第八章 濫觴 むかしばなし



私にとって、理は「たいせつ」である、代えることができない存在だ。

だが、それは否応なしに預かることとなり、押しつけられるよう教育を任された始めはなかった。

めんどうなただのがき、正体不明の哀れな孤児にすぎなかったのだ。

軍事演習をしていた、とある夜のうちの場違いな出逢いだった。親もなく兄弟もなく故郷もなく、なぜか広い草原をさまよい歩いていた傷だらけの孤児に、従兄上である曹孟徳は興味を持たれたようでな。

あれを育てろと直々の命令を下された。このことを知っているのは、夏侯淵や曹仁くらいか。

曹孟徳、夏侯淵そして曹仁とは、幼いころからの仲だ。ふたりの従兄の後ろを、よく追っていたものだ。

私と夏侯淵は、従兄上が挙兵する前から従い支えてきた。やつが矛ならば、私は盾。自分らの得意なる方法で、御守りさせていただいてな。

自分で言うのもなんだが、とくに私には、従兄上からの信頼と長年従ってきたゆえの気安さがある。さまざまなところで、従兄上の好みもよく存知ている。相まって、教育係りに選ばれたのは必然なのかもしれない。

それでも、当時、煩わしさこのうえなかったのは事実だ。とんでもない命令だ。子どもの扱いなどとんとわからぬ。しかも、その子どもは、ゆくゆくは従兄上の奥殿に入ることが決まっている。そんながきを育てろだと、従兄上が酒の席の余興で考えた罰のような戯れ言に等しい。

しかし、断れるはずもなかった。しぶしぶ受け入れたよ。

理嬢と言うのは、もとからの理に、嬢を加え、従兄上が付けた名だ。由来は知らない。まあ、詩をたしなまれる従兄上のことだから、華やかさにかけるなどそういった類だろうが。

理嬢は当初、右や左どころか上も下も区別できぬといったありさまでおどおどしていたが、ついには懐き、無遠慮に私の左眼を聞いてきたりしたものだ。鳥の子のように追従することさえあった。煩わしかった。もちろん、そんな時は軽く流して近くにいた屋敷の者に世話を押し付けていたが。

摘んだ花をもらったこともあるが、そのときの私はあいつが見ていないところで、投げ捨ててしまっていた。非情だな。今ではそのようなことはしまいが。しかし、器に水をたたえ活けて眺めるのは私には似合わんだろう。

理は汚れの知らない少女だった。よく笑ってよく走り回って。囚われない自由の意味をあらわすようなやつだと思ったことがある。名しか記憶のない子だから、そうだったのだろうか。生きている世界がちがうとも感じたことがある。それは、子どもだからと女だからというものではなくて、この世に産まれた瞬間からが、成り立ちの根本からがというところでの異質なような気はしていた。どこが、というわけではない。ただの勘だ。よもや、当たっていたとは驚きだがな。だからだろうか、従兄上が惹かれたのは。未知のものに従兄上は惹かれたのか。どうだろうな。

理は、良い言葉で言えば、天真爛漫。無邪気を振りまくお転婆に、私はほとほと呆れていたよ。ぶっとんで歩くあんなやつが、従兄上の女のひとりになるなんて、無理な話だとな。従兄上の女の趣味は、しとやかで、慎ましい女性だ。理嬢は一片も当てはまらんと言うのも、まあ、昔のことなんだが。

ひとつ、しでかしたことがある。

ある日、理は庭で木の上にある鳥の巣から卵を穫ろうとしたんだ。ほんとうに予想外のことをするものだったな。そのときは驚きもしなかったよ、まあ、私は。あいつ、とうとうやりおったと予測通りで溜め息が出たわ。また、あの馬鹿者めと。そうしたら登る途中で下を見て足がすくんだのだろう、登るにも上がれず、降りるにも下りれず、動けなくなって泣いていた。しばらくそのままにしておいた。おのれの不明を反省すればいい。そのうち、降りられるだろう。

だが、泣き声があまりにもつづいているので、耳についてかなわんかった。せっかく読んでいた書を置いて、騒がしい原因のもとへ向かった。侍女らが手を離さないよう注意したり励ましたり、てんやわんやのざまだ。

木にでかい虫が引っ付いていた。あの馬鹿はなにをしているんだ、盛大に舌打ちをしてから助けようとしたよ。仮にも、私は教育係りだったから。

だけれど、もう限界だったのだな。理は幹から手を離してしまい、肩口から地面に叩きつけた。あの小さな身体が動かなくなった。手はすり傷だらけ、額のすみから、薄い血が滲んでいた。

身体から血の気が引いていくのが、わかった。

理解できるか?邪険に扱っていたこの私が一変し、父親か兄の皮を被ったのだ。

私の行動は素早かったと思う。医者を呼べ、頭を動かすな、牀を整えろ、布を持ってこいなどなど、侍女らが私が怒鳴っていたと証言していたので確かなはずだ。

自由な時さえあれば治るまで付きっきりで、すべてを看病に費やした。じっとしてはいられなかった。じっとしていても、肌のひとつひとつが、がたがたと震えてたまらなかった。自分を大いに責めたんだ。いまの私が過去に戻り、過去の私に声をかけるとしたら、さっさと助けに行けとでも叱咤するかな。

私が居るあいだ、いつもいつも理嬢は詫びを口にしていた。なんで、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返したのだろうな。私に看病されるのに負い目があったか卵を盗もうとした罪悪感からか。その感情を抱くのは私のほうだったはずなのだが。ああ、私に鳥の卵を見てほしかったらしい。ばかなむすめ、だけどかわいいとも思ったよ、はじめて。

あの頃の理は、暗闇を恐がった。騒動の後は特に怯えていた。

夕暮れになり夜がじわじわと近づくところころとした笑みを絶えずほころばせている顔が、徐々に沈んでゆく。明るさと人を求めて、ひとり部屋に居ることをたいそう嫌がった。

夜、寝れずにむせび泣くことなどしょっちゅうで、私はよく添い寝をしてやった。意外に頑固で力が強いんだ。着物の裾を掴んで、どうしても離してくれなくて、さらにぐいぐいと引くものだから根負けしてしまった。そんな私は歌を歌って、民話を話して、あやしてやった。父親はこのようなものを言うのだなあとぼんやり考えていると、私もやがては眠りにつく。

歌など、寝物語などを披露してやった、べつにためらいはなかった。私の役目なのだと、いまの私は、教育係りよりも理の父親であることに徹している。むかしの私も気づかぬだけで父親であることを一番にしていたんだ。

朝が来て、理はよく私の目を「きれい」とつぶやいていた。そういえば、初めて会ったときも私の目をきれいだと言っていた。

これらが、私と理の距離が一気に縮まった出来事ではなかっただろうか。私が生み出していた壁が、またたく間に塵のように去ってしまったのだ。単純かもわからんが、そんなものさ。

理を愛しているかと聞かれれば、そうだとは答え難い。

あえて言うならば、「居なければならない存在」と答えよう。

なあ、雀。おまえに是非とも訊ねたいことがある。この元譲が胸にある感情は、どんなふうに映っている?男と女の仲であると思うか。

従兄上たち、曹孟徳と夏侯淵には、近づき過ぎではないのかと疑われていた。そのような心は微塵もないのだが、弱い私は徐々に理と接することについて不安を抱くようになった。

このまま近くに居ていいのか?

かわいい、私の子。

それだけだったはずだ。

私は、戸惑った。夜の寝台の上を転げまわりながら、悩んだこともある。それでも、朝を迎えて言葉を交わせばたちまち忘れてしまうのだ。

以前、理について、雀、おまえと確執を生んだときがあったろう。あとにもさきにも、そのときだけ、私は忘却へと理を否定し、消そうとした。一度きりの愚かな仕業であったよ。理嬢が私のそばにいる。当たり前すぎた。ないなんてことはあり得ない。家に帰れば、出迎えてくれる。

正直に言おう。

日ごとに成長していくのを見るのが、楽しかった。理嬢とふれあうたびに、私は癒され、安穏へと身をゆだねていたんだ。

連れ立って歩き、箏曲を手ほどきし、文字を教え、詩文をたしなみさせ、茶の淹れ方や、礼や作法の学びに及ぶまで、ともに過ごした時間すべてが好ましいものだった。

屋敷の様子を見ていてくれたのなら理解できると思うが、私の父上と母上はすでにこの世になく、弟妹たちはひとり立ちしたり没したり、嫁へ行ったりと残っていない。極端に言えば、私は独りだ。理と出会ったとき以前から、私はその状態だった。

理が私の娘になった。

あたたかい広がりがあった。

さびしかったのだろうか。

いつくしむべき存在が傍らにいる。これは、どういうことだろう?

孤独?孤独が辛いなどと思ったことはないのに。

私は、自覚のないうちに、執着をしていたのだろうか。

持ちかけられた縁談を、ことごとく断ったことも、それが原因だったのかもしれない。

長い年月、私はあの子のもっともそばに、もっとも長く、そして深くこの身を置いた。それゆえに、一番、理解しているという自負がある。

だけど、理嬢は従兄上の妻妾だ。理嬢への愛情と従兄上への敬愛の狭間で、私は、従兄上の敬愛を第一にした。私は、理嬢のこころの乱れを知っていた。でも、でも、見てみぬふりをした。

十分な年頃になる理嬢は、受け入れていたはずの未来、側室になることへの迷いを生じ始めていた。

嘘をつけない性分の理は、口に出さずとも、態度や仕草で無意識に表してしまう。周囲には何気なく思われても、私には、違う。

葛藤は痛々しいものだった。

私は、理嬢を攫ってしまえばよかったのか?どこかへ隠してしまえばよかった?

できようはずない。だから、見てみぬふりをした。あの瞳を。私の屋敷は、理にとって仮宿だからだ。しかたがなかろう。

私はな、一度、赤い目の、雀(シャン)、お前が言う覚醒とやらの状態になった理に首を絞められ殺されかけたのだよ。右頬にある傷痕はそのときのものだ。ほら、これだ。残っているだろう?しかし、理が何者であるかを疑うのみにとどまった。とどまってしまった。愚かなことだ。

だがしかし、実は、首を突いて殺そうとしたのだ。だけど、できなかった。あの判断は、私だけを救うのものだった。愚かにもほどがあった。だが、できなかったんだ。どうしてもできなかった。そして、だれひとりにも言うまいとも決めた。隠してしまった。

年月が浅ければ、きっと逡巡などせずに、すぐさま殺していたはずだ。ためらいなど微塵もなくな。

私の判断は過ちであろう。一歩違えば取り返しのつかないことになっていた。とんでもない賭けをしたものだが、あの時、私があの命を奪っていたら、それも取り返しのつかない過ちであろう。

ひとをあやめる。命だけではなく、人生、まつわる縁者たちのいつとも晴れるかわからぬ悲しみを育み、また、憎しみを生み出すきっかけとなる。なんとも業の深いものよ。

理は、それを解していた。そして、微々たる自覚もあって、半狂乱になりながら震えて恐怖していた。

従兄上の屋敷、奥殿にひとごろしが出た。理だった。理しかいない。従兄上の屋敷からふたたび預けられたとき、理には心に異常を来たしていた。いや、もうすでに壊れていた。

なにがあったかなど、推測するしかない。だが、部屋をもう二度と使えぬほどに何人もの肉塊で満たしてしまったのだろう。正気になった心で惨状を前にし、自ら壊れることを望んだのかもしれない。その結果、幼児に戻っていた。

だが、懐かしくて安心したところもある。育てたあの日々がよみがえった。

安心だと、われながら笑ってしまう。

乱世といえど、ほんのすこしの過去で、私には穏やかな時があったことを思い出してだ。安直な考えだと思うだろう?まったく我ながら、そう思うよ。

また、私は独りではなくなった。

そして、なにより、幼いころに戻ってしまえば凶事を引き起こし、だれかを惨劇に引き込むもないだろうと思った。もう、だれも手にかける心配はない。錠がかかる小さな空間に閉じ込めておけば、さらにもっと惨禍を防げるとも。

雀、おまえは自らを理自身であると言ったな。

おまえには申し訳ないと思うも、理の面差しを雀にそのまま投影していた。目の前にいるその存在が、何者であるかと考える以前に、理だと錯覚していた節が多々ある。私にとって、雀は理であるほかに見えていないのかもしれない。

今も、これからもだ。

雀は、雀であるのに。

理では、ありはしないのに。

しかし、おまえには理が在るのだ。

⋯⋯⋯⋯⋯箏を弾くにも、指がかじかんでどうにもならんわ。今宵はなんて冷えるのだろう。

骨の芯まで凍えそうな寒さだ。

ついつい感情のことや目先のことばかりを話してしまったが、気を悪くしたのなら、部屋へ戻るといい。おまえこそ、傷を負っている。夜風は障るぞ。

私はまだここにいる。しばらく、寂寥の時を味わっておきたいのさ。物好きと思うだろう?性分だ。仕方ない。

雀(シャン)、戻らねば、私の話を聞くことになるが、いいのか?

……………ふむ。ならば、もうすこしつきあってもらうぞ。

ちょっと手を貸せ。……………あたたかいな。おまえの手も。

もうすこし、思い出話でも語ろうか。

理は花が好きだった。

ときどき、郊外へ侍女たちを供に花を摘みに行っていた。私が許可した時だけだ。屋敷にも花は咲いているが、外には屋敷に咲いていない花があるからな。もともと外に出るのが好きなのだ。普段見慣れない世界は楽しいのだそうだ。それはそうだ。

屋敷の外へ出るのなら輿に乗れと言いつけていたのだが、歩いたほうが早いと言いつけを守ったためしがない。この私が何度も口を酸っぱくしても説教をしても、次はと言ってな。その通りにしたためしはない。笑ってしまうだろう。理の悪癖のひとつだよ。ああ、話を戻そうか。

理は花遊びを目的に行っていたのだ。小さな小さな花をたわわにして、花束を、冠や首飾りを器用に編んで楽しみとしていた。よく屋敷に持ち帰っては、欄干とか、ふとしたところに置くのだ。しかし、日がすっかり落ちてしまうまで遊びがちでな。侍女らに帰路を促されても、もう少しと困らせる。まったく、ほとほと困った子だ。ある時、日が沈んだ後に帰って来た。私が雷を落とさねばいけなかったのは想像に容易いだろう。気持ちはわからんでもないが、許してはならんことだ。

目の前にあるものに気を取られてしまうのは、理の悪い癖だった。ほんとうに、実に悪い癖だ。

いつのことだったか、私は理を連れ、ふたりで都から離れた僻地に出かけた。屋敷だけに居ては息が詰まってしまうからな。少しなら、理は馬に乗れる。

春がすこし過ぎて夏入りのはじめだったか、そこそこ過ごしやすかった気がする。

青々に空はよく澄み切り、風はこころよく、そよそよ凪いでいた。

着いた僻地は、花盛りの真っ直中で。花のはたけというのは、まさにあのことであろうよ。彩りあざやかな花々の群に、理は喜んだ。すぐさま駆け寄り、抱きしめるように、または抱きしめられるようにして花と戯れていた。

馬の手綱に注意しつつ、私は遠巻きに眺めていた。

世界がひとつになった。

白い肌を、太陽の光りにきらめかせる山脈に囲まれた花咲く緑の盆地は、はるかかなたの砂漠から飛んでくる黄砂を遮ったなかにある。そこに、乾燥した空気はなく、しっとりと息になじんだ。気持ちのよい晴れわたる空が広がるばかりだった。

穆清としたうるわしい時間が、ゆっくりと流れていく。

愛馬が草を食むとなりで、理のすがたを眺めながら、私はうとうとと船をこぎだした。草の上に身をゆだねたよ。

華胥の夢。伝説にある黄帝が、華胥氏の国と呼ばれる理想郷で遊んだという物語から、派生した言葉だ。つまり、良い夢のことをいう。

夢は、とてもよいものに感じた。どんな内容であったか覚えているわけではないものの、とにかく、満ち足りた気持ちだった。

戦乱の世という混沌としたもの、金や権力の虜となりて私腹をむさぼり食うものなど、醜く穢れたものは一切存在していなかった。わずらわしいことからすべて縁を絶ち、かけ離れた別天地のここちだった。

桃源郷なるものがあるとしたら、まさに、あの場所以外に有り得ぬだろうよ。

私が感じたあまやかな安穏は、夢とも現実ともつかず水のなかを浮遊しているようだったが、きっと、どちらもだったと思う。

理が、私に膝を枕にしてくれていた。いつのまに居たんだ。

すべてを吸い込みそうなほど大きく、薄い茶色の双眸が、じっとこちらを見つめていて、なにかを言いたげだった。

一面に咲きほこる花が、群芳がかすんで、けむりのようにぼうっと周囲をゆらめかせていた。

溶ける世界にうずめられ、私たちは存在している。

白い指先が、私の顔にちょっと触れた。

この、右眼のすぐ目元、ここに。

拭うようにして、指の腹でそっとそっと、いくつもの水滴のつぶをはらって。なんどもなんども、私の頬を、行き来した。

涙が出ていた。

私は泣いていた。

意思とはべつに、なんの関わりもなく、静かに泣いていた。

理由もなく、ただただ、私は涕泣しつづけていた。流れ落ちる川のように、涙が出ている。

なにが、かなしいのだろう。なにが、つらいのだろう。憂いなぞ、久方ぶりにどこかすがたを消していたはずなのに。このときの切なさを、いったいどのような言葉にすれば伝わるのだろうか。そして、私は理になんと言えばよかったのか。

泣いている。自覚したとき胸をかきしだいて、すがりつきたかった。さんざんに嗚咽をさけび楽になりたかった。だけど、私は黙って、じっとしていた。

あの慈愛と哀歓がたゆとう瞳が私を映す。

たまらずに、私はひとつだけ残った眼を閉じたよ。それでも、まぶたの奥に、ちらついて離れてはくれんのよ。

幾重にも彩る花々の清光な返照に染められた顔が。さらさらとたなびく長い髪が。吸い込まれそうな瞳が。

理はふしぎな娘だった。

いや、ふしぎではない。素直すぎた、無垢すぎた、とでも言おうか。心配になるんだ。人を疑おうとしない、打算もなく信頼しきっているすがたに。だが、こんな世でなければすべての人間に備わっているはずのものなはずだ。それを、ふしぎと言ってしまうのは、私がこの世にずいぶん毒されたせいだな。

「あのね、夏侯惇さま」

独り言のように呟いた。返答せずにいると、間を空けてつづけた。私が寝たものと勘違いしたのだろうか。

「ときどき、不安になります。わたし、こんなに恵まれていていいのでしょうか。わたし、なにもできません。それなのにわたしを拾い上げてくれる方がいます、衣装を用意してくれる、食べるものを作ってくれる、お世話をしてくれる。幸せなのだと思います。だから、こわくなるんです」

いいんだ、いやよくない。とは言えなかった。理の境遇はほんのいたずらが重なったような強運であるにちがいない。

私は、じっと耳を傾けていた。

「みんな親切にしてくれます。でも、わたしにはなにもできません」

謙虚さではない。幸運に身をゆだねつづける我が身に慄いている様子は、このあとなにかとてつもない不幸が降りかかかるのではないかという掴めぬ恐れなのだろう。

「感謝することしかできません」

ああ、そうだ。驕らぬ心根はとても大事なものだ。なによりの美徳とさえ言えるだろう。

「みなさん、優しいから、わたしに親切にしてくれるんですよね。わたし、みんなが大好きです」

そうか、おまえは。

「親切に接してくれました。なんの価値もない、ただの孤児に対して、いっぱい幸せをくれました。愛が存在するからこそ、あたたかい、尊いことをしてくれました。生きさせてくれました。愛に応えてくれるものは愛しかありません」

無償の愛がある。親切にされたから、返す。とても単純なことだ。その身で嘘か真かは定かではない愛を、理は純粋な慈しみとして受け入れた。そして、おのれが出来る愛をせいいっぱい返した。

「感謝を愛以外のほかに、なにで返すというのでしょう?」

愛することと愛されることの尊さを、疑わず信じてやまなかった。

長じて人間は善であるにちがいないと、愚かしいほど、心配になるほど信じきっていた。そんな世界が存在するなど、私は知らない。

そして、あの花の乱れるなかで言われた言葉が、これらだ。

「夏侯惇さまが居て、わたしが居て、みんなが居て。こうしてのんびりできる時間があって、わたし、すごくしあわせです」

どうしてと、思っていると、口をふたたび開いた。

「なにか、悪いことが起きたらこんな穏やかに過ごせませんから。戦があったら、心配で心配で、どうしようもないです」

頬から、髪へと指が伸びた。

「なんの変哲もない平和な日常が、実は一番良い日なんです。いつもは、当たり前すぎて見つけられないのですけど」

理嬢は、無垢すぎるほど、ひどく清らかに笑っていた。

「わたし、しあわせです」

ああ、そうだ。これを幸福と言うのだ。

これを祝福と言うのだ。

「わたし、しあわせです。いつもある日々を愛しています。これからもこの幸せがありますように」

理嬢は、切なくなるほどに、儚い。

それは、理が人外の存在だからと言うものではあるまい。ひとを愛し、花を愛し、こころやさしき娘の、もとの性分もあるはずだ。

雀。おまえに理はくれてやらんよ。

あの子は、たったひとりの、私の娘。

生まれた理由が人を殺めるためであろうと、血と肉を撒き散らす忌むべき存在であろうと、それがなんだと言うのだ。

理は理であるほかに、なんだという。

ともにした時がある。それがすべてだ。虚実は、決してなかった。ずっと、やすらぎという真実のみがあったのだ。

私は理を心から、心の底から慈しんでいた。むかしから、そして今も、これからも。

あの理が持つ、喜び、哀しみ、戸惑い、苦しみに慈愛の幾重ものの想念。それらを感じることができたから、私は理をいつくしんでいる。

理由を知らずとも無辜の命をくりかえし散らしたひとごろしであろうとも。

化け物なんぞ、知るものか。

理はだれにも渡さないよ。私が、一緒に生きて、護ってみせる。

ひとりよがりなどと、承知の上よ。

雀、聞け。




「私は理を護りつづけよう。それが、おまえの言う虐殺のからくり人形であろうと、数多のひとを手にかけたとしても、私は護りつづけたい」



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