第九章 邂逅 深淵の蒼
三
朝が来た。水のたゆみ音が船の板をたたいて、ぱちりととがって弾いて散る。
夏侯惇、元気にしてるかな。ちゃんと、ご飯を食べて眠れているだろうか。風邪を引いたりなんかしていないだろうか。薬草の使い方は教えてあげたから、薬さえ飲んでくれれば、すぐ治る。張遼の軍に加わってから、夏侯惇を想わない日はなかった。
雀(シャン)が甲板に立っていた。
白とも灰とも言えぬ不明瞭な霧は濃く、じっとりとしたしめりを含んで、辺りをどこまでも覆う。朝というのに夕のように暗く、ぽう、と心もとない淡い人間のつくりだした灯りが遠くにいくつもあった。いや、あれははたして人間の灯火だろうか。もしかしたら、孫のやつらの策略であるかもしれない。
ときどき、小船を互いにぶつけて小競り合いをしたり、矢の嵐を放ちあった。間を空けて船に乗ってにらみ合っているから、遠距離の攻撃といえば弓矢だった。雀はその様子を眺めているだけだった。すごい雨だ。当たったら痛いだろうなあと、思いながら。
時が歩みを止めているような気分にさせる。この戦は持久戦で、耐久戦だ。
兵力数ではこちらが勝っている。戦力では。その大きな幅に、この戦は簡単なものだと勘違いをかましている兵たちは上から下まで少なくない。むしろ多いほうだ。難しい戦だと言うことを解していないのである。いたずらに攻撃を仕掛け笑っているやつは、本気で殺しにかかってくるやつに敗北するしかない。根本からして出来が異なるからだ。いじめと殺しは似ていてちがう。たわむれやいじめは、遊びだ。遊びは、殺しでは到底実現し得ないのだ。
曹操は、だれよりもこの戦における苦難をただひとり押しつぶされそうになりながら耐えているはずなのだ。敵の領域に足を踏み入れており、常時首を絞められているという死の直前を。大将たるもの、真っ先に狙われるのは最上のものであって目標もそれだった。敵が何を望んでいるのかはわかる。曹操の首ひとつだ。
弓矢が当たらねば剣を握りしめ向かってくる。剣がはねのけられ、折れれば、自分の肉体で突撃してくる。そして、懐に隠した針で、混紡で、歯で、爪で殺そうとしてくる。敵は、そうだ。そういうものなのだ。万人が欲しがるのは首だ。曹操の首。
曹操は孤独だった。それは、ひとりぼっちというのではなく、頂上に君臨する主として、大いなる時代の流れを素手で曲げ変えようとする先駆者として、あえて望んだ、あえて気高い孤独だった。甘えを殺した覇者の真情をくみ取るなんてことを、殺戮を司る雀にわかるはずはない。それでも、曹操とはまた味のちがう孤独を持つために、かたちを変えて出会っていたとすれば、まあまあ仲よしにはなれたかもしれない。
「雀(シャン)殿」
「文遠、はやいね。おはよう」
張遼が腹を押さえながら、それでも背筋を伸ばして歩み寄ってきた。甲板の板を足の裏が当たって、人が動き始めたのを知る。ほかに数名、部下が控えている。
「おなか、痛いの?」
「いやはや、おはずかしい。水上と言うのは、陸を恋しくさせるものですな。まったく」
「慣れる以外にはどうしようもないからね。薬で治せるのなら、治してやれるけれどさ」
「雀殿は平気なのですか」
「俺はいろんなところ歩きまわっていたわけだし、ちょっとやそっとのことじゃどうともならないぜ」
「ほう、興味深いですな。機会があれば、ぜひお話ししていただきたい」
「やめておきなよ。気が滅入るし、犬の餌にもならない。酒を楽しむための肴ではないから」
「そうですか。無理強いはいたしませんよ」
「なあ、文遠」
「いかがいたしましたか」
「殿とは会ったかい?」
「軍議がありますゆえ」
早朝、日が昇りはじめたころに、曹操は各軍艦の指揮を任されている武将たちを終結させて軍議を開いていた。もちろん、雀(シャン)は参加を許されていない。張遼のそばに身を置いているものの、人との眼にはただの一兵卒としかされていないからだ。
いつかのようにこっそりと近づいて聞き耳を立てるという手もあるのだが、場を限られている水上では思うようにうまくいかず、仕方がないのでおとなしくしていることにしている。
曹操とは顔を合わせていない。遠巻きにその男を見る機会はあるが、じっくりと眺めることはしない。
「殿のご体調は?」
「不調もなにもおっしゃりません。ただ、健やかとは言い難いと思います」
ああ、やっぱり。雀は自分の中で想定をめぐらした。そろそろ船酔いの負荷が頂点に達してきているのは間違いない。どいつもこいつも蒼い顔をしている。そうでなくとも、屈強だった強者たちの色は青白くなっている。
それが欠点だった。身体がどうしようもなく芳しくないとき、人間の理性は驚くほど鈍る。場に合わせた判断さえおぼつかなくなり、大きな過ちを生む結果ともなりうるのは目に見えていた。それに、長い期間水上にいるからだろうか、水のにおいと言うのか、魚のにおいと言うのか、魚の中身、骨と肉そして脂すべて絞りつくしたような生臭さが鼻を不快にさせるのだ。これは健在であれど胸を悪くする。
そろそろ、陸上に居る隊たちが羨ましくなる頃でもあるだろう。かく言う俺も、そろそろ陸地が恋しい。文遠に頼んだら、陸上に戻ってくれるだろうか。単独行動をできるだけ控えているおのは、自分は張文遠に従っている者であると周囲に印象付けるのに役立つからだ。雀が持たれている不信はまだまだ根深い。
もしかしたら、対岸の敵連中はこの弱った状態を狙っているのかもしれない。
名もない兵が船酔いを煩わしくしているのなら、曹操だって同じだ。さらに、大変な頭痛もちだ。部下の手前、気丈に振る舞っているのならば、重責と心労が重なって、ここにいる誰よりも疲弊していることだろう。
まったく同情せざるえない。
敵の大将が弱っているこの機を見逃すわけがない。少なくとも、俺だったらここで全面突撃を仕掛ける。
奴らがこれを予想に居れているか否かはわからないが、おそらく似たような想定はしているだろう。
冷徹の諸葛亮に軍事の天才周瑜の連携があれば、もしかしたら。俺ならこの機は逃さないがな。相手が弱っているところを狙わない獣がどこにいる。
「大将に元気がないのはちょっとまずいな」
張遼は黙ったままで雀の肩を掴み、引いた。それ以上を言うことはない、と。張遼の眼光がぎらりとまたたく。
雀は軽くほほえみ、首だけを動かして張遼から大河へと視線をすべらす。
早く帰って、夏侯惇に迎えてほしいんだ、俺。
船酔いをふさぐためという策が施された、つながれた軍艦が波に合わせて小さく揺れている。波も幾重に立っている。
夜のこと。突如ひとつ爆ぜたのを皮切りに、乱雑かつ不順序に轟音が鳴って、いくつもの軍艦を大いに揺らした。
上がるは驚愕、動揺。反対側からは喜びの鬨の声が聞こえた。
熱をはらんだ風が巻いて身体を押しこんでゆく。
火の手は必ずしも大きいものではなかった。炎が育ったのは、風だ。さらに炎が東の風を受けて大きく渦を生み出した。
ああ、ちくしょう。これを狙っていやがったのか。この時期なら突きまわすような激しい風など吹くはずがないらしいのだが、それは北方育ちの知識にしか過ぎなかったようだ。この地方の自然を熟知しているやつなんて。浮かぶのは周瑜公瑾ただひとりくらいだ。美周郎なんてきざったらしい名前の、嫌らしい策略家だ。しかし、口すみが上がってしまう。やることがえげつないなあ。戦にしてみれば華のある派手なものだが、やっていることはただの大虐殺だ。
艦全体が音を立てて燃えている。立っているこの甲板が暗い水面に沈むのはそう遠くないだろう。逃げ遅れたやつはいないか。下では艇で待っている張遼がいる。先に大将を逃してから兵卒どもを逃がす役目は自分から負った。それほど、自信があったにほかならない。まあ、逃がすといっても、この闘船の上から落としてやるだけだが。
焼け死ぬよりは水に濡れたほうがましだろう。しかし、大河の水はなかなかに冷たい。
もう、だれもいない。雀(シャン)はひとりごとをつぶやき、もう一度ぐるりと見渡した。
雪のような火の粉がぱらぱらと舞っている。木の燃えるにおいが香ばしい。
もう、だれもいないか。
炎上の轟音にまぎれて、「雀殿」と呼ぶ声がする。文遠だ。早く陸に上がって応戦している部隊と合流したかろうに。なんとも好い漢だ。
「いま行くから」
雀は張遼の声に応えた。聞こえるかはわからないけども。
どう、火と熱が大きく唸り、とぐろを巻いて雀を追い立てた。身をかがめ、それが通り過ぎるのを待つ。風の力を味方に着けているがゆえに、火の手がまわるのが早い。しかし、それだけではない。あの周瑜め、油たっぷりの蒙衝船をいくつもぶつけやがったな。そのときに投げつけてきた矢も油にたっぷり浸していたはずだ。火種をいくつも用意してやがったろう。それも火の手が早い要因の一つのはずだ。燃やし尽くすだけではない、やつは木端微塵にするつもりだったのだ。
雀は煙を吸わぬよう口と鼻とを覆いながら、ここから飛び降りて張遼と陸地へ行こうと考えた。
す。
容赦のない責め苦にも似た炎に不釣り合いの冷気が、胸をつらぬいた。熱さにあわられた身体はびっしょりと汗をかいている。にもかかわらず、異なる不安とおぞましさを抱かせるような冷気により、背筋にいくつもの冷たい筋が引かれた。
うしろだ。
雀は勢いよく振り向いた。振り向きざまに長刀の刃と三日月をかたどった刃が牙を噛み合わせた。
夜を切り取った漆黒の黒髪と黒衣。
どこまでも蒼くふかい瞳。病を思わせ抜けるような白い肌。黒と蒼と白が、炎の返照にあおられてつつも見事に存在を主張している。
だれだ、おまえ。
「蒼い、眼」
美しい顔だった。いや、それは理嬢であり雀の色が含まれていた。だが、理嬢よりも無邪気で、雀の艶というよりもどこかたがが外れた色がある。それは、雀の問いが発せられる前にこう言った。
「はじめまして」
なんだこいつは。同じようなにおいがする。
「だれだ、おまえ」
「だれだ、だってえ?兄貴」
こいつは敵だ。直観とも本能的にも思った。相容れるようなやつではない。
「ふざけるな」
雀(シャン)は刃を立てて突進した。涼しげな謎の男は、それを流水のように長柄で一撃を受け止める。
「おちついて、おちついて、兄貴。兄貴らしくもない」
「おまえはだれだ。答えろ」
「兄貴って言ってるんだから、弟に決まっているでしょう。おにいちゃん?」
「俺に弟なぞ」
男はあきれたというふうに首を小さく傾げ、息をついた。耳障りな刃の鳴き声が、かちかちと絶えずに小刻みに響いている。男と雀は対象だった。雀の紅い瞳。男の蒼い瞳。前へ前へ押し貫こうと踏ん張る雀と、受け止めて平然としている男。
仲間などではない。この男の身体からしとどに溢れ出る殺気は、まごうことなき敵のものだ。この蒼い瞳は、雀と理嬢の紅とまるっきり同じような力を持っていたとしてもだ。
いつのまにこいつは水上から軍艦に登った?孫のやつらにも、俺みたいに身軽なやつがいるのか。
「居るのよお、弟」
長柄の得物を大きくひるがえし、雀を後退させた。
「俺はねえさまと、兄貴から生まれたのだもの」
「なにを」
「つまり、ねえさまの肉片と兄貴の肉片をこねくりまわしたものから、俺は産まれた。兄貴と同じ要領で、めでたくね」
こいつは、同族なのか。納得しなければいけない。
「そんな馬鹿なことがあるか。俺が、俺がいたとき、おまえなんか見たことがないぞっ」
「あのひとは抜け目ないんだよ。せっかくの殺戮人形を、未完成品とあんただけつくって、はい、おしまいなんてすると思う?増殖させて色々ためしたいっていう欲があるじゃない。また作ってみたい、もっといいものを作りたい、あんたをつくってから新たに芽生える理想と好奇心をおざなりにするわけがないでしょうが。更なる欲で生まれたってのが、俺なんだあ」
「おまえは、俺の模造?」
俺が、理の模造であるように。
「ようやくわかってくれた?」
雀の模造は長柄の得物をかまえて、怒涛のように攻撃を仕掛けてきた。余りの速さに雀は紅の瞳を見開き、間一髪のところで反らす。だが、三日月の刃は容赦なく雀めがけ、連なって責め立ててくる。
防ぐので精いっぱいだった。
というのも、この男が俺と理の模造ならば、こいつが負った傷は俺のものになる同調が起きてしまう。いや、俺が負うならまだいい。だけど理が。もし、殺すに至らぬまでも重い傷を理も負い、それがもとで理が死してしまったとしたら。俺たちは決して万能ではないのだ。
殺戮人形の俺たちだが、命の大きさはそれぞれのものだ。傷の重さに雀が耐えられても、理嬢自身が耐えられるという保証はどこにもない。同じものから生まれたとしても、すべてが同等とは限らない。
しかし。攻めず守りに徹するというにも限界がある。
実際の手法としても、雀はどんどん前へと進む戦闘が主なのだ。力任せと言ってもいい。守りの先頭は不得意だった。さらに、この模造品は強い。攻撃に移ろうというところを的確について阻止してくる。
「守るだけじゃあ、死んでしまいますよ」
焦りを見透かし、蒼がそっとささやく。
「だまれ」
刃が婉曲に流れ、模造とのあいだを離した。
と思ったのも束の間、模造は雀の虚をつき、獣のごとく飛びついて雀の腹に足を突っ込んだ。ろくに防ぐこともできず、めり込んだ凄まじい衝撃に、身体が吹っ飛んだ。
荷物が詰め込まれていた多くの木箱の群の中へ背中から直撃してゆき、ようやく止まった。
「やりやがって」
炎の熱とはまた別のなまあたたかいぬめりは。頭からだ。熱の痛みとは別の痛みは口すみ。身体のいたるところにつけられた痛み。炎ほどとは比にならぬが、粘りのあるうっとおしい痛みだ。頭の横を木くずがかすったらしく、細く血がのびたのに気づいた。しまった、理にも傷ができた。望まぬ同調現象に唇を噛みながら唸った。
鈍いねえ。間延びした声で蒼は呼びかけてきた。
なんのために、こいつは害意を抱く。目的はどこにある。なぜだ。蒼い瞳の男は俺から生まれたというが、俺の模造であるこいつはなぜ俺に害意を抱く。
どうして俺たちは、殺し合っているのだ。
「動きが悪いよお。おおかた、ねえさまにも傷がついちゃうっていう迷いごとからでしょ?それはどうかなあ。兄貴がみじめなすがたになっちゃ、元も子もないじゃない」
「口数の減らねえ野郎だな」
溜まった血反吐を唾液とともに掃出し、破砕した木箱のなかから起き出した。白銀にひらめいた白刃が赤のなかで一度、きわめて獰猛にきらめく。
「いい気になるなよ、くそがき」
蒼い瞳の男は、ああ、と感嘆をもらした。それでこそ、自分が求める紅である。紅だ。紅。暗いこの炎の色が、あの美しい男の瞳だ。毒々しい色が、欲情にも似た渇望を煮やすのだ。その甘美を、万人はもっと感じるべきなのだ。
刃を交えながら、初めて紅は蒼に語りかけた。
「貴様は俺のまねっこのくせに、なぜ同じふうにならない」
「いい質問だねえっ」
待っていましたと言わんばかりに、蒼の瞳が澄み渡り、きらきらと光った。謳うよううるわしく、言葉が業火の最中で冴えてひろがってゆく。
「兄貴はねえさまを不完全なお人形さんって考えているようだけど、それはちょっとちがう。はっきり言って、ねえさまも兄貴も、不良品の出来損ないなのさ」
「なに?」
「考えればわかることでしょう。どっちかが負傷したらもうひとりにも同じ傷ができちゃうなんて、とんだ足引っ張りじゃないの。とんと拍子抜けしちゃうよねえ」
「俺が失敗だと言いたいかっ」
「失敗もなにも。殺そうとしたくせに。最後までとどめを刺さない殺戮人形は殺戮人形じゃあ、ない。ああ、刺せなかったんだよね。ますます欠陥じゃないか」
一度目は創り出したあいつ。
二度目はねえさま。理。
「俺は殺戮人形じゃないっ」
雀はふたたび刃を振りかざし、弟という男に切りかかった。高い音がかち合わさったのは、蒼の男が紅の刃を受けたにほかならない。
創造主っていう頭のおかしなのは俺がしっかりとどめをさしておきましたよ。あんなのを仕留められないだなんて、失望だよ。兄貴の尻ぬぐいをしてあげるなんて、どうしてこうもいい弟なのだろうね。
ぐにゃりと音が聞こえそうなほど、唇が吊り上った。鋭く美しい紅を見つめ、互いの武器越しに声を寄せる。
どうしてそんなにむきになっているの?殺戮人形の失敗ってことに?それはむしろ喜ぶべきだよ。だって、兄貴は殺戮人形が大嫌いなのでしょう?
「ちがうの?」
雀は秋霜で頭を叩かれた気分になった。
そうだ。俺は殺戮人形という宿命に逆らった。いや、たしかに昔はこの力を持て余して人を死に追いやった。だけど、だけどだけど。それは俺を襲おうとしたからであって。でも、血に汚れることに快楽を覚えていた。だが、それはもう過去の遺物だ。
では、なぜ俺は「失敗」に憤りを抱くのだ?
どこかで、俺は殺戮のからくり人形ということに誇りを持っていたとでも言うのか?
「そんなはずない」
創ったやつを斬ったのは、理を探すためだ。邪魔されないように、呪縛を断ち切ったにすぎない。そして、きっと、宿命と決別するためのはじまりだった。
「ねえ、兄貴」
呪われた宿命を俺は憎んだんだ。そして、新しい希望を持って、夏侯惇と、人間と生きていくと決めたばかりなんだぞ。
「化け物は化け物なんだよ。いくらねえさまが人間として育っていようが、ねえさまは自分の習性に抗えずに人を殺した。兄貴がどれほど人間を愛そうが、人間を傷つける。台地に生まれた獣が海の魚になれるの。地を這う蛇が、大空に飛翔する鳥になれるの」
「うるさい」
「おおかた、人を斬ってきたいままでのことに正しそうな理由をつけて納得しようとしているんでしょう。それをねえ、ひとりよがりって言うんだよお」
「黙れ、くそがき」
ひどいいいようだね。雛(スウ)って可愛い名前があるんだよ?
兄貴は、すずめさん。なら、兄貴から生まれた俺は、ひな、だ。
するどく光るとぎすまされた紅の瞳の色彩が一層増した。蒼は潤いをたたえて、すごい、吐息を漏らした。先ほどよりも激しい連撃が雛を喰おうと襲いかかる。
話をもどそうねえ。
兄貴。俺はずっと暗い場所で兄貴を見ていたんだよ。ずっとずっと兄貴が俺に気付いてくれるのを待っていたんだよ。兄貴はずっとずっとずっとねえさまばかり見ちゃって……………。いいなあ、いいなあ。うらやましいなあ。ずるいじゃない。ねえ、兄貴、兄貴が俺を見てくれるように、俺は兄貴をずっと見ていたんだよ。
どんなときでも、起きているときも、寝ているときも、ずっと生きてた。兄貴だけを見つめて生きてきた。
だのに、兄貴はそんな一途な俺に気付いてくれなかったね。ひどいこと。
ねえさまばっかり。兄貴の頭のなかには、ねえさまねえさま。そして、殺戮兵器のくせに人間に傾倒して女みたいに恋焦がれてしまって。兄貴、あんたは人間じゃないんだよ。化け物なんだよ。
「待て」
雀の紅い瞳が一段とまばゆく光った。
「おまえ、夏侯惇を知っているのか?」
雛は不気味に喉で嗤った。それはあたかも、いまさら気づいたのかと呆れるかのように。棘が雀のからだうを貫いた。刃を打ち合いながら、この男が夏侯惇になにをしたか大方の察しがついた。だが、それはただの邪推なのかもわからない。
「頭の整理が追いついていないようだね」
「関係ない」
「何度も言うようだけど、俺はずっと兄貴だけを見ていたんだよ?それなのに、兄貴が俺を知ったのはたった今だ。こっちを見てほしいのに、ちがう方向ばかり見ていたら、とても頭にこないか?」
兄貴はずっとねえさまばかり見ていたね。あと、ずっと黒い男を見つめるようになったね。あの黒いのさあ、邪魔だよね。
「夏侯惇になにをした」
雀は叫んだ。溶けた飴のようにまどろっこしい物言い草にはもううんざりだ。
「気づいてるんでしょう?」
雛は口元を結びなおしてから、割ったように歪ませた。
「これ、なあんだあ?」
そして、頭をほんのちょっとかしげながら、優美な白い指先で耳元の長い黒髪をつまみあげた。きらりと光る白が雀を穿つ。
白玉の耳飾り。
それはよく知った品だった。夏侯惇が理に贈った物だ。
どくん。左胸にある心の臓が、ひとつ、とてつもなく重く激しく落ちた。
頭のなかで、雛がおこなったであろう事実が思い浮かんだ。それは、雀が創りだした妄想にすぎなかったかもしれない。赤い部屋。そのなかで、肉と血に埋もれるようにしてたたずむふたつの肉。無残に引き裂かれたそれが、ただただ雀を追い詰めた。
どくん。もう一度、雀の中で落ちる。もっと速く。
息の数が早くなる。
柄を握る手がさらにきつくなった。さらに斬りかかる雛の追撃を容易く受け止め、撥ね退ける。蒼い瞳が見開かれた。
「よくも夏侯惇をっ」
間を置かずして、雀はよろめく雛に襲いかかった。先ほどよりは段を超す斬撃の重さに、押された。だが、雛は昂ぶった。雀が自分だけに強い情を向けていることが、たまらなく嬉しかった。これだ。俺が求めていたものは。
しかし、その余裕も長くはつづかなかった。大きく振った雀の刃が雛の腹から斜めに、肩にかけて一線を刻んだのだ。え?ごぽりと音がしたのかと思うと、青い血が弾き出た。
「兄貴」
ひるむ雛に、雀は容赦しなかった。殺してやる。ひとつの情念に突き動かされるままに、歩を進めた。
しかし。
どくん。
どくん。どくん。どくん。
身体の内側で、なにかが激しくのたうちまわった。
「ばれちゃったかあ。俺の血、青いんだよ。おそろいじゃないのが、好きじゃない」
雛の声が高低を回転させたような抑揚になって聞こえる。
早鐘が落ちるたびに、雀のものではないなにかが暴れまわり、自由を奪う。それは、大きな痛みとなって苦々しく締め付け始めた。
長刀が手から離れ、たまらず腰を折った。まるで、内側で無数の刃が舞っているかのような。
雀はうめいた。その声は人間のものではなかった。違和感で手を手で覆うとしたが、異変が目についていた。両手の手のひらも甲にも、幾筋もの管が浮き上がって脈打っていた。なんだこれは。血の流れに沿って浮き出て、蠢いている。
顔も、同じようになっているのが分かったが、それだけではなかった。
口が、裂けている。口すみから耳にかけて亀裂が走っていた。
そして、歯が牙となってはみ出ていたのだ。
なんだこれは。
炎の香りに交ざり、水の上に浮いた人間の死臭に気づいた。突如として湧き上がる空腹と抗いがたい食欲の欲求にたまらず唾液が溢れ出る。
喰らいたい。
あまりにも原始的で単純な本能の台頭だった。死臭が甘味ににおう、意識を手放しそうになりながらも雀は制すべく、自分の身体を抱いた。喰らいたくてたまらない。自分の内臓が腐った人肉を求めて滑稽に笑っている。
肉、肉、肉。人の肉。活きのいい肉であっても腐った肉でもどちらでもかまわない。とにかく喰いたい。柔らかくても固くてもいいから、肉に歯を立てて、内臓を噛み千切り咀嚼もそこそこに喉を鳴らして腹に収めたい。食べたい。骨についた肉も余すところ無く、しゃぶりたい。
いや、いけない。人の肉を食らうだって?俺は人間だ。人間なんだ。そんなことしてはいけない。
だけども腹が減った。減った。たかが死体の肉じゃないか。ただ腐ってただれ落ちてゆく人間の形をした肉じゃないか。いいではないか。すこしくらい。少しくらい喰ったっていいではないか。食わせろ。そこらじゅうにたくさんあるんだ。美味そうな匂いがここまで漂ってくる。いいじゃないか。
魚に食わせてやるなんて、もったいない。
やめろ、やめろ。人間が人間を食うなぞ。
なんだこれは。
喰らいたい。
内で、本能と理性が対を成してぶつかり合う。困惑が雀の食欲をかろうじて引き留めている。
「兄貴」
顔を上げると、炎に煽られた白い顔にはまった蒼い瞳がこちらを向いていた。すこし驚いていた表情が、ひどくゆっくりと淫靡にうっとりとした色を残す。
半ば飛び出した紅の瞳。口が裂けて覗く牙。走るいくつもの筋。それはまるで。まるで。
人間とは遠くかけ離れた姿だった。そう、それは、まるで。まるで……………。醜い。
「化け物みたいだねえ」
雛はおもちゃを与えられた幼子のようにはしゃいだ。
ばけもの。
ちがう。俺は、人間だ。人間なんだ。化け物なんかじゃない。
「ねえ、俺が憎い?憎いよねえ。兄貴の大切なもの、あんなふうにしちゃったんだもんね」
けたけたと、幼稚で無邪気に笑った。悪があるのか、はたまたなにのか判別がしにくい悪意は子ども特有のものだ。蟻の巣に水を流しいれて遊ぶ子どもの残虐性が、雛にはあった。しかし、それは以前の雀にも当てはまる。
「殺戮人形のくせに、自分についてなにも知らないから教えてあげるよ。なんでそんなばけものみたいになったのか理解できていないようだからね。これだから嫌なんだよ、失敗作の未完成品は」
雛は雀の頭に爪を立てて掴み、仰け反らした。
「自分の意思で本来の俺たちになるのは知っているね?そのとき、兄貴とねえさまは紅い色の瞳になる。俺は蒼だけど。はい、ここで問題です。人間を殺そうとするとき、ひつようになるものは、なあんだっけ?」
爪が頭の皮を抉り、どろりと血が滲み出た。雀は抗わなかった。いや、抗えなかった。内で暴走するものを抑え込むのに必死だった。すこしでも気を緩めれば、おのれを亡くしそうになる。
「答えは憎悪ですねえ。憎しみをいくらかでも持っていないと、ひとは殺せない。憎しみは強さの裏返しだ。だから、兄貴はねえさまを殺せなかった。あの黒い男、ただの人間を退かせることさえもできなかった」
昔の兄貴は強かったよ。なんてったって、人間を心底見下して、憎んでいたもの。やっぱりあの黒い男かな?兄貴をこんなにも惰弱にしたのは。ああ、嫌いだね。俺はあいつが大嫌い。血まみれで蹂躙する強かった兄貴の姿はとっても綺麗だったのに。兄貴を奪ったぜんぶを、呪ってやる。
「俺があんたより強い理由、理解できる?俺を見てくれない兄貴が大嫌い。兄貴に愛されてるねえさまが大嫌い。兄貴を変えて、あまつさえ愛されている黒い男が嫌い、大嫌い。ぜんぶぜんぶぜんぶ大嫌い」
蒼い瞳が水底を漂わせた。雛の憎悪がこれだと、雀は思った。
兄貴は俺を憎んでるね。どう?ひさかたぶりの憎悪の味は。
腹をすかせすぎた狼が、肉を一気に食ったらどうなる?単純に身体を壊すだろ?同じことなんだよ。突然の激しい憎悪に、あんたの身体がついていけなかったんだよ。すごく醜いね、その顔。憎しみがそのまま溢れ出ている。
その姿こそ、俺たち殺戮人形のほんとうの姿だったりしてね。やだねえ。
「……………」
そんなことあってたまるか。
言ったつもりだった。だが、舌を這い、牙の隙間からうごめいたのはこの世のものとは思えぬ、百足が動き回るような、おぞましく、背筋が凍るような呻きでしかなかった。人間の声ではなかった。
「その憎しみは、人のかたちの型をとどめていないのね」
よく回る口を封じてやろうと腕を伸ばしたが、その先端はおぞましくねじれていた。まるで、目の前の憎い相手の首に巻きついて縊り殺してやる意識を形にしたような。思わず引っ込めた。俺の手が、俺の手が、指が、こんなの、俺のじゃない。
「いい加減にしておきなよ。さもないと、ほんとうに人のかたちをとどめられなくなるじゃない?まあ、殺戮人形なんて、ただ人間を殺すだけのものなんだから、どんな姿でも関係ないと思うけどね。まあ、残念ながら、俺もすべてを知っているわけじゃないんだけども……………」
雛は長刀をくるくると数回まわしてから、柄の先で雀の長髪を絡めとった。そして、そのまま引き上げて、引きずるように船の欄干まで歩く。雀はなされるがまま、ただただ従うしかなかった。
乾いた音を立てて木が割れ、熱風を交えて炎が躍るなかを、雛はにこやかに歩いた。まるで、貴婦人が花園を優雅に散策するように。
焼け裂ける音が足の下から聞こえた。組木が燃えて崩れ沈んでいこうとしている。甲板がゆうゆうと傾いていく。
「そろそろ限界かな、この船。もうすこし遊んでいたいけど、俺のご主人も待っているので、帰りますねえ」
眼前に、黒い水面が、赤い火に照らされて揺らめいていた。黒と赤のおどろおどろしい色はつづく陰府の道を思わせる。ここに、道はもう、ない。そして、あちらにも踏める道なぞない。ただただ沈むしかない道なき道だ。
「ああ、熱いねえ。うちの大将もご主人も諸葛亮とかいう胡散臭いやつも、よく考えたもんだよ。水で殺して火で殺して……………まったく、根暗でどうしようもない。人間と言うのは同族争いでここまで残酷かつ陰湿になるものか。やってしまえって命令して俺さえ送り込んでくれれば、一刻で皆殺しにしてやるところなのに」
火の風が肌に迫りつつあるが、雛の調子は変わらなかった。
「まあ、表だって動いても面倒くさいしねえ。いやいや、裏のお仕事はあったのよ、魚とかの油を船の組木にじっくり染み込ませたりとかねえ。ごめんねえ、生臭かったでしょう?おかげで俺も何人かの人間の皮を被ってなくちゃいけなかったから、おあいこだよねえ。……………ねえ。兄貴。前々から言いたかったんだけど、どうしてねえさまのまねをして髪を結んでいるの?はっきり言って、似合わないなあ」
雀の身体を欄干から乗り出すようにして引き上げ、かがめさせ、柄にがんじがらめになっている髪を器用に解いた。それから、雀の身体から支えていた手を離し、長髪をまとめて掴んだ。
「切ってあげるねえ」
三日月の刃が髪に深く入り込み、ゆっくりと断っていく。弦がちぎれるように、離れていく。
やめろ。雀は、そう言ったはずだった。
やめろ。やめろ、やめろ。
「またね」
俺はこっち、あんたはあっち。敵同士なら、かならず、いつかまた逢える日が来る。それは必然であって運命なんだ。楽しみですね。そのときは、兄貴。ちゃんと兄貴に戻っていて。強くなって。
暴れる内側を必死に押さえつけながら、身体を反転させて拳を振り上げた。しかし、簡単に躱される。
「また逢おうねえ」
腹を蹴られ、雀は後ろへ、骨まで凍てつく揚子江へとひとり落ちて行った。
あの黒い人、生きていたら、よろしくと伝えておいて。生きていたらでいいからね。肉になってたら言わなくていいよ。
ねえさまのことは心配しないで。俺がずっといっしょにいてあげるから。代わりに遊んでおいてあげる。ねえさまはどこまで耐えられるかなあ。
再見。再見。さようなら、また逢いましょう。大好きな兄貴。
雛は笑った。無邪気な狂気を孕んで、愛らしい残虐を惜しげもなく振りまいて笑いつづけた。手には、雀から切り取った絹のような長い長い髪の束。河の風と炎の風にあおわれて、一本一本が煌めく残骸へと変わり、舞い散った。
底へ落ちてゆく身体は、冷たい水に抱かれた。歪む水面でも、あの美しい蒼の瞳と笑う顔が鮮烈に浮かんでいる。熱風に当てられた熱い身体が急激に冷えてゆきながらも、黒い炎を、水晶のように純粋な憎悪が掻き立てる。
紅の瞳から、情の涙が溢れる。
浮かんだのは、弟と名乗る美しい男の顔。その顔を牡丹の花を切り刻むようにめちゃくちゃに裂き尽くしてやりたい。
俺は、負けたのだ。
浮かんだのは、自分が愛した唯一無二の理。
俺は、奪われたのだ。
浮かんだのは、蒼の瞳に無残にもなぶり殺しにされた、大好きな夏侯惇の死体。
俺は、守れなかったのだ……………。
傷口から冷水が流れ込み、口から泡を吐き出しながら咆哮した。
なぜ。
なぜだと。愚問だった。愚かだった。やっと自分の居場所ができたというのに、俺は甘えすぎたのだ。もっと気を締めていればよかった。なにが雀だ。なにが俺だ。なにが、なにが、なにが。巡るなかで、理嬢の顔が、夏侯惇の顔が浮かんでは消える。そのすがたは薄れなかった。せめてもの情けで、薄れてくれれば、どんなに救われただろう。
俺はこんなにも無力だ。みじめだった。ちくしょう、ちくしょう。ちくしょう。
薄れゆく意識とともに、しとどに爆ぜる「それ」は濃く強くなっていった。枝分かれして、雀を優しく覆い尽くすかのように。
朝が来た。水のたゆみ音が船の板をたたいて、ぱちりととがって弾いて散る。
夏侯惇、元気にしてるかな。ちゃんと、ご飯を食べて眠れているだろうか。風邪を引いたりなんかしていないだろうか。薬草の使い方は教えてあげたから、薬さえ飲んでくれれば、すぐ治る。張遼の軍に加わってから、夏侯惇を想わない日はなかった。
雀(シャン)が甲板に立っていた。
白とも灰とも言えぬ不明瞭な霧は濃く、じっとりとしたしめりを含んで、辺りをどこまでも覆う。朝というのに夕のように暗く、ぽう、と心もとない淡い人間のつくりだした灯りが遠くにいくつもあった。いや、あれははたして人間の灯火だろうか。もしかしたら、孫のやつらの策略であるかもしれない。
ときどき、小船を互いにぶつけて小競り合いをしたり、矢の嵐を放ちあった。間を空けて船に乗ってにらみ合っているから、遠距離の攻撃といえば弓矢だった。雀はその様子を眺めているだけだった。すごい雨だ。当たったら痛いだろうなあと、思いながら。
時が歩みを止めているような気分にさせる。この戦は持久戦で、耐久戦だ。
兵力数ではこちらが勝っている。戦力では。その大きな幅に、この戦は簡単なものだと勘違いをかましている兵たちは上から下まで少なくない。むしろ多いほうだ。難しい戦だと言うことを解していないのである。いたずらに攻撃を仕掛け笑っているやつは、本気で殺しにかかってくるやつに敗北するしかない。根本からして出来が異なるからだ。いじめと殺しは似ていてちがう。たわむれやいじめは、遊びだ。遊びは、殺しでは到底実現し得ないのだ。
曹操は、だれよりもこの戦における苦難をただひとり押しつぶされそうになりながら耐えているはずなのだ。敵の領域に足を踏み入れており、常時首を絞められているという死の直前を。大将たるもの、真っ先に狙われるのは最上のものであって目標もそれだった。敵が何を望んでいるのかはわかる。曹操の首ひとつだ。
弓矢が当たらねば剣を握りしめ向かってくる。剣がはねのけられ、折れれば、自分の肉体で突撃してくる。そして、懐に隠した針で、混紡で、歯で、爪で殺そうとしてくる。敵は、そうだ。そういうものなのだ。万人が欲しがるのは首だ。曹操の首。
曹操は孤独だった。それは、ひとりぼっちというのではなく、頂上に君臨する主として、大いなる時代の流れを素手で曲げ変えようとする先駆者として、あえて望んだ、あえて気高い孤独だった。甘えを殺した覇者の真情をくみ取るなんてことを、殺戮を司る雀にわかるはずはない。それでも、曹操とはまた味のちがう孤独を持つために、かたちを変えて出会っていたとすれば、まあまあ仲よしにはなれたかもしれない。
「雀(シャン)殿」
「文遠、はやいね。おはよう」
張遼が腹を押さえながら、それでも背筋を伸ばして歩み寄ってきた。甲板の板を足の裏が当たって、人が動き始めたのを知る。ほかに数名、部下が控えている。
「おなか、痛いの?」
「いやはや、おはずかしい。水上と言うのは、陸を恋しくさせるものですな。まったく」
「慣れる以外にはどうしようもないからね。薬で治せるのなら、治してやれるけれどさ」
「雀殿は平気なのですか」
「俺はいろんなところ歩きまわっていたわけだし、ちょっとやそっとのことじゃどうともならないぜ」
「ほう、興味深いですな。機会があれば、ぜひお話ししていただきたい」
「やめておきなよ。気が滅入るし、犬の餌にもならない。酒を楽しむための肴ではないから」
「そうですか。無理強いはいたしませんよ」
「なあ、文遠」
「いかがいたしましたか」
「殿とは会ったかい?」
「軍議がありますゆえ」
早朝、日が昇りはじめたころに、曹操は各軍艦の指揮を任されている武将たちを終結させて軍議を開いていた。もちろん、雀(シャン)は参加を許されていない。張遼のそばに身を置いているものの、人との眼にはただの一兵卒としかされていないからだ。
いつかのようにこっそりと近づいて聞き耳を立てるという手もあるのだが、場を限られている水上では思うようにうまくいかず、仕方がないのでおとなしくしていることにしている。
曹操とは顔を合わせていない。遠巻きにその男を見る機会はあるが、じっくりと眺めることはしない。
「殿のご体調は?」
「不調もなにもおっしゃりません。ただ、健やかとは言い難いと思います」
ああ、やっぱり。雀は自分の中で想定をめぐらした。そろそろ船酔いの負荷が頂点に達してきているのは間違いない。どいつもこいつも蒼い顔をしている。そうでなくとも、屈強だった強者たちの色は青白くなっている。
それが欠点だった。身体がどうしようもなく芳しくないとき、人間の理性は驚くほど鈍る。場に合わせた判断さえおぼつかなくなり、大きな過ちを生む結果ともなりうるのは目に見えていた。それに、長い期間水上にいるからだろうか、水のにおいと言うのか、魚のにおいと言うのか、魚の中身、骨と肉そして脂すべて絞りつくしたような生臭さが鼻を不快にさせるのだ。これは健在であれど胸を悪くする。
そろそろ、陸上に居る隊たちが羨ましくなる頃でもあるだろう。かく言う俺も、そろそろ陸地が恋しい。文遠に頼んだら、陸上に戻ってくれるだろうか。単独行動をできるだけ控えているおのは、自分は張文遠に従っている者であると周囲に印象付けるのに役立つからだ。雀が持たれている不信はまだまだ根深い。
もしかしたら、対岸の敵連中はこの弱った状態を狙っているのかもしれない。
名もない兵が船酔いを煩わしくしているのなら、曹操だって同じだ。さらに、大変な頭痛もちだ。部下の手前、気丈に振る舞っているのならば、重責と心労が重なって、ここにいる誰よりも疲弊していることだろう。
まったく同情せざるえない。
敵の大将が弱っているこの機を見逃すわけがない。少なくとも、俺だったらここで全面突撃を仕掛ける。
奴らがこれを予想に居れているか否かはわからないが、おそらく似たような想定はしているだろう。
冷徹の諸葛亮に軍事の天才周瑜の連携があれば、もしかしたら。俺ならこの機は逃さないがな。相手が弱っているところを狙わない獣がどこにいる。
「大将に元気がないのはちょっとまずいな」
張遼は黙ったままで雀の肩を掴み、引いた。それ以上を言うことはない、と。張遼の眼光がぎらりとまたたく。
雀は軽くほほえみ、首だけを動かして張遼から大河へと視線をすべらす。
早く帰って、夏侯惇に迎えてほしいんだ、俺。
船酔いをふさぐためという策が施された、つながれた軍艦が波に合わせて小さく揺れている。波も幾重に立っている。
夜のこと。突如ひとつ爆ぜたのを皮切りに、乱雑かつ不順序に轟音が鳴って、いくつもの軍艦を大いに揺らした。
上がるは驚愕、動揺。反対側からは喜びの鬨の声が聞こえた。
熱をはらんだ風が巻いて身体を押しこんでゆく。
火の手は必ずしも大きいものではなかった。炎が育ったのは、風だ。さらに炎が東の風を受けて大きく渦を生み出した。
ああ、ちくしょう。これを狙っていやがったのか。この時期なら突きまわすような激しい風など吹くはずがないらしいのだが、それは北方育ちの知識にしか過ぎなかったようだ。この地方の自然を熟知しているやつなんて。浮かぶのは周瑜公瑾ただひとりくらいだ。美周郎なんてきざったらしい名前の、嫌らしい策略家だ。しかし、口すみが上がってしまう。やることがえげつないなあ。戦にしてみれば華のある派手なものだが、やっていることはただの大虐殺だ。
艦全体が音を立てて燃えている。立っているこの甲板が暗い水面に沈むのはそう遠くないだろう。逃げ遅れたやつはいないか。下では艇で待っている張遼がいる。先に大将を逃してから兵卒どもを逃がす役目は自分から負った。それほど、自信があったにほかならない。まあ、逃がすといっても、この闘船の上から落としてやるだけだが。
焼け死ぬよりは水に濡れたほうがましだろう。しかし、大河の水はなかなかに冷たい。
もう、だれもいない。雀(シャン)はひとりごとをつぶやき、もう一度ぐるりと見渡した。
雪のような火の粉がぱらぱらと舞っている。木の燃えるにおいが香ばしい。
もう、だれもいないか。
炎上の轟音にまぎれて、「雀殿」と呼ぶ声がする。文遠だ。早く陸に上がって応戦している部隊と合流したかろうに。なんとも好い漢だ。
「いま行くから」
雀は張遼の声に応えた。聞こえるかはわからないけども。
どう、火と熱が大きく唸り、とぐろを巻いて雀を追い立てた。身をかがめ、それが通り過ぎるのを待つ。風の力を味方に着けているがゆえに、火の手がまわるのが早い。しかし、それだけではない。あの周瑜め、油たっぷりの蒙衝船をいくつもぶつけやがったな。そのときに投げつけてきた矢も油にたっぷり浸していたはずだ。火種をいくつも用意してやがったろう。それも火の手が早い要因の一つのはずだ。燃やし尽くすだけではない、やつは木端微塵にするつもりだったのだ。
雀は煙を吸わぬよう口と鼻とを覆いながら、ここから飛び降りて張遼と陸地へ行こうと考えた。
す。
容赦のない責め苦にも似た炎に不釣り合いの冷気が、胸をつらぬいた。熱さにあわられた身体はびっしょりと汗をかいている。にもかかわらず、異なる不安とおぞましさを抱かせるような冷気により、背筋にいくつもの冷たい筋が引かれた。
うしろだ。
雀は勢いよく振り向いた。振り向きざまに長刀の刃と三日月をかたどった刃が牙を噛み合わせた。
夜を切り取った漆黒の黒髪と黒衣。
どこまでも蒼くふかい瞳。病を思わせ抜けるような白い肌。黒と蒼と白が、炎の返照にあおられてつつも見事に存在を主張している。
だれだ、おまえ。
「蒼い、眼」
美しい顔だった。いや、それは理嬢であり雀の色が含まれていた。だが、理嬢よりも無邪気で、雀の艶というよりもどこかたがが外れた色がある。それは、雀の問いが発せられる前にこう言った。
「はじめまして」
なんだこいつは。同じようなにおいがする。
「だれだ、おまえ」
「だれだ、だってえ?兄貴」
こいつは敵だ。直観とも本能的にも思った。相容れるようなやつではない。
「ふざけるな」
雀(シャン)は刃を立てて突進した。涼しげな謎の男は、それを流水のように長柄で一撃を受け止める。
「おちついて、おちついて、兄貴。兄貴らしくもない」
「おまえはだれだ。答えろ」
「兄貴って言ってるんだから、弟に決まっているでしょう。おにいちゃん?」
「俺に弟なぞ」
男はあきれたというふうに首を小さく傾げ、息をついた。耳障りな刃の鳴き声が、かちかちと絶えずに小刻みに響いている。男と雀は対象だった。雀の紅い瞳。男の蒼い瞳。前へ前へ押し貫こうと踏ん張る雀と、受け止めて平然としている男。
仲間などではない。この男の身体からしとどに溢れ出る殺気は、まごうことなき敵のものだ。この蒼い瞳は、雀と理嬢の紅とまるっきり同じような力を持っていたとしてもだ。
いつのまにこいつは水上から軍艦に登った?孫のやつらにも、俺みたいに身軽なやつがいるのか。
「居るのよお、弟」
長柄の得物を大きくひるがえし、雀を後退させた。
「俺はねえさまと、兄貴から生まれたのだもの」
「なにを」
「つまり、ねえさまの肉片と兄貴の肉片をこねくりまわしたものから、俺は産まれた。兄貴と同じ要領で、めでたくね」
こいつは、同族なのか。納得しなければいけない。
「そんな馬鹿なことがあるか。俺が、俺がいたとき、おまえなんか見たことがないぞっ」
「あのひとは抜け目ないんだよ。せっかくの殺戮人形を、未完成品とあんただけつくって、はい、おしまいなんてすると思う?増殖させて色々ためしたいっていう欲があるじゃない。また作ってみたい、もっといいものを作りたい、あんたをつくってから新たに芽生える理想と好奇心をおざなりにするわけがないでしょうが。更なる欲で生まれたってのが、俺なんだあ」
「おまえは、俺の模造?」
俺が、理の模造であるように。
「ようやくわかってくれた?」
雀の模造は長柄の得物をかまえて、怒涛のように攻撃を仕掛けてきた。余りの速さに雀は紅の瞳を見開き、間一髪のところで反らす。だが、三日月の刃は容赦なく雀めがけ、連なって責め立ててくる。
防ぐので精いっぱいだった。
というのも、この男が俺と理の模造ならば、こいつが負った傷は俺のものになる同調が起きてしまう。いや、俺が負うならまだいい。だけど理が。もし、殺すに至らぬまでも重い傷を理も負い、それがもとで理が死してしまったとしたら。俺たちは決して万能ではないのだ。
殺戮人形の俺たちだが、命の大きさはそれぞれのものだ。傷の重さに雀が耐えられても、理嬢自身が耐えられるという保証はどこにもない。同じものから生まれたとしても、すべてが同等とは限らない。
しかし。攻めず守りに徹するというにも限界がある。
実際の手法としても、雀はどんどん前へと進む戦闘が主なのだ。力任せと言ってもいい。守りの先頭は不得意だった。さらに、この模造品は強い。攻撃に移ろうというところを的確について阻止してくる。
「守るだけじゃあ、死んでしまいますよ」
焦りを見透かし、蒼がそっとささやく。
「だまれ」
刃が婉曲に流れ、模造とのあいだを離した。
と思ったのも束の間、模造は雀の虚をつき、獣のごとく飛びついて雀の腹に足を突っ込んだ。ろくに防ぐこともできず、めり込んだ凄まじい衝撃に、身体が吹っ飛んだ。
荷物が詰め込まれていた多くの木箱の群の中へ背中から直撃してゆき、ようやく止まった。
「やりやがって」
炎の熱とはまた別のなまあたたかいぬめりは。頭からだ。熱の痛みとは別の痛みは口すみ。身体のいたるところにつけられた痛み。炎ほどとは比にならぬが、粘りのあるうっとおしい痛みだ。頭の横を木くずがかすったらしく、細く血がのびたのに気づいた。しまった、理にも傷ができた。望まぬ同調現象に唇を噛みながら唸った。
鈍いねえ。間延びした声で蒼は呼びかけてきた。
なんのために、こいつは害意を抱く。目的はどこにある。なぜだ。蒼い瞳の男は俺から生まれたというが、俺の模造であるこいつはなぜ俺に害意を抱く。
どうして俺たちは、殺し合っているのだ。
「動きが悪いよお。おおかた、ねえさまにも傷がついちゃうっていう迷いごとからでしょ?それはどうかなあ。兄貴がみじめなすがたになっちゃ、元も子もないじゃない」
「口数の減らねえ野郎だな」
溜まった血反吐を唾液とともに掃出し、破砕した木箱のなかから起き出した。白銀にひらめいた白刃が赤のなかで一度、きわめて獰猛にきらめく。
「いい気になるなよ、くそがき」
蒼い瞳の男は、ああ、と感嘆をもらした。それでこそ、自分が求める紅である。紅だ。紅。暗いこの炎の色が、あの美しい男の瞳だ。毒々しい色が、欲情にも似た渇望を煮やすのだ。その甘美を、万人はもっと感じるべきなのだ。
刃を交えながら、初めて紅は蒼に語りかけた。
「貴様は俺のまねっこのくせに、なぜ同じふうにならない」
「いい質問だねえっ」
待っていましたと言わんばかりに、蒼の瞳が澄み渡り、きらきらと光った。謳うよううるわしく、言葉が業火の最中で冴えてひろがってゆく。
「兄貴はねえさまを不完全なお人形さんって考えているようだけど、それはちょっとちがう。はっきり言って、ねえさまも兄貴も、不良品の出来損ないなのさ」
「なに?」
「考えればわかることでしょう。どっちかが負傷したらもうひとりにも同じ傷ができちゃうなんて、とんだ足引っ張りじゃないの。とんと拍子抜けしちゃうよねえ」
「俺が失敗だと言いたいかっ」
「失敗もなにも。殺そうとしたくせに。最後までとどめを刺さない殺戮人形は殺戮人形じゃあ、ない。ああ、刺せなかったんだよね。ますます欠陥じゃないか」
一度目は創り出したあいつ。
二度目はねえさま。理。
「俺は殺戮人形じゃないっ」
雀はふたたび刃を振りかざし、弟という男に切りかかった。高い音がかち合わさったのは、蒼の男が紅の刃を受けたにほかならない。
創造主っていう頭のおかしなのは俺がしっかりとどめをさしておきましたよ。あんなのを仕留められないだなんて、失望だよ。兄貴の尻ぬぐいをしてあげるなんて、どうしてこうもいい弟なのだろうね。
ぐにゃりと音が聞こえそうなほど、唇が吊り上った。鋭く美しい紅を見つめ、互いの武器越しに声を寄せる。
どうしてそんなにむきになっているの?殺戮人形の失敗ってことに?それはむしろ喜ぶべきだよ。だって、兄貴は殺戮人形が大嫌いなのでしょう?
「ちがうの?」
雀は秋霜で頭を叩かれた気分になった。
そうだ。俺は殺戮人形という宿命に逆らった。いや、たしかに昔はこの力を持て余して人を死に追いやった。だけど、だけどだけど。それは俺を襲おうとしたからであって。でも、血に汚れることに快楽を覚えていた。だが、それはもう過去の遺物だ。
では、なぜ俺は「失敗」に憤りを抱くのだ?
どこかで、俺は殺戮のからくり人形ということに誇りを持っていたとでも言うのか?
「そんなはずない」
創ったやつを斬ったのは、理を探すためだ。邪魔されないように、呪縛を断ち切ったにすぎない。そして、きっと、宿命と決別するためのはじまりだった。
「ねえ、兄貴」
呪われた宿命を俺は憎んだんだ。そして、新しい希望を持って、夏侯惇と、人間と生きていくと決めたばかりなんだぞ。
「化け物は化け物なんだよ。いくらねえさまが人間として育っていようが、ねえさまは自分の習性に抗えずに人を殺した。兄貴がどれほど人間を愛そうが、人間を傷つける。台地に生まれた獣が海の魚になれるの。地を這う蛇が、大空に飛翔する鳥になれるの」
「うるさい」
「おおかた、人を斬ってきたいままでのことに正しそうな理由をつけて納得しようとしているんでしょう。それをねえ、ひとりよがりって言うんだよお」
「黙れ、くそがき」
ひどいいいようだね。雛(スウ)って可愛い名前があるんだよ?
兄貴は、すずめさん。なら、兄貴から生まれた俺は、ひな、だ。
するどく光るとぎすまされた紅の瞳の色彩が一層増した。蒼は潤いをたたえて、すごい、吐息を漏らした。先ほどよりも激しい連撃が雛を喰おうと襲いかかる。
話をもどそうねえ。
兄貴。俺はずっと暗い場所で兄貴を見ていたんだよ。ずっとずっと兄貴が俺に気付いてくれるのを待っていたんだよ。兄貴はずっとずっとずっとねえさまばかり見ちゃって……………。いいなあ、いいなあ。うらやましいなあ。ずるいじゃない。ねえ、兄貴、兄貴が俺を見てくれるように、俺は兄貴をずっと見ていたんだよ。
どんなときでも、起きているときも、寝ているときも、ずっと生きてた。兄貴だけを見つめて生きてきた。
だのに、兄貴はそんな一途な俺に気付いてくれなかったね。ひどいこと。
ねえさまばっかり。兄貴の頭のなかには、ねえさまねえさま。そして、殺戮兵器のくせに人間に傾倒して女みたいに恋焦がれてしまって。兄貴、あんたは人間じゃないんだよ。化け物なんだよ。
「待て」
雀の紅い瞳が一段とまばゆく光った。
「おまえ、夏侯惇を知っているのか?」
雛は不気味に喉で嗤った。それはあたかも、いまさら気づいたのかと呆れるかのように。棘が雀のからだうを貫いた。刃を打ち合いながら、この男が夏侯惇になにをしたか大方の察しがついた。だが、それはただの邪推なのかもわからない。
「頭の整理が追いついていないようだね」
「関係ない」
「何度も言うようだけど、俺はずっと兄貴だけを見ていたんだよ?それなのに、兄貴が俺を知ったのはたった今だ。こっちを見てほしいのに、ちがう方向ばかり見ていたら、とても頭にこないか?」
兄貴はずっとねえさまばかり見ていたね。あと、ずっと黒い男を見つめるようになったね。あの黒いのさあ、邪魔だよね。
「夏侯惇になにをした」
雀は叫んだ。溶けた飴のようにまどろっこしい物言い草にはもううんざりだ。
「気づいてるんでしょう?」
雛は口元を結びなおしてから、割ったように歪ませた。
「これ、なあんだあ?」
そして、頭をほんのちょっとかしげながら、優美な白い指先で耳元の長い黒髪をつまみあげた。きらりと光る白が雀を穿つ。
白玉の耳飾り。
それはよく知った品だった。夏侯惇が理に贈った物だ。
どくん。左胸にある心の臓が、ひとつ、とてつもなく重く激しく落ちた。
頭のなかで、雛がおこなったであろう事実が思い浮かんだ。それは、雀が創りだした妄想にすぎなかったかもしれない。赤い部屋。そのなかで、肉と血に埋もれるようにしてたたずむふたつの肉。無残に引き裂かれたそれが、ただただ雀を追い詰めた。
どくん。もう一度、雀の中で落ちる。もっと速く。
息の数が早くなる。
柄を握る手がさらにきつくなった。さらに斬りかかる雛の追撃を容易く受け止め、撥ね退ける。蒼い瞳が見開かれた。
「よくも夏侯惇をっ」
間を置かずして、雀はよろめく雛に襲いかかった。先ほどよりは段を超す斬撃の重さに、押された。だが、雛は昂ぶった。雀が自分だけに強い情を向けていることが、たまらなく嬉しかった。これだ。俺が求めていたものは。
しかし、その余裕も長くはつづかなかった。大きく振った雀の刃が雛の腹から斜めに、肩にかけて一線を刻んだのだ。え?ごぽりと音がしたのかと思うと、青い血が弾き出た。
「兄貴」
ひるむ雛に、雀は容赦しなかった。殺してやる。ひとつの情念に突き動かされるままに、歩を進めた。
しかし。
どくん。
どくん。どくん。どくん。
身体の内側で、なにかが激しくのたうちまわった。
「ばれちゃったかあ。俺の血、青いんだよ。おそろいじゃないのが、好きじゃない」
雛の声が高低を回転させたような抑揚になって聞こえる。
早鐘が落ちるたびに、雀のものではないなにかが暴れまわり、自由を奪う。それは、大きな痛みとなって苦々しく締め付け始めた。
長刀が手から離れ、たまらず腰を折った。まるで、内側で無数の刃が舞っているかのような。
雀はうめいた。その声は人間のものではなかった。違和感で手を手で覆うとしたが、異変が目についていた。両手の手のひらも甲にも、幾筋もの管が浮き上がって脈打っていた。なんだこれは。血の流れに沿って浮き出て、蠢いている。
顔も、同じようになっているのが分かったが、それだけではなかった。
口が、裂けている。口すみから耳にかけて亀裂が走っていた。
そして、歯が牙となってはみ出ていたのだ。
なんだこれは。
炎の香りに交ざり、水の上に浮いた人間の死臭に気づいた。突如として湧き上がる空腹と抗いがたい食欲の欲求にたまらず唾液が溢れ出る。
喰らいたい。
あまりにも原始的で単純な本能の台頭だった。死臭が甘味ににおう、意識を手放しそうになりながらも雀は制すべく、自分の身体を抱いた。喰らいたくてたまらない。自分の内臓が腐った人肉を求めて滑稽に笑っている。
肉、肉、肉。人の肉。活きのいい肉であっても腐った肉でもどちらでもかまわない。とにかく喰いたい。柔らかくても固くてもいいから、肉に歯を立てて、内臓を噛み千切り咀嚼もそこそこに喉を鳴らして腹に収めたい。食べたい。骨についた肉も余すところ無く、しゃぶりたい。
いや、いけない。人の肉を食らうだって?俺は人間だ。人間なんだ。そんなことしてはいけない。
だけども腹が減った。減った。たかが死体の肉じゃないか。ただ腐ってただれ落ちてゆく人間の形をした肉じゃないか。いいではないか。すこしくらい。少しくらい喰ったっていいではないか。食わせろ。そこらじゅうにたくさんあるんだ。美味そうな匂いがここまで漂ってくる。いいじゃないか。
魚に食わせてやるなんて、もったいない。
やめろ、やめろ。人間が人間を食うなぞ。
なんだこれは。
喰らいたい。
内で、本能と理性が対を成してぶつかり合う。困惑が雀の食欲をかろうじて引き留めている。
「兄貴」
顔を上げると、炎に煽られた白い顔にはまった蒼い瞳がこちらを向いていた。すこし驚いていた表情が、ひどくゆっくりと淫靡にうっとりとした色を残す。
半ば飛び出した紅の瞳。口が裂けて覗く牙。走るいくつもの筋。それはまるで。まるで。
人間とは遠くかけ離れた姿だった。そう、それは、まるで。まるで……………。醜い。
「化け物みたいだねえ」
雛はおもちゃを与えられた幼子のようにはしゃいだ。
ばけもの。
ちがう。俺は、人間だ。人間なんだ。化け物なんかじゃない。
「ねえ、俺が憎い?憎いよねえ。兄貴の大切なもの、あんなふうにしちゃったんだもんね」
けたけたと、幼稚で無邪気に笑った。悪があるのか、はたまたなにのか判別がしにくい悪意は子ども特有のものだ。蟻の巣に水を流しいれて遊ぶ子どもの残虐性が、雛にはあった。しかし、それは以前の雀にも当てはまる。
「殺戮人形のくせに、自分についてなにも知らないから教えてあげるよ。なんでそんなばけものみたいになったのか理解できていないようだからね。これだから嫌なんだよ、失敗作の未完成品は」
雛は雀の頭に爪を立てて掴み、仰け反らした。
「自分の意思で本来の俺たちになるのは知っているね?そのとき、兄貴とねえさまは紅い色の瞳になる。俺は蒼だけど。はい、ここで問題です。人間を殺そうとするとき、ひつようになるものは、なあんだっけ?」
爪が頭の皮を抉り、どろりと血が滲み出た。雀は抗わなかった。いや、抗えなかった。内で暴走するものを抑え込むのに必死だった。すこしでも気を緩めれば、おのれを亡くしそうになる。
「答えは憎悪ですねえ。憎しみをいくらかでも持っていないと、ひとは殺せない。憎しみは強さの裏返しだ。だから、兄貴はねえさまを殺せなかった。あの黒い男、ただの人間を退かせることさえもできなかった」
昔の兄貴は強かったよ。なんてったって、人間を心底見下して、憎んでいたもの。やっぱりあの黒い男かな?兄貴をこんなにも惰弱にしたのは。ああ、嫌いだね。俺はあいつが大嫌い。血まみれで蹂躙する強かった兄貴の姿はとっても綺麗だったのに。兄貴を奪ったぜんぶを、呪ってやる。
「俺があんたより強い理由、理解できる?俺を見てくれない兄貴が大嫌い。兄貴に愛されてるねえさまが大嫌い。兄貴を変えて、あまつさえ愛されている黒い男が嫌い、大嫌い。ぜんぶぜんぶぜんぶ大嫌い」
蒼い瞳が水底を漂わせた。雛の憎悪がこれだと、雀は思った。
兄貴は俺を憎んでるね。どう?ひさかたぶりの憎悪の味は。
腹をすかせすぎた狼が、肉を一気に食ったらどうなる?単純に身体を壊すだろ?同じことなんだよ。突然の激しい憎悪に、あんたの身体がついていけなかったんだよ。すごく醜いね、その顔。憎しみがそのまま溢れ出ている。
その姿こそ、俺たち殺戮人形のほんとうの姿だったりしてね。やだねえ。
「……………」
そんなことあってたまるか。
言ったつもりだった。だが、舌を這い、牙の隙間からうごめいたのはこの世のものとは思えぬ、百足が動き回るような、おぞましく、背筋が凍るような呻きでしかなかった。人間の声ではなかった。
「その憎しみは、人のかたちの型をとどめていないのね」
よく回る口を封じてやろうと腕を伸ばしたが、その先端はおぞましくねじれていた。まるで、目の前の憎い相手の首に巻きついて縊り殺してやる意識を形にしたような。思わず引っ込めた。俺の手が、俺の手が、指が、こんなの、俺のじゃない。
「いい加減にしておきなよ。さもないと、ほんとうに人のかたちをとどめられなくなるじゃない?まあ、殺戮人形なんて、ただ人間を殺すだけのものなんだから、どんな姿でも関係ないと思うけどね。まあ、残念ながら、俺もすべてを知っているわけじゃないんだけども……………」
雛は長刀をくるくると数回まわしてから、柄の先で雀の長髪を絡めとった。そして、そのまま引き上げて、引きずるように船の欄干まで歩く。雀はなされるがまま、ただただ従うしかなかった。
乾いた音を立てて木が割れ、熱風を交えて炎が躍るなかを、雛はにこやかに歩いた。まるで、貴婦人が花園を優雅に散策するように。
焼け裂ける音が足の下から聞こえた。組木が燃えて崩れ沈んでいこうとしている。甲板がゆうゆうと傾いていく。
「そろそろ限界かな、この船。もうすこし遊んでいたいけど、俺のご主人も待っているので、帰りますねえ」
眼前に、黒い水面が、赤い火に照らされて揺らめいていた。黒と赤のおどろおどろしい色はつづく陰府の道を思わせる。ここに、道はもう、ない。そして、あちらにも踏める道なぞない。ただただ沈むしかない道なき道だ。
「ああ、熱いねえ。うちの大将もご主人も諸葛亮とかいう胡散臭いやつも、よく考えたもんだよ。水で殺して火で殺して……………まったく、根暗でどうしようもない。人間と言うのは同族争いでここまで残酷かつ陰湿になるものか。やってしまえって命令して俺さえ送り込んでくれれば、一刻で皆殺しにしてやるところなのに」
火の風が肌に迫りつつあるが、雛の調子は変わらなかった。
「まあ、表だって動いても面倒くさいしねえ。いやいや、裏のお仕事はあったのよ、魚とかの油を船の組木にじっくり染み込ませたりとかねえ。ごめんねえ、生臭かったでしょう?おかげで俺も何人かの人間の皮を被ってなくちゃいけなかったから、おあいこだよねえ。……………ねえ。兄貴。前々から言いたかったんだけど、どうしてねえさまのまねをして髪を結んでいるの?はっきり言って、似合わないなあ」
雀の身体を欄干から乗り出すようにして引き上げ、かがめさせ、柄にがんじがらめになっている髪を器用に解いた。それから、雀の身体から支えていた手を離し、長髪をまとめて掴んだ。
「切ってあげるねえ」
三日月の刃が髪に深く入り込み、ゆっくりと断っていく。弦がちぎれるように、離れていく。
やめろ。雀は、そう言ったはずだった。
やめろ。やめろ、やめろ。
「またね」
俺はこっち、あんたはあっち。敵同士なら、かならず、いつかまた逢える日が来る。それは必然であって運命なんだ。楽しみですね。そのときは、兄貴。ちゃんと兄貴に戻っていて。強くなって。
暴れる内側を必死に押さえつけながら、身体を反転させて拳を振り上げた。しかし、簡単に躱される。
「また逢おうねえ」
腹を蹴られ、雀は後ろへ、骨まで凍てつく揚子江へとひとり落ちて行った。
あの黒い人、生きていたら、よろしくと伝えておいて。生きていたらでいいからね。肉になってたら言わなくていいよ。
ねえさまのことは心配しないで。俺がずっといっしょにいてあげるから。代わりに遊んでおいてあげる。ねえさまはどこまで耐えられるかなあ。
再見。再見。さようなら、また逢いましょう。大好きな兄貴。
雛は笑った。無邪気な狂気を孕んで、愛らしい残虐を惜しげもなく振りまいて笑いつづけた。手には、雀から切り取った絹のような長い長い髪の束。河の風と炎の風にあおわれて、一本一本が煌めく残骸へと変わり、舞い散った。
底へ落ちてゆく身体は、冷たい水に抱かれた。歪む水面でも、あの美しい蒼の瞳と笑う顔が鮮烈に浮かんでいる。熱風に当てられた熱い身体が急激に冷えてゆきながらも、黒い炎を、水晶のように純粋な憎悪が掻き立てる。
紅の瞳から、情の涙が溢れる。
浮かんだのは、弟と名乗る美しい男の顔。その顔を牡丹の花を切り刻むようにめちゃくちゃに裂き尽くしてやりたい。
俺は、負けたのだ。
浮かんだのは、自分が愛した唯一無二の理。
俺は、奪われたのだ。
浮かんだのは、蒼の瞳に無残にもなぶり殺しにされた、大好きな夏侯惇の死体。
俺は、守れなかったのだ……………。
傷口から冷水が流れ込み、口から泡を吐き出しながら咆哮した。
なぜ。
なぜだと。愚問だった。愚かだった。やっと自分の居場所ができたというのに、俺は甘えすぎたのだ。もっと気を締めていればよかった。なにが雀だ。なにが俺だ。なにが、なにが、なにが。巡るなかで、理嬢の顔が、夏侯惇の顔が浮かんでは消える。そのすがたは薄れなかった。せめてもの情けで、薄れてくれれば、どんなに救われただろう。
俺はこんなにも無力だ。みじめだった。ちくしょう、ちくしょう。ちくしょう。
薄れゆく意識とともに、しとどに爆ぜる「それ」は濃く強くなっていった。枝分かれして、雀を優しく覆い尽くすかのように。