第八章 濫觴 むかしばなし



首が、かくんと一瞬垂れた。

視界が黒かったのは瞼を閉じていたため。静かに、目を開いた。

薄い赤の灯は、声もなく部屋の帳や机などの調度品を照らしていた。先ほどより奏でられていたはずの箏曲が止んでいる。おそらく、音の主は夏侯惇、あの従弟は、烟花のようなその調べに、どんな想いと願いをこめていたのだろう。

曹操は重い身体を伸ばして、卓の上に散らばる広げたままの竹簡を見やる。報告が綴られたそれは、劉備軍が孫権を頼っているとの旨が示されていた。南の地において、突出した力を保有しているのは、孫家以外にありはしないのだから、予想はしていた。そして、長である孫権も受け入れるであろう。南下する大敵を打ち砕きたいとするなら、少しでも多くの勢力を取り入れ連合を組むしかないのだ。

孫家に仕える周瑜は孫権の兄孫策と義兄弟の契りを結んだ関係にあり、軍事の翼として名高い策士であった。また美貌の青年としても知られ、曹操の耳にも美周郎のふたつ名が伝わっている。

曹操に引っかかるものがあった。劉備が長坂橋にて命からがらながらも、まんまと逃げおおせた。自分を慕う民たちを置き去りにしたのは賢い判断だったが、そのように冷徹な行為を実行できるほど、あの男はできていない。ならば。考えられるのは、やつのそばに冷厳の賢才が居るということだ。劉備の傍らに座す策士。その冷気たるや、劉備の勝利のためとあらば、非道と罵倒されるようなことも、きっと迷いも躊躇いもなく号令するほどのもの。

そんな男と周郎が組んだとしたら、どのような戦になるだろう。

圧倒的な兵力差と言えど、安心などできはしないのだ。戦力ではどうともならないが、戦局は工夫次第でどうとも転がすことができる。戦はそんなものだ。小さなほころびやつながりが、大きな矛となって敵を突き殺すことなど容易い。

頭のなか、奥底で、じんとなにかが静かに笑っている。笑い声はやがて大きく鳴り始め、曹操の頭の半分から徐々に半分へ共鳴し、全体を包む。

船上戦の北出身の我々は水上での戦に慣れていない。

いくら玄武湖を造り、軍事演習を行えども、南のものどもの水上戦の年季は覆せるものではない。付け焼き刃に水であり、にわか仕込みであることを自覚しつつ、この英邁な丞相は決行した。まったくの無垢では、役には立たない。にわかの備えであったとしても、経験の有る無しでは大きく異なる。戦はそういうものだ。

賭けだな。曹操は思う。

最後まで、勝利を収めるまで、自分はこの不安を拭えないのだ。准河で南と北に分断される、この広大な土地は、南船北馬とよく言われる。南では馬を捨て船を用い、北では船を捨て馬を扱う。

南での戦は初めてだ。地形も環境もすべて、こちらの認識は通用しない。狼の群に羊を放つのに似ていた。

見えない糸をたぐりよせ、賭けと言い、ほんのわずかな可能性を探すおのれを想像すると自嘲に唇が歪んだ。

「父上」

「まだ起きていたか、彰」

曹彰。字は子文。曹操と卞美安の間に生まれた二番目の男児で、曹丕の弟、すべての息子らのなかでは逝去したのも含め四番目の息子である。黒髪にところどころ白い房がまじっているのが、この息子の特徴だった。ひとつに束ねると虎の尾のようだった。

「灯りがありましたので、よもやと」

屈託のない笑顔を輝かんばかりに浮かべながら、曹彰は薄い帳をくぐり、灯の近くまで来た。互いの顔がよく見える。

「駆けたときの興奮が冷めず、眠れなくて。父上は?」

「おまえと同じようなものよ」

「まだまだ若々しいですね。さすがは漢帝国の丞相だ」

「世辞はいらぬぞ、息子」

若いのはおまえのほうだ。曹操がいまのいままで起きていたのは、いずれの大戦への不安のためだ。つい眠りに誘われそうになっても、一抹の不安は許してくれない。

曹彰は、息子たちのなかでも、とりわけ武勇に秀逸だった。狩りが大好きで、一度出かければ大物を必ず射止める腕を持つ。天衣無縫の気さくな人柄から、周囲の大勢に好かれている。あの剛勇な武将夏侯淵の子で、父の強さを脈々と引き継ぐ夏侯称と並べられるほど、期待が厚い。

しかし、そのぶん、知には疎い。また虎のように伏せ待つことを知らぬ。長兄である曹丕とは、性格から得手とするところまで、まったくの正反対だ。

「ここ、江陵にはどれくらい滞在するおつもりで?」

「五日は休む。休息だ。そのあいだに、孫家のやつらとぶつかるための準備をせねばならん」

「はい。俺の軍団も体勢を立て直しておきます」

「任せよう。おまえには、心配がない」

「ありがとうございます、父上」

あどけなく照れて笑う様相は、実弟曹植とよく似通う。曹操の胸中に、後継という次代を託すさらなる思いごとが浮かんだ。

曹操のなかで、これという継ぐものは、未だ固まっていなかった。外への事象で悩まなければ、身内について頭を回転させねばならない。だれかに。気ごころの知れただれかに話して、同情でもよいから、ほんのすこしだけ自分の持っている憂いを共有してほしいものだ。

郭嘉がこの場に居てくれれば、よかった。

郭嘉は勝手気ままな自由人で、酒飲みの軍師だったが、緻密な迷路を溢れる泉で満たすほどの頭脳の所有者だった。その能力には目を見張るものがあり、繰り出す分析力の正確さにおいては他の追随を許さないほどだった。そして、とても気が合った。ただひとつ残念だったのは、身体は病に弱かったこと。官渡での戦いで風土病にかかりあっけなく死んでしまった。

才に溢れる人材を喪ったことは、大きな痛手だ。一度に十人を手打ちにできるものがいるとして、その能力は貴重だが、人間には衰えというあらがいがたい流れがあるものね、頭の中に詰まる知略は死ぬまで育つ。

だが、過ぎてしまったことはいくら蒸し返そうと無駄だ。あるものは有って、ないものは無いのである。

「母上はいかがするのですか?」

曹彰が、遠慮がちに聞いてきた。

「美安がどうした?」

「いえ」

いつもはっきりと明るく物事を口にする息子が珍しく口ごもる姿に、母は実母卞美安ではなく、側室の母親であると知る。

「理嬢の母上です」

「あれがどうした」

「このまま連れられるのですか?」

「ここ、江陵に置いておく」

「業に、お戻しにならないのですか?」

「女ひとりのために、わざわざ人をさくつもりはない。戦の最中なのだ。南のものどもが息づいているあいだ、ずっとだ。眠っていようが、決着がつくまで、ずっとつづいている」

ならば、人間は死ぬまで戦っているのだろうか。

曹操は身体を、立ち上がらせた。

「お言葉ですが、父上。女人を戦場にさらすだなんて」

「余裕が我らにあると勘違いするな」

静かながらも絶大たる威圧を伴う父上の声に、曹彰は押し黙った。

「もう一度言うぞ、多少の人も戦以外で出すつもりはない」

どんなに有利な立場であろうと、大軍を掌握しようと、楽観的な目線は許されない。曹操は、ひとが羨むすべてのものの上に座していた。それが、華やかできらびやかに映るとしたら、間違いである。下のものたちを養う、力のないものたちを庇護する、国を導く、あらゆる重責と使命が、この男の双肩にのしかかっている。

女ひとりの身の保全と、課せられた務めを天秤にかけるほど、我は阿呆ではない。

大漢帝国丞相の位を戴く偉大なる父親に、曹彰はただ頭を垂れるだけだった。





理嬢は夏侯惇の腕のなかに埋もれ、血にまみれた姿になり果てていた。

すやすやと寝息をたてる寝顔を間近にし、あの長坂坡での光景を思い出す。

衣装は砂とすす汚れ、大きく破れた箇所から露わとなった四肢。なめらかに白い肌を彩るような忌々しい血は、けして理嬢のだけのものではなかった。

見渡すすべてが赤い凄惨が広がり、ある程度の距離から、だれも近づくことができなかった。曹操も、夏侯淵も、張遼も、于禁も、曹仁も曹純も曹彰も。武将全員が。そして、それらの屈強たる部下ひとりさえも。一音の声を出すことがためらわれた。

雀(シャン)と呼ばれる美しい男が、黒を抱き、泣いていた。男は美しかった。赤い液体を頭から流しながら、山岳から差すやまぶき色の残照に照らされて慟哭をあげる姿が。妖しく光るような艶めかしい情景は、物語の一部分のようであった。

泣き声は、あたかも母親とはぐれてしまったひとりの迷い子に酷似している。ただ声を震わせえて叫ぶ。我々の存在など知らぬとでも言うのか。いまの瞬間、この世に生まれ落ちた赤子にも見て取れる。

腐敗の進んだ強烈な死臭に満たされる夏侯惇を、理嬢を引っ張りだしたのは、長く、そして短い時が経ったあとだった。理嬢の傷だらけの身体を抱きて、曹操は思った。なぜ、そなたがここにいる。

赤い赤い理嬢は、雀のように、生を受け母親の胎内から産み落とされたかのようだった。

なぜ、そなたがここにいる。

どうして。

疑問は、曹操を困惑させた。雀にも尋ねた。しかし、雀は夏侯惇にすがりついて泣くばかりで、相手にならなかった。

そのとき曹操の胸にあったのは、疑心のほかに、悲しみにも似たすべてを覆い尽くす疎外だった。近寄れども、手が届きそうになるほど距離は長くなり遠ざかる。

この場で、理嬢の傍らにいることが、ふさわしくないようにも思えた。

自分は、ここにあってはならない。禁忌を犯している錯覚に襲われる。この白い肌に触れるのさえ、躊躇せざるを得ない。

理嬢は自分の妻だった。身体も交わした。以前は制することのできないほどの込み上げる感情のために、暴を振るい、打ち据えた。そうやって理嬢を曹操自身ための、ただひとりだけのものという安堵を手にしたかった。

しかし、ようやくつかまえても、この無垢な女は腕をするりと抜け出してしまう。

我は、そなたを掴まえておけぬ。

いまは決して目を覚まさぬであろうと思いながら、曹操はやわらかく理嬢の顔を手のひらで包み顔を近づけた。深い息をする音が聞こえる。まつげ、鼻。唇がかさかさと乾いていて、皮の端がほんのちょっと剥がれていた。

おそるおそる、閉じた唇に唇を重ねた。そして、長い髪を丁寧に撫でただけで身体を話した。

もの寂しさ。

口づけをされたことを知らない理嬢に、曹操は最後に一度だけ、頬に唇を寄せた。

込み上げてくる感情が、急速に落ち込んでいくのを感じる。なにかがしぼんでいく。指先でも掬えぬほどに小さくなっていく。燻っている火が風に打ち消されてしまい、灰が舞い飛び去るように。

手に入れられなかったか。

箏曲が、再び調べを奏で始めた。

この音色は、夏侯惇である。

冷気と混ざり、聞こえてくる曲に調べを傾けていると、調べとともにひとりの鼠が窓から入ってきた。ごろりと、影の塊。なんと大胆な。刺客か。いや、それにしては気配を消しておらず、侵入するには大雑把すぎる。

曹操は息を殺し、身構えた。剣はなかったが、相手がひとりならばなんとかなる自信があった。伊達に修羅場をくぐり抜けてはいない。

影はゆっくりと近づいてくる。しっかりとした足取りで、迷いはない。薄い幾重の帳を払いながら現れたのは、瞳を開いている理嬢だった。

「失礼いたします、曹丞相」

「……………行儀が悪いな」

雀は予想外とでも言うように、いささか慌てて片膝をつき、頭を垂れた。嵌めていたはずの枷は取り外されており、自由に動かしていた。

「無礼者め。どのように夜分、婦人の部屋を訪れる」

「姉の案じてのことでしたが、まことに無礼でございました」

「そう、だな。礼をわきまえよ。そなたの姉といえど、我の妻ぞ」

「申し訳ありません。浅はかでありました」

この姉弟は似ていた。曹操は雀と名乗る理嬢の弟を見下ろした。頭を上げろと言うと、雀はすべてを吸い込みそうなほど奥深く、艶めかしい茶色の瞳で曹操を映し出した。やはり、この男はうつくしい。

「夏侯惇の腕は?箏を奏でているようだが」

「……………固定しているほうの腕を動かすようなことがなければ、元どおりに回復いたします。身体のいたるところの傷は、激しい活動をしないかぎり、開くことはないでしょう」

言葉に息を詰まらせる。そう。夏侯惇にあらゆる傷を負わせたのは、この男、雀だった。そればかりではなく、理嬢の傷もこの男のせいだ。

「我の武将たちや、兵たちが、おまえの話をよくしているよ」

「おおかた、ろくなものではないでしょう?」

「ひとつは、その女のような容姿。ひとつは化け物のような力だ。不満か」

「嘘や間違いのたぐいではなく、内心、安心しています」

「おまえに、尋ねたいことがいくつかある」

「わたくしが答えられる範囲の内であれば、慎んでそのご質問にお答えしましょう」

「なぜ、理がここにいる」

「わたくしは、姉ではございません。それは姉に聞くべきものではないでしょうか。いくら容姿が似ているからとはいえ、その思考や行動を熟知しているというわけではないのですから」

はっ、と曹操は鼻で笑った。

「それも、そうよな。では、どうして夏侯惇を打ち据えた?そして、貴様は何者だ」

やはり、問われてしまうか。

唯一と言っても過言ではない秘密があった。雀が何者であるか。いや、自身と理嬢の存在がいかなるものであるのか。曹操の望む答えを雀は口にしなかった。この男に、教える必要などない。話すことができなかった。嘘、偽りはこの男には皆無であり、すぐに看破される。見逃してくれるほど曹操は優しくない。

どこから、どこまで言えばいい?

殺戮人形として、為政者から利用されるのは俺は一向に構わない。だけど、理はどうなるんだ?女や子どもを黙らせ、従順に属させる術なんてよく知ってる。曹操孟徳も同じだ。知らぬわけがない。

理を寵愛する曹操が、理を屍の臭いが満ちる戦場に解き放たぬと言い切れはしない。

「夏侯将軍に多大なる反逆を負わせた責めは、いくらでも負いましょう。ですが、わたくしめが何者かというのは、曹丞相閣下、あなたさまが、わたくしを見て感じたそのままです。わざわざ言うべきでもありますまい」

「化け物、か」

「そのように、あなたの眼には映りますか」

忍びこんだ窓は、開け放たれたままだった。空には冷たい月が滴っていたが、ときどき、流れる雲に遮られる。薄くうずく月の光が、雀のを顔をよく白くさせた。曹操は、月を受けていなかった。雀が見るその顔は、闇の奥に埋もれるようにはかなげではあったが、天へと高く飛翔する銀の鷹のように、気高くもあった。以前まで抱いていた漢帝国の主たる曹操への印象は、階の最上におわすように毅然として王たる威圧だった。それが、いまはわずかに風化し、寂しげな色をたたえる孤高の王である。

「化け物ではないのならば、人間か」

「それも、あなたさまが導き出したひとつの答えです。丞相の感じるままのものに、だれが否と唱えられましょうや」

「我はそなたの口から、聞きたかったのだがな」

「必要ございません」

曹操は息をつき、窓際へ寄った。そこで、帳を掴んで大きく払う。月明かりがやけに光明を増して、飲み込まんばかりだ。ちょうど、雲は除かれており、阻むものはなにもない。

「聞くことはもはやない。おまえがなすべきことは、立ち去るのみだ」

さっさと出て行け。

「一目、姉に見舞うのは、許されませぬか」

「愚問」

雀は床から膝を離した。

よい感情は持たれていない。漢の民は一族の者を、ことのほか大事にすると知っていたが、こうもあからさまにされると、反発する気も失せてしまう。しかし、当たり前だった。そうされる理由は、自分がよく理解している。

四の五の言う前に、失礼しよう。愛しすぎる理嬢に触れることも、愛しすぎた理嬢としゃべることも、愛しくてたまらない理嬢を見ることもできないのは、とてつもなく悲しい。傷つけてごめん、謝ることができないのも、とてつもなく苦しい。

堪え難い悔しさでもあるが、ここは忍ばねばならない。すこしだけでいいという想いをぬぐい去るよう、雀は仰いだ。

身体が窓の外に置かれる。去り際、曹操は背を向けながら言った。

「夏侯惇は指揮を執れまい」

一拍間が空く。

「はい」

「それでも、わざわざ帰れと言うつもりはない。陣頭に出れずとも、できることはあるだろう。もっとも、夏侯惇はすでにその心づもりであろうが」

「はい」

「曹仁に江陵の守り手を任せる。夏侯惇とともに、そなたもな」

「姉はいかがなさります」

「我々が孫のやつらと一戦を交えているうちに、思慕を満たすがよかろう。その後、弟だろうと目にする機会すらないと考えよ」

「御厚意、痛みいります。しかし……………」

「否と?」

「はい。申し訳ありませんが、承りかねます」

「奇特なやつめ。我の気が変わらぬうちに、了解したと言い直したほうが賢明だぞ」

「いまだ、忠誠の証を御披露目しておりません」

背中を合わせたまま、ふたりは瞳を瞑り、会話をつづけた。

「わたくしが、姉を連れ、丞相さえも知らぬ土地へ霧とともに消えゆくとは思わないのですか」

「知れたこと。連れ去るつもりなら、あのとき長坂でしておったろう」

……………たしかに。それもそうだ。

「我も訊ねよう。そなたを阻む我を斬ろうとは思わぬのか」

「御冗談を、丞相。あのときの獣は、もうおりません」

あのときとは、丞相府にて謁見した際、雀が刃を以て曹操に斬りかかったときである。あのときも、雀は夏侯惇を傷つけ、何人かを重傷に至らしめた。自分の笑い声が甦る。

雀のなかで、鋭い光がぱっと熱く閃いたかとおもうと、深い群青の藍色の天ほども高い場所へ、すうっと透きとおって昇っていった。

曹操がこちらを振り向いた。暗闇のなかに、突如まばたいた閃光にひるむ。

抜身の長刀の残光だった。主のように、妖しく存在を主張する。

「忠誠の証、か」

ためらいを塗り潰す。

「俺はこれでも、交わした約束を、いや、契約は守る」

「契約?いつそなたと交わしたかな」

「忘れられているのなら、あなたはそうでよろしい。だが、俺は覚えているし、頑として、譲るつもりはない」

紅が、刃のきらめきに照らされていた。鮮血よりも彩り深い、赤。

やはり、この男はうつくしいが。

化け物だ。

「好きにするがいい」

曹操は踵を返し、煩雑に帳を下した。





夏侯惇は、一音一音の感覚をたしかめるように、弦を弾いていた。

「ただいま」

「おかえり、雀(シャン)」

傍らに身を横たえると、夏侯惇は箏を膝の上からどかした。雀が頭をもたげ、夏侯惇をじいっと見つめる。どこかあどけなくなった表情に、黒曜の瞳はやわらかく、あたたかくなっていた。

「もう、演奏しないの?」

「奏でていたわけではない。ただ、弦の張り具合を整えていただけだ」

「もっとそうしていてよ」

「なぜ?」

「夏侯惇が、弾いている音が好きだから」

雀は夏侯惇の膝に頭を載せて、猫のようにすりついた。そして、手を伸ばし、自分に引き寄せる。手にはぬくもりがなかったため、胸に抱いた。あたたかくなりますように、と。

「雀」

「なあに?」

「理には会えたか?」

その問いに、雀は答えなかった。先客がいたという言葉だけ、口の中で膨れたが、聞こえただろうか。

「ねえ、夏侯惇」

「なんだ?」

「俺は欲張りかな」

「どうして?」

「理とずっといっしょに、いたい。そばにいたい。夏侯惇とも、理と同じくらいいっしょに、いたい。ふたつのものが欲しくてたまらない。ふたつのものを同時に追うやつは、結局、どちらもてにいれられない。それでも、俺はずっといっしょにいたい。……………もし、もしもだよ。思うんだ。このまま、理も、夏侯惇も、居なくなったら、どうしようって」

抱かれていた手は、するりと離れて、白皙の額に触れた。雀は、驚いたふうに横にしていた顔を仰向けにし、鳥のはばたきよりも、強く、大きく睫毛を瞬かせた。

「望むことは、悪でも善でもなかろうよ」

わたしも、望んだ。理嬢の幸せを望んだ。雀の理嬢への願いを望んだ。

望むことなら、願うことなら、それは罪ではない。

理にしたように、夏侯惇は撫でてやった。

雀を、理嬢でもなく、ひとつの雀といういのちとしての場合だ。おまえは、まるで赤子のようだ。母親の手を知る前の。

夏侯惇は口をつぐんだ。

そうだ。この男は、母の手を知らないどころか、母という存在さえも無く、生まれてきたのだった。雀は、限りなく異質であって有り得ない生を受けた物体なのだ。

哀れな生き物なのだ。

美しいこの青年は顔を上げ、身を乗り出して黒曜の瞳を薄い茶色の瞳でのぞきこんだ。ひるむこともなく、受け入れる。白魚の指先は、夏侯惇の右頬に刻まれた爪の痕を、顔の中心を横切る傷痕をなぞってから、唇を軽く捺しあてた。

嫌悪は無かった。赤子が、傷痕を心配して自分なりの慈しむ行為を示したようであったから。

雀が肩口に額を載せてきた。そして、ささやくように呟く。

「殿が、曹丞相が夏侯惇を曹仁さんと江陵の守りにすると言ってたよ」

「そうか。いたしかたのない」

後方支援が不服なわけではない。もともと戦線に立つより得意ではあるが、今回の戦では従兄上と肩をならべたかった。

「ごめんね、夏侯惇」

「……………巻き返すな。それも、いたしかたのなかったことだ」

「だけど、俺は肯んじえない。俺は、どうしたって殺戮の人形なんだ。戦いのなかでしか生きられない。戦いがあるのなら、俺はそこで生きなくちゃいけない。夏侯惇、わがままを聞いてほしいんだ。どうか、俺を、だれでもいい。違う軍に入れてほしい。今回だけでいいんだ、今回だけ」

「どうしだ」

「俺は、きみの役に立ちたい」

「私の役に?」

「曹操のためじゃない、夏侯惇のためだよ?」

雀は、夏侯惇の名に力を込めた。

「私のため」

「夏侯惇のために戦わせて。この戦いを終わらせる。ただ終わらせるだけじゃない。勝たせる。俺が出れば、どんな敵だって敵じゃないよ。勝って、はやく家に帰ろう。ね?」

雀が必死になっている。殺戮人形だと言い、人間ではなく、一概に自分は化け物だと真実を口にした雀が、人間の輪のなかへ溶けようと焦っている。

そのすがたに、理嬢の面影を見た。

理嬢は自分が何者であるか知らない。しかし、犯した所業の罪を恐れ、罰に震え、自我を保てなくなった。人間ではないと薄々とはいえ、察していたのだろうか。理嬢は、自分のなかにある本能に耐え切れなくなっていた。だが、雀は、本能を寸前のところまで押さえつけ、人間に近づこうとしている。雀は、人間を殺す殺戮人形として戦へ赴くのではなく、人間を生かす兵器として赴こうとしているのだ。

願わくば、雀が雀を失うことがなきように。

夏侯惇は、ゆっくり頷いた。






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