第六章 刹那 最後の祈り


立ち尽くした。感情をを振り乱した雀。夏侯惇に、思考は残されていなかった。いや、恐怖心の感情が残りのすべてに凌駕を来したのだ。頭と肉体がまるで別物のように、そこにいた。

凶悪な感情を当て、雀はその姿を翻し、いなくなった。それから、いくらかしてよろよろと、足がようやく動く。

何故、雀がいなくなったのか。目的の理由を遂行しに行ったのだ。曹夫人を殺すために。はたして、それは真であろうか?

理に会いたい、理に会いたい。理は戦に従軍するのか。会いたいんだ邪魔をするな。口を開けば特定の名を、鸚鵡のようにつぶやくだけ。水鏡に己が容色を写し、恋い慕っておればいいほど、かたちの似た雀が、もうひとつのかたちを崩す情景は浮かばない。

見捨てた自分に対する脅し文句。雀は自己中心的で夢見がちの台詞を浴びせ、仕舞いには殺すと言い放った。

自らが手を下す「曹夫人」の恨み言にも見えた。

木々が開け、きらりと白い光が一瞬足を止めさせる。光は禍々しい発光であった。

長刀を握る雀の真正面には、娘。たった一輪だけ咲いた牡丹の花を眺めるように、なんの疑いももたず、重々しい刀の意味を知らないでいる。殺されるとは考えないのか、そこまではなくとも危険だとか逃げようだとか思わないのか。

一歩。刀が迫るたびに、娘は白い衣の裾を引いた。どんどん池へと幅が小さくなって。雀、動くな。そのまま前に歩いていくんじゃない。さがれ、背を向けて反対の方向に歩け。

悪ふざけだ。俺を怖がらすために雀が考えた趣味の悪い一興。

ほんのちょっとそばを離れていた、あの献身ものの明雪がお菓子を撒き散らして金切り声を上げた。そちらに気を取られていたら、忽然と娘は居なくなり、高々と白刃が持ち上げられているだけだった。

「理嬢さま」

枯れかけの蓮の葉、茎が直角にが覆う池のほとりに明雪はすがり込んだ。水面にぷくぷくと膨れて消える泡、泡。やがては数がなくなった。

「理嬢さまが池のなかに」

明雪が言い終える前に、夏侯惇は飛び込んでいた。

縁を切ると決め、言い、関わりなくなるのを願っていたというのに。だが、理由を問うのはあまりにも不粋ではないか。

銀の泡沫が無数に散る、無音の世界。じわじわと、水が、身体の奥の骨の髄まで行き渡る。もぎ取られるほどの晩秋の池の冷たさ。

手を伸ばした。届かない。夏侯惇の身体は上へ、上へと引っ張られるのに対し、歪みながらもなんとか見える理嬢の肉体は、下へと沈む。ゆらゆらと影が揺らめく。

口から泡を吹きだし、息が飛び出る。少しだけ、沈んだ。水をかき分け、沈む。自然にあらがい、沈む。生へ必要な息が逃げるたびに、肉体は求めるものに近づく。

耳元を、膨れて破裂した音がよぎった瞬間、大量の水を飲み込んで奥に沈んだ。

息があると浮いてしまうのか。娘が浮いてこないのは、身体のなかに息が少ないからだ。吐き出すほど入っていない。

掴んだ。池の中は淀んで濁っていた。視界がままならず、見えるのは、まだ手。

氷のように冷たく、蛞蝓のような滑らかさに転じた手首を。痩せ細った肉の内側にある骨は、簡単に折れてしまいそうだが、気にしてなどいられない。滑り落ちて、魚につままれぼろぼろになってしまう。千切れるほど引き寄せ、胸に掻き抱いた。やっと顔が見えたが目はずっと閉じている。それはまるで、人形のように。

目を開けろ。意識を持て。

この娘にとって、俺はもう消えたも同然なのだろうか?

俺の願が反映されているだけか?

身体が、闇へと抗いなしに誘われる。光が届かない暗いくらい世界。

つぶられたままの顔を水でぼやけながら見つめ、胸を突き破り納めてしまうくらい押し付けて抱き締めた。

このまま、理嬢という名の娘、夫人を腕に収めて池の底で眠ってしまおうか。悪くはない。むしろ、心の片隅で望んでいる?

中に住んでいる黒い獣が、久方ぶりにささやく。眠ってしまおう。眠る?死の言いちがいだ。

眠りは死なのですか。死はやさしいものですか。そう問われた気がした。

これでもかと残っていた銀のあぶくが、口から出て行く。

水が鼻と口から入りこみ、胸や腹に溜まってゆく感覚がおそろしくなまなましかった。水が満ちて身体の重量が増し沈んでゆく。深く、深く。理嬢の内側にも水は存分に溜まっているだろう、今、このなかから出たとしても、それはすでに息をしていないのではないか。生きることは無理なのではなかろうか。

ならば、俺も眠ってしまおう。悪夢も歪みもすべてを道ずれにして訣別をしてしまおうか。やがて、この肉体は水中に棲む生物に食い散らかされるのか。

水気を含んだ遺体はぶくぶくと肥満した豚のように身体は膨れ上がり、醜いそうだ。それでもいい。水底に横たわり人目に晒されずに過ごせばみてくれなどどうでもよい。俺は正気ではないのだろうか。

頭のなかで、高く細長い音がなる。痛い。鼻も冷たく痛い。眠りが近づいて来ているのだろうか。

肉体は、さらに深く沈む。

望んだ末路がこれか。屍になれば悪夢を視ることは、たしかにない。そうだが、従兄上には悪いことをしたな。心中だと勘違いされては、ふたたび逢ったとき憎まれ口を叩かれそうだ。

より、深く。もっと、深く、水底に。

いよいよか。

覚悟を決めたが、池はふたりを拒んだ。底に着いた腕が弾み、そのまま押し上げられて浮いていく。遠ざかる影の底が、無くなっていった。これがだれのために、だれがためによかったのか、悪かったのか俺にはわからない。

青にきらめく光があり、突き破って頭を出した。口にある水を噴き出す。岸にまで泳いで、噎せながらも息をいっぱい取り込みつつ理嬢を明雪に託した。理嬢は水を吹き出しもせず、噎せもしなかった。

「水を、吐き出させろ……………」

明雪は理嬢の身体を横にし、震える拳で背を叩いた。しかし上手くゆかない。薄く唇が開いて、少量の水が垂れるだけだ。

人間の身体は水には弱いらしい。腹に力を入れ全身を使って吐き出そうとせねば、水がなくならず、はらわたを鷲掴みにされているようで痛みを伴い、怠い。口からは水以外のものも出てきた。喉奥にこびりついた苔のぬめりが、気持ちが悪い。それでも自分を叱咤し、池から這い上がった。

乱暴に娘を仰向けにした。腹と胸を思い切り手のひらで圧迫してやる。

何度も何度も、いくら圧してやっても一向に息をする兆しを見せない様子に、焦燥を募らせる。もしかしたら、このまま。そう思うと、どうしてやればいいか分からなくなる。一度でも、なんで死なんてことを考えたのだ。まだ、まだではないか。理嬢はまだこんなにも若いのに。口をこじ開けて、さらに圧す。溺れた人間を、どうすれば助けられるのか、考えつくものは、とにかく水を吐き出させることしか知れなかった。

白い顔が透けてしまうくらい、余計に白い。唇も、紫へと色を失われてゆく。

生き返らせようとする行為が、無駄にも思えてきた。しかし、手はゆるめるわけにはいかない。望まぬかたちで、理嬢がなくなってしまう。遠ざけても、こんなかたちで、死ということでなんて願ったわけじゃない。喪いたくない。

明雪も、こぼれる涙をそのままにして理嬢の頭を抱えている。

「馬鹿やろう。死ぬだろうが」

雀は蔑みを含み、夏侯惇の脇腹を勢いよく蹴った。消耗している夏侯惇は容易く横に倒れる。明雪から理嬢を引ったくり、喉を上げさせ自分の生気を与えるように、くちづけた。

空気を吸い、唇を合わせる行為を何度か行ったところで、理嬢がびくりと跳ねて、咳をしながら水を吐き出したのだ。雀は顔に張り付く髪を払って、生気を吹き入れられていく頬に舌を這わせた。理嬢はぼんやりと視線を宙にさまよわせ、弟の腕のなかで、おとなしくしている。

夏侯惇は、息を取り戻した安堵よりも、いましがたの焦りより別の焦りが増さった。雀の肩をむんずと掴む。

雀の瞳は一閃紅色に牙剥いた。

「理に近づくなよ、てめえ」

「貴様こそ、なんのつもりだ」

「善人面か、夏侯惇?」

「貴様のようなやつなんか……………」

血のつながった姉を、あやめようとしたくせに。

「殺すのなら、いつでも簡単にできたんだ。おまえと話しているこのときも、俺は理の首をねじり切るなり、潰すなりな」

できるんだぜ。

「貴様はっ……………」

理嬢を奪い抱き、睨んだ。雀は怯まず、余裕に侮蔑の目を贈る。理嬢は子どもぐらい軽かった。

この男に、恐怖を持った。命をもてあそぶ心境、男の人間離れした力を身を持って知るから、こわい。

いつでも。この瞬間も。理ばかりじゃない、雀は俺も殺すことができると豪語しているのだ。

「てめえじゃ、理は助けられなかった」

「……………だが、貴様は理の命を狙っている」

「死んでほしいなんて、これっぽっちも思っていないよ。生きてほしいと思ってる」

「ならば、なぜ」

「生きてほしいと、殺さなければならないのとは、まったくの別次元だ。生きてほしいは願望、殺すのは目的だ」

「なにを言っている?」

雀の言葉を理解していないわけではなかった。ただ、それがあまりにも極端で、矛盾を引き起こしていたから、雀の意図に理解ができなかった。

生きていてほしいのなら、解る。死んでほしい。も、解る。それらは愛情や憎しみからくるもののだからだ。表立ってわかりやすい感情。が、雀は死を目的だと豪語した。目的は、願いではない。

「生きてほしいし、死んでほしいってことさ」

「生を望みながら殺す?どんなことで、どうして理が死なねばならない。異常だ。雀」

「なにが異常で正常か、俺には分からない。逆に知りたいね。理の生を想って理の死を求めるのは異常なのか?はっきりとした理由があるのに?理にとって生も死も大差ない幸せなのさ」

遠回しに、理嬢が人を殺している。理嬢があんな事実に耐えられないことを、じかに言われたようだった。生きて苦しむのなら、いっそのこと……………。しかし。

「死に幸福などあるものかっ」

「俺が与えるのは救済だ」

「救いだと」

「救済は幸せだ」

「おかしい、狂っている」

「夏侯惇こそ、おかしいだろ。主君のために嬉々と死を選ぶ人間を五万と知ってる。てめえも、そのうちのひとりだ。左眼を喪って、生きて、傷だらけになって死ぬ。曹操のために、という名目のためにね。軍人で忠と義に厚い人間はみんなそう」

「私は……………まだ、おのれが死ぬ予定はない」

「よ、て、い。それじゃあいつかは死ぬってかい。まだ曹操が危機迫る場に出くわしてないからな。次の戦でそういうことになったら、自刃するってか。無いとは言い切れないだろ?」

「……………それは想像にすぎん。起きる先の出来事なぞ、誰にもわからないし、私は易々と死をよしとはしていない」

「命を捨てるのは自刃だけじゃない。人柱になって犠牲になることも、ひとつだ。夏侯惇。もしも曹操の背後から刺客が来たら、おまえは盾になるだろうな。ちがう、と言い切れるか」

「……………」

「ほうら、うんと言い返せねえ。人間は不思議だ、他人のために死を受け入れる種族なんだからな。甘っちょろいんだよてめえどもは」

「ひとがひとを想う、仁のこころだ。雀、おまえにはないのか」

「孟子は、生まれた瞬間からひとは善の固まりだと説いた。悪心をもつのは、周囲の環境がそうさせるためだってな。逆に、荀子は生まれながらの悪だと説いた。法や統制によって悪を表に出せないだけだってさ。俺が荀子で、夏侯惇は孟子だ。それと、理も荀子になる」

「貴様といっしょにするなっ。こいつはちがう……………こいつは」

「変わり身が早いね、馬鹿野郎。曹操夫人を?こいつ?ああ?誰だよ、それ」

たまらず目を反らした。

「おい、俺の目は虫食いの穴か。耳と鼻は蛇の巣か」

口を挟む間も与えず、しゃべり紡いだ。

「よく見えてよく聞こえ、そしてよくきく鼻だ。ひた隠しにしているのだってすっかりわかっているんだ」

ばれている?すべて見透かされている?

「こんなくそつまらない茶番を見せつけるくらいなら、最初から殺していたほうがまだ面白みがあったってもんだ」

「貴様……………」

「お望みならやってやろうか」

「元譲さまっ」

明雪が雀の声に聞き入っている夏侯惇の腕に触れて揺すった。風邪を召されますと言った。夏侯惇も理嬢も先から先まで、びっしょりと濡れている。衣服は身体に貼り付き、しずくが絶えなく髪から垂れていた。

疑惑を無理やり意識から外す。いま、すべきことではない。

「私の部屋に替えの着物と湯を。急いでくれ」

理嬢が小さな身体をより小さくして丸くなり、小刻みに震え始めている。寒さのためだ。震えるのは、本能的に動いて暖めようとするためだと聞いたことがある。止んでしまったら、死期が狭まった証拠だとも。

足早に去ろうとすると、雀が近づいて来た。奥で抜き身の刀が地面に直立している。

顔だけを向けた。

雀は近くに来ただけだったが、警戒を解くことはしない。理嬢を殺す殺意か、生きていて欲しい渇望なのか、微笑とも、怒りともちがう複雑な表情をしていた。





桃の香りを焚きしめて、炭を燃やした。熱気が桃の匂いを交遊し、部屋全体にむせかえるほど籠もった。一刻に一度、窓を開けて空気を換える。

寝台に横たわるのは理嬢だ。湯で身を清められ、熱も出さず何事もなかったように、傍らで眠っている。

明雪は、理嬢が刀を向けられたのが衝撃だったか、落ち着きがなく興奮が収まらない様子だったので、下がらせた。夏侯惇はいま、妙に落ち着いていた。

部屋の外。窓から獣に似た気配を感じる。たとえるなら、草の茂みから、そっと鹿を狙う虎か豹。襲いかかってくるのは時間の問題だ。

おそらく、雀である。用があるのなら、さっさと入ってこいと思うが、雀の狙っているものは知っている。みすみす、餌を差し出すまねはしない。細剣は、手が伸ばせる場所に用意してあった。

自分の悪夢の元凶である理嬢を前にして、特別な感情は湧かなかった。敬遠するのでもない、かと言って、執着もするのでもない。こうしていることが、当たり前すぎているから。ごく家庭の、家族のなかで子が病めば、母が付き添うように。

理が欲しいのではないか。従兄は言った。欲しい、とは。女として?娘として?私は兄か父親としてならばと答えた。

おまえがそうじゃなくとも、理はそうかもしれないって。もうひとりの従兄は言った。そう、とは慕情を示す。慕情、相手を想いしたう気持ち。相手に恋うる感情。相手をやさしく包み、ずっといつまでもともに居たいと、見果てぬ夢を願う。いなくなってほしくない。

俺は。

理嬢と池の底で眠ってしまおうと思ったとき、理嬢がひとりで死んでしまうと思った際に生じた身が散り散りになり引き裂かれてしまう感覚はなかった。しかし、これは慕情などではないはずだ。

頼まれた女子であり、教育を施せと命じられた。仰せのままに詩作、勉学を学ばせ、女性のたしなみである音曲や茶の淹れ方を教えた。馬術も触れる程度は手ほどきし、走らせるくらいならできるようになった。もうひとりの従兄は、自分の育てを十分すぎるくらいやったと言ったが、そうなのだろうか。

長い時を過ごし、居ることが普通になった。

春が巡れば、たてつづけに芽吹く花々を見て幸せそうに頬をゆるめた。夏は木陰で姜維の庭仕事を手伝い泥まみれになって笑う。秋になると月の大きさがいつもと変わっていることにはしゃいで、月の表面にある模様はなにに似ているか、いくつもいくつも単語を並べていた。冬なら、降り積もった雪を冷たさも厭わず手で掬い上げ、頬や額、鼻の先まで真っ赤にして遊びを楽しんでいた。いつまでも純心で甘えの部分が抜けない。この世の好ましくない悪意をまったく知らずに、ひとを想う尊さを、ひたすらに信じているのだ。

背ばかり伸びて、内は寸分も変身を遂げない理嬢は、夏侯惇にとって、どんな意義を持っているのだ。

もしも、ある日忽然と消えてしまったら、取り乱すだろう。大切、なのだ。

大切、だったのだ。

自分は愚かだった。なぜこんなふうになるまで気づかなかったのだろう。なぜこんなふうになって気づいてしまったのだろう。すまない。何度言えば許されるのだろうか。すまない。大切で、大切で、大切で、喪いたくないと気づかなかった自分の愚かさは、どうしようもない。

夏侯惇は躊躇いながら、骨の張った指で理嬢に触れようとしたそのとき、睫毛が揺れた。茶の瞳が、あらわれた。

「理」

よかった、と言いかけた。理嬢は細い肢体を目一杯にはためかせ絶叫を上げた。がむしゃらに理嬢を掴み、寝台へと押さえつけ胸と胸が重ねるが、肩や首を頭で打たれる。聞き取れない言葉で叫ぶのを止めることなく、暴れている。

「理嬢、落ち着くんだ」

忘れていた。侍女たちと散歩をしていたから発作が治ったと考えたのが誤りだった。黙らせようとして口を塞ごうとするも、噛まれる。

喉にかかった叫喚は、ただひとつの単語に移っていく。

つい、口に肩を押しあてた。

ひとごろし。

「理」

力に物を言わせどうにかなるものではないのだが、聞く耳を持たないこの状態を冷静に判断する余裕はない。押さえているだけよしとして、忌んだ単語を好きに言わせてやる。自分が戻るまで待とうとぎりぎり我慢するも、理嬢は夏侯惇が認めぬことをしつこく続ける。くぐもっているものの、声はずいぶん小さくなった。肩口から忌む言葉が響いて耳に入っていく。

わたしはひとごろしっ。

「理、なにを言って」

ひとごろし、ひとごろし。

「言うな」

たすけて。たすけて、殺さないで殺させないで。ゆるしてください、ゆるして。

「落ち着け、理嬢っ」

「わたしなんか、人殺しだもの。あのひとたちは、わたしが殺したのよっ」

憑き物が祓われたかのように、理嬢は急におとなしくなった。眼にも正気と意識をたたえ、はっきりと言い切った。

「夢なんかじゃ、なかったっ」

「……………ちがう」

見下ろした理嬢はこちらを睨んでいた。

「ちがわないっ、夏侯惇さまの嘘つき」

「何故だ。いつ嘘を言わねばならぬ」

「だって、わたしが教えてくるんですっ。わたしがこの殺人鬼、人間をぐちゃぐちゃにしてって。そうです。ちゃんと考えればそうなんです。わたしだけ生きてるなんて変じゃないですか。おかしいやつは、わたししかいないじゃないですか」

「おまえが生き残ったのは、運が良かっただけだ。理が理に教える?戯けた夢ではないか。そんなものに、耳を貸すな」

「もう、あなたを信じません。嘘つきっ」

「理っ」

「わたしが人殺しよっ」

「やめろっ」

寝台に縫いつけるように、きつく抱いた。理嬢は夏侯惇の背を激しく叩き、掻き毟る。寝台は軋む。

「わたしは、夏侯惇さまの、首をしめたの……………」

「……………ちがう」

「お顔の傷だって、わたしがつけた……………」

「ちがう、ちがう……………」

右頬の傷痕が熱くなってきた。

「夏侯惇さまを、わたしはたくさん傷つけたの……………」

鼻をすする音とともに、涙声になった。先ほどとは替わり、遠くから聞こえるように細々と響いた。ふたたび、夏侯惇が聞きたくない言葉だった。

「……………わたしを、ころしてください……………」

「嫌だ」

「わたしだって……………いや。いや、いやっ。わたし、また、夏侯惇さまを傷つけて。今度は殺してしまうかもしれないのにっ……………そんなのいやですっ」

「どうして」

そんなこと、思い出さなくてよかった。無かったことにしておきたかった出来事を聞きたくなかった。

夏侯惇は体重をかけて、唇を噛み、瞼をきつく閉じた。

俺こそ、おまえを、この手で……………。

「夏侯惇さま、お願いです……………」

「嫌だ」

「人を傷つけるわたしなんか、生きてちゃいけないんです……………いまなら、わたし……………よろこんで、死ねる気がするから……………」

「おまえがひとを殺めたとして、死なねばならぬなら、私は何回死なねばならんのだ。死に喜びを見いだすな、なんでそんなこと」

「苦しまなくて済みます。ほんとは自分でしなくちゃいけないのですけど、勇気がないから……………。ね?わたしを殺してください」

「俺に、できるとでも思っているのか?」

「……………最後に、こんなわがままを、お願いしてもいいですか?」

やわらかい声が、死を願っている。

望まれたことが、自分の手による死だった。

鋭く熱いものを、目の頭の奥に感じた。抱く腕に力がこもる。捕まえていないとするりと抜け出して山の崖を目指して逃げていきそうだからだ。

「夏侯惇さまなら、こわくありませんから。こわくても、終わるまで、じっとして我慢できますから」

「馬鹿だ。おまえは大馬鹿者だっ……………」

「夏侯惇さまは優しいですね。優しすぎて、酷すぎますね」

「酷すぎるのは、おまえだろう?」

「きっとまた誰かを殺しちゃう……………そんなの、いやです。もう、罪を作りたくないんです」

「理は誰も殺していない。できるわけがないじゃないか」

「どうして言い切れるのですか」

「私は知っている。一番近くで見ていた、私がだ。おまえの手は汚れていない、おまえは人を害すことができない」

「それは幻想です。わたしの手、きたないの。わたしはとっても醜いのです、たくさん、たくさん人を殺したのですから」

「ちがう」

「わたしが人殺しだったんです」

「ちがう」

「わたしは、ひとごろしなんですよ?夏侯惇さまでさえも……………この手で」

「違うと言っているのが、わからんのかっ。これ以上巫山戯る物言いをしたら、怒るぞっ」

感情が赴くままに、体裁を整えることもない大きな声だった。両肩を抑え込んだ。一瞬、目を見開き、理嬢が強張って息を呑む。

すでに、血が上っている。怒鳴りつけて、震える理嬢の顔を見ると、仕方ないほどの哀切が湧き上がってきた。どうせ爆ぜてもこの苦しみは変わらないのだから、出てくるなと念じた。

「……………ちがうと……………言っているのが……………。理、私を信じられぬのか……………」

夏侯惇の喉が渇き、声がわななく。

「私は、私がっ……………。理が、この私を殺そうとするはずないっ。決して、有り得ないっ」

一気に潤んだひとつだけの眼から熱い滴りが溢れ、頬と鼻筋伝った。

「理が私を殺そうとするわけがない」

「ちゃんと聞いてください。わたし、夏侯惇さまのお顔も、首も」

「違う」

「……………夏侯惇さま、やめましょう、見てみぬ振りは。この隠しごとは辛い嘘です。理は人間を手に掛けてしまったんですよ」

理嬢の声音は、我が子を諭す母親に似て、夏侯惇は駄々こねる子どものようだった。

ちがう、ちがう、ちがう、ちがう。

「なにも言うな、考えるな、黙れっ」

「自分でも気づかない、わけがわからないで、してしまったからと思ってらっしゃるのですね。だから、庇ってくれるのですか。でも、わたしは、知らないうちと言えども血に穢れました。だから、きっと、また同じことをくり返します」

事象の流れが明確ではないからこそ、次に起こる時の予想がつかない。明日か、三日後か、それとも十年のあとだろうか。正体がわからないからこそ、怯えるものと、理嬢は身にしみていた。

「うるさい、うるさい、うるさいっ」

夏侯惇はすがりつくのだ。肉体も精神も、理嬢を喪いたくない一心でもって。

「止めてやる。私が止めてやるから。おまえが過ちを犯すならば。だから、だから……………」

曹夫人はいなかった。目の前に居るのはよく知っている理嬢という名の存在である。曹夫人はいなかった。自分のなかに創りだした架空にすぎなかった。

抱きしめるほかに、この娘への接し方がわからない。長く過ごしたこれまでの時間。私は理のなにを知ったというのだ。なにも知らない。理が好んだもの、好んだこと、いつくしんだもの。奥底の真の気持ち、願い。理嬢の髪の毛の一本から足先の小さな爪まで知ることができたのなら、変わったのだろうか。己が捧げるこの気持ちがいかなものであったら、結果は異なる兆しを射たのだろうか。また、結果を変えたのだろうか。

変えることを、自然は受け入れ、このような凄惨な場を拒んだか。

殺す。殺さない。殺して。殺せない。

夏侯惇は泣きじゃくった。殺すとはなんだ。息を止める。首を斬る。生命を断つ。死にいたらしめる。思考を巡らせることもままならず、腐った本能と痩せた理性が隆々に乱舞する。

隻眼からも涙がとどまることなく落つる。理嬢への想い、憐れみ、慈しみ、怒り。殺せるわけなどない、おまえの血なんか見たくない。雀(シャン)の言ったとおりだ。私はあさましい人間だった。いやらしい、あさましい奴だったんだな。私は自分がかわいかったのだ。理を利用して勝手な恐怖の責任をなすりつけ、逃げたかっただけだ。理のためだと?

俺は理を消そうとした。

刃を通した理嬢の肉の感触がよみがえる。だが、もう二度と刃を突きつけ、振り下ろすことなどしない。

罪悪の意識が、理嬢の骨を折れそうになるまで痛く抱きしめさせた。

「どうして泣かれるのですか?わたしが悪いことしたからですか?だめです、夏侯惇さま。泣かないでください」

唇を閉めても漏れ出る止まらない嗚咽を聞きながら、何度も顎を左右に振った。

「泣かないで、笑ってください」

笑えない。

「お歌を歌ってください」

歌えない。

「おはなし、しましょう。泣いていては、できません」

話せない。

「泣かないで、夏侯惇さま」

「……………すまない、理。もっと自我を強く持ち、理解していれば……………向き合えていれば、辛い思いをさせずに済んだろうに……………」

「そんなことない、そんなことない。あなたから、辛さなんかもらったことないです」

「すまない、すまない。……………許してくれ」

「どうしてあやまるんですか」

「……………なんにも知らなんだ。おまえの好きなものも、なにも」

「お花がすきです。お屋敷のお花は、ぜんぶすきです。おかしは、あめがすきです」

「……………なにをしたら喜ぶのかも、私は知らない」

「そばにいてくれたこと、おでかけにつれていってくれたこと、みみかざり、かってきてくれたこと、たくさん、たくさん、あります」

「おまえを知らない」

「あなたは、理じゃないからです。なにもいらない、いらない。わたし、なんにもいらないです」

ずっと、しあわせだったんですから。

「でも……………」

わたしを殺してください夏侯惇さま。あたたかな思い出が壊れないうちに。いま、わたしが喜ぶのは、それくらいです。

嫌だ。嫌だ。許さない。私は喜ぶわけない。おまえはこの私が生きさせる。どんなに死を望もうと、邪魔して止める。私がともに生きる。

「おまえを、なにも知らない。だけれど、これだけは胸を張って言える。死ぬな、死なないでくれ。理が生きていることは、私のなかで、当然のことなんだ」

素直に、正直な気持ちだった。預けられた娘、曹操の側室ということを無しに、夏侯元譲というただの人間の意志として。理嬢という存在への願い。この境地へたどり着くまで、どんなに愚かしいまわり道をして来たのだ。気づこうともせず無視していた。

「死にたいなんて言わないでほしい」

夏侯惇は、黒曜の瞳で改めて見つめなおした。

「生きよう。私も生きるから……………」

背を叩き殴っていた理嬢の手は、添えるかたちとなっていた。理嬢もまた、泣きじゃくって、大粒の涙をいくつもいくつも流した。胸にたまった石をひとつずつ丁寧に捨て去るように。

「生きてほしい」

「……………こんなわたしが、生きていていいのですか?」

「私の願いだ」

「……………ほんとうに、生きていていいのですか?夏侯惇さまと同じ空気を吸ってて良いのですか?それは、ゆるされるのですか?」

「おまえが贖いを求めるならば、生きてほしい。そのそばで、私は生きよう」

潤んだ黒曜の瞳からはいくつもの涙のすじが落ちているが、力が宿っていた。口もとには、泣くことを堪えきれない縋る微笑がある。

「望みたい」

理嬢は、喉を震わせながら贈られたその言葉を受けとり、夏侯惇のあたたかい肩口に濡れそぼった顔を埋めた。

「……………ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……………夏侯惇さま。泣かないで……………だから、もう泣かないでください」

たぶん、理嬢はもう殺してほしいなどと求めはしない。生きてくれる。死を受けようとなどと願わない。贖罪を願うのなら、生きて探ろう。

しかし、それは夏侯惇にとってのわがままであった。私は理に私の要求を飲み込ませているだけに過ぎないのだった。生きていて欲しい。私から喪わせないでほしい。すまない。すまない。おまえには、生きていてほしい。

一緒に生きて行きたい。

「生きよう……………」

それ以上に、感謝と懺悔を籠めていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……………。夏侯惇さま、わたし……………死にたくないです。生きたいです、生きたい……………」

「ああ」

「ごめんなさい、また嘘をついて、ごめんなさい……………」

「私のせいだ。すまない、すまない、許してくれ……………」

長いあいだ、ふたつの泣き声が木霊していた。そして、やがては泣き疲れ次第に小さくなってゆく。

過ごしたこの年月。

この年月は、きっと短いものだった。親しく成りうるには長い時間であっても、意思の疎通に到るまでは足りなかったのかもしれない。これらは、初めて純たる本音の言い合いであったろう。

仮面をすべて脱ぎ捨て、親子とも、情愛を交わした関係でもないけれど、ふたつとない、ひとつの生きた存在同士としての気持ち。鎖が外れて、安らかな心地を得た。

守られている。守っている。

護ってやる。

……………出立の日の明け方。丸くくり抜かれた天窓から、月が淡く滲んでいる。子守をするように、冷気に晒される布団の上から、とん、とん、と肩を叩いてやる。一晩中ずっとそうしていたのかもしれない。目は閉じていたが、寝たとしても寝たという気はなかった。ぐっすりと寝息をたてる理嬢を確認し、寝台を離れる。と、裾を引かれた。

深く寝入っているはずが、着物を握りしめていた。

昨夜、寝物語が終わったあと交わした話を思い出した。

明日から、すこし出かけねばならんのだと夏侯惇は言うた。

「遠いところにですか?それとも近いところですか」

「荊州だ。きっと揚子江付近まで行くかな」

「長江のことですね。そんなに遠いのですか」

理嬢は荊州の地を知らない。でも黄河は知っていて、長江はそれくらい広くて大きいのだろうと想像してみた。

「南は暑いのでしょうね。ここは北だから寒いでしょう。きっと身体に合いませんよ。なんで、わざわざ行かなくちゃならないの」

戦だと推測できないのは、流血を伴う行為を無意識に回避している所為だ。さらに、話し方も正常のときとは打って変わり、昔のように幼さと無邪気さが現れている。いまだ完全に回復していない証拠だった。すこし背伸びをする幼子に、夏侯惇は答えた。

「従兄上が南に珍しい動物がいると耳にしたらしくて、是非とも欲しいと言い出したのだ」

「だから、捕まえにいかれるのですか?」

「まあ、そんなところだ」

「どんな生きものなのですか」

「そうさなあ」

どんな。夏侯惇ら自分で用いた方便の説明ができず、しばし悩んだ。龍では神話や昔話に登場するありきたりで、しかも現実味がない。象は一度、見ている。そもそも珍しい動物がどのようなものであればよいか。空想上に近い話ではならないのである。

「猫みたいだとうれしいです。白くて、ちっちゃいの」

猫。

「よくわかったな。虎のように堂々とした猫らしいぞ」

いいきっかけをくれたと言わんばかりに、猫の上に空想を被せることにした。

「でっかいのですか」

肩を落として、小さくため息をついた。猫は小さいほうが好きだった。それも、手のひらに載るくらいのが。けれど、夏侯惇が、尾は雲のように柔らかくもあるようだと付け足すと、たちまち笑顔になる。

「わたしも見たい」

そして、あわよくば頬ずりをしてみたい。

「百合も、そのときまで帰ってきたらいいけれど」

「運良く捕まえられたらな。珍しいと言われるくらいだ、数も少なかろう」

子猫の百合は、理嬢の記憶では死んでいないことになっていた。夏侯惇は百合を知らない。

「どのくらい、南にいらっしゃる予定なのですか?」

「長くて春の終わりだろう」

「夏になっちゃいますね。どうぞ、ご体調にはお気をつけて」

「戻るまで、箏曲の練習でもしていなさい。おまえはいくらやっても上達しないのだから、気合いをとくに入れてな」

「わたしがだめなのではなくて、箏がだめなんです。だって真面目にしてるのに、少しも巧くならないなんて変じゃないですか」

とんだ屁理屈を聞いたものだ。明雪に見張らせておくぞと脅しをかけながら、ころころ笑う娘へ、白玉の耳飾りを手渡した。理嬢はきょとんと大きな目を瞬かせ、夏侯惇と耳飾りを交互に見つめた。

「これ、なくしてしまったのに?」

「ひとつだけならあった。残念だが、片方はなかった。また、新しいのを買ってくるか?」

「いいえ」

理嬢は頭を振って、にっこりほほえんだ。

「でも、お気持ちはうれしい。ありがとうございます、夏侯惇さま。でも、わたしはこれがいいのです。今度はちゃんと、なくさないように、いつも身につけます」

肯き、髪を梳いた。さらりと指と指の間をつっかえなく毛先まで抜ける。

鏡も使わずに、耳朶に空いた針ほどの小さな穴に入れようとする。手こずっているのを見かねて、夏侯惇がつけてやった。手が離れると理嬢は頭を振って、ちゃんとついてあることを確認し、さらに指で握って確かめる。

身が詰まった果実を噛みしめるようにほほえみを含み、枕を抱いて横になった。夏侯惇は傍らに近づき布団の上からある一定の拍で、とん、とんと肩をあやす。あかちゃんみたいです。うとうと、なにも知らない娘は、安らかなるぬくもりを感じながら、まどろみを楽しむ。

幼いころのように裾を強く引かれ、そのまま横になった。

はやく眠れ。

夏侯惇さまこそ。

とくとく、音がしますよ、ここから。

心の臓が動いているからだ。

生きているんですね。

夏侯惇さまが生きているんです。とてもうれしいです。

ほんとうの吾子のように、理嬢は夏侯惇の胸に頬をすりよせて眠るまいと話しかけるが、紡ぎだす言葉の間には長い休みのあいだが空き、すうすう、寝息になった。

私も、とてもうれしく感じる。

砕けた話題で、あのように罪のない会話をしたのは初めてと思うほど、久しかった。きっと、このさきに有りはしない。言葉を交わし、容易に触れるのは。

それは、生死の問題ではない。以前から定められている立場にそろそろ帰らねばならないと現実を見たからだ。理嬢は側室へ曹操の奥殿へ戻り、夏侯惇は妻を娶る。本来ならば、近づくことさえ許されない。

だが、誓いを破ることにはならない。ともに生き、守るなら離れていてもできる。

だいじょうぶだ。

……………夏侯惇は理嬢の固い手をほぐして離させる。肘から手首にかけての白い肌にある赤い線は薄く、傷は治りかかっていた。爪も新しく生え変わり、元に戻りつつある。まるで、すべてが終息を暗示しているがごとく。

さいごに、白い額に触れ、頬に触れ、その寝顔を見つめた。

どうか、息災であってくれ。

外は霧が周囲を濁していた。衣服を湿らせて雀(シャン)は屋敷の主を部屋の前の庭先で待っていた。腰に刀を差している。目当ての人間が足音低く静かに現れ、雀は表情なく近づいた。

「それ以上寄るな」

片腕を突き出して止めさせる。雀は素直に従った。

「部屋に入る気はないよ。理が寝てる、起こしたらかわいそうでしょう」

「貴様は存在自体やかましい。こうしているうちに目が覚める」

「蚊じゃないのに、ひどい言われようだよ、俺」

けらけらと笑っていたが、瞳は笑っていなかった。

「おまえ、俺が嫌いだろ」

「自覚はあるようだな。えらいな」

「ほめられても嬉しくないがね。そりゃあ、他人のものを壊し、さらに二度、壊そうとしたんだ。俺だってこんなやつは嫌になる」

雀は夏侯惇から従者を奪い、曹操と理嬢を奪おうとした。

「理を消そうとしたときの夏侯惇は大嫌いだ」

耳に痛みを感じたが、自信を持って言葉を贈る。

「今は、ちがう」

「うん。喜ばしいわ。理を生かすおまえが大好きだ。夏侯惇がいるから、目的を果たすのはあきらめることにする」

「貴様を信じられるのか」

男に対する不信は、募っていた。なぜ、雀は理嬢とまったく同じ顔をしている。理嬢よりもあきらかに年長なのに、なぜ弟と称する。常人離れした能力。謎のままの目的の理由。

「いいさ、人望ないから。だけど聞いておいたほうがいいんじゃないかな」

「なにをだ」

「夏侯惇、理はひところしだよ。いくら認めたくなくても、すでに成された事実は覆せない。けど、俺も理を大切に想ってるから慈愛のために見逃したいの。これだけは、なにがあっても本物だよ」

「……………私は、理嬢がどのような罪を被ろうと、ともに生きると決めた。もう、消すようなまねはせん」

拳を作り、俯いて言った。雀のみに、理嬢の犯した罪を吐露した。雀は肯定したと満足し、口すみを引き上げ夏侯惇の黒い瞳を、覗いた。

「俺ね、決めたんだ。夏侯惇にだけ、教えてあげる」

秘密をもらさぬよう、耳元に唇を寄せてそっとささやいた。桃の香りがくすぐり、吸う。

「一度だけ、あと一度。理が手を汚す、そのときは、俺は理の命を奪うぞ」

「あきらめてなどいないではないか」

「この前のは、あきらめた。つぎ、人間を八つ裂きにしたら、俺は理にとどめを刺してやるんだ」

させるものか。声にせず、夏侯惇は叫んだ。





床が高く鳴る音で、理嬢の眠りが遮られた。なんの音かと考える間もなく荒々しく帳が左右に開かれ光が寝台を照らす。いきなりのことに驚き、反射的に身を起こした。

寝台の小さい空間のなかで、隅に向かって身を寄せた。

耳飾りを握った。

「だ、れ?」

右へ左へ焦点が定まらない目をこすり、前にいる人物をとらえる。背に光を背負い黒衣に黒髪の男。顔は見えない。

しかし、理嬢は安心した。黒い髪に黒い着物を纏うのは、世界でひとりしか知らないのだ。もっとも安心ができるただひとり。

夏侯惇さま、ですか。

「おはよう」

男は言った。声音に違和感を感じたのだが、喉の風邪でも引いたのですかと思い、疑うことなく、おはようございますと返事をする。

伸ばした手を、やわらかに取られる。手から腕、肩から首へ、顎に男は指を滑らした。

光りが男の目元に射す。

微笑みかけた黒づくめの男の瞳は、黒曜ではない。





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