第五章 前兆 渦は滲み染まりくる
二
また、しばらく日が経つ。
百合が死んだ次の日に、食事を運んできた侍女が替わった。以前の侍女は、曹操が自ら手を下した。料理を作ったものも斬り殺したと聞かされた。
気持ちが沈んでいた。殺してしまわれるなんて。たまたま毒になるようなものが入っていただけかもしれないという理嬢の呟きに、曹操は人間が喰うものに毒を入れるのは人間だと一蹴した。主の妻のひとりに不届きな所業をもたらした者がこの屋敷にいることが不快だと。理嬢はうつむいた。それ以上は何も言えなかった。曹操の用心深さと容赦のなさは、国政を担うものとしては必要なものでもある。
小さい百合がいなくなった部屋は、ただただ広くて寒かった。母屋とは距離があるこの離れは、まるで水の上にぽつんと落ちた葉のようだ。
百合の死骸は、曹操の許しを得て、この部屋の近くにある花壇のそばに埋めた。
あの小さな重さと温かさを失い、目元も口元も重い。
今日は、昼下がり以降に甄優が訪れてくる予定だった。
ずいぶん日が高くなったころに起き出した理嬢は慌てて身支度をすませ、あの日曹操が置いていった箏を撫でて待っていた。年季がところどころに感じられるものの、百合の花が彫られた上品なつくりのものだ。弦がきちんと張っており、ちょっと弾いただけで、重みと軽みがふくまれた音が響く。目利きはないものの、上等品であることはわかった。
こんど、いらっしゃられたときは、弾いてさしあげよう。孟徳さまは日を空けていらっしゃるようになった。
戦の前だとおっしゃっていたから、いついらっしゃることになるのかは、わからないけれど。考えようでは練習できる時間を与えられたととらえても、あながち間違いではないかもしれない。
おそるおそる鳴らしてゆく。覚えていた曲を弾いてみた。
ちがう。ここの部分は、このように弾くのだ。
かつて、夏侯惇がそう教えてくれた。
貸してみなさい。
見ていろ。無骨な指が透明で混ざりのない響きを奏でる。きれいな黒曜の瞳が、弦を追っていた。
夏侯惇は箏を弾くのが、素晴らしく巧かった。
箏の音が、まるっきり違う。どうして、そんなにお上手なのですかと、習うたびに尋ねていた。耳にたこができた夏侯惇は苦々しい顔をするのだった。むかしのことを思い出しながら、たどたどしく弾き遊ぶ。
あのような透きとおった音は弾けない。
なんでもいい。頭のなかにある色や景色が、肩から腕、そして指を伝い弦から音に含むような感覚を持て。夏侯惇がそう言った。
百合。白くて小さな猫。歩いたり、走ったり、ころがったり、いたずらが好きな仔猫を思い出してみた。百合の子猫を想った音が百合の花の箏から響く。音に、あの子のひとかけらくらい宿っているだろうか。
目頭が震える、と感じると聞き慣れない女の声がした。
「ごめんくださいませ」
白い肌、黒い髪が艶やかな佳人がいた。曹丕の妻甄優である。流水の上に添えられた花のような優雅さでお辞儀をした。
「お初にお目にかかります。理嬢と申します、甄優さま」
甄優は理嬢の手をとり、お辞儀をするのを止めた。
「箏を弾いていらしたのね」
「お恥ずかしい」
「どうして?あたくしも、弾きますわ」
「わたし、あまり上手ではなくて」
軽く苦笑をしてから、こちらへ、と理嬢は甄優を窓際にある椅子に勧めた。今日の天気は陽光である。日当たりがよい。
お茶をご用意しますねと細々した準備を済ませた。ふたりぶんの茶と菓子を用意し、卓を挟んで座る。甄優は白魚のような指を伸ばし、茶を口に含んだ。
おいしいと、小さく感嘆した。
「理嬢さまは、お茶の淹れかたがお上手なのですね」
「いいえ、そのようなことは」
「ほんとうのことですわ」
ほほえみながら賛辞を述べた佳人の言葉に、理嬢は照れた。自身も湯気が立つ茶を一口含んだ。お菓子もどうぞと勧め、甄優が砂糖菓子に指をのばすのをじっと見つめた。視線を感じると甄優は、首を傾げる。
「どうかなされました?」
「いいえ。甄優さまは、どのような御用件でわたしに会いにきてくださったのですか?」
「気になりますか?」
「実は、とっても気になっていました。孟徳さまからお話をいただいてから、ずっと」
甄優は座り直し、あらためて背を伸ばした。
「あたくしは御使いなのです」
「御使い?」
「夫の曹子桓の御使いです」
「子桓さまが?」
「夫は、あなたさまを大変案じておりました」
「案じて?」
「おからだのこと、ご体調のことを、ずいぶんと」
「ご心配かけて申し訳ありません。でも、わたし、こんなに元気ですから」
「そのようで安心いたしました」
「子桓さまに、わたしが心から感謝していたとお伝えください」
「もちろんですわ。あと、伝言も承っておりますの」
「伝言?」
「夏侯元譲さまの御屋敷にいた姜維が、わたしつきの従者になられました、とのことです」
「姜維がですか?」
「ええ」
「姜維が、子桓さまの。それは、出世したということでしょうか?」
「細かいあたりは詳しく存じませんので、これ以上はなんとも言えません」
「すみません、あとさき考えずに……………ええと、姜維は元気ですか?」
「元気ですとも」
甄優はしょうしょう、高い声を張り上げた。
「ほんとうに、もう。毎日毎日、夫から騎射の手ほどきを受けたり、朝早くから遠乗りで狩りに出かけたりしております。暗くなってきて、ひょっこり戻ってきたと思ったら、なんにも捕まえて来なくて」
「まあ」
「きっと鹿やら兎やら捕ってくるだろうから、夕餉の用意は簡単なものでいいと言った、あたくしの立場がないと言ったら」
役に立たない夫が目の前にいるがごとく、身振り手振りで話した。
曹丕は曹操譲りの淡々とした物腰でいたのだろう。その横で、姜維は焦って頭をしきりに下げていたはずである。明暗のごとき情景に、理嬢は手のひらで口を覆ったが、噴き出すのを堪え切れなかった。
「悪びれもなく碁を打っているものだから、言ってやったのです。反省なさいって。それなのに、どうされたと思われます?」
「子桓さまは黙って碁盤とにらめっこ。姜維はいまにも泣きそうな顔で、謝りながら子桓さまの弁明をしていたんですね?」
「よくお分かりで」
ひとつ頷き、ひとつ手を鳴らしてから甄優は茶を飲んで一息ついた。
姜維とは長いつきあいだった。曹丕と姜維のすがたに、思い出す場面がいくつかあった。理嬢のことも、幾度となく夏侯惇の説教から庇ってきた。だが、夏侯惇に献身的な庇いなど通じることはない。だから、毎度ふたつ肩を並べ、延々とお説教を受けていたものだ。
「たまに、姜維はお庭の手入れをしてくれるのですよ」
変わりなく花を育てる金髪の少年の姿が目に浮かんだ。それほど経っていないが、あの宝石のような碧の瞳を最後に目にしたのは、とてつもなく遠い過去のように思えた。
「元気そうでよかったです」
「お庭がとても綺麗になりましてね。薬草にも博識で、あたくしに教えてくれます」
話に聞くかぎり、姜維は甄優とも仲良くやっているようだ。植物のことを、庭園で説明する姜維。耳を傾ける甄優が、すこし羨ましい。与えられる最近の情報に、なつかしい記憶がさらにかすめた。
「ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか」
ふと、決意したように理嬢が立ち上がった。
「なんでございましょう?」
「渡してもらいたいものがあるのです」
卓から離れて、理嬢は棚の上にある小さな箱のなかから、薄手の絹の布に包まれたものを取り出した。また、別に桐の小箱を取り出すと、甄優の目の前に置いた。
絹のなかに、銀細工の施された対の白玉の耳飾りがあった。
「これを、姜維に」
ふたつのうち、ひとつを差し出す。
「きれいでしょう?わたしが、以前、夏侯惇さまにいただいたものです。いただいたものを、と思われるかもしれませんが」
先日、夏侯惇の屋敷から理嬢宛に荷物が届いた。送られてきた箱のなかに、丁寧に収められていたのだ。この耳飾りは大事にするがあまり、ほかの装飾品と同じ小箱に入れず別けて保管していた。小さいものだから、見つけてくれて嬉しいと、まとめ役を務めたひとへひそかに感謝した。側室として連れてこられた日、自分の手で準備することもできずにいたから気がかりだった。
「おっしゃりたいお気持ち、察しますわ。大切なもので、心を表したい」
「はい。とても大事なものです。わたし、姜維にはすごくお世話になっていました。でも、これまで感謝をきちんと伝えてなくて。いまはもう会えないので、だから」
苦しげに目を細めた。次に、桐の箱に手を伸ばす。
「こちらは、子桓さまに。先日の無礼のお詫びですと伝えていただければ……………」
甄優は頷いた。
「必ずお渡ししますわ」
「ありがとうございます。甄優さま」
白玉を手にしている手を、甄優は両手で包み込んだ。
「お話は変わりますけれど、理嬢さま」
「はい?」
「困ったことや、悩みごとがありましたら、遠慮なく、あたくしを頼りになさって」
「甄優さま」
佳人の手が微弱な力で、理嬢の手を包んだ。甄優は知っているのだろうか、曹操が理嬢に手をあげていたことを。閉ざされた空間で、女たちが理嬢を見ている、その眼を。不思議ではない。曹丕に傷だらけの顔を見られている。曹丕から妻の甄優に伝わったか。甄優の置かれている状況も、理嬢とはさして変わりない。正妻として甄優は曹丕の寵を受けている。いわば、陽のもとにいることとなり、日陰のものたちの妬みにも、つねに晒されているのである。
「困ったこと、ですか」
「あたくしとあなたは、関係上は義母と娘ですから、これからもこうしてお会いできるはずですわ」
このひとは、どこまで知っているのだろうと理嬢は思った。だが、おそらく指し示すであろう出来事は、いまはもう起きていない。
「孟徳さまは、わたしのことを気にかけてくれます」
「でも」
「痛いこともありました。でも、いまは、わたしをいつくしんでくれます。ほんとうに、やさしくいたわってくださいますから、安心してください」
「理嬢さまは嘘つきだわ」
哀しげに首を横に振る。甄優の瞳が、すべてを見透かしているように潤んでいた。理嬢は、表情を変えなかった。わたしが、どうして嘘をつく必要があるのかと思っていた。
「あたくしは理嬢さまよりも年を重ねておりますのよ?ひととしても、女としても、あなたより心を隠す術と暴く術を知っております」
「そんな」
「ほんとうよ」
力が籠もる。逃れることのできない理嬢は、わずかに抗った。
「わたし、嘘なんか」
「無理をなさっておいででしょう?それを、嘘つきと言わずになんと言うのでしょう?」
「……………よくわかりません」
「きっと、気づいていらっしゃらないのだわ。正直になって。強がることなんてないのに」
無理をしている。強がる。いったい、なにを。頭が回転していない。甄優の言葉が右から左へと抜けていった。
甄優は察した。きっと、このひとには想っているひとがいるのだと。きっと、姜維のこと。だれか。白玉の耳飾り、理嬢が触れるしぐさや眼差しで察することができた。思慕を隠すつもりで、曹丕への贈り物をつけたのだろう。あまりにも無謀で稚拙な考えである。
しつらえられたこの部屋、母屋から離された箱庭のような部屋にひとり置かれたこのひとを哀れだとも思った気持ちに拍車がかかる。
曹操も、だれかを想っているのだということは感づいているだろう。あの切れものの男が捕らえぬはずがない。ましてや、ただの女が捕らえてしまうのだから。
しかし、理嬢は曹操にも恋にはあらぬれど、想いを捧げている。話に聞けば、この側室は幸か不幸か、幼いころに拾われ曹操の側室となるための養育をされてきたのだという。恩があるだろう、否と言えぬのだろう。知らず知らずのうちに、恋という情を沈めている。
同じ女として、哀れでならなかった。
自分と重ねるつもりはない。女の気持ちが、自身が望むように導くのは並大抵のことだとは思っていない。自分のように敵側の殿方に見初められることもある。流されるままに流されるのが常であると、知っている。
それでも哀れに思うのは、やはり自分が年長だからだろうか。
「強がってなんかいませんよ」
「素直になって」
「あの……………」
はじめて、女性に抱きしめられた。鼻に、高価なものなのだろう芳香の匂いがする。いい匂い。子をあやすように、背中をさすってくれる。母とは、姉とは、このような存在をいうのだろうか。母は知らない。姉も知らない。記憶のすみにさえも、遺っていない。でも、きっと、母とは、姉とはこのようなひとをいうのだ。
そんなひとから、自分でも知らない胸のなかの部分を突かれた気がする。こういうとき、どうすればいいか、ちょっと困っている。
「忘れないでください。理嬢さまには、理嬢さまを支えてくれるものが、かならずいるのですから」
「よく、わかりません。甄優さまのおっしゃることが、よくわかりません」
甄優は身体を離し、頭の横を撫でた。理嬢の手のなかにある依頼の品を受け取るまえに、打たれたように平伏する。
理嬢は義父の側室だ。甄優より年若といえど、たち位置で見るなら、上である。
「申し訳ありません。出過ぎたことをしました」
「やめてください、膝をつかないでください。わたしを気遣ってくれたの、うれしいです。わたしこそ、頭に入ってこなくて、ごめんなさい」
引っ張るように甄優を立ち上がらせ、椅子に座らせた。
「こういうお話をだれかとしたの、はじめてで」
「いいの。いいのです」
佳人の白魚の指は我が子のようにやさしく撫で、弱々しくほほえんだ。凍てついた胸が、すぐに溶け、同じようにほほえんで手に手を添える。何事もなかったかのように、菓子をすすめ、冷めてしまった茶を下げて、熱い茶の用意に取りかかった。
多少張りつめた空気を取り払うべく、冷めた茶を飲む。理嬢は一気に飲み干したところで、ほっと息をついた。
「甄優さまがおっしゃるように、優しくしてくださるひとたちがたくさんいます。ありがたいことです。改めて、自覚しました」
「さしでがましいまねをいたしましたが」
「いいえ、ありがとうございます。あの、甄優さまがよろしければ、またこのようにお会いしたいのですが、その時はお呼びしてもよろしいでしょうか。孟徳さまにお願いして、それで、お許しが出たらになりますけれど」
「ええ、もちろん。よろこんで」
「よかった。お姉さんがいるとしたら、きっとこんなふうなのでしょうね」
心のそこから、理嬢はほほえんだ。
「そうだ。甄優さまは、姜維のお茶を飲んだことがありますか?」
嬉しそうに、理嬢は言う。危うく、茶が茶器から溢れそうになる。
「あの子はお茶もお手のものなのですか?」
「姜維は、夏侯惇さまのお屋敷にいたころ、すこし身体を崩してしまったときとか、薬草を煎じてくれたんです。それをお茶にまぜて、飲んでいました。ひとそれぞれだと思うんですけど、わたしはとても好きでした」
茶を差し出す。にこにことする理嬢に、受け取る甄優の緊張の色はほぐれた。
「気が利くのですね。夫も、それくらい、いい子ならよろしいのですけれど」
「是非、飲んでみてほしいです。体調が優れてないときでも、きっと身体があたたまる薬草を煎じてくれるはずですから」
「おっぱいの出がよくなるものもありましょうか?」
曹丕と甄優の間に生まれた男児の話になった。叡という名づけたそうだ。
まだまだかわいい盛りで、曹丕のようにわがままなのだという。腹が空いたら、たらふく飲み、寝る。寝つくならまだいいが、抱っこをして四六時中あやしていないと、雷を発するように泣き叫ぶ。すやすやと眠っていることを確認し、慎重に寝台におろそうとすると、安らかな寝顔は、たちまち泣き顔に変貌する。甄優も侍女たちも手を焼いている。
無論、父親は蚊帳の外であり、たまに息子のあやすのを頼むと不機嫌になる。
眉が寄った顔であやす父親の姿は滑稽で、それこそ赤子は、わんわん泣く。笑いかけてくださいませ、という助言も役に立たない。歪な笑いかけは余計に油を注ぐのだという。そんな光景に、妻や侍女たちはおろか従者たちも噴き出すのだそうだ。
こいつはわたしが嫌いらしい。夫はちょっと悲しそうに呟いた。ちょっと可愛らしいと思いつつ、慣れてないだけですわ、毎日、一度は抱いてくださいませと声をかけた。毎日だと。はい。そんなやりとりをするのだそうだ。
理嬢は声を上げて笑った。
「子桓さまが、子守りをなさるって信じられないです」
「あのひとも、子どもとたいして変わりませんからね」
「子桓さまの前で言っちゃだめですよ。むくれちゃいますから」
「あらあら、気をつけませんと」
そして一刻ののち。
また、いつか。という約束をし、甄優は帰って行った。
ひとりきりなった部屋で、理嬢は卓の上の片付けをした。終えたのち、残ったひとつの白玉の耳飾りを胸で祈るように抱く。
耳飾りは、姜維のもとに届くでしょうか。姜維は、身につけてくれないまでも、持っていてくれるでしょうか。感謝、ありがとうという気持ちは込めた。届かなくたって、持っていなくたって、かまわない。なくしてもかまわない。わたしのなかでは、姜維のもとにある。ありがとうは伝えた。
理嬢は、鏡に耳を映しながら、いつぶりになるか分からない白玉を左耳につけた。
夏侯邸とこの場所。自分がいた世界と今いる世界が通じ合った気がした。
安心した。こうやって、過ごした日々に繋がっていられる。喪ったわけではない。自分が感じようとしていなかっただけだ。
ひさびさに左耳に揺れる白玉を感じながら、欄干へ出る。
もしかしたら。
丁寧に、探した。まだ、あるかもしれない。あの日々が感じられる物が。身を屈めて欄干の柱と柱のあいだ根元をじっくりのぞくと、庭の地面に落ちているものがあった。すぐに見つかった。小袋である。手を伸ばし苦なく手に取ることができた。振ってみると、さらさらと音がする。
姜維は、身体があたたまる薬草を煎じてくれた。きっと、これもそうにちがいない。
ひしと、抱きしめた。
また、しばらく日が経つ。
百合が死んだ次の日に、食事を運んできた侍女が替わった。以前の侍女は、曹操が自ら手を下した。料理を作ったものも斬り殺したと聞かされた。
気持ちが沈んでいた。殺してしまわれるなんて。たまたま毒になるようなものが入っていただけかもしれないという理嬢の呟きに、曹操は人間が喰うものに毒を入れるのは人間だと一蹴した。主の妻のひとりに不届きな所業をもたらした者がこの屋敷にいることが不快だと。理嬢はうつむいた。それ以上は何も言えなかった。曹操の用心深さと容赦のなさは、国政を担うものとしては必要なものでもある。
小さい百合がいなくなった部屋は、ただただ広くて寒かった。母屋とは距離があるこの離れは、まるで水の上にぽつんと落ちた葉のようだ。
百合の死骸は、曹操の許しを得て、この部屋の近くにある花壇のそばに埋めた。
あの小さな重さと温かさを失い、目元も口元も重い。
今日は、昼下がり以降に甄優が訪れてくる予定だった。
ずいぶん日が高くなったころに起き出した理嬢は慌てて身支度をすませ、あの日曹操が置いていった箏を撫でて待っていた。年季がところどころに感じられるものの、百合の花が彫られた上品なつくりのものだ。弦がきちんと張っており、ちょっと弾いただけで、重みと軽みがふくまれた音が響く。目利きはないものの、上等品であることはわかった。
こんど、いらっしゃられたときは、弾いてさしあげよう。孟徳さまは日を空けていらっしゃるようになった。
戦の前だとおっしゃっていたから、いついらっしゃることになるのかは、わからないけれど。考えようでは練習できる時間を与えられたととらえても、あながち間違いではないかもしれない。
おそるおそる鳴らしてゆく。覚えていた曲を弾いてみた。
ちがう。ここの部分は、このように弾くのだ。
かつて、夏侯惇がそう教えてくれた。
貸してみなさい。
見ていろ。無骨な指が透明で混ざりのない響きを奏でる。きれいな黒曜の瞳が、弦を追っていた。
夏侯惇は箏を弾くのが、素晴らしく巧かった。
箏の音が、まるっきり違う。どうして、そんなにお上手なのですかと、習うたびに尋ねていた。耳にたこができた夏侯惇は苦々しい顔をするのだった。むかしのことを思い出しながら、たどたどしく弾き遊ぶ。
あのような透きとおった音は弾けない。
なんでもいい。頭のなかにある色や景色が、肩から腕、そして指を伝い弦から音に含むような感覚を持て。夏侯惇がそう言った。
百合。白くて小さな猫。歩いたり、走ったり、ころがったり、いたずらが好きな仔猫を思い出してみた。百合の子猫を想った音が百合の花の箏から響く。音に、あの子のひとかけらくらい宿っているだろうか。
目頭が震える、と感じると聞き慣れない女の声がした。
「ごめんくださいませ」
白い肌、黒い髪が艶やかな佳人がいた。曹丕の妻甄優である。流水の上に添えられた花のような優雅さでお辞儀をした。
「お初にお目にかかります。理嬢と申します、甄優さま」
甄優は理嬢の手をとり、お辞儀をするのを止めた。
「箏を弾いていらしたのね」
「お恥ずかしい」
「どうして?あたくしも、弾きますわ」
「わたし、あまり上手ではなくて」
軽く苦笑をしてから、こちらへ、と理嬢は甄優を窓際にある椅子に勧めた。今日の天気は陽光である。日当たりがよい。
お茶をご用意しますねと細々した準備を済ませた。ふたりぶんの茶と菓子を用意し、卓を挟んで座る。甄優は白魚のような指を伸ばし、茶を口に含んだ。
おいしいと、小さく感嘆した。
「理嬢さまは、お茶の淹れかたがお上手なのですね」
「いいえ、そのようなことは」
「ほんとうのことですわ」
ほほえみながら賛辞を述べた佳人の言葉に、理嬢は照れた。自身も湯気が立つ茶を一口含んだ。お菓子もどうぞと勧め、甄優が砂糖菓子に指をのばすのをじっと見つめた。視線を感じると甄優は、首を傾げる。
「どうかなされました?」
「いいえ。甄優さまは、どのような御用件でわたしに会いにきてくださったのですか?」
「気になりますか?」
「実は、とっても気になっていました。孟徳さまからお話をいただいてから、ずっと」
甄優は座り直し、あらためて背を伸ばした。
「あたくしは御使いなのです」
「御使い?」
「夫の曹子桓の御使いです」
「子桓さまが?」
「夫は、あなたさまを大変案じておりました」
「案じて?」
「おからだのこと、ご体調のことを、ずいぶんと」
「ご心配かけて申し訳ありません。でも、わたし、こんなに元気ですから」
「そのようで安心いたしました」
「子桓さまに、わたしが心から感謝していたとお伝えください」
「もちろんですわ。あと、伝言も承っておりますの」
「伝言?」
「夏侯元譲さまの御屋敷にいた姜維が、わたしつきの従者になられました、とのことです」
「姜維がですか?」
「ええ」
「姜維が、子桓さまの。それは、出世したということでしょうか?」
「細かいあたりは詳しく存じませんので、これ以上はなんとも言えません」
「すみません、あとさき考えずに……………ええと、姜維は元気ですか?」
「元気ですとも」
甄優はしょうしょう、高い声を張り上げた。
「ほんとうに、もう。毎日毎日、夫から騎射の手ほどきを受けたり、朝早くから遠乗りで狩りに出かけたりしております。暗くなってきて、ひょっこり戻ってきたと思ったら、なんにも捕まえて来なくて」
「まあ」
「きっと鹿やら兎やら捕ってくるだろうから、夕餉の用意は簡単なものでいいと言った、あたくしの立場がないと言ったら」
役に立たない夫が目の前にいるがごとく、身振り手振りで話した。
曹丕は曹操譲りの淡々とした物腰でいたのだろう。その横で、姜維は焦って頭をしきりに下げていたはずである。明暗のごとき情景に、理嬢は手のひらで口を覆ったが、噴き出すのを堪え切れなかった。
「悪びれもなく碁を打っているものだから、言ってやったのです。反省なさいって。それなのに、どうされたと思われます?」
「子桓さまは黙って碁盤とにらめっこ。姜維はいまにも泣きそうな顔で、謝りながら子桓さまの弁明をしていたんですね?」
「よくお分かりで」
ひとつ頷き、ひとつ手を鳴らしてから甄優は茶を飲んで一息ついた。
姜維とは長いつきあいだった。曹丕と姜維のすがたに、思い出す場面がいくつかあった。理嬢のことも、幾度となく夏侯惇の説教から庇ってきた。だが、夏侯惇に献身的な庇いなど通じることはない。だから、毎度ふたつ肩を並べ、延々とお説教を受けていたものだ。
「たまに、姜維はお庭の手入れをしてくれるのですよ」
変わりなく花を育てる金髪の少年の姿が目に浮かんだ。それほど経っていないが、あの宝石のような碧の瞳を最後に目にしたのは、とてつもなく遠い過去のように思えた。
「元気そうでよかったです」
「お庭がとても綺麗になりましてね。薬草にも博識で、あたくしに教えてくれます」
話に聞くかぎり、姜維は甄優とも仲良くやっているようだ。植物のことを、庭園で説明する姜維。耳を傾ける甄優が、すこし羨ましい。与えられる最近の情報に、なつかしい記憶がさらにかすめた。
「ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか」
ふと、決意したように理嬢が立ち上がった。
「なんでございましょう?」
「渡してもらいたいものがあるのです」
卓から離れて、理嬢は棚の上にある小さな箱のなかから、薄手の絹の布に包まれたものを取り出した。また、別に桐の小箱を取り出すと、甄優の目の前に置いた。
絹のなかに、銀細工の施された対の白玉の耳飾りがあった。
「これを、姜維に」
ふたつのうち、ひとつを差し出す。
「きれいでしょう?わたしが、以前、夏侯惇さまにいただいたものです。いただいたものを、と思われるかもしれませんが」
先日、夏侯惇の屋敷から理嬢宛に荷物が届いた。送られてきた箱のなかに、丁寧に収められていたのだ。この耳飾りは大事にするがあまり、ほかの装飾品と同じ小箱に入れず別けて保管していた。小さいものだから、見つけてくれて嬉しいと、まとめ役を務めたひとへひそかに感謝した。側室として連れてこられた日、自分の手で準備することもできずにいたから気がかりだった。
「おっしゃりたいお気持ち、察しますわ。大切なもので、心を表したい」
「はい。とても大事なものです。わたし、姜維にはすごくお世話になっていました。でも、これまで感謝をきちんと伝えてなくて。いまはもう会えないので、だから」
苦しげに目を細めた。次に、桐の箱に手を伸ばす。
「こちらは、子桓さまに。先日の無礼のお詫びですと伝えていただければ……………」
甄優は頷いた。
「必ずお渡ししますわ」
「ありがとうございます。甄優さま」
白玉を手にしている手を、甄優は両手で包み込んだ。
「お話は変わりますけれど、理嬢さま」
「はい?」
「困ったことや、悩みごとがありましたら、遠慮なく、あたくしを頼りになさって」
「甄優さま」
佳人の手が微弱な力で、理嬢の手を包んだ。甄優は知っているのだろうか、曹操が理嬢に手をあげていたことを。閉ざされた空間で、女たちが理嬢を見ている、その眼を。不思議ではない。曹丕に傷だらけの顔を見られている。曹丕から妻の甄優に伝わったか。甄優の置かれている状況も、理嬢とはさして変わりない。正妻として甄優は曹丕の寵を受けている。いわば、陽のもとにいることとなり、日陰のものたちの妬みにも、つねに晒されているのである。
「困ったこと、ですか」
「あたくしとあなたは、関係上は義母と娘ですから、これからもこうしてお会いできるはずですわ」
このひとは、どこまで知っているのだろうと理嬢は思った。だが、おそらく指し示すであろう出来事は、いまはもう起きていない。
「孟徳さまは、わたしのことを気にかけてくれます」
「でも」
「痛いこともありました。でも、いまは、わたしをいつくしんでくれます。ほんとうに、やさしくいたわってくださいますから、安心してください」
「理嬢さまは嘘つきだわ」
哀しげに首を横に振る。甄優の瞳が、すべてを見透かしているように潤んでいた。理嬢は、表情を変えなかった。わたしが、どうして嘘をつく必要があるのかと思っていた。
「あたくしは理嬢さまよりも年を重ねておりますのよ?ひととしても、女としても、あなたより心を隠す術と暴く術を知っております」
「そんな」
「ほんとうよ」
力が籠もる。逃れることのできない理嬢は、わずかに抗った。
「わたし、嘘なんか」
「無理をなさっておいででしょう?それを、嘘つきと言わずになんと言うのでしょう?」
「……………よくわかりません」
「きっと、気づいていらっしゃらないのだわ。正直になって。強がることなんてないのに」
無理をしている。強がる。いったい、なにを。頭が回転していない。甄優の言葉が右から左へと抜けていった。
甄優は察した。きっと、このひとには想っているひとがいるのだと。きっと、姜維のこと。だれか。白玉の耳飾り、理嬢が触れるしぐさや眼差しで察することができた。思慕を隠すつもりで、曹丕への贈り物をつけたのだろう。あまりにも無謀で稚拙な考えである。
しつらえられたこの部屋、母屋から離された箱庭のような部屋にひとり置かれたこのひとを哀れだとも思った気持ちに拍車がかかる。
曹操も、だれかを想っているのだということは感づいているだろう。あの切れものの男が捕らえぬはずがない。ましてや、ただの女が捕らえてしまうのだから。
しかし、理嬢は曹操にも恋にはあらぬれど、想いを捧げている。話に聞けば、この側室は幸か不幸か、幼いころに拾われ曹操の側室となるための養育をされてきたのだという。恩があるだろう、否と言えぬのだろう。知らず知らずのうちに、恋という情を沈めている。
同じ女として、哀れでならなかった。
自分と重ねるつもりはない。女の気持ちが、自身が望むように導くのは並大抵のことだとは思っていない。自分のように敵側の殿方に見初められることもある。流されるままに流されるのが常であると、知っている。
それでも哀れに思うのは、やはり自分が年長だからだろうか。
「強がってなんかいませんよ」
「素直になって」
「あの……………」
はじめて、女性に抱きしめられた。鼻に、高価なものなのだろう芳香の匂いがする。いい匂い。子をあやすように、背中をさすってくれる。母とは、姉とは、このような存在をいうのだろうか。母は知らない。姉も知らない。記憶のすみにさえも、遺っていない。でも、きっと、母とは、姉とはこのようなひとをいうのだ。
そんなひとから、自分でも知らない胸のなかの部分を突かれた気がする。こういうとき、どうすればいいか、ちょっと困っている。
「忘れないでください。理嬢さまには、理嬢さまを支えてくれるものが、かならずいるのですから」
「よく、わかりません。甄優さまのおっしゃることが、よくわかりません」
甄優は身体を離し、頭の横を撫でた。理嬢の手のなかにある依頼の品を受け取るまえに、打たれたように平伏する。
理嬢は義父の側室だ。甄優より年若といえど、たち位置で見るなら、上である。
「申し訳ありません。出過ぎたことをしました」
「やめてください、膝をつかないでください。わたしを気遣ってくれたの、うれしいです。わたしこそ、頭に入ってこなくて、ごめんなさい」
引っ張るように甄優を立ち上がらせ、椅子に座らせた。
「こういうお話をだれかとしたの、はじめてで」
「いいの。いいのです」
佳人の白魚の指は我が子のようにやさしく撫で、弱々しくほほえんだ。凍てついた胸が、すぐに溶け、同じようにほほえんで手に手を添える。何事もなかったかのように、菓子をすすめ、冷めてしまった茶を下げて、熱い茶の用意に取りかかった。
多少張りつめた空気を取り払うべく、冷めた茶を飲む。理嬢は一気に飲み干したところで、ほっと息をついた。
「甄優さまがおっしゃるように、優しくしてくださるひとたちがたくさんいます。ありがたいことです。改めて、自覚しました」
「さしでがましいまねをいたしましたが」
「いいえ、ありがとうございます。あの、甄優さまがよろしければ、またこのようにお会いしたいのですが、その時はお呼びしてもよろしいでしょうか。孟徳さまにお願いして、それで、お許しが出たらになりますけれど」
「ええ、もちろん。よろこんで」
「よかった。お姉さんがいるとしたら、きっとこんなふうなのでしょうね」
心のそこから、理嬢はほほえんだ。
「そうだ。甄優さまは、姜維のお茶を飲んだことがありますか?」
嬉しそうに、理嬢は言う。危うく、茶が茶器から溢れそうになる。
「あの子はお茶もお手のものなのですか?」
「姜維は、夏侯惇さまのお屋敷にいたころ、すこし身体を崩してしまったときとか、薬草を煎じてくれたんです。それをお茶にまぜて、飲んでいました。ひとそれぞれだと思うんですけど、わたしはとても好きでした」
茶を差し出す。にこにことする理嬢に、受け取る甄優の緊張の色はほぐれた。
「気が利くのですね。夫も、それくらい、いい子ならよろしいのですけれど」
「是非、飲んでみてほしいです。体調が優れてないときでも、きっと身体があたたまる薬草を煎じてくれるはずですから」
「おっぱいの出がよくなるものもありましょうか?」
曹丕と甄優の間に生まれた男児の話になった。叡という名づけたそうだ。
まだまだかわいい盛りで、曹丕のようにわがままなのだという。腹が空いたら、たらふく飲み、寝る。寝つくならまだいいが、抱っこをして四六時中あやしていないと、雷を発するように泣き叫ぶ。すやすやと眠っていることを確認し、慎重に寝台におろそうとすると、安らかな寝顔は、たちまち泣き顔に変貌する。甄優も侍女たちも手を焼いている。
無論、父親は蚊帳の外であり、たまに息子のあやすのを頼むと不機嫌になる。
眉が寄った顔であやす父親の姿は滑稽で、それこそ赤子は、わんわん泣く。笑いかけてくださいませ、という助言も役に立たない。歪な笑いかけは余計に油を注ぐのだという。そんな光景に、妻や侍女たちはおろか従者たちも噴き出すのだそうだ。
こいつはわたしが嫌いらしい。夫はちょっと悲しそうに呟いた。ちょっと可愛らしいと思いつつ、慣れてないだけですわ、毎日、一度は抱いてくださいませと声をかけた。毎日だと。はい。そんなやりとりをするのだそうだ。
理嬢は声を上げて笑った。
「子桓さまが、子守りをなさるって信じられないです」
「あのひとも、子どもとたいして変わりませんからね」
「子桓さまの前で言っちゃだめですよ。むくれちゃいますから」
「あらあら、気をつけませんと」
そして一刻ののち。
また、いつか。という約束をし、甄優は帰って行った。
ひとりきりなった部屋で、理嬢は卓の上の片付けをした。終えたのち、残ったひとつの白玉の耳飾りを胸で祈るように抱く。
耳飾りは、姜維のもとに届くでしょうか。姜維は、身につけてくれないまでも、持っていてくれるでしょうか。感謝、ありがとうという気持ちは込めた。届かなくたって、持っていなくたって、かまわない。なくしてもかまわない。わたしのなかでは、姜維のもとにある。ありがとうは伝えた。
理嬢は、鏡に耳を映しながら、いつぶりになるか分からない白玉を左耳につけた。
夏侯邸とこの場所。自分がいた世界と今いる世界が通じ合った気がした。
安心した。こうやって、過ごした日々に繋がっていられる。喪ったわけではない。自分が感じようとしていなかっただけだ。
ひさびさに左耳に揺れる白玉を感じながら、欄干へ出る。
もしかしたら。
丁寧に、探した。まだ、あるかもしれない。あの日々が感じられる物が。身を屈めて欄干の柱と柱のあいだ根元をじっくりのぞくと、庭の地面に落ちているものがあった。すぐに見つかった。小袋である。手を伸ばし苦なく手に取ることができた。振ってみると、さらさらと音がする。
姜維は、身体があたたまる薬草を煎じてくれた。きっと、これもそうにちがいない。
ひしと、抱きしめた。