第八章 濫觴 むかしばなし
一
江陵の占拠に成功した曹操は、束の間の休息に骨を休めた。
結局、劉備を生け捕りにすることには失敗したが、多すぎる民とふたりの娘は捕虜として手中に収められた。
劉備たちは、夏口のほうへと逃れたようだ。
城の各所では篝火が燃やされ、火は赤々と天へ昇らんとする。空には満ちた月が満天と誇って存ずる。空気はよく冷え澄み切り、風が吹こうものならば、身を突き刺すほど鋭利に凍えさせる。
城内の草木は枯れたものが少なく、年中を通して、緑の色をつけている葉が多かった。
常緑に囲われるように建てられた隠れの四阿から、静かな夜にふさわしい哀切極まった音曲が、ゆっくりと囁いている。半ば放心したまなざしで、夏侯惇はたったひとり、自由が利く左手で琴線を弾いていた。音が波紋をつくり、寒気を揺らす。ひとつの影はぴくりとも動かず、脆弱に光を受け陰影を浴びた。
夏侯惇のいる四阿はに篝火の明かりは届かず、月光の恵みを受けている。
目覚めたとき、江陵の城内で身を横たえられていた。右腕はしっかりと固定されていたが、肘から下がついているという感覚が無いに等しかった。身体、特に背中のあちこちが痛んでいた。
寝台の傍らには、雀(シャン)がいた。腕は前でひとくくりにされ手枷が嵌められていた。こいつ、なにをしでかしたのかと思ったが、そういえば俺はこいつに打ちのめされたのだったなと他人事のように思い出す。さらにその後ろで、韓浩が小さな口元に皺をいくつも寄せ、戟を手に雀を睨んでいた。
雀は、そそがれる視線に気づいたらしく、自分でやったんだと言った。それに対して、そうか、と返しただけだった。
瞼が重くなり、ふたたび瞳を閉じた。開いたときに雀は居なかった。一瞬の黒を感じたが、刻は長くすぎて、空気の色を如実に変えている。日が暮れていた。
韓浩と少し話をした。自分は雀からしたたかに打たれたあと、気を失ったまましばらく抱きかかえられていたらしい。泣きじゃくるあいつを討とうと飛び出した将兵たちを、自分は止めたのだという。覚えていなかった。だが、韓浩は「あなたは、止めろと、手出しするなと、あの者をかばいました」と教えてくれた。そして、寝台の上でも雀を呼び寄せたのだという。ああ、なるほど。だから雀はあのように私のそばにいたのか。理嬢は、無事だった。ずっと眠ってはいるものの、傷自体は浅く、手当は済んだとのことだった。深く息をつけた。
夏侯惇の命令は、韓浩を含む配下たちにとって不服であった。敬愛する上官が傷を負わされたのだ。報復が妥当だろう。だが、当の上官はその怒りに待ったをかけた。命令は絶対だとしても、内に煮え立つ感情はどうしようもなかった。
眉間に皺を寄せ、苦々しく口隅をゆがめたままの韓浩に、しょうしょう申し訳なくも思った。しかし、律儀に命令を守ってくれた礼を伝えた。そして、下がらせた。ひとりでいたかった。
なにを思ったか、箏を持ち出し今に至る。特に起きるなとは言われていない。
雲が月の帳を隠す。すると、声がした。雀だ。
「夏侯惇」
青白い肌。手は変わらず正面でひとくくりにされていた。その手には毛布が握られている。
「傷に障ります」
器用に、やさしく肩にかける。そして、夏侯惇の足元に屈んだ。雀なりの罪の意識だろうか。しっかりと見上げてくる。茶色の瞳。
「部屋に戻ろうよ」
箏を奏でつづける。
「いやだ。しばらく、こうしていたい」
「なら、もっと暖かい場所で」
「ほうっておいてくれ」
「……………怒ってるの?」
小犬のように、足にすがってきた。
「私が?理由がない」
「たくさんあるじゃない。俺は、夏侯惇を傷つけた。理も傷つけた。これ以上、怒られる、いいや、ちがう。嫌われる理由はない。ごめん、ごめん、おねがいだから、嫌わないで」
涙をため必死に請う雀の肩に、夏侯惇は触れた。怒りなどなかった。生きているのだから、もういいではないか。憎しみもない。
「憎悪があれば、すでにおまえは私の手で打たれている。…………おまえが理につけた傷は、浅かったと聞いた。それで、おまえの胸の内を信じようと思う」
雀の口は歪み、堰を切ったように泣き始めた。寂然の空間で、涙で息も詰まってしまうほどの嗚咽が響く。夏侯惇の手が、頭を撫でた。ああ。絹糸らしい髪がさらさらと流れる。
幾らかしたのち、息を小刻みに吸い、すすりあげるようにして泣くようになった。夏侯惇の足を、縛られた手で抱きしめ、離すまいとしている。
雀は言うた。
「理が大切?」
「大切だ」
「どうあっても?」
「どう、とは」
「化け物でも」
「ばけもの……………」
気後れした。濡れた目が、見つめてくる。
夏侯惇の唇に、そっと浮かんだのは、淡いほほえみだった。
雀は、にっこりと笑ったそばから、苦しげにぽつりぽつり吐露し始めた。
話すことが、今後どのように関わり、意味を持つのかと考える間もないままに。
どこからともなく、花のかおりが漂ってくる。くらやみにとけている花のにおいに、夏侯惇は身をゆだね、耳を傾けた。
嘘を言っているわけではない。しかし、嘘と思われても仕方ないことだとは、話す俺がよく理解している。
どれくらいの年月だったのだろう。
長さは、俺にはわからない。
十年に十年を重ねたような、長い、長い時間だったのはまちがいなかった。
とにかく、どれくらい、いつからそのなかに居たかは知れない。
……………ま、そんなのどうでもいい。
…………気がとおくなる時間を、俺は透明の器のなかで生きていた。それは事実だ。
生きてたというよりは、動けるまで待っていたというほうが的確かもしれないね。頭のてっぺんから足のさきまで、かたちがつくられるまでの準備期間だから相応だね。なんで俺がそこにいたかわかる?
……………あはは。わかるわけないか、だって人間だもんね。「普通」に生まれてきたきみたちにはわからないね。動物にも、虫にも、植物にも、これはわかろうはずがない。
あの透明の器は水で満たされている。
え、なんで息ができたのかって?
急がない、急がない。順々に話してあげる。
「普通」の人間の赤ん坊は、おかあさまの腹の、子ノ宮なかで成長するね。はじめからかたちをなしてるわけじゃなくて、米の粒より小さい生体から、だんだん人のかたちになる。そして、おかあさまとはへその緒とつながっているんだ。これは大切だよ。赤ん坊はおかあさまの吸った息を吸い、おかあさまがお食べになった食べ物を喰う。へその緒。これがなきりゃ、息もできないし栄養も摂取できないから。
子宮のなかは羊水っていう水で満たされていて、赤ん坊はそれに包まれてじっくりと成長を遂げる。そう。ひとのかたちを成す、目には見えないくらい小さな生物からね。
さあて、そろそろわかってきたんじゃないかな?
……………俺は、おかあさまの腹から産まれてきませんでした。
俺は。いや、俺も、理も。
でも、俺たちはひとのかたちになるまえの過程では、まちがいなく人間です。
むかし、むかしのことでした。
ある娘さんが死んだ、いや、殺されました。なんの変哲もない民族の、ふつうの村にすむ平凡な娘さんだよ。娘さんの一族は老若男女問わず馬を乗りこなすらしい。
ある日、娘さんは崖のしたで馬といっしょに、事切れていました。
きっと、山菜でも取りに出かけたか。獲物を見つけた途中で足を滑らせたか、卑しい賊にでも追いかけ回されあやまって落ちたのでしょう。嗚呼、とにかく哀れかな、娘さんは腹に子を宿しておりましたが、死んだためおなかのなかの赤ちゃんも……………そこで。
そこで。偶然見つけた老人が、娘さんの腹を引き裂いて腹から胎児を盗りだしてしまったのです。手のひらくらいの小さい胎児は女の子でした。
そのまま老人と胎児は姿をくらまし、いなくなりました。
深い深い山の奥深いところで、死んだ赤ん坊を、老人は育てることにしたのです。
遺体の赤ん坊は真っ二つになり、片方ずつべつべつに水晶をくり抜いた器のなかへと放り込まれました。
この老人はなにをしたいのでしょうか。娘さんに代わって赤ん坊を見守ることにしたのでしょうか?赤ちゃんを助けようとしたのでしょうか?ふたつに割って?否否否否……………いかれたじじいは、私欲で「俺ら」を造ったんだ。人間と言う基を使って、俺たちを造った。俺が、いや、理が生まれたのは、母親から無理に引きずり出されたからさ。
なんてことしてやがると思わないか?
死んだ母親から取り出してやったのだ。って、奴は神妙な顔をしながらも愉快そうに話していたよ。
理の話をしようか。
俺の目が開くようになったとき、理はまだまだ小さかった。胎児の前のかたちをしていたけど、やっとできあがった内臓や血の管とかが透けて見えていたし、目は黒い真珠玉のようにふたつあった。なんとも言えなかったね。すごく、可愛くてさ。この世にこんな大事な存在が在るのかってくらいだ。
自我が目覚めかけていた。ずっと俺は理を眺めていたよ。飽きなかったね。成長していくごとに、俺の身体も構築されていった。肉片が一より満たない数でできあがるごとに、理に対する愛情?というのかね。深みを増して質量を増していく感情があった。
ある日、あいつは理を外に出した。
今の俺の膝までしか背がなかった。
そのときの理は這うことしかできなかったから、あたりを芋虫みたいにのたうち回った。俺は中から透き通る壁を殴って、存在を知らせることもできなかった。だって、手がまだなかったのだもの。
あいつは、理に食い物を与えた。最悪だ。腐りかけた動物の肉。理は指図されるがままに這って蠅の群がる肉塊に歯を立て千切り咀嚼もそこそこに呑み込みつづけた。
きれいだって思った。
きれいだなあ、きれいだなあ。これは、醜いすがたなんかじゃない。腹が減ったと本能のままに食らいついている。生まれたままのすがた、しみひとつない真っ白な、からだをよごしながら。
かわいいなあ。
きみには理解できぬだろう。
腹が減っているから食べている。そこに打算や思惑はない。限りなく動物に近いすがただった。生まれたばかりだからこそもつ、無垢そのもののすがただ。胸がいっぱいになって、爪さえあれば自分の肌に立て抱きしめたい衝動を抑えたろう。よかったね、よかったね、おめでとう、外に出された、生まれたんだね、おめでとう。
ちょっと崇め称えたい気持ちがある。人間も、そんな感情があるだろ。神を信仰すること、主に忠義を誓うこと、形はちがえど、中身はいっしょさ。
俺は思った。俺は理のためなら、なんだってできる。
理はからだを獣の中身と毛で汚しながら食事を終え寝ちまった。
はやく、生まれたかった。この不自由な器のなかから出たかった。はやくこんなところを出て、理といっしょに肉を食いたかった。身体を寄せ合って、冷たさも寒さも温かさもぬくもりも、まどろみも、空腹も、ぜんぶを手をとり合って共有したかった。
それから。理はずっと器の外にいた。ゆっくり成長していったのを眺めていたから知ってる。だけど、俺のからだができあがったころにはいなくなっていた。歩けるようにはなっていたはずだから、どこか物陰にでも隠れているのかもしれないと思って、ようやく外に出された俺はそこらじゅうを探しながらあいつに尋ねたよ。
理は、どこにいるの?
嗤われた。おまえがいいこにしていれば、会わせてやる。そう言った。
頭が教えられることで爆ぜてしまいそうな日々が始まった。
武術、馬術、剣術、読み書き、……………舞に音楽。いろんなことを教えられたよ。はては女の相手から男の相手の仕方まで叩き込まれた。
赤い瞳になる方法も。やつが言うには、覚醒と呼称するものだそうだ。相手を殺すという意識を集中させて、もともと人間の持つ身体の能力をさらに向上させるために、頭の中にある力を制御する錠を外したり掛けたりするのだと。からだの中にある血の流れを操作するのだと。目の色が変わるのは、その証拠。つまり、俺たちが人間ではなく化け物であるという烙印でもある。
まあ、覚醒していなくとも俺の身体の能力は、普通の人間より優れているのだけれども。そういうふうに、つくられたからね。
毎日、からだがぐちゃぐちゃになるまで訓練をさせられた。傷に傷がいくつもできた。水浴びなんてさせてもらえなかったから、常にいやな臭いがしていたし、眠る時間も与えられず気がおかしくなりそうだった。
思い出したくないから、もう言わない。でも、理がひとつの希望で、なんとか諦めずに済んでいた。
だけれど、どれほど経っても理には会えない、教えてくれない。なんでなんでどうしてなの。詰め寄った、つぎは、ひとを殺したら教えてくれると言った。
理だけが俺の希望だったのに。理が、居るから。いつか会えるはずだったから。雀(シャン)という名前を自分で付けたのも、このころだったかな。
あいつは、どこからか男をひとり足首を引きずって連れてきた。目隠しをされ猿轡をされ後ろ手に縛られ殴られた男。
初めて人を殺した。言われるがままに、心を落ち着かし集中した。理のために、死なせてしまえば理に会える。
すぐ終わった。刀を一度振り下ろしただけで、首と胴を両断することができた。瞳も色も、血が集まる感覚から、錠の掛け方と解し方がうまくできたと実感できた。なにより、あいつの喜び具合がそれを如実に物語っている。べつに嬉しくはなかった。
あいつは言った。興奮を抑えられず息を切らし、成功だ、成功だ、失敗じゃないって。え?なんだ、それ。
ついにやったぞって、拳を握りしめていたよ。
熱く語りだしたよ。涎をちらしながらね。
あいつはことの成り行きをすべて話した。おまえと理は、死んだ赤子から私が造ってやった。感謝しろ。殺戮の兵器が、成功品の完成だ。私の実験は成功したのだ、やったぞ、ついにやったぞ。私はこの手で人間から人間ではないものを造ることができたのだ。研いだ石の肌じゃない、蜜蝋の肌でもない、磨いた木の肌じゃない、糸をたぐりよせ草詰め込み繋いだ布袋の冷たい臓器じゃない。水の血じゃない。人間の肉から造った育てた。肉の肌、肉の臓器、血の集まりである人形。生きている人形だ、とさ。
目の前が真っ白になるって。足の先から力が抜けて、白から黒がじわじわと侵蝕される。そうだ。これは絶望だった。
俺の問いへの返答は「あんなやつ、とうのまえに棄ててやった」だった。
俺は悟った気がしたの。理は失敗品だったから、棄てられちゃったんだ。なにが失敗で成功なのかは、俺自身がひとつずつ気づいていかなくちゃならないって。ここにいては理に会えない、やつを殺して理を探しにゆく。たしかに、手応えはあったのに、やつは血を流して泰然と立っていた。火に焼かれたこともあるって言っていたな。化け物が。死ななかったけど、俺は逃げることができた、走った。いま、探しにゆくからね。理、絶対、見つけだすから。
俺は逃げ切ったんだ。
その日から、俺の日常は殺し尽くすという本能と欲望にまみれていたよ。殺さなくちゃ、やられる。やらねば、殺される。正直に言う。楽しんでた……………この身体に流れる血が、肉が、猟奇にそそられ、歓喜してた。そうさ、ひとを殺して俺は喜んでいた。雀は強かった。強かったから、血がたくさん出る場所、出ない場所をよく知ってたから、わざと急所を外して苦しませることができた。世界で動くすべてが自分の手の内にあるような気がしてた。俺はなんだって好きなように扱えるんだって。
ふと、立ち止まった。
もしかしたら、理にはこのよろこびがないんじゃないかって。きっと、やさしいから失敗で俺は成功なんだ。
俺は完成された、成功品。
歩いて歩いて、いろんな事象や文化を体感しながら、ずっと考えていた。争いはどこにでもあり殺し合うのは当たり前なんだなあって。だけど、何度もそんなことを繰り返していたら、力が弱まるだけじゃない。力を下がらないようにするため、ひとは強力な力を持った兵器を開発する。うん、壊したり、殺したりね。その集大成が、俺たちなのだ。唐突に、閃いた。
これ、当たってるよね。
戦は互いに血を流すが、そこで、命令に忠実かつ殺戮をやり尽くす人形がいたら助かるだろう。人間が死んだり傷ついたりないから、実質国力の疲弊にはならない。食事も腐った動物の死骸や屍の肉で生き長らえる。殺した兵士、死んだ民を食って生きられるから、多くの軍隊を使うよりも、人形を使ったほうが、良い結果を得られる。労力もごはん代も浮くだろうしね。
俺たちは、理は、その人形として。殺戮をするだけのために、産みだされたんだ。
人間の力を凌駕する兵器。あいつは俺たちを操って、血の舞台を見て楽しみたかったんだと思う。
え、なんでかって?ええと。推測の域だけど、あいつは頭が良かった。手先も器用だった。たくさんの命を実験に自分の明晰を誇示したかったんじゃないだろうか。
亡くなった命を操る行為も、神さまに近い所業だろう。あいつは、きっと神さまになりたかったんだ。
手を汚す、命を奪う、虐殺して死体を増やす。俺はべつに心は痛まない。だけど、理はやさしい。自分が深く傷ついちゃうし、やったことの事実にも耐えきれない。俺とはっきり逆だね。あはは。
ねえ、夏侯惇。
どうして雀が理のことを解ると聞いたね。答えてあげる。俺は、理の身体から生まれたからだよ。俺は、理なんだ。
基になった胎の児は、女の子だった。ほんとうなら、無事に生まれていれば、変哲のない人間、理だったはずなんだ。
俺は理の身体の半分のかけらから、つくられた模造なのだ。俺と理は遠く離れていてもつながっている。どちらかが怪我を負えば、またひとりにも同様の怪我が反映されてしまう。嘘みたいだろう?ほんとうだよ。
ずっとそばにいた夏侯惇なら、理の身体に不可解な傷があったこと、記憶にあるんじゃないかい?
ねえ、夏侯惇。
俺は大好きなんだ。愛してると言ってもいい。
とってもとってもとっても大好きで愛してる。
そんなひとに、手を血で染まらせたいって望む馬鹿がどこにいるんだよ。
止めてやりたいじゃないか。
苦しんでいるのなら、その辛さから解放してあげたいじゃないか。
理の眼が赤くなること、それは本能に理性を抑え込まれた証拠だ。意識の主導権を奪われたんだ。理にとって、殺人衝動は理性もなにもない無の状態の出来事だ。なにが起こっているのかも、あの子には判断さえつかないんだ。
あとに残るのは、恐れおののくのみの現実と自分を責める気持ちだけなんだよ。
きみから目の話を聞いたとき、間に合わなかったって思った。まあ、そんなの俺の希望にしかすぎなかったけれど。きっと、自我が芽生える前にもたくさんその手で潰してきたものがあったはずだ。だったら、自我が芽生えたあとの出来事に苦しむのなら、理を殺して解放するしかないと考えてたんだ。殺してあげるのが唯一の救いだって思っていた。俺にはその手しか浮かばなかった。
死に幸福などありはしない。きみは、そう言ったね。たしかに、そうだ。なら、俺のしようとしていたことは、ぜんぶまちがっていたの?
まちがいだった。
まちがっていたよ。でも、これしか思いつかなかったんだ。ごめん、ごめん、ごめんなさい。愛してる。
あの理が、どれほどのものか、きみなら知っているはずだ。血で手を浸すには耐えられないことも承知だろう?だから、いろんなものを殺戮した現実を受け入れることなんて出来はしない。ただ、壊れてしまうのが関の山だ。それこそ、物言わない人形のようにね。
壊れる。俺は肯んじ得ない。ならば、安らかにしてあげるしか方法はない。すべてを知る前に、殺戮人形として生み出されたと察する前に。
……………でもね、でもね、夏侯惇。もう、だめなの。どうしたって俺は理に刀を向けられない。愛しているから。存在のすべてがだいすきだから。つらかったんだ、理と、殺し合ったときが、一番に苦しかった。なんで、こうなった?こうならなければいけない?俺が求めたのは、俺の半身と、理と、熱を、空くこと満ちることすべてをも分かち合うことだったのに。たった、それだけのことだったのに。
傷つけて傷つけられるあいだも、愛していたよ。
雀(シャン)に想う資格がないのは知っている上で、夏侯惇におねがいしたい。
どうか、理を守ってあげてください。
愛してあげてください。
あの子はそれを望んでいるだろうから。夏侯惇に。
雀は夏侯惇の足に凭れて、じっとしていた。頬を伝っていた涙は夜の空気に煽られ、冷たく乾いている。
「……………聞いても、いいだろうか」
後ろ頭を眺めながら、ためらいがちに夏侯惇は声をかけた。返事はすぐにかえってきた。
「どうぞ」
「ほんとうに、理嬢と雀は姉弟と言えるのか。理嬢の身体から生まれたのなら、子に、なるのではないか?」
申し訳なさげに、雀は言葉を詰まらせた。
「だってそうでしょう?先に外に出たのは、理だよ。もともとは、理の身体だったのを半分にしたのが俺だよ。複写ではなく、そのもの。でも、お母さんと言ってもちがいないだろうね。理は、母であり、姉であるんだね」
「私には、おまえが理よりも年長に見えるが」
「造り出したやつの好みだよ、適正だって考える身体になるまで成長させたからさ。俺は、見た目だけ理より年上なの。人間でいう二十半ばくらいかな」
「理の年齢は、どうなっているんだ?」
「生まれた年数は俺より理のほうが早いけど、身体や精神は夏侯惇がよく知る理のまんまのはずだよ」
「変わりないと?」
「うん。でも、ほんとうの年数は、わからない。でも、夏侯惇よりは上だよね。一年の数で年を重ねるならね」
「それも、おまえたちを造り出したやつが仕組んだことなのか」
「きっとね。あいつにとって俺たちは道具だから、失敗品を気まぐれに育てて、飽きて捨てたんだろうなあ。名前もつけてたくせに」
「人形とは、自然に成長するものなのか?」
背がのびた。髪がのびた。娘のあの小さな身体が、人間の子のように大きくなったのは。
「どうだろうね……………しらない」
夏侯惇はこの姉弟の話に、唇を噛んでいた。
にわかには信じがたい話だったが、ここで嘘をつくとは思えないし、合点がいってしまうのも事実だった。このふたりは呪われていたのだ。人間の力では到底抗えぬ呪縛にも感じられた。
「理は、どうして人を殺めてしまったのだろう……………」
「俺たちは、人を壊したり殺したりするために望まれて造られたんだよ。俺の推測だけど、長年積もった衝動が突然弾けても不思議じゃないでしょ」
蓄積された本能が、なにかのきっかけで決壊した。理由はわからない。おそらく、理にもわかっていないだろう。なにか危険があった、自分の身を守りたかった、推測を定められない。いずれにせよ、一気に理性を覆ってしまう厄災のような凶獣が、理の中に潜んでいるのだ。
「理は、本能を自分で支配できなかったんだね。ああ、そうか、棄てられたのは、力をうまく操れなかったからか、やっぱり………………」
返答のさいごは、独り言のようになっていた。
「長坂で、見境なく殺してたよ。あの子ね、疲れないと止まらない。ああ、失敗品。そうだね、自分で制御できないなんて、たしかに失敗品だ」
人生を根底から狂わされた忌み子の姉弟だった。
雀は、理嬢とともに押しつけられ背負わされた忌ま忌ましい因果に、ただひとり、知れずに抗っていた。それは他ならぬ自身の半身である理嬢のためだった。呪われたさだめのしたに落とされた理嬢を救うために、雀は戦っていた。それが、たとえ理嬢の命を奪う結果になろうとも、雀は救済するだけのためを目的に、惨憺と踊っていたのである。雀の選んだ愛情は諸刃のつるぎであった。
理嬢を殺めるは雀自身を殺すこと。
鎖から理嬢を救おうとしていた。
死に幸福などありはしない、しかし、雀の選んだやりかただった。
「あのとき、私が介入していなかったら、刺し殺していたか?」
「……………うん。手狂いはなかった」
「だが、おまえも死ぬのでは?」
「死ぬつもりだった。理の頭を貫いたら、同じ傷が俺にもできたけど、所詮それは俺に反映されただけだから、致命傷にはならない。だから、自分で自分の胸を突くつもりで。……………いっしょに、あそこで……………」
「もう、言うな」
命の剥奪というかたちでしか、理嬢を護ることができなかった。それが、夏侯惇は反対のかたちで成し得た。
雀は立ち上がった。
四阿の階から滑るように降り、こちらを振り返った。空を仰いだ。
清々しいかんばせ、うつくしいと思った。夏侯惇は弦に指をかける。一音が、周りのすべてがふるえ、どよめかせる。
常緑樹の葉も、月も、月の光も、まばらに座する星々も、帳のごとき薄き雲も、四阿の柱も、石畳も。すべて、すべてが揺れた。夏侯惇と雀の身体のなかへ、入り込んでゆく。
雀は舞った。足を踏み鳴らし、腕を羽ばたかせ、髪を乱舞させる。初めて聞く異国の言葉を調べにのせて、これもまた異国の舞踏を舞った。
うつくしい。夏侯惇は思った。闇に漂う甘くかぐわしい香りの中心で、踊るものを見て。そして、奏でた。
雀は舞った。
命を魅せるように熱く、烈しく、幽艶に、切なく。
ここから話すことを、せっかくだから箏を奏でながら聞いてくれ。でも、聞かなくたってかまわないからね。
ねえ、夏侯惇。
きみは、理が、俺が人を殺すためだけに造られたこと、俺たちが人を殺して死体を喰うことを狂気の沙汰と思うかい?それとも、人の道から外れた野蛮なことだと思うかい。
思わないほうが、おかしいよ。人のかたちをして、人とおなじいとなみのなかで息づいている化け物だもの。でも、きみは、逆に俺たちにかわいそうって思ったでしょ。
わかるよ、それくらい。
ねえ、夏侯惇。
俺はきみが好きだ。俺が理を愛するのとおんなじように。
きみはどこまでも優しくて純粋だ。誰からも愛される、たぶん、人間としての栄誉を天性にもつ人間なんだろう。
もしも俺が女だったら、間違いなく、君の腕、胸、そして心を求めるよ。なあんてね、冗談。冗談。
きみは愛してくれる?ああ、いやいや。俺じゃない。理、をだよ。きっと、気にするまでもなく、しているのだろうね。
……………箏曲が乱れたな。つづけて。止めようとするな。いまは、俺が話しているんだ。そう、そのままつづけて。
夏侯惇、きみは曹操のために生きているね。曹操が邁進するための礎になろうとしているのだな。
……………ちょっとだけね、考えることがある。
力で天下を平定する方法さえなければ、俺たちは造られなかった。
そんな方法さえなければ、俺はこんな思いをする必要もなかった。
仕方がないことと言えばそのとおりだけどね、人間が争うことを恨めしく思っちゃうんだよ。
遠くから歩いてきた俺としては、なんて小さいことをしているんだって思っちゃう。いらっとした?ごめん。だけど、これくらい言わせてよ。
天下は広い。広くて偉大だ。俺ときみの天下の認識にちがいがある。きみたちの世界はどれくらいの広さ?漢帝国が支配するところの範囲?まなこに映る限界?ほんとうの天下と言うのはね、果てはない。
天下をひとつにと突き進むきみたちの志をとやかく揶揄するつもりは、まあ、ないと言ったら嘘になるけど、俺は嫌だな。
ちっぽけなことなんだよ、ほんとうの世界の半分にも満たない地域を奪い合うなんて。小さな世界のなかで争い、妬み、死に合うことがどれほどくだらないと、知らないんだろう。
考えてもみて。
天下はそんなに大切か。すべて、きみらにとっての知る限りの世界のみを求め手に入れるのが?平和を願うために戦を起こすなら、自分たちの目が届く範囲で治め、中のひとびとを平和という名の下に幸せにすればいいじゃないか。
けれどそうはいかないね。人間の欲は、抜いても抜いても飽きずに生え出てくる雑草だもんな。
ごめん、ちょっと言い過ぎたかも。
人形の立場から言わせてもらえば、俺たちは人間の欲から生まれた。誇りたいから、生まれた。認められたいから、生まれた。利用してみたいから、生まれた。その欲をかたどったのが、雀で理だ。
だから、きみたちが如何様な正義と理想で戦えど、俺には滑稽にしか思えない。
……………ねえ、夏侯惇。約束してほしいことがある。
きみを信用していないわけじゃない。きみなら、きっと言わなくたって守ってくれる。だけど、言葉で伝えさせて。聴いて。
俺たちの正体は絶対にだれにも話したりしないでほしい。
もしかしたら、利用してやろうとする悪い輩が現れるかもしれないから。とくに、理を。脅すなり力ずくで物として扱うだろうから。そんなことがあれば、理は理でなくなる。あの子が人間の欲で汚されるのは、絶対に耐えられないし赦せない。
理は汚いところにいちゃいけない。できれば、なんでもいいから静かできれいなところにいなきゃだめなんだ。いてほしいんだ。
終われるというのなら、季節が花として如実にあらわれる清い場所で、争いがひとつもない、それがなんであるのか知ることもなく平和にその生を終えてほしい。それを分け合えればどんなによかったろう。
夏侯惇、もし、よかったら、理と静かなところでいっしょに暮らしてほしい……………なんてね。なんてね。俺のわがままだから、聞かなくてもいいよ。いや、まあ、俺もなんて馬鹿なことを口走ったものかな。そんなこと、有り得るわけないをわかってるのに。
………………え?そのとき、俺はどうするのかって。
どうしようかな。
先のことなんて、考えたこともなかった。
ねえ、夏侯惇。きみになら、わかるでしょう。
普天の下、率土の浜。空がつづいていくかぎり、道を歩んでいくかぎり。
俺にとって、理は崖に咲いた花で、星で、太陽で、届かない、けっして手に入らない。
だって、こんなにも俺たちの性質はちがうのだもの。
理が受けて痛む傷は、俺にとっては無傷だ。できないことを、俺は嬉々としてだってやれる。理が持たないものを俺は持っている。
上邪という、詞を知っているね?
我君と相知り欲す
長命まで絶え衰うること無からんと
山陵無く
江水渇くるを為し
冬に雷震震として
夏に雨雪り
天地合するとき
乃ち敢へて君と絶たん
あなたを愛しているけど、天変地異が起きて断たれるのならばさようならしましょうという内容だ。それでも、ずっと愛しいんだって。上邪。天よ、天よ。良い詩だよね。
いつ知ったかは忘れてしまったけれど、神に願うこの詩がね、とても好きなんだ。俺の気持ちは、これと変わらないもの。
でも、別れは嫌だ。もう、二度と嫌だ。たとえ世界が崩壊したって、さよならは、もう、きっと耐えられないよ。
ねえ、夏侯惇。
きみが好きだよ。理と同じくらい、きみが大好き。
この地に来るまで、いろんな人間たちに出会ったけど、いままで持っていた人間に対する刷り込みが変えられた。もちろん、利益と権力に目がくらんだやつらもいるけれど、きみは絶対にそんなやつらといっしょじゃない。根っこが、ちがうのかな。
もっとちがうかたちで、きみと逢ってみたかった。
老子が言ってたね。戦をする力も持たないで暮らす。自分たちで地を耕し、豊かな実りを享受して生きていく環境を尊ぶ「小国寡民」……………他国を侵さず、また侵されずに生きていくこと。
すべての人間がこんな理想を持っていたら、理と雀は生まれなかったけど、きっと、人間として夏侯惇に逢っていたと思う。
どうしてかな。そんな気がしてならないんだよ。きみと初めて逢ったときさ、きみから理の気配がしたような気がしたんだ。それから歩き回って、夏侯惇の屋敷の庭に忍んでみたのよね。もちろん、庭が素晴らしく整えられてて、きれいだなって思ったよ。
なんとなく、ほかの人間たちとはちがった感じがしていたのを、いまでも覚えてる。
それから、ちょっとずつ夏侯惇を知っていって、好きになっていったんだ。理が好きになるはずだよ。きみのような人間。ぜんぶ聴いていた。ぜんぶ。理に伝えたきみの言葉ぜんぶ。
俺が、人間のなかで初めて愛せたのがきみだよ。夏侯惇が理の近くに居たというのは、理由じゃない。きみがたくさん葛藤してくれたやさしさが、好き。そんな夏侯惇を知ってしまったから、好きになっちゃった。
以前、きみの部屋で白玉の耳飾りを見つけたでしょ。それは理のだったね。きまぐれで買ったとか言ってたけど、うそつきめ。
耳飾りを理はとても大切にしているよ。付けているのを見たから知っているのだ。真っ赤になっているなかで、白がひときわ目立っていたから。
ねえ、夏侯惇。
話を聴いてくれて、ありがとう。
雀は、いまとても満足しています。
ねえ、夏侯惇。
そろそろ、あたたかい場所に戻ろうよ。戻らないなら、いいよ、俺も居る。きみのそばにいる。
きみにあえてしあわせだと想えることに、俺はしあわせをかんじます。
すごく、うれしい。
江陵の占拠に成功した曹操は、束の間の休息に骨を休めた。
結局、劉備を生け捕りにすることには失敗したが、多すぎる民とふたりの娘は捕虜として手中に収められた。
劉備たちは、夏口のほうへと逃れたようだ。
城の各所では篝火が燃やされ、火は赤々と天へ昇らんとする。空には満ちた月が満天と誇って存ずる。空気はよく冷え澄み切り、風が吹こうものならば、身を突き刺すほど鋭利に凍えさせる。
城内の草木は枯れたものが少なく、年中を通して、緑の色をつけている葉が多かった。
常緑に囲われるように建てられた隠れの四阿から、静かな夜にふさわしい哀切極まった音曲が、ゆっくりと囁いている。半ば放心したまなざしで、夏侯惇はたったひとり、自由が利く左手で琴線を弾いていた。音が波紋をつくり、寒気を揺らす。ひとつの影はぴくりとも動かず、脆弱に光を受け陰影を浴びた。
夏侯惇のいる四阿はに篝火の明かりは届かず、月光の恵みを受けている。
目覚めたとき、江陵の城内で身を横たえられていた。右腕はしっかりと固定されていたが、肘から下がついているという感覚が無いに等しかった。身体、特に背中のあちこちが痛んでいた。
寝台の傍らには、雀(シャン)がいた。腕は前でひとくくりにされ手枷が嵌められていた。こいつ、なにをしでかしたのかと思ったが、そういえば俺はこいつに打ちのめされたのだったなと他人事のように思い出す。さらにその後ろで、韓浩が小さな口元に皺をいくつも寄せ、戟を手に雀を睨んでいた。
雀は、そそがれる視線に気づいたらしく、自分でやったんだと言った。それに対して、そうか、と返しただけだった。
瞼が重くなり、ふたたび瞳を閉じた。開いたときに雀は居なかった。一瞬の黒を感じたが、刻は長くすぎて、空気の色を如実に変えている。日が暮れていた。
韓浩と少し話をした。自分は雀からしたたかに打たれたあと、気を失ったまましばらく抱きかかえられていたらしい。泣きじゃくるあいつを討とうと飛び出した将兵たちを、自分は止めたのだという。覚えていなかった。だが、韓浩は「あなたは、止めろと、手出しするなと、あの者をかばいました」と教えてくれた。そして、寝台の上でも雀を呼び寄せたのだという。ああ、なるほど。だから雀はあのように私のそばにいたのか。理嬢は、無事だった。ずっと眠ってはいるものの、傷自体は浅く、手当は済んだとのことだった。深く息をつけた。
夏侯惇の命令は、韓浩を含む配下たちにとって不服であった。敬愛する上官が傷を負わされたのだ。報復が妥当だろう。だが、当の上官はその怒りに待ったをかけた。命令は絶対だとしても、内に煮え立つ感情はどうしようもなかった。
眉間に皺を寄せ、苦々しく口隅をゆがめたままの韓浩に、しょうしょう申し訳なくも思った。しかし、律儀に命令を守ってくれた礼を伝えた。そして、下がらせた。ひとりでいたかった。
なにを思ったか、箏を持ち出し今に至る。特に起きるなとは言われていない。
雲が月の帳を隠す。すると、声がした。雀だ。
「夏侯惇」
青白い肌。手は変わらず正面でひとくくりにされていた。その手には毛布が握られている。
「傷に障ります」
器用に、やさしく肩にかける。そして、夏侯惇の足元に屈んだ。雀なりの罪の意識だろうか。しっかりと見上げてくる。茶色の瞳。
「部屋に戻ろうよ」
箏を奏でつづける。
「いやだ。しばらく、こうしていたい」
「なら、もっと暖かい場所で」
「ほうっておいてくれ」
「……………怒ってるの?」
小犬のように、足にすがってきた。
「私が?理由がない」
「たくさんあるじゃない。俺は、夏侯惇を傷つけた。理も傷つけた。これ以上、怒られる、いいや、ちがう。嫌われる理由はない。ごめん、ごめん、おねがいだから、嫌わないで」
涙をため必死に請う雀の肩に、夏侯惇は触れた。怒りなどなかった。生きているのだから、もういいではないか。憎しみもない。
「憎悪があれば、すでにおまえは私の手で打たれている。…………おまえが理につけた傷は、浅かったと聞いた。それで、おまえの胸の内を信じようと思う」
雀の口は歪み、堰を切ったように泣き始めた。寂然の空間で、涙で息も詰まってしまうほどの嗚咽が響く。夏侯惇の手が、頭を撫でた。ああ。絹糸らしい髪がさらさらと流れる。
幾らかしたのち、息を小刻みに吸い、すすりあげるようにして泣くようになった。夏侯惇の足を、縛られた手で抱きしめ、離すまいとしている。
雀は言うた。
「理が大切?」
「大切だ」
「どうあっても?」
「どう、とは」
「化け物でも」
「ばけもの……………」
気後れした。濡れた目が、見つめてくる。
夏侯惇の唇に、そっと浮かんだのは、淡いほほえみだった。
雀は、にっこりと笑ったそばから、苦しげにぽつりぽつり吐露し始めた。
話すことが、今後どのように関わり、意味を持つのかと考える間もないままに。
どこからともなく、花のかおりが漂ってくる。くらやみにとけている花のにおいに、夏侯惇は身をゆだね、耳を傾けた。
嘘を言っているわけではない。しかし、嘘と思われても仕方ないことだとは、話す俺がよく理解している。
どれくらいの年月だったのだろう。
長さは、俺にはわからない。
十年に十年を重ねたような、長い、長い時間だったのはまちがいなかった。
とにかく、どれくらい、いつからそのなかに居たかは知れない。
……………ま、そんなのどうでもいい。
…………気がとおくなる時間を、俺は透明の器のなかで生きていた。それは事実だ。
生きてたというよりは、動けるまで待っていたというほうが的確かもしれないね。頭のてっぺんから足のさきまで、かたちがつくられるまでの準備期間だから相応だね。なんで俺がそこにいたかわかる?
……………あはは。わかるわけないか、だって人間だもんね。「普通」に生まれてきたきみたちにはわからないね。動物にも、虫にも、植物にも、これはわかろうはずがない。
あの透明の器は水で満たされている。
え、なんで息ができたのかって?
急がない、急がない。順々に話してあげる。
「普通」の人間の赤ん坊は、おかあさまの腹の、子ノ宮なかで成長するね。はじめからかたちをなしてるわけじゃなくて、米の粒より小さい生体から、だんだん人のかたちになる。そして、おかあさまとはへその緒とつながっているんだ。これは大切だよ。赤ん坊はおかあさまの吸った息を吸い、おかあさまがお食べになった食べ物を喰う。へその緒。これがなきりゃ、息もできないし栄養も摂取できないから。
子宮のなかは羊水っていう水で満たされていて、赤ん坊はそれに包まれてじっくりと成長を遂げる。そう。ひとのかたちを成す、目には見えないくらい小さな生物からね。
さあて、そろそろわかってきたんじゃないかな?
……………俺は、おかあさまの腹から産まれてきませんでした。
俺は。いや、俺も、理も。
でも、俺たちはひとのかたちになるまえの過程では、まちがいなく人間です。
むかし、むかしのことでした。
ある娘さんが死んだ、いや、殺されました。なんの変哲もない民族の、ふつうの村にすむ平凡な娘さんだよ。娘さんの一族は老若男女問わず馬を乗りこなすらしい。
ある日、娘さんは崖のしたで馬といっしょに、事切れていました。
きっと、山菜でも取りに出かけたか。獲物を見つけた途中で足を滑らせたか、卑しい賊にでも追いかけ回されあやまって落ちたのでしょう。嗚呼、とにかく哀れかな、娘さんは腹に子を宿しておりましたが、死んだためおなかのなかの赤ちゃんも……………そこで。
そこで。偶然見つけた老人が、娘さんの腹を引き裂いて腹から胎児を盗りだしてしまったのです。手のひらくらいの小さい胎児は女の子でした。
そのまま老人と胎児は姿をくらまし、いなくなりました。
深い深い山の奥深いところで、死んだ赤ん坊を、老人は育てることにしたのです。
遺体の赤ん坊は真っ二つになり、片方ずつべつべつに水晶をくり抜いた器のなかへと放り込まれました。
この老人はなにをしたいのでしょうか。娘さんに代わって赤ん坊を見守ることにしたのでしょうか?赤ちゃんを助けようとしたのでしょうか?ふたつに割って?否否否否……………いかれたじじいは、私欲で「俺ら」を造ったんだ。人間と言う基を使って、俺たちを造った。俺が、いや、理が生まれたのは、母親から無理に引きずり出されたからさ。
なんてことしてやがると思わないか?
死んだ母親から取り出してやったのだ。って、奴は神妙な顔をしながらも愉快そうに話していたよ。
理の話をしようか。
俺の目が開くようになったとき、理はまだまだ小さかった。胎児の前のかたちをしていたけど、やっとできあがった内臓や血の管とかが透けて見えていたし、目は黒い真珠玉のようにふたつあった。なんとも言えなかったね。すごく、可愛くてさ。この世にこんな大事な存在が在るのかってくらいだ。
自我が目覚めかけていた。ずっと俺は理を眺めていたよ。飽きなかったね。成長していくごとに、俺の身体も構築されていった。肉片が一より満たない数でできあがるごとに、理に対する愛情?というのかね。深みを増して質量を増していく感情があった。
ある日、あいつは理を外に出した。
今の俺の膝までしか背がなかった。
そのときの理は這うことしかできなかったから、あたりを芋虫みたいにのたうち回った。俺は中から透き通る壁を殴って、存在を知らせることもできなかった。だって、手がまだなかったのだもの。
あいつは、理に食い物を与えた。最悪だ。腐りかけた動物の肉。理は指図されるがままに這って蠅の群がる肉塊に歯を立て千切り咀嚼もそこそこに呑み込みつづけた。
きれいだって思った。
きれいだなあ、きれいだなあ。これは、醜いすがたなんかじゃない。腹が減ったと本能のままに食らいついている。生まれたままのすがた、しみひとつない真っ白な、からだをよごしながら。
かわいいなあ。
きみには理解できぬだろう。
腹が減っているから食べている。そこに打算や思惑はない。限りなく動物に近いすがただった。生まれたばかりだからこそもつ、無垢そのもののすがただ。胸がいっぱいになって、爪さえあれば自分の肌に立て抱きしめたい衝動を抑えたろう。よかったね、よかったね、おめでとう、外に出された、生まれたんだね、おめでとう。
ちょっと崇め称えたい気持ちがある。人間も、そんな感情があるだろ。神を信仰すること、主に忠義を誓うこと、形はちがえど、中身はいっしょさ。
俺は思った。俺は理のためなら、なんだってできる。
理はからだを獣の中身と毛で汚しながら食事を終え寝ちまった。
はやく、生まれたかった。この不自由な器のなかから出たかった。はやくこんなところを出て、理といっしょに肉を食いたかった。身体を寄せ合って、冷たさも寒さも温かさもぬくもりも、まどろみも、空腹も、ぜんぶを手をとり合って共有したかった。
それから。理はずっと器の外にいた。ゆっくり成長していったのを眺めていたから知ってる。だけど、俺のからだができあがったころにはいなくなっていた。歩けるようにはなっていたはずだから、どこか物陰にでも隠れているのかもしれないと思って、ようやく外に出された俺はそこらじゅうを探しながらあいつに尋ねたよ。
理は、どこにいるの?
嗤われた。おまえがいいこにしていれば、会わせてやる。そう言った。
頭が教えられることで爆ぜてしまいそうな日々が始まった。
武術、馬術、剣術、読み書き、……………舞に音楽。いろんなことを教えられたよ。はては女の相手から男の相手の仕方まで叩き込まれた。
赤い瞳になる方法も。やつが言うには、覚醒と呼称するものだそうだ。相手を殺すという意識を集中させて、もともと人間の持つ身体の能力をさらに向上させるために、頭の中にある力を制御する錠を外したり掛けたりするのだと。からだの中にある血の流れを操作するのだと。目の色が変わるのは、その証拠。つまり、俺たちが人間ではなく化け物であるという烙印でもある。
まあ、覚醒していなくとも俺の身体の能力は、普通の人間より優れているのだけれども。そういうふうに、つくられたからね。
毎日、からだがぐちゃぐちゃになるまで訓練をさせられた。傷に傷がいくつもできた。水浴びなんてさせてもらえなかったから、常にいやな臭いがしていたし、眠る時間も与えられず気がおかしくなりそうだった。
思い出したくないから、もう言わない。でも、理がひとつの希望で、なんとか諦めずに済んでいた。
だけれど、どれほど経っても理には会えない、教えてくれない。なんでなんでどうしてなの。詰め寄った、つぎは、ひとを殺したら教えてくれると言った。
理だけが俺の希望だったのに。理が、居るから。いつか会えるはずだったから。雀(シャン)という名前を自分で付けたのも、このころだったかな。
あいつは、どこからか男をひとり足首を引きずって連れてきた。目隠しをされ猿轡をされ後ろ手に縛られ殴られた男。
初めて人を殺した。言われるがままに、心を落ち着かし集中した。理のために、死なせてしまえば理に会える。
すぐ終わった。刀を一度振り下ろしただけで、首と胴を両断することができた。瞳も色も、血が集まる感覚から、錠の掛け方と解し方がうまくできたと実感できた。なにより、あいつの喜び具合がそれを如実に物語っている。べつに嬉しくはなかった。
あいつは言った。興奮を抑えられず息を切らし、成功だ、成功だ、失敗じゃないって。え?なんだ、それ。
ついにやったぞって、拳を握りしめていたよ。
熱く語りだしたよ。涎をちらしながらね。
あいつはことの成り行きをすべて話した。おまえと理は、死んだ赤子から私が造ってやった。感謝しろ。殺戮の兵器が、成功品の完成だ。私の実験は成功したのだ、やったぞ、ついにやったぞ。私はこの手で人間から人間ではないものを造ることができたのだ。研いだ石の肌じゃない、蜜蝋の肌でもない、磨いた木の肌じゃない、糸をたぐりよせ草詰め込み繋いだ布袋の冷たい臓器じゃない。水の血じゃない。人間の肉から造った育てた。肉の肌、肉の臓器、血の集まりである人形。生きている人形だ、とさ。
目の前が真っ白になるって。足の先から力が抜けて、白から黒がじわじわと侵蝕される。そうだ。これは絶望だった。
俺の問いへの返答は「あんなやつ、とうのまえに棄ててやった」だった。
俺は悟った気がしたの。理は失敗品だったから、棄てられちゃったんだ。なにが失敗で成功なのかは、俺自身がひとつずつ気づいていかなくちゃならないって。ここにいては理に会えない、やつを殺して理を探しにゆく。たしかに、手応えはあったのに、やつは血を流して泰然と立っていた。火に焼かれたこともあるって言っていたな。化け物が。死ななかったけど、俺は逃げることができた、走った。いま、探しにゆくからね。理、絶対、見つけだすから。
俺は逃げ切ったんだ。
その日から、俺の日常は殺し尽くすという本能と欲望にまみれていたよ。殺さなくちゃ、やられる。やらねば、殺される。正直に言う。楽しんでた……………この身体に流れる血が、肉が、猟奇にそそられ、歓喜してた。そうさ、ひとを殺して俺は喜んでいた。雀は強かった。強かったから、血がたくさん出る場所、出ない場所をよく知ってたから、わざと急所を外して苦しませることができた。世界で動くすべてが自分の手の内にあるような気がしてた。俺はなんだって好きなように扱えるんだって。
ふと、立ち止まった。
もしかしたら、理にはこのよろこびがないんじゃないかって。きっと、やさしいから失敗で俺は成功なんだ。
俺は完成された、成功品。
歩いて歩いて、いろんな事象や文化を体感しながら、ずっと考えていた。争いはどこにでもあり殺し合うのは当たり前なんだなあって。だけど、何度もそんなことを繰り返していたら、力が弱まるだけじゃない。力を下がらないようにするため、ひとは強力な力を持った兵器を開発する。うん、壊したり、殺したりね。その集大成が、俺たちなのだ。唐突に、閃いた。
これ、当たってるよね。
戦は互いに血を流すが、そこで、命令に忠実かつ殺戮をやり尽くす人形がいたら助かるだろう。人間が死んだり傷ついたりないから、実質国力の疲弊にはならない。食事も腐った動物の死骸や屍の肉で生き長らえる。殺した兵士、死んだ民を食って生きられるから、多くの軍隊を使うよりも、人形を使ったほうが、良い結果を得られる。労力もごはん代も浮くだろうしね。
俺たちは、理は、その人形として。殺戮をするだけのために、産みだされたんだ。
人間の力を凌駕する兵器。あいつは俺たちを操って、血の舞台を見て楽しみたかったんだと思う。
え、なんでかって?ええと。推測の域だけど、あいつは頭が良かった。手先も器用だった。たくさんの命を実験に自分の明晰を誇示したかったんじゃないだろうか。
亡くなった命を操る行為も、神さまに近い所業だろう。あいつは、きっと神さまになりたかったんだ。
手を汚す、命を奪う、虐殺して死体を増やす。俺はべつに心は痛まない。だけど、理はやさしい。自分が深く傷ついちゃうし、やったことの事実にも耐えきれない。俺とはっきり逆だね。あはは。
ねえ、夏侯惇。
どうして雀が理のことを解ると聞いたね。答えてあげる。俺は、理の身体から生まれたからだよ。俺は、理なんだ。
基になった胎の児は、女の子だった。ほんとうなら、無事に生まれていれば、変哲のない人間、理だったはずなんだ。
俺は理の身体の半分のかけらから、つくられた模造なのだ。俺と理は遠く離れていてもつながっている。どちらかが怪我を負えば、またひとりにも同様の怪我が反映されてしまう。嘘みたいだろう?ほんとうだよ。
ずっとそばにいた夏侯惇なら、理の身体に不可解な傷があったこと、記憶にあるんじゃないかい?
ねえ、夏侯惇。
俺は大好きなんだ。愛してると言ってもいい。
とってもとってもとっても大好きで愛してる。
そんなひとに、手を血で染まらせたいって望む馬鹿がどこにいるんだよ。
止めてやりたいじゃないか。
苦しんでいるのなら、その辛さから解放してあげたいじゃないか。
理の眼が赤くなること、それは本能に理性を抑え込まれた証拠だ。意識の主導権を奪われたんだ。理にとって、殺人衝動は理性もなにもない無の状態の出来事だ。なにが起こっているのかも、あの子には判断さえつかないんだ。
あとに残るのは、恐れおののくのみの現実と自分を責める気持ちだけなんだよ。
きみから目の話を聞いたとき、間に合わなかったって思った。まあ、そんなの俺の希望にしかすぎなかったけれど。きっと、自我が芽生える前にもたくさんその手で潰してきたものがあったはずだ。だったら、自我が芽生えたあとの出来事に苦しむのなら、理を殺して解放するしかないと考えてたんだ。殺してあげるのが唯一の救いだって思っていた。俺にはその手しか浮かばなかった。
死に幸福などありはしない。きみは、そう言ったね。たしかに、そうだ。なら、俺のしようとしていたことは、ぜんぶまちがっていたの?
まちがいだった。
まちがっていたよ。でも、これしか思いつかなかったんだ。ごめん、ごめん、ごめんなさい。愛してる。
あの理が、どれほどのものか、きみなら知っているはずだ。血で手を浸すには耐えられないことも承知だろう?だから、いろんなものを殺戮した現実を受け入れることなんて出来はしない。ただ、壊れてしまうのが関の山だ。それこそ、物言わない人形のようにね。
壊れる。俺は肯んじ得ない。ならば、安らかにしてあげるしか方法はない。すべてを知る前に、殺戮人形として生み出されたと察する前に。
……………でもね、でもね、夏侯惇。もう、だめなの。どうしたって俺は理に刀を向けられない。愛しているから。存在のすべてがだいすきだから。つらかったんだ、理と、殺し合ったときが、一番に苦しかった。なんで、こうなった?こうならなければいけない?俺が求めたのは、俺の半身と、理と、熱を、空くこと満ちることすべてをも分かち合うことだったのに。たった、それだけのことだったのに。
傷つけて傷つけられるあいだも、愛していたよ。
雀(シャン)に想う資格がないのは知っている上で、夏侯惇におねがいしたい。
どうか、理を守ってあげてください。
愛してあげてください。
あの子はそれを望んでいるだろうから。夏侯惇に。
雀は夏侯惇の足に凭れて、じっとしていた。頬を伝っていた涙は夜の空気に煽られ、冷たく乾いている。
「……………聞いても、いいだろうか」
後ろ頭を眺めながら、ためらいがちに夏侯惇は声をかけた。返事はすぐにかえってきた。
「どうぞ」
「ほんとうに、理嬢と雀は姉弟と言えるのか。理嬢の身体から生まれたのなら、子に、なるのではないか?」
申し訳なさげに、雀は言葉を詰まらせた。
「だってそうでしょう?先に外に出たのは、理だよ。もともとは、理の身体だったのを半分にしたのが俺だよ。複写ではなく、そのもの。でも、お母さんと言ってもちがいないだろうね。理は、母であり、姉であるんだね」
「私には、おまえが理よりも年長に見えるが」
「造り出したやつの好みだよ、適正だって考える身体になるまで成長させたからさ。俺は、見た目だけ理より年上なの。人間でいう二十半ばくらいかな」
「理の年齢は、どうなっているんだ?」
「生まれた年数は俺より理のほうが早いけど、身体や精神は夏侯惇がよく知る理のまんまのはずだよ」
「変わりないと?」
「うん。でも、ほんとうの年数は、わからない。でも、夏侯惇よりは上だよね。一年の数で年を重ねるならね」
「それも、おまえたちを造り出したやつが仕組んだことなのか」
「きっとね。あいつにとって俺たちは道具だから、失敗品を気まぐれに育てて、飽きて捨てたんだろうなあ。名前もつけてたくせに」
「人形とは、自然に成長するものなのか?」
背がのびた。髪がのびた。娘のあの小さな身体が、人間の子のように大きくなったのは。
「どうだろうね……………しらない」
夏侯惇はこの姉弟の話に、唇を噛んでいた。
にわかには信じがたい話だったが、ここで嘘をつくとは思えないし、合点がいってしまうのも事実だった。このふたりは呪われていたのだ。人間の力では到底抗えぬ呪縛にも感じられた。
「理は、どうして人を殺めてしまったのだろう……………」
「俺たちは、人を壊したり殺したりするために望まれて造られたんだよ。俺の推測だけど、長年積もった衝動が突然弾けても不思議じゃないでしょ」
蓄積された本能が、なにかのきっかけで決壊した。理由はわからない。おそらく、理にもわかっていないだろう。なにか危険があった、自分の身を守りたかった、推測を定められない。いずれにせよ、一気に理性を覆ってしまう厄災のような凶獣が、理の中に潜んでいるのだ。
「理は、本能を自分で支配できなかったんだね。ああ、そうか、棄てられたのは、力をうまく操れなかったからか、やっぱり………………」
返答のさいごは、独り言のようになっていた。
「長坂で、見境なく殺してたよ。あの子ね、疲れないと止まらない。ああ、失敗品。そうだね、自分で制御できないなんて、たしかに失敗品だ」
人生を根底から狂わされた忌み子の姉弟だった。
雀は、理嬢とともに押しつけられ背負わされた忌ま忌ましい因果に、ただひとり、知れずに抗っていた。それは他ならぬ自身の半身である理嬢のためだった。呪われたさだめのしたに落とされた理嬢を救うために、雀は戦っていた。それが、たとえ理嬢の命を奪う結果になろうとも、雀は救済するだけのためを目的に、惨憺と踊っていたのである。雀の選んだ愛情は諸刃のつるぎであった。
理嬢を殺めるは雀自身を殺すこと。
鎖から理嬢を救おうとしていた。
死に幸福などありはしない、しかし、雀の選んだやりかただった。
「あのとき、私が介入していなかったら、刺し殺していたか?」
「……………うん。手狂いはなかった」
「だが、おまえも死ぬのでは?」
「死ぬつもりだった。理の頭を貫いたら、同じ傷が俺にもできたけど、所詮それは俺に反映されただけだから、致命傷にはならない。だから、自分で自分の胸を突くつもりで。……………いっしょに、あそこで……………」
「もう、言うな」
命の剥奪というかたちでしか、理嬢を護ることができなかった。それが、夏侯惇は反対のかたちで成し得た。
雀は立ち上がった。
四阿の階から滑るように降り、こちらを振り返った。空を仰いだ。
清々しいかんばせ、うつくしいと思った。夏侯惇は弦に指をかける。一音が、周りのすべてがふるえ、どよめかせる。
常緑樹の葉も、月も、月の光も、まばらに座する星々も、帳のごとき薄き雲も、四阿の柱も、石畳も。すべて、すべてが揺れた。夏侯惇と雀の身体のなかへ、入り込んでゆく。
雀は舞った。足を踏み鳴らし、腕を羽ばたかせ、髪を乱舞させる。初めて聞く異国の言葉を調べにのせて、これもまた異国の舞踏を舞った。
うつくしい。夏侯惇は思った。闇に漂う甘くかぐわしい香りの中心で、踊るものを見て。そして、奏でた。
雀は舞った。
命を魅せるように熱く、烈しく、幽艶に、切なく。
ここから話すことを、せっかくだから箏を奏でながら聞いてくれ。でも、聞かなくたってかまわないからね。
ねえ、夏侯惇。
きみは、理が、俺が人を殺すためだけに造られたこと、俺たちが人を殺して死体を喰うことを狂気の沙汰と思うかい?それとも、人の道から外れた野蛮なことだと思うかい。
思わないほうが、おかしいよ。人のかたちをして、人とおなじいとなみのなかで息づいている化け物だもの。でも、きみは、逆に俺たちにかわいそうって思ったでしょ。
わかるよ、それくらい。
ねえ、夏侯惇。
俺はきみが好きだ。俺が理を愛するのとおんなじように。
きみはどこまでも優しくて純粋だ。誰からも愛される、たぶん、人間としての栄誉を天性にもつ人間なんだろう。
もしも俺が女だったら、間違いなく、君の腕、胸、そして心を求めるよ。なあんてね、冗談。冗談。
きみは愛してくれる?ああ、いやいや。俺じゃない。理、をだよ。きっと、気にするまでもなく、しているのだろうね。
……………箏曲が乱れたな。つづけて。止めようとするな。いまは、俺が話しているんだ。そう、そのままつづけて。
夏侯惇、きみは曹操のために生きているね。曹操が邁進するための礎になろうとしているのだな。
……………ちょっとだけね、考えることがある。
力で天下を平定する方法さえなければ、俺たちは造られなかった。
そんな方法さえなければ、俺はこんな思いをする必要もなかった。
仕方がないことと言えばそのとおりだけどね、人間が争うことを恨めしく思っちゃうんだよ。
遠くから歩いてきた俺としては、なんて小さいことをしているんだって思っちゃう。いらっとした?ごめん。だけど、これくらい言わせてよ。
天下は広い。広くて偉大だ。俺ときみの天下の認識にちがいがある。きみたちの世界はどれくらいの広さ?漢帝国が支配するところの範囲?まなこに映る限界?ほんとうの天下と言うのはね、果てはない。
天下をひとつにと突き進むきみたちの志をとやかく揶揄するつもりは、まあ、ないと言ったら嘘になるけど、俺は嫌だな。
ちっぽけなことなんだよ、ほんとうの世界の半分にも満たない地域を奪い合うなんて。小さな世界のなかで争い、妬み、死に合うことがどれほどくだらないと、知らないんだろう。
考えてもみて。
天下はそんなに大切か。すべて、きみらにとっての知る限りの世界のみを求め手に入れるのが?平和を願うために戦を起こすなら、自分たちの目が届く範囲で治め、中のひとびとを平和という名の下に幸せにすればいいじゃないか。
けれどそうはいかないね。人間の欲は、抜いても抜いても飽きずに生え出てくる雑草だもんな。
ごめん、ちょっと言い過ぎたかも。
人形の立場から言わせてもらえば、俺たちは人間の欲から生まれた。誇りたいから、生まれた。認められたいから、生まれた。利用してみたいから、生まれた。その欲をかたどったのが、雀で理だ。
だから、きみたちが如何様な正義と理想で戦えど、俺には滑稽にしか思えない。
……………ねえ、夏侯惇。約束してほしいことがある。
きみを信用していないわけじゃない。きみなら、きっと言わなくたって守ってくれる。だけど、言葉で伝えさせて。聴いて。
俺たちの正体は絶対にだれにも話したりしないでほしい。
もしかしたら、利用してやろうとする悪い輩が現れるかもしれないから。とくに、理を。脅すなり力ずくで物として扱うだろうから。そんなことがあれば、理は理でなくなる。あの子が人間の欲で汚されるのは、絶対に耐えられないし赦せない。
理は汚いところにいちゃいけない。できれば、なんでもいいから静かできれいなところにいなきゃだめなんだ。いてほしいんだ。
終われるというのなら、季節が花として如実にあらわれる清い場所で、争いがひとつもない、それがなんであるのか知ることもなく平和にその生を終えてほしい。それを分け合えればどんなによかったろう。
夏侯惇、もし、よかったら、理と静かなところでいっしょに暮らしてほしい……………なんてね。なんてね。俺のわがままだから、聞かなくてもいいよ。いや、まあ、俺もなんて馬鹿なことを口走ったものかな。そんなこと、有り得るわけないをわかってるのに。
………………え?そのとき、俺はどうするのかって。
どうしようかな。
先のことなんて、考えたこともなかった。
ねえ、夏侯惇。きみになら、わかるでしょう。
普天の下、率土の浜。空がつづいていくかぎり、道を歩んでいくかぎり。
俺にとって、理は崖に咲いた花で、星で、太陽で、届かない、けっして手に入らない。
だって、こんなにも俺たちの性質はちがうのだもの。
理が受けて痛む傷は、俺にとっては無傷だ。できないことを、俺は嬉々としてだってやれる。理が持たないものを俺は持っている。
上邪という、詞を知っているね?
我君と相知り欲す
長命まで絶え衰うること無からんと
山陵無く
江水渇くるを為し
冬に雷震震として
夏に雨雪り
天地合するとき
乃ち敢へて君と絶たん
あなたを愛しているけど、天変地異が起きて断たれるのならばさようならしましょうという内容だ。それでも、ずっと愛しいんだって。上邪。天よ、天よ。良い詩だよね。
いつ知ったかは忘れてしまったけれど、神に願うこの詩がね、とても好きなんだ。俺の気持ちは、これと変わらないもの。
でも、別れは嫌だ。もう、二度と嫌だ。たとえ世界が崩壊したって、さよならは、もう、きっと耐えられないよ。
ねえ、夏侯惇。
きみが好きだよ。理と同じくらい、きみが大好き。
この地に来るまで、いろんな人間たちに出会ったけど、いままで持っていた人間に対する刷り込みが変えられた。もちろん、利益と権力に目がくらんだやつらもいるけれど、きみは絶対にそんなやつらといっしょじゃない。根っこが、ちがうのかな。
もっとちがうかたちで、きみと逢ってみたかった。
老子が言ってたね。戦をする力も持たないで暮らす。自分たちで地を耕し、豊かな実りを享受して生きていく環境を尊ぶ「小国寡民」……………他国を侵さず、また侵されずに生きていくこと。
すべての人間がこんな理想を持っていたら、理と雀は生まれなかったけど、きっと、人間として夏侯惇に逢っていたと思う。
どうしてかな。そんな気がしてならないんだよ。きみと初めて逢ったときさ、きみから理の気配がしたような気がしたんだ。それから歩き回って、夏侯惇の屋敷の庭に忍んでみたのよね。もちろん、庭が素晴らしく整えられてて、きれいだなって思ったよ。
なんとなく、ほかの人間たちとはちがった感じがしていたのを、いまでも覚えてる。
それから、ちょっとずつ夏侯惇を知っていって、好きになっていったんだ。理が好きになるはずだよ。きみのような人間。ぜんぶ聴いていた。ぜんぶ。理に伝えたきみの言葉ぜんぶ。
俺が、人間のなかで初めて愛せたのがきみだよ。夏侯惇が理の近くに居たというのは、理由じゃない。きみがたくさん葛藤してくれたやさしさが、好き。そんな夏侯惇を知ってしまったから、好きになっちゃった。
以前、きみの部屋で白玉の耳飾りを見つけたでしょ。それは理のだったね。きまぐれで買ったとか言ってたけど、うそつきめ。
耳飾りを理はとても大切にしているよ。付けているのを見たから知っているのだ。真っ赤になっているなかで、白がひときわ目立っていたから。
ねえ、夏侯惇。
話を聴いてくれて、ありがとう。
雀は、いまとても満足しています。
ねえ、夏侯惇。
そろそろ、あたたかい場所に戻ろうよ。戻らないなら、いいよ、俺も居る。きみのそばにいる。
きみにあえてしあわせだと想えることに、俺はしあわせをかんじます。
すごく、うれしい。