緊張感が、全身を駆け抜ける。

「理嬢を連れてゆきます」

曹操は何も言わなかった。

夏侯惇も黙ったまま、丞相府を出て行った。曹操の仮眠室は丞相府に隣接した建物のとなりにある。










寝台で寝る理嬢がいた。または気を失っている。どちらでも受け取れた。

夏侯惇は寝台近くの椅子に腰を掛けてそれを見ている。

人形のような作り物のような寝顔だった。息をしているのかと、心配になるほど身体が動いていない。だが、初めて思ったことでもない。

何年も前から、ずっと思っていた。

子を持った感覚は知らぬ。だが、そうかもしれない。現在、夏侯惇には子供、妻や妾はいない。

曹操や夏侯淵の従兄たちにすすめられたことも幾度もあるが、どうしても娶ろうという気にはなれず、断り続けた。顔を立てて、娘たちにも会ったことがあるが、なんにも感じなかった。美しいだとか、可愛らしいだとか。女に大差などない。

女が居なければ、子はできない。子孫を残すためだと言われても、実感が湧かない。残さずともいい。いざとなれば、養子でももらって後を継がせればいいだけだ。

曹操の女好きは理解できない。夏侯淵も何人か妾がいるが、どうしてそんなに女が欲しいのかと理解しかねる。口やかましい従兄たちに問うてみたところ、曰く、居れば居るだけ損はしない、らしい。やはり、理解しかねると答えると、貴様は男色かと言われた。馬鹿を口走ってはいけない。気色悪い。

いかに尊敬する従兄たちと言えど、そのときは問答無用に殴りかかるところだった。まあ、そのようなことをすれば、そうかそうかと冷やかされるのは目に見えている。

女が嫌いというわけでもないが、ただ気が乗らない。

こういうことがあった。

夏侯将軍。曹操が丞相に就任してから、そう呼ばれるようになり、いつしか周囲の官僚たちからよく声をかけられるようになった。中央だけでなく地方の役人の声もよくかかってきた。

寄ってくるものどもが持ってくる話は、常に縁談のはなし。耳にたこができてからも、あとから、あとから、降ってくる。

世をときめかせる曹操の近臣である男に、唾をかけておけば、後々、利用することも可能かもしれないという、魂胆のもとに。

人間の浅ましい欲の黒い炎が、いつもまざまざ見えいる気になった。斬り殺してやろうか。十四の時、師を馬鹿にしたものを斬り殺したときの感情がよくよみがえった。馬鹿にされている。足元を軽く見られている。それが夏侯惇の矜持を傷つけた。

もしかしたら、そのことで妻を娶る気になれないのかもしれない。

子なら理嬢で十分だ。

妻を娶ることで、あの汚い欲に触れるのは、御免である。

考える夏侯惇の目の前で、理嬢が寝返りをうつ。

「……………う」

生きていた。

いまも変わらず、心のなかで生まれる安堵感。

寝返りによって、理嬢の白い右腕がのぞく。

すっかり父親の気分になっていた夏侯惇は、布団へ戻してやろうと、右腕を掴んだ。

赤い筋が目につく。

自然にその紅い筋を確認したくなり、起こさないよう腕を引っ張る。

目についたものは、肘から手首にかけてついている、いくつもの赤い筋。ひっかいたような。軽く、ではなく、掻きむしったような。

皮がむけ、血が薄くにじんでいるところを見ると、かなりの力を入れたのではないかと察することができる。左腕も掴んで、見ると、右と同様な筋が残っている。

この傷は。どこかにでもひっかけたのか。それとも、つけられたか。

どちらかといえば、後者の推測が妥当である。あの人殺しに殺されそうになったのだ。犯人のものであるにちがいなかった。襲われかけた理は、どれほどこわかっただろう。曹操による状況の説明によれば、理嬢は声も出せなかったのだ。それほど恐怖で動けなかったのだ。傷にならなければよいものを。傷になっていたとしても、できるだけ浅ければいい、そう願わずにはいられない。ただいまは、平穏を感じていてほしい。

夏侯惇は壊れそうな人形を扱うように、理嬢の腕をしまい、布団をかけなおした。理嬢が身をよじり、また寝返りを打つ。顔にかかる長い髪を、摘んで背中のほうへ戻した。

理嬢が怪我を身体に負うことは、今では当たり前のようになっていた。

拾われ、夏侯邸のもとで過ごすようになってから、理嬢はどこでつけたのか分からないような切り傷を腕や足につけることが多かった。ほとんど、庭で遊んでいるのぬもかかわらずである。

気をつけろ、と言ってもつけてきた。悪いときでは、骨を折ったこともある。その時は、叱りつけたが、その後も、度々、怪我をしてきた。骨も何度か折った。危ない場所はないかと調べたが、治った矢先にだ。

遊びたい盛りなのかと、いつもそれで自分を納得させてきた。しかし、女児には珍しい奔放さだった。

今回は状況がちがった。

明らかな邪悪な意思をもって傷つけられた。

わたしは、特別なことがない限り、夜は外にお出かけしませんから。……………理嬢は言っていた。自分は「心配などしていない」と答えた。心配などする必要などなかったからだ。理嬢は言葉の通り特別な事情でもない限り、夜中に外を出歩くことなどなかったのに。どこか、どこかでなにかが噛み合ってしまったのだ。それさえなければ、怖い思いをしなかったのに。噛み合ってしまったことを私が気づければよかったのに。

宵闇。漆黒の宵闇。

夏侯惇は目を覚ました。柔らかい布団の上に顔が乗っている。………………きもちがいい。もう少しこのままでいてもよいだろうか。

今日の予定はどうだったろう。まだ暗い。

腰が痛い。そうか、椅子に座っているからだ。無理な体勢で寝ていた。

なぜ、このような不自然に私は寝ている?

……………しまった。気付いたときには、自分はいつの間にか船を漕ぎ出していたらしい。曹操の仮眠室をずっと借りていた。大層、曹操に迷惑をかけたことだろう。

起こしてくれれば、よかったのに。そう思いつくところもあったが、従兄弟という関係である前に、主従という関係であることを思い出す。

慌てた。理嬢を連れ、曹操に詫びてから失礼することにしよう。

しかし、本当に、しまった。失態である。もともと、理嬢が目を覚ましてから連れて行こうと考えていたのだが、まさか自分まで眠ってしまうとは。

「理、起きろ。帰ろう」

頭の整理を終え、寝台へ目を向ける。

いない。

理嬢が、いない。布団がめくれている。どこへ行った。

手をつけて、敷布の温もりを探る。冷たい。

自分が目を覚ますずいぶんも前に、理嬢は起きてどこかへ行った、ということになる。

どこへ行った。

仮眠室をとびだした。辺りは暗い。高く位置していないが、月がでている。しかし、なんとも雲が多い夜だろう。月の光を雲が遮っている。

従兄上に、呼ばれたのか。ならば私を起こしてもおかしくはないだろう。しかし、何故か胸騒ぎがする。

胸から焦燥が溢れ出し、体を這い、やがては下に落ちてゆくのが、繰り返される。息がだんだん浅くなってくる。

どこへ行った。

冷たい風が撫でる。冷たさが、ますます、焦燥を掻き立てる。

宵闇に包まれるた宮殿は、不気味な静けさを醸し出していた。

不自然なほど自分以外の人間の気配を感じることが、できない。音も聞こえない。しかし、壁や柱に潜んでいる気もする。


不信と不安が入り混じる。巡回している兵は何をしていると、苛立ちが湧き上がったりもした。

自然と歩いていた足が早くなり、終いには走ってしまっていた。名を呼ぶ。呼ぶ声も、どんどん大きくなっていく。

答えはない。しない。いない。

自分の足が、床を弾く音が聞こえるばかりだった。


と……………。壺の底ような暗い奥で音がした。

柔らかいものに、何かが落ちる。刺さるような音がする。何度も何度も、聞こえる。

これは夏侯惇が聞いたことのある音だった。

音がする方向へ、ゆっくりと警戒しながら進む。すでに、手は、腰から下げた細剣の柄を掴んでいる。

音が大きくなる。

不可解な音は一定の拍をとり、絶えなく鳴っていた。

音がする場は、普段、物置と使われている場所だったはずだ。

夜風とともに、鼻につく臭いも流れてくる。戦場でよく嗅ぐ臭いだ。

そうだ。血と屍臭だ。

人殺しか。瞬時に理解した。しめた。夏侯惇の眉間が深く刻まれた。

今なら、捕まえることができよう。しかし、何故か、柄を掴む手が、震える。

恐れているのか。俺は。

なにを恐れるな必要があるのだ。戦場に出たこともないものを、俺は恐れているのか。

恐れるな必要はない。ないのだ。手を離し、拳をつくる。

恐れるな。そうだ。

自分自身に喝を入れ、一呼吸してから、再び柄に手をかける。

細剣を抜き、部屋の前に立つ。

そのあいだに雲が流れ月を隠し、周囲をより一層暗くさせた。血生臭さが際立っていく。

肉を断ち、引き裂く音が、止まない。

夏侯惇に気づいていないようだ。夢中になっている人殺しに、聞いた。

「何をしている」

音が止む。暗いせいで、どうしても姿が、黒い人形にしか、見えない。

「逃げるなよ。こちらを向け」

人殺しは、こちらを振り向いたようだ。

夏侯惇は剣先を真っ直ぐに、人殺しに向けた。

「は……………」

人殺しは濁った声を出して、口のなかで笑った。

切断された女の首が足もとに、ごろごろと転がってきた。蒼白の顔は、恐怖に歪んでいた。どうか、殺さないでと懇願したのだろう。血ではない流水の跡が、僅かに遺っていた。

雲が流れ、月が少しずつ顔をのぞかせてゆき、薄く、月の光が、部屋の中を夏侯惇に全てを見せてゆく。どこかで、げあげあ、げあげあげあ、鳥の鳴き声がした。

屠殺所だ。と夏侯惇は思った。豚や牛を殺して解体する場所だ。肉にする。口に入るそれらを小さくする。行ったことなどないが、きっと、そうだ。こんなところだ。ここが、屠殺所であればどんなに良かったことか。転がるあれが、豚や牛であれば、どんなに良かったことか。

それは間違っている。頭をかすめる。豚や牛や鳥を殺すのは罪ではないのか。人を殺めるのは罪で、それ以外は罪ではないのか?驕りだ。人間の、汚れきった驕りの長物だ。

罪にならぬはずはない。

これは、罰だ。

壁に飛び散った血は、天井までに及び、女の身体は、関節という関節を切り離され、散乱していた。

分離していた、その肉片を、人殺しは短刀を逆手に持ち、振り上げては下ろし、振り上げては下ろし、遊んでいたのが、容易に想像できた。

遊戯にすぎない。

頭から足もとまで全身に、殺した人間の血を浴び、口元を、いやらしく歪ませている。

目は見開き、その色は血の色をしていた。

「おまえ、だったのか……………」

絞り出した声とともに、細剣を落とす。細剣は高い音を立て、少しばかり転がり、血がついた。

ぐちゅり。屠殺人は一歩こちらに近づいた。

喰われる用意をする順番待ちをしていたのは、夏侯惇だったのかもしれない。

血色が、すぐそこまで迫っていた。

理嬢は降りそそがれた血を舐め、そして、視たこともない笑顔で嗤った。











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