第五章 前兆 渦は滲み染まりくる



部屋に引きこもりがちであった雀(シャン)は、最近、屋敷の庭園をよく散歩するようになった。碧玉の眼をした若者が居なくなってから、庭は少しばかり荒れたようにも感じる。

夏侯惇は新しい庭師を雇うつもりはないらしい。いや、もともと庭師などはいなかったはずだ。あの子が好きで植物の世話をしていたと、夏侯惇は言っていた。

この前、指で突いていた花は大半が散ってしまった。花の命は短いと思いながら、散った花びらを踏みならしながら、枝を折った。枝は折れてもなかなか離れなかった。皮が丈夫だ。まるでやめろと言わんばかりにしぶとく頑丈である。葉と残りの花をばらばら散らかせながら、激しく振りつつ捩じ切るようにして、やっと離れた。

枝先に葉と花がついているものの、みすぼらしい様相であるが、まあいい。部屋に飾るつもりだった。特に理由はないけれど、まあ飾ってみようかなと考えたのだった。無意味な動機ではない。だが、これを見たら夏侯惇は怒るだろう。この前よりも、きっと、さらに。理は、そんなことなどしないと。

夏侯惇にはまだ戸惑いがあるはずだ。理と同じ顔をした俺を、奴は雀などではなく、理として接していることがあるからだ。ふとした仕草、言葉、気づかいに表れている。本人は気付いていまいが、俺にはわかる。

男である自分を女として見てはいないのだろうが、どこか女を扱うような素振りをすることもあるのだ。きまって、唇を噛みしめて笑いを堪えるのである。

「馬鹿なやつだねえ」

ほんとうに。

「雀」

「夏侯惇」

来た。

振り向いてやりながら、手にした枝をこれ見よがしに揺らしてみた。

夏侯惇の眉間に皺が寄ったのが予想どおりすぎて、雀は勢いよく噴き出した。

「どうした?」

「枝を折るな」

夏侯惇に近づき、周囲をゆっくり練り歩きながら、理嬢の顔をした男は唇を吊り上げた。悪女のような卑しさを含んだ唇が動く。

「部屋に飾ろうと思って」

「しおらしいな。おまえの趣味は高尚すぎて、理解がおよばんよ」

「理のようで嬉しいだろう。ねえ、元譲さま」

「……………」

枝を持っていない空のほうの腕を掴まれ、そのまま締めつけられる。それを一瞥し、枝で夏侯惇の肩を軽く叩く。花が首ごと落っこちた。

「おはなしになって、元譲さま。ごめんなさい。ごめんなさい」

声をわざと高く上擦りあげ、腰を低くかがめ、下から夏侯惇を見上げた。夏侯惇はさらに腕を締め上げる。

「痛い、痛い、痛い。ごめんなさい。ごめんなさい。許して、元譲さま。許して、許してよ。痛いわあ」

力が増すばかり。やれやれ、離してくれ。痣にでもなったらどうしてくれるよ。子どものいたずら心がわからない奴だ。

「冗談だよ、冗談」

媚びる表情を変えたが、口もとの歪みは元には戻らなかった。

「冗談の通じない殿方は嫌われましてよ、あなた」

「私に冗談は言うな。お前から発せられるそれは、より気分が悪い」

「あたしが理の顔をしているからでしょ?ね、元譲さま。ね、そうでしょう。そうなんでしょ?」

「……………貴様は」

「げ、ん、じょ、う、さ、ま」

急に高く上擦った声が不快で、夏侯惇は歯を食いしばる。理嬢は字で呼ばない。

鳥が喉を鳴らすように、雀は笑い捨てた。

「声だって同じだもの。あら、似ているだけのほうがよいかしら。どちらがお好み?いいわよ。お望みのままに変えて差し上げてもよくってよ」

「貴様」

「俺の顔が気に入らないから、俺のぜんぶが気に入らないんだろ?」

「関係ない」

「どうだかね。つれないわ、元譲さま」

蛇のようにしなやかに躍りかかってきた手が首に絡み付く寸前で制し、雀を突き放す。さらに胸を押して後退させた。

雀の声音は上擦りから戻っていたが、まだけらけらと笑っている。次の瞬間、急に澄んだ瞳を一閃光らせ、枝先を夏侯惇の鼻先に突きつけた。

「俺の顔を殴ったことを、あやまりな」

男の低い声だった。しかし、よく覚えている音が芯にある。

「私に非はない。貴様がふざけたことを吐くからだ」

「暴漢野郎っ」

「謝罪するのは貴様のほうだ」

「てめえだよ」

理嬢が人を殺したと言った雀に激高し、夏侯惇はこいつの頬を殴った。後悔はない。突然現れた若造に、理嬢は人を殺めたと言われたことが許せなかった。穢されたとも思った。たしかに、理嬢は手を赤に染めた。しかし、あれは理嬢ではない。転じて、殺してない。

私しか知らぬあの姿。決めるのは、この私だ。

「貴様に、理のなにが解る」

「解るよ。理のことなら、なんだって」

不敵に目を細めた。枝で大きく弧を描く。葉擦れの音が、やけに耳に障った。

「虚勢だな。ひょっこりと現れただけのくせに、会いもしていなかったものを知っているだと?」

「俺はね、理のね、弟だから。夏侯惇が理を世話した時間より、俺が理を想う時間のほうが長いんだよ。倍もな」

「貴様に、理嬢のことなど知るものか」

「同じこと何度も言わせんじゃねえぞ。おまえだってなにを知ってんだ」

「不快だ」

「ふん。おまえが俺の冗談を嫌いみたいに、俺以外が理の話をするのは胸くそ悪い」

「奇遇だ」

「……………用があってわざわざ探しに来たんだろ、話してしてくれよ。さっさとな。終わったら帰れ、ぼけ」

葉を乱雑に掻きむしる。さらには足のつまさきで土をえぐり返し始めた。

「戦がある」

この一言に、雀は動きを止めて真っ直ぐに夏侯惇を見据えた。

「戦?出ろと?」

「その腰から下げている得物で、従兄上に忠誠を示すのではなかったのか?」

「まあね」

「出ろ」

「出ないとは言ってないだろうが、馬鹿。出るさ、出るつもりだったよ。いいよ、出てやるよ。で、具体的には誰を殺せばいいのさ」

「言い方に気をつけろ」

「じゃあ、おまえはどんな命令を受けたんだ」

「南を討つ」

興味なさげに、円を描くように枝を振った。

「へえ。あそこには色んなやつがいるよな」

「そのなかの劉備玄徳を、従兄上は、もっとも警戒している」

曹操がこの世に英雄は自分と貴様だと言った男だ。夏侯惇も、その男を知っている。体躯がよく、喜怒哀楽をあまり表に出さず、周りが寒いといえば、暑いと答えるような男だった。

「本来ならば、もっと早くに討つべきだった。一年ほど前に、一度だけ攻めたきりだ」

「それに反し、ようやく、また攻める」

「悪戯に一年ものの間を空けていたわけではない」

「戦が、たびたびあったら、たまったもんじゃない。丞相には帝国を治める責任があるからなあ。腐った柱と土台だけどな」

「貴様にしてはまともな意見だ」

「俺はいつだって、まともだよ」

夏侯惇は踵を返し、屋敷へ戻ろうと歩を進めた。雀は手にしていた枝を、隻眼の男めがけて投げつける。黒髪の後ろ頭に当たった。夏侯惇は地に落ちた枝を拾い、大きく振りかぶって、当てた人間めがけて投げた。雀はそれを手で打ち落とした。

「用があるのなら口で言え」

「あんたはこうでもしなきゃ、俺の話なんて聞かないだろ」

「決めつけるな。貴様の悪い部分はなんでもかんでも決めつけるところだ」

「次からは気をつけるから、話を聞け」

「……………私に、なにを」

「理のことだ」

「……………私が理嬢の話をするのがいやではなかったのか?それとも、また、ふざけたことをぬかして、俺を怒らせたいのか」

「ちがう。理は、戦に出るのか?」

「馬鹿め、いくら従兄上の寵を受けているといえど、従軍などするものか」

「うん。馬鹿な妄想だったな」

「話はそれだけか?」

「あと、ひとつ。俺は誰のしたで従う」

「私で充分だろう。不満か」

「知らない奴かと、心配だった。夏侯惇で良かった」

「刀を研いでおけ」

「御意。夏侯将軍」

おどけたように、仰々しく合掌し、頭を垂れる。いったい、どこまで本気なのか計りかねる。今度こそ、場を立ち去る。戦が近い、その所為なのか、いつも沈着な夏侯惇の背中から、粟立つ炎が見えた気がした。

ひとりきりになった雀は、また草木で戯れ始める。もう、秋に入り始めた。すこし背を伸ばし目線を高く上げれば、赤く色づき始めた葉があった。空が高い。季節の変わりを楽しむなどという趣味は持っていないが、高い空というものには、好感が持てた。土埃や葉にまみれた長椅子を払うと、それに背を預ける。

さらに、空が高くなった。

空気が、冷えて、澄んでゆく。青が、広い。

もっと澄めばいい。透き通るくらいに。

「寒い」

独り呟いた言葉は薄くなり、消えてゆく。特に、意味はなかった。実際、寒いとは思ってもいない。暇を持て余すもので、空虚な自身に対する蔑みでもある。だが、冷えるのは、ほんとうだ。

この冷えは、戦になれば消えるのだろうかと、ぼんやりと考える。血みどろ。土の香り。臓物の香り。汗の香りが入り混じる戦場にあるか。どうしたものだろうか、どうして自分はこんなにもくだらぬことを、淡々と考えるようになったのだろう。

最近、おかしい。頭のなかは理のことばかりのはずだった。すべての欲に、理が優先されていた。はずなのに、どこか自分は変わり始めている気がする。正直、やることは決まっているのだから、所属する部隊なんてどこでもいい。馴れ合うつもりは毛頭ない。でも、さっき、自分は思ったし素直に声に出してしまった。良かった、だって。

靄のかかる思考を断ち、雀は起き上がった。長い髪に絡まる土や葉のかすが、やけに鬱陶しい。

理に会いたい。いつもの気持ちを戻した。理への感情、間違いなくそれは愛慕というものだろう。部屋で感じる理は、自分の記憶よりさらに鮮やかで、壊しやすそうな感触だった。

会いたい、会いたい、会いたい。従軍させるか?そんなもの、従軍させないで欲しいと言っているようなものじゃないか。夏侯惇は勘づいたかな、それとも、勘づかなかったかな。いや、どちらでも、いいや。

俺は、気づいて欲しいのかな。理と俺のあいだに、割入ることなどできないが、気づいて欲しいとでも思っているのかな。でも、することはひとつと決まっている。

長い長い時間のなかで、自分よりはるかに、ひとつだけの眼に映してきたのは夏侯惇だ。羨ましいから、羨望の的の夏侯惇に知ってほしいのかもしれない。しかし、その先になにがある。なにもない。おわりだ。

澄んだ空に手を伸ばす。掴めない。

掴んだなかに、理の白い指があればいいのに。横を見れば、そこに理の瞳があればいいのに。

「会いたいなあ」

会いたい。会いたい。会わなければならない理由がある。





うとうととし始めた矢先、髪を軽く引っ張られた。慌てて、瞼をあけると、見上げている曹操の顔がある。

窓から差し込む陽光は、敷布の上にいるふたりと一匹を包んでいる。空気はほどよい心地である。曹操は理嬢の膝を枕に横になりながら、片手を猫の百合と戯れさせていた。

「そなたは、いつも寝ようとする」

百合が立てる爪の相手をしながら、しょうしょう唇をとがらせた。

「すみません。陽のあたたかさが、ちょうどよくて」

「ふん。この部屋は陽あたりがいいからな。いや、責めているわけではない。思ったことを言ったまでのこと」

「拗ねていらっしゃいますか?」

「べつに。だが、もう少し経てば寝れなくなるな。寒さが厳しくなる」

華北は冬が早く来る。

「はい。収穫の季節が終わったら、あっというまに、冬ですものね」

「戦もある」

理嬢は息を小さく呑み込んだ。戦。血。ここ最近、宮廷、丞相府内での殺しの件は、風にさらわれたかのように消えた。安堵するはずのことなのに、理嬢は背筋を凍らせるものを感じていた。

血、という赤い液体に、敏感になる。血を連想するものがひどく嫌いになった。食事として出される料理も、肉や魚を口にしていなかった。口にしないものは、少量だが百合に与えていた。

「みなさま、出て行かれるのですか?」

「今回は、ちと長くなる。留守は丕に任せるつもりだが、そなたをおいてゆくのは少々心細い」

「孟徳さま」

らしくない。

「できたらそなたも連れて行きたいものよ」

「わたしは、なんのお役にもなりません。武術をたしなんだこともありませんし、足手まといになってしまいます」

「しかし、馬には乗れるだろう?」

「すこしだけです。でも、戦でなんて、こわいです」

「そなたにとって、戦とはなんだ?」

「こわいものです。かなしくもあります。人をあやめてしまうものですから。でも、静かに暮らせるのは孟徳さまがたのおかげです」

「戦はな、相手を殺すだけではないぞ。策、兵糧の管理、味方をどれだけの犠牲で終わらせるかを計算することも、大切なのだ」

「わたしには難しい事柄です」

「孫子兵法という書がある。それを読んでみろ」

「兵法書ですか。学のないわたしが読めるでしょうか」

「字が読めるだろう。我が編纂した書を贈ろう」

「字が読めても、理解できなければ、だめです」

「ならば我が教授しようか」

「孟徳さまが?では、ぜひに」

「今度、もってきてやる」

曹操は身を起こし、理嬢の頭を撫でる。日の暖かさと身体の温かさに、近いうち戦があるということを忘れさせる。この空間は、俗世とはかけ離れた安寧の地だった。理嬢の部屋を屋敷の離れに造らせたのも正解だった。

理嬢は立ち上がり、はにかむように、ほほえんだ。

「お茶をご用意いたしますね」

菓子やら果物やらが並べられている卓から、茶器を用意する音がする。それを耳にしながら、膝に乗り出す白い猫と戯れた。百合は自分に懐いているのか、敵意を剥き出しにしているのか分からない。甘えてくるのかと思えば噛みつき、噛みついたと思えば、頬を寄せて甘えてくる。その読めなさがおもしろくて、気に入っていた。

「知ってはいるが、わからぬよな、そなたは」

戦が近い。一年ほど前、博望波にて差し向けた夏侯惇、于禁、李典らが火攻めで劉備らに撃退された以来だ。敗北した戦から、今までの時を無意味を過ごしていたわけではない。南に腰を下ろしているものどもを討つ下準備を着々と進めていたのだった。荊州の劉表を一番の標的としている。そのほか、江東の虎とあだ名を戴いた孫堅の次子、孫権。

荊州に南下した場合、劉表が孫権を頼る可能性が高い。孫権との対峙は避けることはできないだろう。そして、その時は必ずや相手が得意とする水上での戦いになるのは間違いない。江東には、大きな河がある。長江だ。自然にできた要塞のような河を利用してくるだろう。

南を征すれば、この曹孟徳に対等の敵はいない。

自分が、この地を平定する。

帝への憧れなどは、べつにない。帝は帝、我は我。あくまで、帝を補佐する丞相として動くつもりだ。

実際、曹操の手には皇帝以上の力があり、帝は名ばかりの存在だった。言わば、傀儡。名だけの力など必要ない。しかし、腐ってもなんやら。帝国の長であることには変わりなく、天子という神聖な血が流れていることに変わりなかった。だから、つながりを強めることを忘れなかった。帝の義父としての役をも担っている。娘たちである曹慶、曹節、曹華の三姉妹を妃にしたのだ。帝はとくに曹節をお気に召したようだった。丞相と義父。その二面が、地位を確立していると言っても過言ではなかろう。

「孟徳さま、お待たせしました」

盆の上にある茶器から湯気がゆらゆらと立ちのぼり、日の光で細かくきらめいている。

百合が理嬢のもとへ走ってゆく。

「百合、あぶないでしょ。だめ」

理嬢は曹操のかたわらに腰を下ろし、じゃれついてくる百合に気をつけながら盆を敷布の上に置いた。

「熱いので、お気をつけください」

曹操は差し出された茶杯を受け取った。

嵐の前の静けさにも似た、穏やかなひととき。浸ろうとするが、舌の上の熱さに引き上げられてしまった。すこし苦々しく思ったが、身体を登ってくる百合の相手をしてほほえむ側室のすがたに、また浸れと引きずり込まれそうになる。

この空間に溺れそうだ。いや、溺れている。しかし、戦の段どりをする思考が欄々として活発だ。

転がるような笑い声が、耳をくすぐる。

始めようとする戦はいつまで続くのだろうか。戦前に、収穫があり、刈り終わればすぐに出陣する。兵糧の心配はない。焦りは禁物だ。確実に、確実に、潰して進め。指示をする、報告を受ける、熟考する、ありありとこれからの計画が浮かんでくる。

「孟徳さま。おかわりをなさいますか?」

声をかけられて、茶を飲み干したことに気づく。黙って茶杯を差し出した。茶杯に薄い黄緑色の湯がたまってゆく。また、ゆらゆらと湯気が立つ。

「理嬢は、茶を淹れるのが上手いな」

「ほんとうですか?ありがとうございます」

心底うれしそうに笑った。

そういえば、夏侯惇も茶の淹れかたが上手かった。夏侯惇から、茶の淹れを教わったのだろうな。世話役に押しつけていたことを、忘れていた。あの男は、箏を奏でるのも秀でていた。理嬢が弾いている姿は、まだ目にしたことはないが、いかがなものだろうか。

「箏は弾けるのか?」

「箏、ですか?」

「弾けるのだろう」

「いえ、実は……………」

苦笑し、うつむいて申し訳なさそうに話した。弾けぬのかと曹操は意外に思った。

「夏侯惇さまから、ひととおりの手ほどきは受けましたが、わたし、覚えが悪くて……………」

「つまり、下手、だと」

「……………はい」

下手だけということに、恥ずかしそうに縮こまる様子がどこか可笑しくて、声を上げて笑った。

「夜、弾いてみてはくれまいか?」

「そんな」

「どのようなものでもいい。奏でてくれ」

「ですが」

「百合も聴いてみたいと。なあ、百合」

膝元で丸くなりながら尾を揺らしていた白猫を抱き上げて、その小さな頭を指の腹で小突いた。喉をごろごろと鳴らした。

「ほら」

「孟徳さま……………」

困ったという顔をしながら、渋々と理嬢は頷いた。耳まで赤くなった染まりぐあいを見ながら、茶を味わう。

いまだけ、戦前の一時の興に身を任す。これくらいはよいだろう。

戦が近い。身を引き締めろ。その前に、もう一度だけ興じる。夜を楽しみに待ちながら腰を上げた。ひと撫でした理嬢の頬は、まだ色づいている。

鮮やかな夕暮れのあと、青から黒に空が染まると、庭先の石灯籠にぽつぽつと赤い灯が灯った。

機嫌がすこぶるいい。

理嬢の下手だという音を聴きながら、酒を片手に詩を練るのもよいと思案しながら、箏を両手に抱えて回廊を歩いていた。

金切りの狂った悲鳴に、思わず走った。

理嬢が泣いた。

部屋の扉を大きな音を立てて開くと、声はひときわ壮烈に聞こえた。理嬢のしゃがみこんだ正面に、ちいさな死体が転がっていた。

死体は、あれほど可愛がっていた百合のものだ。白目をむいて、泡を吹いて呼吸なく横たわっている。

「理嬢」

「百合が、百合が」

箏を落としたことを気にも止めず、駆け寄った勢いのまま震えている肩を抱く。何事かと問うと、泣きながら卓の膳を指さした。

夕食の膳が運ばれたものの、肉や魚に食欲の削げていた理嬢は百合に与えた。時間を待たずに百合は喚き暴れだして、卒倒したのだという。

「死んじゃったの、百合が、死んじゃった」

曹操への言葉を繕う体裁もないままに、理嬢は訴えた。

曹操は膳を持ち上げ、床に叩きつけた。陶器の椀が砕け、破片と食い物が飛び散る。踏みつけて、さらに粉々にした。毒を盛った飯など、腐っているも同然だ。怒りは百合が死んだことに対してではなかった。食膳は猫に与える餌なわけがない。もともとは理嬢が食うべきものだったのだ。毒が塩の代わりを果たすものか、飯の味を引き出すものか、毒は殺すためにあるものだ。吐き気を催す。腸は煮えくり返り、滾っていた。狙われたのは理嬢だ。猫の百合ではない。

膳を踏み続ける曹操の腕に、理嬢の手が触れた。

「もう、帰ってきません」

理嬢が頭を左右に激しく振った。泣きながら、振っていた。なにをしても、もう百合は戻らないと呟いている。

抱きしめる。腕のなかで、大きく震えていた。

手のひらで涙をはらいながら、理嬢はしゃくりあげている。死んだ理由がわからないと、寿命では決してないと、愛猫の名前を呼びながら泣いた。曹操は、落ち着けと腕に力を込める。まだ、泣き続けている。

「泣くな、理」

声は、わずかに小さくなった。言われるがままに唇を結んで、漏れ出ようとする嗚咽を呑みこんでいた。それでも、頬にいくつもの涙の筋が伝い滴っている。

どうすればいいか分からなくなった。なにをしてやればいいのか。

こんなふうに泣く理嬢を、曹操は知らない。どうすればいいのだ。どうすれば泣き止むのだ。夏侯惇ならば、いかがするのだ。

息が詰まった。なぜ夏侯惇が、似つかわしくないこの場で出てくるのだ。唇に歯が食い込み、抱きしめる腕がひねり潰しそうになるくらいに力んだ。泣き顔を止ませるためには、どんな方法があるのだろう。頭が回らない。そして、ひとつしか思いつかなった。

「……………知らぬっ…………」

抱き締めたまま、抱き締められたまま、寝台に倒れた。曹操の苦しげに細められた瞳が見下ろしている。

「わからぬっ……………」

自分が泣き止ませぬことなど、できないわけがない。

「孟徳さま……………」

瞳から流れ出てゆき、濡れるふたつの頬に、曹操の手を感じる。流れゆく涙が曹操の指を濡らす。終わりを感じない悲しみのせいで、喉が痛み嗚咽を生じさせている。それを吸い取るべく、曹操の唇が理嬢の唇を覆った。嗚咽は、吸い取られず腹の奥底へ沈んでいった。

「理」

離れた唇から呟かれた。しかし、声がでない。静寂が枷となり重く感じる。涙が止まっていく。

「理」

ささやかれる声が響く。理嬢は、曹操の顔を見つめることしか、できなかった。香り立つような艶のある顔。

「抱くぞ、よいな」

手が頬から離れると、襟元に添えられる。身体が強張った。いつか。いつかは、あることだと覚悟はしていた。側室になったのは、そういうことだ。房事に関する知識はあった。だが、身体が動かず、ただただ真っ白になっていた。

でも、どうして今なのだろう。理嬢は困惑していた。不思議で不思議でたまらない。どうして、わたしはこれから孟徳さまに抱かれるのだろう。だけれど、拒むことはできない。そもそもわたしがここにいる理由は、身体でお相手をするためなのだから。でも、どうして、いま?

曹操の香りに混じり、食事の香りがする。目を動かせば、寝台の隣では陶器が割れ破片が飛び散り、飯が散乱していた。そして、そのそばには泡と歪に固まった可愛い死骸がある。

百合。また勢いよく涙が溢れる。視線がどこに向いているかを知って、曹操は理嬢の顔を両手で包み、強い口調で名を呼んだ。

「理っ」

理嬢はかすれた音で応えた。泣き止めと、涙がはらわれる。

胸にある装飾が、小さな音を立て外された。目を瞑った。

帯が緩んだ。孟徳さまの胸を押し返すよう添えた手に、孟徳さまの手が添えられる。

耳がよく聞こえた。孟徳さまの吐息が、自分の息づかいが、衣擦れの音が、肌に晒される空気が、やけに生々しくなまめかしい。孟徳さまの肌は、あたたかかった。

曹操も理嬢の肌をまざまざと感じた。心の臓が早鐘を打ち鳴らしているのがよく分かる。思いとどまっていた自分が、嘘のように思えた。理嬢だけは、白いままでいてほしいと望んだくせに、黒く色づけている。流暢に、指の先からすべてを染めゆく。

手が理嬢の肢体を這う。撫でる。その身体は柔らかく、弾力があった。

「理」

はい。

「理っ」

はい、孟徳さま。

応える声は糸のように線が細かった。胸が、どうしてこのように締めつけられる想いがするのだろうか。撫でながら、やさしく、やさしく、理嬢の頬に口づける。理嬢の吐息が甘い。ひび割れ、砕け散ってしまうのを恐れている男の手、指、眼差し。肩に残る傷痕に指が止まるものの、またすぐ動き始めた。

理嬢の腕が背に絡みつく。

まだこの女の心も身体も、汚れなきおとめ、そのものだった。

ほっとしている自分がいた。このまま、しばし溺れよう。一度だけ、興じよう。戦前のひとときのものとして。

孟徳さま。

声に、涙の揺れはなかった。

あがってゆく身体の温度。少しのあいだ、曹操は眼を閉じた。

理嬢の口から、何度も何度も曹操を呼ぶ声がこぼれた。そのたびに、背に回された腕が軋んだ音を立てている。自分の字を呼ぶ声は、曹操の不安と焦燥をうち消した。

「理嬢」

孟徳さま。

芯がとろけた熱さ残る気だるさのなか、腕に抱いた理嬢が薄く眼を開く。眠れ。長い指で、まぶたの上に添えると、そのまま閉じられた。すこしだけ開いた口の隅から寝息が聞こえはじめる。力強く抱きしめる。

「泣くな」

閉ざされた眼から、ひとすじ、涙が跡を引いていた。

理嬢は生まれたままのすがたで肌を合わせることが、このうえもなく、気持ちよかった。せわしない息づかい、汗の匂い、衝動が脈を打つ。曹操に求められ、理嬢もまた、曹操を求めた。思考が遮断されるなか、感覚だけが研ぎ澄まされて鋭敏となる。安心できた。

心が落ち着くとでもいうか。理嬢は肌を重ねることに、どこか平安を感じていた。

このまま、温かく包まれていたい。痛いほど抱き締められるのも、よい。高まりつづけた熱が、まだ身体のなかを漂っている。

眠れ、という曹操の声が、遠くで聞こえたような気がした。眠る。ただ、それだけが、このあとするべき唯一のことがらのようだった。嗚呼、眠ってしまう。眠りへと足を掴まれ引きずり込まれてしまう。

最後に、口を動かしたつもりだった。なにを言いたかったのかは、知らない。自分でもわからない。なくした涙は流れない。百合、百合。白い猫が、見えた気がした。あの黄色い目で、わたしを見つめてから背を向けて走った。

どこにいっちゃうの、だめだめ、もう暗くなったのよ。もう月だって、でているんだから。迷子になっちゃうでしょ。

だめだめ、帰っておいで。

孟徳さまも心配なさるから。あ、だめよ。いっちゃだめだったら。追いかけたのに、追いつけなかった。戻っておいで、いっちゃだめ、いっちゃ、だめだってば。闇に溶け込むように、白猫は姿をくらます。

帰ってきて。もどってきて。声は届かない。

胸に穴が空いてしまった。心ぼそさに立ちすくんでいると、泣くなと肩に触れる手があった。

泣くな。慰めてくれる、撫でてくれる、やさしい手。

振り向き落ちゆくなか浮かんだそのひとは、黒曜の瞳をしていた。
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