第五章 前兆 渦は滲み染まりくる
四
眼の前に広がるもの。曹操の屋敷の離れの空気が重く淀んでいた。
無惨に引き裂かれた己の着物。細々になった、思い出があった品の数々。百合の花の模様が施されているもののひび割れた箏。嫉妬と憎悪が入り混じった女たち。
壊してしまうのは容易だが、修復は難しい。もしくは不可能であった。
わたしが、なにをしたというのですか。
口のなかに、布切れを詰め込まれた。言葉が周囲を鳴らすことのなきように。
半裸のまま手足を縛られ、床に横たわっていた。女たちは理嬢を取り囲み、髪を引きずり回し、身体じゅうを蹴り、殴る。男の力とはくらべものにならない。所詮は女の力ゆえ、さほどのことはない。しかし、じかに肌に与えられる衝撃は、耐えるのに苦だった。
痛みか、かなしみか、恐怖か。視界がぼやける。
いっそのこと、気絶してしまえばいいのにと思った。だが、それは女たちの手では無理のようだ。
甄優が帰って半刻が経ったころだろうか、女たちはずかずかとやってきた。問おうとすると囲まれた。
手足を固定され口をこじ開けられて猿轡をさせられた。捻られた腕を後ろ手に縛られ床に放り出された。
つぎに、衣装を引き裂きにかかった。見ていろと言わんばかりに理嬢に関するものを崩しはじめた。曹操の寵が薄れた妾たちは大いに嗤った。腹を抱え、指をさして罵り、やんややんやの手を打ち笑い転げた。
じっと見ていた。
痛みではない痛み。此処に、居たくない。自由な足がある。身体を起こして、逃げることができるかも、しれない。でも、できないかもしれない。
身体が、逃げようとしていた。逃亡に気づいたひとりが足をかけて、転ばせる。一瞬、宙に浮き、否などなく胸から落ちた。呼吸が止まった。鼻からの息吸いでは酸素が足りない。
汚い言葉で嗤う。
自業自得だ。
そうだ、そうだ。自業自得だ。
ざまあみろ。
自業自得?わたしがなにをしたというのですか。
理嬢は首をもたげた。抗議する眼差しに気づいたひとりが、自分がどうしてこのようになっているか把握していないようだなと言った。
主人格であろう狐目の女が、足先で理嬢の顎を上げた。そして、そのまま蹴る。上半身が反り、横に倒れた。女は、虫を踏みつぶすがごとく幾度もにじる。
生意気な小娘め。
身に覚えが全くない。どうして、わたし。
あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか。
他の女たちも唱和する。
調子に乗るな。
醜い。汚い。すごく、すごく、非道いこと。わたし、なんにもしてないのに。
顔をあまり狙わずに当ててくる。顔に傷があれば、曹操の咎めを受け、小娘がこの私刑を口にする可能性があるためだ。だが、もともと妾は主人の夜の相手をする存在のはずだ。帯を解いて肢体をさらせば、見えないものは見えるようになる。その前に、部屋を荒らす時点で起こったことは明白である。まさか、散らかしたものを整頓して出て行くわけではなかろう。女たちのするべき目的は、理嬢を痛めつけるのみ一点。ほかに、思考が回らないらしい。
痛みに慣れた。感じる線の一本、一本、採られていくようだ。麻痺した感覚でも、頭は気持ちよいほど冷えて、冴えていた。わたしが、なにをしたの。ぼんやり考えてみた。やはり解らない。自業自得で、生意気で、悪くて、調子に乗っている?わからないです。わたし。
孟徳さまに、殴られたり叩かれたりしたときは、わたしが悪いと思っていました。だって、わたしは嘘をついたから。子桓さまと話をしていたのを、してないって言いました。だから、孟徳さまは怒っていたんです。
すこしして、孟徳さまは、ちいちゃな猫をくれました。まだ、こどもで、やんちゃで、いたずらっこな、愛くるしい白猫でした。いっしょに、孟徳さまは優しくしてくださって、優しくし抱きしめてくれたり。頭や頬を撫でてくれたり、口に、唇を吸ってくれたり。
あなたたちも、わたしと同じことをしてもらってるはずでしょ。大差ないのです。
どうして、わたしだけ。
わたしは、なんにもしてない。
女たちが文句を言う。なんか言ったらどうだ。
聞いているのか?
ごめんあそばせ。話すことができなかったな。
面白味のない芝居劇か。もともと綴られていたかのような言葉を発しながら、足踏みを止め、理嬢を仰向けにした。曹操の寵愛を受ける側室は虚ろな瞳だった。口から布切れが取り出され、息の拘束がなくなり、大きく胸を膨らませた。
「どうして…………」
豚め。鳴け。
顔を近づけて罵る女の表情は、ひどく醜いものだった。蜘蛛のように、指を動かしているのもまた同様も。
「わたしは豚なんかじゃない……………」
睨んだつもりだった。囲む妾たちの棒のように細い姿、ひとつひとつを睨んだ。憎しみを込めて、言った。
「わたしは豚なんかじゃなありませんっ」
乾いた音が左頬から鳴った。口のなかに、わずかな鉄の味がじわじわと滲む。
豚が。人間さまに逆らうな。
家畜は餌のことしか考えていない。人間の言うことなんて、耳に入るわけないではないか。
それもそうだ。なんて、馬鹿で能無しの豚だ。
ならば、この哀れな豚に、躾をしてやろうではないか。
「いい加減にしてください……………」
おぞましいことだ。女たちは、店先で装飾品を品定めをするように、軽い口取りで会話を楽しむ。言葉は汚れを帯び、木霊する。
前脚を離してさしあげましょう。縛りが解かれた。腕がだるい。
四つん這いで歩け。
唇を真一文字に結び、頭を振った。
歩け。
「ふざけないでください」
拒絶を表し、もっと強く頭を振る。髪が揺れ、髪の房と房のあいだが小さく光ったのを、狐目の女は目ざとく見逃さなかった。仲間たちに手足を押さえつけさせ、理嬢の左耳をまさぐる。白玉の耳飾りを外した。摘み持ちながら、白玉と理嬢を交互に見る。
理嬢の顔が蒼くなった。
「かえして……………」
こんなもの、豚が持っている必要があるのか?
「返してっ」
大切なもの。
夏侯惇から貰い、対になっている白玉の片方を姜維へ贈った。言わば、あのひとたちの分身だった。つながりの証明でもあった。理嬢の大切な、あのひとたち、そのものに等しかった。
「返してくださいっ」
重い身体を叱責し、飛びかかるようにして手を振り上げた。だが、難なく身をかわされ、勢い余って床に転がった。まだ、女の手の内で白玉は弄ばれている。
豚が二本歩きをした。
かえして、ちょうだい。叫んだ。
「かえしてください」
うわごとのように、つぶやきを繰り返しながら、立ち上がる。高い笑い声は耳に届かなくなっていた。
ぶつぶつと辛気臭いことだ。耳障りもよいところだ。
理嬢の背を押す。つぎは倒れまいと足の裏に重心を置く。心のどこかで、負けるな負けるなと叱咤する声が、幾重にも連なっていた。声は、女たちに聞こえるはずなどないが、呼応する理嬢の態度に苛立ちを募らせた。
色素の薄い瞳の色は、精気を養う。
その目は、寄ってたかる下等な戦をするものたちに恐怖を与えた。泣き寝入りをするだろうという思惑は掻き消える。
「大切なものです。お返しください」
水を掬いあげるように、手で器を作り、突き出した。狐の妾は柳眉を逆立たせ、白玉を投げ捨てた。大きな弧を描き、消え入る音を立てて、台や調度品の物陰に姿をくらます。あっ。描かれた残像を頼りに駆け出すも、許されなかった。二本ずつある手足を捻られる。狐が頭を足のかかとで押さえつけた。はなして、はなして。
「はなして、なんでこんなことするの……………」
獲物を狙い、地面を這う忌みが、部屋じゅうを這い回る。
むかし孟徳さまに拾われて、ちやほやと育てられたとか聞いているが。
狐目がより細くなった。
おまえは、孟徳さまの暇つぶしだ。ただのお情けで、別に遊ばれることしか使い道のないおまえを、欲の吐き出しとしているだけだ。子どは、おもちゃが大好きだろう。でも、新しいおもちゃをあげると、前のものには目もくれない。勝手だ。おまえが新しい孟徳さまのおもちゃで、こちらは飽きられたほうの、おもちゃだ。
「理不尽だっ。理不尽すぎるっ」
わたしも、あなたがたも玩具なんかじゃない。
理嬢は動けるかぎり、身体を跳ねさせた。
大声を出すなっ。
「あなたたちだって、孟徳さまに慈しまれていらっしゃるでしょう?それなのに、ひどい有り様ですっ」
とんだ世間知らずだ。男なんて我がままな子どもと大差ないのだ。
「孟徳さまはっ」
こんな馬鹿げたことで、わたしは、叩かれ、蹴られ、罵られて。孟徳さまの、やさしさをこのひとたちは、忘れているのだ。孟徳さまはそんなひとじゃない。
「ちがう、ちがいます。孟徳さまは、お優しいかたです」
おまえが夢を視るのも、気に入られてる今だけだ。前はそうだった。なんて、やさしいかたなんだと。
髪を掴みあげ、床に叩きつける。意識が飛びそうになるのを、必死で堪えた。
新しいおもちゃから引き離す方法を教えてやる。おもちゃを棄てるか、隠してしまえばいいのだ。
女のなかのひとりが、扇をあおぎながら暗く呟いた。冷たい炎の興奮が、寒気を伴い、包み込む。
手を取り合っていろいろと模索していた。おまえの侍女を買収した。呂后がしたように手足を斬って目をえぐって、口と耳を潰してやろうかとも思った。しかし、そうなっては表沙汰になる。最近、人殺しもさっぱりなりを潜めてしまったから、なすりつけはできない。だから、毒を使うことに決めた。豚め。運がいい。おまえの代わりに、猫が死んだんだ。
百合を殺したのは目の前にいる人間たちだった。
叫び声が聞こえたとき、最高に幸せだった。運がよいと思った。でもおまえは生きていた。しぶといったらありゃしない。
さすがは豚だ。
「このひとでなしっ」
理嬢は押さえる手を振り払い、初めて人の顔を平手で殴った。
「百合になんてことをしたのっ。あの子は悪くないじゃない、悪くないじゃないっ」
狂ったように相手の襟を握りしめ、叫んだ。必死の形相に女は怯まず、頬を平手打ちにする。
偽善者。昨日、おまえは死ぬはずだった。猫は、おまえのせいで死んだのだ。
猫だけじゃないぞ。
なんでおまえが生きている?ほかの人間の命を食いやがって。
その放たれた言葉は、受けてきた痛みのなかで、もっとも強い衝撃となって疼いた。するりと、手が離れ、身体の両脇に垂れる。
「わたしのせい……………?」
呼応して、渦巻いた。おまえのせい、おまえのせい、おまえが死ななかったから、猫は死んだ。わたしが死ななかったから、百合は死んだ。おまえが死ななかったから、昨日、食事を運んだものも、作ったものも無惨に殺された。
全部、おまえのせい。おまえのせいだ。わたしのせい。
頭を抱え、崩れ落ちた。自分のせいだとは思ってもみなかった。悪意のある人間が、善の自信を苦しめる工作を練ったのだ。しかし現実は、自分が原因で、その身代わりとして選ばれた。毒が入った食べ物を、死をあたえたのは、わたしだと。
「そんな、そんな」
女たちが、なにかをしゃべっている。
もういい。やっぱり人殺しのせいにすればいい。
ならば、首を絞めて、ばらばらにしてしまえばよろしい。
あの噂の殺人鬼が来てしまったことにすればいい。
そうしようと、だれかが手をたたいた。
帯で締めるとして、切れるものはあるのか。
それはあとからでも問題ない。殿は、まだ政庁からお戻りになる刻ではない。
なんと好都合。なんとちょうどいい。
人殺しの存在を隠れ蓑にする、妬みに憎悪を塗りたくった女たちは、高ぶりをましてゆく。
とにかく、やるなら早いほうがいい。ほら、しやれ。
赤い花の刺繍された帯が、放心する理嬢の白い首に巻きついた。ひゅうっ、と喉が鳴る。身体が動かない。
「いや……………やだ、やだっ……………」
緩やかな締め付けから始まった。
「やめて……………やめてっ……………」
綱を引っ張り合うようにして、両方の先を互いに締め上げる。ぎりぎりと狭まり、喉を圧迫する。
殺される。
どうしてころされなくちゃ、いけないの?
「やめて」
肌と帯の隙間に指を割り込ませようとも、きつくなるだけしかないそれに入ることはない。眼が焦点を無くす。夢中で身体で抗った。その身体の力はだんだん削がれ、口を大きく開けた状態に、舌が突き出す。
はしたない、いやしいと嘲笑われる。
だれか、助けて。声がでない。死にたくない。声が出せない。息苦しさが頭を沸かし、思考が薄らいでゆく。口のなかまでしかない息は、力を奪ってゆく。
「やめて……………」
女たちは、このあと、理嬢の身体を引き裂く。吐き気を催す血と肉の臭いに口を塞ぎながら、刺してゆく。理嬢のなかから、ほとばしる雨を浴びるのだ。
死にたくないよ。
死にたくない。
助けて。
助けて。
だれか、だれか。
夏侯惇さま……………夏侯惇さま……………。………………。
漆黒が、広がった。空が落ちてくるように勢いよく目の前を黒に染めてしまった。
時を同じくして、天気は崩れ始める。太陽が灰を帯びた雲を誘い、分厚く覆う。幾分も待たずに、涙を流した。
瓦に雨が強く打ちつける。
雨の音は、とある一室の惨状を覆い隠すかのように、降りつづけた。部屋は、怪奇な儀式の場であるかのように、異様に静まりかえっている。物音は、滴る水音のみだ。
さほど遠くない場所で、うねりが光り、鳴った。
間近で、鋭い閃光が走る。
部屋の全貌が一瞬だけ明らかになった。激しい雷鳴に、黒い床に伏せた影がもそりと起きあがる。理嬢は現状がはっきりとせぬまま周囲を確認するが、暗くて把握ができない。
「なあに……………」
におう臭みに、鼻と口を覆う。しかし手が汚れている。
ここはどこ。手探りで、探ってみる。これは?水?なまぬるいもの。なにかが手に触れた。粘着質の物体。そこらじゅうが、しとどに濡れている。ふと、指の先に大きなものが当たった。
固いもの?柔らかいもの?これはなあに。大きい。片手だけでは持ち上げることができなかったので、両手で持ちあげた。
これは、なあに。
首をかしげ、持ち上げたものを横にしたりして角度を変えてみる。糸をまとめただけの房のようなものが無数に垂れている。一本一本が細すぎる糸に一気に触れれば、ふわふわと柔らかく布のようだ。
雨が、さらに勢いを増す。
ああ、雨か。雨が降っていることに気づいた。窓を鳴らす雫を、ぼんやりと眺め、ふと手のなかにあるものが正体をあらわす。
雷が光る。
驚いて、それを落としてしまった。
狐目の女の首は転がった。
「えっ」
身を竦め、目を凝らす。首。
わたしのゆび。爪が紅い。肉も入っている。細長い肉片たちが、くちゃくちゃと音を立てながら膝へこぼれた。右の指で左を、左で右をと取り除くが、いたずらに入り込むだけだった。
「嫌……………嫌……………。なに、なにがあったの……………」
だれがこんなことをしたんだ。どうしてこんなにも、わたしの手指は汚れているのだ。
ぼんやり、頭の奥で浮かぶ光景がある。自分の手指が首を引っこ抜く。雑草が簡単に抜けるようだ。楽しい。そう思う。腕も足も全部面白いくらい抜けてしまう。楽しい。どうしてこんなに楽しいんだろう。手に取るような感情がくすぶっている。
「うそ、うそよ……………ちがうの。ちがう……………」
首は、あれだけでない。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、多くの首が、横たわっていた。いずれもみにくく造形を崩している。目がないもの、頭の半分がなく中身がただれている。唇が取れ鼻が落ちていて。
弾け飛んだ無数の臓が、所狭しと散らされていた。人間の中身は、骨、肉、血と案外ぎっしりと詰まっているものだった。床に、はらわたがぶちまけられて面をつくる。壁に、梁に、そして天井に、あらゆる場所に朱が散っていた。装飾されていた品のある室の面影はない。血と肉で彩られた室。
わたしはこんなことしない。でも、視える光景はまるでもうひとつの現実のようだ。楽しい。この気持ちも必ずしも嘘と言えない気持ちがあった。それでも、嘘だ、嘘だ。わたしはこんなことしない。
こんなの、知らない。
そこをひらけば、野花のように可愛らしくきらびやかな玉がたくさん入っている。自分の心が高鳴り、踊り舞うと知っていた。だれかから囁くように耳元で教えられなくとも、わたしは知っていた。開いてみればほんとうだった。
扉の先にはきらきらする心躍る小物が詰まっていた。何頭もの蝶々ととびだしてきた宝物。種を蒔くように、玉が足もとにころころ転がってくる。
嬉しい、楽しい、すごく。
花ふぶき、両手では抱えきれないほどのたくさんの花びらが舞う。宙にめいっぱい踊らせている。
きれい。
くるくると飛びまわる蝶々に導かれ、置かれた卓にある小瓶の蓋をつぎつぎに開けてみた。すると、いままで見たことがない色の硝子玉たちがいきおいよく飛び出した。歓声がまわりから上がった。よろこんでいる声につられて、小瓶をぜんぶ開けてしまった。
小瓶の中身は、水が手をひろげて溢れるみたいに途切れることない。流水の柱に呼ばれて、七色の蛇が何匹も空を飛びはじめる。花を咲かせた蔦が歓迎するかのように、理嬢の身体を着飾った。
きれい。
見惚れていれば、花を咲かせる兎が跳び、ときめく首飾りを身につけた子猫、仔犬、小鳥たちが駆けて、どこからともなく登場してきた。
かわいい。
こころがわくわくした。どきどきする。
わたしは、それらを見ていたの。
わたしが開けたのよ。
ひとのからだのなかに、たくさんの臓物が詰まっていた。掴んでぶちまけたのは、粘りつく血肉。思っていた通りだ。楽しい、楽しい。楽しい、楽しい、たのしい……………。
理嬢は座ったまま逃げるともせず、ぶつぶつと唱えていた。
「こわいゆめ、こわいゆめ、こわいゆめ、ゆめ、ゆめ、ゆめをみてる、みてる、ゆめをみてる、ゆめ、ゆめだって、いった、いった、いったの」
怖い夢でも見たんだ。言ってくれたのは。
「これは、これは、こわいゆめ、こわいゆめ……………」
理嬢の身体には、頭から血と肉がこびりついていた。虫がうごめいているように。梁に引っかかっていた、ちぎれとんだ長い臓腑と手首が、ぼたぼたとしたたって、雨の代わりに理嬢をさらに濡らしていく。ずるり、と長い長い腸が包むように垂れ取り囲む。
立ちのぼる肉のにおいに耐えかねて、胃のなかにあった物を外へ出した。吐く物が無くなったとしても、すべてに対する拒絶は止まずにえづきを繰り返す。目から涙が、鼻からさえも反吐が垂れ流れはじめた。
なにかが一気に割れた気がした。
理嬢は、自分の中身に根のかたちの亀裂が走り、そのまま成すすべもなく散っていく感覚に身をゆだねてしまった。きっと楽になれると、こわいゆめから逃れられるのだと願ったがために。抗わねばいけなかったのかもしれないが、もがこうともしなかった。崩れるがままにさせてやった。粉微塵に砕け、やがて、身体は張りつめていた糸が切れたように赤の上に倒れこんだ。
咥内に血肉がはいりこんだが、唱えることを止める思考がなくなっていた。舌を舐める長い肉片、饐えたにおいの水音とあぶくにまざる唱えごとは、暗闇の底に落ちる石のようだ。
「こわいゆめ。ゆめ、ゆめ、ゆめ、ゆめって、いったの、ゆめって、いってくれたもの、いってくれたもの……………」
目の前には、肉と血の面と玉と花の面が交互に現れていた。間を埋めるように、黒曜の玉がひとつ、光を小さく散らせている。
きれい……………。
雨のにおいは、どことなく死臭を連想させる。虚空一帯に満ちる水の気。泥を吸い、草を吸い、漂っている。
水粒は激しく降りつづけ、盛大な音を響かせる。
「すげえなあ」
「ああ」
居室にて、竹簡に筆を滑らす夏侯惇。窓枠に肘をつき、外を眺める夏侯淵。
「こっちに着いたのが、降るまえでよかった」
ひとりごとのように、歳の近い従兄は言った。
「そうか」
「おい、もてなしのひとつもなしか」
「突然やってきたくせに、偉そうに。お前こそ、手みやげのひとつや、みっつ、あるんだろうな」
「腹の足しになるもんはないが、色っぽい話ならある」
筆は止まらなかった。
「色恋か。聞き飽きた」
「堅物だな、惇。俺はお前のためをとな」
「私のためですか。それはどうも」
「惇、いいか。俺の話を聞け」
「毎回毎回、しつこいと自覚しろ」
窓辺から離れ、竹簡に埋もれた机に寄る。
「お前はもう、若くない歳だ。ふつうなら、五人や六人くらい、がきが居たっておかしくないんだしな?理嬢から解放された。念願叶って、自由だろう」
「私は、べつに、理の教育係が苦だと感じたことはない」
「子孫だよ子孫。遠慮なく言わせてもらう。子どもをつくれ。種を残すことがどれだけ重要かわかるだろ?」
「さあ」
「夏侯の変わり者って、言われてるんだよ。こんな立派な屋敷を持ってるのに、お妾さんがひとりもいないってな。だいだい、惇は夏侯一族の直系だ、本家だ」
「言いたい奴には言わせておけ。女をつくらずとも、子を持つことはできる。わかるだろう?淵の男児をひとり、私に寄越してくれればいい。それを後継者とする」
「まあた、同じことを言う」
「何度でも言ってやる」
「おまえは、れっきとした男だ。去勢された宦官じゃない」
「従兄上を、遠回りに侮辱しているようなものだぞ。淵?」
曹操の祖父曹騰は大宦官である。宦官は人間ではなく、奴隷も同然の立場だが後宮の権力者の寵を手に入れ、一気にのし上がるものもいる。一握りにも満たない数ではあるが。
曹騰は握られた砂粒のひとつだった。しかし、いかに権力を手にしようと、男を亡くし、女でも男ではない存在には変わりない。世間からは後ろ指を指される。曹操は宦官にあからさまな嫌悪を示している。若い頃は、もっと苛烈だった。酒屋で宦官の孫だと馬鹿にした男を、荒れ狂ったように夢中で、半殺しの目に遭わせたこともあり、夏侯淵と夏侯惇は止めるのに泡を吹いた。
曹操は今、漢帝国の丞相として帝以上の力を収めているが、宦官の孫のくせにと陰で蔑むものも多い。気丈に振る舞っていても、心境は荒れているはずだ。
「この」
「宦官でなくとも、養子をとる人間は五万といるわ」
「屁理屈ばっかり言いやがって」
「ひとつの論理だ。その気もないのに女と契り、子を成すことは、女に対する侮蔑だろう。私はそんなことしたくない」
「堅い、岩よりも堅い。この頑固者め。愛とかなんてもんはな、ちょっとしたことから生まれるんだ。そうさな。声がいいとか、眼差しが色っぽいとかだな。いいじゃないか、好きあうのが後でも」
「外見にしか興味のない男は哀れ極まりないな」
筆を置き、背もたれにもたれる。意気揚々とする夏侯淵が分かるくらいの盛大なため息をもらした。
「見た目は重要だぜ?」
「軽薄めが」
「外側なんてものはきっかけにすぎん。内側はゆっくりじっくり知りあえばいいじゃねえか」
「それを言いたくて、わざわざうちに来たのか」
低く呟いた言葉を無視し、夏侯淵は猫撫でをするように、夏侯惇の頭を撫でた。
「実はな、いい縁談が来てる。俺の友人の知り合いの女なんだが、しばらく前に、夫を亡くしてな。子桓と同じくらいの息子もひとりいるが、まだ若い。いい話じゃないか。女房と跡継ぎが、いっぺんに手に入っちまう」
「どうして従兄上殿は、私に縁談をお勧めなさるのですかな」
「そりゃあ、かわいい従弟のためだよ」
「従弟は嫌がっていますけどね」
「いい女だぞ。なかなかの美人だし、料理も上手い」
視線をずらし、肘をたて顎を乗せ、雨音に耳を傾けた。
強い粒のなかで、重いものが聞こえる。雷。光はない。
「雷が落ちないといいが」
ぽつりと呟いたすぐに、陽気な声と打って変わった低い声が、夏侯惇を呼んだ。夏侯淵は腕を組んでいる。
「もしかして、理嬢に教育係としての情以外のものを、抱いたか?」
夏侯惇は立ち上がった。
「いやらしいことを言うな」
おまえはそう言うけれどな、と夏侯淵はつづけた。
「そうとしか思えないんだよ。俺と従兄上は何度も縁談をふっかけたのにそのたびに断る」
「理嬢とは関係がない。私は、ただ、いつでも女は娶れると言っているだけだ」
「あやしい」
「いい加減にしろ、俺を愚弄するか貴様」
「むきになるなよ」
禁忌だ。親子のような間柄で結ばれている。娘と夏侯惇は親しいだけであって、男女の関係ではない。理嬢を女として身体のどこかで想うのならば、なんて穢らわしいことか。救えない愚かな行いだ。理嬢にとっても不誠実すぎる。胸中で、重ね重ね浮かぶ。しかし、他人は言うだろう。それはお前ただひとりの考えであり、俗世間では、いとも簡単に見逃される、と。
禁忌ではない。戸惑いだ。
それでも、不徳だとしか考えられない。
「ちがう、決してちがうわっ」
曹操は言った。理が欲しいのではないか。ちがう、ちがう。そのはずだ。あのときの懸念は、理嬢に曹操が殺されてしまうのではないかと、不安があったためだ。
夏侯惇は、硯を握った。
「戯れ言だ、流してくれ」
だがな、と夏侯淵は釘を刺す。
「惇にそんな気がなくても、理嬢とのことを知っている周囲は、同じことを思うぞ。それだけ長い付き合いだったんだ。従兄上や俺からの縁談話を受けなかったのも、ひとえに、理嬢のことがあったからかもって」
「……………」
「惇ではなくて、あいつのほうが気があるんじゃないかとも考えた」
「そんなもの、あるわけないだろう」
「可能性だ。もし理嬢が……………いや、邪推だな。惇、ひとつのけじめだよ。従兄上からの依頼は、まっとうしたろう?」
隻眼が、両手をひらひらとさせる夏侯淵を射抜く。
「十分すぎるくらい、やったじゃないか。従兄上だってご満足だろうし」
「……………」
「漢の丞相の側室、女にとって、これ以上のない幸福だろう。理嬢は幸せになった。次は、おまえの番だ」
「……………」
「祖先に孝を立てることも視野に入れてだな」
「……………。……………縁談を受ければいいのだな」
「おう、まかせとけ」
待っていましたと言わんばかりに、破った明るい声とともに、弓で肉刺のできた手が、夏侯惇の肩で跳ねた。夏侯淵は、迷いを感じ取ったようである。
縁談。気を紛らす、下手な言い訳だ。さらに、言い訳を被せて、茶を用意すると告げ、居室を出る。
一気に冷気が踊りくる。水飛沫に濡れる回廊を歩く。足を濡らす。光がよぎり、唸りのような風と、雷鳴とが轟く。
確実に、どこかに落ちるかなと思った。
厨房は、ほんのり暖かい。火がほぼ絶えることなく、竈で点いている。誰もいないが、勝手は知っているので、戸棚から茶器を取り出し、葉っぱで茶を淹れる。なにか、つまめるものはないかと探ってみるも、男の口に合いそうなものはない。仕方なく、茶のみを手に取る。
ふと、自然のうねりのなかに、侍女たちが声を発し、回廊を走ってゆく。
鶏でも逃げたかと、さして気にも止めずに出ると、旦那さまと呼び止められた。声はいつぞやのときと酷似している。
ぐったりとした蒼白の女が、いや、理嬢侍女たちにより抱きかかえられていた。唇は色を失い、生気がない。女たちのその奥に、気配のない曹操がいた。
「従兄上……………?」
頭から足の先まで、水に濡れた男は、鋭い瞳をぎらぎらとさせた。威嚇にも似た纏う気は、手に持っていたものを忘れさせ、熱い湯が身体にかかる感覚も失せる。それを見て、また侍女が心配する声を上げた。
曹操が前のめりになりながら夏侯惇に向かってくる。
夏侯惇は威圧に押され、後ずさった。
氷のように冷たい手が勢いよく襟元を掴み、鼻の先と先とが、こすれあうほど引き寄せられる。ひっ、と息を止めた。
従兄上は口を動かしている。雨音と雷音でよく聞こえない。雷は近くなった。
曹操の首筋に洗いとれなかった黒い朱がべったりと残っているのに、夏侯惇は気がついた。滴る雫は、水ではない。血。まさか。やはり。だが、曹操のものではないだろう。ここに生きているのだ。だとしたら、誰のものだ。
「……………れ」
「は、い……………?」
絞り出すように、なんとか答えた。
「……………だ。……………ま……………し……………か……………。れ」
寒さのためではない。震えた。こんなにも近くにいるのに、曹操の声は、耳に届かなかった。
もう一度、言ったようだったが、それは雷の閃光に掻き消された。曹操の爪が、首に食い込む。
「掃除だ。終わるまで、しばし預かれ」
雨のにおいは、どことなく死臭を連想させる。
虚空一帯に満ちる水の気。泥を吸い、草を吸い、漂っている。
そして、血の甘さがべったりと。
続
眼の前に広がるもの。曹操の屋敷の離れの空気が重く淀んでいた。
無惨に引き裂かれた己の着物。細々になった、思い出があった品の数々。百合の花の模様が施されているもののひび割れた箏。嫉妬と憎悪が入り混じった女たち。
壊してしまうのは容易だが、修復は難しい。もしくは不可能であった。
わたしが、なにをしたというのですか。
口のなかに、布切れを詰め込まれた。言葉が周囲を鳴らすことのなきように。
半裸のまま手足を縛られ、床に横たわっていた。女たちは理嬢を取り囲み、髪を引きずり回し、身体じゅうを蹴り、殴る。男の力とはくらべものにならない。所詮は女の力ゆえ、さほどのことはない。しかし、じかに肌に与えられる衝撃は、耐えるのに苦だった。
痛みか、かなしみか、恐怖か。視界がぼやける。
いっそのこと、気絶してしまえばいいのにと思った。だが、それは女たちの手では無理のようだ。
甄優が帰って半刻が経ったころだろうか、女たちはずかずかとやってきた。問おうとすると囲まれた。
手足を固定され口をこじ開けられて猿轡をさせられた。捻られた腕を後ろ手に縛られ床に放り出された。
つぎに、衣装を引き裂きにかかった。見ていろと言わんばかりに理嬢に関するものを崩しはじめた。曹操の寵が薄れた妾たちは大いに嗤った。腹を抱え、指をさして罵り、やんややんやの手を打ち笑い転げた。
じっと見ていた。
痛みではない痛み。此処に、居たくない。自由な足がある。身体を起こして、逃げることができるかも、しれない。でも、できないかもしれない。
身体が、逃げようとしていた。逃亡に気づいたひとりが足をかけて、転ばせる。一瞬、宙に浮き、否などなく胸から落ちた。呼吸が止まった。鼻からの息吸いでは酸素が足りない。
汚い言葉で嗤う。
自業自得だ。
そうだ、そうだ。自業自得だ。
ざまあみろ。
自業自得?わたしがなにをしたというのですか。
理嬢は首をもたげた。抗議する眼差しに気づいたひとりが、自分がどうしてこのようになっているか把握していないようだなと言った。
主人格であろう狐目の女が、足先で理嬢の顎を上げた。そして、そのまま蹴る。上半身が反り、横に倒れた。女は、虫を踏みつぶすがごとく幾度もにじる。
生意気な小娘め。
身に覚えが全くない。どうして、わたし。
あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか。
他の女たちも唱和する。
調子に乗るな。
醜い。汚い。すごく、すごく、非道いこと。わたし、なんにもしてないのに。
顔をあまり狙わずに当ててくる。顔に傷があれば、曹操の咎めを受け、小娘がこの私刑を口にする可能性があるためだ。だが、もともと妾は主人の夜の相手をする存在のはずだ。帯を解いて肢体をさらせば、見えないものは見えるようになる。その前に、部屋を荒らす時点で起こったことは明白である。まさか、散らかしたものを整頓して出て行くわけではなかろう。女たちのするべき目的は、理嬢を痛めつけるのみ一点。ほかに、思考が回らないらしい。
痛みに慣れた。感じる線の一本、一本、採られていくようだ。麻痺した感覚でも、頭は気持ちよいほど冷えて、冴えていた。わたしが、なにをしたの。ぼんやり考えてみた。やはり解らない。自業自得で、生意気で、悪くて、調子に乗っている?わからないです。わたし。
孟徳さまに、殴られたり叩かれたりしたときは、わたしが悪いと思っていました。だって、わたしは嘘をついたから。子桓さまと話をしていたのを、してないって言いました。だから、孟徳さまは怒っていたんです。
すこしして、孟徳さまは、ちいちゃな猫をくれました。まだ、こどもで、やんちゃで、いたずらっこな、愛くるしい白猫でした。いっしょに、孟徳さまは優しくしてくださって、優しくし抱きしめてくれたり。頭や頬を撫でてくれたり、口に、唇を吸ってくれたり。
あなたたちも、わたしと同じことをしてもらってるはずでしょ。大差ないのです。
どうして、わたしだけ。
わたしは、なんにもしてない。
女たちが文句を言う。なんか言ったらどうだ。
聞いているのか?
ごめんあそばせ。話すことができなかったな。
面白味のない芝居劇か。もともと綴られていたかのような言葉を発しながら、足踏みを止め、理嬢を仰向けにした。曹操の寵愛を受ける側室は虚ろな瞳だった。口から布切れが取り出され、息の拘束がなくなり、大きく胸を膨らませた。
「どうして…………」
豚め。鳴け。
顔を近づけて罵る女の表情は、ひどく醜いものだった。蜘蛛のように、指を動かしているのもまた同様も。
「わたしは豚なんかじゃない……………」
睨んだつもりだった。囲む妾たちの棒のように細い姿、ひとつひとつを睨んだ。憎しみを込めて、言った。
「わたしは豚なんかじゃなありませんっ」
乾いた音が左頬から鳴った。口のなかに、わずかな鉄の味がじわじわと滲む。
豚が。人間さまに逆らうな。
家畜は餌のことしか考えていない。人間の言うことなんて、耳に入るわけないではないか。
それもそうだ。なんて、馬鹿で能無しの豚だ。
ならば、この哀れな豚に、躾をしてやろうではないか。
「いい加減にしてください……………」
おぞましいことだ。女たちは、店先で装飾品を品定めをするように、軽い口取りで会話を楽しむ。言葉は汚れを帯び、木霊する。
前脚を離してさしあげましょう。縛りが解かれた。腕がだるい。
四つん這いで歩け。
唇を真一文字に結び、頭を振った。
歩け。
「ふざけないでください」
拒絶を表し、もっと強く頭を振る。髪が揺れ、髪の房と房のあいだが小さく光ったのを、狐目の女は目ざとく見逃さなかった。仲間たちに手足を押さえつけさせ、理嬢の左耳をまさぐる。白玉の耳飾りを外した。摘み持ちながら、白玉と理嬢を交互に見る。
理嬢の顔が蒼くなった。
「かえして……………」
こんなもの、豚が持っている必要があるのか?
「返してっ」
大切なもの。
夏侯惇から貰い、対になっている白玉の片方を姜維へ贈った。言わば、あのひとたちの分身だった。つながりの証明でもあった。理嬢の大切な、あのひとたち、そのものに等しかった。
「返してくださいっ」
重い身体を叱責し、飛びかかるようにして手を振り上げた。だが、難なく身をかわされ、勢い余って床に転がった。まだ、女の手の内で白玉は弄ばれている。
豚が二本歩きをした。
かえして、ちょうだい。叫んだ。
「かえしてください」
うわごとのように、つぶやきを繰り返しながら、立ち上がる。高い笑い声は耳に届かなくなっていた。
ぶつぶつと辛気臭いことだ。耳障りもよいところだ。
理嬢の背を押す。つぎは倒れまいと足の裏に重心を置く。心のどこかで、負けるな負けるなと叱咤する声が、幾重にも連なっていた。声は、女たちに聞こえるはずなどないが、呼応する理嬢の態度に苛立ちを募らせた。
色素の薄い瞳の色は、精気を養う。
その目は、寄ってたかる下等な戦をするものたちに恐怖を与えた。泣き寝入りをするだろうという思惑は掻き消える。
「大切なものです。お返しください」
水を掬いあげるように、手で器を作り、突き出した。狐の妾は柳眉を逆立たせ、白玉を投げ捨てた。大きな弧を描き、消え入る音を立てて、台や調度品の物陰に姿をくらます。あっ。描かれた残像を頼りに駆け出すも、許されなかった。二本ずつある手足を捻られる。狐が頭を足のかかとで押さえつけた。はなして、はなして。
「はなして、なんでこんなことするの……………」
獲物を狙い、地面を這う忌みが、部屋じゅうを這い回る。
むかし孟徳さまに拾われて、ちやほやと育てられたとか聞いているが。
狐目がより細くなった。
おまえは、孟徳さまの暇つぶしだ。ただのお情けで、別に遊ばれることしか使い道のないおまえを、欲の吐き出しとしているだけだ。子どは、おもちゃが大好きだろう。でも、新しいおもちゃをあげると、前のものには目もくれない。勝手だ。おまえが新しい孟徳さまのおもちゃで、こちらは飽きられたほうの、おもちゃだ。
「理不尽だっ。理不尽すぎるっ」
わたしも、あなたがたも玩具なんかじゃない。
理嬢は動けるかぎり、身体を跳ねさせた。
大声を出すなっ。
「あなたたちだって、孟徳さまに慈しまれていらっしゃるでしょう?それなのに、ひどい有り様ですっ」
とんだ世間知らずだ。男なんて我がままな子どもと大差ないのだ。
「孟徳さまはっ」
こんな馬鹿げたことで、わたしは、叩かれ、蹴られ、罵られて。孟徳さまの、やさしさをこのひとたちは、忘れているのだ。孟徳さまはそんなひとじゃない。
「ちがう、ちがいます。孟徳さまは、お優しいかたです」
おまえが夢を視るのも、気に入られてる今だけだ。前はそうだった。なんて、やさしいかたなんだと。
髪を掴みあげ、床に叩きつける。意識が飛びそうになるのを、必死で堪えた。
新しいおもちゃから引き離す方法を教えてやる。おもちゃを棄てるか、隠してしまえばいいのだ。
女のなかのひとりが、扇をあおぎながら暗く呟いた。冷たい炎の興奮が、寒気を伴い、包み込む。
手を取り合っていろいろと模索していた。おまえの侍女を買収した。呂后がしたように手足を斬って目をえぐって、口と耳を潰してやろうかとも思った。しかし、そうなっては表沙汰になる。最近、人殺しもさっぱりなりを潜めてしまったから、なすりつけはできない。だから、毒を使うことに決めた。豚め。運がいい。おまえの代わりに、猫が死んだんだ。
百合を殺したのは目の前にいる人間たちだった。
叫び声が聞こえたとき、最高に幸せだった。運がよいと思った。でもおまえは生きていた。しぶといったらありゃしない。
さすがは豚だ。
「このひとでなしっ」
理嬢は押さえる手を振り払い、初めて人の顔を平手で殴った。
「百合になんてことをしたのっ。あの子は悪くないじゃない、悪くないじゃないっ」
狂ったように相手の襟を握りしめ、叫んだ。必死の形相に女は怯まず、頬を平手打ちにする。
偽善者。昨日、おまえは死ぬはずだった。猫は、おまえのせいで死んだのだ。
猫だけじゃないぞ。
なんでおまえが生きている?ほかの人間の命を食いやがって。
その放たれた言葉は、受けてきた痛みのなかで、もっとも強い衝撃となって疼いた。するりと、手が離れ、身体の両脇に垂れる。
「わたしのせい……………?」
呼応して、渦巻いた。おまえのせい、おまえのせい、おまえが死ななかったから、猫は死んだ。わたしが死ななかったから、百合は死んだ。おまえが死ななかったから、昨日、食事を運んだものも、作ったものも無惨に殺された。
全部、おまえのせい。おまえのせいだ。わたしのせい。
頭を抱え、崩れ落ちた。自分のせいだとは思ってもみなかった。悪意のある人間が、善の自信を苦しめる工作を練ったのだ。しかし現実は、自分が原因で、その身代わりとして選ばれた。毒が入った食べ物を、死をあたえたのは、わたしだと。
「そんな、そんな」
女たちが、なにかをしゃべっている。
もういい。やっぱり人殺しのせいにすればいい。
ならば、首を絞めて、ばらばらにしてしまえばよろしい。
あの噂の殺人鬼が来てしまったことにすればいい。
そうしようと、だれかが手をたたいた。
帯で締めるとして、切れるものはあるのか。
それはあとからでも問題ない。殿は、まだ政庁からお戻りになる刻ではない。
なんと好都合。なんとちょうどいい。
人殺しの存在を隠れ蓑にする、妬みに憎悪を塗りたくった女たちは、高ぶりをましてゆく。
とにかく、やるなら早いほうがいい。ほら、しやれ。
赤い花の刺繍された帯が、放心する理嬢の白い首に巻きついた。ひゅうっ、と喉が鳴る。身体が動かない。
「いや……………やだ、やだっ……………」
緩やかな締め付けから始まった。
「やめて……………やめてっ……………」
綱を引っ張り合うようにして、両方の先を互いに締め上げる。ぎりぎりと狭まり、喉を圧迫する。
殺される。
どうしてころされなくちゃ、いけないの?
「やめて」
肌と帯の隙間に指を割り込ませようとも、きつくなるだけしかないそれに入ることはない。眼が焦点を無くす。夢中で身体で抗った。その身体の力はだんだん削がれ、口を大きく開けた状態に、舌が突き出す。
はしたない、いやしいと嘲笑われる。
だれか、助けて。声がでない。死にたくない。声が出せない。息苦しさが頭を沸かし、思考が薄らいでゆく。口のなかまでしかない息は、力を奪ってゆく。
「やめて……………」
女たちは、このあと、理嬢の身体を引き裂く。吐き気を催す血と肉の臭いに口を塞ぎながら、刺してゆく。理嬢のなかから、ほとばしる雨を浴びるのだ。
死にたくないよ。
死にたくない。
助けて。
助けて。
だれか、だれか。
夏侯惇さま……………夏侯惇さま……………。………………。
漆黒が、広がった。空が落ちてくるように勢いよく目の前を黒に染めてしまった。
時を同じくして、天気は崩れ始める。太陽が灰を帯びた雲を誘い、分厚く覆う。幾分も待たずに、涙を流した。
瓦に雨が強く打ちつける。
雨の音は、とある一室の惨状を覆い隠すかのように、降りつづけた。部屋は、怪奇な儀式の場であるかのように、異様に静まりかえっている。物音は、滴る水音のみだ。
さほど遠くない場所で、うねりが光り、鳴った。
間近で、鋭い閃光が走る。
部屋の全貌が一瞬だけ明らかになった。激しい雷鳴に、黒い床に伏せた影がもそりと起きあがる。理嬢は現状がはっきりとせぬまま周囲を確認するが、暗くて把握ができない。
「なあに……………」
におう臭みに、鼻と口を覆う。しかし手が汚れている。
ここはどこ。手探りで、探ってみる。これは?水?なまぬるいもの。なにかが手に触れた。粘着質の物体。そこらじゅうが、しとどに濡れている。ふと、指の先に大きなものが当たった。
固いもの?柔らかいもの?これはなあに。大きい。片手だけでは持ち上げることができなかったので、両手で持ちあげた。
これは、なあに。
首をかしげ、持ち上げたものを横にしたりして角度を変えてみる。糸をまとめただけの房のようなものが無数に垂れている。一本一本が細すぎる糸に一気に触れれば、ふわふわと柔らかく布のようだ。
雨が、さらに勢いを増す。
ああ、雨か。雨が降っていることに気づいた。窓を鳴らす雫を、ぼんやりと眺め、ふと手のなかにあるものが正体をあらわす。
雷が光る。
驚いて、それを落としてしまった。
狐目の女の首は転がった。
「えっ」
身を竦め、目を凝らす。首。
わたしのゆび。爪が紅い。肉も入っている。細長い肉片たちが、くちゃくちゃと音を立てながら膝へこぼれた。右の指で左を、左で右をと取り除くが、いたずらに入り込むだけだった。
「嫌……………嫌……………。なに、なにがあったの……………」
だれがこんなことをしたんだ。どうしてこんなにも、わたしの手指は汚れているのだ。
ぼんやり、頭の奥で浮かぶ光景がある。自分の手指が首を引っこ抜く。雑草が簡単に抜けるようだ。楽しい。そう思う。腕も足も全部面白いくらい抜けてしまう。楽しい。どうしてこんなに楽しいんだろう。手に取るような感情がくすぶっている。
「うそ、うそよ……………ちがうの。ちがう……………」
首は、あれだけでない。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、多くの首が、横たわっていた。いずれもみにくく造形を崩している。目がないもの、頭の半分がなく中身がただれている。唇が取れ鼻が落ちていて。
弾け飛んだ無数の臓が、所狭しと散らされていた。人間の中身は、骨、肉、血と案外ぎっしりと詰まっているものだった。床に、はらわたがぶちまけられて面をつくる。壁に、梁に、そして天井に、あらゆる場所に朱が散っていた。装飾されていた品のある室の面影はない。血と肉で彩られた室。
わたしはこんなことしない。でも、視える光景はまるでもうひとつの現実のようだ。楽しい。この気持ちも必ずしも嘘と言えない気持ちがあった。それでも、嘘だ、嘘だ。わたしはこんなことしない。
こんなの、知らない。
そこをひらけば、野花のように可愛らしくきらびやかな玉がたくさん入っている。自分の心が高鳴り、踊り舞うと知っていた。だれかから囁くように耳元で教えられなくとも、わたしは知っていた。開いてみればほんとうだった。
扉の先にはきらきらする心躍る小物が詰まっていた。何頭もの蝶々ととびだしてきた宝物。種を蒔くように、玉が足もとにころころ転がってくる。
嬉しい、楽しい、すごく。
花ふぶき、両手では抱えきれないほどのたくさんの花びらが舞う。宙にめいっぱい踊らせている。
きれい。
くるくると飛びまわる蝶々に導かれ、置かれた卓にある小瓶の蓋をつぎつぎに開けてみた。すると、いままで見たことがない色の硝子玉たちがいきおいよく飛び出した。歓声がまわりから上がった。よろこんでいる声につられて、小瓶をぜんぶ開けてしまった。
小瓶の中身は、水が手をひろげて溢れるみたいに途切れることない。流水の柱に呼ばれて、七色の蛇が何匹も空を飛びはじめる。花を咲かせた蔦が歓迎するかのように、理嬢の身体を着飾った。
きれい。
見惚れていれば、花を咲かせる兎が跳び、ときめく首飾りを身につけた子猫、仔犬、小鳥たちが駆けて、どこからともなく登場してきた。
かわいい。
こころがわくわくした。どきどきする。
わたしは、それらを見ていたの。
わたしが開けたのよ。
ひとのからだのなかに、たくさんの臓物が詰まっていた。掴んでぶちまけたのは、粘りつく血肉。思っていた通りだ。楽しい、楽しい。楽しい、楽しい、たのしい……………。
理嬢は座ったまま逃げるともせず、ぶつぶつと唱えていた。
「こわいゆめ、こわいゆめ、こわいゆめ、ゆめ、ゆめ、ゆめをみてる、みてる、ゆめをみてる、ゆめ、ゆめだって、いった、いった、いったの」
怖い夢でも見たんだ。言ってくれたのは。
「これは、これは、こわいゆめ、こわいゆめ……………」
理嬢の身体には、頭から血と肉がこびりついていた。虫がうごめいているように。梁に引っかかっていた、ちぎれとんだ長い臓腑と手首が、ぼたぼたとしたたって、雨の代わりに理嬢をさらに濡らしていく。ずるり、と長い長い腸が包むように垂れ取り囲む。
立ちのぼる肉のにおいに耐えかねて、胃のなかにあった物を外へ出した。吐く物が無くなったとしても、すべてに対する拒絶は止まずにえづきを繰り返す。目から涙が、鼻からさえも反吐が垂れ流れはじめた。
なにかが一気に割れた気がした。
理嬢は、自分の中身に根のかたちの亀裂が走り、そのまま成すすべもなく散っていく感覚に身をゆだねてしまった。きっと楽になれると、こわいゆめから逃れられるのだと願ったがために。抗わねばいけなかったのかもしれないが、もがこうともしなかった。崩れるがままにさせてやった。粉微塵に砕け、やがて、身体は張りつめていた糸が切れたように赤の上に倒れこんだ。
咥内に血肉がはいりこんだが、唱えることを止める思考がなくなっていた。舌を舐める長い肉片、饐えたにおいの水音とあぶくにまざる唱えごとは、暗闇の底に落ちる石のようだ。
「こわいゆめ。ゆめ、ゆめ、ゆめ、ゆめって、いったの、ゆめって、いってくれたもの、いってくれたもの……………」
目の前には、肉と血の面と玉と花の面が交互に現れていた。間を埋めるように、黒曜の玉がひとつ、光を小さく散らせている。
きれい……………。
雨のにおいは、どことなく死臭を連想させる。虚空一帯に満ちる水の気。泥を吸い、草を吸い、漂っている。
水粒は激しく降りつづけ、盛大な音を響かせる。
「すげえなあ」
「ああ」
居室にて、竹簡に筆を滑らす夏侯惇。窓枠に肘をつき、外を眺める夏侯淵。
「こっちに着いたのが、降るまえでよかった」
ひとりごとのように、歳の近い従兄は言った。
「そうか」
「おい、もてなしのひとつもなしか」
「突然やってきたくせに、偉そうに。お前こそ、手みやげのひとつや、みっつ、あるんだろうな」
「腹の足しになるもんはないが、色っぽい話ならある」
筆は止まらなかった。
「色恋か。聞き飽きた」
「堅物だな、惇。俺はお前のためをとな」
「私のためですか。それはどうも」
「惇、いいか。俺の話を聞け」
「毎回毎回、しつこいと自覚しろ」
窓辺から離れ、竹簡に埋もれた机に寄る。
「お前はもう、若くない歳だ。ふつうなら、五人や六人くらい、がきが居たっておかしくないんだしな?理嬢から解放された。念願叶って、自由だろう」
「私は、べつに、理の教育係が苦だと感じたことはない」
「子孫だよ子孫。遠慮なく言わせてもらう。子どもをつくれ。種を残すことがどれだけ重要かわかるだろ?」
「さあ」
「夏侯の変わり者って、言われてるんだよ。こんな立派な屋敷を持ってるのに、お妾さんがひとりもいないってな。だいだい、惇は夏侯一族の直系だ、本家だ」
「言いたい奴には言わせておけ。女をつくらずとも、子を持つことはできる。わかるだろう?淵の男児をひとり、私に寄越してくれればいい。それを後継者とする」
「まあた、同じことを言う」
「何度でも言ってやる」
「おまえは、れっきとした男だ。去勢された宦官じゃない」
「従兄上を、遠回りに侮辱しているようなものだぞ。淵?」
曹操の祖父曹騰は大宦官である。宦官は人間ではなく、奴隷も同然の立場だが後宮の権力者の寵を手に入れ、一気にのし上がるものもいる。一握りにも満たない数ではあるが。
曹騰は握られた砂粒のひとつだった。しかし、いかに権力を手にしようと、男を亡くし、女でも男ではない存在には変わりない。世間からは後ろ指を指される。曹操は宦官にあからさまな嫌悪を示している。若い頃は、もっと苛烈だった。酒屋で宦官の孫だと馬鹿にした男を、荒れ狂ったように夢中で、半殺しの目に遭わせたこともあり、夏侯淵と夏侯惇は止めるのに泡を吹いた。
曹操は今、漢帝国の丞相として帝以上の力を収めているが、宦官の孫のくせにと陰で蔑むものも多い。気丈に振る舞っていても、心境は荒れているはずだ。
「この」
「宦官でなくとも、養子をとる人間は五万といるわ」
「屁理屈ばっかり言いやがって」
「ひとつの論理だ。その気もないのに女と契り、子を成すことは、女に対する侮蔑だろう。私はそんなことしたくない」
「堅い、岩よりも堅い。この頑固者め。愛とかなんてもんはな、ちょっとしたことから生まれるんだ。そうさな。声がいいとか、眼差しが色っぽいとかだな。いいじゃないか、好きあうのが後でも」
「外見にしか興味のない男は哀れ極まりないな」
筆を置き、背もたれにもたれる。意気揚々とする夏侯淵が分かるくらいの盛大なため息をもらした。
「見た目は重要だぜ?」
「軽薄めが」
「外側なんてものはきっかけにすぎん。内側はゆっくりじっくり知りあえばいいじゃねえか」
「それを言いたくて、わざわざうちに来たのか」
低く呟いた言葉を無視し、夏侯淵は猫撫でをするように、夏侯惇の頭を撫でた。
「実はな、いい縁談が来てる。俺の友人の知り合いの女なんだが、しばらく前に、夫を亡くしてな。子桓と同じくらいの息子もひとりいるが、まだ若い。いい話じゃないか。女房と跡継ぎが、いっぺんに手に入っちまう」
「どうして従兄上殿は、私に縁談をお勧めなさるのですかな」
「そりゃあ、かわいい従弟のためだよ」
「従弟は嫌がっていますけどね」
「いい女だぞ。なかなかの美人だし、料理も上手い」
視線をずらし、肘をたて顎を乗せ、雨音に耳を傾けた。
強い粒のなかで、重いものが聞こえる。雷。光はない。
「雷が落ちないといいが」
ぽつりと呟いたすぐに、陽気な声と打って変わった低い声が、夏侯惇を呼んだ。夏侯淵は腕を組んでいる。
「もしかして、理嬢に教育係としての情以外のものを、抱いたか?」
夏侯惇は立ち上がった。
「いやらしいことを言うな」
おまえはそう言うけれどな、と夏侯淵はつづけた。
「そうとしか思えないんだよ。俺と従兄上は何度も縁談をふっかけたのにそのたびに断る」
「理嬢とは関係がない。私は、ただ、いつでも女は娶れると言っているだけだ」
「あやしい」
「いい加減にしろ、俺を愚弄するか貴様」
「むきになるなよ」
禁忌だ。親子のような間柄で結ばれている。娘と夏侯惇は親しいだけであって、男女の関係ではない。理嬢を女として身体のどこかで想うのならば、なんて穢らわしいことか。救えない愚かな行いだ。理嬢にとっても不誠実すぎる。胸中で、重ね重ね浮かぶ。しかし、他人は言うだろう。それはお前ただひとりの考えであり、俗世間では、いとも簡単に見逃される、と。
禁忌ではない。戸惑いだ。
それでも、不徳だとしか考えられない。
「ちがう、決してちがうわっ」
曹操は言った。理が欲しいのではないか。ちがう、ちがう。そのはずだ。あのときの懸念は、理嬢に曹操が殺されてしまうのではないかと、不安があったためだ。
夏侯惇は、硯を握った。
「戯れ言だ、流してくれ」
だがな、と夏侯淵は釘を刺す。
「惇にそんな気がなくても、理嬢とのことを知っている周囲は、同じことを思うぞ。それだけ長い付き合いだったんだ。従兄上や俺からの縁談話を受けなかったのも、ひとえに、理嬢のことがあったからかもって」
「……………」
「惇ではなくて、あいつのほうが気があるんじゃないかとも考えた」
「そんなもの、あるわけないだろう」
「可能性だ。もし理嬢が……………いや、邪推だな。惇、ひとつのけじめだよ。従兄上からの依頼は、まっとうしたろう?」
隻眼が、両手をひらひらとさせる夏侯淵を射抜く。
「十分すぎるくらい、やったじゃないか。従兄上だってご満足だろうし」
「……………」
「漢の丞相の側室、女にとって、これ以上のない幸福だろう。理嬢は幸せになった。次は、おまえの番だ」
「……………」
「祖先に孝を立てることも視野に入れてだな」
「……………。……………縁談を受ければいいのだな」
「おう、まかせとけ」
待っていましたと言わんばかりに、破った明るい声とともに、弓で肉刺のできた手が、夏侯惇の肩で跳ねた。夏侯淵は、迷いを感じ取ったようである。
縁談。気を紛らす、下手な言い訳だ。さらに、言い訳を被せて、茶を用意すると告げ、居室を出る。
一気に冷気が踊りくる。水飛沫に濡れる回廊を歩く。足を濡らす。光がよぎり、唸りのような風と、雷鳴とが轟く。
確実に、どこかに落ちるかなと思った。
厨房は、ほんのり暖かい。火がほぼ絶えることなく、竈で点いている。誰もいないが、勝手は知っているので、戸棚から茶器を取り出し、葉っぱで茶を淹れる。なにか、つまめるものはないかと探ってみるも、男の口に合いそうなものはない。仕方なく、茶のみを手に取る。
ふと、自然のうねりのなかに、侍女たちが声を発し、回廊を走ってゆく。
鶏でも逃げたかと、さして気にも止めずに出ると、旦那さまと呼び止められた。声はいつぞやのときと酷似している。
ぐったりとした蒼白の女が、いや、理嬢侍女たちにより抱きかかえられていた。唇は色を失い、生気がない。女たちのその奥に、気配のない曹操がいた。
「従兄上……………?」
頭から足の先まで、水に濡れた男は、鋭い瞳をぎらぎらとさせた。威嚇にも似た纏う気は、手に持っていたものを忘れさせ、熱い湯が身体にかかる感覚も失せる。それを見て、また侍女が心配する声を上げた。
曹操が前のめりになりながら夏侯惇に向かってくる。
夏侯惇は威圧に押され、後ずさった。
氷のように冷たい手が勢いよく襟元を掴み、鼻の先と先とが、こすれあうほど引き寄せられる。ひっ、と息を止めた。
従兄上は口を動かしている。雨音と雷音でよく聞こえない。雷は近くなった。
曹操の首筋に洗いとれなかった黒い朱がべったりと残っているのに、夏侯惇は気がついた。滴る雫は、水ではない。血。まさか。やはり。だが、曹操のものではないだろう。ここに生きているのだ。だとしたら、誰のものだ。
「……………れ」
「は、い……………?」
絞り出すように、なんとか答えた。
「……………だ。……………ま……………し……………か……………。れ」
寒さのためではない。震えた。こんなにも近くにいるのに、曹操の声は、耳に届かなかった。
もう一度、言ったようだったが、それは雷の閃光に掻き消された。曹操の爪が、首に食い込む。
「掃除だ。終わるまで、しばし預かれ」
雨のにおいは、どことなく死臭を連想させる。
虚空一帯に満ちる水の気。泥を吸い、草を吸い、漂っている。
そして、血の甘さがべったりと。
続