第七章 破戒 暗翳の闇



約十万の人間と荷物を載せた車、それを牽く牛馬は、まるで神話に語られる大蛇のように太く、長くうねっていた。

蛇の胴体は包丁で寸断されて細かく散らばり、さらに分裂していく。大蛇を成敗してしまおうとするのは、五千の騎馬。

個々には差があり、ある一定の動きに難なく付いて行けるもの、行けないものに割れる。大衆から離れた一団があってもおかしくはない。

昨日、初めて劉備率いる非戦闘員を捕虜にせしめ、曹操は手応えを感じた。気にかけることもないのだが、しきりに、悪魔だの、鬼だのと手負った民が叫び、震えていた。

翌日、虎豹騎を筆頭にした追撃は、ようやく劉備に接触した。

敵、味方入り乱れた白兵戦。捕まってなるものかと抗ったものは、農民と言えど容赦ない制裁を与えられ、混乱を極めた。増長された恐怖と狂暴は怒涛の災害のように荒れる。

血がない場所なんて、どこにあるのだ。白い粉塵が宙を舞い、視界を濁らせている。趙雲は槍を片手に四面楚歌、周囲は曹操の手のものばかりの背水の陣の状況を疾走していた。劉備が、家族と離れ離れになったのだ。

曹操の鋭利な冷徹さと恐怖を、身を持って知る劉備は、ついに追いつかれてしまったと報告されると潔く投降してしまおうとした。降伏によって無辜の流血を食い止めようと考えたのだ。民たちを思いやってのことだが、張飛、諸葛亮は頑として反対し、無理矢理に関羽のもとへ送ろうと引きずるように連れて行った。

趙雲は、御家族のだれでもいい、ひとりでも、この混沌から救い出し劉備へ届けたかった。命令ではない。自分らが護衛をしておきながらと自責の念を胸に李四象と首を返した。はたして、どちらも生きて戻ることができるか心配ではあるが。

諸葛亮が言った。計画を、きちんと立てておくべきでした、と。あのとき話そうとしていたのは、これだったのだと思った。だとすると、諸葛亮は目まぐるしいなかで、家族を捨てるのを画策していたのだ。護衛をつかさどる趙雲らに話さなかったのは、まだ独断であり、劉備の反対もあったろう。

血のにおいが濃くなった。

死臭が充ちる。鼻と口を覆っても、ひしひしと感覚を刺激する。これは、ただの死臭ではない。においだけではない。たとえるなら、空腹の狼の群れに無防備で放り込まれたような。愛馬白龍も異様な気を察したのか、歩みをたじろいでいる。

白龍の鬣を汗ばんだ手で梳き撫でた。落ち着け、だいじょうぶだ。

そのとき、すぐ目の前に、肉片が転がっているのを見た。もうもうと白煙のなか、赤い塊は点々とつづいている。これは。虎や熊の獣が食い散らかしたかのような乱雑ぶりで、直視するには厳しい。心を保っていられるかどうか、悩んだ。人体とおぼしきものがこれでもかと悪臭を放つ。

進むごとに腹の底がじわじと疼く。背を真っ直ぐにさせ、右手に握る槍を一度大きく薙いだ。だいじょうぶだ。白龍の腹を股で締める。力強く駆け始めた。

いっそう血の香りがひどくなる。しかし、気にする猶予など与えられてなどいない。すこしでもはやく、捜し出す。気にするな、奥方と阿斗君を早く見つけろ。

なにかが燃える熱さが、風と煙とともに巻かれ運ばれてくる。つい手綱を引き、顔を覆い、腕の隙間から前方を見た。一瞬、ひとりの女が、かすんで見えた気がしたが、すぐ吹きき上がる粉塵に絡められ、いなくなってしまった。趙雲に興味を示さず、遠くを見ている虚ろな影を宿した女だった。

まぼろしであったのか。まぼろしにしては、鮮明だった。それはとても鮮やかな赤い眼が強く残る。

恐怖にも似た虜となるも、怒号に我を取り戻す。前と後ろ、右と左。四方八方から絶えなく聞こえ、趙雲に焦燥を募らせ、女の幻想は失せた。

安全などという路は有りはしないのだが、いくらか敵の手薄なところがあるはずだ。しかし、趙雲一騎では、あまりにも多勢に無勢すぎる。堅い唾を呑み込み、沈着であることを心がけた。脈動は手綱を巡り白龍にも届く。

五感を澄ませる。

趙雲に白刃の太刀が横切った。咄嗟に槍の柄で受け弾く。戦塵はわだかまりをほどき、なかから真紅の双眼が光る。晴れ、輪郭を露わにし刀を握るのは白衣の男だった。

赤は睥睨してくる。そして、ふたたび刃を振るってきた。

互いの馬を駆け合わせ、十合ほど交える。

十一合めで、白衣の男は口を開く。

「おまえ、曹のやつか?」

「貴様が曹操の配下であろう。なにをおかしなことをほざいている」

「失敬した。違反したかどやらで、捕らえられるかと空回りをしてしまった」

男は刃先を地に向ける。

「生憎、敵も味方も、全員の顔を覚えているわけではなくてね。おまえは、劉備の?」

「察しの通りだ」

騎乗しているため、敵陣の有力な人物かと思ったが、供のひとりも連れずにいる。いや、油断させる策か。愛槍を構え直すと、男は肩を竦めた。

「俺は雀という。どちらかと言えば曹操寄りだけど、劉備たちと争うつもりはない。さらに、俺はただの兵卒。この馬は借りものだよ」

「脱走者か?」

「よくない想像を巡らさないでほしいね。まあ、脱走と見られても仕方のないけれど、圧倒して曹操が有利なのに、脱走する理由がどけにあるの」

泥に汚れた下にある唇が、あまり動かない程度に引いた。

「ひとを探しているんだ」

強い意志を潜ませ雀は言った。趙雲も偶然にもひとを探している。怨嗟が蔓延っているというのに、この会話はひどく滑稽だった。

男はおどけた様子をちらつかせながら、話を紡ぐ。

「荒れ果てた状況で活きがいいのに会えたのは幸運だ。いままで見たのは死体と兵ばかりでさ。俺と同じ顔をした女、知りませんか」

「女?」

雀という名の、この男とまぼろしの面影が重なった。

「居た気、ならしたが。おまえではないのか」

やはり。すぐ近くに居る、雀は確信を持った。おまえではないのかと言った。それは、間を空けずに俺に出会ったというにほかならない。

近くに、いる。感じて、どくり、一度大きく胸が高鳴ったのが分かった。

「礼を言う。おまえは、どうしてたった一騎でこんなところにいる?先は曹操の大軍だ。虎と豹の旗を掲げる軍団だっている。さっさとお逃げなさい」

「おかしな物言いを。敵の身を心配するとは、さぞお人好しなのだな」

「俺がお人好しだって?そんなもの、かけらもない。狼に城を奪われるような阿呆といっしょにするな」

昔の、呂布との出来事を言っているのだろう。

「口の悪いやつだ」

「敵なんだろ?敵さんに礼儀正しく接しろと説教か」

「敵ならば、私の首を取ろうとしてみるはずだ」

会話のやりとりに嫌気が差し、雀は大声で喚いた。息がつづかなくなると、呼吸をし言った。

「劉備が勝とうが曹操が勝とうが、興味はないの。どっちだっていい。せいぜい力の及ぶ限り、好きなよう足掻いとけ」

「私を見逃すのか」

「しつこいわ。言いたいのは、俺のさまたげになるやつでなければ、相手にしないということだ。つまり、おまえにとって敵だろうと、俺にとっては敵でも味方でもない。そして、俺には時間がない。あしからず」

手柄や名を上げ、武勲を立てるのに興味はないようだ。

刻に余裕がないのは、趙雲とて同じである。

槍の切っ先を後ろ手に回した。

「曹操は抵抗する輩に容赦は無用と旨の命令を出した。ついで」

雀のあだめく長い髪がたなびき、趙雲の肩をかすめた。

「俺と同じ顔の女に会ったら、気をつけろ」

馬の蹄の音が消えた。

振りかえらず、白龍を駆け走らせる。

奇妙な男だった。

異質のほめやかされる妖気を纏った艶容は、強烈に漂う腐敗臭と釣り合わんものの、酷たらしくふさわしいような。

呑まれてはならぬ。趙雲は沈み積もる障気を吸い込み、逆に制圧してやるほどの意気を目覚めさせる。

雀とは反対の道を行く。

己の身もさることながら、友人、李四象季華の身を案じた。俺と同じ顔の女に会ったら、気をつけろ。と、言い放った男の言葉によるものではない。たかが、あの顔をした女であろう。

心を配るのは、季華も自分と同じく単騎駆けていることだ。友人は気の弱くなるときがある。流血が必ず伴う戦に迷いを生じさせて、敵に刀を突き立てるのに躊躇する。それが、如実に全面へ浮かぶようになった。怯懦と決めつけてもいい。戸惑いは死に直結し、持たざるものだ。

悪臭と、ときの声が身体じゅうをつんざいた。

曹と虎豹の旗を携え向かってくる一団に歯を食いしばる。





夏侯惇は自軍の騎兵を各小隊に編成し、追撃を開始させようとしていた。さきほど、曹操たちに追いついたばかりである。

先鋒の伝令から、若武者が戦場を単騎駆けているとの知らせが入る。猪の突進かと思いきや、そうではないらしい。

さらに、劉備の娘ふたりを生け捕ったと知らせが入った。劉備が虜となるも、刻の問題だろう。しかし、すでに虎豹騎、張遼、夏侯淵などの名うての部隊が追い回しているのにもかかわらず、難儀しているようだ。にわかに空が翳りを帯び始めていた。

持久戦はこちらが、より有利となるだろうが、暗くなればなるほど、劉備たちは闇に紛れる。逃す手立てをなくす。

劉備を捕らえなければ、すぐさら標的を武器が豊富に蓄えられた江陵の城に変えたほうが良かろう。それでも、のちのちの憂いを絶つべく劉備確保は第一の優先だ。

曹仁と于禁の二将が騎乗し近づいてきた。

「夏侯惇、着いたか」

「御到着お疲れさまです」

「仁、于禁」

ふたりは曹操に連なって猛攻を担っていたはずだ。

「なにか、従兄上にあったのか」

「殿は御健在に在られます。虎豹騎とともに劉備一行を追っていますが、我々は手の内に入れた襄陽の民たちの監視を任されました」

答えたのは于禁だった。

「十万の人間を。恐れ入るな」

「そのため、私たちだけでは手が足りんのだ。わざわざ小隊に分けてもらってすまないが、手を貸してもらえないか」

少々くたびれたように、わずかに両肩を竦め、曹仁が言った。

たかが、か弱いものたちの見張りだろうに。曹仁と于禁たちの軍団さえ居れば、充分足りると思うのだが。いくら、曹操が百万近くの率いているとしても、捕虜ごときに人材を投入するのは得策ではなかろう。

攻められるときに攻め、捕虜などはほんの数でいい。名の知れた武将や、反撃をちらつかせる危険のあるものではないのだから、尚更だ。

「仁らしくもない。おまえたちでは役不足なくらいだろう」

曹仁と于禁は互いに、目配せした。

「われわれでも手に負えないときはあります。常人ならばいざ知らず。気が触れたものたちは、どうしても収拾が尽きませぬゆえ」

「気が触れた?さすがは劉備や張飛らと一緒にいた民衆だ。隙をついて襲ってくるのか」

「不意打ちならば切り捨てるという術がある。従兄上の御命令もあるからな」

「我が身をこころみず、刃向かってくるのではありません。発狂しているのです」

「発狂?縄でもって縛り付けておけばいいだろうが」

なかなか手荒な発想だが、狂人ならば構わないだろう。戦のさなか、状態が普通ではない人間を相手に、どうのこうのと穏便にことを進めようと考えるのは時間の浪費である。手早き効率良い方法を率先して行うべきだ。

また、曹仁と于禁が顔を見合わせた。

「口よりも、その御目で確認されたほうがよろしいでしょう」

と、于禁は馬から降り供のものに頼んだ。そして、夏侯惇を半ば強引に降ろし、引っ張っていく。慌てて曹仁と韓浩がついてくる。

足が一歩、一歩前に進むにつれ、かたまった人の群れが見えた。実際、目にするのと想像しているのでは大きな差がある。すると、あきらかにわざと発しているであろう音が聞こえ始めた。人間の声なのだが、音と形容したほうがふさわしい。

意味を含まない音が耳をいっぱいにするのに、そうかからなかった。とあるまとまりから、音が奏でられ、異様な雰囲気に夏侯惇は眉をひそめた。つぎに、歩みが止まる。

脚を曲げた状態、赤ん坊のようなすがたで縛られた人間。地べたに臥せもがき這っている。口を塞ぐ方法はなく、ただ音が漏れ出ている。白眼をむき出しにするもの、泡を噴き出し引きつけを起こしているものさえもいた。

「ほんの一部にすぎません。まだ、三カ所ほどあります」

「なぜ、このような」

「まったく知れないのですよ」

「傷が痛むのだろうか」

縛られたている人間のほとんどが、頭から血をかぶり、真っ黒だった。

「いいえ。傷のための血ではありません」

「……………どういうことだ?」

「傷故に発狂しているわけではありません。身内を殺された瞬間を近くで見た所為かとも思いましたが、どうやら違うようです。ここにいるのは血を浴びているものが大半を占めていますが、ほかの場所では逆の場合が多い。面倒なことに、異常者はもっともっと増えつづけている」

「増えている?」

「おとなしくしていた民が、突如として雷にでも撃たれたように騒ぎ出し、御覧のとおりになるのです」

「突如?」

縄がなければ、おそらく四つん這いで地面を這いずっているであろう民のひとりに、于禁は指を差す。

「このままでは、いずれ縄が足りなくなる。ならば見張る必要があります。だから、貴方に手伝って欲しいと御願いしました」

手伝えと言われてもどうすればいいのだろうか。

狂気の連鎖が絶えない。蚊と蠅が何匹も飛び交っているように、胸をざわつかせる。雀(シャン)。醜悪の根源が雀なのではないかと思った。だが、好き勝手に虐殺を起こすまねをするやつではない。以前はそうであったとしても、自分に刃を向ける輩以外を、戦場にて相手にはしない。雀は、そんなやつだろう。

しかし、雀の言った言葉はなんだったのだろう。

ひとり葛藤する夏侯惇の耳に、音が入った。悪魔。鬼。殺される。

あかい、め。赤い目。

身体中の毛と言わず、肌もが逆立った。血が凍りつき急速に融けるのを感じる。

まさか、雀が、なにかをしているのか?そう思うと、考えよりも足が動き、走り出していた。





喜びはない。あきらめに近い、感情。とうとう、このときが来てしまったのだという、処刑を待たされた囚人の気持ちに近いのだろう。

「はじめまして、理。あなたの弟の雀です」

「……………」

「覚えているわけないか。残念だけど」

「……………」

「一度くらい、名前を呼んでほしかったなあ」

血族の気配が、雀をいざなった。誘われた末路は、まさしく望んだひととの出逢いである。黒のかたに残るあの香りに、間違いなかった。

雀はやっと理嬢とふたりきりになれた。幾数年ぶりの想いびとは、血に彩られ肉に飢えていた。白磁の手から、まだ活きのよい血が尾を引いて滴り落ちている。

静寂とは、このことを言うのだ。赤ん坊の泣き声と母親のあるひとを呼ぶ声が、小さく囁かれていたが、すこしも気にならなかった。どこかで覚えている情景の結末。外の怒濤の声さえも気にならない。

漂う腐臭。与えられた出逢いの場所がこんなところだとは、神がいるとして悪辣この上ない。

「たくさん殺しちゃったんだね。でも、さすがに赤ちゃんと、おかあさんを殺すのはだめだよ」

すんでのところで、雀が逃がした。いつぞの気まぐれとは、ちょっと異なる。

答えなかった。雀の存在はひどく珍しいらしく、見つめたまま動かない。

「何人殺したか、覚えてはいないんだろう?俺がもっともっと、はやく理に逢えていたら、よかったね」

いいや、殺していたら、よかったね。

初めて重く感じた刀を構えると、理嬢は嬉しそうに口元を歪めた。

どうして、わらっているの?

俺は泣きたいのに。

白い砂の上に影が伸びる。輝かしいばかりのまばゆく光が、雲を突き抜け射す。

「やっぱり、あのとき、死なせてあげればよかったね。ごめんね、ごめんね、理」

現実に耐えられるほど、きみは強くない。苦しむのなら、楽にしてあげる。

理嬢は返しの言葉を口にはしなかった

ごめんね。

ごめんね、夏侯惇。俺はこれから理をあやめます。俺も、死にます。

告白の聞き手はここには居らぬ。ましてや、一番に聞いてほしい人物には、面と向かい言う勇気はない。

理を殺したら、きっと夏侯惇は俺を壊したいくらい憎むでしょう。

夏侯惇が俺の命を奪うのはべつによしとして、嫌われるのは、嫌です。だから、これが終わったら、俺は死にます。きみに生きているあいだは憎まれたくありません。

せっかく、理を護ってくれるというのに、それを放ってしまいました。一度、護ってくれないと怒ったくせに、終止符を打つとは。ですが、これは俺の目的であります。

誤解してほしくないのは、俺は理を愛しているということだ。命を奪うかたちで、護るかたちをとることしかできないために、俺はこうするしかないのである。ほんとうは、したくないのだ。愛しているのに、俺は死を与えなければならない。そんな俺は、悪なのでしょうか。理のためなんだ。理を想う愛のかたちはこれだけ。ほんとうは、もっとやさしいかたちで愛を表現したかった。苦しいんだ。俺は、苦しい。

いつでも好きなときに、とどめを刺し目的を遂行するのは難しいものではなかった。それをせず、もう一度、と猶予を作った雀のこころを、せめてもの愛としてはいただけませんか。

ごめんね、夏侯惇。理と雀をどうか忘れてください。曹操にも、その息子や、庭師の坊やにも忘却するようどうぞおすすめし、一生を二度と思い出さずにすこやかに末永くお過ごしください。それが、幸せになるための方法です。代わりに、きみへ理の祈りをお伝えしましょう。

「夏侯惇さまはやっぱり優しいから、まっ白すぎますから、夏侯惇さまの優しさは並みの優しさとはちがう。すべてのものに、愛しさと慈しみを捧げるんです。誰にでも、食料にされる牛や豚にでさえも。ひとの苦しみを知らず知らずのうちに背負ってしまうのですね。苦しまないでください。いつか、苦しんで、苦しんであなたが無くなってしまう気がする。おねがいです。わたしのせいで、苦しまないでください。自分のためのしあわせを追い求めてください。しあわせになってください。自分よりも他人を思いやる夏侯惇さまこそ、まわりはあなたのしあわせを願うのですよ。」

さんざん慈しまれ育てられた理なら、こう言うのでしょう。

俺もそうです。きみの最上のしあわせを願います。

こんなときに、場ちがいではありますが、きみのとなりはなかなか居心地のよろしいものでした。産まれたその刹那より、血と肉の災いを義務づけられた暗闇を歩まねばならぬ俺に、やさしさというものを感じさせてくれた。感謝いたします、夏侯惇。

さあ、理。目覚めるまえに、終わらせてあげよう。夢うつつのまま思い残すことは、と思う間もないままに。それはきみが欲しいものだろう。

ごめんね、夏侯惇。きみは俺たちの重なり横たわる屍を見つけたら、いったいどんな顔をするのかな。笑ったような、穏やかで何事もなかったような表情をするつもりだけど、できれば悲しまないで、そっとしておいてください。

ああ、ごめん。ですぎたまねをした。

理には、いっぱいの憐憫をかけてね。でも、俺たちのことはそっとしておいて。ゆっくり眠らせて。

大好きです、愛しています。理は言ったよ。

人間の愛なんて、さっぱり解らないけれど、意味は知ってるよ。字の成り立ちは、こっそりと歩く意味を表すらしいね。つまりこういうこと、やさしく寄り添うんだろう?

理が字の意味を知っていたかは知らないが、理は理の信じる愛を慕い、人として、きみを愛したんだろうな。理の愛はきみにやさしく寄り添ったんだろう。親としてきみを愛し、兄弟のようなものとしてもきみを愛し、また、きみのまごころと思いやりを感じ、それもまた深く愛した。血みどろの理には不釣り合いなものだがね。

雀は理嬢に向けて刃を大きく薙いだ。刃は胸を斜めにめり込む。すると、雀の胸からも同じように傷があらわれ、血が溢れ上がった。

ぜんぶ忘れてください。

自分も例外なく、すべてを忘却し目的をまっとうすべく忘れようと、忘れろと切に願った。はじめに、なかで愛する理嬢の息の根を止める。追憶のはかなげな笑顔。最後まで辛くならないように、消してゆく。そして、夏侯惇を。




俺は、なぜ、この場所にたどりつけたのだろう。

それは、眼を通り越して頭のさらに奥であるところにまで凄まじいほどに焼け付いた。

灼熱たる篝火のなかへ手を突っ込みそのまま焦がれていくように、燃える。白き粉塵。まだ活きがよい血と肉の腐敗臭のなかで、よく似た顔が競って乱れ、度を超して舞っている。

ひとつは長年いつくしんだ、大切なもの。瞳に正気は無く、口を深く深く引いて両手を紅蓮に染めていた。またひとつは艶美。唇を引き締め、意志をためた白刃を振るう。

ふたつの身体は埃に汚れ、濁る赤に濡れていた。夏侯惇は凍りつき、韓浩に支えられやっと立っていることができた。まばたきをすることをゆるさないような烈しく勢いけたたましき乱舞の動きは、息づかいとともに夏侯惇を束縛する。

うつくしい。そう感じるのは、いったい、なぜなのか。ただの剣舞や演武、もしくは奉り納める祭祀の舞ならこのまま魅入っていたほどだ。白い肌にまとわりつくのは、赤い花。花びらがひらひらと飛び散り弾け飛ぶ。

理嬢が白い肌をさらしながら雀の腕に掴みかかり、その腕から血を噴き出させる。雀は呻きをあげるものの理嬢は嗤ったままで、掴んだ同じ部位から血を滲ませた。

理嬢。雀。ふたりは同じ身体の箇所に傷を負っているのだった。雀が理嬢の足を斬りつければ雀自身にも傷が開き赤を飛ばす。理嬢の手は、雀の足に触れていなかったはずだ。

同じ顔。同じ色の真っ赤な瞳。あれは人間のものじゃない、獣のひとみだ。以前、数度夏侯惇は見たことがあった。暗い夜に娘が死体を相手に弄んでいた、あのときと変わらずに、ただ立ちすくむ。

獣と言っても、虎や豹とはまた別の。もっと獰猛で凶暴な屍肉を漁り、骨をもしゃぶりつくす貪欲の生き物。

「やめろ、雀、やめてくれ」

理になにもするな。独り言のように呟いた。小さく消え入りそうな声は、誰にも届かないで震わせる。一歩、引き寄せられるように重い足が前に進んだが、韓浩に引き戻される。

「理嬢、理、やめろ」

目を覚ましなさい、起きるんだ。

離せ、韓浩。なんて言葉は出てこなかった。そんなことを言うひまがあるのならば、ただただ名を求め呼んだ。声はしだいに膨らみ弾け掠れても途切れずに、連なるのだ。一縷にすがるも、それは無情に切れた。

「やめてくれ、頼む。やめろ」

眼前に広がる光景が夢想であればいい。夢のように当てもない、はかないものであればよかったのに。理嬢には、雀が負わせた傷か自身が負った傷なのか判断もできない怪我が多くできていた。だが、それは雀も同様のことだった。まだ、ふたりは惨劇を踊り狂って世界を生み出し、楽しんでいる。

理が、私が護らなければいけないものが死に近づいている。なんで、なんで理はあんなに笑っているのだ?なんで、そんなふうに笑うんだ。ちがう、私の理は。あんなのは理でない、けれども理嬢だ。理嬢。なんで、理嬢?

どうして雀は苦しそうに理を斬りつけている?私の知らない場所なのか。私は、なぜこんなにも無力なのだろう。

突然、雀と理嬢の動きが鈍った。

理嬢が紅い瞳を閉じながら、支えを失った棒のように倒れ込んで、ぴくりともしなくなる。ぞくりと冷たい汗が、背を伝い粟立った。

息を整えた雀は、臥した姿を確認し、ゆっくりと歩を進めた。刃先を頭に向けている。いけない。夏侯惇はおのれにしがみつく韓浩の肩をむんずと握りしめ、地面に叩きつけるようにして振り切り、よろめきながら走り出した。韓浩が後ろで何かを叫んでいたが、夏侯惇の叫びで消えた。やめてくれ。

刀が大きく振り下ろされる。

貫いた。

迷わずに。躊躇いもなく。

鈍く光る白刃は、肉を一閃、掻き分け骨を断ち抜いて、白に桃の肉を絡ませていた。

紅が盛大に湧き出で、雀をけがし、夏侯惇をよごした。

理嬢のやすらかな寝顔は、よごれていない。

あらゆる時間がそこだけ、すべてを彫像のように、しんとさせた。怪しい静寂を、紅い瞳を宿した雀が歯をがちがちと鳴らし破る。

貫かれていた。

「なんのまねだ、てめえ」

地を這う声が、雀の歯と歯の隙間から漏れ出ていた。

夏侯惇の右腕を、雀の刀が一直線に貫いていた。左腕のなかには、理嬢がおさめられている。私の知るやさしい理。引き裂かれるほどの耐え難い痛みが、問いの答えをさえぎってしまう。貫通し血の出血を止めていた刃が抜かれ、紅き水流はしとどに、ぼたりぼたり溢れる。

「なんのまねだって、訊いてんだろうがっ」

ふたたび、鋭い牙が夏侯惇を喰らう。夏侯惇は理嬢を覆い被さるように隠し、盾となりて斬撃を受けた。雀は、喚き散らしながら、ぶんぶんと大きく刀を回しつづける。そのたびに、夏侯惇の身体から血の飛沫が上げられた。傷は深くはない。理性をほぼ失っているようだったが、寸でのところで保たれているようだ。夏侯惇を殺すつもりはないらしい。

「邪魔だ、邪魔だ、邪魔だっ」

とても、せつない。なにゆえなんだろう。痛みや傷に気遣うよりも、夏侯惇は、禍々しい立場に同情を寄せていた。

ふたりをつなぐのは、おそらく姉弟という血縁だけではあるまい。もっと、想像もできないほどの因縁に絡められ、私なんて目にも掛けられぬくらいの深く、重く暗いきずながあるのにちがいない。理嬢、おまえは何者なんだ?父は母は、いったいどんなものたちであった。故郷には、どんな穀物が芽吹いて実を結んだのだろう?

そして、なぜ理の弟である雀は、おまえを殺そうとしている?ああ、かわいそうに。こんなに怪我をして、血と埃に汚れてしまって。かわいそうに。なんて、かわいそうに。

「雀」

顔を上げ雀に向ける。整った端麗な顔が、長い髪にたなびかされていた。白衣全身が、すす汚れていた。獣のようでも、一個の生命体が持つ美を感じた。

また、思った。うつくしい。雀は理嬢と外面は瓜二つだったが、筆舌がたいなまめかしさがあった。春秋の呉王夫差の恋人、絶世の美女西施。病に苦しんで眉を寄せ歪めたが、これまたとても美しく讃えられたという。それに雀は当てはまっていた。血肉に汚れているにもかかわらず、いや、そのおかげでよりいっそう凄艶を増している。

紅い瞳と黒曜の瞳はかち合わさったが、雀は理嬢の命だけを狙う暴徒と化し、声なんぞ届くはずなかった。

ためらいなく、おのれの目的の遂行を阻むものは打ち砕く。ざくり。右頬から真っ直ぐに鼻筋を越し左頬まで一閃が駆け熱い滴りがほとばしる。血が顎の先から垂れて、理嬢の白い顔にかかった。ああ、まるで花びらが散ったようだな。抱く腕に力が籠もった。拭ってやらねば。

「さがりおれ、雀」

「邪魔だ、どけ」

「退かぬ」

「忠告はしたはずだ、理を殺させろ。理は、またひとを殺した。何人も殺したんだぞ」

「ならば、私と貴様は何回死ねばいい。死で死を償う安易な罪ではあるまい」

「理がその罪に耐えられるはずないだろう」

おのれが犯した罪の罰はすでに受けている。耐えきれないから、理嬢は死を選ぼうとした。耐え難いから、夏侯惇は支えようと決めた。しかし雀はそれを知らない。

「だからと言って、死に幸福などありはしないっ」

「黙れよ、人間のくせに。俺たちのことに干渉するんじゃねえよ」

「理がいつ、人間ではないなどと決めつけた?眼がある。脚がある、手がある。喋れる。あたたかい人間ではないか」

「眼があるから人間か?脚があるのが人間なのか?手がなく喋れない、あたたかくないものは、人間じゃないのかっ。なんにも知らないなにも知らない人間のくせに、俺たちのことなんかなんにも知らないくせにっ」

刃の背中で夏侯惇の背を打ちつける。骨が鈍い音で軋む。じわじわと首へ足へ衝撃が伝っていく。

「所詮、おまえなんかは人間だ。うつろいやすい薄汚い生き物が、理を、俺を解するなんてできやしない。きれいごとばかりぬかしやがって、それで理解できるのか、できるわけがねえ、身に降りかかったことないことをどうして理解できるんだっ」

「貴様こそ理のなにを知ったというのだっ?」

あの涙も。笑みも。想いも。そして願いも知らないだろう。

「てめえも理のなにを知ったっ」

赤紅の眼は激しさを増し燃えた。

「殺させろ、理を殺して俺も死ぬんだ」

死を軽率に求め救いを死に見いだしている姿。貴様までもが、そのようなことを申すか。死で罪を償うなど、思い違いも甚だしい。

「黙れ、雀。貴様に理を殺す権利などない。そんなに死にたければ私が殺してやろうか、理は、死など望んではいない」

「なんでおまえが、そんなこと知ってんだ」

「生きる意思を聞いた。そして、私はともに生きると誓ったんだよ」

「愚行と過ちばかりを重ねるくせに、偉そうなことを言うな人間がっ。そんなもの、すぐに忘れるさ。最初に理を消そうとしたのは、てめえのほうだっ」

「もう忘れるものか。もう絶対に消さぬ。人間、人間と私を罵るならば、貴様はなんだ。言ってみろ、大馬鹿者が」

「化け物だ」

見下し、噛みつかんばかりに吐き出すようにして雀は言った。

「化け物?」

「化け物は殺せえっ」

また、鋭い刃が容赦なく叩きつけられる。びくりと身体が跳ねた。雀は、わずかな正気も取り払ったようだ。錯乱、無我夢中、乱れが入り混じっている。なにかに怯えているようにも、恐怖しているようにも見えた。夏侯惇は、ただじっと耐えるしかなかった。身動きすれば、自分の身体の影に隠れる身体が刃を浴びてしまうかもしれない。そして、雀の耳に私の言葉は微かにも届かない。それなら、気が済むまで耐えてやろう。

だが、怒りにも呆れにも似た感情が溢れてくる。果敢にも言い返した。

「だれが化け物だ、おろかもの」

「おまえの腕で眠ってるその生き物だよっ」

理嬢の寝顔。真っ赤と真っ黒に汚れた白い顔。着物はところどころ破れ、隠れていたはずの肌が露出し、必ず赤い血が染みていた。

「殺人鬼の顔だっ」

いじらしいくらいの寝顔を見て、誰がこの娘が殺戮者であると疑うだろうか。

人を殺めるものどもが化け物なんだろうか、ならば私も、全部が全部化け物だ。

あやめるという行為をするものはすべて、そう言わざるをえないのではないか。人間は牛を喰らい、虎は兎を喰らい、鶏は虫を喰らい、魚はより大きな魚に喰われる。この世は卑しい化け物ばかりではないか、そろいもそろって化け物ではないか。

「殺せ、殺せ、殺し尽くせっ」

まるで命令だ。譫言か、まじないのように、足掻いてはくりかえしている。そのすがたは、ごめんなさいと呟きつづけた理嬢の姿と似ており、なんとも哀れに感じられた。

理、起きるなよ。このままずっと寝ていてくれ、起きたら、おまえの弟はおまえを刺そうとするだろうから。

死ぬな、理。

殺すな、雀。

きっと理嬢を雀が殺したら、次に錯乱するのは俺だ。雀を殺すにちがいない。それは嫌だった、どちらにも死を受け入れては欲しくないと思った。殺したくない。

なんで、雀はおまえの命を狙っているのだろうな。理に会いたいと、言っていたんだ。おかしいではないか、あんなに、焦がれていながら殺そうとする?愛しているから、殺そうと、だと。頭が悪いとしか考えられんな。そして、理。なんでおまえが、こんなところにいるんだ?

これは、やはり夢であったのか。

「どけ、どいて。どいてくれよ」

血が、流れていくごとに夏侯惇の身体から力が抜けていく。できれば、雀が落ち着くまで踏ん張っていたかったが、目も霞んでじわじわと暗くなっている。凄まじかった痛みもとうに越え、痺れと冷える感覚だけが残っていた。

右腕がずぶ濡れになって鮮やかな赤から深い紅に、黒へと色を変じて重くなった、そこを起点として汚れた池が面を張っている。

視界の片隅から池は波をひろげ覆い始める。桃色の肉のあいだに隠れて骨が突き出ているのが、不気味だった。おのれの身体の一部だとは信じがたい。

重い刃が背を押すと、そのまま前へと倒れた。もはや、眼を開けているのか閉じているのかも判断がつかない。腕のなかで、息をする音が聞こえた。理は眠っている。ああ、そういえば、昔にこんなふうに添い寝をしてやったな。夜がこわいと泣いていた幼子に。

雀は、できたのだ。夏侯惇を無理矢理引き剥がし、理嬢の息の根を止めること、そればかりか夏侯惇もろとも串刺しにすることさえも。

決して、できないことなどなかった。それなのに、打ちつけるのみにとどまっていた。殺すと大口を開けておきながら、腹が据わらず悶え苦しむだけの男だ。もしくは、苦悶を楽しむというとんでもない残酷な男である。だが、雀は前者であった。

「夏侯惇」

光なき暗闇で、声が聞こえた。

「夏侯惇」

一抹のわずらわしさに、夏侯惇は応えた。

「……………なんだ」

「夏侯惇、夏侯惇、夏侯惇」

それは、ふるえていた。呼ぶ名の意味が形を整えなくなっている。

「……………泣いているのか、雀」

首を動かして、声のするほうへ目を向けた。薄く、闇に埋もれた雀が両膝をついていた。透明なしずくが、血に混じりいっている。手に刀がないことで、ほっと息をこぼした。

「……………まったく、忙しないやつだな」

「どうして、そこまでするんだよ。血いっぱい流して、身体に空洞が空いて。惨めじゃねえか」

「……………だろうな。……………だが、卑下はせん」

「俺がだよ」

引き裂かれた身体は惨めではない。真に惨めなのは、大切に想うのに殺し消そうとすることをいうのだ。

以前の夏侯惇も、理嬢を忘却のかたちで虐殺せしめた。

殺戮は、人を変えてしまう。考えれば、すぐわかることで、戦などただの敵の殲滅であり奪い合いが生み出すものは敗者と勝者のみ。鈍っていく虚無感、濁っていく罪悪感。血反吐を吐くくせに得られるものはそれしかないなんて。だれなのだろう、こんなことをし始めたのは。しかし、殺す殺される、これは自分の生から常にそばにあったものだった。疑う日なんてなかった。

「おまえは、俺を姉を殺そうとしている愚かものだと思っているんだろうね、自覚はしてる。逢いたくて逢いたくて仕方ないのに、目的は命を奪うことだったんだ」

「……………過去に起きた出来事を踏まえての雀が出した答えだ、私は別に責めたりはしない。……………おまえたち姉弟の過去の出来事は、さっぱり見当がつかんが、おそらくは呪いのように忌み嫌ってしまうものだと察する」

「遠からず当たってるよ。なあ、夏侯惇。どうしてそこを退いてくれないんだ」

「……………誓った」

「え?」

「……………理とともに生きたい。……………理に生きてほしい。理が死んだら、私はその誓いを破ることになる……………」

「おまえが死んだら、誓いを破ることになるだろう?」

「……………そうは……………思わない」

「思わない?」

「……………理は、きっと解ってくれる。……………戦のなかで生きる私を、理は知っているはずだ」

そうだろうか。でも、たぶん、知ってくれている。今までが、運がよかっただけだった。

「……………死んでも護るくらいできる。……………護ってやるさ、おまえができないことをしてやるよ……………」

「できるわけがない」

雀は泣きながら嘲笑した。その言葉に、もっと深い意味がこめられている気がした。

「死は、いなくなっちゃうことなんだ。いなくなったら、護るなんてできないよ」

「……………それでもやってみせる。……………決めるのはこの私だ」

「簡単なことも、気づかないのか?いくら死してなお護ろうとしたって、肝心のおまえがいなくちゃ、意味がない。理は、おまえがいなくなったら罪に耐えきれないほど悲しむよ。そう、深く深く」

「哀しんでも、いつかは立ち直ってくれる。……………どれほど深く悲しんだとしても、理を支えてくれるものは多い。……………なにより、おまえがいる」

「あいしてるのに、俺は夏侯惇みたいなことできない。抱きしめてあげればいいの?接吻をすればいいの?」

「……………雀は十分に慈しんでいるだろう。……………それでいい。……………深い考えなんて必要ない」

「護るなんて、俺にはできない。護るだなんて、そんなたいそうなこと」

「……………追い詰めすぎだ、雀」

「護られることを望んでいるんじゃないんだ。理が、望んでいるのはおまえだよ」

「……………理でもないのにわかるのか?」

「わかるさ。だって、俺は……………」

最後まで聞く前に、夏侯惇に眠りのような微睡みが訪れた。夢のなかなのか、現実なのかは知れない狭間で、理嬢は言う。夏侯惇さま、おはようございます。

夏侯惇は応える。おはよう。

おだやかで、つい二度寝をしてしまいそうな心地のよさだった。

死ではない。ああ、そうだ。私はいなくなったりなどするものか、私はともに生きると誓い決めたばかりだ。相手は祈らぬ神ではない、祈りを聴き届けてくれたかどうかさだかでもない神、万能だとうたわれるも疑わしい神でもない。生身の血の通った人間に誓った。

理に、誓った。なあ、理嬢。……………そうだろう?

おまえは、ひとごろしなんかじゃない。優しくて清らかな手をしたおまえが、手を汚すだなんてない。

帰るのは春の終わりだろう。

夏になっちゃいますね。

私は死んではならない。すくなくとも、夏までは絶対に生きたい。きっと、銀漢がまばゆくに夜空を飾りたてているはずだ。この濁った隻眼には映るであろうか。私の代わりに、おまえの双眼でしっかり見ておくれ。静かに流れる天の河。

夏は春ほどのたくさんの色鮮やかな花が咲くだろうから、花でも摘みにゆこう、いっしょに。いっしょに。理、おまえが満足するまで。

ともに生きよう。生きよう、理嬢。私はずうっとそばにいる。

理はこんな場所なんかにいない、だけれど、とくとくとくとく、自分のものでない心の臓の音がする。

生きているんだな。

生の証しか。

微弱なれど、熱い鼓動。

とくとく、音がする。ここから。






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