第五章 前兆 渦は滲み染まりくる



風を斬るとまでは言えないが、風のなかを押し進んだ。

屋敷の敷地内に、的をいくつも並ばせている。その前を、馬を走らせる。騎乗したままで、姜維は矢を射る。

「この下手くそがっ」

十ある的で、真ん中に当たったものがない。やっとのことで当たったものは三つ。残りはすべて外れた。荒々しく声を張った曹丕のもとに、姜維が馬を引いて足早に戻ってくる。

「申し訳ありません、子桓さま」

「姿勢が悪い。もっと伸ばせ」

姜維に弓を構えさせ、伸ばし足りない肩、背、腕の部分を直してゆく。棒術や、柄の長いものの扱いには優れている。弓術は、まあまあといったところだ。馬にさえ乗らなければ、なかなかの動きを見せるが、騎射となると使いものにならないと言っていいほど駄目だった。得意な面を伸ばせばいいとは思うが、やはりできるとできないとでは大きな隔たりがある。自分の従者であるならば、この技能を伸ばしてほしかった。

「細かいところに気を配れ。型ができているとしても、細微なところがしっかりしてなければ意味がない」

「肝に銘じます」

「的だと思うなよ。敵だと思い、容赦するな」

「はい」

「あとは馬との呼吸か」

「こきゅう?」

「扱いにくい武器を持って、戦に行くような奴はいない。同じだよ。馬を自身の一部として、呼吸を合わせ操ることが大切なんだ」

「騎馬の練習もしないとなりませんね」

「それとこれとは話は別だ」

「ちがうのですか」

「馬に乗るのが得意だからと、騎射が上達するのでもない」

姜維から離れ、愛用する弓を手に、矢の入った筒をとる。馬にまたがる。たてがみを撫で、馬の腹を足で締め上げた。短いかけ声をかける。馬がいななき、走る。

すぐさま、矢をかけて、引いた。すらりとした姿勢で、見据える。

弾かれた弦。飛ぶ矢。

風を斬る。たしかに、それは、風を引き裂いた。

的と的のあいだの空間を、身体のすべてで感じ取り、射る。

曹丕の放つ矢が、ひとつ、またひとつと清々しい音を立て、斬りながら的の中心へと吸い込まれてゆく。

なめらかだ。姜維は思った。曹丕と馬の動きがしなやかそのもので、柔らかでありながら力強くさえもある。

十歳という幼いころから、戦にでている。それも、得意とする騎射があったのも要因であろう。研がれてきた牙は、凶でもあり、凛としている。

結果、射た矢は的のうち三つが中心に当たり、五つは中心を外れ、二つが当て損じた。戻りながら、出来映えを確認する曹丕は舌を打ちながら馬を降りる。

「お見事です」

「見事なものか。二つ、二つも外したぞ」

「いえ、私は三つ当てるのにやっとです」

「十にも満たない小さいころから弓を持っているんだ、私は。つい最近からやり始めたおまえとはちがう」

鼻を鳴らした。相当、悔しがっている。姜維は十の的すべて真ん中に射た曹丕を知っているから、悔しさを知り得た。

「そのころの私は、まだ庭の草を抜いていました」

父は天水の武官だったが、姜維が夏侯惇のもとに奉公に出る以前に戦で死んだ。父がどんな顔をしていたかも、武術を教えてもらったことももちろん記憶にない。代わりに、母の伝手で奉公に出た夏侯惇に叩き込まれた。

「今日はこのくらいにしよう」

姜維の弓も手にして、曹丕はきびすを返した。

「いえ、まだ、私は」

姜維は駆け寄った。

「朝から続けていたろう。手がおかしくなってしまう。休息をとることだって必要だ」

「大丈夫ですから」

「しつこい。大丈夫ということはないのだ。使いものにならなくなるんだ。ほら、さっさと厩に連れて行け」

形のよい唇を結び、渋々と馬を曳いていった。気持ちは解らなくもない。もうすこし、もうすこし、まだ、まだ。小さい自分もよく駄々をこねた。弓の師であった夏侯淵も、今のように、いさめるのだ。逆に手が弱くなります、休むことも修行のひとつですぞ、と。

この修行には見学するものがちらほらいた。遠くで、夏侯惇や父、母、弟たちも見ていた。理嬢もこっそり付いてきていたはずだ。

小間使いに、四阿に茶と食事を運ばせた。そのまま卓の上にところせましと皿をならべ、茶を淹れさせているところで、妻の小間使いが走ってきた。

「若さま、若さま。子桓さま」

「どうした?」

「奥方さまが、お帰りになりました」

「ここに呼べ」

「はい、若さま」

幾分も経たぬうちに、甄優が小間使いに手を引かれてやって来た。曹丕は四阿に招き入れ、ふたりの小間使いを下がらせる。姿が消えると、甄優は、やんわり花のごとく夫にほほえみかけた。

「ただいま帰りました、あなた」

「ご苦労だったな、どうだ」

「楽しいお時間でしたわ、とてもね」

「それで、姐々(チエチエ、姉上の意)はすこやかであられたか?」

「ええ。あなたが心配なされていたことは、もうないようです。御顔に傷はございませんでしたわ。それに、お義父さまは、おやさしいとおっしゃっていました」

「そうか」

曹丕は息を深く吐きながら、ひとつ頷いた。

「おねえさまからの、言づてを預かって参りました」

「姐々から?」

料理に伸ばしていた手が止まり、甄優の顔を凝視する。予想していなかったことだ。

「感謝と、先日の非礼のお詫び、と」

「うん。うん」

柔らかに目が細められ、唇が弧を描いた。

「かわいらしいかたでしたわ。あなたが、気にかけるのも、解ります」

「ああ。唯一、子としての居場所をつくってくれたのだからな」

不意に表に出てくる可愛らしさを、甄優は好ましく感じていた。年上としての見解なのか、夫は背伸びをしている子どものようにも思える。

「何度も耳にしてよ」

「そうだったかな」

「ええ、何度も。つぎに会う機会がありましたら、あなたが幼い時のお話を聞いてみたいですわ」

甄優が手の甲を添えて、笑った。子どもとしての居場所を。という言葉を、曹丕は何度も口にしていた。おそらく、十五の歳から侍らせていた教育係の司馬懿にも話しているだろうということは、想像に難くない。

「つぎも?」

「お約束いたしましたの。お義父さまのおゆるしがあればですけれど」

「ほかにはなにか?」

「箏や、お茶の淹れ方など些細なことをお話しましたの」

「箏や茶を」

「お茶も美味しくいただきました。ほんとうに、お上手でしてね」

「ふうん、茶をね」

「それと大事なこと。あなたに贈りものをあずかってましたの」

指が大切に添えられていた桐の箱が、曹丕の目の前に差し出された。甄優と桐とを交互に見つめる。

「これを?私に?」

「あたくしはそう頼まれてきました」

曹丕は贈り物を受け取り、ためらうことなく開けた。なかには、薄紅色の牡丹を中心にあしらわれ、玉の枝垂れが細かに飾られたものだ。品のよい髪飾りが入っていた。出すと、しゃらんと、かすかな音がした。

「これは」

いつぞやのことか。むかしに、理嬢が頭を彩っていたものではなかっただろうか。ああ、いつのことだろう。かすみがかかって、思い出せない。姐々が身につけていたことに、ちがいはないはずなのに。

「見事なものですね」

素朴でありながら、鮮やかさを匂わせるつくりものの花。

「趣をご存知なのよ」

「あなたさまの好みにも、よくあってらっしゃる」

日の光に当たり、白いきらめきが生まれる。満足げに照らして、箱に戻した。甄優の手に、まだ納められている布に気がついた。

「そっちは?」

「姜維にです」

「姜維に?」

「はい。どこにいらっしゃいますかしら」

「さっきまで、騎射の稽古をつけていたんだがな」

「まあ、朝からずっと?」

「馬を厩に連れて行けと言って、それきりだ」

無鉄砲な夫に呆れ、従う姜維をかわいそうに思った。鍛錬において、曹丕が教え子に投げかけるものは罵りに近い。もうすこし、やんわりと言えないのか。厳しさの固まりではないが、自分のやりかたこそ愛あるものだと考えている節がある。

「なら、お庭のお手入れをしてるのね。あの子は」

「おそらくな」

姜維は、曹丕の屋敷でも庭の手入れをする。決まって、鍛錬をしたあとにするのだ。疲れているはずなのに、世話をする。身体に鞭を打って、というものではない。嬉々として草木に世話を焼くのだ。そうすることで、誰を想い慕っているのかは言うまでもない。一種の儀式のようだ。酷使した身体に癒しを求めているのだろう。

曹丕は四阿を出て、さっきの小間使いを呼んだ。

「はい、若さま」

「姜維はどこにいる」

「庭園のほうに、向かわれました」

「ふむ」

呼びに行こうとする小間使いを制し、自分が庭園に足を運ぶ。

見つけた姜維は、落ち葉や枯れ葉を集め、木の根元に撒いていた。

「姜維」

「子桓さま」

緑の混じる瞳が、こちら向いた。葉を、胸に抱えている。

「木に布団を掛けてあげていたのですよ。もう秋ですから、寒くなりますからねえ」

根元に葉をかけてやることは、木にとってとてもよいことだそうだ。笑みを絶やさず、木の幹を労り、撫でる。

「私も寒いのは嫌いだ。寝るときは夜具を増やす。だが、なんで木にも必要なのだ」

「木も、植物も寒さは嫌いですよ。なかには、年じゅう枯れもせず、葉を緑に保っているのもありますけれどね」

腕のなかの落ち葉はなくなっていた。

「嫌いだと。草木の声でも聞いたのか?人間はべつものだ。植物は、人間とはちがう」

「ちがうことなんて、ないと思いますよ。子桓さま。植物は繊細なんです。霜が降りてしまった葉には、つぎの春とか夏には花を咲かせないのもあるし」

しゃがみこみ、丁寧に葉を細かいところまで添える。

「双方、夏に暑過ぎたり、冬に寒すぎたりしたら、風邪を引いて体調を崩します。草木だって同じだと、私は感じます」

「話もしないし、手や足だってないぞ。やはり、人間とちがうじゃないか」

「そう言われればそうですよねえ。目もないし、手もないし」

「だろう?」

「足もないし、耳もないし。……………でも」

「でも?」

「生きてるには変わりありませんよ、きっと」

わらった。

戦は似合わないな。ふと思った。ひそめた目元が、慈愛に濡れている。

「子桓さま。私になにか御用でも?」

「忘れるところだった。ちょっと来なさい」

「はい」

四阿のなかに曹丕が入る。甄優に手を合わせ、礼をとる姜維に来いと促した。甄優が立ち上がる。

「お庭のお手入れ、ご苦労さまです。姜維」

ほんのりと、名も知らぬ花の香が鼻腔をくすぐった。

「あ、いえ。好きにさせてもらって、むしろ申し訳ないです」

「いいんですよ。好きにしてちょうだいね。だけど、休むことも必要だから、無理をしてはなりませんよ」

「お心遣い、ありがとうございます。奥方さま」

照れくさそうに笑う姜維に、甄優は託された布を握らせてやる。

「あのう……………?」

「詳しいことは丕から聞きなさい。あたくしは、これで退散させていただきます」

「あの、これ……………」

「うちの御子さまが、侍女たちでは物足りなくて泣き出すころだから。お食事、まだでしょう?しっかり、いただいてくださいな」

甄優がそう言い残し、軽い足取りで四阿をあとにした。曹丕は妻が座っていた場所に、ためらいがちな姜維を座らせる。手にした布を怪訝そうに見つめ、いったいなんだと、曹丕に視線を送る。

「それ、誰のものかわかるか?」

茶を啜りながら尋ねた。

「奥方さまのものですよ」

曹丕は可笑しそうに喉の奥で笑い、姜維の肩を叩いた。

「なんですか」

「姐々のものだ」

「理嬢さまのっ?」

上擦った声を上げ、火が尻についたように慌てて卓の上に布を置いた。頬を赤く染めて、両腕を鳥が羽ばたくように動かし、焦る姿に曹丕はにんまり笑った。

「どうして笑うのですかっ」

「初々しすぎるぞ。初めて男に愛を説かれる乙女だな。もしかして、おまえ、女だったか」

「からかわないでくださいっ。だ、だって、理嬢さまのですし」

「うん、姐々のだな」

「どうして理嬢さまのが、ここに?」

「今日な、優に姐々を見舞ってもらったのだ。その際、持たされたと」

「私、なんかに。理嬢さまが」

「そんなの、私が知るかっ。早く見てみろ」

目の前のこの少年は、恐ろしく鈍い奴なのかもしれない。いや、恵まれた幸せが降りかかっていることに怖気づいているのだ。

姜維は、得体の知れないものが前にしたような、どこか近寄りがたい気持ちを胸に恐る恐る布をめくった。理嬢からと聞けども、信じがたいからだった。

口がぽかんと開く。布のなかに、ひとつ白玉の耳飾りがたたずんでいる。

銀細工をされた飾りがひとつ。花が開いたかのように、碧眼に映った。

「これは、理嬢さまのですね」

覚えがあった。よく髪と髪の隙間から、この耳飾りがきらめいていた。寂しげにとろけるような細い息が、色づく唇の隙間から漏れ出た。

「でも、どうして」

「にぶいやつだな。くださったのだ」

「どうして」

甄優が預かった伝言は曹丕に対するものだけだった。姜維への言伝はなかった。だが、言葉はなくとも、姐々が好んでいた飾りものが贈られた理由は察することができる。

「大切にしろよ。せっかく、くださったものなのだからな」

「もちろんです。はい」

破顔する姜維の白玉の耳飾りが、陽光に反射した。桐の箱から、薄紅色の髪飾りを取り出したかったが、止めた。ほんとうは、取り出して、私もいただいたと、言いたかった。

耳飾りはひとつだけだった。もうひとつは、きっと理嬢のもとにあるのだろう。姉が、どんな想いで、ふたつの耳飾りを割ったのか、察せる気がした。姉をとられた気がしないわけではないが、少々つっかえるものを、押してしまうべくかき込むように飯を口にし、咀嚼する。

「早く、食ったらどうだ。冷めるぞ」

「よろしいのですか」

「おかしなやつ。あれだけ馬に乗りながら矢を射っていたくせに、腹が空かないのか」

「空いております」

「ならば、たらふく喰え」

遠慮がちに箸に手をつけ、食事を口に運んでゆく。鍛錬をしているわけでも、戦でもないのに、緊張している。この男は、細やかに注意を使いすぎるのだ。それでは、こちらが気を遣って疲れてしまう。だが、そこが姜維の好いところでもある。

「喰い終わったら、本でも読んで、ゆっくりしよう」

「本ですか」

「お前は頭がいい。武芸の腕も、頭も肥らせれば、誰も手がつけられなくなる」

「おだてすぎですよ」

「そうなればいいな、と思っている」

「なれますかねえ」

はにかみながら、耳飾りを撫でる。撫でていた指は、右の耳たぶに触れた。

耳に、穴は開いていない。身体に穴を開けるということは、痛いのだろうか。いや、痛いに決まっている。穴ができたら、血が出る。肌から離さずにしているだけでも、理嬢の温もりを感じることができそうなものの、文字通り身につけたら、もっと、存在を近くに感じることができる気がした。

「子桓さま」

思い切って聞いてみる。

「ん?」

「私の耳に、穴を開けてもらえませんか?」

「穴を?」

「はい。これをつけたいのです」

理嬢の近く感じたい。遠いようでいて、こんなにも近い。

「痛いぞ、絶対に痛いぞ」

「承知の上です、子桓さま」

曹丕の耳に、空洞はない。父や母、姉と妹にはあるが、なにが楽しくてわざわざ作るのか。身体に傷を付ける。痛みを伴う。理解しがたいが、姜維の意思はよくわかった。つながりを持ちたい。理嬢とのつながりを持ちたいのだ。ならば、私だって。おまえに髪飾りが、私に耳飾りなら、同じことをするはずだ。

「優に、やってもらったほうが、いいかもしれない」

「子桓さまも、いかがです?きっと、お似合いになりますよ」

「私を道連れにするな」

黙々と、豚肉の細切りをいっぱいにして頬ばる。姜維は茶を飲んだ。

「はは、残念」

子桓さまの愛する女性は、ずっと側にいるから、少し冷めているのだ。と、姜維は思った。自分はもう死ぬまで逢うことはないだろう。すべてが手に入る人間を、内心羨ましく思いながら、密かに募らせた慕情に満足していたのだった。

「穴は、いつ開ける?」

「すぐにでも、いいと思っています」

「なら、飯を喰ってから、優に頼んでやる」

「ありがとうございますっ、子桓さま」

「ただし」

「は?」

「痛いからと言って、本読みをしないことは認めんからな」

夏侯惇の屋敷にいたときの姜維が、戻っていた。

「大丈夫です。そんなことはありません」

目の周りを縁取る金色の髪と同じ色をした睫毛がきらめいていた。
3/4ページ
スキ