第九章 邂逅 深淵の蒼



とてつもなく暗く寒い底は、深い蒼色がどこまでもどこまでも延々と広がっているばかりであった。

それは、じっと紅を見つめ、機会をうかがっている。夜の影として身を潜め、どのような音さえも、ひとつとしてたてなかった。声も、衣の擦れる音も、息のささやきも、つぶやきも、身じろぐほんの小さな音さえをも。

できるかぎり身をちぢめ、蒼は上を、すべてを照らすようにかぎりなく美しすぎる紅を見つめていた。ひとびとが太陽を神と敬い崇め奉るのならば、まさに紅は空にある太陽だった。

蒼は紅を求めていた。

紅は、太陽はおろか、月の光さえも消し、大地に住まうあらゆる獣たちと永遠に住まう魚たちもその美しさにだらしなく大口をあけて動かなくなり、泳ぎを忘れる。花はあまりの美しさに色を失い、しぼんで枯れ、翡翠も真珠も、悠久の煌めきを放つ宝石だって羞恥のあまり砕け散る。

紅は、うるわしかった。

蒼は、ずっと紅を見てきた。しかし、紅は蒼の存在さえもその場に息をし、懸命に生きているということさえも認めていなかった。いや、認めるどころか知りもしなかった。こんなにも紅を求めているというのに、自分を知らないのだ。

自分の存在を認められたかった。

蒼には暗く陰鬱な気持ちが、深く細かい場所からゆっくりと降り積もっていった。色が濁るそれは、ぐちゃぐちゃにひねられこねた感情になった。紅に対し、愛とも言える感情もあった。あらたに生まれた感情はもとの愛というものに、似ている。

蒼のなかには、紅がいた。むかしからのと、あたらしいのと、どちらも紅が蒼の内側を闊歩した。どちらの紅も蒼を知らず、まばゆくかがやき、すべてを照らしている。あたらしい気持ちは、紅のその美しさを歪めてしまいたいと、導くようになった。

紅はどうしたら、なにをしたら、蒼である自分を見てくれるのだろうか。

紅は蒼である自分をそっちのけにして、なにを見ているのだろうか。紅は愛らしいさらなる紅を愛していた。自分が紅を愛するように、まさに盲目に慈しんでいたのである。

蒼は思考を存分にめぐらし、おのれが肉体も精神も満ちゆくまでに、くる日もくる日も紅のみを想起することばかりを、おろかにもくりかえし始めた。

蒼は紅を模倣し始めた。いや、紅のようになっていったのだ。もともとを逆流してさかのぼれば、蒼は紅から生まれたのだった。それは、不定形のかたちも輪郭もさだまらぬ肉塊からぼこりと、とれてしまったかけらが動いたように、蒼はこの世界に産声を上げて生きることを許されたのである。蒼の大いなる罪を寛大にも許し、誕生を望んだ。

蒼は紅のようになろうと懸命に努めた。しかし、それでも遠くおよばないものがあった。紅が、もうひとつの紅を愛したように、愛することができなかったのである。蒼にしてみれば、それは必然だった。紅は蒼のいとおしい紅をひとりじめにし、紅だけを自分のものとしてきたのだ。盲目にはなれぬ負い目は、一方的な敵意を向けた。

蒼のなかで、紅はまごうことなく、紅だけのものであった。

蒼は動き出した。

もう動くべきだ。

待っていた。もう待つのは終わりだ。自分の存在を知らずにいる紅に気づいてもらえることどころか主張さえもできぬ悠久はついに幕をおろし、打ち破れるのだ。水面を突いて、手をさしのべてくれぬのならば、反対にこちらから這い出して手をつかめばいい。水面の上、さらに上に壁があるのならば、剥落など待たずにぶち壊せばいいのだ。

蒼は紅を求めていた。とてつもなく求めていた。

生まれ落ちる前の、赤子の宮でからだを丸めていたときから、紅だけをずっと、ずっと。

深淵から目だけをぎらぎらに光らせ、口を不気味に引きながら紅をずっと見ていた。

孤高の月のように冷たく、美しい紅。殺戮の本能にじつに忠実で、まるで楽しく鞠をついてまわる無邪気な紅、憎たらしい紅を恋う紅。そんな紅を蒼は慕っている。しかし、ゆっくりと、だが順調に愛というものはすがたを変え始めた。

紅は、美しいばかりだ。すなわち、蒼は 美しい紅しか知らないのだ。蒼は思った。自分に気づいてくれないから、紅は、美しい顔しか見せないのだ。

紅に自分を知らしめてやる。そして、紅から可愛い紅を奪い取ってしまおう。強引でいい。むしろ、強引がいい。紅はどんな顔をして俺をそのきらめく瞳で見惚れてくれるのだろう?そこで、俺は初めて生きている意を持つ、初めて不安定な存在を形あるものにできる。初めて俺は息をするのだ。

待っていろ。

俺はいまから行くよ。

蒼は足を伸ばした。暗い暗い底のなかで。

ぼこり、水面にあぶくがひとつたち、爆ぜた。





江陵のとある一室から、音が響いてくる。

流れるようなさわやかさをふくむ見事な奏でに、夏侯惇は首を傾げた。

女のだれかが弾いているのだろうか。下働きの女たちはいるが、だれが箏など弾いているのか。こんな田舎に、たしなみをもっている人材がいたのか。いや、女である理由はこれほどもなくてよいのだが。

夏侯惇は設けられた執務室で曹仁と地図に向き合っていた。頭を上げた夏侯惇につられて、曹仁も頭を上げる。

「箏、だな」

「めずらしい。我が軍にそのようなものがいたか。夏侯惇のほかにも、優雅な趣味をもっているとは」

「そうかな。何人も人間がいれば、ひとりくらいそんなやつがいてもめずらしくはないさ」

「理嬢ではないのか?」

「あれの箏曲を一度聞いてみろ。とんでもない下手くそだ。あれでは地下で眠る死者でさえ飛び起きる」

「辛辣な評価だが、過ぎてやいないか」

「何度手取り教えても上達せん。無理もない」

ぶっきらぼうに言う夏侯惇をだれかが目にしたら、とても厳しい頑固者に見えるかも知れない。だが、曹仁はその裏にある慈愛に気づいていた。

「上手になったらなったらで、さびしいものだぞ?もう手をつけなくて済むってのは」

「まるで経験があるような口振りだな」

「そりゃそうだ。俺には弟もいるし、子どもらもいる。弟に武技を仕込んだら、ぽんと俺を追い越して今や虎豹騎の隊長だ。教えることがないっていうさびしさは慣れない。子らにもいつかその日が来ると思うとな」

「歳をくったな、仁」

「そちらもくっているよ、十分」

うなだれる曹仁に、夏侯惇は時の早さと移り変わりの不思議さを感じていた。

私と理嬢に出会ってからすでに長い年数が経った。愛しさを感じたのはついこの前だ。雀(シャン)に出会ってからはまだ一年も経っていない。理嬢と雀ではあきらかに、ともに過ごした期間は短い。だが、ふたりともおなじくらいいっしょに居るような気がする。

短いあいだに起こったことが多すぎて、詰め込まれてしまったからか。

さまざまなことが起こりすぎた。どこから始まっていたか。それをつきとめると、はかり知れないことになる。

夏侯惇のなかにひとつ大きく残ったものと言えば、充実だった。迷いで塗り固められた土が剥落したかのように、汚泥のなかからほんの小さな翡翠をやっと見つけだし、抱いたように。こころから「よかった」と思える充実だった。

「夏侯惇、いいことでもあったか」

「は?」

「なんというか、こう。晴れ晴れというか、いつもはおなじような顔ばかりしているのに、表情の色がでてきたみたいだ」

「そうか?」

気のせいではないだろうなと夏侯惇は思った。

「年齢を重ねてやっとこさ、まるくなったということかな」

「まあ、よいことはあった。好きに想像をしておくれ」

竹簡を丸め、新しい竹簡をひらいた。

箏曲の音色はまだ奏でられていた。

玲瓏としていた冬の沈黙に似た曲を夏侯惇が耳にするのは、これが初めてだった。絶え間なく流れつづけて、ふたりのもとにとどく。

「仁、すこしばかり理の様子を見てきてもよいだろうか」

「かまわぬが、もしや噂はほんとうだったか」

「うわさ?」

「いや、ちょっと口にしにくいのだが、その、な」

「言ってくれ。ないことをささやかれるのは気分がよくない。私か?理か?」

「理嬢のほうだよ。従兄上の屋敷であれが、殺人鬼が出たろう?そのときから頭がおかしくなったというので、惇のところに預けられたという内容だ。それに、この前の雀(シャン)という男。みんな口にはしないが、不気味に思っている」

夏侯惇はわずかに眉をひそめた。

避けられぬ話題ではある。わかっている。雀を、理を受けいれたということは、そういうことだ。

「どうなんだ」

「第一に、理の心が弱っているのは事実だ。おまえなら、あれがどれほど脆く傷つきやすいのか解せよう。それに、雀は、危険な存在なんかではない。決して、だ。私たちに味方し、助力してくれる仲間だ」

「ならば、なぜ、おまえはそいつに打たれた?斬られた?われわれは、純も淵も、きょうだいたちは全員、やつを快くなど思ってなんかいないぞ。長じて、やつは理嬢の弟というじゃないか。どうなっているんだ」

「私は気にしてなどいない。私がもういいと言うのなら、もういいんだ。だから、仲良くとは言わん。ただ、無下にはしないでやってくれ」

「……………」

曹仁は初めて夏侯惇がやわらかく、晴れやかな風をまとっていると思った。あの、刃のごとくの切れ味がある瞳を鋭く光らせ、なにものも寄せ付けぬような覇気を秘めたあの夏侯惇が。

おっとりとした雰囲気をまとっている。なにかおまえを変えたのだ。理嬢か。あいつか。

「夏侯惇、無理な頼みだよ」

「いたしかたないな」

私も、ついそのまえまで、おまえとおなじ気持ちだった。

帳が揺れ、ふわりと大きくひるがえる。包まれるようにして姿を、夏侯惇は部屋から出て行った。

ひとは変わるものなのか。書きかけの竹簡が、目の前にただたたずみ、音色が曹仁とともに居座っている。

この曲。

また、曹仁は思った。

自分は箏をたしなんだことも触れたこともない。だが、曹操に付いていろんな曲を聴き楽しむ機会はあったし、夏侯惇は箏を好く奏でていた。詩で碁でもなんでも愛する雅で心のある曹操が隻眼の従弟の箏曲をほめるのだから、腕前は折り紙つきだ。

曹仁の耳は肥えていた。

風流の香りなどは知らないけれど、自然に浮かんだこの奏曲について述べたい。なかなかの才のある人間が弾いているのだろうと察しがつく。さして、相槌をしながら聴き入ってしまいそうになる。あくまで「聴き入ってしまいそうになる」なのだ。最初のうちならば、とても美しい音色を気持ちよくなんの弊害もなしに感じていられるのだが、突如として怖気に襲われる。急に、だ。夏に野良仕事をしていたら雷と雨が降るよりも激しく、悪寒が落ちてくる。じっと身を堅くせざるを負えない。というのも、黒のささいな暗闇から恨みがましく呪怨を祈られている気にもなるのだ。研いだ牙を片手に、身を潜めた得体のわからないぐちゃぐちゃしたものが、狙っている。首に斧をあてがわれ、命を失う瞬間の罪人。音のひとつひとつに、岩よりも重い威圧と殺意が込められているのを、この歴然の強者が見逃すはずなどない。

身体じゅうから冷たく熱い汗が噴き出した。

ふと。

断たれるように弦のふるえが途切れた。




薄暗い部屋だ。日あたりが悪いわけではないが、太陽の傾きにより、窓からはわずかな光しか射していない。

赤。

赤の赤。

暗い赤。明るい赤。濃い赤。薄い赤が床に広がり、梁や壁に天井にまで散っていた。帳の布の先には雫がしたたっている。

赤で黒い染まった部屋に、ふたつの背があった。

ひとりのむすめの横顔が、にこにこして笑っている。箏曲にはしゃいでいたらしいが、弦が切れてしまったようで、困りながらあたらしい弦を張る男につづきをせがんでいた。黒い髪と黒い衣。そこにいる男の肌は透けてしまいそうに白く優美だった。

「はやくつづきを弾いてください」

「待って、待ってよお」

「かこうとんさま、はやくはやく」

そこで理嬢が見つめるかこうとんさまは、夏侯惇ではなかった。

夏侯惇は立ちつくしていた。

赤い部屋の正体は分かっている。世話役として理嬢を任せた女の破片だった。赤の正体は、女の肉片たちだ。これは、では、またぶりかえしではないか。

だが。

だが。

だが、かこうとんさまの肘に触れた理嬢の指先は白くきれいなままだった。袖がすべり落ちてあらわになった腕にかすかに残っていた赤紅の傷痕さえもほとんど消え失せてしまっている。

「理嬢」

ここにいてはいけない。正体の知らぬ全身の毛が逆立つような殺気が、たしかに私を貫いた。それは、理嬢の目の前で箏を扱うものからであり、かこうとんさまと呼ばれている男からだった。

かこうとんさまは、首だけを動かしこちらに目を向けている。

蒼色の瞳が鈍く、ぼんやりと光っていた。肩越しに、目が合った。

私は、怖気をふるいながら理嬢の背を掴んで引きよせた。そして抱きかかえて走ろうとした。しかし、私の腕は治っていなかったため、しっかりと娘をつなぎとめておくことができなかったのだ。からだじゅうの無数の傷も、捻った痛みに変化して自由を奪った。足も肉の泥に足が滑って倒れ込む。離れた理嬢は呆然とした表情をしてから、にこりと笑った。

深淵からずっとこちらをうかがって、監視されている気分に襲われながら、私は理嬢に手を伸ばした。まるで、救いを求めるかよわいもののように、必死で、のばしたはずだった。私の腕。ぼろぼろになっていた。塞がっていたと思っていた傷から血がしとどに滲んでいる。雀(シャン)から受けた傷は完治していなかったんだ。わかりきっていたことじゃないか。わずかにしかゆかぬ、役立たずの私の腕。

だけれど、いまの私が手をのばす以外に、なにができるのだ?

動け、私の腕。動いてくれ、とどいてくれ。

かこうとんさま、いや、蒼い瞳の男が重い腰を上げた。弦が切れた箏を蹴り捨ててから、こちらにゆったり向き直る。

三日月を象った刃がついた長柄の得物を、湿りを帯びた煙のようにゆっくり振るい、壊された蜘蛛の巣がなびくように揺れながら歩きはじめた。

近づいてくる。

夏侯惇は倒れたままで、立てなかった。腰が抜けたと言ってもいい。

足もとから暗い感情を含み這い寄ってくる蒼が、みじめにもがく私の腕をめがけて高い位置から足裏を叩き落とした。ぐしゃりぐしゃり、歪んだ響きに血が凍りつく。腕の中身が粉々の屑になるようだ。鈍い重い音を立てながら、私の腕のなかが砕けていく。ふたたび、みたび、よんたび、ごたび。肉が破れ私の白い骨が顔をのぞかせ赤い液が溢れる。

悲鳴さえ、うめきさえも現れなかった。

はやく、はやく、はやく。逃げなくては。

金切りの笑い声が、背中の上、遠いところから高らかに鳴り渡っている。

夜を手繰り寄せた黒。蒼い瞳が、不気味に嘲る。蒼には狂気が潜んでいた。あれはまさしく、狂人であった。深い底のふちから、いやらしくこちらをうかがう悪魔。理由のない純粋たる狂い。

こいつは、狂っている。絶対に相容れない、そんな確信があった。

私は恐れおののいた。言いしれ得ぬ冷徹な恐怖心が身を包み込む。初めての恐怖だ。十四歳で師を愚弄した輩を斬殺したときの、理由はどうであれ生命を奪ったのちに訪れる、崖に追い詰められているかのような戦慄。流れ矢にこの左眼を射抜かれたときにかすめた死の戦慄。理嬢に首を絞められた哀切がよみがえった。

震えが止まらなくなった。いままで呑み込まれたなによりも、これははるかに勝っている。それでも。

「理嬢」

私のからだから流れた赤が、だれかの赤と混ざり合う。

血肉の香りだけがただよう。生臭く、なまあたたかい、におい。そのなかで、おまえは、きよらかすぎた。

「理嬢」

娘は座り込んだままだった。

はやくどこかへ行け。

ででいけ、ここから、出ていけ。

にげてくれ。

殺される。おまえも。

おまえが殺される。ほほえむな。幸せそうに、見ないでくれ。

なんで、こんなことになるのだろう。せっかく、おまえと理解しあえたのに。護ると誓ったのに。おまえとの平穏な日々を願い、それが叶いそうなのに。どうしてどうして。なんで、私たちなんだ。

どうして。

思った矢先に、このざまだ。思い描くしあわせなど、私には似合わないのかもしれない。だが、望んだおだやかな日々とこれからをも摘みとろうというのか。一抹の淡いゆめが脆くも崩れ去ろうとしている。いや、脆いからこそ、それをゆめというのだろうが。

壊れていないほうの健常な手に気づいて、理嬢にのばした。衣を血肉に汚しながら膝を使い肘を使い、つまさきで床を蹴るように赤をかき分け押し進む。蒼い瞳の男はそれを邪魔しなかった。瞳に映るはただの茶番。汚れた床をみじめに這う黒曜の瞳がどのような行動をするのか、自分の予想どおりか、はたまた意に返さぬ予想外の動きをしてくれるのか、口角をにたにた歪めながら見物していた。

夏侯惇は理嬢と距離を縮めていく。もうすこし、あと、たったのほんのすこしだ。近いはずが、こんなにも遠く感じる。あいだが長い。理嬢は、日なたにいるような表情をしていた。笑うなよ、笑わないでくれよ。そのようにほほえまないでくれ。残酷すぎるではないか。

這いつくばって、からだを無理矢理に進める私を前に、理はきょとんとして、これまた幼子のように膝をすべらせて私に近づいてきた。腕をのばし見下ろす娘。

「理」

理嬢に這い登るように腰から上を起こし、もたれかかりながら片腕でひとしきり抱きしめた。理だ。これは、理だ。さらりとした長い髪、しゃらんとかすかに揺れる白玉の耳飾りが私の耳に触れ、刹那、私を和ませる。

「夏侯惇さま」

わたしの娘、理。

「理」

「かこうとんさま?」

声が背の向こうを指していた。

息が上手く吸えない。

そいつは私ではない。私はここにいる。すぐ近くにいるだろう。理嬢の茶色の瞳には蒼が映っていた。後ろにいる蒼がにたりといやらしく唇をゆがませる。右腕から血が抜けてゆくにつれて、急激に身体が冷えていくのがわかる。

私の首もとに、男が手にした刃物が、月の冷気がひたりと触れる。ひゅうと喉の奥が狭くなった。息が浅い。すこしでも身じろげばきっと刃が肉をえぐるであろう。

震える私に、理はやさしく抱きかえしてくる。おろかで、あわれな私は、救いをこのかよわい娘にゆだねたのだ。

雀、すまない。私は。おまえとの約束を守れそうにない。

理。首への鋭い振動。影のように伸びる赤のあいだから垣間見た娘の茶色い瞳、かるく弧をひいた唇。……………やってきた闇が夏侯惇のすべてを侵略し尽くし奪っていった。

なぜだ、なぜだと、どうしてこんなことになるのだという問いだけがこだましている。

なにも、なにも、聞こえない。


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