第一章 躍動 起こり始めるひとごろし

夜。月は三日月。赤く引っ掻いたような傷の月だった。

曹操は月を肴として、酒をかたむけている。

酒や詩のひととき、つかのまの穏やかな一刻に興じるために屋敷の庭隅に作らせた小さな四阿で飲んでいる。土を盛らせたやや高台にあり、上り下りが簡単にできるよう階段をつけさせた。階段と四阿の周囲には花壇を構えさせている。ここは曹操がひとりきりになるためのもので、近づく人間は制限されていた。許可なく足を踏み入れた場合、くびり殺されても文句は言えなかった。

静寂のみが漂っている。

暗くてよくわからないが、ろうそくの灯火によって四阿の周囲に咲き乱れた花ばながほのかに浮き上がっていた。月ひかりが交わると、感嘆をもたらすほどあでやかで見事と思えた。

ふと、昔のことを思い出していた。

若かった自分は、美しい遊女たちを侍らせた。筝を弾かせ、舞わせる。美味なる酒に料理を並べて、好きなように喰う。女たちの甘いささやきと香水、笑い声が妓楼の一部屋を満たす。

だが。曹操は満たされているとは思わなかった。

どこかの薄情な快楽に胸に黒い穴が開き、どこかが空虚な気持ちになる。しかし作られた快楽ときらめきと香りは気を紛らわすためには適していた。

自分にしなだれかかってくる女の肢体。

今の自分がその場にいたら、それを曹操は手で払うだろう。そして、相手は嫌悪の表情を見せず、曹操の顔を宝石でも見るように妖艶な表情を浮かばせる。自分にそのような視線を持っているのではなかった。女が期待しているのは自分ではなく、自分が持っている報酬だった。

演技で媚びる女は嫌いだった。否、男も女も関係なく下心を隠さず媚びるものには憎悪に近いものさえ持っている。

だがしかし、仕事だから女たちは媚びてくる。だから仕方がない。自分はそれを承知で買う。相互の関係は成立しているのだから、とやかく嫌う必要はないだろう。だが、気に食わないものは気に食わないのだ。自分の意思で遊女をはべらすとも、その媚びるすがたが、宮廷に巣食う虫けらどもと重なり合い、不快をもたらす。

宦官であった祖父は己の私利私欲のために後宮の馬鹿な女どもに恭順の意を示し、財をなした男だった。曹操は嫌いだった。祖父のようにはならぬ。そう思って今まで生きてきた。これからもこの感情が変わることはないのだろう。

宦官が大嫌いだった。幼い頃から、後ろ指を指されていた。宦官の孫、宦官の孫。人間とは見られない人間の皮を被った家畜の孫。屈辱という苦汁を味わって育った。後ろ指を指したあいつらを、見返してやる。見返してやる。反発するように、今まで生きてきた。腹のなかで育った影が、力となったこともある。時には、どうしようもない頃もあって放蕩に溺れ、勢いで左の顔に刺青もいれてしまった。

みずから罪人でもないのに刺青を入れてしまったが、その際立つ特徴はまさしく曹操孟徳を示していて、一目でだれかとわかる。そして、曹操の艶に拍車を掛ける存在になっていた。

宦官は大嫌いだった。だが、大宦官である祖父が蓄えた莫大な財産は駆け出しの曹操を支えたのも紛れもない事実だった。

曹操は酒を煽った。

「わがきみ」

だれかがひとり、闇夜に紛れ声を発する。

自分の目の者である。このものの他にも何人か目がいて、周囲の情勢を探らせたり自分の近辺の警護もさせている。日陰を歩き、走り、紛れ込むことを得意とし生業とする者たちを雇っているのだ。姿は何人にも見せず行動し、用がある場合は夜の闇に紛れて果たせと命令してあるが、不手際はまったくない。

「なにか?」

影に聞く。

男は、いらっしゃいましたと曹操に耳打ちした。

身をすこし乗り出してみる。やつが、影が闇にとけこむと入れ違いに、理嬢がおどおどと所在なさげに現れた。

「こんばんは。ご機嫌麗しゅう、孟徳さま……………」

三日月の淡い光にろうそくの心もとない灯火。そのなかに、ふたり。

長い指は理嬢を誘った。ゆっくりと階段をのぼってくる理嬢は、まるで月のひかりによって花々の浮き出た淡く宿った霊を思わせ、曹操を満足させた。

「待ちわびた」

「もうしわけ、ございません」

「来い」

「……………はい、孟徳さま」

遠慮がちに身を曹操のかたわらへ置いた理嬢を抱き寄せる。抱き寄せた身体と皮膚、そして髪から湯と桃の香りがした。軽い化粧をほどこされた顔はすこし赤らめさえている。質素のようでいて目立たぬように飾られたすがた。なかなかよい仕事をする、と功労者をひそかにねぎらった。

側室となるべき娘の早くなる鼓動と固くなる四肢。

夜の肌寒い風が肌を撫でるも、曹操はあたたかいここちを感じていた。

理嬢の頭を抱きながら、夏侯惇から聞いた戯言を思い出した。理嬢の嘘のことである。我が、理嬢に嫁ぎ先の話をすると思うか?なんのために夏侯惇へ預けた?

長い指がゆっくり、ゆっくり、頭をくだって項を這った。蜘蛛の足が白い首を枷のようにまわる。理嬢の息がほそくなる。曹操はほくそえんだ。

夏侯惇はきちんと分をわきまえている男だ。そうとも、この娘に懸想していればどうしてこうも手抜かり無く送り出させようか。

「わかりきっているだろうが」

「え?」

「そなたは、我のものぞ」

耳もとにくちびるを寄せて、曹操はつぶやいた。それは重く、強く、理嬢を縛っていく。

変わることのない事実を曲げ、虚言をこぼした小さな罪を罰する気はなかった。怒りはない。しかし、なんとも思っていないというわけでもない。魚の小骨にしかすぎなかったが、そのまま見過ごすわけにはいかない。自覚させ自分で言い含めさせなければ。

「我のものぞ」

くちびるが耳のひだをかすめるたびに、理嬢は息を止めて身体をちいさくはねさせた。

「わかっているな」

低い声が意味していることを、理嬢は解っていた。嘘を咎められていると。曹操の声は嘘を暴くことなく、罪と突きつけていた。理嬢は、声が恐ろしかった。夏侯惇のように直接咎めてくれれば、また違ったかもしれない。

英雄色を好む。曹操は、そんな言葉を自分に当てはめてみた。自分は女が好きだ。美しい女、戦での大将のものであった女、自分のものとすることに喜びを感じていたこともある。

複数の妻のあいだに愛情や恋情を抱いたこともある。そして、子を成したい感情のままに抱いたこともある。しかし、いまはその感情がこの娘に湧かない。欲を吐き出すための対象ではないのだ。抱きたい気持ちがない。自分でも理解のできない。

「もちろんです、孟徳さま……………」

自分が思慕するのではなく、自分が思慕されたい。自分だけが思慕されたい。それは神聖かつ高尚なものであり、複雑に思えて単純なものだろう。我だけをその眼に映していればいい。我以外のものなど見なくていい。なぜなら、そなたは我のものだから。我が拾った、我のものだから。

おまえを拾ったのはこの俺だ。

嫉妬か。近い。

しかし、わからない。

頭のなかで渦巻く想いのなかで、はい、というかすかな声に心を満たしたいという独占欲が湧いた。喉が鳴る。

ゆっくりと瞳を閉じる理嬢が、見えた。

この感情に言葉をつけるとしたら、なにがふさわしいのだろう。しかし、悪くはない。

感情の答えはない。小さなろうそくの灯を、息で吹き消す。火は揺れて、すぐに、猶予などなく無くなった。明かりといえば、淡い月だけだ。光はあるものの、周囲は暗い。眼は暗闇に慣れなかったが、それもほんの短い間だけだった。

慣れた眼に、理嬢が睫毛を伏せているすがたが入る。

「よろしい」

「孟徳さまのおかげです」

「おかげ、か?」

「孟徳さまが、わたしを見つけてくれて。生きてるのは、孟徳さまが……………」

「それは褒め言葉なのか?」

「そんな、そんな上からの言い方じゃなくて、ただ、本当のことを……………」

言葉が尻すぼみになるにつれ、こわばらせた肢体がまた縮こまってゆく。

「ほんとうのこと?」

理嬢はくちびるを結び、瞳をかげらせた。

責めているつもりはなかったが、相当夏侯惇にしぼられたようで、存分に効果をあげているようだ。これならば、わざわざ自分が問い責める必要はない。

「嘘か?」

「……………ほんとう、です……………」

曹操の指に腕に力がこもる。娘がびくりと震えたのを感じた。脅えている。恐ろしいのか、この曹操孟徳が。怖がるではないよ、そなたの考えているようなことはせぬ。ただ、こうしているだけでいい。こうしているだけで。そなたは、我に抱きしめられているだけの相手でいい。いまは。

どうして、俺をこわがるのだ。

いや、そなたが脅えているのは闇か?



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